織田信長の弟『織田有楽斎』は『本能寺の変』の生存者!ホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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織田有楽斎は『本能寺の変』で、当主織田信忠を見殺しにして、自分だけ逃げ出した!ホント?

 

織田有楽斎は、本当に織田信長の弟なのか明確にします。

 

織田信長は、臆病者の有楽斎をどう思っていたのか?

 

織田有楽斎は、千利休の弟子なの?

当主の織田信忠に近侍していたはずの織田有楽斎(長益)はなぜ『本能寺の変』で助かったの?

天正10年(1582年)6月2日未明京都本能寺において、明智光秀によって織田信長が襲われる『本能寺の変』が勃発し、父信長の予定に合わせて上洛していた嫡男織田信忠も、宿舎妙覚寺から移動した二条城にて落命しました

 

この時、織田信長は羽柴秀吉への援軍で中国地方へ出陣直前ながら、供回りの者だけで安土から京都へ出かけて京都本能寺に宿泊しており、嫡男信忠は、信長の後を追うように京都へ駆け付け妙覚寺を宿舎としていました。

 

信忠に近侍していた叔父である織田長益(有楽斎)も巻き込まれて遭難しましたが、万余の明智兵に二条城を取り囲まれる中、2名の脱出者があり、それは後に豊臣政権で奉行となる”前田玄以(まえだ げんい)”と、もう1名が織田信長の弟”織田有楽斎(おだ うらくさい)”でした。

 

二条城は戦国の城としての機能を完全に持っていたので、その脱出口から逃れたと言う説もありますが、やはり当時二条城を御座所にしていた、正親天皇(おうぎまちてんのう)の継嗣である誠仁親王(さねひとしんのう)が退去する行列に、紛れ込んで脱出したと見るのが順当ではないかと思われます。

 

このふたりは、信忠に依頼されて、岐阜城在住の信忠嫡男三法師(さんぼうし)の保護・後見が使命だったと言われています。

 

いくら悪運の強い有楽斎でも、”本能寺”にいたら、どうなっていたのかわからないところですし、又妙覚寺が幸い明智軍の急襲を免れていて、二条城への移動時間まであったので、信忠も嫡男三法師のことまで思い至ったのでしょう。これも有楽斎の運の強さです。

 

 

こうした理由はあるのせよ、有楽斎が信長に認められるような武勇の弟だったとしたら、信忠に従ってここで家門のプライドから死を選んだ可能性は高いでしょうし、それ以前に猜疑心の強い信長に警戒されて恐らく消されていたでしょうから、皮肉にも彼をして生存させた理由はその”武勇”の無さにあったと言えそうです。

 

 

後に、この行動は世間に非難される事となり、京わらべ達は、、、

 

織田の源五は人ではないよ、御腹めせめせ召させておゐて、我は安土へ逃るハ源五、むつき二日に大水出ておたの原なる名を流す
(引用:『義残後覚』巻一 坂口筑母『茶人織田有楽斎の生涯』掲載分)

 

と唄っていたと言います。

 

織田信長の実弟ながら、なぜ二条城を逃げ出したのか❓ですが、、、

 

武家事紀 巻十三』に『本能寺の変』の時における織田長益(有楽斎)の行動の理由を示唆する記録があります。。。

 

織田源五長益、剃髪號夕樂、信長ノ弟也、信長被弑ノ時、信忠トモニ二條ニ至ル、信忠自殺ノ後、長益御所ノウシロニテ柴ヲツマセ、四方ヲ高クシ、其中ニテ自殺シ、四方ニ火ヲ可發ト下人ニ下知メ、其用意ノ内ニ逆徒悉退散メ、近所ニ人不見ニヨッテ、コゝニテ自殺センハ犬死同然ナリト云テ、乃二條ヲノカレ出ルナリ、・・・。
(引用:『武家事紀 巻十三』480頁上段部分 国立国会図書館デジタルコレクション

 

とあり、武士であっても武人ではない織田有楽斎の”生に対する執着の強さ”が出た考え方であったことが分かります。

 

こんな記録に残るくらいですから、当時も江戸時代も皆”有楽斎の人となり”を知っていたとも言えそうです。

 

 

