執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
父織田信秀は子供の中で、なぜ三男織田信長を後継者にしたの?
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父信秀はなぜ、織田信長を後継者に選んだの?
織田信長が生母・父信秀の正室土田御前に嫌われていた話の真相は?
父信秀が決めた婚儀、舅”まむしの道三”は、織田信長をどう思っていたの?
父信秀が信頼していた織田信長の傅役”平手のジイ”は、なぜ切腹をしたの?
目次
織田信長は父信秀の長男なの?三男なの?
織田信秀(おだ のぶひで)は子供が非常に多く、男子12名、女子も10名以上と言われています。
織田信長研究家の谷口克広(たにぐち かつひろ)氏の説によれば、
- 信広(のぶひろ)
- 秀俊(ひでとし)(信時)
- 信長(のぶなが)
- 信勝(のぶかつ)(信行)
- 秀孝(ひでたか)
- 信包(のぶかね)
- 信治(のぶはる)
- 信興(のぶおき)
- 信照(のぶてる)
- 秀成(ひでなり)
- 長益(ながます)(有楽斎)
- 長利(ながとし)
と言うように、長幼の順はなるようです。
信長は順番から云えば、信秀の三男のようです。
次に、織田信秀の正室土田(どた・つちだ)氏の嫡出子は、三男信長、四男信勝、六男信包ですので、、嫡出子から見ると、長男信長、次男信勝、三男信包となります。
戦国期は、江戸時代のように家督相続に関して”嫡出長子相続ルール”は決まっていませんでした。
しかし、原則としては”嫡出長子相続ルール”が厳然として存在しており、病弱その他の理由で、当主の器量がないと認められた場合には、次男・三男以下もありと言うとなりますが、その場合でも現当主の指名がかならず必要でした。
この織田弾正忠家の場合では、順位を別にした資格者は、信長以外は、信勝と、信広となります。
信勝は信長に何かあった時の控え選手で、非嫡出子の長子信広は信長・信勝のふたりに何かあった場合の押えと言う立場となります。
或る時、備後守が国中、那古野にこさせられ、・・・嫡男織田吉法師殿に、一おとた、林新五郎。二長、平手中務丞。三長、青山与三右衛門。四長、内藤勝介。是らを相添へ、御台所賄の事平手中務。・・・那古野の城を吉法師殿へ御譲り候て、熱田の並び古渡と云ふ所へ新城を拵へ、備後守御居城なり。御台所賄山田弥右衛門なり。
(引用:太田和泉守『信長公記 巻首 尾張国かみ下わかちの事』インターネット公開版)
この後、13歳で”信長の元服の儀”が古渡城(ふるわたりじょう)で、同じメンバーの家老4名付けられて行われていますので、上記儀式の時期は恐らく元服に近い年齢で、この『信長公記(しんちょうこうき)』にあるように家中の主だった武将たちを那古野城(なごやじょう)に招いて”『信長相続の証』でもある居城の譲渡”を披露しています。
つまり、この段階には、正式に”信長の相続が確定”していたと考えられます。
ここに出ている林新五郎(はやし しんごろう)と言う人物は、林佐渡守(秀貞)と言う家老で”次男信勝擁立派の領袖”なので、信秀としてはそれを抑え込んでまで信長相続を宣言したこととなります。
この時家中では、重臣を中心に『嫡男信長大うつけ者説』のキャンペーンが吹き荒れており、信秀に”信長廃嫡”の圧力が重臣たちから、強くかかっていたことが想定されます。
不満分子の重臣たちは、暴れん坊で自分達が制御不能の信長より、従順そうな次男信勝の方が、自分達の云うなりの主君になる可能性が高く都合が良いと考えていたのでしょうね。
信秀としては、不満を持つ重臣たちの圧力に負けて嫡男信長の廃嫡などしようものなら、自身の政権崩壊にもつながりかねないと言う気持ちもあったでしょうし、、ただでさえ対外的に四面楚歌の信秀にあって、『お家騒動』など起こしている時期ではなかったと言う理由もあったのではないかと思われます。
そんな事が、信秀が前述のようなセレモニーを強行した理由ではないでしょうか。
しかし、戦国時代と言うのは、自分の家臣に至るまで油断の出来ない、常に緊張を強いられる時代であったことに改めて気づかされますね。
(画像引用:津島神社AC画像)
信秀正室土田御前はなぜ兄信長より、弟信勝を可愛がったの?
