源頼朝と義経の仲違いは、最初から必然だった!ホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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『頼朝と義経の仲違い』の仕掛人は後白河法皇です。

・どうして義経頼朝の命令を聞かなかったのか分かります。

梶原景時『密告』は本当なの?

義経と奥州藤原氏の関係はどうなの?

 

頼朝と義経の仲違いの仕掛人は、後白河法皇なの?

通説では、『頼朝と義経の仲違い』のきっかけとして、『義経が頼朝からの内挙も得ずに後白河法皇から検非違使(けびいし)を拝任したことから、朝廷と御家人が直接結びつくことを禁止した頼朝の政治構想を台無しにする行為として頼朝は問題視し、義経と頼朝の間には軋みが生じて行った。義経は頼朝の弟であることから、御内なのだから他の関東の御家人とは身分が違うと言う認識で、配下はすべて御家人・家臣であると言う頼朝の考え方が全く理解出来ていなかったところを、後白河法皇につけ込まれた。』と言うのが有ります。

 

そもそもの事の始まりは、義経の京都派遣でしたが、そこに至るまでの事態・政局の流れを簡単に見て行きますと。。。

 

治承4年(1180年)11月に『富士川合戦』で、平家軍が武田信義と源頼朝の源氏軍に大敗した後、対抗して平清盛は畿内・東国の反乱軍(源氏)討伐へ本格的に乗り出す体制を整え、討伐軍を畿内・美濃制圧まで進めていましたが、治承5年(1181年)2月突然病に倒れ、閏2月4日に死去してしまいます

 

後継の平宗盛(たいら むねもり)は、突然政権を朝廷に返上して叛乱軍(源氏)挙兵の大義名分を失わせ、引き続き尾張へ軍を進めて行きます。3月10日に尾張美濃国境の現在の長良川河畔で、頼朝と全く無関係に挙兵していた源行家(みなもと ゆきいえ)・義円(ぎえん)の源氏軍5000と遭遇し、これを撃破したものの、糧秣が尽きてこの後ここより軍は帰京します。

 

挙兵していた甲斐源氏の武田信義(たけだ のぶよし)・源頼朝、秋になって挙兵した頼朝従兄弟の木曽義仲(きそ よしなか)も、互いに決め手を欠いてそのまま睨み合う形となって、京の平家と東国の源氏は膠着状態となりました。

 

その中で、先に動き出したのが、寿永元年(1182年)7月に故以仁王の遺児北陸宮(ほくりくのみや)を擁した木曽義仲でした。頼朝とぶつからぬ様に北陸道で勢力を強め始めました。

 

これに対して平家は寿永2年(1183年)4月、北陸道平定の為、討伐軍を出発させます。

 

十六日、己卯去十一日官軍前鋒乗入越中國、木曽冠者義仲、十郎蔵人行家、及他源氏等迎戰、官軍敗績、過半死了云々、今夜月蝕、皆既、於内裏被行御讀経、上卿實家卿云々、

 

(引用:國書刊行會『玉葉 第二 寿永二年五月の条 603~604頁』1971年 名著刊行会)

大意は、”

寿永2年(1183年)5月16日、去る5月11日に官軍(平家軍)が越中国(富山県)に攻め込んだが、木曽義仲・源行家及びその他源氏の軍が迎え撃ち、官軍(平家軍)は大敗したとか。今夜は皆既月食で、内裏では読経が執り行わると大納言藤原實家(ふじわら さねいえ)卿が言われた。

”位の意味です。

 

とあり、この越中・加賀国境の俱利伽羅峠(くりからとうげ)にて行われた戦いで、木曽義仲は平家軍を蹴散らして大勝したようです。

 

この勢いを以て、木曽義仲は平家を都落ちに追い込み、寿永2年の7月に北陸宮を擁して上洛を果しました。しかし、京都を軍事制圧したものの、後白河法皇の政治力の前に政権を握るまでには至らず、北陸宮を即位させることにも失敗し、西国の平家追討の命令を出されて、京都から出て行くこととなりました。後白河法皇は京都の公家との付き合い方に馴れた源頼朝を復権させて、京都への上洛を求めます

 

後白河法皇の求めに応じて頼朝は、代理として弟の九郎義経(くろうよしつね)に上洛を命じます。

 

11月に近江まで到着していた義経軍に、10月15日に帰京していた木曽義仲は過剰反応して、後白河法皇の平家追討命令を無視して、11月19日にクーデターを敢行して後白河法皇を襲撃監禁し国政を掌握し、『征夷大将軍』に就任して12月10日には頼朝追討命令を出させます。

 

これに対して頼朝は、範頼を義経の援軍に派遣し、義経も伊賀国へ下向して募兵を始め、寿永3年(1184年)正月20日に、範頼軍は近江瀬田を攻撃し、義経は宇治川を渡河して義仲軍を破り、敗走する義仲は近江(大津)で討取られました。

 

