執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
鎌倉幕府成立の年は、1192年?1185年?どちらも違う?
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・『鎌倉幕府成立の年』には諸説あります
・昔は1192年でした
・近年は1185年が有力でした
・1121年の『承久の乱』の年も有力です
目次
鎌倉幕府成立の年』には諸説?あり
私などが受けた昭和の歴史教育では、「いい国作ろう鎌倉幕府」と言う覚え方、つまり『いいくに=1192のゴロ合わせ』で、鎌倉幕府の成立は1192年と覚えていました。
この年は後述しますが、源頼朝が正式に『征夷大将軍』つまり『将軍』に任官した年になります。江戸幕府の将軍様に慣れている私には、将軍=幕府の図式は分かりやすく、永年こうした理解でいました。
そこで、吉川弘文館版の日本史年表を見てみますと、『1603年(慶長8年)徳川家康、征夷大将軍となり、江戸幕府開く』とあり、やはり徳川家康は『将軍に任官して幕府を開く』となっています。
因みにこの年表で頼朝の項を見てみますと、『1192(建久3)源頼朝、征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉に幕府を開く』とあり、同じ理解であることが分かります。
しかし、頼朝が平家を滅亡させて政権を打ち立てたこの時期は、武家政権を作る事(幕府を開く)と将軍任官を必ずしも必要としていなかったとの説が有力視され、その為鎌倉幕府成立の年に関して諸説が出て来ることとなりました。
ところが、鎌倉関係の公式史料に『幕府』の文字が出て来る初見は、、、
五日、・・・(中略)・・・、夜に入りて、江大夫判官公朝、仙洞の御使として參向の由、因幡前司に相觸る、因州先づ家中に招請せしめて、幕府に參じ申すと云々、
(引用:龍肅『吾妻鏡(ニ)文治五年六月五日の条 193頁』1982年 岩波書店)
大意は、”
文治5年(1189年)6月5日、・・・(中略)・・・、夜に入って、大江公朝(おおえ きみとも)が後白河院の使者として鎌倉へ参り、大江広元に通達した。広元は先ず家中を招集してから、幕府へお伝えしますと言ったとか。
”位の意味です。
このように、鎌倉幕府の文官筆頭と思われる大江広元が、1189年当時すでに、頼朝政府を指して『幕府』と述べていることが分かりますが、、、
これまでに出ている主だった説は、、、
- 1180年説
- 1183年説
- 1184年説
- 1185年説
- 1190年説
- 1191年説
- 1192年説
- 1221年説
があります。それでは個別で見て行きましょう。
(画像引用:源頼朝座像 ACphoto)
1180年説
治承4年(1180年)は、周知のように源頼朝が挙兵した年です。
頼朝は、6月より挙兵の意向を固め、8月17日の挙兵初戦では山木舘を襲撃し勝利を収めますが、同月23日に『石橋山の合戦』で大場景親(おおば かげちか)に大敗を喫し、舟で安房の国へ這う這うの体で逃げます。
しかし、父義朝(よしとも)の旧恩に感ずる東国武士も多く、徐々に頼朝軍に参集を始め、、、
廿九日、戊寅、從ひ奉る所の軍兵、當參已にニ萬七千餘騎なり、甲斐國の源氏幷びに常陸、下野、上野等の國の輩參加する者、假令五萬騎に及ぶ可しと云々、
(引用:龍肅『吾妻鏡(一)治承四年九月廿九日の条 43頁』2008年 岩波書店)
大意は、”
治承4年(1180年)9月29日、源頼朝に従う軍勢は既に2万7千騎となり、甲斐源氏並びに常陸・下野・上野から集まった者は、およそ5万騎に及ぶと言う。”位の意味です。
挙兵してすぐに「石橋山」で大敗してから、ものの1か月ほどで、頼朝は2万7千以上の兵を集めることに成功しました。