一時期一世を風靡(ふうび)した歴史作家津本陽氏のベストセラー『下天は夢か(げてんはゆめか)』では、『信長は生まれおちたときから癇(かん)がつよく、母の愛が薄かった。母はすなおな弟の勘十郎信行をかわりがり、ともに暮らしていた。』とあります。
じつはこれが通説なのですが、よく考えてみると実際こんな母親がいますでしょうか。実の長子は誰でもかわいがるのがごく普通の感覚だと思うのですが、どうでしょう。
ここでは、乳児の信長が乳母の乳首に噛みつくので、何人も乳母が入れ替わり、最後に摂津の国の豪族池田恒利の後室”養徳院”が招かれ、この20歳の乳母には信長は噛みつくこともなくおだやかに乳を吸ったとあります。
父織田信秀はひどく熱心な”教育パパ”だったようで、信長にはずい分お金をかけて都からその道の師を招請して、英才教育を施していたことが知られています。
この話も恐らく、”正室の嫡男誕生に喜んだ信秀が、畿内から名家の乳母を連れて来て、その結果、信長は尾張の田舎者である生母の土田御前から離されて養育され、母と離れたままだった”くらいが真相なのではないでしょうか。
その後生まれた二人目の信勝からは、父信秀はそうでもなかったようで、土田御前は手元で信勝を育てることが出来、その差が憶測を呼びこんな表現になったのではないかと推測します。
その証拠に、長じてもずっと信長側には別段生母土田御前を嫌っているそぶりはなく、弟の謀叛の時も一回目は母の助命願いを聞き入れて信勝を許していますし、信長が居城を移すたびにこの母もきちんと安土城の時も同道して同居しています。
本当に土田御前が信長を嫌っていたら、母はさっさとどこか信長の顔の見えぬところへ隠居するでしょうし、見ようによっては、同居していて可愛がっていた弟信勝が謀反をおこしたのですから、母もそそのかしたと勘繰られ無事でいられるかどうか、激しい性格の信長のことですから過激なことをしたに違いありません。
しかしなにも起こらず、信長と土田御前は以後もずっと、普通の親子のように過ごしているところをみると、信長による実弟信勝誅殺の状況設定とか、信長のキャラクター作りをする為の作り話なのかもしれませんね。
或は、当時の『織田信長、大うつけ者キャンペーン』の一環としてのプロパガンダなのかもしれません。
私見では、やはり”信秀正室土田御前は癇の強い兄信長より、弟信勝を可愛がった”と云うこの『母性に反する話』の信憑性(しんぴょうせい)は薄いと感じています。
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信長の家督相続はスムーズだったの?
父織田信秀の死去はいつの話?
