織田信長と上杉謙信は、室町幕府を支えた功臣だった!ホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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意外な感じですが、織田信長上杉謙信は忠実な室町幕府の構成員であったことを明らかにします。

 

織田信長上杉謙信の室町将軍を巡る両者の接点をお話します。

 

織田信長上杉謙信守護職に関わる話をいたします。

 

織田信長上杉謙信仲違いした原因を明らかにします。

織田信長と上杉謙信は共に、分裂した室町西幕府の一員だった?

織田信長(おだ のぶなが)の織田家は、室町幕府初期の越前・信濃・尾張守護を兼任する斯波(しば)氏の守護代織田惣領(おだそうりょう)家が、伊勢守家(岩倉織田氏)と大和守家(清須織田氏)のふたつに分裂したひとつ清須織田氏の三奉行のひとつである織田弾正忠(おだだんじょうのじょう)家でした。

 

つまり、ばりばりの武家政権”室町幕府”の構成員でした。

 

一方、上杉謙信(うえすぎ けんしん)の上杉家は、公家藤原重房(ふじわら しげふさ)を祖とする家系で、室町幕府の祖である足利尊氏(あしかが たかうじ)の母はこの上杉家出身です。

 

そしてこの山内上杉(やまのうち うえすぎ)家は関東の押えとして、代々関東管領職を世襲し、越後・上野・武蔵・相模の守護も務める守護大名ですが、15代目当主の上杉憲政(うえすぎ のりまさ)が、北条氏康(ほうじょう うじやす)に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(ながお かげとらー後の謙信)に家督を譲りました

 

ですから、、、

 

上杉謙信の(山内)上杉家は、足利氏の身内です

 

と言う事で、、、

 

永禄2年(1559年)室町幕府第13代将軍足利義輝(あしかが よしてる)の要請を受けて、”東幕府(古河公方ーこがくぼう)の意を受けた駿河守護今川義元(いまがわ よしもと)の上洛阻止の対応”のために2月に織田信長が上洛し、4月に上杉謙信が上洛することとなりました。

 

その結果、上杉謙信は5千名もの兵力で、京都に永禄2年4月から5ヶ月以上にのぼる駐屯をして義元の上洛意図を阻み、信長は対今川戦の準備(兵力集め)を十分に行って翌永禄3年(1560年)5月19日に、尾張南部の”桶狭間(おけはざま)”において合戦に及び今川義元を討取ります

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更に上杉謙信は”今川義元の『尾張乱入』は京都の幕府に対する謀叛である”とする将軍義輝の意向に沿い、今川と同盟して『東幕府(古河公方)』をろう断している北条氏康を懲罰するため、翌永禄4年(1561年)2月に11万5千もの大軍で相模の北条氏康の居城小田原城を攻めます

 

このような一連の行動から、織田信長・上杉謙信ともに『京都の室町幕府(西幕府)』の有力で忠実な一員であると考えられます。


(画像引用:上杉謙信銅像AC画像

上杉家を語るには、関八州から?

上杉氏は、13世紀半ばの建長4年(1252年)に、鎌倉幕府の第6代”宮将軍”として、第88代後嵯峨天皇(ごさが てんのう)の皇子宗尊親王(むねたか しんのう)が鎌倉へ下向する折に、供奉(ぐぶ)した廷臣(ていしん)公家衆のひとりである藤原北家(ふじわらほっけ)支流藤原重房(ふじわら しげふさ)が武家に転身し、丹波国上杉庄に所領があった事から『上杉(うえすぎ)』と称したのが始まりとされています。

 

そしてその重房が帯同した娘清子(せいし)が、鎌倉幕府の源氏血統足利貞氏(あしかが さだうじ)に嫁ぎ、尊氏(たかうじ)直義(なおよし)を生み、その尊氏が後醍醐天皇(ごだいご てんのう)の倒幕運動に加わって、その後室町幕府を起す(1338年)ことになりました。