廿日庚戌天晴、物忌也、卯刻、人告云、東軍已付勢多、未渡西地云々、相次人云、田原手已着宇治云々、詞未訖、六條川原武士等馳走云々、仍遣人令見之處、事已實、義仲方軍兵、自昨日在宇治、大將軍美乃守義廣云々、而件手爲敵軍被打敗了、東西南北散了、卽東軍等追來、自大和路入京、於九條川原邊者、一切無狼藉、最冥加也、不廻踵到六條末了、義仲勢元不幾、而勢多田原分二手、其上爲討行家、又分勢、獨身在京之間遭此殃、先參院中可有御幸之由、已欲寄御輿之間、敵軍已襲來、仍義仲奉弃院、周章對戰之間、所相從之軍僅丗四十騎、依不及、敵對、不射一矢落了、欲懸長坂方、更歸爲加勢多手、赴東之間、於阿波津野邊被伐取了云々、

東軍一番手、九郎軍兵加千波羅平三 云々、其後手以群參院御所邊云々、法皇及祗候之輩、免虎口、實三寶之冥助也、凡日來、義仲支度燒拂京中、可落北陸道、而又不燒一家、不損一人、獨身被梟首了、天之罰逆賊、宜哉々々、・・・、

 

(引用:國書刊行會『玉葉 第三 寿永三年正月の条 4頁』1971年 名著刊行会)

 

大意は、”

寿永3年(1184年)正月20日、晴、物忌(ものいみ)の日である。明け方6時頃、人から聞いた話によると、鎌倉軍は既に近江瀬田に到着しているが、渡河はしていない。続いて人の言うには、田原へ廻った鎌倉軍も既に宇治に到着していると聞く。

六条河原では武士たちが忙しく立ち働いていると言うので、人をやって見に行かせたところ、事態は既に明らかで、木曽義仲(きそ よしなか)の兵は昨日から宇治に在陣しており、大将は源義広(みなもと よしひろ)だと言う。しかしこの軍は既に敵軍に打ち負かされ、四方に散りじりとなっている。既に鎌倉軍が大和路から入京したが、九条河原辺りでは一切乱暴狼藉もなく大変結構なことだ。そのまま六条まで進軍して留まっていた。

鎌倉軍は田原口と瀬田口の二手に分かれ、その上、源行家(みなもと ゆきいえ)を討つために、更に軍を分けた。木曾義仲は、ひとり在京して災難に遭った。と言うのは、後白河院御所の中にいて、後白河院を連れ去ろうと輿を用意していたところ、鎌倉軍が襲来し、結局義仲は後白河院を放棄して、あわてて防戦に努めたが、気が付くと従うのは30~40騎ほどで敵対するも及ばず、一矢も打たずに脱出し、甲斐源氏の源清光(みなもと きよみつ)方へ合流しようとするも、更に瀬田口の鎌倉軍が押し寄せ、東に落ちようする間に、木曽義仲は阿波津野(大津市粟津ー瀬田川河口付近)辺りで討取られたと言う。

鎌倉軍の一番の功労者は、九郎義経軍に同行した梶原景時(かじわら かげとき)であると言う。入京後に手勢を率いて後白河院の御所へ駆けつけて木曽義仲を追い払った。それによって後白河院とその取巻き衆が虎口を脱し得たのは、まこと三宝仏のご加護である。そもそもその頃、木曽義仲は京の街を焼き払う準備をし、北陸道へ逃げ延びる手はずをしていたが、一軒も焼けず、一人も殺されることなく、木曽義仲ただひとりが首を晒されて終わった。この逆賊に天罰が下り、よきことかな、よきことかな、・・・、

 

”位の意味です。

 

 

と言う事で、源頼朝は木曽義仲を討ち取り、源氏の棟梁と天下に認められることとなりました。

 

しかし息つく暇もなく、寿永3年(1184年)正月29日には後白河法皇の強い要請で、西国から上って迫って来ている平家に対して範頼と義経が討伐軍として出発します。

 

京を出てから募兵に少し時間を要しますが、2月7日に平家と『一の谷合戦』が行われ、源氏の圧勝に終わります。

 

その後頼朝から、義経らには京都の守護を、土肥実平(どひ さねひら)・梶原景時(かじわら かげとき)には平家追討が命じられ、3月2日には西国へ出発します。この追討戦は平家の必死の抵抗で困難を極めます。

 

そこで、平家追討の援軍に京都から義経も出陣する事となりましたが、同族の平家討伐への源氏からの動員を拒否する伊勢平氏が突然挙兵し『伊賀・伊勢平氏の乱』が勃発、その鎮圧に急遽義経が向かい、平家追討の援軍には鎌倉より源範頼が東国武士団を率いて参戦します。

 

元歴元年(1184年)9月2日に範頼の鎌倉軍は京都を出発し、10月12日には安芸国を制圧し、翌元歴2年(1185年)正月26日には赤間関から九州へ渡海上陸し、2月1日には葦屋浦(福岡県遠賀郡芦屋町付近)で平家軍を破ります