ここから、浮かび上がって来る『織田有楽斎長益』の人物像は、種々の歴史本にあるような、織田家の血統を守るためなどと言う事を考える御家第一の武士らしい人ではなくて、ここは『あほくさ!こんなところで死ねるかいや!』みたいな”ノリ”が似合う人物だったような気がしますね。

 

 

『本能寺の変』で織田有楽斎長益がなぜ生存したかについては、前述のように、、、

 

  1. 明智軍が天正10年(1582年)6月2日の未明に本能寺を取り囲んだ折、近隣の信長嫡男織田信忠の存在に気付いていたかったため、発見が遅れたことで、信忠・長益らは防備のしっかりした二条城へ逃げ込めたこと。
  2. 偶然にも誠仁親王のいる二条城へ逃げ込んだことにより、明智軍も親王の退出をさせねばならない想定外の事態が明智軍に隙を作ったこと。
  3. 有楽斎が織田家の武士としてのプライドをほとんど持っていなかったこと。

などがあげられそうです。

 

こんな偶然が重なって織田長益(有楽斎)は生き残り、後世に名を残すこととなりました。

 

因みに、有楽斎の弟長利(ながとしー織田信秀の12男)は、兄信長と共に『本能寺の変』で討死をしています。

 

如何に、有楽斎の生存は”紙一重”だったかが分かりますね。


(画像引用:織田有楽斎画像ー正伝永源院所蔵

織田有楽斎(長益)は、織田信長の弟なの?

有楽斎の父・織田信秀(おだ のぶひで)は、子が12男7女いたと言います。

 

信長が三郎と言われていることから、三男だろうと思っていたら、次男だとする研究者もいたりで、実はあまりはっきりしていない(母が違うためです)のが実情です。

 

ここでは、信長研究家の谷口克広氏の兄弟順に従うことといたします。

 

  1. 信広(のぶひろ)
  2. 秀俊(ひでとし)
  3. 信長(のぶなが)天文3年(1534年)生
  4. 信勝(のぶかつ)信行とも言われる
  5. 秀孝(ひでたか)
  6. 信包(のぶかね)
  7. 信治(のぶはる)
  8. 信興(のぶおき)
  9. 信照(のぶてる)
  10. 秀成(ひでなり)
  11. 長益(ながます)有楽斎、天文16年(1547年)生
  12. 長利(ながとし)

 

となり、信長と有楽斎は13~14年年齢が離れていることが分かります。

 

信長が元服した翌年に初陣を飾った頃、有楽斎が生まれています

 

定説では、信長の母は父信秀の正室土田御前(どたごぜん)と言われていますが、この長益(有楽斎)の母は側室の為か記録が見つかっておらず、いったい誰なのか分かっていません。

 

ここで異説では、信長の母土田御前が自分の長男の信長をひどく嫌い、次男の信勝(のぶかつ)を溺愛したような話から、実は信長の実母は土田御前ではなくて、信長の傳役(もりやく)とされる重臣平手政秀(ひらて まさひで)の娘とする説があります。

 

そして、織田長益(有楽斎)の正室はこの平手政秀の末娘であることは判明しており、それを考えるとあの苛烈な性格の信長が”武人として能力に欠ける長益”に妙に寛大であったこともこの『異説』であればうなずけると言う事になりますね。

 

そう言えば、名前に『長』の字が付いている兄弟は12人中で、”信長”とこの”長益”、末弟の”長利(『本能寺の変』で討死)”だけであることも、偶然かもしれませんが、何かを暗示しているようにも思えます。

織田信長は有楽斎(長益)のことをどう思っていたの?

