もし織田信長に『本能寺の変』がなかったら、その後はどうなった?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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もし『本能寺の変』がなかったら、織田信長は天下統一出来たのかを考察します。

『本能寺の変』を奇禍として、天下を掌握した豊臣秀吉はどうなるのか?その後豊臣家から政権を奪取した徳川家康はどうなのか?を推測します。

天下を取った織田信長は、『鎖国政策』を取ったかどうか考えてみます。

 

 

織田信長は天下を取れていたの?

天正8年(1580年)3月5日に『本願寺』との”勅命講和が”成立し、11月には『加賀一向一揆』が消滅。天正10年(1582年)3月に『宿敵の甲斐武田氏』を滅亡させました。

 

信長にとって、残るは四国の長曾我部元親(ちょうそかべ もとちか)と中国の毛利輝元(もうり てるもと)、九州の島津義久(しまず よしひさ)だけとなりました。

 

そして、平成14年に岡山県の林原美術館所蔵の所謂『石谷(いしがい)文書』の中から、長曾我部元親から交渉に当っていた斉藤利三(さいとう としみつ)宛てに”信長の降伏勧告に応ずる”旨の天正10年5月21日付けの書簡が発見されました。

 

これで、長曾我部氏は恭順する意向であったことがわかりましたので、実際はこの時点で残る大物は毛利だけの状況でした。

 

毛利方も大物外交僧安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)が動き出しており、信長はもう毛利へ力攻めを仕掛けなくとも、双方妥協点を探りながら動いている状態でしょうから、少なくともあと2年以内くらいで毛利も恭順のところまで来ていたと思われます。

 

つまり、『本能寺の変』直前の時点で、もうすでに織田信長は天下統一寸前まで来ていたと考えられます。

 

 

そして、、、

 

当時日本に布教に入っていた宣教師たちの話にも、信長が息子たちへ領地を与えていく様を伝えていますので、外人の目からみても権力者信長が、大名の領地を取り上げて自分の身内へ渡して行くと映ったようです。

 

こうした信長の変化に敏感に自分の将来に危機感を募られせていたのは、当時”軍団ー方面軍”を任されていた諸将たち全員ではなかったでしょうか?

 

家来が戦って勝ち取った領地は、信長が召しあげて行き、”家来は使い捨て”と言う考えが次第に姿を現していたと感じられます。

 

通説どおりだとすると、一番信長に忠実な家臣の明智光秀が決起した形になりましたが、遠からず信長の重臣であったどの諸将もクーデターを起こす可能性はあったのではないでしょうか?

 

つまり、『本能寺の変』なかりせば、信長の天下統一は達成された可能性は極めて高いのですが、信長軍団の諸将の追い詰められた精神状態からすると、以前”安国寺恵瓊”が予言したように、遠からず信長には”高ころび”する運命が待っていたと言えそうです。


(画像引用:Yahoo画像本能寺

 

 

もし『本能寺の変』がなかったら、天下人太閤秀吉は出現したの?

 

信長の政権運営の特徴は、『信長自身の天賦の才能』ですべてを決めていて、身近に助言者を持たなかったことです。

 

言い換えれば、『独裁者・織田信長』が織田軍団の全権を掌握してすべてを差配していたと言う事になります。

 

信長は中国の古典『三国志』に精通しており、信長の戦略・戦術はそこからヒントを得ていたと言われています。

 

余談ですが、20世紀の初めに旧ソ連のコミンテルンが中国に作った『中国共産党』に若くして参加し、現在の中華人民共和国を同志と共に建国し、その後党内の政敵を抹殺して”独裁者”になった『毛沢東(マオ・ツェ・トン)』も、三国志を愛読していたと言います。

 

信長の政治的剛腕と馬鹿嫌いな性格は、他の戦国大名に比べて政治的にハイポテンシャルな人材を惹きつけ、周囲に集めていました。

 

旧弊・情実を排除した実力主義のギリギリ胃の痛む現場で、家臣たちは皆日々競争し、そして淘汰されて行きました。

 

