執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
『鎌倉幕府成立』が1192年から1185年に変わった理由は?
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・『鎌倉幕府成立の年』が、「1192」から「1185」に変わった理由分かります
・そもそも『幕府』が何を意味するのか分かります
・昔なぜ『鎌倉幕府成立の年』は、「1192年」としていたかが分かります
・近年なぜ『鎌倉幕府成立の年』を、「1185年」だと言い始めたのか分かります
目次
教科書上で『鎌倉幕府成立の年』が、1192年から1185年に変わった大きな理由はなに?
実はこれに関して、『国史大辞典』に、、、
本来は中国で出征中の将軍の幕営をいう。日本では幕府は近衛府の唐名で、転じて近衛大将やその居館を意味したが、のち武家政権の首長である征夷大将軍、その居館、さらには政権自体を意味するようになった。
しかし鎌倉幕府では、当初源頼朝・頼家は、幕府の首長でありながら征夷大将軍でなかった期間が長いし、その後も室町幕府においても、首長が幼少のため、元服するまで征夷大将軍を欠くことがあった。
応安元年(一三六八)征夷大将軍に任ぜられた足利義満は、のち右馬寮御監、源氏長者、淳和・奨学両院別当となったが、以後歴代の将軍はこれらを兼ねる例となり、また清和源氏の流が征夷大将軍となるのが原則となって、徳川氏の時代に及んだ。
したがって、清和源氏でない織田・豊臣両氏は征夷大将軍になれず、幕府を開かなかった。慶応三年(一八六七)の王政復古の大号令によって、徳川慶喜の将軍職辞退が承認され、幕府は廃絶された。
江戸時代以来、鎌倉・室町(足利)・江戸(徳川)幕府を一貫して幕府政治・武家政治とする見方が生まれた。
源頼朝・足利尊氏・徳川家康が征夷大将軍に任ぜられた時期を、鎌倉・室町・江戸幕府の成立とする説は、このような考え方の影響を受けたものであるが、征夷大将軍即と見るのはあまりに形式的であるとし、それぞれの幕府の実質的成立をより早い時期に求めるのが最近の傾向である。
(引用:国史大辞典編集委員会『国史大辞典 11 「幕府」の項 508頁』1990年 吉川弘文館)
と説明があり、、、
掲題のテーマに関しては、『国史大辞典』が指摘するように、武家が政権を獲ったと思われる時期とその時代の武家当主が征夷大将軍に任官した時期のズレがあったことから、江戸時代式の征夷大将軍任官=幕府成立とみる見方に従来から疑問符がついていました。
それで、「1192」の根拠でもあった『征夷大将軍任官』=『幕府成立』であるとの説に?が付き、教科書の記述も、『鎌倉幕府成立』も、「政権のより実質的な体制が、出来上がった時期とすべきである」と言う歴史学会の流れに添ったものとなりました。
(画像引用:源頼朝公銅像ACphoto)
そもそも幕府成立の要件とはなに?
『幕府』とはなに?
『広辞苑』によりますと、、、
①(もと将軍は軍旅の際、幕中で事を治めたからいう)将軍の居所または陣営。柳営。
②近衛府の唐名。転じて、近衛大将の居館の称。
③武家政府の政庁。また、武家政権そのものをいう。
(引用:新村出『広辞苑 第五版 [幕府]の項 2129頁』1998年 岩波書店)
『角川 古語大辞典』では、、、
①漢語。幕営中の将軍の軍陣。
「幕府バクフ<将軍の所居を(幕府)と曰ふ事は前漢書註に見ゆ>」[書言字考]
「願くは迷ひし途を改めて幕府に帰命せむ」[藤原保則伝]②わが国で、近衛府の唐名。転じて近衛大将の居館。また、左右大将。
「近衛大将者、閫(こんー宮城ノ門)を分かつ之重任、席を絶つ之崇班(=高位)。・・・帷帳に籌(ちゅうー戦略)無くして、何ぞ枕を幕府に高うせんや」[本朝文粋・五]③征夷大将軍の公邸。将軍家。
源頼朝が建久元年(1190)右近衛大将に任ぜられて、頼朝やその居館を幕府と呼んだが、同年中に辞任し、建久三年征夷大将軍になってからもその称が踏襲され、以来この用法が一般化した。のちには武家政権の首長である将軍その人や政府をさしていう用法も生じた。
「幕府バクフ(将軍之称)」[書言字考]
「幕府の南門を建てらる。武蔵守の沙汰也。成尋法橋之を奉行す。幕下渡御、造営の次第を覧せしめ給ふ」[東鑑・建久ニ・六・七]
「我(=護良親王)台領の幽渓に栖んで、纔に一門跡を守ると、幕府の上將(=征夷大将軍)に居し、遠く一天下を静むると、国家の用何れをか吉しと爲ん」[元和製板本太平記・三]
(引用:中村幸彦/岡見正雄/阪倉篤義編『角川 古語大辞典 第四巻 「幕府」の項 1046頁』1994年 角川書店)
これらの説明から、「幕府」と言う名称は、日本では「近衛府の唐名」と言うのが、始まりとして正しいようです。つまり普通名詞だったと考えて良いかと思います。
『鎌倉幕府』の場合はどうなの?