信長と同じ織田信秀の子・武将の子として生まれた織田長益(有楽斎)の初陣は、永禄4年(1561年)5月の信長の美濃攻めだったと言われています。

 

この戦いは、永禄4年5月13日の『森部の戦い』と言われるもので、この戦いは勝ち戦だったようで、信長の勘気を蒙ってしばらく織田家を出奔していた家臣の前田犬千代(利家)が、軍功を挙げて帰参を許されたとされる合戦でした。

 

頸二ツ、前田又左衛門討ちとる。・・・・。此の比、御勘気を蒙り、前田又左衛門出頭これなし。義元合戦にも、朝合戦に頸一ツ、惣崩れに頸二ツ取り、進上候へども、召し出だされ候はず候ひつる。此の度、前田又左衛門御赦免なり。
(引用:太田牛一『信長公記 巻首 もりべ合戦の事』インターネット公開版

 

この時の”長益(有楽斎)初陣”の後見役は佐々成政(さっさ なりまさ)でしたが、もたつく長益の手助けの為に、本来勇猛な佐々軍の動きが悪くなり、信長の機嫌は悪かったと伝わります。

 

 

しかも、長益は戦いが終わり清須へ帰城する途次、戦いとは全く無関係に落馬して負傷したと言われ、信長も呆れてしまい、以後戦に出ても裏方に回されるようになったと言う事です。

 

 

長益は、傳役の平手政秀の屋敷で過ごす時間も多く、当時家中で茶人として知られた平手政秀の茶道の手ほどきを受けたと伝わっており、武ばった事より茶事などを好む長益(有楽斎)の大人しい性格が現れているようです。

 

 

とは云うものの、当時信長は家臣たちに武辺者一辺倒だけでなく、官僚的な能力者も求めていました。

 

例えば、近侍する若侍たちには、次世代の人材育成を行なっており、小姓の万見仙千代(まんみ せんちよ)、森乱丸(もり らんまる)などを政治秘書のように使うなどして、近侍たちの文書処理能力・経理能力・外交能力など様々な能力育成に努めていたのです。

 

こんな中で、一門衆(連系衆)でもある長益(有楽斎)には、信長の傳役(もりやく)平手政秀から手ほどきを受けた『茶道』の素養があるため、これを今後の信長政治のなかで生かす構想をもっていたと思われます。

 

つまり信長は、他の武将のような武辺的な奉公ではなくて、”茶道”に通暁し外交的な使い方が出来る長益の有用性・能力の使い方を考えていたのではないでしょうか。

 

息子たちが成長するに従って、長益(有楽斎)を信忠の近侍にして、後継者の教育係として付けたようです。

 

信長は身内として一門衆として、長益(有楽斎)が間違っても自分に刃を向ける相手ではないと考え、安心して自分の子供たちを任せていたと思われます。

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”織田信長の戦い”に有楽斎はどう関わったの?

信長は、長益(有楽斎)に戦での補給(小荷駄隊)担当をやらせていましたが、当時の信長の戦いにはどんなものがあったのでしょうか?

 

  1. 『森部(もりべ)の戦い』長益初陣ー永禄4年(1561年)5月13日 対美濃斎藤家戦
  2. 『十四条(じゅうしじょう)・軽海(かるみ)の戦い』永禄4年(1561年)5月23日 織田信益討死 対美濃斎藤家戦
  3. 『小口(おくち)城攻め』永禄4年(1561年)6月 小姓岩室長門守討死 対織田信清尾張統一戦
  4. 『犬山(いぬやま)城攻略戦』永禄7年(1564年)8月 対織田信清戦尾張統一完了
  5. 『鵜沼(うぬま)城・猿啄(さるばみ)城攻略戦』永禄7年(1564年)対美濃斎藤家戦
  6. 『堂洞(どうぼら)城攻略戦』永禄8年(1565年)9月28日 対美濃斎藤家戦
  7. 『河野島(かわのしま)の戦い』永禄9年(1566年)8月29日 対美濃斎藤家戦
  8. 『北伊勢出兵戦』永禄10年(1567年)8月 対北伊勢制圧戦
  9. 『稲葉山城攻略戦』永禄10年(1567年)9月 美濃制圧
  10. 『北伊勢出兵戦』永禄11年(1567年)2月 北伊勢制圧
  11. 『上洛戦』永禄11年(1567年)9月~10月 畿内平定

と、永禄4年(1561年)の長益の”初陣”から永禄11年(1567年)の信長の足利義昭奉戴しての”上洛戦”までだけ見ても、戦いがこれだけ続きます。

 

信長は当然全部出陣している訳ですが、おそらく”織田長益(有楽斎)”も全部に出陣したものと思われます。

 

信長の”連枝(れんし)衆(一門衆)”として、当然の出陣と云うところでしょうか。

 

この時期(元亀年間以前)の信長は、まだ方面軍を組織するに至っていませんので、すべて自分自身も出陣していた頃です。

 

そのため、連枝衆(一門衆)の織田長益も出陣をしていたはずですが、おそらく長益は”合戦の前面”に出ることはなかったと思われます。

 

つまり、現代の芸能界に例えれば、織田長益(有楽斎)の役回りは、”タレント”じゃなくて”マネージャー”と言う感じでしょうか。

 

『利休七哲』のひとりと呼ばれる織田有楽斎に茶の手ほどきをしたのはだれ?

