新撰組近藤勇は倒幕派志士と見られる坂本龍馬を暗殺した!本当?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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近藤勇坂本龍馬暗殺の罪で斬首された?

近藤勇と坂本龍馬の黒幕は誰だったの?

坂本龍馬暗殺の真犯人は?

驚くほど生没年が近い二人、近藤勇と坂本龍馬は江戸で名の売れた剣豪だった?

ふたりは同僚になっていたかもしれないって、本当?

幕末の著名人近藤勇と坂本龍馬のこれらの不思議をすべて明らかにして行きます。

新撰組近藤勇と坂本龍馬は以前から知り合いだったのか?

近藤勇は天保5年(1834年)武蔵国多摩郡上石原村(現調布市)生れ、坂本龍馬は天保6年(1836年)土佐国土佐郡上街本町(現高知市)生れで同年代です。

近藤勇は幕府の管理地ではなく、浅草弾左衛門支配地(被差別民居住地)出身ではありますが、比較的裕福な中流の上クラスの農家出身坂本龍馬は下流武士の郷士ではありますが、裕福な商家出身でした。

幕末期に入り政情は不安定化して、治安も悪化し、裕福な家庭は子弟を剣術道場に通わせることが流行り、町道場は大盛況な時期を迎えていました。

近藤勇は多摩地区で有力な天然理心流の近藤周助に見込まれ、江戸の同流牛込道場へ15歳で入門し、16歳には”目録を得ていました。

坂本龍馬は柔術の小栗流道場へ通い、17歳の時目録”を得て、土佐藩の許しを得て江戸へ剣術修行へ行き、北辰一刀流の千葉道場(小千葉)に入門しました。

近藤勇と坂本龍馬は生まれた場所こそ違え、出自の社会的身分(どちらも江戸期の下層民)、その後の経歴(剣術で身を立てる)が非常に似通ったふたりでした。

江戸末期のこの頃は前述のように庶民の剣術人気は高く、今のスポーツと同じでそれなりにこの世界の強い剣士は噂になってお互いを知っていた可能性は高いと思われます。

つまりふたりは、江戸の剣術界で”イイ顔”同志だったのかもしれません。

残念ながら、当時ふたりの交流があったと言う資料はまだ出て来ていないようです。

坂本龍馬が江戸へ出てすぐの嘉永6年(1853年)6月3日に黒船騒ぎ、つまり”ペリー来航”があって、龍馬はすぐに品川にあった土佐藩下屋敷の警備に駆り出されます。

これが龍馬の運命を決めたと言って良いのかもしれません。外国の脅威を身をもって感じた龍馬はその年の12月に開国派学者の佐久間象山の門を叩きます。

一方、近藤勇は養父近藤周助の後継として、文久元年(1861年)に”天然理心流”宗家を正式に継ぎ、剣術一筋です。

そして文久3年正月に幕府は、将軍の上京に際して、尊王攘夷派の志士たちが暴れまわって治安の悪化している京都の対策に腕の覚えのある浪人・剣士を集める募集を始めました。

継いだ道場の経営に行き詰まっていた近藤勇はこの幕府の募集に”渡りに船”で弟子・食客ともども応じました。

文久3年(1863年)の「8・18政変」を境に、”新撰組”の”開国主義者掃討作戦”とも見える粛清行動が始まりますが、近藤は”尊王攘夷”よりも”佐幕”派の幕藩体制擁護派ですから、狙い撃ちした対象は”開国”、”勤皇”、”攘夷”など関係なく、”反幕府勢力”でした。

このため、坂本龍馬は土佐藩の脱藩者と云う”お尋ね者”ではありましたが、”大物幕臣勝海舟の懐刀”のように行動していたため、新撰組の”粛清対象”には入っていなかったのではないかと思います。

だから、これは近藤勇と坂本龍馬が江戸で剣友だったからだなどとは言えませんが、近藤は”幕府を擁護する者”として幕臣と行動をともにする坂本龍馬を見逃していた可能性が高いと思います。じゃなければ、龍馬ほどの大物は4年間も新撰組から襲われないわけがないと思います。京都など狭い町です。

確かに龍馬は京都で何度もアブナイ目に遭っていますが、いつも新撰組はいなかったように思います。

地元の警察(奉行所)が”脱藩者・お尋ね者”として、見つけては逮捕しに行っていただけではないでしょうか。

近藤勇座像
(画像は菩提寺寿徳寺にある近藤勇印刻座図です)

近藤勇は坂本龍馬の妻・おりょうを知っていたのか?

