徳川家康勝利の『関ケ原の戦い』、黒田如水も参加した!ホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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豊臣秀吉の軍師だった黒田如水『関ケ原の戦い』の時、何をしていたかが分かります。
豊臣秀吉は、黒田如水は恐ろしい男だと思っていました。
黒田如水にも『天下取り』のチャンスはありました。
黒田如水には、豊臣秀吉の死後徳川家康と石田三成が衝突することは分かっていた!ホント?

『関ケ原の戦い』の時、あの黒田如水(官兵衛)は何をしていたか?

慶長5年(1600年)頃、如水(じょすい)こと黒田孝高(くろだ よしたか)『国史大辞典』によれば、、、

慶長二年(一五九七)朝鮮再出兵の際も朝鮮に渡り、慶尚道梁山城を守ったが、翌三年秀吉の死によって帰国した。石田三成とはすでに朝鮮在陣中から不仲であったが、慶長五年関ケ原の戦に際しては徳川家康に与し、豊後国石垣原の戦において大友義統の豊後奪回を阻止し、さらに豊前小倉の毛利勝信を攻め、筑後に入って久留米・柳川の両城を受け取り、加藤清正・鍋島直茂らと合流して島津氏を討つため肥後水俣に進んだ。しかし十一月家康の命によって水俣で兵を止め、豊前に帰った。同年、長政が戦功によって筑前一国を与えられたため、豊前から筑前に移った。慶長九年三月二十日京都伏見で没した。

(引用:国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第四巻 972頁』1984年 吉川弘文館)

とあり、黒田如水は朝鮮役頃より石田三成とは不仲であり、その為『関ケ原の戦い』では徳川方に付いたと言うニュアンスで記述されています。

 

『関ケ原の戦い』において、周知のように息子の黒田長政(くろだ ながまさ)は5,400の兵を率いて参戦し大活躍でしたが、前掲『国史大辞典』にあるようにオヤジの黒田如水も隠居していたのもかかわらず、九州において東軍として大活躍していました。

 

 

急度申候、石治部・輝元申談、色立候由、上方ゟ内府へ追〃御注進候、如此可在之と、かねて申たる事候、其外、殘衆ことことく一味同心之由候、定而、内府早速御上洛可在之候、然ハ、則時ニ可爲御勝手候、此状参着次第、松井と市正ハ番子まて不殘召連、丹後へ可被越候、自然之時ハ、松くらをもすて、女子をつれ、宮津へ被越、可然様ニすまさるへく候、頼入候、四良右・其外之者ともの儀ハ、其国のていを見合、可成ほと木付ニい候て、其上ハ如水居城へうつるへく候、如水とかねて申合てをき候、此状ハ丹後ヨリひめち邊へ遣、舟にて届候へと申付候、

内府ハ江戸を今日廿一御立候由候、我等ハ昨日うつの宮まて越在之事候、さためてひつくり返し、上方へ御はたらきたるへきと存候、恐〃謹言、

 

七月廿一日         忠(花押)

松井殿

四良殿

市正殿

 

(引用:『松井文庫所蔵古文書調査報告書 三  431 細川忠興自筆書状』1998年 八代市立博物館未来の森ミュージアム編集発行)

 

大意は、”

しっかり申し上げます。石田三成と毛利輝元が相談して挙兵したと、上方から徳川家康へ次々と連絡が届いていますこうなるであろうと私が以前から申していた通りになりました。上方に残っていた者共は、皆西軍に味方したとのことです。必ず徳川家康殿は上洛されるでしょうから、そうなればすぐに東軍が勝利するでしょう。この書状が着き次第、松井康之と魚住市正は、木付城の守備兵を一人残らず引き連れて、丹後国へ移動してください。万一の時は、松倉の城を捨てて、妻子たちを連れて宮津城へ行ってください。そのように対処するようにお願いします。有吉立行外の者は、状況判断をして、出来るだけ木付城を維持し、その上で黒田如水殿の中津城へ移動してください。如水殿とは以前から打合せをしています。この書状は、丹後国経由で、姫路へ出て船で木付に届けるように命じてあります。