これは、前述しましたように、幼馴染の正室の父である”平手政秀(ひらて まさひで)”が先生ですね。

 

後に、長益は織田有楽斎として織田家の茶堂の立場となるのですから、恩師に報いた形なのでしょうか。

 

平手政秀の事は、天文2年(1533年)7月8日から公家飛鳥井雅綱(あすかい まさつな)・山科言継(やましな ときつぐ)卿が織田信秀の招きに応じて蹴鞠の会を催すために尾張の勝幡(しょばた)城訪れた際の記録があります。

 

廿日、辛酉、天晴、夜入雨下、〇今朝朝飯平手中務丞所有之、各能向候了、三人なから太刀遣候了、種々造作驚目候了、数寄之座敷一段也、盞出、八過時分迄酒候了、音曲有之、中務次男七歳、太鼓打候、牟藤息七歳、大つゝみ打候、自愛自愛驚耳目候、十一二歳之物也、何も奇特之事也、
(引用:『山科言継卿記 天文二年七月』国立国会図書館デジタルコレクション

 

とあり、京都から来た公家が平手政秀の屋敷に来て、その数寄屋造りの見事さに驚き、酒食も提供して、笛や太鼓を子供たちに演奏させて、平手政秀が彼らの接待に努めた様子が記録されています。

 

織田有楽斎の保護者であった”平手政秀”は、地方にありながらも京都の公家を驚かすほどの一流の数寄者であったことが分かります。

 

 

 

ここで、利休の『七哲』のことですが、、、

 

”利休七哲”とは、茶道の大成者である千利休の死後に関係者から選ばれた人々である高弟7人を言います

 

これは豊臣秀吉が、茶堂の千利休が新しく考案した茶の湯『台子茶事(だいすちゃじ)』の相伝を許した7人(豊臣秀次、木村常陸介、蒲生氏郷、細川忠興、高山右近、瀬田掃部、柴山監物)を『台子七人衆』と言いますが、これに倣ったものと言われます。

 

表千家四世江岑宗左(こうしん そうざ)によると、『利休七哲』は、蒲生飛騨細川三斎瀬田掃部柴山監物高山右近牧村兵部古田織部とされていますが、其の後古田織部が『大坂の陣』のあと、大坂方へ内通した罪で切腹させられていることから、代りに織田有楽斎が加えられたとされています。

 

 

織田信長と千利休の関係に関しては、、、

 

永禄11年(1568年)の足利義昭を奉戴しての上洛時に、抵抗した堺衆に信長が2万貫の矢銭を要求したことに始まります。

 

つまり、豪商達は降伏するとともに様々な”名物”茶器を信長に献上し、今井宗久・千宗益(利休)などは信長に近づき、信長の茶事を指導していくことになります。

 

近年発見された、天正2年(1574年)9月16日付の信長から千利休(宗益)宛ての書簡は、利休が越前一向一揆との戦場に鉄砲玉千発を届けた礼状でした。

 

このように、信長の政策(戦争)に協力するひとりの堺の商人として信長に近づき、そして関係を深める中、茶頭として重用されて行ったことが分かります。

 

『信長公記』の中に、、、

 

十月廿八日、京・堺の数寄仕り候者、十七人召し寄せられ、妙光寺にて御茶下れ候。御座敷の飾、一、御床に晩鐘、三日月の御壺、一、違棚に置物。七つ台に白天目。内赤の盆につくもがみ。一、下には合子しめきり置かれ、おとごせの御釜。一、松島の御壺の御茶、一、茶道は宗益。各生前の思ひ出、忝き題目なり。
(引用:太田牛一『信長公記 巻八 御茶の湯の事』インターネット公開版