この勢いのまま、10月6日には鎌倉入りし、10月20日に『富士川の合戦』で平家軍を破り、11月5日に常陸の佐竹をやぶり、南関東を制圧しました。
11月17日に鎌倉へ帰還した頼朝は、和田義盛(わだ よしもり)を『侍所別当(さむらいどころべっとう)』に任じています。
この南関東における武力制圧とその武力を束ねる『侍所』を設立を、頼朝の実力支配体制の確立と見て、この『1180年(治承4年)』を『幕府成立』と見た説となります。
要するに、この年に鎌倉を本拠地と定めて、侍の統率組織である『侍所』を設置して、『ここから始まった』くらいの感覚でしょうか。
しかし、この後に木曽義仲が上洛して京都を制圧したり、まだ平家も西国を支配下に治めている状況下で、全国統一レベルである『鎌倉幕府』の成立と見るのは相当無理があると考えられます。
1183年説
この年寿永2年(1183年)のトピックスは、有名な『寿永二年十月宣旨(じゅえいにねん じゅうがつ せんじ)』に関してです。
流人であった源頼朝が「従五位下(じゅごいげ)」に復位して、謀叛人扱いが解除された事
九日、庚子、天晴、・・・(中略)・・・、
今日有小除目云々、・・・(中略)・・・、
又、賴朝復本位之由被仰下云々、
(引用:國書刊行會『玉葉 第二 巻三十九 寿永二年十月九日の条 634~635頁』1971年 名著刊行会)
大意は、”
寿永2年(1183年)10月9日、晴、・・・(中略)・・・、
今日、小除目(こじもくー臨時の諸官の任命)があって、・・・(中略)・・・、
又、源頼朝が復位して「従五位下」に任官した、
”位の意味です。
これで、頼朝が叛逆者の身分から解放されて、自由の身・元の身分に復帰したことが公表され、後白河院の頼朝に対する期待が、いかに大きかったかが分かります。
源頼朝に「東国の行政権」が与えられた事
十三日、戊申、天晴、・・・(中略)・・・、
抑、東海東山北陸三道之庄薗、國領如本可領知之由、可被宣下之旨、頼朝申請、仍被下宣旨之處、北陸道許、依恐義仲、不被成其宣旨、頼朝聞之者、定結鬱歟、太不便事也云々、
・・・(中略)・・・、
廿日、辛巳、天晴、・・・(中略)・・・、
東海東山北陸等之國々所被下之宣旨云、若有不随此宣旨之輩者、随賴朝可追討云々、
・・・(中略)・・・、
廿二日、癸未、天晴、・・・(中略)・・・、
又聞く、賴朝使雖來伊勢國、非謀叛之儀、先日宣旨云、東海東山道等庄土、有不服之輩者、觸賴朝可致沙汰云々、
仍爲施ー行其宣旨、且爲令仰知國中、所遣使者也云々、
(引用:國書刊行會『玉葉 第二 巻三十九 寿永二年閏十月の条』1971年 名著刊行会)
大意は、”
寿永2年(1183年)閏10月13日、晴、・・・(中略)・・・、
そもそも、東海・東山・北陸三道の荘園・国領の所有権を元通りに戻されるべきであると言うのは、頼朝が院に求めた宣旨の内容で、そのとおり宣下されるはずであった。しかし、木曽義仲を怖れて院から宣下されることはなかった。頼朝がこれを聞いてさぞかし腹を立てた事だろう。全く気の毒な事だ。
寿永2年(1183年)閏10月20日、晴、・・・(中略)・・・、
東海道・東山道・北陸道等の国々へ出された『宣旨(せんじ)』が命じるのは、もしこの『宣旨』に従わない者がいたら、源頼朝は院の命により、その者を討ち取ってよいと言う事だ。
寿永2年(1183年)閏10月22日、晴、・・・(中略)・・・、
また聞いたところによると、頼朝の使者が伊勢国へ来たと言うが、これは謀反ではない。先日の『宣旨』にあるように、「東海・東山道等の荘園で、命令に従わない者がいたら、頼朝の裁量で処理して良い」とか。
つまり、その『宣旨』を施行するため、かつその知行国中に知らしめるために、使者を派遣したのだ。
”位の意味です。
小まとめ
- 東国の荘園・公領の領有権を元の荘園領主・国衙へ戻す事
- それを実行する源頼朝の、東国における実質的な行政権を認める事
