源頼朝のつぎに鎌倉殿となった源頼家を支えた13人とは誰なの?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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鎌倉幕府の本質が分かります。
・2代目鎌倉殿を支えた13名が誰なのか分かります。
梶原景時滅亡の理由が分かります。
比企能員滅亡の理由がよく分かります。

鎌倉幕府とはどんなもの?

『国史大辞典』によれば、、、

 

鎌倉幕府

十二世記末、相模国鎌倉を本拠として成立した武家政権。・・・(中略)・・・。

国家公権との接触、朝廷による承認が、幕府の本質的条件となるのは、幕府成立の特殊事情に由来している。

ヨーロッパの封建制が原始ゲルマンの共同体を母胎として生まれ、継承すべき国家権力を持たなかったのと異なり、日本では中央集権的な律令国家が早く形成され、律令国家やその変質した王朝国家を否定することなく、旧国家体制が健全な状態で、それと深い関係を持ちつつ幕府が成立したことが、その原因である。

鎌倉時代のほとんど全期間を通じ、朝廷は院政の形態をとっていたが、天皇は執政せぬ形式的存在であり、天皇の父祖である治天の君が政治の実権を握っており、有力貴族・社寺などの権門は、その下で職能を分担しつつ国政に参与していた。

幕府が朝廷によって存在を保障されていたことは、いわゆる公武二重政権が、朝廷と幕府との対等な対立ではなく、幕府もまた貴族・社寺と同様に一権門に過ぎなかったものと考えさせるのである。・・・(中略)・・・。

すなわち鎌倉幕府とは、頼朝・頼家らの鎌倉殿が、御家人を率いて諸国守護(国家的軍事警察)を担当する組織であり、本来は私的な主従結合(御家人制)と、公的な諸国守護との統一なのである。・・・(中略)・・・。

諸国守護の遂行のためには国別に守護が置かれた。その固有の職権は、大番催促、謀叛・殺害人の権断、すなわち御家人統率と諸国守護との一国単位で実現することであり、これらの職権を通してのみ、守護権力は荘園体制を越えて作用し得たのである。

このように幕府が担う諸国守護の機能は、一権門としての幕府に超権門的な、公権力としての性格を与えている。・・・(以下略)。

(引用:国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第3巻 「鎌倉幕府」の項』1983年 吉川弘文館)

 

ここで言う『権門(けんもん)』とは、、、

 

権門体制

日本中世の国家体制をさす歴史学上の概念。・・・(中略)・・・。

日本中世の国家体制は、それまでの通説のように鎌倉・室町幕府の支配を中心に理解すべきではなく、権門といわれた諸勢力が、対立競合しながらも相互補完関係を保ちながら、天皇と朝廷を中心にして構成していたものとみる。

この権門とは、王家(天皇家)・摂関家その他の公家諸権門、南都・北嶺をはじめとする諸大寺社、武家(幕府)などで、それぞれ組織していた主たる社会層や結集形態には差異があった。

すなわち公家は主として古代以来の王臣家や貴族を組織し、寺社は顕密諸宗の僧侶・社官らを寺院機構や本末関係で結集しており、武家は御家人制度を軸に主従関係によって多数の武士・郎党を統率していた。

しかしいずれも政治・社会的に権勢をもつ門閥的勢力であって、政所など種々の家政機関と別当・家司・侍などを擁し、下文・奉書をはじめ基本的に同一様式の文書を発給し、荘園・公領の諸「職」知行を経済的基盤とし、多少なりとも武力(兵力)を備えていた。・・・(以下省略)。

 

(引用:国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第5巻 「権門体制」の項』1985年 吉川弘文館)

 

 

以上から、源頼朝が成立させた『鎌倉幕府』と言うものは、国家体制・国政の中での一勢力に過ぎない所から出発したと言う事らしいです。

 

要するに、前掲した『国史大辞典』にあるように、革命を起こして既存政権を倒した訳ではないので、日本全体の政権を奪取したと言うにはほど遠い実態であった、と考えねばならないようです。どうやら、源頼朝が作った当初の鎌倉幕府を、『武家政権』と呼んでしまうのはかなり問題がありそうです。