前掲『角川 古語大辞典』[幕府]の項の③に、「源頼朝が建久元年(1190)右近衛大将に任ぜられて、頼朝やその居館を幕府と呼んだが、同年中に辞任し、建久三年征夷大将軍になってからもその称が踏襲され、以来この用法が一般化した。のちには武家政権の首長である将軍その人や政府をさしていう用法も生じた。」とあります。
ここで注目すべきは、「源頼朝が建久元年(1190)右近衛大将に任ぜられて、頼朝やその居館を幕府と呼んだ」とあり、頼朝側近の文官4名が頼朝に京都からスカウトされた中下級貴族であったことから、こう呼んだのはおそらく彼等かと考えられます。
おそらく教養のない頼朝側近の北条氏・比企氏・三浦氏等の東国武士ではないはずです。前掲辞書群にもあるように、日本では「近衛府」を「幕府」と朝廷・公家たちが呼称していたと言う事ですね。この主に宮中警備を担当する「近衛大将」は、平安時代以降鎌倉時代初頭までで、50名位は補任(任命)されていますので、この「近衛大将」のお役所「近衛府=幕府」は京都の貴族にとっては日常的な名称だったようです。
鎌倉での「幕府」の呼称の初出は、前出の右近衛大将に任ぜられた建久元年(1190年)11月24日以降ではなくて、、、
夜に入りて、江大夫判官公朝、仙洞の御使として参向の由、因幡前司に相觸る、因州先づ家中に招請せしめて、幕府に参じ申すと云々、
(引用:龍肅訳注『吾妻鏡(ニ)文治5年6月5日の条 103頁』1982年 岩波書店)
と言う事で、鎌倉幕府の公式文書である『吾妻鏡』では、「右近衛大将」任命より1年半も前から鎌倉府を、「幕府」と呼称していたことが知れます。
つまり実質はともかく、鎌倉の官人たちは頼朝の在住する「鎌倉府」を、文治5年(1189年)頃には、大将のいる場所と言う意味で「幕府」と呼んでいたらしいことが判明します。
ここで『鎌倉幕府成立の年』には諸説がありますが、これに関して別記事がありますので、参考のためにチェックしておいてください。
別記事
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教科書が『鎌倉幕府成立の年』を1192年としていた理由はなに?
『鎌倉幕府』に関して、『国史大辞典』では、、、
十二世記末、相模国鎌倉を本拠として成立した武家政権。元来中国の古典では出征中の将軍の幕営を幕府とよび、日本では近衛府、近衛大将、その居館などを意味した。・・・(中略)・・・。
江戸時代後期以後は、征夷大将軍を首長とする政権をも幕府とよぶようになったが、学術上の概念として「鎌倉幕府」が用いられ始めたのは、明治二十年(一八八七)ごろからである。
(成立時期)幕府の成立時期については、(一)建久三年(一一九二)の源頼朝の征夷大将軍就任、(ニ)建久元年の右大將就任、(三)元暦元年(一一八四)の公文所・問注所設置、(四)文治元年の守護・地頭補任勅許、(五)寿永二年(一一八三)の寿永二年十月宣旨による東国支配権獲得、・・・<以下(七)まで中略>・・・。
この中で一番ポピュラーな(一)は、積極的な学問的主張によって生まれたものではない。塙保己一の『武家名目抄』職名部一下に「文治中、鎌倉右大将家此職(征夷大将軍)に拝し、諸国に総追捕使を置事をゆるされ、幕府を東国に卜してより、天下兵馬の権、併其掌握に帰す」とあるが、
これは征夷大将軍=幕府の立場に立って、単に鎌倉将軍の起源を述べたに過ぎないし、その後の論者の説もこの域を出ず、この事件をもって幕府の形式的完成と評価する程度であった。・・・(以下略)。
(引用:国史大辞典編集委員会『国史大辞典 3 「鎌倉幕府」の項 549~550頁』1983年 吉川弘文館)
とあり、冒頭にある「征夷大将軍を首長とする政権をも幕府とよぶようになった」と言う江戸時代以降の通説に従った考え方だったようです。
これに関しては、「積極的な学問的主張によってうまれたものではない」とあり、通説に従っただけのことでした。
教科書が『鎌倉幕府成立の年』を1185年としている理由はなに?