これが、前日には出されないとの観測もあったものの、やはり寿永2年(1183年)10月14日に後白河院から『宣旨』として発給されていたことが分かります。
このように、有名な『寿永二年十月宣旨』によって、東国に限定されてはいるものの、朝廷から源頼朝に行政権の承認があったことから、これを『鎌倉幕府成立の年』と見る説です。
1184年説
この年寿永3年/元歴元年(1184年)は、、、
- 木曽義仲(きそ よしなか)の滅亡
- 鎌倉に公文所(くもんじょ)・問注所(もんちゅうじょ)の開設
と頼朝に立ちはだかる源氏の対抗勢力を殲滅し、源氏の棟梁としての地位を固めて行きます。
そんな中で朝廷より、平氏没官領(朝廷が平家から没収した荘園などの領地)が頼朝に与えられています。
木曾義仲の滅亡
木曽義仲は、平家討伐を主張して討死した以仁王(もちひとおう)の子息である北陸宮を奉戴し、源氏軍として頼朝に先んじて寿永2年(1183年)7月28日に上洛しました。
しかし木曽義仲に追い払われ都落ちする平家が、連れ去ってしまった安徳天皇の後継問題で、後白河院の推す故高倉上皇の子息ではなくて、義仲は自身が奉戴した以仁王の子息北陸宮を強引に推し、院の怒りを買って二人の関係は悪化して行きます。
義仲が北陸宮の即位を拒否されて、求心力が低下したことにつけ込み、頼朝は院から前述の『寿永二年十月宣旨』を得ることに成功し、更に院の懇請により、源頼朝は代理として義経(よしつね)・範頼(のりより)を上洛させます。
そして、年明け寿永3年(1184年)正月20日、、、
廿日、庚戌、天晴、物忌也、・・・(中略)・・・、
獨身在京之間遭此殃、先參院中可有御幸之由、已欲寄御輿之間、敵軍已襲來、仍義仲奉弃院、周章對戰之間、所相從之軍僅丗四十騎、仍不及敵對、不射一矢落了、欲懸長坂方、更歸爲加勢多手、赴東之間、於阿波津野邊被伐取了云々、
(引用:國書刊行會『玉葉 第三 巻四十 寿永三年正月廿日の条 4頁』1971年 名著刊行会)
大意は、”
寿永3年(1184年)1月20日、晴、物忌の日である、・・・(中略)・・・、
木曽義仲は単身で京都に残り、災難に遭った。後白河院の御殿へ行き、院を連れ出そうと輿を用意していたところ、鎌倉軍が来襲して来た。それで、義仲は後白河院の連れ出しを諦めて、慌てて防戦しようとしたが付き従うのは30~40騎しかおらず、もう鎌倉軍にかなわないので、一戦も交えずに逃亡した。
義仲は、長坂へ取り掛かり、更に多く加勢を得るために東へ行く途中、粟津辺り(滋賀県大津市周辺)で鎌倉軍に討取られたと言う。
”位の意味です。
北陸宮を奉戴していち早く平家を京から追い払った木曽義仲は、一時的に天下を獲った形になりましたが、朝廷との交渉に失敗し、後白河院と巧妙に折衝した頼朝に天下を獲られてしまいました。
鎌倉に公文所(くもんじょ)・問注所(もんちゅうじょ)の開設
これに関しては、先ず、、、
さて賴朝ハ次第に國に在なから加階して正二位まてなりにけり、さて平家知行所領書たてヽ役官の所と名付て五百餘所さながらつかはさる
(引用:近藤瓶城編『改訂 史籍集覧 第二冊』所収「愚管抄 巻五 156頁」1967年 史籍集覧研究會)
大意は、”源頼朝は、鎌倉に在国しながら次第に出世し、正二位までになった。それで、平家の知行していた所領を下賜するように申請し、500余カ所に上る所領を収受し、役所を設けて管理した。”位の意味です。
源頼朝は、この旧平家領地500余カ所を鎌倉殿の所領として、前文にあるように、管理する役所を設けました、、、
六日、辛酉、去夜より雨降る、午尅霽に屬す、未尅、新造の公文所吉書始なり、安藝介中原廣元、別當として著座す、齋院次官中原親能、主計允藤原行政、足立右馬允、藤内遠元、甲斐四郎、大中臣秋家、藤判官代邦通等、寄人として參上す、邦通先づ吉書を書く、廣元御前に披露す、
・・・(中略)・・・、