 

これで、天正3年(1575年)にはすでに”千利休”が、信長の茶会の『茶堂』を務めていることが分かります。

 

 

そうした中、信長軍の物資輸送をする”小荷駄(こにだ)隊”を指揮する織田長益(有楽斎)と、千利休の関係が『武器調達』と『茶道』の両面から、急速に深まって行ったことは明らかだと思います。

 

 

こうして、織田長益(有楽斎)は、幼少の頃織田家の家老平手政秀から”茶の湯”の手ほどきを受け、信長に付き従う内に、数寄者の大成者千利休と出会って”茶の湯”を極めて行き、『有楽流』と言われる茶道を作り上げていったものと思われます。

まとめ

天正10年(1582年)6月2日払暁に京都本能寺で、家臣の明智光秀に襲われて戦国の覇王織田信長が、天下統一目前に落命した歴史的大事件『本能寺の変』で、からくも生き延びた信長の弟織田長益(有楽斎)の実像に迫ります。

 

後世では、茶人として有名な有楽斎ですが、武将としての初陣は、すでに父はなく兄信長の指揮する美濃攻めの『森部の戦い』でした。

 

元来、武芸事よりは、文人派・武弱の徒である長益は、この初陣も満足の行くものではなく、信長の不興を買います。

 

そんな仕儀が続く中、次第に前線から外れて小荷駄隊の方に回されて行く、武将としては落第点をつけられてしまいます。

 

しかし、天才織田信長の保護下で育ち、信長に全く逆らわない貴重な肉親である長益(有楽斎)には、信長の信頼は厚いものがありました。

 

丁度、ドンドン巨大化する信長軍団の中にあって、信長は周囲に多い武辺者ばかりではなく、本格的な文官も必要とし始めていた時期にあたり、信長の注目する『茶の湯』に造形が深い長益(有楽斎)は、その従順な性格とともに信長にとって誠に貴重な人材となって行きます。

 

上洛後の信長にとって、大事な堺衆・朝廷とのやり取りに関して、先達の文官村井貞勝・松井有閑と並び、血のつながる長益(有楽斎)の存在は非常に大きなものになって行きます。

 

天正10年(1582年)6月2日払暁に、そんな信長軍の中で地位を固めた長益(有楽斎)の前に運命の『本能寺の変』が襲い掛かります。

 

しかし、運は長益(有楽斎)に付いて回ります。

 

近侍していた信忠の指示もあり、前田玄以とともに二条城からの脱出に成功し、無事岐阜城まで逃げ延びますが、世論は叔父である長益を、甥の信忠を見殺し(一緒に死ななかったこと)にしたと非難します。

 

長益(有楽斎)の二条城脱出は、通説のように『織田家の血統』を守るためという事もあるかとは思いますが、『信長公記』で太田牛一が記しているように、ここで死んでは『犬死同然』と考えたのが本当のところのようです。

 

武将として『臆病者』と誹られることほど、”恥辱”はないと思われますが、長益(有楽斎)はその罵声に耐え、命を全うすることを選んで行きます。

 

結果、織田有楽斎(長益)は、織田信長ー豊臣秀吉ー徳川家康の3代の時代を生き抜き、『利休七哲』とまで言われる”茶人”として大成し、歴史に名を残すこととなった訳です。

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参考文献

〇坂口筑母 『茶人織田有楽斎の生涯』(1982年 文献出版)

〇諸田玲子 『帰蝶』(2015年 PHP研究所)

〇天野純希 『有楽斎の戦』(2017年 講談社)

〇堀和久 『織田有楽斎』(1992年 講談社)

『武家事紀 巻十三』国立国会図書館デジタルコレクション

『信長公記 巻首 もりべ合戦の事』インターネット公開版

〇谷口克広 『天下人の父・織田信秀』(2017年 祥伝社新書)

〇谷口克広 『織田信長合戦全録』(2002年 中公新書)

〇桑田忠親 『千利休研究』(1976年 東京堂出版)

『山科言継卿記 天文二年七月』国立国会図書館デジタルコレクション

太田牛一『信長公記 巻八 御茶の湯の事』インターネット公開版

 

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