執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
細川幽齋は『関ケ原の戦』で、徳川家康勝利に貢献した!ホント?
スポンサーリンク
・徳川家康が勝利した『関ケ原の戦い』で、最初に石田三成が細川幽齋を狙い撃ちした理由が判明します。
・西軍に攻められた丹後田邊城で52日間籠城した細川幽齋は、後陽成天皇の勅命で救われた!ホント?
・豊臣秀吉恩顧の大名である細川幽齋は、なぜ徳川家康に乗り換えたの?
・徳川家康と細川幽齋がいつ懇意になったの?
目次
なぜ細川幽齋は、石田三成の西軍から攻められることになったの?
以前は豊臣秀吉の有力武将・御伽衆(おとぎしゅう)だったとは言え、もうすでに隠居している細川幽齋を、なぜ石田三成は15000もの大兵力であえて今更攻めたのかと言う事ですが、、、
羽柴越中守事、 何之忠節も無之、太閤様御取立之福原右馬助跡職従内府得扶助、今度何之咎も無之、景勝爲追討内府へ助勢、越中守一類不残罷立候段、不及是非候、然間従秀頼公御成敗各差遣候条、可被抽軍忠候、至下々迄依働可被加御褒美候、恐々謹言
七月十七日 長束大蔵大輔正家
石田治部少輔三成
増田右衛門長盛
徳善院僧正玄以
別所豊後守殿
(引用:細川護貞『綿考輯録 第一巻 巻五 192頁』1988年 出水神社)
大意は、”
細川忠興の事、太閤様に何の忠節もなく、太閤様が取り立てた福原長堯(ふくはら ながたか)の所領を徳川家康の力で引継ぎ、今度は、何の罪もない上杉景勝追討の家康軍に、忠興の一族は残らず参陣した。
それでやむを得ず、秀頼公が御成敗を皆にご命じになりました。忠義を尽くす様に、下々に至る迄働きによって褒美が出ます。
(慶長5年)7月17日 長束正家(なつか まさいえ)
石田三成(いしだ みつなり)
増田長盛(ました ながもり)
前田玄以(まえだ げんい)
別所吉治(べっしょ よしはる)殿
”位の意味です。
この福原長堯は『朝鮮出兵』の時、軍監として朝鮮へ渡り、『蔚山(ウルサン)城の戦い』において、蜂須賀家政・黒田長政・毛利高政・早川長政・竹中重隆の戦闘を軍令違反として秀吉に讒言(ざんげん)して、その功により秀吉から領地を得ていました。ここでは、その領地を戦後になって徳川家康に取り上げられ、細川忠興の所領?とされたことを問題にしています。
しかし、福原長堯は石田三成の妹聟なので、この命令書は秀頼や他の奉行達の意向とは関係なく、石田三成本人の遺恨・意趣返しによって作成されたものである可能性が高いと考えられます。
ただ、全体としてみると、細川父子が豊臣恩顧の大名の内、一番早く徳川家康の上杉討伐行動への支持表明をしていることから、これ以上家康支持派が拡がらないように、豊臣系大名たちへの牽制的行動(みせしめ)であったことが本筋だったとも考えられます。
結果から見ると、石田三成が細川幽齋の人望・政治力・武将としての力を見くびっていたことが明らかで、幽齋の力がここまで大きい(たった500人で15000人の軍勢と52日間も丹後田邊城の籠城戦を戦い抜いた事・あろう事か後陽成天皇が勅命を出して戦闘を中止させ幽齋を救出した事)とは思ってもいなかったようです。
石田三成の狙いは、『細川家譜(綿考輯録)』によれば、、、
七月、石田三成、居城佐和山より兵を率て大坂に至り、一味同心の輩会合して、家康公をほろほし奉るへき評諚仕のよし、丹後にも風聞有之候、此時家康公へ随身の大名多き中に、忠興君ハ別て御懇にて候間、決定家康公の御閲なるへし、いそぎ御内室を人質に取、丹後へ軍勢を指向、幽齋君を責候ハヽ、忠興君も御心を翻さるへし、さもなくハ城を攻落し、丹後一国を治むへしとの議定にて、数ケ国の勢を被差向由、・・・、
(引用:細川護貞『綿考輯録 第一巻 巻五 192頁』1988年 出水神社)
大意は、”