父織田信秀の死は、『信長公記』その他によると、
備後守殿疫癘に御悩みなされ、様々の祈祷、御療治候と雖も、御平癒なく、終に三月三日、御年四十二と申すに、御遷化。
(引用:太田和泉守『信長公記 備後守病死の事』インターネット公開版)
とあり、、、
3月3日に死去されたことが分かりますが、没年の記載がなく、実は何年に亡くなったのか不明なのです。
その他の資料によると、天文18年(1549年)の事であったとの記載が多いようですが、この天文18年3月3日以降に信秀自身の署名の書類が散見されることから、天文18年3月3日の病没と言うのは誤りのようです。
前出の織田信長研究家の谷口克広氏によれば、信頼性の高い資料『定光寺年代記』と『信長公記』により、”織田信長の父織田信秀の没年月日は天文21年(1552年)3月3日”の可能性が高いとしています。
信長は、これ以前から既に信秀の代行として事務書類の発行を行っていますので、実質的な政務は信長が引き継いだ形が出来ていたと言えそうです。
信長の家督相続に、行動で異議を唱える親族・重臣たち
信長の家督相続に関しては、父信秀の死去とともに形の上では、自動的に継嗣に決まりましたが、実際は、認めない一族郎党・親戚一同が多かったようです。
しかも、尾張下四郡の知多で今川勢の進出が顕著になりつつある時勢で、信秀死去とともに”信長を見限る地侍たち”が出始めます。
先ずは、信秀死去の直後に今川に寝返って居城の鳴海城に今川を引き入れた山口左馬助・九郎二郎親子でした。
天文弐年癸丑四月十七日
織田上総介信長公、十九の御年の事に候。鳴海城主山口左馬助、子息九郎二郎、廿年、父子、織田備後守殿御日を懸げられ候ところ、御遷化候へば、程なく謀叛を企て、駿河衆を引き入れ、尾州の内へ乱入。沙汰の隈りの次第なり。・・・
一、中村の在所に拵え、父山口左馬助楯籠る。か様に候ところ、四月十七日、一、織田上総介信長公十九の御年、人数八百計りにて御発足、中根村をかけ通り小鳴海へ移られ、三の山へ御あかり候のところ、・・・九郎二郎人数千五百計りにて、赤塚へかけ出で候。・・・
一、上総介信長、三の山より此のよしを御覧じ、則ち、あか塚へ御人数寄せられ候。・・・巳の刻より午の刻までみだれあひて、扣き合っては退く、・・・鎗下にて敵方討死、・・・上総介信長公衆討死三十騎に及ぶなり。・・・さて、其の日、御帰陣候なり、
(引用:太田和泉守『信長公記 巻首 三の山赤塚合戦の事』インターネット公開版)
とあります。。。
天文年間の癸丑(みずのとうし)の年は天文22年ですし、”織田信長公、19歳の御年の事”とあり、信長は天文3年生れなので、やはり天文22年となります。
山口親子の離反は織田信秀の死去(3月3日)の直後だったと言いますので、ひょっとすると父織田信秀の没年は天文21年(1552年)ではなくて、天文22年(1553年)の3月3日だったのかもしれませんね。
いずれにせよ、この後も信秀死去の影響は続きます。。。次は、本家の清須織田家の家老たちが叛乱を起します。
一、八月十五日に清洲より、坂井大膳、坂井甚介、川尻与一、織田三位申し談じ、松葉の城へ懸け入り、織田伊賀守人質を取り、同松葉の並びに、一、深田と云ふ所に織田右衛門尉居城、是叉、押しなべて両城同前なり。人質を執り堅め、御敵の色を立てられ候。
一、織田上総介信長公、御年十九の暮八月、此の由を聞かされ、八月十六日払暁に那古野を御立ちなされ、稲庭地の川端まで御出勢、守山より織田孫三郎殿懸り付けさせられ、松葉口、三本木口、清洲口、三方手分けを仰せ付けられ、いなばぢの川をこし、上総介、孫三郎殿一手になり、海津口へ御かかり候。
(引用:太田和泉守『信長公記 巻首 深田・松葉両城手かはりの事』インターネット公開版)
ここは、守山の叔父織田信光と共同で鎮圧を行ないます。
これから、織田信長の尾張平定戦が始まります。
信秀の跡取りが19歳の若造の信長でしたので、信秀の武威に推されて従っていた腕自慢たちが立ち上がって、織田家の跡目を取ろうとした訳です。
実績で従わせることの出来なかった信長は、知恵を絞って機略でもって軍事対立を乗り越えて行きます。
低い身分から成り上がり、立身出世した父織田信秀の身代を護るために若き信長は、孤軍奮闘して親類相手に更に大化けして行きます。
このように、織田信長の家督相続は、スムーズとは云い難く、大変なものとなりました。
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美濃のまむし義父の斎藤道三は、娘聟の信長をどう思っていたの?