 

後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒した元弘3年(1333年)に、尊氏嫡男足利義詮(あしかが よしあきら)が関東支配のために、『鎌倉府』を開いていますが、その時に尊氏弟の直義を支えたのが、上杉憲房三男の上杉憲顕(うえすぎ のりあき)でした。

 

上杉憲顕は、父上杉憲房の死後上野・越後守護を引き継いで、越後守護代の長尾景忠(ながお かげただ)と共に越後の南朝残党狩りに成果を上げ、上野と越後での力を伸ばし、その後代を重ねて行きました。

 

1359年になって、尊氏の三男足利基氏(あしかが もとうじ)が、2代将軍となった兄足利義詮の上申で”左兵衛督(さひょうえのかみ)”に任じられて、鎌倉へ入り『鎌倉公方(かまくらくぼう)』と呼ばれるようになります。

 

1363年には、大叔父となる前出の上杉憲顕を”関東管領(かんとうかんれい)”に復帰させ、その後も概ね上杉一族の関東支配が続いて行きます

 

上杉家は、バリバリの”藤原北家の公家さんの出”だったんですね。

 

さて、上杉謙信の事ですが、、、

 

謙信は、享禄3年(1530年)1月21日に、越後守護代長尾為景(ながお ためかげ)の末子虎千代(とらちよ)として、春日山城で誕生し、天文17年(1548年)12月30日に、長尾家を継いでいた病弱の兄長尾晴景(ながお はるかげ)に代って、守護代長尾家を相続し、春日山城主となりました。

 

天文19年(1550年)2月26日に、跡継ぎがいなかった守護上杉定実(うえすぎ さだざね)が死去し、これで越後守護上杉家は断絶し、その2日後に上杉謙信は、室町幕府第13代将軍足利義輝から、”白傘袋(しろがさぶくろ)”と”毛氈(もうせん)の鞍覆(くらおおい)”の使用を許され、実質的に国主大名の待遇が与えられました

 

天文22年(1553年)9月下旬に、上杉謙信は精兵2千名を引き連れて上洛を果たし、第105代後奈良天皇(ごならてんのう)に拝謁し、天盃と御剣を下賜され、戦乱鎮定の綸旨(りんじ)を受け取ります。

 

永禄2年(1559年)4月に、今度は精兵5千名を引き連れて上洛し、第106代正親町天皇(おおぎまちてんのう)に拝謁し、前回と同じように天盃と名刀『粟田口藤四郎吉光(あわたぐちとうしろうよしみつ)』の脇差を下賜され、内裏修理の資金を献上し、南門を再興しました。

 

将軍足利義輝にも拝謁し、”文の裏書”、”塗輿(ぬりごし)の使用”、”菊桐の家紋の下賜”、”朱柄の傘の使用”、”屋形号の使用”の許可を得ました。

 

前回上洛時のふたつと合わせて、”上杉の七免許”と言います。特に”文の裏書”は、幕府の”三管領”の細川・斯波・畠山氏とその一族にのみ許されており、上杉謙信に実質幕府の”三管領待遇”が与えられた事になりました。

 

永禄4年(1561年)に室町将軍足利義輝の意を受けて、鎌倉公方職(東幕府)をろう断する関東の上杉勢の一掃を目指して、なんと11万5千もの兵を起し、北関東から攻め入り相模の北条の本拠地小田原城を包囲します。

 

小田原城を落城させえず、後北条家(ごほうじょうけ)を滅亡させるには至りませんでしたが、この謙信の留守を狙って、北条氏康(ほうじょう うじやす)と同盟する宿敵武田信玄が信濃へ出陣の報が入ったため、小田原城の包囲を解きます。

 

そして、3月14日には、鎌倉鶴岡八幡宮にて関東管領上杉憲政(うえすぎ のりまさ)の要請により、山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)を相続し、正式に『関東管領(かんとうかんれい)』に就任しました。

 

こうした一連の流れで、越後守護代長尾為景の子ながら、末子のために幼少時に寺へ出されていたた長尾景虎(上杉謙信)は、”藤原北家の名流”出自の、室町将軍の代理として『鎌倉公方(かまくらくぼう)』を補佐する関東の支配者であった上杉家を引き継ぐこととなりました

織田信長と守護職斯波氏の関係は?