 

これにて、頼朝の長期戦構想は実現可能となったのですが、一方都に居る義経は九州での範頼の敗退は避けられないと考え、このままでは平家の逆襲は必至の事態と見ていました。朝廷にもこの事態認識に同調する者が多く、京の公家と民衆の期待に応える形で、義経は頼朝の許可を得ず西国へ出陣してしまいます。(しかし、近年の研究では事前に頼朝の命令は出されていたとされています。)

 

義経は大坂(渡辺の津)に在陣して水軍の手立てを組み、2月17日に四国阿波国(徳島県)に上陸して、平家の想定外の陸路で背後から拠点屋島(香川県)の攻略に取り掛かります。

 

2月19日、安徳天皇の行宮のある屋島を背後から義経に攻撃されるとの情報に、大混乱する平家軍は電撃的に行動する少数の義経軍を大軍と見誤り、先ず安徳帝の身の安全を図って、義経と戦わずに拠点の屋島を放棄する行動に出ました。

 

『屋島合戦』の勝利により、熊野水軍・河野水軍を傘下に入れた義経軍は強大な海軍力を持つに至り、義経は連絡に一ヶ月以上もかかる鎌倉の頼朝の裁可を得ることなく独断で、そのまま長門国彦島の平家の拠点への攻撃に取り掛かります

 

そして世に言う『壇ノ浦合戦』は、元歴2年(1185年)3月24日。。。

 

十一日、甲子、未剋、南御堂柱立てなり。武衛監臨し給ふ、此間、西海の飛脚參じ、平氏討滅の由を申す、廷尉一巻の記、中原信泰之を書くと云々、を進ず、是去月廿四日、長門國赤間關海上に於て、八百四十餘艘の兵船を浮べ、平氏又五百餘艘を艚ぎ向けて合戦す、午剋、逆黨敗北す、

 

(引用:龍肅訳注『吾妻鏡(一)吾妻鏡巻四 180頁』2008年 岩波書店)

 

大意は、”

元歴2年(1185年)4月11日、午後2時頃、鎌倉勝長寿院新築の「柱立ての儀」が執り行われ、源頼朝が参加していた。その時、西国から飛脚が到着し、平氏滅亡を知らせて来た。源義経からの書状(中原信泰が書いたと言う。)が届いた。これによると、3月24日、長門国赤間関(現山口県下関市)沖合にて、源氏840隻、平家500隻にて海戦が行われ、平家が敗北した。と言う。

”位の意味です。

 

『屋島合戦』の勝利に、勢いに乗った義経は主力の熊野水軍に加え、瀬戸内西部の覇者河野水軍をも味方にして、圧倒的な戦力を以て長門国彦島から出撃した平家の水軍を壊滅させてしまいました。

 

しかしながらこの勝利は、「平家を討つ」と言う後白河法皇の意と、長期戦による生活の困窮を訴え早期決戦を望む公家衆の願いには叶ったものの、総帥の頼朝にはこの決戦実施に関し何の相談もなかった事と、時間を掛けて徐々に平家を降伏へ持ち込むと言う頼朝の戦略とは真っ向から対立するものでした。

 

この後の、頼朝と義経をめぐる展開は通説によれば、義経が『壇ノ浦の戦い』で生け捕りにした敵将平宗盛を鎌倉まで連行したところ、鎌倉の郊外の腰越(こしごえ)で義経一行は足止めをされ鎌倉へ入ることが出来ず、頼朝もついに義経には会おうとはしなかったと言われ、この時義経が出した『腰越状』と呼ばれる嘆願書が有名となっています。

 

しかしこの逸話も腰越状も、近年の研究で後世の創作とされ、当代史料によれば、、、

 

その後九郎は撿非違使五位尉伊豫守なとになされて 關東の鎌倉の舘へ下りて 又歸り上りなんとして 後あしき心出きにけり

 

(引用:近藤瓶城『改訂史籍集覧 第二冊 所収 天台宗僧侶 慈円「愚管抄 156頁」』 1967年 史籍集覧研究會)

 

大意は、”その後、源義経は検非違使と五位伊予守に任官し、源頼朝のいる関東の鎌倉館に下向して、又帰洛したが後に反逆心を抱いた。”位の意味です。

 

とあり、義経は無事鎌倉入りした事が記載されており、通説にあるような大事件(腰越状のような)が発生したと言う記述はありません。しかし、「その後逆心を抱いた」とありますので、鎌倉で何らかのトラブルが義経と頼朝との間にあった事は間違いないようです。

 

 

これまでで、「頼朝と義経の仲違い」の原因に後白河法皇の介入があったとすると、、、

 

  1. 後白河法皇は、義経に、頼朝に断りなく直接又は取り巻きの公家衆を使って、「平家滅亡の督促」をしていた
  2. 検非違使と伊予守の官職を異例の兼任をさせ、義経を京都に張り付けた