 

つまり、この頃の政治の親玉はあくまでも天皇・朝廷であって、いわゆる行政を担っていたのは、武士ではなく主要閣僚・高級官僚の貴族だった、と言ってもよい構図となっていた事を改めて認識せねばならないようです。

 

前掲『国史大辞典』の解説によれば、鎌倉幕府は朝廷から諸国守護(国家的軍事警察)職を獲得し、諸国の守護職管掌の武士団を動員出来る軍事権を掌握したようです。

 

初期の鎌倉幕府は、朝廷から承認された一権門に過ぎないと言い切るのは残念ですが、後白河法皇の権限と言うものが非常に大きい理由は、依然として政治の実権を掌握していたのが法皇・上皇であったと言う事なのでしょうね。

 

源頼朝が鎌倉幕府を開いたことが、最初から頼朝が政権を獲って武家政治を始めた、かのような認識はどうやら早とちりだったように思われます。

 

鎌倉幕府が天皇・朝廷の権力にある程度制限を掛けれる政権となるのは、第2代執権北条義時が承久3年(1221年)5月に勃発した後鳥羽上皇による『承久の乱』を鎮圧し、京都に六波羅探題を設置して、朝廷の公家たちを鎌倉幕府の支配下に置いてからの事となります。

 


(画像引用:鎌倉小町通ACphoto)

 

第2代将軍源頼家を支えた13人って誰なの?

周知のとおり、以仁王の『平家追討の令旨(りょうじ)』に応えて、挙兵した源氏の内、頼朝より先に上洛を果したにも関らず木曾義仲は、以仁王亡き後の朝廷勢力に認知させるに至らず滅亡する事になりました。

 

頼朝は後白河法皇との距離感を保ちつつ、一権門として認知させることは出来たものの、東国の一勢力から本格的な全国政権となるためには、朝廷から行政権を引き継いでゆく組織が必要となって来ます。それを可能として行くのは武力一辺倒の武士ではなく、行政に明るい文官の採用に力を注いだ頼朝の政策でした。

 

頼朝の死後、有力御家人たちを幕政に参加させて、まだ若年の第二代将軍の頼家に直裁をさせずに重臣13人の合議制で取り決める事としました。

 

将軍頼家から決裁権を取り上げてしまったのですが、一方で関東武士団の有力者を幕政に参加させることによってガス抜きをし、そもそも独立心の強い御家人の間のトラブルを防ぐ意味もあったと思われ、又互いに監視・牽制し合って仲間割れ防止を狙ったものでしょうか。

 

或は、主だった御家人を全員参加させて、頼家の乳母夫(めのとぶ)となって権勢を振るう比企義員・比企一族の力を弱めて、頼朝後の幕府内での北条家の支配体制強化をはかる北条時政の陰謀であったのかもしれません。

 

 

その選ばれた13人とは、、、

 

 

 