織田氏は、越前守護であった斯波(しば)氏の被官で、応永7年(1400年)に斯波氏が尾張守護を兼任することになった折に、守護代として尾張に移動しました。

 

その後、この織田惣領家は織田伊勢守家と織田大和守家に分離し、織田信長の家である弾正忠家(だんじょうのじょうけ)は、その織田大和守家(清須織田家)の三家老のひとつでした。

 

居城は、尾張下四郡にある勝幡(しょばた)に設け、伊勢湾の港町津島(つしま)を支配下に置いていました。

 

上杉謙信の実家長尾家が、越後守護の名流上杉家の実力守護代であったのに対して、織田信長の実家織田弾正忠家は、守護代のさらにその配下の家柄でした。

 

しかし、どちらも下剋上の世にその実力が周囲に認められ、のし上がり守護を凌ぐ勢力となっていた事が共通していました

 

違いと言えば、上杉謙信がその実力者の父長尾為景の末子だったことに対して、織田信長はその実力者の父織田信秀の嫡男であったことです。

 

信長の実家弾正忠家の本家が仕えていた守護斯波氏は、既に信長が家督を継ぐ天文21年(1552年)頃には、かつて領国であった越前は文明4年(1472年)頃までに守護代朝倉氏に遠江は斯波義達(しば よしみち)が永正14年(1517年)引間城(浜松)落城で敗退し、今川氏にその支配権を奪われており、この尾張で守護代織田氏に守られてかろうじて名目上”守護”として存在しているに過ぎませんでした。

 

駿河ノ屋形今川修理大夫氏親 尾張守護斯波治部大輔義達ト互ニ敵シテ合戰ニ及フ・・・・同年八月十九日・・・斯波殿ハ降人トナリ・・・一家ノ命助マヒラセ尾州ヘ送リ還サレケル 向後駿河屋形ニ對シテ弓ヲ引クヘカラサル由 起請文ヲ留メテ歸國アリケル 依之今川殿其末子左馬之助氏豊ヲ指添テ尾張へ指上セ給ヘリ・・・大永ノ初今川殿ヨリ尾州名古屋ノ城築左馬助ヲ移入テ 清須ノ押ニセラル義統ノ妹 左馬助ニ嫁シケル・・・
(引用:史籍集覧第十三冊『名古屋合戦記』国立国会図書館デジタルコレクション

 

大永2年(1522年)には、斯波義達から将軍足利義晴への使者として勝幡織田氏の織田信秀が直接起用されており、清須織田氏と斯波氏の間がおかしくなっていることが想定されます。

 

この頃から織田信秀は他国への侵攻を始めており、守護斯波氏の権威を利用していたのかもしれません。

 

その信秀も天文13年(1544年)9月22日に美濃稲葉城攻めで斎藤道三に大敗し、さらに天文17年(1548年)3月19日の”小豆坂の戦い”で、今川軍に敗退して、対外戦の失敗で勢いが衰え、天文18年には、安城城を今川に攻め取られ、天文19年頃から今川の尾張侵攻が始まります

 

織田信秀が病を得て天文21年(1552年)3月に死去すると、翌天文22年7月には清須織田氏による尾張守護斯波義統(しば よしむね)と一族の殺害事件が勃発します。

 

息子の斯波義銀(しば よしかね)は、那古野城へ逃げ込み、城主織田信長はこれを保護します。

 

以後”大義名分”を得た織田信長はこれを護持して、翌天文23年(1554年)4月に、叔父信光との謀略で清須織田家を滅亡させ、信長によって再び守護斯波氏を中心とする政治が再開されます。