この競争を生き残った人材は目もくらむような出世をして行きます。

 

実力のある者はよそ者でも、信長の身内よりもドンドン取り立てて行ったので、それが皆励みとなり信長軍団の大きな”強み”となっていました。

 

しかし、政治的・軍事的に他国の諸大名たちを制圧しながら、どんどん膨張していった織田軍の組織も天正8年(1580年)頃になると、信長の天下統一も視野に入って来て、すでに有能な人材たちには信長軍での先が見え始めます。

 

そうした中、信長をも凌駕しそうなくらい実力者となっている家来たちは、ある意味信長にとって危険な存在であり、当の信長は少しづつその家来に言いがかりをつけて追放し始めます。

 

目立ったのは、先代の信秀当時から尾張時代の織田家最大の一族であった、佐久間信盛親子の追放劇でした。

 

この理由は、実力のある家来を排除して下剋上を防ぐためと、自らの息子たちに領地を分け、織田宗家の安泰を図るためです。

 

前章でも記述した、信長の『家来は使い捨て』方針が明らかになり始めるわけです。

 

信長のこの猜疑心の高まりとともに、織田家において実力主義が影をひそめて行きます。

 

 

豊臣秀吉は、卑賎の出ながら軍功を挙げ、もはや実力で筆頭家老になっていましたが、以前のように信長と接することに違和感を持ち始めていました。

 

もし、明智光秀が『本能寺の変』を起こさなかった場合には、果たしてその後の豊臣秀吉にはどんな選択肢があったでしょうか?

 

 

  1. 天正3年(1575年)『長篠の戦』勝利後に任官した『筑前守』そのままに九州の地方大名になる。
  2. この天正10年(1580年)に信長に助っ人要請した毛利への出陣で、備中高松(岡山)の毛利との攻防戦のどさくさに信長の暗殺を謀り、毛利の協力とともに天下人となる。
  3. 第二の『本能寺の変』が起こる(あるとすれば、徳川家康)のを待って、織田家中の権力闘争を戦う。
  4. 織田信長の自然死を待って、織田家中の権力闘争を戦う。

 

くらいでしょうか。

 

 

この中で、秀吉自身が仕掛けられるのは、2の『信長暗殺』ではないかと思います。

 

明智光秀と同じような気持ちで”信長に滅亡させられる危機感”を共有していたに違いない”秀吉の天下取り”は、やはり偶然の『タナボタ』ではなかった可能性が高いのではないでしょうか?

 

信長家は急速に成り上がって来たこともあり、譜代の頼りになる家臣がいそうでいない人材不足の状態なのです。

 

カリスマ信長の死とともに、織田家を”相続”によって盛り立てようとする気持ちを持つ家臣に乏しい事と、そもそも後継者は信長に負けないほど強烈な個性を発揮せねば、この膨張した織田軍団全軍を率いることは難しく、抜きん出た実力のない息子ばかりの織田家は分裂の可能性が大きかったのではないでしょうか。

 

つまり織田家は、信長が強烈な個性だけで引っ張って来ていたと言う事ですね。

 

実力主義で取り立てられた重臣たちは、所謂”血統”だけの後継ジュニアたちに本気で付き従うことは考えられなかったのです。なんせ能力的には自信家揃いですから。。。

 

生き残った信長の息子たちは、その辺りが理解出来ていなくて、父の死によって血統故に相続できるものと思い込んでいたようですが、重臣たちで本気で息子たちに忠誠を尽くす人物はいなかったようです。

 

 

さすがに、秀吉の場合は明智光秀のように正面から信長暗殺に向かうとは思えませんが、秀吉とクセ者の毛利外交僧安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)が組んでいた可能性が高いので、光秀がやらなければ豊臣秀吉がやったかもしれません。

 

安国寺恵瓊は怪しいのです。後の秀吉政権では、なんと大名に取り立てられています。秀吉の『中国大返し』を助けた時の功績だけとは思えませんね。

 

加えて、『関ヶ原の戦い』の後、戦いで大した活躍をした訳でもないのに、家康は恵瓊を無理やり探し出して石田三成とともに処刑しているのです。

 

私見ですが、いくら豊臣政権下で出世したとは言え、安国寺恵瓊をしゃにむに家康が殺してしまったのは、どうもなにかの口封じだった可能性が高いと思われて仕方がないのです。彼は何かを知っていたのではないでしょうか?