おりょう・楢崎龍の経歴を見てみますと、龍馬と出会ったのは元治元年(1864年)京都方広寺大仏の近所でおりょうの母・貞が土佐藩尊攘派の隠れ家の賄婦をしていた時だと言います。

おりょうは、ほどなく龍馬の妻となりますがその後その隠れ家が”池田屋事件”のあおりで手入れを受け、おりょうは龍馬のファンである伏見の船宿寺田屋女将のお登勢に預けられ妹分・春として働き始めます。

この寺田屋にいる頃、なんと新選組・近藤勇にも見初められて、櫛・簪などの贈り物をもらったとおりょうが言っています。やはり美人は目立つんでしょうね。

しかし、近藤もこの頃には妾が京都にもいましたので、本当はおりょうが近藤に宿場の飯盛り女と間違えられたのか、当時の宿屋の中居は皆そうだったのかは分かりませんが、とにかく近藤に目をつけられていたようです。

龍馬とおりょうが町を一緒に出歩いていて、新撰組がやって来るのに気がつくと龍馬は慌ててすぐに隠れたとおりょうが話していますので、近藤にふたりの関係を知られないよう(おりょうに身の危険が及ばぬ様)にしていたようです。

坂本龍馬は新撰組に狙われていた!本当?

龍馬の政治的な活動内容がすべて筒抜けで新撰組に把握されていたとすれば、粛清しておきたい人物になることは間違いでしょう。

しかし、龍馬の活動は当時売り出し中の大物幕臣勝海舟を後ろ盾にして、本人も神戸海軍操練所の塾頭になったりしていますので、元々脱藩中の浪人とは言え幕府寄りの人物とみられていたのではないかと思います。

新撰組の一番警戒する相手は、反幕行動をあからさまにしている長州系の尊攘激派の志士・浪人たちだったはずです。

坂本龍馬は全く違う活動をしていますので、少なくとも幕府の”神戸官軍操練所”が廃止される慶応元年(1865年)までは新撰組の”捕縛・粛清リスト”には載っていなかったはずです。

坂本龍馬暗殺命令は新撰組局長近藤勇が出したのか?

龍馬が京都河原町の醤油屋”近江屋井口新助邸”で土佐藩陸援隊隊長中岡慎太郎とともに暗殺されたのは、慶応3年(1867年)11月15日の夜のことでした。

実行犯に関しては事件後、近江屋から数メートルのところにある土佐藩邸から駆け付けた、藩士谷干城(たに たてき)が”こなくそ”と言う伊予弁を聞いたと証言し、伊予出身の新撰組隊士原田左之助、大石鍬次郎らの仕業と主張しました。

しかし、明治3年(1870年)箱館戦争で降伏した元京都見廻組隊士今井信郎(いまい のぶお)が坂本龍馬暗殺の実行犯であると自供し、これが現在の定説となっています。

現在も多くの異説が存在し、真相は闇の中です。

この中で、事件直後に現場に駆け付けたとされる土佐藩士谷干城がその後も頑なに”新撰組の仕業”と主張し続けているのが気になりました。

また後に、上司?だった幕臣勝海舟は、当時の政局を考えると大政奉還に反対する佐幕派譜代大名の意向を受けた幕府上層部の指示であると話しています。

当時の政局と言うのは、事件の前の慶応3年(1867年)10月14日に「大政奉還」が行われ、暗殺事件後の12月9日に「王政復古」が行われている情勢を指しています。

大政奉還」は追い詰められた徳川慶喜側の先手行使で、「王政復古」は公家岩倉具視と薩摩大久保利通主導の薩長の討幕派のクーデターでした。

事件は起こした結果、得をすると考える人物が犯人だ”と言う原則から考えると、この坂本龍馬を斬殺(粛清)すると言うパフォーマンスをあえて実行までする犯人と言うのは、「大政奉還」を”是”とする龍馬の政治力を十分に理解している者でなければいけません。

これは、新撰組局長近藤勇であるはずがありませんね。

因みに近藤に命令を出して新選組に龍馬暗殺を実行させる事が出来るのは、会津の松平容保(まつだいらかたもり) だけです。松平容保は徳川慶喜のしもべです。慶喜が繰り出した「大政奉還」を否定する行為には加担しません。

では、誰なのか?

