『鎌倉幕府成立の年』のゴロ合わせによる覚え方ー『1185年』編です❕

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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1185年鎌倉幕府成立の年の覚え方
1185年に起きた主な出来事が分かります
『文治勅許』のいきさつが分かります
梶原景時義経讒言の様子が分かます

1185年(寿永4年/文治元年)に鎌倉幕府が成立したとした場合の『(語呂合わせ)覚え方』

いいはこ つくろう かまくらばくふ(いい箱 作ろう 鎌倉幕府)
   1 1 8 5  作ろう     鎌倉幕府
これは現在の一般的な語呂合わせ。
『文治勅許(ぶんちのちょっきょ)』により、後白河法皇が頼朝に「地頭」の設置を認めたことから、近年多くの歴史学者が支持して、この年1185年を鎌倉幕府成立の年として中学校の教科書が載せています。
よりとも いいとも だん(頼朝 いいとも 梯子段)
  頼朝      11        8   5
かまくら いいとこ だん(鎌倉 いい所 梯子段)
  鎌倉     1  1      8    5
いちいち はこつむ かまくらばくふ(いちいち 箱積む 鎌倉幕府)
  1 1     85           鎌倉幕府
ひとひと へいけつぶれて かまくらばくふ(人々 梯子 平家潰れて 鎌倉幕府)
     1 1  8   5      平家つぶれて           鎌倉幕府
この年3月に、源頼朝の宿敵平家一門が『壇ノ浦の戦』で滅亡していることも、重要事項と思われたので入れ込みました。
ひとひと かまくらばくふ(人々 梯子 鎌倉幕府)
    1 1   8    5     鎌倉幕府

(画像引用:源頼朝の墓ACphoto)

1185年(元暦2年/文治元年)には何があったの?

元暦2年(1185年)2月19日『屋島の戦』義経勝利

頼朝の弟である源範頼(みなもと のりより)義経(よしつね)の鎌倉軍は、前年の寿永3年(1184年)1月20日に木曽義仲(きそ よしなか)を破り、都の混乱の隙をついて西国より上洛を目指した平家軍を、2月7日に摂津国『一の谷の戦』で破って、平家再上洛の目論見を阻止しました。

 

その後の平家との和平交渉は決裂し、義経は頼朝より京都守護を命ぜられて在京し、範頼は鎌倉へ帰還し、後白河院の強い要請のある平家追討は、土肥実平(どひ さねひら)梶原景時(かじわら かげとき)に命ぜられ、鎌倉軍の平家追討は6月以降に、西国での平家との戦いが本格化しました。

 

ところが、西国での平家との戦闘は思わしくなく、元暦元年(1184年)7月3日に頼朝は義経を応援に出す事を決めますが、7月7日に京都の喉元の伊賀・伊勢で平氏の叛乱が起こり、義経はその対応に追われます。

 

そこで、頼朝は、鎌倉に戻っている範頼を再度援軍として差し向けます。そして範頼は、苦戦しながらも豊後の九州武士の協力を得てやっと周防から九州へ進出し、翌年元暦2年(1185年)2月1日には、筑前国葦屋浦(あしやうら)で平家軍を破り、北九州を制圧します

 

しかし、その戦勝の報が届く前に、範頼軍の苦戦の状況にせっつかれるように、京の朝廷の意向を受けて、頼朝の意向を確認する事もなく義経は、畿内の寄せ集め軍を率いて、すでに正月10日、四国への出陣に踏み切っていました。

 

四日、丁亥、天晴、去月十六日、隆職注送追討之間事、自義経許申上状云々、去月十六日解繿、十七日着阿波國、十八日寄屋島、追洛凶黨了、然而未伐取平家云々、

 

(引用:國書刊行會『玉葉 第三  元歴二年三月四日の条 69頁』1971年 名著刊行会)

大意は、”

元暦2年(1185年)3月4日、快晴、大夫史小槻隆職(たいふし おづき たかもと)が、義経(よしつね)からの戦闘報告書を持って来た。

それによると、義経は先月2月16日に(渡辺津より)出航し、17日に阿波国へ到着した。18日に屋島へ攻め入り平家を追い払ったが、平家を討伐するには至らなかった由、

”位の意味です。

 