 

 

豊臣秀吉は織田信長の持っていないものを持っていました。

 

軍師竹中半兵衛と黒田官兵衛の”知恵”です。

 

もし、『本能寺の変』がなかった場合でも、日常的にこの二人の軍師に使嗾(しそう)されていた豊臣秀吉は、天下を取った可能性は高いのではないかと思います。

 

 

もし、『本能寺の変』がなかったら、東照大権現家康公は江戸時代を作れたの?

 

徳川家康の政権奪取は、慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死に始まり、慶長5年(1600年)の『関ヶ原の戦い』で豊臣系大名の反徳川派勢力を一掃し、慶長8年(1603年)に幕府を開き、慶長19年(1614年)~20年(1615年)『大坂の陣』での豊臣宗家滅亡により完全に政権掌握を完了しました。

 

家康は、永禄3年(1560年)信長が今川義元に仕掛けた『桶狭間の戦い』の結果、今川家よりの独立を果たし、翌永禄4年(1561年)春に締結した織田信長との『清州同盟』により織田家に攻められるリスクを回避して、三河国内の松平家の領地奪還を進めて行きました。

 

尾張織田家とのこの攻守同盟のおかげで、尾張からの侵略の心配することなく三河国内の今川勢力の一掃に全力を挙げる事が出来た訳です。

 

この信長と家康の同盟関係は、織田家の巨大化とともにいつしか主従関係に変化して行き、織田家の最初の与力大名として同盟締結後20年にも亘って信長に仕えて行く事になります。

 

天正10年(1582年)の2月に信長が宿敵武田家の討伐に踏み切り、3月に信長の到着を待たずに信長の嫡男信忠の指揮の下、攻めよせた織田軍に武田家は武田勝頼の自刃とともに滅亡する事となりました。

 

その後信長は戦後の論功行賞を終えてから、家康を伴って4月2日に諏訪を発ち、甲府を経由し富士山見物と称してゆっくり新しく家康の領地となった駿河国を始め、徳川領内を見て回るように西へ進み、安土に帰還したのは4月21日でした。

 

この時、家康は徳川領をつぶさに見て回る信長の様子からその後の自身の運命を悟ったのではないかと考えられます。

 

本願寺勢力の制圧に成功し、加えて懸案だった武田の滅亡により、長らく続いた『家康の役割(東への抑え)』が終わったのです。

 

もうすでに相模の北条家と結び始め東日本への進出を考えていた信長にとって、安土から関東への行く手に立ちふさがる家康は”役割を終えた邪魔者”に過ぎないのです。

 

後年結局、関白秀吉により命令されることとなりますが、先祖より所領としていた”駿遠三の地”から『関東への移封』が目前に迫っていました。

 

家康は5月に入って、わずかな供回りだけを連れて安土に、信長への”駿河国拝領”のお礼に出掛けますが、信長に殺されることを心配する家臣たちからは危惧する声が多数上がります。

 

当時すでに世間では、信長が家康(三河殿)を暗殺する可能性は普通に噂されていたようです。

 

例えば、、、

 

『本能寺の変』が起こった時の、丹波から出陣した明智軍の兵士”本城惣右衛門(ほんじょう そうえもん)”が、京都進軍の命令を受けた時に『ああ、信長さまの命令で家康さまを討ちに行くんだなぁ。』と考えたと言う記録が残っています。

 

 

・・・・山さきのかたへとこゝろざし候へバ、おもいのほか、京へと申し候、我等ハ其折ふし、いへやすさま御じゃうらくにて候まゝ、いゑやすさまとばかり存候、ほんのふ寺といふところもしり不申候、・・・
(原本『本城惣右衛門覚書』天理大学図書館所蔵 を掲載した 藤田達生『証言本能寺の変』八木書店 より一部引用)