徳川家康殿は、今日7月21日に宇都宮へ出発されるそうで、私は昨日7月20日宇都宮まで来ていますが、家康殿は必ず引き返して上方へ出陣されることと思います。謹んで申し上げます。

 

(慶長5年)7月21日    細川忠興(花押)

松井康之(まつい やすゆき)殿

有吉立行(ありよし たつゆき)殿

魚住市正(うおずみ いちまさ)殿

”位の意味です。

 

とありますが、ここで注目すべきところは、原文では『如水とかねて申合てをき候』の箇所で、私(細川忠興)は「前々から黒田如水と打ち合わせをして、石田三成と毛利輝元の挙兵を想定して準備していた」とあるところです。

 

つまり老将黒田如水は、大坂から離れた九州豊前中津の地にありながら、秀吉の死後石田三成と毛利輝元徳川家康に対して挙兵することを想定し、この書状の出し手である細川忠興(ほそかわ ただおき)と肥後の加藤清正(かとう きよまさ)らと九州における反徳川派との対立に備えていたのです。

 

実際の如水の軍事行動は、前掲『国史大辞典』の記事にある流れとなります。最後、島津との争いを拡大する意志のない徳川家康から戦闘を止められて、如水の『関ケ原』は終わってしまいました。

 

この争乱に臨んだ黒田如水の当初のプランはどんなだったのでしょうか?『黒田如水伝』を記したハーバード大卒の明治の政治家金子堅太郎(かねこ けんたろう)子爵によれば、、、

 

其の後長政中津に凱旋して、如水に見え、得意満面父に語って曰く、關ヶ原に於いて、不肖長政親ら陣頭に立て奮戰し、三成を始め大坂方の軍勢を撃破して、関東方の勝利に歸せしむるや、内府の感激浅からず、吾が手を把りて、三度押し戴かれたりと、然るに如水は、さも冷ややかに是を聞き流しつヽ、問うて曰く、家康が戴きたる手は、左の手か、右の手かと、長政答えて、右の手なりと謂ふや、如水重ねて問うて曰く、左の手は、何事を爲したりしかと、長政黙然として答へざりければ、如水も亦敢て再び問ひ返さヾりしと言ふ。

(引用:金子堅太郎『黒田如水伝 530~531頁(307コマ)』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”その後、黒田長政は豊前中津城へ凱旋して、父如水と顔を合わせ、得意満面で語ったところによると、「関ケ原の合戦で、私長政が自ら陣頭に立って奮戦し、石田三成始め大坂方の軍勢を打ち破り、東軍を勝利に導きました。家康殿もひどく喜ばれて、私の手を取って3度も押し抱かれました。」、しかし、如水は冷たく聞き流し、こう問いかけた。「家康がお前を抱いていた手は、左手か右手か」と。長政が「右手です」と言うと、如水は重ねて尋ね、「左手は何をしていたのか」と。長政は啞然として答えれず、如水もまた問い返しもしなかった。”位の意味です。

 

 

ここでの文意は、長政が『関ケ原の合戦』の戦功を家康から褒められたことを素直に喜んでいるのを見て、父如水は、「おまえは、馬鹿か!めったに隙をみせないあの徳川家康と身体を寄せ合うと言う千載一遇のチャンスを貰ったのに、なぜ殺ってしまわなかったのだ!」と叱責したのですが、要するに、本当に殺せと言ったわけではなくて、天下の大会戦で決着が長引く間に、九州一円を平定して上方まで攻め上がろうと言う如水のプランを、バカ息子がイチビッて大活躍をし一日で終わらせて、父のプランを台無しにしてしまったと怒っているのです。

父の怒りを見て、さすが長政は父如水の真意を悟り、黙ってしまった訳です。

 

こんな逸話が残っているほど、黒田官兵衛の野望の大きさは広く知られていたようです。ある意味、この反徳川家康決起(『関ケ原の戦い』)に賭けた毛利輝元の野望にも似通ったところがあり、『天下を獲りたい』・『覇権を握りたい』と言う戦国武将たちの思いは同じなのかもしれません。なにも徳川家康の専売特許ではないと言う事です。

 


(画像引用:豊前中津城ACphoto)

豊臣秀吉が自分の歿後、天下を獲るのは黒田官兵衛だと言った!ホント?