鎌倉幕府の公式文書である『吾妻鏡』には、18日の夜半に阿波から山越えして、19日朝8時頃平家の根城の屋島へ攻め入ったとあり、1日のずれはありますが、まず18日か19日に義経は平家の拠点屋島の舘を攻め落としたようです。

 

元暦2年(1185年)3月24日『壇ノ浦の戦』義経勝利、平家滅亡

鎌倉幕府の公式文書『吾妻鏡』によれば、、、

 

廿四日、丁未、長門國赤間關壇浦の海上に於て、源平相逢ひ、各三町を隔てて舟船を艚ぎ向ふ、平家五百餘艘を三手に分け、山峨兵藤次秀遠、幷びに松浦黨等を以て大將軍と爲し、源氏の將帥と挑戦す、午剋に及びて、平氏終に敗傾す、

 

(引用:龍肅『吾妻鏡 (一)文治元年三月廿四日の条 178頁』 2008年 岩波書店)

十一日、・・・(中略)・・・、西海の飛脚參じ、平氏討滅の由を申す、延尉一巻の記を進ず、

是去月廿四日、長門國赤間關海上に於て、八百四十餘艘の兵船を浮べ、平氏又五百餘艘を艚ぎ向けて合戰す、午剋、逆黨敗北す、

 

(引用:龍肅『吾妻鏡 (一)文治元年四月十一日の条 180頁』 2008年 岩波書店)

大意は、”

元暦2年(1185年)3月24日、長門国赤間関(山口県下関市)の壇ノ浦の海上にて、源平が激突した。お互いに300m強くらいの距離を隔てて対戦した。

平家は500隻余の舟を三手に分けて、大将を山鹿兵藤次秀遠(やまが ひょうどうじ ひでとう)と松浦党(水軍ー海賊)を大将軍として、源氏と対戦させた。

正午頃には平氏は敗北した。

・・・(中略)・・・

4月11日、・・・(中略)・・・、西国からの飛脚が鎌倉に到着し、平家滅亡の事を頼朝に報告し、義経の報告書を提出した。

それによれば、3月24日、長門国赤間関(山口県下関市)の壇ノ浦の海上にて、義経は840隻余の軍船を用意し、平家の500隻余の軍勢と合戦を行い、正午頃に平家は敗北した。

”位の意味です。

 

このように、2月19日に平家の本陣を四国の屋島から追い払い、その勢いで、熊野水軍と河野水軍を味方につけることに成功した義経は、本来兄範頼の攻撃対象である西の平家本陣『彦島』を目指した進軍を続けました。

 

範頼率いる東国武士団に九州を占領され、逃げ道を失った平家軍は、東から『彦島』の本陣へ向かって来る義経の水軍に長門国壇ノ浦(関門海峡付近)で、平家が得意とする海戦を挑みます。

 

しかし、元暦2年(1185年)3月24日、長門国赤間関(山口県下関市)の壇ノ浦の海上にて、熊野水軍・河野水軍の援軍を得て数に勝る義経源氏水軍と戦い、善戦虚しく殲滅されてしまいました。

 

これにより、平家の主力は全滅して、平家軍の組織的な軍事力は消滅しました。

 

この頼朝の宿願でもあった平家討滅は、頼朝政権にとって画期的なものとなりました。

 

文治元年(1185年)10月6日梶原景季鎌倉へ帰還し、頼朝に義経を讒訴(ざんそ)?

これに関しては、頼朝の叔父源行家(みなもと ゆきいえ)が、当初以仁王(もちひとおう)の宣旨を以て全国の源氏を動かしたのは自分だと言う自負から、成功した頼朝が自身を重用しない事に大きな不満と反感を持っていることが底流にあります。

 

平家滅亡を迎えたこの時期に、まったく頼朝幕府に協力しようとせず、頼朝の命にほぼ服しなかったどころか謀反の動きすらみせる行家に、鎌倉御家人の中からも行家誅伐の声があがり、梶原景時の息子景季(かげすえ)が文治元年(1185年)9月2日に上洛した折、義経に行家討伐の頼朝の内意を伝えに行きますが、まだその時に非ずと断っています。

 

10月6日に、その梶原景季が京都より鎌倉へ帰還し、京都での義経とのやり取りの詳細が明らかになります。。。

 

六日、乙卯、梶原源太左衛門尉景季、京都より歸參す、御前に於て申して云ふ、伊豫守亭に參向して、御使の由を申すの處、違例と稱して對面無し、仍って此密事、使を以て傳ふる能はず、旅宿 六條油小路 に歸り、