 

 

さらに、当時のポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの有名な著書『日本史』にある”本能寺の変”に従軍した兵士の襲撃前の状況記述では、、、

 

 

・・・兵士たちはかような動きがいったい何のためであるか訝かり始め、おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国王(家康)を殺すつもりであろうと考えた。・・・
(『完訳フロイス日本史3織田信長編Ⅲ』中公文庫 より一部引用)

 

 

本当のところは、どうなったのか分からないところですが、信長はこれを実行する寸前に逆に伏兵明智光秀に暗殺されて、家康は”九死に一生を得る”事となった訳です。

 

という訳で、もし『本能寺の変』が無かった場合、家康は信長に暗殺されていた可能性があり、”天下取り”など夢のまた夢となっていたのではないでしょうか。

 

もし、何事もなく三河に生還した場合も、信長の関東征伐の最前線を任された可能性が高く、織田政権が続く中、存続しても遠隔地の外様大名に終わったことでしょう。

 

やはり、”天下取り”は出来そうもなく、従って『徳川幕府の江戸時代』は来なかったことになります。

 

 

ずい分『日本史』が変わっていたことでしょうね。

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天下取りをした場合の信長は、その後『鎖国』をしたの?

 
明治の大ジャーナリストである徳富蘇峰(とくとみ そほう)によると、信長は”開国主義者”であると言います。

 

但し、ここで言う”開国”は、直接的には”群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)”している国内の関所を廃止することを意味します

 

しかし、関所廃止による物流改革は、商業のスピード化・活発化につながり、諸国を富ませる元となって行き、まるで山賊のような通行税を年貢以外の収入源としている地方の戦国大名たちに新しい収入の道を与えて行きます。

 

一方、信長政権の頃のいわゆる”貿易”は、”南蛮貿易(なんばんぼうえき)”と言われて、ポルトガル・スペインなどの外国船の日本への来航を受け入れることによる商売でした。

 

その後、豊臣政権の後期・徳川政権初期になりますと、こちらから出かけて行く時に”朱印状”を政府に発行してもらって行う”朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)”へと変化して行きます。

 

目的が『貿易』となりますので、港が開かれていない事には話になりませんから、”開国政策”が採られていました。

 

まぁ、信長は国内での関所撤廃にまで踏み込んで物流の合理化を行っているくらいですから、商業の活性化によって収入を大きく増大させることが出来る事を理解していたものと思われます。

 

信長は、海外のヨーロッパ列強の力の源泉が外国貿易であることに気が付き、外国とのやり取りを視野に”開国政策”を拡大させて行ったと考えられます。

 

幕府開設当時の徳川家康も別名”貿易将軍”と言われたくらいですから、京都・堺の商人に朱印状を発行し、盛んに”朱印船貿易”を進めていましたので、基本『開国政策』を採っていました。

 

関連記事

 

信長の場合も、当時在日していたポルトガル人宣教師ルイスフロイスの著書『日本史』に、信長の朝鮮・中国大陸への進出の考えが記載されている事などから、はっきりした『開国方針』を出していたようです。

 

 

その後、徳川幕府のように海外(特にスペイン・ポルトガル)の侵略意図が顕著になった場合、またキリシタン信徒数の拡大によって国内の政情不安の危険性が増大した場合には、『鎖国政策』に変化して行く可能性は否定出来ないものの、初期の20年くらいは『開国政策』を取り続けたのではないかと推測されます。

 

 

キリスト教はどうなった?