廿日、乙亥、諸人の訴論對決の事、俊兼、盛時等を相具して之を召決し、且は其詞を注せしめ、申沙汰す可きの由、大夫屬入道善信に仰せらると云々、仍つて御亭の東面の廂二ヶ間を點じて、其所を爲し、問注所と號して額を打つと云々、
(引用:龍肅『吾妻鏡(一)元歴元年十月の条』2008年 岩波書店)
大意は、”
元暦元年(1184年)10月6日、昨夜よりの雨が昼頃上り晴れる。午後2時頃、新造の『公文所(くもんじょ)』の開所式があった。中原広元(なかはら ひろもと)が別当として着任した。次官には中原親能、三等官には藤原行政、足立遠元、比企朝宗、岡崎義実、中原秋家、藤原邦通等が寄人として出仕した。藤原邦通が先ず吉書(仕事始めの書面)を書いて、別当の中原広元に披露した。
・・・(中略)・・・、
元暦元年(1184年)10月20日、様々な人々の訴訟裁判に際し、藤原俊兼・平盛時がふたりでこれらを裁定する為に関係者を召喚し、又これらの訴状を検討し、その判決として申し渡す内容を初代執事の三善康信(みよし やすのぶ)に報告すると言う。その為、屋敷の東面のひさしに二ヶ所部屋を作り、そこを『問注所(もんちゅうじょ)』と名付けて扁額を取り付けたと言う。
”位の意味です。
この年、朝廷より500ヶ所に上る平家の所領が鎌倉殿に下賜され、頼朝はこれを管理するために別当を中原広元として『公文所』を開設し、又訴訟問題に対応するために初代執事を三善康信として『問注所』を作りました。
このように源義経の派手な活躍の陰で、頼朝によって新たな役所が次々と開設されたこの1184年(元暦元年)を、実質的に『鎌倉幕府成立の年』とする説です。
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1185年説
この年元暦2年/文治元年(1185年)は、前年に都落ちした平家が再度上洛の動きをしていたところ、源義経の率いる源氏軍に敗退し、3月24日長門国壇ノ浦で滅亡してしまいます。
その後、後白河院の謀略に乗った平家滅亡の英雄源義経は頼朝と袂を分かち、10月13日に後白河院から『頼朝追討の宣旨』を得て京都で挙兵しますが、政治構想を持たない義経に付き従う武士は僅かで、クーデターはあっと言う間に瓦解します。
義経の挙兵が失敗したのを見て取った頼朝は、文治元年(1185年)11月24日、京に武将で舅の北条時政に1000名の兵を付けて乗込ませ、10月28日に陰謀の主犯である後白河院に要求を突きつけます。
廿八日、丁未、諸國平均に守護地頭を補任し、権門勢家庄公を論ぜず、兵糧米 段別五升、を宛て課す可きの由、今夜北條殿、藤中納言経房卿に謁し申すと云々、
廿九日、戊申、北條殿申さるる所の諸國の守護地頭兵糧米の事、早く申請に任せて御沙汰有る可きの由、仰下さるるの間、帥中納言、勅を北條殿に傳へらると云々、
(引用:龍肅『吾妻鏡(一)文治元年十一月の条』2008年 岩波書店)
大意は、”
文治元年(1185年)11月28日、頼朝が諸国の守護地頭を任命し、権門勢家の荘園・公領に関係なく、兵糧米として段別五升を課税する権限を付与することを、今夜北條時政は、吉田経房卿に申請すると言う。
11月29日、北條時政が申請した諸国の守護地頭の兵糧米の事を、早く言うとおりに許可するべきであると院が仰せになり、吉田卿はその『勅許』が下りた事を北條殿に伝えるとか。
”位の意味です。
これは、『文治の勅許(ぶんじのちょっきょ)』と言われ、全国の守護・地頭の任免権を朝廷から源頼朝に与える、許可すると言うものです。
この権限を得たと言うことで、鎌倉幕府の根幹である守護・地頭制がこの時定まったと考えられ、この年文治元年(1185年)をもって『鎌倉幕府成立の年』とすると言う説で、有力な説だと考えられ『1185(いいはこ)つくろう鎌倉幕府』などと覚えられていました。
ところが、、近年の研究から『文治の勅許』を立証するには、同時代史料が非常に少ないなど、不明点も多い事からこの説も無理ではないかと考えられています。
1190年説