これに関しても、『国史大辞典』から見てみると、、、
今日、学会での最有力説である(四)の生い立ちは奇妙である。保己一の文に(一)と(四)との混同が見られるのは、彼も文治守護・地頭を重視していたことを思わせるし、明治以来、事実上は(一)よりも(四)が通説だったのである。
一般には文治元、二年の間に時代の画期が求められており、明治三十五年に刊行された『大日本史料』四ノ一がここに筆を起したのも、当時の通説に掉さしたものであった。
そして自明の通説なるが故に、(四)の論拠が積極的に主張されたことはなかったのである。・・・(中略)・・・。
(四)の論拠はなお整備されていない。しかし通説として永く通用して来たこと自体、この説の妥当性を示すものであろう。明らかに守護・地頭は幕府の支柱であるし、・・・(中略)・・・。
現在、成立時期に関する有力学説は、基本的には(四)(五)の両説であるが、・・・(以下略)・・・。
(引用:国史大辞典編集委員会『国史大辞典 3 「鎌倉幕府」の項 550頁』1983年 吉川弘文館)
とあります。前述したように、ここで言う(一)とは「1192年の頼朝征夷大将軍就任」、(四)とは、「1185年の守護・地頭の補任権獲得」、(五)とは、「1183年の東国支配権の獲得」のことを指しています。
前掲引用史料にあるように、明治35年に作成された『大日本史料 第四編之一』の書き出しは、、、
文治元年、乙巳、十一月ニ十九日、戊申、源賴朝、中原廣元ノ議ヲ用ヒ、守護地頭ヲ諸國ニ置キテ、奸濫ニ備ヘ、公田荘園ヲ論ゼズ、兵粮米ヲ課センコトヲ奏請ス、是日、之ヲ聽シ給フ、
(引用:東京大学史料編纂所『大日本史料 第四編之一 1頁 』1991年 東京大学出版会)
大意は、”
文治元年(1185年)11月29日、源頼朝は、文官の重臣中原広元の具申を採用して、諸国に地頭を配置して叛乱に備え、諸権門の公田・荘園も関係なしに必要な兵糧米を徴収する権利を獲得することを、院に上申し、この日に許可が下りた。
”位の意味です。
つまり、明治政府の修史事業の一環として始まった『大日本史料』にても、「鎌倉幕府の始まり(成立)は、頼朝が全国の地頭の補任権を得た1185年である」との説が有力であると認定されていたことになります。
やはり明治の始めから、この「文治元年(1185年)の諸国地頭補任権の獲得が鎌倉幕府の成立期である」と言うのは、有力説であったようです。
結果的には、江戸時代では「1192年の征夷大将軍就任説」が有力で、明治時代になると「1185年の諸国地頭補任権獲得説」が、鎌倉幕府成立時期の有力説になったと言う事です。
まとめ
ここまで、鎌倉幕府の成立の年に関する「1192年説」と「1185年説」の史料を見て来ましたが、諸説ある中で、この2説が有力な説であったことは間違いないようです。
明治時代が始まり社会体制が安定して来た頃、教科書に載せる「鎌倉幕府」の記述に関して、当時国史学界では通説として「1192年説」・「1185年説」の両論とも有力であったのですが、「大日本史料」を編纂する事業を委嘱された東京大学が、鎌倉時代の史料の書き出しを「1185年」から始めたのに対し、文部省は江戸時代からの引継ぎの通説である「1192年説」を採用したと言うようなことではなかったかと推察されます。
あまり真剣な批判・議論がなされないまま、戦後にもこの状態が引き継がれて、昭和の教科書には「1192年説」が採用され続け、近年「1185年説」も採用する教科書が増えて来たと言う流れであったようです。
本来、京都御所の警備に当る近衛大将の舘を意味するだけの「幕府」と言う言葉が、武家政権自体を示す意味も持ち始めたことから、面倒なことになったようです。
この源頼朝が立てた武家政権(国家警察)を「幕府」と言う名称で、「政府」として括ろうとするところに、どうやら無理がありそうです。
この「幕府」と言う名称で武家政権を規定する見方は、明治になってからのものだと言われています。一応、清和源氏の血統を持つ一族でないと「征夷大将軍就任」は出来ないと言うルールがある?ので、歴史上は明らかに武家政権を打ち立てた「織田信長」と「豊臣秀吉」は、史学界では『幕府』を開いたことになっていません。どちらも「政庁」は存在したのですから、今の感覚では『幕府』と呼んでも良い様なのですが・・・・。
結論としては、『幕府』本体の規定が曖昧なため、御家人を従えて、天下の覇者たることが認知され、朝廷が認めたものを「武家政権」とし、そうなった時期が、いつなのか?「1192年」なのか「1185年」なのかと言う事で、従来『鎌倉幕府の成立の年』は「1192年」と言われて来ていたけど、近年は「1185年」でもいいとなっただけのことのようです。
「変更」されたと言ったような、大げさな事ではないようです。
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参考文献
〇国史大辞典編集委員会『国史大辞典 11』(1990年 吉川弘文館)
〇新村出『広辞苑 第五版』(1998年 岩波書店)
〇中村幸彦/岡見正雄/阪倉篤義編『角川 古語大辞典 第四巻』(1994年 角川書店)
〇龍肅訳注『吾妻鏡(ニ)』(1982年 岩波書店)
〇国史大辞典編集委員会『国史大辞典 3』(1983年 吉川弘文館)
〇東京大学史料編纂所『大日本史料 第四編之一』(1991年 東京大学出版会)