 

初期のイエズス会の日本への布教は、戦国大名への手土産(武器・弾薬など)とパックにされていた様子ですので、少なくとも大名レベルでは武器欲しさに便宜上の”信者”になったり、布教の許可を与えたりしていたようです。

 

その後も同じような傾向は続きますが、徐々に信仰を本当に持つ者が増大を始めます。

 

これがなんと徳川時代初めの最盛期には本気の信徒が70万人にもなり、前述したような徳川幕府に『鎖国政策』へ踏み切らせる要因になって来るのですが、この時代の織田信長には、まだまだ”軍事力強化”のために”キリスト教は必要だった”ようです。

 

一般的には、上記のように考えられていると思われますが、ここに異説があります。

 

これは、戦国史の研究家としても知られる立花京子(たちばな きょうこ)氏の説で、信長の全国制覇の陰に”イエズス会あり”と云うものです。

 

イエズス会の援助と言えば、西国キリシタン大名の”大友宗麟(おおとも そうりん)”が有名ですが、信長もそうだと言う説です。

 

ポルトガルの宣教師ルイスフロイスの『日本史』によると、『本能寺の変』が近づく頃には、フロイスの文調は以前の庇護者としての信長への賛辞の記述から、残酷・傲慢などと言った言葉に変化しています。

 

信長が安土城に”総見寺(そうけんじ)”を建立した頃から、バテレンたちは信長の正体に気が付いたと言う事でしょうか。信長が神をも超える存在になりたいと考えていたことが彼らは許せなかったようです。

 

加えて、イエズス会が信長に対して莫大な軍事援助をして、そのお陰で天下統一の一歩手前まで行けたのに、恩知らずだという訳ですね。

 

信長にしてみれば、実際に軍事援助があったのかどうかは別としても、そもそも信長自身がキリスト教を信仰していたわけではなく実利で付き合っていたので、フロイスにそんなことを言われる筋合いはないはずですが、敢えてそこまでフロイスが思い込んで『日本史』に記述したのは、その裏付け(莫大な軍事援助)が実在したに違いないと言う話です。

 

その後の信長のキリスト教に対する政策ですが、結果的に後を継いだ豊臣秀吉は、信長の実行していた政策をそのまま踏襲したと考えられますので、『キリスト教の容認』の立場でした。

 

しかし秀吉は、天正15年(1587年)に九州の平定を終え、西国統一の目処をつけた時から”バテレン追放令(6月19日)”を出し、まだゆるゆるではありますが、キリスト教に対する政策転換を始めます

 

秀吉にすれば、国内統一戦での”バテレン”の援助はもう必要としなくなったと言う事でしょうか。

 

そして、『サン・フェリペ号事件』を機に、慶長元年(1596年)に禁教令が出され、有名な『二十六聖人殉教事件』が起きます。もう弾圧ですね

 

 

おそらく、信長も生存していれば、秀吉よりもっと早い段階で、軍事費・武器援助をエサに侵略的布教をすることを布教方針としているポルトガル・スペインの宣教師たちとの衝突は避けられなかったのではないかと思われます。

 

 

私個人的には、織田信長とスペイン国王フェリペⅡの同盟などと言うのは非常に興味がありますが、恐らく当時のヨーロッパ貴族の常識にはそんな考えはないでしょうね。

 

 

まとめ

 

通信も発達していない戦国天正10年(1582年)に、まるでGPSで追跡していたように信長の行動を捉え、その日本最大の権力者覇王信長の警備が最も手薄になる時を、ピンポイントで攻撃したこの『本能寺の変』は、歴史の大きな謎となっています。

 

この記事は、そんな危うい攻撃(謀反)なら失敗も有り得ると考え、賢い人である明智光秀が何もしなかったことを前提として検討してみた推測記事です

 

様々に説があり、皆結論から日付の意義づけをしていますが、普通に考えて、あの時点で少人数による襲撃は出来たかもしれませんが、あの1万3千人と言う軍団を動かせたのは奇跡としか言いようがないのです。

 

しかも、丹波亀山から1万3千人の大軍団が京都本能寺を囲むまでに誰にも咎められず、そしてあの用心深い信長の警戒網が機能しなかったことは、誰も説明が出来ないところです。

 

ひとつ考えられるのは、意外に信長は人を信用していると言う事ですね。

 

以前越前の木の芽峠で義弟の浅井長政に後ろから奇襲を掛けられた事件がありましたが、あのケースとよく似ているのです。

 