美濃斎藤家と尾張織田弾正忠家の婚姻理由
そもそも戦国の梟雄斎藤道三が、織田信長の舅になった理由は、信長の父信秀と道三の取決めでした。
織田信秀は、拡大を続けていた勢いが止まり始めた天文17年(1548年)に合戦で道三に大敗した頃から、少なくとも急激な駿河今川の攻勢には対応するために”美濃道三との和睦”を狙っていました。
道三自身も執拗な織田信秀の領内侵攻に手を焼いていたこともあり、織田方からの申し入れに応じることしました。
さて、平手中務才覚にて、織田三郎信長を斎藤山城道三聟に取り結び、道三が息女尾州へ呼び取り候ひき。然る間、何方も静謐なり。
(引用:太田和泉守『信長公記 巻首 上総介殿形儀の事』インターネット公開版)
さらに、『美濃國諸舊記(みのこくしょきゅうき)』では、、、
明智家は、東美濃随一の名家にして、一族數多ありて、殊に光繼の子息、皆以て知勇を兼備の者共なれば、今明智家と縁を結べば、東濃の諸家歸伏し、大事の手には一方の助けともなるべき大家なるを以て、思慮深き秀龍故に、遠計を察して、契を結びし所なり。
然るに小見の方は、秀龍に嫁して、其後天文四乙未年、女子出産す。其後天文十八年二月廿四日、尾州古渡の城主織田上総介信長に嫁す。歸蝶の方といふ。叉鷺山殿ともいふ。
(引用:『美濃國諸舊記 巻之二 松波庄九郎を立つる事』国立国会図書館デジタルコレクション)
とあり、ここでの”秀龍”とは、斎藤道三のことですので、尾張織田家と美濃斎藤家とは和睦し同盟関係となり、斎藤道三は間違いなく織田信長の義父になっています。
まむしと異名をとる戦国の梟雄斎藤道三は、一度対面して信長に惚れた!
さて、義父”まむしの道三”は、信長の事をどう思っていたのでしょう。。。『信長公記』に天正22年(1553年)4月下旬に行われた”道三と信長の有名な会見”の記事があります。
一、四月下旬の事に候。斎藤山城道三、富田の寺内正徳寺まで罷り出づべく候間、織田上総介殿も是れまで御出で候はゞ、祝着たるべく候。対面ありたきの趣、申し越し候。此の子細は、此の比、上総介を偏執候て、聟殿は大だわけにて候と、道三前にて口々に申し候ひき。左様に人々申し候時は、たわけにてはなく候よと、山城連々申し候ひき。見参候て、善悪を見候はん為と聞こえ候。・・・
古老の者七、八百、・・・公道なる仕立てにて、正徳寺御堂の縁に並び居させ、・・・先ず、山城道三は、町末の小家に忍び居りて、信長公の御出の様体を見申し候。其の時、信長の御仕立、髪はちゃせんに遊ばし、・・・ゆかたびらの袖をはずし、・・・御腰のまわりには、・・・ひょうたん七つ、八つ付けさせられ、虎皮、豹皮四ツがわりの半袴をめし、御伴衆七、八百、甍を並べ、健者先に走らかし、三間々中柄の朱やり五百本ばかり、弓、鉄炮五百挺もたせられ、寄宿の寺へ御着きにて、屏風引き廻し、・・・
・・・人に知らせず拵えをかせられ候を、さヽせられ、御出立ちを、御家中衆見申し候て、さては、此の比たわけを態と御作り候よと、肝を消し、・・・縁を御上り候のところに、・・・早く御出でなされ候へと、申し候へども、知らぬ顔にて、緒侍居ながれたる前を、する貼御通り候て、縁の柱にもたれて御座候。暫く候て、・・・道三出でられ候。・・・御座敷に御直り候ひしなり。・・・互に御盃参り、道三に御対面、残る所なき御仕合なり。・・・やがて参会すべしと申し、罷り立ち候なり。
・・・あかなべと申す所にて、猪子平介、山城道三に申す様は、何と見申し候ても、上総介はたわけにて候。と申し候時、道三申す様に、されば無念なる事に候。山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべき事。案の内にて候と計り申し候。今より己後、道三が前にして、たわけ人と云ふ事、申す人これなし。
(引用:太田和泉守『信長公記 巻首 山城道三と信長御参会の事』インターネット公開版)
少し長くなりましたが、周知の有名な逸話ですね。道三は信長と対面することにより、信長の器量を理解したようです。その証拠は、、、