  1. 北条時政(ほうじょう ときまさーNHK大河ドラマ『鎌倉殿と13人』の配役では、坂東彌十郎)平安末期・鎌倉初期の武将・政治家。流人源頼朝の監視を命ぜられていたが、頼朝が挙兵の動きを始め北条もそれに従う事となった。頼朝は源氏の軍勢を結集して平家を滅亡させて、征夷大将軍となり鎌倉に幕府を成立させた。頼朝が51歳で急死すると、重臣の合議制で政策を進める体制を作り、有力重臣を失脚させ最期に北条が源氏将軍をも排して実権を握ろうとしますが、時政は娘政子と息子義時によって、政権から隠居させられます。
  2. 北条義時(ほうじょう よしときーNHK大河ドラマ『鎌倉殿と13人』の配役では、小栗旬)鎌倉前期の武将・政治家。第二代鎌倉幕府執権。北条時政の次男。頼朝挙兵に父・兄と共に参加し、以後頼朝の側近として活躍し、頼朝の死後は、北条氏の政権掌握に突き進み、父時政の室である牧の方一派の政権掌握の陰謀を姉政子とともに潰して、幕政の実権を握ります。そして執権政治の障害となる有力御家人排斥を徹底して独裁体制を固めた。その後後鳥羽院による公家政権の討幕行動を潰し、公家を完全に支配下におく事に成功した。
  3. 大江広元(おおえ ひろもとーNHK大河ドラマ『鎌倉殿と13人』の配役では、栗原英雄)鎌倉初期の幕府官僚である。彼の大江家は文章道、母方中原家は明法道を家学とする家柄で、広元も学問・法律に通じていた。頼朝に招かれて京より下向。頼朝の信任は厚く、常に幕府の中枢にあって数多くの政策にも関与し、幕府の基礎固めに尽力した。頼朝没後も、政子の信任を受け将軍側近としての立場を保持し、二代将軍頼家の下での宿老13名の合議制にも加わった。優れた事務官僚である彼は北条義時の執権政治の成立に貢献した。
  4. 三善康信(みよし やすのぶーNHK大河ドラマ『鎌倉殿と13人』の配役では、小林隆)鎌倉初期の初代問注所執事となり、訴訟事を管掌した。明法家で太政官書記を世襲する中級貴族の家に生れ、母は頼朝の乳母の妹。伊豆の頼朝に月三度京都の近況を報告しており、頼朝挙兵の契機を作った。京下り官僚の実務能力を買われ、大江広元とともに幕政の中核を担った。二代将軍頼家の専制に替わる御家人13人の合議制に積極的に加わった。『承久の乱』に際して、病をおして会議に参加し、大江広元と共に即時出撃を主張した。
  5. 中原親能(なかはら ちかよしーNHK大河ドラマ『鎌倉殿と13人』の配役では、川島潤哉)鎌倉初期の明法博士。鎌倉幕府の草創期から源頼朝に従い、武家方の貴重な能吏として信任を得て、在京して、九条兼実の摂政就任、平家追討などについて、頼朝の意を受けて、京の公家間を奔走している。そして平家追討の後、京都守護として六波羅に赴任する。また奥州征伐に従軍し、武人的行動もとるが、政所が設置されるとその公事奉行となり文官としての手腕を振う。その後出家するも、再任され、源家三代に仕え、京都で没する。
  6. 二階堂行政(にかいどう ゆきまさーNHK大河ドラマ『鎌倉殿と13人』の配役では、野仲イサオ)鎌倉初期、貴族出身の幕府官僚。幕府草創期から頼朝の側近として仕え、公文所設置とともにその寄人(よりゅうど)に任ぜられる。頼朝の奥州征伐に供奉し、政所の設置されると、令に任ぜられ実務にあたっている。訴訟に関して将軍の独裁を退ける13人の重臣による合議制が定められると、その13人の重臣の中に名を連ねて、娘を北条義時の室へ送り込むなど、北条家の執権体制の中に深く食込み足場をしっかり定めて、京都に没した。