幕末の上野國舘林藩士岡谷繫実(おかのや しげざね)『名将言行録(めいしょうげんこうろく)』によれば、、、

 

秀吉、一日 戯に近臣に向て、我死せば誰か我に代り天下を有つべきや、忌諱を憚らず、試に之を言へと言はる。是に於て、人々見る所を言ふに、皆五大老の中なり、秀吉曰く、彼跛足之を得ん。

・・・(中略)・・・、

秀吉、常に世に怖しきものは徳川と、黒田なり、然れども、徳川は温和なる人なり、黑田の瘡天窓は何にとも心を許し難きものなり、と言はれしとぞ。

 

(引用:岡谷繁実『名将言行録<4> 巻之ニ十九 黒田孝高 21~23頁』1997年 岩波書店)

 

 

大意は、”

豊臣秀吉が、ある日戯れに近臣に向って、「私が亡くなったら、誰が天下を獲ると思うか?忌憚のないところで、これと思う人物を述べよ。」と。これを受けて、自分の考えを述べ、皆五大老の中の人物を挙げたが、秀吉の云うには、あの「ちんば(黒田官兵衛)」がいるだろ

・・・(中略)・・・、

豊臣秀吉が、「この世で怖ろしいものは、徳川家康と黒田官兵衛。とは言うものの、家康は温和な人物なのだが、官兵衛は誰にも心を許さない(油断のならない)男だ」と語ったと言う。

”位の意味です。

 

とありますが、豊臣秀吉は黒田官兵衛を後継者に指名した訳ではなくて、豊臣家で代々天下を独占して行きたい秀吉にとって、非凡な官兵衛の存在は危険極まりないもので、はっきり排除対象として認識していた訳です。

 

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『関ケ原の戦い』で、黒田如水にも天下を獲るチャンスはあった!ホント?

これに関しては、黒田如水本人がそのプランについて述べています

孝高終りに臨み、長政に語て曰く、・・・(中略)・・・、

我は博奕が上手なり、其方は下手なり、其子細は關ヶ原の時、家康公と、三成取合百日も手間取らば、我九州より打上り勝、相模に入て天下を争ふべし、其時は只一人の其許なれども、捨殺して一博奕に打入れんと思ひしなり。天下を望む者は、親も子も顧みては叶はぬなり。

(引用:岡谷繫実『名将言行録<四> 巻之ニ十九黒田孝高 53頁』1997年 岩波書店)

 

大意は、”黒田如水孝高は臨終に際し、息子の長政を枕元ヘ呼びよせ、・・・(中略)・・・、

私は大勝負を仕掛けるのが上手いが、おまえは下手だ。その訳は、『関ケ原の合戦』の時、(おまえが余計なことをしなければ、)徳川家康と石田三成の戦いはまずは百日に及んで、その間私は九州より勝ち上がって行き、相模辺りで家康と天下を争っただろうよ。その時は息子のおまえと言えど、打ち殺してでも大勝負に賭けただろう。天下を望む者は、親子の情に流されてはならぬものだ。”位の意味です。

 

とあり、黒田如水が老骨に鞭打って九州平定戦を力戦していた本当の意図は、天下の大会戦たる『関ケ原の合戦』が長引くことを予想して、その間西国の軍勢を引き連れて、家康と天下の覇権を争う考えであったが分かります。

 

しかし、実際には皮肉なことに、如水が家康への援軍くらいのつもりで出陣させた、息子の長政の大活躍もあって、僅か一日と言う短期で、家康は『天下分け目の戦い』の勝利をものにしてしまい、ここに黒田如水の野望は潰えてしまいました。

 

息子の長政は『関ケ原の合戦』において、親譲りの調略戦を駆使して、大活躍をしていたわけです。

 