 

これで、頼朝の政権構想を熟知している後白河法皇は頼朝の神経を逆なでして、義経との仲に亀裂を入れて源氏の力を弱め、頼朝から朝廷に政治の実権を取り戻そうと目論んだと思われます。

 

そもそも後白河法皇が平家の排除を狙ったのも、武家である平清盛に朝廷の政権を乗っ取られたことから、それを取り戻す為に「平家滅亡」を唱えていた訳ですから、折角平氏を倒してもそのまま源氏になり変わられては元も子もなく、何のための「平家討伐」だったのか意味がなくなる訳です。

 

と言う訳で、後白河法皇が、平家に代って政権を獲ろうとする頼朝の政策を妨害するのは、当然と言えば当然の行動だったと考えられます。

 

つまりこの後白河法皇の発想と言うのは、その後の承久3年(1221年)に勃発した後鳥羽上皇の関係する『承久の乱』、元弘1年(1331年)の後醍醐天皇の『元弘の変』から元弘4年(1334年)の『建武の新政』が示しているように、この頃の天皇を中心とする朝廷の本音は、隙あらば武士に奪われた政権奪還すべしと意欲を燃やしていたのですから。

 

よって、『頼朝と義経の仲違い』は、頼朝に大だぬきと称された『後白河法皇の策略』にしてやられた可能性が高いと言えそうです。

 


(引用画像:源義経八艘飛びACphoto)

 

平家に対する対処の仕方で、なぜ義経は頼朝の方針に従わなかったの?

簡単に言ってしまえば、そもそも『義経が将たる器ではなかった!』ことに起因するのではないかと思いますが、、、

 

十四日、戊子、治承を改元して、養和元年と爲す、

廿日、甲午、鶴岳若宮の寶殿上棟、社頭の東方に假屋を構へ、武衛著御、々家人等其南北に候す、工匠に御馬を賜はる、而して大工の馬引く可きの旨、源九郎主に仰せらるるの處、折節下手を引く可き者無きの由之を申さる、重ねて仰せて云ふ、畠山次郎、次に佐貫四郎候するの上は、何ぞ其仁無きの由申さるるや、是併しながら所役卑下の由を存じ、事を左右に寄せて難渋せらるるか者、九郎主頗る恐怖し、則ち起座して兩疋を引く、

 

(引用:龍肅訳注『吾妻鏡(一)養和元年七月大の条 82頁』2008年 岩波書店)

 

大意は、”

治承4年(1180年)7月14日、治承を改元して、養和元年とする、

7月20日、鶴岡八幡宮の宝殿の上棟式に当り、神社入口の東側に仮屋を建設し、そこへ源頼朝が到着した。御家人たちはその南北に並んで詰めている。

その宮大工の棟梁に頼朝から駿馬が与えられることとなり、その馬を手綱を持って棟梁へ馬を渡す役目を義経に命じる時に、頼朝から「今丁度その役目をする者がいないので」と言われが、

家人の畠山次郎や、佐貫四郎が出仕しているのに、なぜその役目の家人がいないからと言うのかと不満に思い、こんな下賤の者の役目なんぞと、言を左右にしていたところ、頼朝から重ねて言われて、義経は驚きすぐに立ち上がって馬の手綱を取った。

”位の意味です。

 

 

とあり、義経は、自分が頼朝の舎弟で、東国の御家人たちとは身分が違うのだと言う意識を持っていたのですが、頼朝の方は「自身が棟梁であり、あとは皆御家人に過ぎない」のだと言う考え方を義経に教えようとしたエピソードでしたが、結果から見ると、それが義経には全く理解出来ていなかったようです。

 

義経には、頼朝にもある「公家意識のようなもの」があり、どうしても「源氏直系」だと言う貴種意識が、義経の中では年齢が違うだけで自分と頼朝は同等の身分であると考えていたようです。

 

「頼朝の作り上げた東国武士団の組織内における身分制度では、義経の考えているような例外的な存在としては認められないのだ」と言う理屈を義経は理解せず、組織運営者としての頼朝の立場も理解出来ないかったのでしょう。

 

 

もうこの時点で義経と言う人間は、頼朝のイメージする組織にはなじまない存在であったことが明白ですが、その後も義経からの歩み寄りもなく、そのまま最後まで突っ走って行くこととなります。

 

 

結果、冷徹な頼朝は義経を重臣として重用することもなく、「才能」の部分だけ利用して、後は使い捨てにしたのだろうと思われます。

 

そこで、ここのテーマである「なぜ義経は頼朝の政策方針に従わなかったか?」ですが、「屋島の合戦」から「壇ノ浦の戦」へ向かうプロセスを見てみると、初戦に於ける基本方針である「平家を倒す」が出されて以降、戦が進むに従って、問題が「どう終戦させるか」と言う、「戦争の終わり方」に焦点が移って行く段階で、頼朝からの義経に対する打合せ不足があるようです。

 