この年1190年(建久元年)に、源頼朝は朝廷から「権大納言(ごんだいなごん)」という公卿の高位与えられ、武官としても高位の「右近衛大将(うこんえのだいしょう)」に任じられました。
七日、丁巳、雨降る、午の一剋、晴に屬す、其後風烈し、二品御入洛、法皇密々御車を以て御覧ず、見物の車轂を輾りて河原に立つ、申剋、先陣花洛に入る、三條の末を西行し、河原を南行して、六波羅に到らしめ給ふ、
・・・(中略)・・・、
九日、己未、天霽、二品院内(院の御所と内裏)に參らしめ給ふ、御家人等辻々を警固すと云々、・・・(中略)・・・、子一剋六波羅に歸らしめ給ふ、次に戸部院宣を下されて云ふ、勲功の賞に依り、権大納言に任ぜらるる所なり、
・・・(中略)・・・、
廿四日、甲戌、霽、夜に入って雨降る、・・・(中略)・・・、今夜亜相右大將に任ぜられる可き事、院宣 経房奉る、を下さる、
・・・(中略)・・・、
三日、癸未、右大將家兩職の辭狀 筥に納れて之を裏まず、を上らしめ給ふ、
・・・(中略)・・・、
十四日、甲午、天霽、全右大將家、關東に下向せしめ給ふ、
(引用:龍肅『吾妻鏡(ニ)建久元年十一月・十二月の条』1982年 岩波書店)
大意は、”
建久元年(1190年)11月7日、雨、午前11時頃から晴れ始めるが、その後風が強くなる。源頼朝の上洛である。密かに後白河院は牛車を仕立てて見物に行かれた。車両を河原に入れた。午後4時頃に行列の先陣が入京して来て、粟田口を西へ行き、河原沿いを南へ行って六波羅に着いた。
・・・(中略)・・・、
11月9日、晴れ渡っている。源頼朝は院御所と内裏に参内した。御家人を街の辻々に警護させた。・・・(中略)・・・、午後11時頃六波羅に帰宅した。すると取次の戸部氏がやって来て、院宣を渡され、「勲功に依り、権大納言に任ず」との事だった。
・・・(中略)・・・、
11月24日、晴れ渡ったが、夜に入って雨、・・・(中略)・・・、今夜、右近衛大將に任ぜられる院宣が下された。(吉田経房が持って来た)
・・・(中略)・・・、
12月3日、源頼朝は、拝命した「権大納言」・「右近衛大將」の両職を辞任した。
・・・(中略)・・・、
12月14日、晴れ渡る。源頼朝は関東に出発し帰途に就いた。
位の意味です。
このように『1990年説』は、頼朝が在京義務を避けるために、せっかく拝命した「権大納言」・「右近衛大將」の両職を辞任しましたが、前右大將家として朝廷内で一定の地位を得たところから、この時期を『鎌倉幕府の成立』と見る説です。
1191年説
この年建久2年(1191年)3月に、『建久新制(けんきゅうのしんせい)』と呼ばれる法令が朝廷より発布されています。。。
新制十七條ヲ下ス又、三十六條ヲ下シテ、内外ノ諸司ヲ戒飭ス、
建久二年三月廿二日、 宣旨、
・・・(中略)・・・、
一、可令京畿諸國所部宮司搦進海陸盗賊幷放火事、
・・・(中略)・・・、
前右近衛大將源朝臣、幷京畿諸國所部宮司等、令搦進件輩、・・・(後略)・・・、
(引用:東京大学史料編纂所編『大日本史料 第四編之三 建久二年三月ニ十二日の条』1991年 東京大学出版会)
大意は、”
新法令17条を発布する、更に36条を発布して、内外の関係担当者を戒める。
建久2年(1191年)3月22日 宣旨
・・・(中略)・・・、
一、畿内諸国の関係各所担当者・宮司は、海陸の盗賊・放火犯を逮捕すること、
・・・(中略)・・・、
前右近衛大将源頼朝と畿内関係担当者・宮司は、盗賊共を逮捕すること、
”位の意味です。
ここで注目されるのは、『建久新制』の法令の2月22日『17条(1令)』の第16条目に畿内の治安維持に関する法令があり、その中、前記にあるように朝廷が、頼朝に海陸の盗賊・放火犯の逮捕権を認めたことです。
つまり、戦時体制下ではなくて、平時における治安維持活動権限を、朝廷が頼朝に付与したことが明らかになっています。
これにて、もう『鎌倉幕府成立』と考えても良いのではないかと言う説です。