チャンスは、再度乱世となる状況が必要で、またそうなる状況が現実にあったのにと如水は残念がっています

 

 

尤も、公式文書である『黒田家譜』では、同じ如水臨終の場面は、、、

長政に語り給ひけるは、家康公關が原の一戰に若打負たまハゝ、天下又亂世となるべし。然らハ我先九州を打したがへ、其勢をもつて中國を平げて上方へ攻上り、家康公・秀忠公を助け、逆徒をほろぼし天下を統一して忠義を盡さんと思ひしなり。然れ共家康公關が原の戰に御運を開かせ給ひ、今天下太平に成しかは、我世におゐて別につとめなし。

 

(引用:川添昭二/福岡古文書を読む会校訂『黒田家譜 第一巻 巻之十四 468頁』1983年 文献出版)

大意は、”如水が息子長政に語り掛けたのは、「もし家康公が『関ケ原の戦い』で負けるようなことがあったら、天下はまた乱世となるだろう。そうなったら、私はまず九州を従え、そのまま中国を平定し上方へ攻め上がり、家康公・秀忠公をお助けし、逆徒を攻め亡ぼして天下を統一し、忠義を尽くそうと考えていた。しかし強運の家康公は『関ケ原の戦い』に勝利され、今は天下泰平となり、私にはこの世での仕事がなくなった。」と。”位の意味です。

と、このように江戸期の福岡藩首脳陣は如才なくオリジナルの文意を無難なものに脚色して、幕府へ『家譜』を提出していたようです。(笑)

 

 

黒田如水は秀吉の死後に、徳川家康と豊臣奉行衆・毛利輝元はいずれ衝突するものと見ていた。

これに関して、『黒田家譜(くろだ かふ)』によると、、、

 

同年の秋 慶長五年 如水は、豊前中津川に在城し給ふ。上方に兵亂起らん事かねてさとれる事なれば、上方より急を告來らんために、早船を大坂と備後の鞆と周防の上の關と凡三所に置て、大坂よりの使鞆まて來れば、其舟は大坂へ歸し、鞆の舟上の關まて來り、其舟は鞆へ歸り、上の關の舟中津川へ來れと命じおかれける。上の關より中津ハ海上二十八里也。かくのことく段々に告來る故、水手・舵取等辛勞なく、日夜おこたらずして、大坂より三日ばかりにハ、中津へ早船到來す。

七月十七日、大坂に在し家臣、母里太兵衛・栗山四郎右衛門方より、野間源兵衛といふ者を下して注進しけるハ、家康公関東へ下り給ひしを好時節と思ひ、石田治部少輔亂を起し、毛利輝元・嶋津・小西・安國寺、其外奉行中をすゝめ、大軍を催し、家康公を討奉らんと企て、先伏見其外近國にある所の内府公の御方の城々を攻んとて、士卒を指遣さんと議する由風聞申候と、委細の書狀を以て告來る。

其上使者の口上にも其由ひそかに私語ける處に、如水少も隠密せずして、天下分目の兵亂はや出來たり。いそぎ陣用意すへしと高聲にぞ仰ける。

 

(引用:川添昭二/福岡古文書を読む会校訂『黒田家譜 第一巻 巻之十二 390頁』1983年 文献出版)

 

大意は、”

慶長五年(1600年)の秋、黒田如水(官兵衛)は、豊前中津に在城されていた。関西で軍事衝突が起こることを以前から予想していた如水は、大坂から迅速な情報を得るために、早船を大坂・備後の鞆(とも)・周防の上の關(かみのせき)の三ヶ所に配置し、急な知らせを大坂⇒鞆⇒上の關⇒中津へ早船で来るようにせよと命じておかれた。上の關から中津まで海上で28里(約112㎞となりますが、GPSの直線実測値では約90㎞弱くらいです)で、このように引き継ぎ引き継ぎ来るので、船員らの疲労も少なく、24時間体制で3日ほどで大坂の情報が中津で得られる