頼朝の戦いの進行状況に関する戦況の把握不足と判断ミスも重なり、加えて義経の作戦遂行能力を過小評価していたところから、大きな不信感が双方に発生していたようです。これは偏に頼朝の大将としての責任と考えられます。

 

この当時は連絡を取り合うのに時間がかかるので、本陣と前線の距離が離れている場合は、大将は前線の侍大将にその戦いの遂行は任せてしまうのが普通で、この時のように本陣と前線が500㎞~800㎞以上も離れてしまうと前線の作戦指導を本陣で行う事はほぼ不可能と言えます。

 

その点から言えば、軍を任されて勝機を逃さず迅速に攻撃を続けて、当初目標を達成した「義経の侍大将としての行動」に、攻められる点はなかったと言うべきでしょう。

 

より遠い九州で兄の範頼が作戦を遂行中であることを考えると、鎌倉本陣とその中間に位置した義経の行動は当然と言えば当然であり、平家滅亡までは頼朝の本意ではなかったなどと言っても、それは戦争目的を徹底していなかった、又義経の能力を軽んじていた頼朝の全責任となるのが普通でしょう。

 

ここでは、弟である義経はあくまでもその手柄を兄の範頼に譲り、兄の率いる東国武士団に平家を攻撃させるべきであったなどと言う『後知恵』は通用しないのではないでしょうか?

 

義経がひねくれて後白河法皇に『頼朝追討の綸旨』を出させる前の段階までは、『義経は頼朝の政策方針に従わなかった』のでなくて、『政策方針に忠実であった』と言えそうです。

 

むしろ若輩である「義経の合戦能力」を見くびっていた頼朝に大きな責任があり、上から目線で若輩軽視の態度であり続けたことがこの事態を招いたとも言えそうです。

 

これから考えられる事は、源頼朝と言う人物は、このくそ生意気な若造である義経を、包み込むほどの度量のある大人物ではなかったと言う事なのでしょうね。

 

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梶原景時は、なぜ頼朝に義経の讒訴(ざんそ)をしたの?

先ず『梶原景時(かじわら かげとき)』の事ですが、、、

 

寿永三年(一一八四)の源義仲追討には、源範頼・義経に従って功をあげ、さらに一の谷合戦でも、範頼のもとで奮戦して戦功を立て、合戦後に播磨・美作両国を守護するよう命じられた。

文治元年(一一八五)に義経は屋島の合戦で平氏を打ち破ったが、このとき景時と義経との間で作戦上の問題をめぐって口論が起き、結局、景時の主張した逆櫓の策は退けられてしまった。

以後、この両者は真向から対立するようになり、ついには景時は頼朝に義経を讒訴し、失脚に至らせた。

 

(引用:安田元久『鎌倉・室町人名辞典コンパクト版 124頁』1990年 新人物往来社)

 

梶原景時は、治承4年(1180年)の源頼朝の挙兵時、『石橋山の戦』で敗走する頼朝を助け、以後頼朝の腹心となって寄り添っていた人物と考えて良いようです。

 

そして、軍評定の席上で景時と義経は作戦方針を巡って口論となり、自身の進言した作戦が却下されたことを恨んだ景時は、頼朝に義経を讒訴したとあります。

 

また、同時代史料の鎌倉幕府編纂史料『吾妻鏡』には、、、

 

廿一日、甲戌、梶原平三景時の飛脚、鎮西より參著す、親類を差進じ、書状を献上す、始に合戰の次第を申し、終に延尉不義の事を訴ふ、其詞に云ふ、

・・・(中略)・・・、

判官殿は、君の御代官として、御家人等を副へ遣はされ、合戰を遂げられ畢んぬ、而るに頻りに一身の功の由を存ぜらると雖も、偏に多勢の合力に依るか、謂ゆる多勢、人毎に判官殿を思はず、志君を仰ぎ奉るの故、同心の勲功を勵まし畢んぬ、

仍って平家討滅の後、判官殿の形勢、殆ど日來の儀に超過せり、士卒の所存、皆薄氷を踏むが如く、敢て眞實和順の志無し、就中、景時は、御所の近士として、憖に嚴命の趣を伺ひ知るの間、彼の非據を見る毎に、關東の御氣色に違ふ可きかの由、諫め申すの處、諷詞還って身の讎となり、動もすれば刑を招く者なり、

合戰無為の今、祗候據る所無し、早く御免を蒙り、歸參せんと欲すと云々者、

 

(引用:龍肅訳注『吾妻鏡(一)文治元年四月の条 186~187頁』2008年 岩波書店)

 

大意は、”

寿永4年(1185年)4月21日、梶原景時からの飛脚が九州より鎌倉に到着した。親類を通じて書状を上げた。書き出しは合戦の報告で、最後は義経の不都合な行状の事を讒言した。それによると、、、