一番可能性の高いのは、勝海舟の考え方に沿って幕府との関係を軟着陸させようとしている龍馬が推し進める「無血革命路線」を、煙たく思っていた薩摩藩を中心とする「武力倒幕開国派」ではないかと思います。

龍馬暗殺犯はこの勢力と一部の朝廷・外国を含むこの勢力の黒幕たちでしょう。

龍馬の死後、折角作り上げた”大政奉還”の甲斐もなく、あっと言う間に武力倒幕(戊辰戦争)へ向かっていったことがその証拠ではないでしょうか?まるで龍馬の死を待っていたように。。。

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近藤勇は坂本龍馬暗殺容疑で処刑されたのか?

近藤勇が幕臣大久保剛大和守と主張していたのが、京都で治安維持業務に新選組とともに就いていた彦根藩士の渡辺九郎衛門、元新撰組隊士で新選組から分離した御陵衛士の加納鷲雄、清原清によって正体が見破られました。

本人と確認された近藤勇の処置を巡って、新撰組を坂本龍馬暗殺犯と断定する土佐藩士谷干城と寛容派の薩摩藩士平田九十郎の間で激論が起こりましたが、総督府軍監の香川啓三の決断で斬首と決まったと伝えられています。

この水戸藩士と言われる香川啓三ですが、実は水戸学の学者藤田東湖の門人でその過激な攘夷思想で、一橋慶喜の側近を罷免されています。その後京都へ上り岩倉具視の知遇を得て土佐藩の陸援隊(隊長:中岡慎太郎)の副隊長となっていました。

こうして考えると谷干城の意見が通ったのは仕方ない状況だったようです。

刑が執行されたあと、近藤の首級は京都三条河原で3日間梟首されましたが、その高札の罪状は「甲州勝沼と武州流山で新政府軍へ敵対した大逆の罪」と書かれており、”坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺”には触れられていませんでした。

一方、異説の坂本龍馬暗殺説に沿って考えますと、谷干城も香川啓三も事件当時現場の京都近江屋付近にいた人物と思われ、問題の「武力倒幕開国派」です。かれらは”新撰組に龍馬暗殺犯と言う濡れ衣を着せる”方針だったと考えられます。

これは新撰組が犯人ではない証拠とも云えます。

後年、箱館戦争後降伏した元京都見廻組今井信郎が龍馬暗殺を自供した時、この谷干城は声を大にして”原田信郎ごときが犯人であるはずがない”と強硬に発言しています。

まるで”俺は犯人(事件の真相)を知っている”と言わんばかりの発言でした。

語るに落ちたとはこのことで、もう白状しているも同然ですねぇ。つまり新撰組は犯人ではないのです。しかし、近藤はこのような人たちの手に掛かって”龍馬暗殺犯”と言われて処刑されてしまいました。

ひとつ間違えば龍馬は近藤勇と同僚だった?

先に述べましたように、近藤は養父近藤周助から江戸牛込の”試誠館道場”を引き継ぎましたが、その経営は厳しく文久3年(1863年)正月に始まった浪士隊の募集に近藤ら”試誠館道場”の面々10余名が飛びつくように応募しました。

龍馬も幕府の募集対象者名簿には名前が挙がっていたようですが、その頃幕臣勝海舟の門人となって忙しく立ち働いていて応募しませんでした。

もし龍馬が嘉永6年の江戸遊学時に”黒船来航”に遭遇していなかったら、この時の幕府の浪士隊募集に応募していた可能性はあります。

最初のこの”江戸遊学”は剣術修行が主目的でしたから、おそらく”黒船”を自分の目で見なければ、”攘夷論”よりは”将軍の警護”の仕事を名誉に思って応募したことでしょう。

江戸へ来たばかりの頃の龍馬は、当時の”攘夷の熱気”に感化されるその頃の少年たちと同じように純粋な”尊王攘夷”主義者だった訳ですから、この”攘夷を実行”するはずの将軍の警護に喜んで付き従うはずです。

そうすると近藤勇と坂本龍馬がともに同僚になっていた可能性は十分ありますね。

もっとも同僚になっていたとしても、京都へ行ってから土佐藩の尊攘激派とまみえるうちに、龍馬と土佐の尊攘派の志士たちはそもそも親戚・知り合いばかりですから、あっと言う間に佐幕派から尊攘派に鞍替えしたかもしれません。

もし浪士隊に応募していたら鞍替えしようとする時に、本当に新撰組に暗殺されますね・笑。

坂本龍馬の写真
(坂本龍馬の引用画像:Yahoo検索画像

近藤勇の処刑の是非について、土佐藩士と薩摩藩士らの間で激論があったのはなぜ?