一、去るほどに、駿河衆岡崎に在陣候て、・・・村木と云ふ所、駿河より丈夫に取出を相構へ、駿河衆盾籠り候。・・・御後巻として、織田上総介信長御発足たるべきの旨候。併し、御敵、清洲より定めて御留守に那古野へ取懸け、町を放火させ候ては如何とおぼしめし、信長の御舅にて候斎藤山城道三かたへ、番手の人数を一勢乞ひに遣わされ候。道三かたより、正月十八日、那古屋留守居として、安東伊賀守大将にて、人数千計り、・・・、
見及ぶ様体日々注進へと申し付け、同じことに、正月廿日、尾州へ着き越し候き。
一、正月廿四日払暁に出でさせられ、駿河衆御盾籠り候村木の城へ取り懸げ、攻めさせられ、・・・城内手負死人、次第貼に無人になる様に、降参申し候。・・・翌日には、寺本の城へ御手遣はし、麓を放火し、是より那古野に至って御帰陣。
一、正月廿六日、安東伊賀守陣所へ信長御出で候て、今度の御礼仰せられ、廿七日、美濃衆帰陣。・・・
(引用:太田和泉守『信長公記 巻首 村木取出攻められしの事』インターネット公開版)
とあり、織田信長は、なんと今川軍の侵攻に対抗するために、出陣するその留守番を美濃の斎藤道三に頼んで、道三は要請に応えて千名の兵を那古野城の守備をおこなって、使命達成後何事もなく美濃へ帰ったと言うのです。
舅の斎藤道三は、娘聟の織田信長のために兵力を出して、留守の那古野城の守備を受け持っているのです。これだけの信頼感をお互いに抱いたと言う戦国期には奇跡のような話が達成されていました。
ここではもう舅の斎藤道三は、”織田信長の器量を惜しみ”手助けするサポーターとなって、可愛い娘の聟であると同時に将来性のある相手として評価していたと言う事ですね。
つまり織田信長は、見事に舅斎藤道三を味方に付けることに成功していたと言う事で、信長の素晴らしい外交勝利だと言えます。
実際に富田の正徳寺で天正22年(1553年)4月下旬に対面したのは、信長が父信秀の葬儀で引き起こした騒ぎに斎藤家内は反応し、”信長大うつけ説”が大勢を占め始めていた為、斎藤道三として、それを確認することが目的でした。
事実、尾張内外の不穏な政情に、もし本当に織田信長が”大うつけ者”と判断がついたら、斎藤道三は娘奇蝶の救出とともに”尾張争奪戦”へ参戦することを真剣に考えていたようで、留守部隊に転用されたのは、この奇蝶救出部隊(安藤伊賀守の千名)だったのではないかと思われます。
本当に一度なめられたら、破滅へ向かうと言う”戦国時代の厳しい掟”を今更ながら感じさせる話です。
織田信長の父代わり、傅役(もりやく)平手政秀はなぜ死んだの?
通説では?
天文22年(1553年)1月13日に、織田信長の傅役(もりやく)である家老平手政秀(ひらて まさひで)が切腹しています。これは、信長の父信秀の葬儀での振る舞いも含めて行動に反省がない為、諫めるための『諫死(かんし)』だと言われています。
つまり、”じい”が身をもって信長を諫めたと言うことです。
これは、江戸時代に”小瀬甫庵(おぜ ほあん)”によって書かれ、人々によく読まれた『信長記』に記述されていることから来ているようです。
『信長公記』では、どうでしょうか。
一、平手中務丞が子息、一男五郎右衛門、二罰監物、三男甚左衛門とて、兄弟三人これあり。惣領の平手五郎右衛門、能き駿馬を所持候。三郎信長公御所望候ところ、にくぶりを申し、某は武者を仕り候間、御免候へと申し候て、進上申さず候。信長公御遺恨浅からず、度々おぼしめしあたらせられ、主従不和となるなり。三郎公は上総介信長と自官に任ぜられ候なり。
一、さる程に、平手中務丞、上総介信長公実日に御座なき様体をくやみ、守り立て験なく候へば、存命候ても詮なき事と申し候て、腹を切り、相果て候。
(引用:太田和泉守『信長公記 巻首 備後守病死の事』インターネット公開版)
やはり、子息が信長への駿馬の献上を拒み、主従不和になったことに絡み、”じい”の立場で、やはり”諫死(かんし)”に近いと言う表現のようです。
謀叛なの?”弟信勝擁立派”への鞍替え?