  7. 梶原景時(かじわら かげときーNHK大河ドラマ『鎌倉殿と13人』の配役では、中村獅童)鎌倉初期の武将。『石橋山の合戦』で平家側に属し頼朝軍を打ち破るが、敗走した源頼朝を故意に見逃して窮地を救い、頼朝の信頼を得た。以後頼朝の下で奮戦し更に信頼を受けるが、屋島の合戦以後次々と戦功をあげる源義経と度々衝突し、終に義経を讒言して失脚をさせた。武将ながら官僚的な性格が濃く、権勢欲が強く、東国武士団の中で徐々に孤立をはじめ、頼朝の死後13人の合議制に入るものの、追放されて謀反を企てて滅亡する。
  8. 和田義盛(わだ よしもりーNHK大河ドラマ『鎌倉殿と13人』の配役では、横田栄司)鎌倉初期の武将。頼朝の挙兵に加わったものの、『石橋山の合戦』で敗走し共に安房へ逃げる。以後つねに頼朝に近侍し信頼を得る。拡大する鎌倉政権の中で、御家人統制の為の機関『侍所』の初代別当となる。頼朝の死後、北条氏の実権掌握に積極的に協力し、13人の合議制のメンバーの一人となった。しかし、北条時政失脚後、後継の北条義時暗殺計画への加担が表面化し、挙兵するものの敗死し、北条氏の執権体制が固まる事となった。
  9. 八田知家(はった ともいえーNHK大河ドラマ『鎌倉殿と13人』の配役では、市原隼人)鎌倉初期の武将。下野国の宇都宮一族に属し、父は源義朝、母は宇都宮朝綱の娘と言われ、頼朝の挙兵に馳せ参じ、平家追討では転戦し、文治元年には、頼朝の推挙を受けずに右衛門尉に任官し、頼朝の不興を買うが、奥州征伐では東海道軍の大将を務め、戦後北陸道管領の命を受けた。頼朝死後には、13人の合議制に参画し、重臣の仲間入りをし、承久の乱では執権北条義時とともに鎌倉に留まり後方の指揮に当った。頼朝の親族扱いか?
  10. 比企義員(ひき よしかずーNHK大河ドラマ『鎌倉殿と13人』の配役では、佐藤二朗)鎌倉初期の武将。源頼朝乳母比企尼の養子。頼朝挙兵に従い軍功をあげ、頼家誕生とともに乳母夫(めのとぶ)となる。頼朝の側近として軍功をあげて行き、娘を頼家の室とした。頼朝死後、子息を頼家に近侍させ、13人の合議制にも入り、権勢は北条氏を凌ぐようになって行った。将軍頼家の病が重篤になった折、その後継を巡って北条氏と対立し、北条時政に暗殺されて一族は滅亡し、頼家は将軍を降ろされ、北条が実朝を新将軍とした。
  11. 安達盛長(あだち もりながーNHK大河ドラマ『鎌倉殿と13人』の配役では、野添義弘)平安末・鎌倉初期の武将。源頼朝の配流時代から側近として仕えた御家人で頼朝の信頼は極めて厚い。鎌倉に政庁が開かれると重臣として重用され、奥州征伐に従軍し、その後頼朝の二度の上洛にも供奉した。盛長は鎌倉時代に隆盛を極めた安達一族の祖となった人物で、頼朝死後出家するものの、頼家の下で13人の合議制に一員ともなり、参河の守護も勤めて、幕政の中枢に存在し続け、梶原景時弾劾にも子息景盛と共に積極的に参加した。
  12. 三浦義澄(みうら よしずみーNHK大河ドラマ『鎌倉殿と13人』の配役では、佐藤B作)鎌倉初期の武将。頼朝の挙兵に一族をあげて参戦したが、途中で一旦蹴散らした畠山重忠に逆襲され海上に逃げて、安房国へ敗走する頼朝軍と合流し、その後一緒に鎌倉入りした。平家追討では、範頼軍から分かれ、義経軍の先鋒を務めて壇ノ浦に平家を破った。奥州征伐でも軍功をあげ、実朝が生まれると御家人12人とともに、頼朝より実朝の守護を命じられた。頼朝の死後は、頼家の下、13人の合議制のメンバーにも選ばれた。
  13. 足立遠元(あだち とおもとーNHK大河ドラマ『鎌倉殿と13人』の配役では、大野泰広)鎌倉初期の武将。武蔵国足立郡を本拠地とする在地武士で、平治の乱には源義朝に従っている平安時代以来の源氏の家人であった。頼朝の挙兵に従い遠元は頼朝に扈従して鎌倉入りし、足立郡郷領掌の命を受けている。頼朝の公文所創設にあたってその寄人となり、以来幕政に参与する御家人の一人となった。頼朝の死後、頼家の下で13人の合議メンバーにも選ばれたが、以後名前がなく、北条氏に取入るのは失敗したものと考えられる。