一兩日を相隔てて又參ぜしむるの時、脇足に懸り乍ら相逢はる、其體誠に以て憔悴して、灸數ヶ所有り、而して試に行家追討の事を達するの處、報ぜられて云ふ、所勞更に偽らず、・・・(中略)・・・、

二品仰せて曰く、行家に同意するの間、虚病を構ふるの條、已に以て露顯すと云々、景時之を承り、申して云ふ、初日に參るの時面拝を遂げず、一両日を隔つるの後見參有り、之を以て事情を案ずるに、一日食はず、一夜眠らずば、其身必ず悴る、灸は又何箇所と雖も、一瞬の程に之を加ふ可し、況や日數を歴るに於てをや、然らば一兩日の中に、然る如きの事を相構へらるるか、同心用意ある分、御疑貽に及ぶ可らずと云々、

九日、戊午、伊豫守義經を誅す可きの事、日來群議を凝さる、

 

(引用:龍肅『吾妻鏡 (一)文治元年十月の条 215~216頁』 2008年 岩波書店)

大意は、”

文治元年(1185年)10月6日、梶原景季(かじわら かげすえ)が京都より鎌倉へ帰着した。頼朝との前に出て報告して云うには、「義経殿の舘へ出向き、頼朝樣からの使者である旨告げたところ、病気と称して会えず、その日は頼朝樣からのご命令を伝えることが出来なかった。

六条油小路の宿舎へ帰り、二日後に再訪したところ、脇息に寄りかかった義経殿と面談出来た。その様子は憔悴していて、お灸の跡も数ヶ所あった。そして試しに行家追討のご命令を伝えたが、病気の様子は変わらず・・・(中略)・・・、」

それを聞いて頼朝が言うには、「義経は、行家に同心しているので、仮病を装ったのだろう。これで事は露顕したなぁ」とこれを聞いていた梶原景時(かじわら かげとき)が重ねて言うには、「訪問初日に面談を断り、2日後に面談した。これを聞いて事情を察するに、一日絶食し、一日睡眠しなければ、体は必ず憔悴する。お灸の跡が何カ所あってもそれはすぐに出来るはずで、2日置いているのだから、そんなことはいくらでも作れることだ。御謀叛の疑いは間違いないところです。」と。

10月9日、義経を追討することが決議された。

”位の意味です。

 

このように、梶原景時は息子景季の報告を因に、頼朝に「義経謀叛の疑い」を煽り立て、義経追討を強く要請していることが明らかになります。本来重臣の立場なら、仮に義経に不審の動きがあったとしても、頼朝・義経の兄弟の行き違いをまとめて源家安泰の方向へ持って行こうとするのが役目だろうと思われますが、権勢欲の強い梶原景時は、自分の思い通りにならない生意気な若造である義経を、これを好機として排除する考えで事を進めていたとも考えられ、後年の豊臣政権内での石田三成のような所行とも言えそうです。

 

 

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文治元年(1185年)11月25日、院より頼朝に「義経追討の宣旨」が下る

前項にあるように、頼朝の源行家追討の命令に難色を示した義経に対して、梶原景時の讒言もあり、頼朝から義経追討の動きが始まりました。

 

これに対応して、義経は直ちに仙洞御所に出向き、10月18日付にて後白河院から「頼朝追討の院宣」を得て挙兵し、畿内で募兵を始めました

 

ところが思いの外、軍勢は集まらず、10月29日、頼朝が鎌倉を発し上洛の途に就くと、義経は頼朝軍に太刀打ち出来ず、京を脱して四国へ決断をしますが、11月6日荒天をついて摂津国大物浜から出航しようとしたところ、舟は浜で転覆して果たせず、集まった軍勢は散り散りになってしまいました。

 

十五日、甲午、大藏卿泰經朝臣の使者參著す、刑を怖るるに依りてか、直ちに營中に參らず、先づ左典厩の御亭に到り、狀を鎌倉殿に獻せらるるの由を告げ、又一通を典厩に獻ず、

義經等の事、全く微臣の結構に非ず、只武威を怖れて傳奏する許なり、何様の遠聞に及ぶや、世上の浮説に就きて、左右無く鑽れざるの様に、宥め申さる可しと云々、典厩使者を相具して、子細を達し給ふ、府卿の狀を披露し、俊兼之を讀み申す、