一方、前出の歴史作家津本陽(つもと よう)氏の『下天は夢か』では、平手政秀の長男五郎右衛門は、信長の父である大殿信秀と同年配にも拘わらず父平手政秀ような才に恵まれず、反信長派に属し暗躍していましたが、その謀叛の証拠を信長につかまれ、父平手政秀がその責任を負って切腹したことになっています。
実際に平手政秀は、織田家中の調整役を務めており、反信長派の動きに歯止めがかからなくなり、抑えきれなくなった責を負って切腹に及んだと見られます。
結果政秀の死後、抑えていた信長と反信長派の衝突は始まり、確実に力をつけていた信長が徐々に勝利を収め、尾張統一を達成して行きます。
超異説!(歴史作家八切止夫氏の説)
もうひとつ、歴史の学会では門外漢ですが、歴史作家八切止夫氏説の”平手政秀切腹理由”があります。。。
織田弾正忠家の跡取り織田信秀が、重臣平手政秀の娘”八重(やえ)”を見初め、そして出来たのが”信長”でした。
織田家は本来神主の神職出自の一族のため宗教は”神道”なのですが、平手一族は日蓮宗と言われていました。しかし、実は”本願寺派一向宗徒”でした。
信秀の側室となった八重も神信仰となりました。その後信秀は正室土田御前を娶り、八重が実家に信長を伴って戻されていた折、八重は神信仰となっていたその信仰問題で実家と揉めて、なんと一族に殺害されてしまいます。
時は流れて信秀の死後、家督を継いだものの求心力が今ひとつの信長に、本願寺派の今川義元の侵攻問題が宗教問題を絡めて動き始め、尾張地区の土豪も神信心の織田信長よりも、本願寺の今川へ心寄せる者が出始めます。
信秀の信頼厚かった平手一族も裏では本願寺派一向宗徒であると言う噂が信長の耳にも入り始め、言わば織田家に対する忠誠心の再確認の意味で、信長は平手政秀の長男五郎右衛門に、駿馬の献上を命じます。
ところが、五郎右衛門は、以前の出陣の折に腹心の部下を信長に処刑された恨みも手伝い、汚らわしい神信仰の信長に献上は出来ぬとばかりに断ります。
これで疑心を深めた信長は、言い訳に来た平手政秀に『母の死の真相を知っていた』事をばらします。
愕然として真っ青になった平手政秀が、慌てて平手の庄に帰るのを見た信長は、平手一族の逃走・謀叛を恐れて兵を出して館を取り囲みます。
結果、平手政秀はのどを突いて自害し事を収めます。
と言う説ですが、これは同時に『なぜ信長の母、信秀正室土田御前は信長を嫌ったか?』の答えにもなっています。
徳川三代将軍家光が、二代将軍秀忠正室お江与の方に嫌われた理由と同様に自分の生んだ子ではないと云う話です。
平手政秀の娘八重が生んだのが信長で、信秀正室土田御前が生んだのが弟信勝であったと云うことですね。
諸説色々ありますが、平手一族のその後の没落を考えると、八切説はかなり説得力を持つものです。
※名古屋市内にある『政秀寺』に関しても、通説のように”信長が平手政秀供養のために建立した”と言う事実はなく、実際は尾張62万石の側室『政秀尼』を祀るために江戸時代に作られたものと八切氏は調べています。
真相は分かりませんが、武田信玄との『三方が原の戦い』で織田軍からの与力として平手汎秀(ひらて ひろひで)が出陣するも、まるで見殺しにされたように討死し、その後信長が平手家の再興を認めずお家断絶となって、歴史の表舞台から消えたことを考えると、八切説も筋が通っているように思われますね。
まとめ
ふつうに考えて、母の言う事も、傅役のジイの言う事も聞かない、粗暴な跡取りと云うものは、父の勘気を食らって『廃嫡』されることが多いような気がします。
こんな中で、どう信長は生き延びて行ったのか、非常に興味のあるところです。
織田信長で私たちに伝わっている話は、後世の”政権を取った為政者たち(特に徳川幕府)の立場”に立って記述されたものが多いようです。