 

ところが、永禄元年(1558年)になって斯波義銀の今川内通が発覚し、斯波義銀は信長によって尾張から追放され、守護斯波氏による尾張支配の政治体制は終了することとなりました。

 

斯波義銀も信長によってお飾りだけの守護に祭り上げられても、配下から成り上った織田信長に頭を抑えられて不満を募らせて行って、それよりも足利一門でもある今川氏へ誼(よしみ)を通じたと言うところでしょうか。

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織田信長と上杉謙信は戦ったことがあるの?

織田信長は天文3年(1534年)5月生で、上杉謙信は享禄3年(1530年)1月生なので、謙信が4歳年上となります。

 

信長の初陣は、『信長公記』にあるように、、、

 

吉法師殿十三の御歳、・・・・古渡の御城んて御元服、欝三郎信長と進められ、御酒宴御祝儀斜斜ならず。翌年、織田三郎信長、御武者始めとして、平手中務丞、その時の仕立、くれなゐ筋のづきん、はをり、馬よろひ出立にて、駿河より人数入れ置き候三州の内吉良大浜へ御手遣はし、所々放火候て、其の日は、野陣を懸げられ、次の日、那古野に至って御帰陣。
(引用:太田和泉守 『信長公記 巻首 吉法師殿御元服の事』インターネット公開版

 

となっており、14歳とすれば、天文17年(1548年)が織田信長の”初陣”となります。

 

一方、謙信の方は、天文13年(1544年)のやはり14歳の時に、栃尾城に若い守護代がいると侮り攻めかかって来たのを、栃尾城主本庄実乃(ほんじょう さねより)、三条城主山吉行盛(やまよし ゆきもり)、栖吉(すよし)城主らの助けを借りて、見事打ち払ったと言います。

 

信長・謙信ともに14歳で、どちらも宿老たちの協力があったものの見事に初陣を飾ったようです。

 

信長と謙信は、尾張と越後と言う地理的なこともあり、お互いに領地が接することもないため、その後も接触することもなく衝突もせずに時間は過ぎて行きました。

 

見方を変えれば、信長の領地と謙信の領地との間に猛将武田信玄が存在している事も、両者の関係性が生まれにくい素地の一因だったのかもしれません。。

 

その後に、越後の謙信と甲斐の信玄は、北信濃を巡って衝突を繰り返し、信長は、永禄元年頃にやっと尾張の統一に目処をつけていました。

 

信長・謙信がニアミスしたのは、永禄2年に室町幕府の第13代将軍足利義輝に謁見する為に上洛した時でした。

 

信長が2月に、謙信は4月から9月一杯、5000名の兵を引き連れて、正に京都に駐屯しました。

 

この年の謙信の上洛理由は、後北条氏に追い払われた関東管領上杉憲政を、謙信が保護していることに関連して、将軍義輝との間で、関東(東幕府)を京都の幕府の意向とは関係なしに、後北条氏が勝手に政治運営していることへの対策の話し合いだったと思われます。

 

この時、謙信は将軍義輝に『例え国を失っても将軍への忠節は尽くす』・『今度の上洛でも例え国元でいかな騒乱が起ころうとも将軍を護り在京する覚悟』と述べて、将軍の在京延長要請によって9月末頃まで、兵5千でもって京都駐屯を続けたことが分かっています。

 

これは、2月に上洛した信長から永禄2年の義元上洛を告げられ、その時間稼ぎを依頼されたはずの将軍義輝からの申し出に対する謙信の答えだったと思われます。

 

最初の、信長と謙信の関係が出来たのはこの永禄2年の上洛中に、将軍義輝を介する間接的な形だったようです。

 

その結果を受けて、、、

 

翌永禄3年(1560年)に信長は、準備万端で『桶狭間の戦い』に臨み、周知の通り今川義元を討取って今川軍に大勝利し、東幕府の意を受けた上洛意図を粉砕します。

 