 

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源頼朝の側近だった梶原景時(かじわら かげとき)の失脚はなぜなの?

梶原景時は、前章にあるようにもともと相模の大庭景親(おおば かげちか)の一族でしたが、挙兵した源頼朝を平家の先兵として『石橋山の合戦』で破った際、故意に見逃して頼朝を助けて、後日頼朝軍に参陣しました。

 

以来、頼朝に寄り添って軍功を上げ続け、頼朝の大きな信頼を得て側近として重きを成して行きます。

 

しかし、平家追討の『屋島の合戦』の際、総大将の源義経と軍評定で作戦を巡って諍いとなり、以後対立を深め、平家滅亡後に義経と朝廷との関係を景時が頼朝に讒訴して、それがもとで義経は失脚してしまいます。

 

上手く頼朝を丸め込んで信頼厚い景時でしたが、その官僚的な性格と強い権勢欲のため、他の重臣たちとの関係も良くはありませんでした。

 

頼朝の死後、頼家の13人の宿老のひとりに選ばれ、幕府内で大きな力を持っていましたが、北条義時と同じ頼朝の「祗候衆(しこうしゅう)」のひとりであった結城朝光(ゆうき ともみつ)を、頼家に叛意を持つ者として讒訴し、これが諸将の大きな反発を招きました。

 

義経に対して有効だった讒訴と言うやり方は二度目には通用せず、結果、有力御家人66人からなる景時に対する弾劾状が出され、梶原景時は鎌倉から追放されました。

 

その後、甲斐の武田有義を擁立して、京都で鎌倉幕府に対抗しようと京都へ向かいますが、途中駿河国で幕府御家人に討ち取られ、一族は滅亡してしまいました。

 

頼朝をだませた景時でしたが、北条義時ら東国武士たちは景時の性格を見抜き、騙されることはなかったようです。

 

 

 

・・・と通説的な理解ではそのようになっています。

 

しかし、ここにも頼朝の死後明確な目的をもって動き出した「北条の手」があるとも言います。

 

廿七日、丙戌、晴、女房阿波局、結城七郎朝光に告げて云ふ、景時の讒訴に依りて、汝已に誅戮を蒙らんと擬す、其故は、忠臣は二君に事へざるの由述懐せしめ、當時を謗り申す、是何ぞ讐敵に非ずや、傍輩を懲粛せんが爲に、早く断罪せらる可きの由、具に申す所なり、

 

(引用:龍肅訳注『吾妻鏡(三)正治元年十月の条 191頁』1996年 岩波書店)

大意は、”

正治元年(1199年)10月27日、晴、阿波局が結城朝光に話して言うには、『梶原景時の讒訴によって、すでにあなたは討ち取られようとしています。その理由は、「(朝光が)忠臣と言うものは二君には仕えないものだ。頼朝公が亡くなられた時に出家すべきであったと自分を攻めているのです。これは敵対行為に相違ありません。同僚ではありますが、早く断罪を下すべきです。」と詳しく述べているのです。』

”位の意味です。

 

とあり、北条政子の妹である阿波の局(あわのつぼね)が27日になって、結城朝光に「あなたの25日の発言を、梶原景時が謀叛の表れだと源頼家に讒言して、あなたを誅殺しようとしていますよ」とそっと耳打ちしています。

 

びっくり仰天した結城朝光はすぐに三浦義村へ相談し、あっと言う間に「梶原景時弾劾」へ事態が進んでゆきます。

 

北条家が、第二代将軍源頼家を取り込んでいる比企義員(ひき よしかず)から、同じ頼家派の有力者梶原景時を潰しにかかった陰謀であると疑えそうな状況ですね。

 

 

頼朝の乳母一族だった比企義員(ひき よしかず)の失脚はなぜなの?

前述までにあるように、第二代将軍源頼家の側室若狭局(比企義員の娘)が男子(一幡)を生んでおり、頼朝の乳母である比企尼の甥である比企能員が乳母夫(めのとぶ)となっています。大病を得た頼家はこの一幡(いちまん)を後継者として考えていました。

 

ところが、頼家の正室には父頼朝が賀茂重長の娘を選んでおり、本来その子公暁(くぎょう)が後継者であるべきでしたが、頼家の乳母夫である比企能員が娘の若狭局の生んだ一幡を後継者に据えようと画策していた訳です。

 

頼朝の寵愛を比企氏と分けていた頼朝正室政子の実家である北条氏は、頼家の弟である千幡(せんまんー後の実朝)を取り込み、大病を患った頼家の後継者に推していました。

 

北条時政は、前章にあるように、先ず比企氏に近い有力者の梶原景時を葬り去り、次に頼朝との縁を口実に自分の娘若狭局の子一幡を後継者に据えようとする比企一族の排除に踏み切りました。

 

 