7月17日、大坂に配置された近臣の母里太兵衛栗山四郎から野間源兵衛と言う者が使者として報告にやって来て、家康公が上杉討伐へ出陣された隙に、石田三成が謀叛を起し、毛利輝元・嶋津維新・小西行長・安國寺恵瓊外奉行達が同調し、大軍を組織して家康公を討伐しようと、先ず伏見城を攻撃するために兵を出陣させたと言う情報が詳しい書状とともに報告された

その使者が如水にひそひそと耳打ちしようとしたが、如水は大声で「天下分け目の戦いが早、やって来た。急いで出陣の準備をせよ」と皆にお命じになった

”位の意味です。

 

後年書かれたこの『黒田家譜』の記事によれば、黒田如水は豊臣秀吉没後の上方の情報を逐一、発生後3日くらいで入手し続けて、天下の情勢判断をしていたようです。

 

豊臣秀吉の歿後の来るべき政治情勢に関して、如水は可能性としていくつかの選択肢を想定していたと思いますが、前掲史料にあるように、逐一状況情報を集めて、それに修正を加えつつここぞという判断が、7月17日の正に毛利輝元が上坂したタイミングを捕らえた情報を以てなされて、如水も動き出した様子がよく分かります。

情報入手システムの構築状況から見て、如水は上方の政治情勢判断を自分のカンだけで行った訳でなく、正確な情報分析を基に徐々に対応準備を始めて、一気に決断をしたと言うプロセスだったようです。

 

そのベースには、当然如水個人の持つ野望があったことは当然の事ですが、動き出した後も天下の見極めが見事で、最後の島津攻めも家康の命令の下、さっと兵を引いて行ったところは、さすがのものです。

 

秀吉の逝去前から、毛利輝元の野心と実情、奉行衆の思惑なども見て、対応準備をしていたことは如水にとって自然だったのでしょう。

 

この辺りの如水の対応を見て、秀吉もそうだったのでしょうが、やはり家康も背筋が寒くなって、如水に対して警戒感を強める大きな原因になっていたと考えられます。

 

 

『関ケ原の戦い』で、黒田如水はどう徳川家康と連携したの?

取次役の井伊直政から、息子の黒田長政宛の書状に、、、

 

自如水公此中貴様へ參候御状共数通被下候、拝見仕候、内府披見入可申候、今度於御国本ニ、別而御精被入、殊御人数数多御抱被成、内府次第、何方へ成共御行候ハん由候、此節ニ御座候間、何分ニも被入御精、又御手ニ可入所ハ、なにほとも御手ニ被入候へと可被仰遣候、何事も面上ニ可申上候、恐惶謹言、

八月廿五日              直政(花押)

黑甲州樣
人々御中

 

(引用:『黒田家文書 第一巻 本編 30 井伊直政書状』1999年 福岡市博物館編纂発行)

大意は、”

如水公より、「あなた様への書状」と言う書面を何通か頂戴して拝見いたし、家康公へも御見せ致しました。この度如水公は国元におられて、頑張って兵力を準備されたとの事、家康公はすぐに、思うままにどこへなりとも出陣されるよう仰せで、こんな時節なので、何分にも奮闘されて、結果九州の領地切り取り自由とおっしゃられています。その事、書面にてお伝え致します。

 

(慶長五年)8月25日      井伊直政(花押)

黒田長政殿
御家中

”位の意味です。

 

とあり、これによると黒田如水(官兵衛)は、九州での開戦前に九州の状況を徳川家康へ知らせ、家康から戦闘許可と領地切り取り自由の言質をとっていたようです。

 

家康は、如水の息子黒田長政が家中の全軍兵力5400名を引き連れて、会津討伐へ参陣しているにも関わらず、留守居役の父如水が、国元で更に兵力を集めたと言う如水の言に驚くとともに、まだ勝敗の目処が立たぬ『関ケ原の大戦』を控えて、もし如水が西軍を背後から崩せるものなら、九州は好きにせよと述べたに過ぎないのでしょう。

 

しかし、きちんと要所を押さえてから行動に出る、理詰めの如水の面目躍如と言ったところでしょうか。

 