其趣、行家、義經謀叛の事、偏に天魔の所爲たるか、宣下無くば、宮中に參じて、自殺す可しの由言上するの間、當時の難を避けんが爲、一旦勅許有るに似たりと雖も、曾て叡慮の璵る所に非ずと云々、

是偏に天氣に傳ふるか、二品返報を投ぜられて云ふ、行家、義經謀叛の事、天魔の所為たるの由、仰下さる、甚だ謂無き事に候、天魔は佛法の爲に妨を爲し、人倫に於て煩を致す者なり、賴朝數多の朝敵を降伏せしめ、世務を君に任せ奉るの忠、何ぞ忽ち反逆に變じ、指せる叡慮非ずして、院宣を下されんや、行家と云ひ、義經と云ひ、召取らざるの間は、諸國衰弊し、人民滅亡せんか、仍って日本第一の大天狗は、更に他の者に非ざるかと云々、

 

(引用:龍肅『吾妻鏡 (一)文治元年十一月の条 230~231頁』 2008年 岩波書店)

 

大意は、”

文治元年(1185年)11月15日、後白河院の側近である大蔵卿高階泰経(たかしな やすつね)の使者が鎌倉に到着した。頼朝からの叱責を恐れるあまり、まっすぐ頼朝の御所に行かず、先ず左典厩(さてんきゅうー左馬寮の長官)の舘へ出向いた。院からの頼朝への書状であることを告げ、控えの一通を長官に提出した。

「義経の事であるが、自分は(泰経)全く取るに足らない小役人に過ぎず、義経の武力を怖れて御取次をした迄の事、どんな風聞があるのかわからないが、情報も集まっていない状態で、なんとか穏便に」とか、左馬寮の長官は使者を伴って頼朝の御所に行き、様子を説明して泰経卿の書状を提出した。頼朝近侍の右筆(ゆうひつ)藤原俊兼(ふじわら としかね)がこれに目を通した。

その書状の主旨は、「源行家・義経謀叛の事、これは天魔のせいである。頼朝追討の宣旨を出さねば、御所に参内して自殺してやると脅され、難を避けるために勅許に似たものを出したが、これは決して院の本意ではない」とか。

これは、院の本意を伝えたものなのか、頼朝が返事をして言うには、「院が、行家・義経謀叛の事は、天魔のせいであるとか言われているとか。これは全く道理に合っていない話である。天魔と言うものは、仏法を妨げ、人の道を惑わす者、つまりあなた(後白河院)である。頼朝は幾多の朝敵を攻め亡ぼし、政事を院にお任せすると言う忠孝を成している。それをどうしてあっさり裏切って、するべき判断もせずに、頼朝追討の宣旨などを出したのか。行家も義経も捕まえねば、諸国は衰え人民は死んでしまうではないか。と言う事は、『日本第一の大天狗(日本一の大悪党)』は、後白河院ではないか。

”位の意味です。

 

とこのように、義経の挙兵失敗を見て取った後白河院は、慌てて今度は「義経追討の宣旨」を11月25日になって出した訳です。

 

後白河院は義経に「頼朝追討の宣旨」を出したかと思えば、今度は頼朝に「義経追討の宣旨」を出すと言う、手のひら返しの荒業を見せました。

 

しかし、政事は朝廷が行うものと言う前提で、朝廷にとって武家と言うものは単なる馬に過ぎず、使えないと思えば簡単に乗り換えると言う公家の本音を、あからさまに見せている後白河院は、当時の朝廷の考え方を示していて興味深いところです。

 

文治元年(1185年)11月29日、院より頼朝に「地頭の補任権を与える宣旨」が下る(文治勅許)

前項にあるように、後白河院は11月15日に鎌倉へ使者を立て、「頼朝追討の院旨」を義経に出した言い訳をしたわけですが、頼朝の院に対する怒りは収まらず、院の責任を問うために、10月24日に舅の武人北條時政に兵1000を付けて急遽上洛させました

 

廿四日、・・・(中略)・・・、

此日、隆職來、賴朝宣下之間事、頗有忿怒之氣之由、上洛武士所申也云々、

傳聞、賴朝妻父、北條四郎時政、今日入洛、其勢千騎云々、近國等可爲件武士之進止之由、閭巷謳歌

 