さて又、關東將軍の方には、賴家又叙二位左衛門督に成て、賴朝の將軍があとに候けれは、範光中納言辨ならし時、御使につかはしなどして在ける程に、建仁三年九月の比ほひ、大事の病をうけてすでに死んとしけるに、比企の判官能員 阿波國の者也 と云者の女を思て男子をうませたりけるに六に成ける一萬御前と云ける、

それに皆家を引うつして能員が世にてあらんとてしける由を母方の伯父北條時政遠江守に成て在けるか聞て、賴家が弟十(千歟)萬御前とて賴朝も愛子にて有し、それこそと思て同九月廿日能員をよひとりて、やがて遠景入道に志めいだかせて新田四郎にさし殺させて、やがて武士をやりて賴家が病ふしたるをは、自元廣元かもとにて病せてそれにすえてけり、

さて本體の家にならひて、子の一萬御前かある人やりてうたんとしけれは母いだきて小門より出にけり、されどそれに籠りたる程の郎等の耻有は出ざりければ皆うち殺てけり、

 

(引用:近藤瓶城『改訂 史籍集覧 第二冊 所収「愚管抄 巻六」178~179頁』1967年 史籍集覧研究會)

 

大意は、”

さて、関東の将軍については、源頼家が正二位左衛門督を叙任し、頼朝の後の征夷大将軍となり、藤原範光が権中納言になる時にその御使者となられた。建仁3年(1203年)9月の頃、頼家は大病となり、既に亡くなろうとしていた時、

比企能員は、頼家後継を娘若狭局の生んだ一萬に決めて、政権を自分の物にしようとするのを、頼家の伯父になる北条時政が、頼家の弟である千萬も頼朝の息子であり、これを後継としたいと思った。そこで、同9月20日に比企能員を呼び寄せて、天野遠景・新田忠常に殺害させ、兵を出して御所に寝ている頼家を大江広元の屋敷へ移動させた。

そして、比企舘の一萬の殺害に及んだが、母の若狭局が抱えて脱出し、立て籠もっていた一族郎党は籠っていては武士の恥とばかりに打って出て皆殺しになった。

”位の意味です。

 

このように北条時政は、比企家当主の比企能員を暗殺し、比企一族を後継候補の一萬ごと皆殺しにしようとしました。その時、一萬は逃がしましたが、頼家は捕らえて修善寺に軟禁し、11月3日には北条義時が兵を出して、一萬を捕らえて殺害し、翌元久元年(1204年)7月18日に伊豆修善寺にて頼家も殺害してしまいます。

 

こうして北条時政は比企一族を排除して、幼い千萬(実朝)を将軍に据えてその後見の執権(しっけん)として鎌倉幕府の実権をわが物とします。

 

このクーデターはなぜか「北条の変」ではなくて、歴史上は「比企の乱」として記憶されています。

 

比企氏も北条氏も、源頼朝の死と共に鎌倉幕府内の実権争いに突入し、格上で実力の勝る比企氏を北条氏が陰謀で倒した結果、実力者比企能員は失脚させられてしまいました。

 

 

関東武士団はなぜ『源氏』を捨てたの?

通説では、源頼朝が朝廷との関係を重視しながら幕政を動かしていたのに対して、2代目将軍の頼家を排除して幕政を握った後の北条氏は、頼朝と違って当初の「東国独立国」の構想通り京都から独立した運営を進めて行き、最終的に用済みの源氏一族を幕政から排除の方針だったと言うのがあります。

 

事態の流れを見てみますと、、、

 

独裁であった源頼朝の死去で、2代目となった後継源頼家(よりいえ)の政権は、ほどなく「13人の宿老の合議制」へ移行し、その宿老の内部対立の進行により、前章にある「比企の乱」をもって比企氏に取り込まれた将軍頼家は北条氏に排除され弟の実朝(さねとも)が将軍となって行きます。

 

建仁3年(1203年)に源実朝は第3代将軍に就任しましたが、まだわずかに12歳に過ぎませんでした。よって、政治の後見と言うか、将軍代行には宿老筆頭の北条時政がなり、事実上幕政の実体は本来の棟梁源氏ではなくて、「関東武士団」が運営する形になりました。