信長がこの時そんな手落ちをしていたことをなぜ明智光秀は知っていたのかと言う事ですね。

 

 

まぁ、本記事は織田信長に何も起こらず、何事もなく普通に天正年間を過ごしていたら、と言う過程で考えてみました。

 

当たり前に『天下統一』を成し遂げていたと考えるのが普通ですが、時系列的に云えば、あの『本能寺』では、家康が信長に暗殺されていた公算は非常に高い気がします。

 

秀吉よりも家康の危機感が強かったのではないかと思います。

 

そんな事は百も承知の家康が家臣が反対する中なぜ、丸腰に近い形で覇王信長のところへのこのこ出向いて行ったのかと言うところに案外、謎を解くキーがありそうです。

 

考えられることは、引っかかった振りをして信長を油断させるのが目的だったのでしょう。

 

もし、あの安土礼拝に家康が家臣の進言を入れて3000人くらいの兵を連れて出かけたとしたら、信長は油断せずに大坂で待機している信孝の軍を京都周辺の警備に当たらせていたはずです。

つまり、光秀の本能寺襲撃は見送られる可能性が高くなる訳です。

 

家康は自分が丸腰になる事によって、信長の油断を誘発したと考えられます。

 

囲碁が趣味だった家康は襲撃の作戦をきっちり立てて行った事でしょう。

 

ひとつ不思議なことがあります。

 

それは、江戸初期の江戸城大奥差配の『春日の局』の存在です。

 

彼女は、『本能寺の変』で実際に信長襲撃を指揮した明智家の織田家付家老斉藤利三(さいとう としみつ)の娘です。

 

秀吉軍の落ち武者狩りで大津堅田で捉えられた斉藤利三は、ひと言も真相を語らずに京都六条河原で処刑されています。

 

徳川家康は、孫の徳川家光の乳母役に、変事の後京都の某公家宅に潜伏しその後他家に嫁いでいた彼女を探し出して抜擢しています。

 

如何に美濃の名流土岐一族の傍流とは言え、このような”訳アリ”の人物を大事な徳川家の後継者の乳母(教育係)につけるでしょうか?

 

結果的には、”斉藤利三の信長謀殺に関するなんらかの功績?”に、律儀にも家康が報いたように見えます。

 

なんせ、彼女は、『春日通』と言う東京の通りの名前にすらなって残っています。よほどの功績があったものと考えられます。

 

勝手に家康が恩に着ているだけではなくて、多分斉藤利三は家康の”命の恩人”なのではないでしょうか?

 

 

脇道に逸れましたが、あのタイミングで家康がなにかを仕掛けていた可能性はあると思います。

 

秀吉の方は、本人よりもおそらく秀吉の軍師『黒田官兵衛』の仕掛けでしょうね。

 

皆、何かがあって、あの日天正10年(1582年)6月2日に様々な思惑が幾重にも交叉したようです。

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参考文献

〇洋泉社編集部編 『本能寺の変と明智光秀』(2016年 洋泉社)

〇渡邊大門編 『信長研究の最前線②』(2017年 洋泉社)

〇加藤廣 『秀吉の枷』(2006年 日本経済新聞社)

〇加藤廣 『信長の棺』(2005年 日本経済新聞社)

〇加藤廣 『神君家康の密書』(2011年 新潮社)

〇八切止夫 『信長殺しは秀吉か』(2003年 作品社)

〇八切止夫 『戦国鉄仮面』(2003年作品社)

〇八切止夫 『真説・信長十二人衆』(2002年 作品社)

〇谷口克広 『信長と家康』(2012年 学研新書)

〇藤田達生 『証言本能寺の変ー資料で読む戦国史』(2010年 八木書店)

〇松田毅一・川崎桃太訳 『完訳フロイス日本史3-織田信長編Ⅲ』(2014年 中公文庫)

〇徳富蘇峰 『近世日本国民史ー織田信長(三)』(1981年 講談社学術文庫)

〇立花京子 『信長と十字架』(2004年 集英社新書)

 

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