(引用:國書刊行會『玉葉 第三  文治元年11月24日の条 117~118頁』1971年 名著刊行会)

 

大意は、”

文治元年(1185年)11月24日、・・・(中略)・・・、

この日、小槻隆職(おづき たかもと)がやって来た。「頼朝追討の宣旨」を出した事に関し、頼朝は激しく怒っていると上洛して来た武士が申しているとか、

伝え聞くに、頼朝の舅北條時政(ほうじょう ときまさ)が、今日兵1000騎を引連れて上洛して来たとかで、畿内に於いては、その武士などは支配され、軍勢は街道を自由に進んでいると。

”位の意味です。

 

また、、、

 

廿八日、丁未、諸國平均に守護地頭を補任し、権門勢家庄公を論ぜず、兵糧米、段別五升、を宛て課す可の由、今夜北條殿、藤中納言經房卿に謁し申すと云々、

廿九日、戊申、北條殿申さるる所の諸國の守護地頭兵糧米の事、早く申請に任せて御沙汰有る可きの由、仰下さるるの間、帥中納言、勅を北條殿に傳へらると云々、

(引用:龍肅『吾妻鏡 (一)文治元年十一月の条 233頁』 2008年 岩波書店)

 

大意は、”

文治元年(1185年)11月28日、諸国の守護地頭の補任し、権門勢の荘園支配とは関係なしに、兵糧米を段別で五升課税する権限を与えるように、今夜北条時政が藤原経房(ふじわら つねふさ)卿へ謁見して上申するとか、

11月29日、北条時政殿から要求のあった、諸国の守護地頭の補任権限と、兵糧米の徴収権を申請通り、勅許するとの事が経房卿から北条殿に伝えられるとか。

”位の意味です。

 

ここで、『吾妻鏡』に”勅を北條殿に傳へらる”と記載があり、後白河院の『勅許』があったことは間違いないようで、頼朝は朝廷より、全国の地頭の任命権を得て大きな力を認められました。

 

これを『文治勅許(ぶんちのちょっきょ)』と言って、鎌倉幕府の権力基盤が一段と強化されて行った事が分かります。

 

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まとめ

昭和の時代には、鎌倉幕府の成立は『いい国作ろう鎌倉幕府』として、学校で『1192年』と覚えさせられましたが、近年は『1185年』であると変わってきているようです。

 

しかし、当時の武士に『武家政権を作る』とか『幕府を作る』と言った目的意識はあまりなく、鎌倉幕府の公式文書である『吾妻鏡』の文治5年6月5日の条に、、、

 

『夜に入りて、江大夫判官公朝、仙洞の御使として参向の由、因幡前司に相觸る、因州先づ家中に招請せしめて、幕府に参じ申すと云々、』とやっと出て来るのが、『幕府』と言う単語の初出です。

 

こうした事から、源頼朝が征夷大将軍に任官した『1192年』か、対抗馬の平家を滅亡させて、朝廷が頼朝に大きな人事権(地頭補任権)を与えた『1185年』のどちらを鎌倉幕府成立の年とみるのかは、はっきり決め切ることが出来ない状況です。

 

つまり今のところ、学会でもはっきり断定が出来ないため、入試関係のテストでは『鎌倉幕府成立の年』を問う問題はまず出題されないと言う事になるわけです。

 

『覚え方』の章では、新しい『覚え方』を考えてみました。ここで出した「はしご」は、鶴岡八幡宮のあの目立つ大きな階段をイメージしてみました。

 

また、1185年の平家滅亡も大きなトピックスですので、覚え方の中に入れてみました。

 

1185年の出来事の中で、大きなものは、

 

  1. 3月24日の『壇ノ浦の戦』の敗戦による平家滅亡
  2. 11月25日の『義経追討の宣旨』の発給
  3. 11月29の『文治勅許(ぶんちのちょっきょ)』の発給

 

くらいでしょうか。

 

今回は、1185年(元暦2年/文治元年)の出来事に絞って小まとめしてみました。

 

参考文献

〇呉座勇一『頼朝と義時』(2021年 講談社)
〇國書刊行會編『玉葉 第三』(1971年 名著刊行会)
〇龍肅『吾妻鏡 (一)』(2008年 岩波書店)
〇大森金五郎/高橋昇造『増補 最新日本歴史年表』(1934年 三省堂)
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