そして謙信はその翌永禄4年に、将軍義輝の後押しで11万5千もの東国兵力を動員して、北条勢を北関東から押し下げ居城の相模小田原城へ包囲します。

 

信長と信玄は、将軍足利義輝を支えるために、両輪となってきっちり役割をこなしました

 

その後は、信長から謙信に対して音信が続き、信長はマメに謙信に書簡を送っているようです。

 

両者の関係に、ズレが生じるようになってきたのは、天正2年(1574年)頃からで、天正3年の信長からの『長篠の戦い』報告が最後の謙信への書簡となります。

 

天正3年(1575年)以後、加賀の”一向一揆”と戦い始めていた信長に対して、本願寺と北陸一向一揆と連携を始めた謙信は、一触即発の状態であったようです。

 

天正5年(1577年)7月に、能登の守護職畠山氏の居城である”七尾城”へ侵攻します。

 

籠城する畠山氏老臣の遊佐続光(ゆさ つぐみつ)と長綱連(ちょう つなつら)が分裂し、長氏が長駆安土へ来城して信長に救援を求めに行き、ついに信長は謙信との戦いを決意します。

 

信長は自らは出陣せずに、8月8日に大将柴田勝家率いる3万5千の大軍が出陣しますが、途上一向門徒衆に妨害されて難渋を極め、救援は遅れて9月15日に七尾城は上杉軍に開城されてしまいます。

 

織田軍は途中で救援をあきらめて撤退を始めますが、追撃する上杉軍に襲撃され、9月22日に雨で増水した手取川に追い詰められて大敗します。

 

しかし、翌天正6年(1578年)3月13日に謙信は急死してしまい、謙信と信長の直接指揮する戦いは、ついに実現はしませんでした

 

”七尾城の救援”に信長本人の出陣が実現しなかったのは、すでに信長は巨大な軍団を抱えており、この程度の戦いでは方面軍司令官である柴田勝家の仕事となっていたことが原因でした。

織田信長が上杉謙信と断交した理由はなに?

前章にあるように、『手取川の戦い』で織田軍が敗北した原因そのものである”上杉謙信と本願寺・一向一揆との連携成立”が、信長と謙信の断交の理由のひとつのように思われます。

 

しかし、信長が嫌がる”本願寺・一向一揆との連携”を選択した上杉謙信は、明らかに信長との対立を選んだ訳です。

 

その理由は、永禄2年(1559年)の上洛の時に、今川義元の上洛行動・尾張乱入すら自力で止めることが出来ずに将軍義輝に助けを求めて来ていた織田信長が、その後巨大化して18年後の天正5年(1577年)では、実質10数ヵ国も領有する太守となってしまったと言う事実が上杉謙信を恐怖させたのでしょう。

 

事実、謙信自身が出陣する”七尾城攻城戦”に、指揮官に柴田勝家を寄越しているのですから、実際は知らなくともその実力差は如何ともしがたい強敵であると感じていたのではないでしょうか。

 

それに対して、残っている戦直後の謙信の家臣に宛てた書簡にはその勝利の喜びがはじけています。

 

 

(七尾城・末森城の落城を)信長一向に知らず、十八日、賀州湊川(手取川)まで取り返し、数万騎陣取り候ところに、両越・能の諸軍勢先勢として差し遣わし、謙信ことも直馬のところに、信長、謙信後詰めを聞き届け候か、当月二十三日夜中敗北せしめ候ところに、乗り押し付け、千余人討ち取り、残る者どもことごとく河へ追い籠み候いける。折節洪水漲るゆえ、渡る瀬なく、人馬浅からず押し流し候、・・・、
(信長は)案外に手弱の様体、この分に候わば、向後天下(京都)までの仕合わせ、心やすく候、・・・
(引用:花ケ前盛明編 『上杉謙信のすべて』105~106頁「歴代古案」”謙信の家臣宛書状”より)