板橋の総督府本部のその場に居合わせたのは、新撰組より分離した”御陵衛士”のリーダー伊東甲子太郎を斬殺されて復讐に燃える元御陵衛士の加納鷲雄清原清と、土佐の海援隊隊長坂本龍馬と陸援隊隊長中岡慎太郎を暗殺されたと主張する谷干城が”極刑派”で、近藤勇を江戸幕府との交渉の駒に使って幕府と交渉中の西郷隆盛を側面援護したい平田九十郎が”寛容派”として激しく対立しました。

この激論に終止符を打ったのは、水戸藩出身の総督府軍監香川啓三でしたが、彼もまた土佐の陸援隊副隊長でしたので、結論は当然”近藤の斬首”と言う極刑となりました。

異説では、香川は事を穏便に済ませようと、近藤に”降伏”を勧めて命を助けようしましたが、近藤が”降伏”することを頑として受け付けず、やむなく処刑したとも言われています。

確かにこの時はまさに”幕臣勝海舟と新政府征討軍司令官西郷隆盛の頂上会談”が大詰めを迎えており、恭順の協定破りの勝沼の戦闘を指揮した生き証人近藤勇を捕虜として連れ出せば、西郷に有利と考える薩摩を中心とした新政府軍関係者は当然考えることであったと思います。

この時の様々な思惑の交錯がこの”近藤勇の処置”を巡ってなされたわけで、揉めるのは当たり前だったわけです。

一方、私見ですが、もし「坂本龍馬暗殺の真相」を隠ぺいしたがっている者がこの現場にいたとしたら、永遠に”新撰組を下手人”とするために、近藤の口を塞ぐ絶好のチャンスだったわけですから、どんな理由をつけてでも近藤を斬首したかったと思います。

それが、谷干城が執拗に寛容策の薩摩藩士に食い下がった理由なのではないでしょうか。

また、、、

この時の軍監香川啓三が、この後日露戦争前に丁度皇后宮大夫となっていたころ、美子皇后の夢枕に坂本龍馬が立ったと言う話を瑞兆として披露しました

そして丁度、龍馬の妻だった”おりょう(楢崎龍)”が危篤に陥っていたところにお見舞い電報を打ち、”おりょう”の没後墓碑を建てるにあたって援助していますので、やはり香川啓三は討幕派に与して「龍馬の暗殺」に何らかの関与していたのではないかという疑いが出ます。

まとめ

同じころ生れ、同じころ亡くなったこのふたりの幕末の風雲児、近藤勇と坂本龍馬は意外なほど両者の接点はなく逆に驚かされます

しかし、両者とも間接的に影響し合い、新しい時代を作って行った”巨人”であったことを現代の私たちに教えてくれます。

彼らは幕末に出来した様々な出来事の主人公を演じていました。

敢えて二人の共通点を挙げるとすると、幕末の幕臣の大立者勝海舟によって間接的に死に至らしめられたことでしょうか。

つまり、、、

近藤勇当時の陸軍総裁の勝海舟によって新政府軍への捨て駒にされ、無駄な甲州出兵をさせられた挙句捕縛され、最後に救助の手さえ断られて、江戸の郊外板橋の馬捨て場で斬首されました。

坂本龍馬勝海舟の門人になって、勝の諜報工作員として危険を冒して各派の間を飛び回り「無血革命路線」の先兵役をこなした挙句、「武力倒幕開国派」から”邪魔者”と見なされて粛清されました。

今回は”時代の歯車”として、大活躍しこのたビッグネームのふたりのことを少し違った視点から見直して見る良い機会となりました。

参考文献

松浦玲 『新選組』(2003年 岩波新書)
菊池明 『新選組 粛清の組織論』(2016年 文春新書)
安藤優一郎 『「幕末維新」の不都合な事実』(2016年 PHP文庫)
松浦玲 『検証・龍馬伝説』(2001年 論創社)
永倉新八 『新撰組顛末記』(1971年 新人物往来社)
原田伊織 『明治維新という過ち』(2015年 毎日ワンズ)
一坂太郎 『司馬遼太郎が描かなかった幕末』(2013年 集英社新書)
瀧澤中 『幕末志士の「政治力」』(2009年 祥伝社新書)
アーネスト・サトウ 坂田精一訳 『外交官の見た明治維新(下)』(1960年 岩波文庫)

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