(慶長5年)7月、石田三成は兵を率いて大坂に到着し、反徳川派の会合を開き、徳川家康を討ち果たすことを決議した。この事は丹後の細川幽齋にも情報が入った。この頃家康に従う大名が多い中で忠興は特別に懇意にしており、必ず家康のお気に入りである。すぐにでも忠興の奥方を人質に取って、丹後田辺城へ軍を差し向け、幽齋を攻めれば、忠興も西軍に寝返るだろう。もしダメなら、田辺城を攻め落とし丹後一国を領有するとの取り決めを行い、数カ国の兵を差し向けたと言う。・・・、
”位の意味です。
このような段どりとなっていたようで、やはり、家康に打撃を与える目的で、一番頼りにしている細川家を家康(東軍)から、西軍へ寝返りをさせようと意図した攻撃命令であったようです。しかし、ただの隠居と判断し幽齋の政治力も考えないあまりに杜撰な・姑息な考えに基づく計画と思われ、本音のところは三成の単なる意趣返しにあったと考えた方がよさそうです。
或は、田辺城攻撃軍の主力を務めた小野木縫殿助(おのぎ ぬいとのすけ)が、石田三成に取り入ろうとした献策だったのかもしれません。
(画像引用:丹後田辺城ACphoto)
細川幽齋は、西軍15000の兵に取り囲まれて、丹後田辺城に52日間籠城し、後陽成天皇の勅命で開城を命じられて九死に一生を得た。
細川幽齋が、慶長5年(1600年)9月12日に田辺城を開城したと言うのは、、、、
今度就相乱不出陣候就は、不慮之籠城故、砕手無比類働候。只今以勅諚退城候。山陰ニ可遣候由得其旨候。尚此者可申候。恐々謹言
九月十二日 幽齋玄旨花押
温井藏助殿
(引用:藤井治左衛門編著『関ケ原合戦史料 五 九月十二日の条』1979年 新人物往来社)
大意は、”
この度の争乱について、(東軍として)出陣しなかったのは、思いがけなく籠城を強いられたからです。悪戦苦闘の較べようもない籠城戦でした。今、お上の勅命を受け、和議を結んで城を開城し退きます。山陰方面へ行くように言われています。このことは、使者が詳しくお話します。
(慶長5年)9月12日 細川幽齋(花押)
温井藏助(ぬくい くらのすけー田邊城籠城の家臣)殿
”位の意味です。
とあり、実際に後陽成(ごようぜい)天皇から和議を結んで開城するようにと言う勅命を貰い、幽齋は武士の意地を捨てて田辺城の開城に応じたようです。
ここに至る田辺での幽齋の立ち振る舞いの経緯は、『綿考輯録(細川家家譜)』に詳しいです。。。
丹後に人数被差向との評議有之候由、三刀谷四兵衛(三刀谷四兵衛孝和ーみとや こうわ)より田辺江早々注進仕候、幽齋君被思召候は、宗徒悉く関東江御供仕、松井有吉は豊後に有、今僅の兵を以、諸城の守成難かるへし、弥敵寄来らは、宮津を初、久美・峯山外所々を自焼して、田辺一城にて御防戦有へきとて、国中の武具玉薬等不残田辺へはこひ、士卒皆一所に集り、家中の妻子は御運を開かれ候迄ハ、便りを求て立忍ふへきむね御下知被成候、
十八日、大坂よりの飛脚到着、昨十七日上様御生害の告あり、御仰天被成候処、無程石田一味の衆、丹後へ攻入之由聞へ候間、急ぎ宮津江被仰越候は、大坂御屋敷之儀此方も御同前に思召候間、御子様方、御女中方、何も御一所に御果可被成候、・・・(中略)・・・、
自是さきに小野木縫殿助、国中に触て、若此度大坂の御下知に背き、幽齋父子の方入するものは、静謐の上厳科に可行旨申付るによりて、地下人の中には是を怖れ、或は一揆を起すものも有之候間、いつれも至而難儀の事とも多く、此時入江淡路か妻、一揆を防ぎ、男子に勝る働き致し、沢田次郎助妻なと抜群の才覚有之候由、・・・(中略)・・・、
田辺の城攻手の大将には、小野木縫殿助・・・(中略)・・・、大坂の使番二頭歩騎合一万五千余人となり、・・・(中略)・・・、
七月廿日、敵国堺まて乱れ入、山を越、嶺を伝ひ、追々に寄来り候、・・・(中略)・・・、
廿一日にハ、城近き山嶺に昇見へ候、・・・(中略)・・・、城より半道はかり、在々所々を焼はらひ、鉄砲きひしく打懸候により、城中よりも足軽を出され候、・・・(中略)・・・、
廿四日、互に鉄炮打合候に日暮自分、東西南北の敵一度に貝を吹立、稠く鉄炮を打懸候へとも、城中にハ左のミ来らす、手負も無之候、城中よりも鉄炮打申候、・・・(中略)・・・、