1192年説
この建久3年(1192年)は、昔から有名な『いい国作ろう 鎌倉幕府』で、「1192=いいくに」のゴロ合わせで周知の年号です。
これは、建久3年(1192年)7月12日に頼朝が征夷大将軍に任官したことに依ります。
十二日、壬午、臨時除目、前權大納言源賴朝ヲ征夷大將軍ト爲ス、二十五日。勅使中原景良、同康定、鎌倉ニ至ル、賴朝、三浦義澄ニ命ジ、勅使ヲ鶴岡八幡宮ニ延キテ、徐書ヲ拝セシム、
(引用:東京大学史料編纂所編『大日本史料 第四編之四 建久3年7月12日の条』1991年 東京大学出版会)
大意は、”
建久3年(1992年)7月12日、臨時の人事、前権大納言の源頼朝を征夷大将軍とする。
7月15日、勅使の中原景良(なかはら かげよし)と康定(やすさだ)が鎌倉に到着し、頼朝は重臣の三浦義澄(みうら よしずみ)に命じて、勅使を鶴岡八幡宮に招いて、除目(任命書)を見た。
”位の意味です。
つまりこの説は、源頼朝の『征夷大将軍』就任を以て、『鎌倉幕府成立』と見る見方です。
この年以降に、幕府と御家人の関係が成立したとも言われており、そう言う意味では幕府の東国の支配権は確立したと見られます。
1221年説
この年は、言わずと知れた『承久の乱』が起こった年です。
この乱は、『国史大辞典』によれば、、、
承久三年(一二二一)後鳥羽上皇とその近臣たちが鎌倉幕府を討滅せんとして挙兵、逆に大敗、鎮圧された事件。
(引用:国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第七巻 「承久の乱」の項 477頁』1986年 吉川弘文館)
とあり、『後鳥羽上皇と公家たちが、武家に乗っ取られた政治の実権を、再び朝廷に取戻そうと挙兵し失敗した事件』となります。
既に、鎌倉幕府の創始者源頼朝も正治元年(1199年)に亡くなってしまっており、その22年後の承久3年(1221年)まで『鎌倉幕府成立の年』を持ってくるのはどうなの?
となりそうです。。。
現代の後知恵で言うならば、『昔の日本の政治体制と言うものは、君主を必ず助ける役割の人々と天皇という二つの存在が常にある。つまり、「権威」と「権力」が別々の存在として共存している。』となっています。
要するに、幕府と天皇で言うならば、天皇の権威で以て、幕府が国の政治を行うと言うスタイルが安定した政治形態を作り出していると言う認識です。
これを前提として、この事件を見てみますと、、、
鎌倉幕府側では、既に源頼朝が日本の政権を握っており、政治・政策に関しては幕府が決定権・施政権を以て政治を行うことが決まっていると言う認識でいます。
ところが朝廷側は、幕府内の混乱に乗じて、幕府に相談もなく勝手に全国の領主たちに命令を出して、自分の政策を進めようとし始めます。
こうなる背景は、「そもそも日本の政治を行っているのは、君主たる天皇であり、それを補佐する朝廷・公家である。ただの権門のひとつに過ぎない鎌倉幕府に政治権力の一部を、その武力が故に認めているだけである。」との基本思想があります。
彼等天皇・朝廷にとって、「大乱による混乱で武力の運用で、後白河院が源頼朝に一部譲歩を強いられただけなのだから、頼朝も死んで鎌倉が混乱している今は、政治の実権は本来の形である朝廷が行うのが当然である。」と言うのが、後鳥羽上皇の根本にある考え方であったようです。
ところが、この『承久の乱』の勝利により、わずかに残っていた「朝廷の権力への復帰願望」は、完全に断ち切られることとなり、これが名実ともに日本の政治の実権をもった『鎌倉幕府』が成立した年と言えるのではないかと言う説となります。
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まとめ
現在、『鎌倉幕府成立の年』に関して、以下の諸説が存在致します。
- 1180年説 頼朝が挙兵し、南関東を制圧して、侍所を新設した