 

ところが、成長するに従って実朝は京の朝廷・後鳥羽上皇との関係を深めて行き、幕政に対して将軍の親政を実行し始めます。

 

ここで通説では、建暦3年(1213年)の「和田合戦」で和田義盛を追い落として、政所別当(まんどころべっとう)と侍所別当(さむらいどころべっとう)を兼任して事実上「執権(しっけん)職」となった北条義時は、後鳥羽上皇が実朝を通じて幕府支配をしようとする危険性を感知し、京都と仲良くなり過ぎた将軍実朝の排除を考え始めたとあります。

 

実際は、あくまで慎重な北条義時は、未だ鎌倉殿である実朝の将軍の権威に大きな力がある事を理解しており、その権威を利用しながらも実朝の独走を許さないという方針で、実朝も実力者北条氏を外せないものの、幕政の実権は渡さないと言う微妙なバランス状態であったと考えられます。

 

実朝の問題点は、京より室を得てから12年も経過するも後継者が生まれず、又側室も設けないことで、北条政子と義時は4代将軍問題で「親王将軍構想」をもって動いていました。この二人には、後継者騒動を引き起こす危険を避けるため・北条氏の幕府内での影響力を継続させるためにも、もうこの時点では源氏の後継者を探す事は選択肢になかったようです。

 

建保7年(1219年)正月27日夜に、現代の歴史教科書にも載っている天下を揺るがす大事件が出来します。。。

 

宮寺の楼門に入らしめ御ふの時、右京兆俄かに心神御違例の事有り、御劔を仲章朝臣に譲りて、退去し給ひ、神宮寺にてに於て御解脱の後、小町御亭に歸らしめ給ふ、夜陰に及びて、神拝事終りて、漸く退出せしめ給ふの處、當宮の別當阿闍梨公暁、石階の際に窺ひ來り、劔を取りて丞相を侵し奉る、

 

(引用:龍肅訳注『吾妻鏡(五)承久元年正月の条 170頁』2008年 岩波書店)

 

大意は、”

正月拝賀の儀式の為に、鶴岡八幡宮の楼門をくぐった時、北条義時は急に体調を崩し、御剣を藤原仲章に渡して、八幡宮本殿に参拝の後、小町の屋敷に帰宅した。夜になって、正月の拝賀の儀式が終わって、やっと皆が出て来たところで、鶴岡八幡宮別当の公暁(くぎょう)が、石段の脇に隠れていて、剣で実朝を刺し殺した

”位の意味です。

 

前述のように、正に北条義時が恐れていた、「後継争いを起さないために、鎌倉将軍の跡目を源氏の係累には継がせない」と言う決め事の咎めが出てしまいました。つまり、この公暁(頼朝の正室の子で出家していた人物)が、頼家の跡目を継ぐのは源氏の血筋の自分だとばかりに、3代目の実朝を暗殺してしまいました。

 

この事件が、偶然なのか、北条氏による陰謀なのかは未だに不明ですが、黒幕は北条義時だと言う噂があります。タイミングが良すぎるために、北条氏の陰謀が疑われています。

 

しかし、このやり方は何事にも慎重な北条義時には違和感があるような気もしますので、真相は未だに不明です。

 

結果として、この事件により一度は合意した『親王将軍(しんのうしょうぐん)』は沙汰やみとなりましたが、結局後鳥羽上皇は「摂家の子弟ならば」と妥協し、その後は『摂家将軍(せっけしょうぐん)』が続いて行く事になりました。

 

いずれにせよ、こうして源氏の正嫡将軍から、傀儡の摂家将軍へと変わって行き、北条氏の執権体制が本格的にスタートして行きます。結果的に東国武士団によって、源氏が捨てられた形となりました。

 

 

まとめ

日本は、ヨーロッパ列強諸国と違って、長く天皇(他国では王様・皇帝など)親政はなく、天皇を奉戴して平安時代は貴族(五摂家)、鎌倉時代以降は武家が政治を行う「公武合体政治」のような形で国が治められていたと漠然と考えていました。

 