廿七日、勅諚によって、八条殿より大石甚助と云家老、御使として御書持参仕、扱之儀被仰越候、幽齋君御対面、御馳走被成候、然とも敵と和睦之事ハ御断被仰、必死の思召に定られ候間、古今御相伝の箱、証明状、御歌一首被添、源氏抄箱・廿一代集なと禁裏江被御上候、・・・(中略)・・・、
右の如く一筋の思召にて御籠城之段、追々叡聞に達し、大徳寺玉甫和尚へ御内証にて、今度田辺籠城に付、幽齋討死於有之は、日本の歌道可有退転と、痛ましく思召され候、何とそ異見を加へ、下城有之候様にと、叡慮の趣、如此なれは、丹後へ罷下り、異見候て、可然由勅使被仰候処に、玉甫の御返答に規度勅諚との儀に御座候ハヽ、兎角の御辞退難仕候、御内証との儀に候間、幾重にも御免を蒙り度候、其子細は幽齋年老候て、此節城を罷出候とも、・・・(中略)・・・、
然間弥震襟を脳され、幽齋討死せは、本朝の神道奥儀、和歌の秘密、永く絶て神国の掟も空かるへし、古今伝授を禁裏へ残さるへしとて、大坂へ勅使を下され、前田徳善院に急ぎ、田辺の囲ミを解、幽齋城を出すへきよし詔あり、依之石田を始、勅命背難く、玄以の猶子前田主膳正茂勝を田辺に遣し、和議を取扱ふといへとも、幽齋君一向に御許容なく、弥堅く防禦の御用意被成候、・・・(中略)・・・、
九月十二日、両軍和儀の勅使として、三条大納言実条卿・中院中納言通勝卿・烏丸中将光広卿三人、前田主膳正を召連られ、田辺に御下向、・・・(中略)・・・、
小野木をはしめ寄手の諸将大きに驚き、俄に道筋を清め、鉾を伏て畏る、此時の勅諚に幽齋玄旨は文武の達人にて、ことに大内に絶たる古今和歌集秘奥を伝へ、帝王の御師範にて、神道歌道の国師と称す、今玄旨命を殞さは、世に是を伝ふる事なし、速に囲ミを可解旨被仰候間、をのをの畏て領掌仕候、則前田茂勝を案内者として、田辺の城に御入、叡慮の趣懇に被仰述、勅使三度におよひ候間、幽齋君も難黙止、綸命に随ひ奉らるへき旨勅答あり、
(引用:細川護貞『綿考輯録 第一巻 巻五 192~226頁』1988年 出水神社)
大意は、”
大坂で、(細川討伐のために)丹後へ軍勢を差し向けると言う評議があったとの情報が、すぐに田辺城の幽齋樣のもとへ、細川家家臣の三刀谷孝和(みとや たかかず)よりもたらされた。
幽齋樣が考えられたのは、当主細川忠興率いる細川軍の主力はすべて関東へ出陣している。腹心の家老松井康之は豊後杵築の城におり、今僅かの残存兵力で、丹後の諸城を守るのは困難である。もし敵がやってきたら、宮津・久美浜・峯山の諸城に火をつけ、田辺一城で籠城戦を行う事として、国内にある武器弾薬を田辺城へ運び、兵はすべて集め、家中の妻子は事態が改善し、連絡があるまでどこかへ避難するようにご命令された。
7月18日、大坂より飛脚が到着して、大坂屋敷で忠興正室が石田軍に攻められ自害したとの連絡で、仰天されていたところ、とうとう石田軍が攻め込んで来たとの報に、宮津城へ言って来られたのは、大坂屋敷で起こった事はこちらも同じ事になるので、妻子らも田辺へ集まるようにと・・・、
丹後侵入以前に、石田軍大将小野木縫殿助は、丹後国中に触れを出し、大坂の命令に逆らって細川一族に味方した者は、乱が収まって平穏になったら厳罰に処するぞと脅しをかけた。国人の中にはこれを怖れて一揆まで起こす者も現れ、困難な事が増えたが、この時淡路守の妻は一揆を防ぐなど男勝りの活躍をし、沢田次郎助の妻も才覚を示したと言う・・・
田辺城攻め手の大将は小野木縫殿助で、・・・(中略)・・・、大坂城の使い番の2人が大将で、騎馬・歩兵あわせて1万5千余人の軍勢となった・・・
20日、石田軍は、国境から乱入し、山を越え峰を越えて、だんだん近づいて来た・・・(中略)・・・、
21日には、田辺城近くの山に上って来るのが見え、・・・(中略)・・・、城から半道(はんみちー半里と同意)位で、あちらこちらで放火をして、鉄砲を激しく打ち放ち、田辺城からは足軽が応戦に出撃した・・・、