- 1183年説 『寿永3年の宣旨』が出され、頼朝の身分が回復した
- 1184年説 鎌倉に公文所・問注所が開設され、諸役所が出来て幕府としての形が出来た
- 1185年説 『文治の勅許』により、全国の守護・地頭の任免権が朝廷から源頼朝に与えられた
- 1190年説 源頼朝が「権大納言」と「右近衛大将」に任じられる
- 1191年説 『建久新制』が朝廷より発布され、平時の治安維持活動権限が頼朝に付与された
- 1192年説 源頼朝が征夷大将軍に任官する
- 1221年説 『承久の乱』の鎮圧により、政治の実権が朝廷ではなくて鎌倉幕府側にある事が確定した
位があります。
私のようなシニア世代は、⑦の1192年説で『いい国作ろう鎌倉幕府』で記憶させられていますが、近年は④の1185年説『いい箱(1185=いいはこ)作ろう鎌倉幕府』となっていたようです。
歴史学者の呉座勇一氏は、『1191年辺りの『建久の新制』で「治安維持活動権限が頼朝に与えられた」辺りでもう鎌倉幕府成立とみて良いのではないか。』と言われています。
これからは私見ですが、、、
平安末期に平清盛が、一族に官位を与えて高級官僚に昇進させて、朝廷政権の要職を占めさせ、平家で朝廷の政治を壟断しようとする挙に出ていましたが、ここではあくまでも武家が公家に変身して朝廷政治に参加しただけで、これは『武家政権』とは呼んでいません。
ところが、治承4年(1180年)頃から源頼朝が挙兵して鎌倉殿となり、東国の支配を足掛かりに武家として朝廷政治に関与し始めると、歴史の教科書では『武家政権』と名付け始めます。
そこで、頼朝の死後22年後に発生した、『承久の乱(承久3年ー1221年)』を見ると、後鳥羽上皇(朝廷側)が武家から政権を奪還しようとしたと説明されているのですが、朝廷側から見れば、『そもそも政(まつりごとー政治)とはお上がするものであり、現在、数ある権門のひとつに過ぎない源氏が、政治を壟断しているのはけしからん!』となると思われます。
彼等(後鳥羽上皇方)はあくまで政事とは朝廷が行うものだと言う事と、力を付けた武家であっても、数ある権門のひとつに過ぎないのだ(つまり、天皇の家臣の越権行為だ!)と思い込んでいるのではないでしょうか。
つまり、『権威』と『権力』は本来統合しているものだと思い続けている朝廷側の考えを、根本から叩き潰して『権力』は武家にあって朝廷にはないことを、徹底的に知らしめた『承久の乱』を以て、『鎌倉幕府成立の年』とする考えもそれなりに筋が通っているように思われます。
これ以降に初めて鎌倉幕府は、朝廷を黙らせて政治の実権を牛耳った(完全に成立した)と考えれるのではないでしょうか。
歴史のテストでは、『鎌倉幕府成立の年』は、『1185年ーいい箱作ろう鎌倉幕府』と書いた方が良いでしょうけど~(笑)。
参考文献
〇笹山晴生外15名『詳説 日本史B 改訂版』(2018年 山川出版社)
〇児玉幸多編『日本史年表・地図』(2005年 吉川弘文館)
〇呉座勇一『頼朝と義時』(2021年 講談社)
〇龍肅『吾妻鏡(ニ)』(1982年 岩波書店)
〇龍肅『吾妻鏡(一)』(2008年 岩波書店)
〇國書刊行會『玉葉 第二』(1971年 名著刊行会)
〇國書刊行會『玉葉 第三』(1971年 名著刊行会)
〇近藤瓶城編『改訂 史籍集覧 第二冊 所収「愚管抄」』(1967年 史籍集覧研究會)
〇東京大学史料編纂所編『大日本史料 第四編之三』(1991年 東京大学出版会)
〇東京大学史料編纂所編『大日本史料 第四編之四』(1991年 東京大学出版会)
〇国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第三巻』(1983年 吉川弘文館)
〇国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第七巻』(1986年 吉川弘文館)