 

とあり、本当にうれしかった様子がよく分かります。

 

あれだけ敵対していた”一向一揆衆”との和睦をしてまで、信長を叩こうと考えていたのですから、謙信の信長に対する警戒心は相当なものだったことが分かります。

 

また、武将同志の書状の形式(書札礼ーしょさつれい)で、相手との距離感がある程度推測できます。

 

最初の頃の信長から謙信への書状には、気持ち悪いほどへり下った文面で書かれています、つまり信長は謙信に対して最大の礼を尽くして接しています

 

しかし、永禄11年(1577年)に足利義昭を奉じて上洛して以来、徐々に変わり始め、京都を押え、中央の政権を掌握した後は、信長は謙信に同格かそれ以上の立場での書状(書札礼)となって行くようです。

 

これが、謙信には、たまらない変化だったに違いありません

 

永禄2年の段階では、明らかに謙信は『関東管領』並みの地位だったのですから、田舎の尾張の小大名である織田信長など問題にしていなかったでしょうし、天下の政治に関しても信長のはるか先を走っていたはずでした。

 

それが、天正5年に信長は、まさに京都の政局をほしいままにする”天下人”に近づいている存在なのですから、謙信は面白いはずはないし、まして信長の風下に立つつもりなどなかったのではないでしょうか。

 

織田信長と上杉謙信がまともに戦ったら、どちらが強いの?

前述したとおり、最初は『上杉謙信』が、『織田信長』を問題にしていませんでした。武家としての地位が高く、それによる動員兵力も謙信の方が上のようでした。

 

初期には、もし両者で戦えば、上杉謙信の勝利ですね。

 

天正5年(1577年)辺りでは、どうでしょうか?

 

周知のとおり、信長は対戦相手の2倍以上の兵力を以て合戦に臨みます

 

恐らく調略戦にも長けた武将の多い信長軍の方が強いのではないでしょうか。

 

『本能寺』のように、闇討ちでもされない限り、織田信長は負ける戦はしないでしょう。

 

『手取川』で織田軍が上杉軍に負けたのは、司令官が武闘派の柴田勝家だったからではないでしょうか。

 

彼らはとにかく勇猛で、寡兵で平気で戦いに挑むのです。云い方を変えれば上手な逃げ方を知らないとも言えます。

 

その点、信長は違います。

 

同等の兵力以下で合戦して、その武力を競い合うと言うような武闘派ではありません。

 

競争条件が不利になれば、あっさり捨てて『撤退』を厭いません。つまり極めて『合理主義』なのです。

 

ですから、表題にあるような質問に答えられるような状況を、信長はまず絶対に作らないと考えられます。

 

しかし、武田信玄とあれだけ『川中島』で戦った上杉謙信は、おそらく違うのではないかと考えられます。

 

実は、尾張統一前の織田信長もそうでした。

 

上杉謙信はおそらく、戦い方を若い頃と変えてないのでしょうね。武人ですから。

 

そう考えると、万が一戦った場合でも、やはり織田信長の勝利ではないでしょうか。

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まとめ

戦国の覇王と呼ばれる織田信長と、越後の虎である上杉謙信とは、4歳違いの同年配の戦国の覇者たちです。

 

室町末期の戦国時代に、越後守護代の末子に生まれた謙信と、尾張守護代の家老の嫡男で生まれた信長は、互いに類まれな才能で戦国の世を駆け上がって行きます。

 

ふたりの接点は、京都の室町幕府第13代将軍足利義輝でした

 

永禄2年(1559年)2月に信長が、4月には謙信が5千の兵を率いて上洛します。その後もお互いに出会う事はありませんでしたが、翌永禄3年(1560年)から室町幕府(西幕府)の両輪として将軍義輝を支えて行きます。

 