信長の伝記みたいな、信長祐筆である太田牛一による『信長公記(しんちょうこうき)』などは、江戸時代は”発禁本”扱いをされていて、実は、一般に公開されたのは明治になってからなのです。
そうした事から、織田信長の尾張統一時代での実像は、『通説』が出来上がっているだけにわかりにくくなっているようです。
信長は12人兄弟の3番目ですが、家督の継承順位は1位でした。父信秀は、幼少時から信長に英才教育を施し、信長もそれに応えて文武に励みました。
しかし、尾張の国衆から”戦奉行”と称された父信秀の血統か、実戦でのやり取り(武者仕事)に何よりも興味を抱いていたようです。
馬術の訓練もあり、領内を隈なく巡って地勢を熟知し、領民の生活にも精通し、人心掌握の勘所は心得ていたものと考えられます。
武辺一辺倒の武者達からは、さぞ生意気な小僧だと見られていたことでしょう。
『信長公記』の記事ではありますが、初陣を自分で指揮したというのは、事実のような気がします。
現代でも結構世の中に存在する”スーパー中学生”だった訳ですね・笑。
母の土田御前との関係については、その後の母に対する扱いがスマートであることから、記述したようなことが事実ではないかと思います。
通説が事実なら、信長の性格だったら放り出すか消しているんじゃないでしょうか。
実際あまり、具体的な”信長イジメの例”が出て来ないことから、実母と土田御前と信長の確執は後世の作り話ではないでしょうか。
すべては、嫡子信長を溺愛する信秀パパの教育熱心さが問題を引き起こしたような気がします。
信長の父代わりであったとされる”平手政秀”のことですが、信長と平手一族との交流があまりにも希薄であることから、この点においては、歴史作家八切止夫氏の視点である”宗教問題”の可能性が高いのではないかと思います。
天下人になる前の織田信長は、忠義の厚い配下の者に対しては、極めて厚遇をしていることから、平手一族のケースは明らかに”信長に対して叛逆をした”結果であるとしか考えられない末路です。
やはり、本当に”一向宗徒”として、神信仰する信長に背いていたのでしょう。信長は”裏切り者”は絶対許さない主義でしたから。
信秀以来の平手政秀の織田家に対する貢献を考えると、信長が爆発的に大物になり始めて行く時期と、一向宗との衝突時期が重なったことが不幸を招いたようです。
他の戦国大名にも言えることですが、彼らは膨大に膨れ上がる戦争資金を得るために、本来アンタッチャブルな寺領にまで手を入れていて、それがそもそも寺側との対立を生んでいたのでしょう。これはもう信仰の問題じゃありません。
そして、一向宗派の過激性がそれを武力解決する能力をなまじ持ち合わせていたことから、深刻な武士社会との軋轢を生んで、戦乱の時代に拍車を掛けてしまったと言う不幸ですね。
天下を目指し始めた信長の直面する敵は、室町幕府と本願寺宗門でした。
信長の場合は、これを打ち破って、平定させた直後に、室町幕府の亡霊のようなものに足をすくわれる形になりました。
やはり、戦国時代はまだ終わってなかったのかもしれませんね。
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参考文献
〇谷口克広 『天下人の父・織田信長』(2017年 祥伝社新書)
〇津本陽 『下天は夢か』(1992年 講談社文庫)
〇谷口克広 『織田信長の外交』(2015年 祥伝社新書)
〇『美濃國諸舊記 巻之二 松波庄九郎を立つる事』国立国会図書館デジタルコレクション
〇小瀬甫庵撰 『信長記 上』(1981年 現代思潮新社)
石井恭二校注
〇小瀬甫庵 『信長記 巻一』国立国会図書館デジタルコレクション)
〇八切止夫 『信長の過去は暗かった』(1973年 三笠書房)
〇八切止夫 『徳川家康は二人だった』(2002年 作品社)