所詮、織田信長と長曾我部元親(ちょうそかべ もとちか)の『四国切取り自由の約束』が信長から反古(ほご)にされたように、『君子は豹変す』であることは、如水は百も承知だったと思いますが、『関ケ原の大戦』で、徳川家康が苦戦するとの読みであった黒田如水(官兵衛)にすれば、十分勝算のある事前取引だったに違いありません。

 

結果、思惑が大外れした如水でしたが、そこは長曾我部元親のように大騒ぎをせず、従容として結果を受け入れたところはさすがだったと考えられます。

 

まとめ

豊臣秀吉に天下を獲らせた男黒田官兵衛(如水)は、『本能寺の変』以後、秀吉から遠ざけられてしまいましたが、それが幸いしてその後の『秀次事件』や『利休事件』に巻き込まれる事もなく過ごして、徳川家康と同様に、秀吉が老衰により自滅して行くのを横目で見ながら、天下取りの来るチャンスをひたすら待っていたようです。

 

豊臣秀吉の『唐入り(朝鮮出兵)』の戦役の際に、豊臣政権内で自分の意のままにならない武闘系の実力者を、追い落とそうとする石田三成らの讒言(ざんげん)で危ない局面に立たされましたが、息子の長政に家督を譲って隠居する(如水となる)ことによって難を逃れていました。

 

そして、待ちに待った慶長3年(1598年)8月18日の豊臣秀吉逝去により、ポスト秀吉の政局が動き始め、その「後継者に指名」されている大老筆頭の徳川家康と、それを認める気がない奉行筆頭の石田三成らとの対立が深刻化して行くのを、如水は北九州の豊前中津でじっくり眺めていました

 

翌慶長4年春に石田三成が家康によって失脚させられ、徳川家康が豊臣政権内での権力強化を進める中、慶長5年(1600年)になると、会津に在国していた大老上杉景勝が家康の上洛命令を拒否したため、家康は6月6日に大坂城西の丸において在坂の諸大名へ「上杉討伐」の出陣命令を出し、16日には大坂城を出発します。

 

その6月6日に長政が、保科正直の息女を家康の養子として娶り、家康の身内となって、16日の会津征討へは同道して参戦します。

 

豊前中津に在国していた黒田如水は、前述した本章にある7月17日に『石田三成・毛利輝元ら決起』の確報を入手するや否や、出陣準備にとりかかり蓄えた財貨を使って急いで傭兵を搔き集め始めます

 

そして、『関ケ原の戦い』直前の家康より、ちゃっかり『九州切取り自由』の言質を取ってから、前章にある『九州の関ケ原の戦い』を始めていた訳です。

 

結果として、家康から『九州切取り自由』の約束は反故(ほご)にされましたが、直前に長政が盟友蜂須賀の娘を離縁してまで、徳川との婚儀を行ったかいがあって、長政に筑前52万石の領地が与えられます。

 

上手く「大だぬきの徳川家康」に丸め込まれた形となりましたが、なんとか九州での一角を占めるに至りました。

 

ムリに無理を重ねて、戦国の覇者にのし上がろうと頑張ったにも拘わらず、歴史の中に消えた美濃のまむし「斎藤道三」などと比べれば、播磨の国人領主小寺家の城代家老の息子に過ぎなかった『黒田官兵衛』が、筑前福岡52万石の大大名「黒田家」として、明治まで残せたのはその生まれ持った『先見の明』だったのではないでしょうか。

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参考文献

〇国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第四巻』(1984年 吉川弘文館)
〇『松井文庫所蔵古文書調査報告書 三 』(1998年 八代市立博物館未来の森ミュージアム編集発行)
〇金子堅太郎『黒田如水伝』(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917589
〇岡谷繁実『名将言行録<4>』(1997年 岩波書店)
〇川添昭二/福岡古文書を読む会校訂『黒田家譜 第一巻』(1983年 文献出版)
〇『黒田家文書 第一巻』(1999年 福岡市博物館編纂発行)
〇本多隆成『定本徳川家康』(2011年 吉川弘文館)
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