永禄8年(1565年)5月19日に、その将軍義輝が三好三人衆・松永久秀らに襲撃され暗殺される大事件が勃発して、事態は大きく動いて行きます。

 

永禄8年から11年の間は、謙信は関東管領として関東の政治に忙殺され、京都の政局に手が出せませんでした。

 

一方、信長は、永禄10年にやっと美濃を攻略し、居城を尾張小牧城から美濃岐阜城へ移し、永禄11年秋にいよいよ将軍候補足利義昭を奉じて上洛して、三好三人衆・松永久秀を撃破し、足利義昭の室町将軍就任に手を貸して、幕府の政治に介入するキッカケをつかみます。

 

信長は、苦労して助けた足利義昭の裏切りで厳しい状況を迎えますが、四面楚歌の元亀年間を何とか乗り切り、天正元年には、大敵武田信玄が西進中に死去し、将軍義昭が挙兵するものの追放し、宿敵朝倉・浅井の討伐に成功します。

 

信長が徐々に政権固めを始めている段階で、謙信は越中攻めで一向一揆に苦戦を続けます、この苦戦の中、謙信は本願寺との連携を選択し、本願寺と鋭く対立している信長と敵対して行く事になりました

 

天正3年(1575年)5月に信長は『長篠の戦い』で、武田勝頼に大勝し謙信が喜ぶ材料を提供したものの、謙信との間は本願寺問題がネックとなり解決する兆しもなく、天正3年8月に信長が加賀攻め開始したことから、謙信はハッキリ敵対する方針に決めていたようです。

 

膨張する織田信長の支配領域が、謙信のエリアに入って来るのは、時間の問題だっただけに、両者の断交・衝突は避けられない事だったのかもしれません。

 

 

しかし、従来から信長と謙信との間に遺恨があったわけではないので、この信長と謙信が『断交』に至ったきっかけは、謙信が信長に相談することなく本願寺と手を結んだことが大きな原因だったと言えそうです。

 

やはり、謙信には信長よりも自分が、年齢も朝廷・幕府内での身分も上位者であると言う基本的な考えがあり、時間の経過とともに現実の政治的立場と、端的には書状での接し方(書札礼)が徐々に”偉そうになって行く信長”に我慢がならなかったのではないでしょうか。

 

前述しましたが、謙信は信長の風下に立つのを快しとしなかったと言う事でしょうか。

 

こうした中、天正5年(1577年)9月に『手取川の戦い』で織田軍に大勝して大喜びした上杉謙信は、余勢をかって”関東大遠征”に出掛ける直前の翌天正6年(1578年)3月9日、突然の脳溢血によって急死してしまいます。

 

織田信長と上杉謙信は、双方にとって大敵である武田謙信を挟んで対峙して、互いに室町幕府の体制を守りつつ戦って行ったのですが、やはり少しだけ織田信長の領地の方が京都に近かったことが両者の違いだったようです。

 

それからほんの4年後に信長も、明智光秀を中心とする室町幕府の”奉公衆”達の謀叛である『本能寺の変』でこの世を去ることとなります。

関連記事

参考文献

〇小林正信 『信長の大戦略』(2013年 里文出版)

〇花ケ前盛明編 『新編 上杉謙信のすべて』(2009年 新人物往来社)

〇児玉幸多編 『日本史年表・地図』(2005年 吉川弘文館)

〇花ケ前盛明 『上杉謙信』(2014年 KADOKAWA)

〇日本史史料研究会監修 『信長研究の最前線②』(2017年 洋泉社)
渡邊大門編

史籍集覧第十三冊『名古屋合戦記』国立国会図書館デジタルコレクション

太田和泉守 『信長公記 巻首 吉法師殿御元服の事』インターネット公開版

〇谷口克広 『天下人の父・織田信秀』(2017年 祥伝社新書)

〇平山優 『武田氏滅亡』(2017年 角川選書)

〇谷口克広 『織田信長の外交』(2015年 祥伝社)

 

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