・・・(中略)・・・、

義経殿は頼朝殿の代官として、兵を付けて派遣され、合戦を勝利して終了した。しかし、しきりに自分一人の手柄であると思われ、大勢の力を合わせた結果であるので、皆義経殿の力と思わず、頼朝殿の軍勢故の勝利と思い、お互いにその軍功をたたえ合った。

よって、平家が滅亡した後、義経殿はどんどん増長せられ、配下の武将たちは皆腫れ物に触るように、敢えて異を唱えようとはしなかった。そんな中で、私景時は、頼朝公側近の武将として、気が進まないながらも義経殿の命令の趣旨を知り、その間違いを見るたびに、頼朝公にお伺いを立てるべきではないかと諫めました。しかし、その遠回しのお諫めがかえって恨みを買い、ひょっとすると刑罰を招くものなのでしょう。

合戦での役目もない今、お仕えする理由もなく、はやく役目を外れて、鎌倉へ帰りたいものですとか。

”位の意味です。

 

 

このような記録もあるので、、寿永4年(1185年)の平家滅亡に関する源義経の行状の真相はどうであれ、源頼朝から軍監の役割含みで義経軍に従軍を命じられていた梶原景時が、義経に悪意のある報告(讒言)を行った事は、間違いない事実のようです。

そして、この記述からは、梶原景時が頼朝から期待された義経へのきちんとした説得努力をせずに、又その気もその能力もなかったように見受けられます。

この顛末を見ると、後年の豊臣秀吉の朝鮮侵攻時、軍監として朝鮮に随行した石田三成ら奉行衆一派による現地の加藤清正・黒田長政らの作戦行動評価の秀吉への報告書の件で、『讒言』であると大揉めになり、後の『関ケ原合戦』の引き金になって行った出来事が想起されます。

 

 

義経と奥州藤原氏のつながりは、頼朝にとって目の上のたんこぶなの?

義経と奥州藤原氏のつながり」とは、、、

 

平安末・鎌倉初期の武将。幼名は牛若丸。通称九郎。父は義朝。母は常盤。源頼朝の異母弟にあたる。平治の乱によって父義朝が敗死し、乳児であった義経は母や兄たちとともに囚われの身となるが、将来の出家を条件として一命を助けられ、洛北鞍馬寺に預けられた。

しかし成長するに及んで、みずから元服、当寺を脱出して奥州平泉の藤原秀衡を頼った。治承四年(一一八〇)八月、伊豆で兄頼朝が挙兵すると、ただちにその軍門に参じた。・・・。

 

(引用:安田元久『鎌倉・室町人名辞典コンパクト版 源義経の条』1990年 新人物往来社)

 

実際に、義経が頼朝のところにやって来たのは、、、

 

廿一日庚子、小松羽林を追ひ攻めんが爲、上洛す可きの由を士卒等に命ぜらる、而るに常胤、義澄、廣常等諫め申して云ふ、常陸國佐竹太郎義政幷びに同冠者秀義等、數百の軍兵を相率ゐ乍ら、未だ歸伏せず、就中、秀義の父四郎隆義は、當時平家に従ひて在京す、其外驕れる者猶境内に多し、然れば先づ東夷を平ぐるの後、關西に至る可しと云々、之に依りて黄瀬河に遷宿せしめ給ふ、・・・(中略)・・・、

今日弱冠一人、御旅館の砌に彳み、鎌倉殿に謁し奉る可きの由を稱す、實平、宗遠、義實等之を恠しみ、執啓する能はずして尅を移すの處、武衛自ら此事を聞かしめ給ふ、年齢の程を思ふに、奥州の九郎か、早く御對面有る可し者、仍って實平、彼人を請ず、果して義輕主なぢ、即ち御前に參進して、互に往事を談じ、懐舊の涙を催す、

 

(引用:龍肅訳注『吾妻鏡(一)治承四年十月の条 51~52頁』2008年 岩波書店)

 

大意は、”

治承4年(1180年)10月21日、平維盛を追討する為、上洛するとの命令を軍に命じた。しかし、千葉常胤・三浦義澄・下総広常ら重臣たちは、その上洛に反対して云うには、常陸の佐竹義政と甥の秀義ら、数百の兵力を有しながら、未だに頼朝に臣従せず、中でも佐竹秀義の父隆義は、平家に従って在京しており、その外、帰順してない者も管区内に多い、そうであれば、先ずこのような東の脅威を取り除いた後に上方へ上るべきであると言う。この進言によって、頼朝も黄瀬川へ軍を戻した。

・・・(中略)・・・、

今日若者が一人、頼朝のいる黄瀬川の宿の前でうろうろしている。『頼朝に面会したい』と言っている。土肥実平・土屋宗遠・山田義実たちがこれを怪しみ、頼朝に取り次ぐ必要もないとして、ほかっておいたところ、この事が頼朝の耳に入り、『年齢から考えて奥州の義経かもしれないので、早く会おうではないか』として、土肥実平が彼の人物を呼んだ。すると、やはり義経であり、すぐに頼朝の前に出て、互いに昔話をして涙ながらに語らった。