つまり、天皇の権威で(天皇の名前で)命令を下すが、それは形だけで政治の実体はすべて貴族、或は武家が握ると言う理解でした。

 

どんな叛乱を起すにしても、頭に天皇さえ担いでおけば、国民の信は得られる(正当化出来る)と言う考え方でしょうか。明治維新の薩長もそうでしたね。

 

そこで、、、

 

『国史大辞典』で語られる「武家政権」の説明の中で、『権門(けんもん)』と言う単語が出て来ます。これは以前から目にはしていましたが、大寺院(延暦寺、興福寺など)の事か~くらいに思っていました。

 

ここで思い返すと学校の歴史授業では、源頼朝を棟梁として武士が団結して作った「鎌倉幕府」と言うのは、「武家が政権を打ち建てた」⇒「天皇・朝廷の政治から武家の政治に替わった」と教えられて来ましたが、実は、頭に天皇がいてその下にある諸権門のひとつとして「鎌倉幕府」を、朝廷が認めたに過ぎないと言う理解が示されました。

 

陰謀の怪物のように「後白河法皇」が描かれていることをよく目にしますが、こう言われるのは、後白河法皇の事を「政権を獲った武家を自分に有利に動かそう・大きな利益を得ようと悪知恵を働かし人を騙す悪党」と考えるからだと思います。

 

しかし、「天皇」である後白河法皇にしてみれば、鎌倉幕府は力のある居並ぶ「権門」のひとつに過ぎないのです。だから、権門同志を権謀術策を使って争わせて自分に有利なように働かせるのは、普通の政策を仕掛けているだけなのです。

 

つまり、時の権力者にすり寄ったり騙したりをやっている訳ではなく、あくまでも政治の権力者は「天皇」の地位にある自分(後白河法皇)なのです。どこまでも「天皇」である彼(後白河法皇)の立場にある者が、絶対的権力者だと言う認識は変わらないようです。

 

これが大きく変わったのは、戦国時代に長らく権門のただの雇人だったはずの武士があちらこちらで独立して権門の所領を横領し、誰も制度上の「天皇」の権利を認めなくなって、朝廷が毎日の食事にも困り始めてからだと思われます。

 

簡単に言えば、各権門が自衛のために持っていた私兵が独立したのが武士で、鎌倉以前は権門の私兵として存在していただけの武士が、集団となって権門として認められた訳です。

 

こうした前提に立って、源氏の第2代目の将軍時代を迎えた鎌倉幕府の行方ですが、初代の頼朝の方向性は結局権門のひとつとして朝廷に認知させて、権門は権門らしく、自身は平清盛のようにどんどん貴族化してゆくようでした。

 

北条氏による鎌倉幕府も、頼朝のように朝廷にすり寄ることとは決別したものの、所詮この「権門のひとつ」から抜け出る様子はないようでした。

 

しかし、「源氏」からの脱出には成功し、源氏抜きで朝廷に干渉させずに関東武士団としての独立を成功へ導いて行く事が出来たようです。

 

北条氏は頼朝に寄り添いながら、その死後に幕府内の対抗勢力を叩き潰して行くことに成功し、朝廷とも妥協してその存在を認めさせて、その後の「承久の変」で朝廷の反幕勢力を一掃して、北条氏の長期政権を確立しました。

 

ここでは、肝心の『承久の変』に関して触れていませんが、頼朝の打ち立てた鎌倉幕府を北条が武家政権として安定化させてゆく過程がよく分かるかと思います。

 

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参考文献

〇本郷和人『鎌倉殿と13人の合議制』(2022年 河出書房新社)

〇国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第3巻』(1983年 吉川弘文館)

〇国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第5巻』(1985年 吉川弘文館)

〇安田元久『鎌倉・室町人名辞典 コンパクト版』(1990年 新人物往来社)

〇龍肅訳注『吾妻鏡(三)』(1996年 岩波書店)

〇清水清『甦る比企一族』(1996年 比企一族顕彰会)

〇近藤瓶城『改訂 史籍集覧 第二冊』(1967年 史籍集覧研究會)

〇呉座勇一『頼朝と義時』(2021年 講談社)

〇龍肅訳注『吾妻鏡(五)』(2008年 岩波書店)

 

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