”位の意味です。

 

 

この時点で頼朝は、親類内で自分の味方に駆け付けた者は誰でも大歓迎ではあったが、「重臣たちが性急な上洛を止めたように、北関東の佐竹氏の動向は気になっており、義経を受け入れることによって、彼がつながっている奥州藤原氏と関係が持てるとしたら、佐竹氏への牽制として大きな力になる」との計算も頼朝にあったことは間違いない所でしょう。

 

奥州藤原氏は、頼朝に従わぬものとして強敵ですが、この時点では、北関東の佐竹氏への牽制として使えそうなので、協力を申し入れて来た異母弟『義経』の後援者として、大きな武力を持つ奥州藤原氏は、頼朝にとって目の上のたんこぶどころか、ウェルカムの状況だったと思われます

 

 

 

北条氏は義経をどう思っていたの?

北条氏と言うのは、源頼朝挙兵時の中心的存在でした。

 

十七日の夜は、忍々に兵共集りけり、時政は夜討の大将給って、嫡子宗時に先係させ、弟の小四郎義時、佐々木太郎兄弟四人、土肥、土屋、岡崎、佐奈田與一、懐島平権頭等を始めとして、家子も郎等も、濯汰へたる、者の手に立つべき兵八十五騎にて、八牧が館へぞ寄せける、

佐殿、時政を呼返して宣ひけるは、抑も軍の勝負をば争でか知るべし問ひ給へば、時政申して曰く、御方勝軍ならば城に火を放つべし、負軍成りて人々討たるゝならば、急ぎ使者を進すべし、静かに御自害と申し捨てゝぞ出でにける、・・・、

 

(引用:早稻田大學編輯部『通俗日本全史 第三巻』所収 「源平盛衰記 上 巻二十 八牧夜討の事 332頁」1912年 早稻田大學出版部)

 

大意は、”

治承4年(1180年)8月17日の夜は、密かに兵が集まり、北条時政源頼朝より夜討の大将を命じられ、嫡子の北条宗時(ほうじょう むねとき)に先導させ、弟の北条義時(ほうじょう よしとき)、佐々木定綱(ささき さだつな)・經高(つねたか)・盛綱(もりつな)・高綱(たかつな)ら佐々木兄弟の4人、土肥實平(どひ さねひら)、土屋宗遠(つちや むねとお)、岡崎義實(おかざき よしざね)、佐奈田義忠(さなだ よしただ)、大庭景義(おおば かげよし)等を始めとして、家の子郎党など残らず揃えて、総員85騎で山木兼隆の舘へ攻寄せた。

源頼朝が、北条時政(ほうじょう ときまさ)を呼び寄せて「そもそもこの戦いの勝敗はどうやって知るのだ」と聞くと、時政は「味方が勝ちますと敵城に火の手が上がります。もし負けて味方が討死したら、急使を立てますので、静かに御自害なさってください」と言い放って出陣して行った。

”位の意味です。

 

これは、源頼朝挙兵時に伊豆国目代(もくだい)の山木兼隆(やまき かねたか)の館に攻め行った時の場面で、記述によれば、北条は小規模豪族ながら、頼朝挙兵軍の主力を務めていたことが分かります。

 

 

このような立場の北条氏にとって、『富士川合戦』の終盤に突然現れた主君頼朝の舎弟『義経』の存在は、正体がよくわからないだけに取り扱いに困惑したことは想像に難くありません。

 

しかし、頼朝はと言えば、前掲したように、『今日若者が一人、黄瀬川の宿の前でうろうろしている。頼朝に面会したと言う。土肥実平・土屋宗遠・山田義実たちがこれを怪しみ、頼朝に取り次ぐ必要もないとして、ほかっておいたところ、頼朝の耳に入り、年齢から考えて奥州の義経かもしれないので、早く会おうではないかとして、土肥実平がかの人物を呼んだ。すると、やはり義経であり、すぐに頼朝の前に出て、互いに昔話をして涙ながらに語らった。』と、大歓迎だった訳です。

 

当初、頼朝の家臣である北条氏は、頼朝の態度を見て義経を源頼朝の舎弟・源家一門衆として、特別扱いして行くのは間違いのない所です。

 

そして、北条家当主北条時政は、引き続き『鎌倉殿』となった源頼朝を支え続け、頼朝の立場に寄り添った判断・行動を続けて行くこととなりますので、『壇ノ浦の戦い』以降、義経がどんどん『鎌倉殿』と関係を悪化させてゆくにつれ、義経と距離を置いてゆくのは言うまでもない事でした。

 

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まとめ

後白河法皇の第三皇子である以仁王(もちひとおう)『平家追討の令旨(りょうじ)』を契機として、各地で挙兵した源氏一門の中で、もっとも正統性をもっていると思われる源頼朝でした。

 

頼朝は、源氏に限らず平清盛一門に圧迫されていた関東武士団を、父義朝の縁を利用してまとめ、反清盛の一大勢力に育て上げました。

 

治承4年(1180年)10月20日の『富士川の合戦』の後、黄瀬川宿で九郎義経が参陣しますが、頼朝はすぐに鎌倉へ帰り10月27日には、常陸の佐竹討伐へ出かけ11月8日に佐竹領を武士団に分け与えています。

 

この後、先に上洛した木曽義仲の討伐に弟の範頼に義経を付けて上洛させて以来、源氏と平家の戦いは源氏の戦勝続きで、頼朝の想定外に義経の武将としての名声が高まり、更にそれを利用する後白河法皇の策に義経が乗ってしまい、鎌倉に鎮座する頼朝との間で大きな軋みが生じて行きます

 

頼朝の真意を理解しようとしない義経との関係は、決定的に破たんしてしまいますが、これを煽っていたのは、武家から政治の実権を取り戻したいと言う希望を持つ後白河法皇にほかなりませんでした。

 

こうなった原因のひとつは、頼朝がまだ東国武士団を編成し組織化してから日が浅く、これから強固な組織へと変貌させてゆく過程にあった時期と、義経の活躍が重なったことにありそうです。

 

頼朝は挙兵当初より、『源氏の棟梁として自分が認められて、東国の武士団を支配してゆく』と言う自分の構想の実現に腐心していたようです。事実、後白河法皇への提案に『東国は源氏で、西国は平家に』と言うのがあることにも表れています。

 

ところが、戦況が進んでゆくに従って、どんどん自分の命令(頼朝の構想)に従わず、どんどん平家を圧迫して行く義経の活躍が、そもそも政権を獲るなど考えもしていなかった頼朝にパニックを引き起こさせます。

 

構想実現のスケール感とスピード感が、頼朝と義経の間で大きく違っていたことが、この悲劇をもたらしたものと考えられます。

 

最近のTVドラマの『刑事もの』で、組織捜査を重視し一から十まで行動と結果を逐一メンバーに報告させ、自分が指示を与えてチームを動かして事件を解決したい課長と、自分の能力でどんどん事件の核心に迫って行く敏腕刑事が、捜査会議でいつも対立しますが、正に頼朝と義経はそんな感じだったようです。

 

ここで、梶原景時と言う人物が、「活躍する義経を頼朝に讒訴する敵役」として登場しますが、彼はこの戦国期前の武人として頼朝の考え・案件の進め方を十分理解して、東国武士団総員で事に当たりたいと言う希望を持っており、ひとり目的に向って突っ走る義経が邪魔で仕方がなかったのでしょう。確信的な讒言者と言えるようです。

 

景時にとっては、義経の考える目的達成よりも、頼朝の考えるプロセス重視の方が正しいと確信しているのですね。

 

頼朝は、義経を受け入れた段階では、まだ源氏を盟主として組織した東国武士団の行く末が見えず、大軍を有する奥州藤原氏を後ろ盾に持つ義経の存在は、大変魅力に思えたのではないでしょうか。

 

しかし、時間の経過とともに、成長してゆく鎌倉軍団(東国武士団)にとって、領土的野心を隠さない奥州藤原氏の存在は気になるところで、更に戦勝を重ね朝廷の受けもよくなってゆく義経の存在は、頼朝にとって自身の立場を危うくする存在としてはっきり認識されて行ったようです。

 

挙兵時より頼朝を支えて来て、頼朝側近となっていた北条氏にとっても、頼朝と考えがシンクロしていたはずですから、義経の存在は極めて煙たいものとなっていた事でしょう。

 

もし義経が平氏になり変わって西国を支配することが出来ていたら、東の頼朝と西の義経で存在し得たのかもしれません。

 

それが出来るのは後白河法皇でしょうから、どうせなら義経はそこまで院と組んでしまえば、旧平家一統を引き連れて頼朝に一杯食わせることに成功したことでしょう。

 

残念ながら、そこまでの器量は義経になかった事が、周知の末路を辿る結末を迎えた大きな要因なのだと思えます。

 

 

参考文献

〇國書刊行會『玉葉 第二』(1971年 名著刊行会)

〇國書刊行會『玉葉 第三』(1971年 名著刊行会)

〇呉座勇一『頼朝と義時』(2021年 講談社)

〇呉座勇一『陰謀の日本中世史』(2018年 角川新書)

〇龍肅訳注『吾妻鏡(一)』(2008年 岩波書店)

〇近藤瓶城『改訂史籍集覧 第二冊』(1967年 史籍集覧研究會)

〇安田元久『鎌倉・室町人名辞典コンパクト版』(1990年 新人物往来社)

〇早稻田大學編輯部『通俗日本全史 第三巻』(1912年 早稻田大學出版部)

〇奥富敬之『清和源氏の全家系4ー源平合戦と鎌倉三代』(1989年 新人物往来社)

〇本郷和人『鎌倉殿と13人の合議制』(2022年 河出書房新社)

 

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