24日、互いに鉄砲を撃ち合っていて、日暮(にちぼー夕方)頃になり、城の四方八方からほら貝を吹き(総攻撃の合図)鉄炮を盛んに打ちかけたが、城中には何の影響もなく、負傷者もなく、城中からも鉄炮で反撃した・・・(中略)・・・、
27日、後陽成天皇のご命令で、八条宮智仁親王より大石甚助と言う家老が使者として、和睦を勧められる書状を持参し、幽齋樣と対面され盛んに斡旋された。しかし、幽齋樣は和睦の件をきっぱりお断りになり、必死の思いで、古今御相伝の箱、証明状、御歌一首、源氏抄箱・廿一代集等を禁裏へお渡しになった・・・(中略)・・・、
このように幽齋樣が、武士の面目・意地を通して籠城し続けている様子が、徐々に後陽成天皇にも伝わり、御上より大徳寺玉甫和尚に内々に、今度の田辺城籠城に関し、細川幽齋を討死させては日本の歌道にとって損失であると痛ましく思われ、なんとか説得して開城させるようにとの御意思が示された。玉甫和尚は早速丹後へ赴き、幽齋樣を説得にかかるが、幽齋樣はそれなりの勅使がおっしゃるのですから、御上のご命令なのでしょうから、もう御辞退は出来ないのでしょう。しかし内々と言う事なので、重ねて御辞退致します。理由は幽齋も年でございまして、このような者が開城したところで・・・(中略)・・・、
これを聞いて御上は大変心を痛められ、もし幽齋が討死すれば、わが国の神道の奥義・和歌の秘密が長らく断絶し、神国の掟も虚しくなる。古今伝授を朝廷に残さねばならないと仰せになり、大坂へ勅使を派遣され、前田玄以にすぐさま丹後田辺城の包囲を解き、細川幽齋を救出せよとご命令を出された。これを以て石田三成始め西軍の一統は勅命とあらば致し方なく、前田茂勝を田辺へ派遣し和議の交渉を始めるが、幽齋は一向に取り合う気配なく、却って田辺城の防備を固める始末・・・(中略)・・・、
9月12日、両軍和議の勅使として、三条実条(さんじょう さねえだ)卿・中院通勝(なかのいん みちかつ)卿・烏丸光広(からすまる みつひろ)卿の3人が、前田玄以の息子前田茂勝(まえだ しげかつ)を連れて、丹後田辺へ向かった・・・(中略)・・・、
小野木縫殿助始め攻め手の諸将は、この勅使来訪に大いに驚き、すぐに道を掃き清めて武器を収めた。
この時の、御上のご命令は、「細川幽齋は、内裏で絶えてしまった古今和歌集の秘奥を伝え、天皇の師範で、神道歌道の国師と称される。今もしこの幽齋をそなた達が討ち取れば、今後これを伝える者がいなくなる。直ちに包囲を解く事を命ず」とあり、諸将は畏まって了承した。
そして、前田茂勝を案内者として勅使が田辺城へ入城し、後陽成天皇の叡慮(えいりょーご意思)を幽齋へ伝えられた。幽齋もこの三度におよぶ勅使派遣に断り切れず、御上のご命令に従うと答えられた。
”位の意味です。
以上大変長くなりましたが、細川幽齋が後陽成天皇の勅命により、絶望的な籠城戦から解放された経緯がよく分かります。
超簡単に言えば、、、
最後に幽齋顔見知りの公家歌人たちが、勅使として田辺城へこぞってやって来て、「幽齋はん!、あんたなぁ~、もうええ加減にしなはれや!、御上(おかみ)もあきれてはりまっせ!」と述べた訳です。
幽齋も苦笑いして了承したのでしょうが、幽齋は最初からこれを狙っていたのかも知れませんね。こうなっては、石田三成も絶対手が出せなくなりますから。
大した策士です。
スポンサーリンク
細川幽齋も黒田如水と同様に、有力武将として親子で『関ケ原の戦い』に貢献して、後の家門繁栄につなげ、江戸時代を生き延びた。
黒田如水は、別記事で書きましたように、息子の当主長政に黒田家の全軍を付けて徳川家康の『上杉討伐』(東軍)へ参陣させ、自身は別途九州で傭兵を雇って軍を再編成をし、石田三成に同調して九州へ侵攻する毛利軍を食い止め、西軍大将となった毛利輝元の足を引っ張り、結果的に毛利軍が『関ケ原』に参戦出来なくさせると言う功を挙げました。
もっとも、毛利輝元は最初から中央の政権争いよりも西国侵略・領地拡大が目的だったようですが。
別記事
一方細川幽齋は、息子で当主の忠興に細川家全軍を付けて家康の『上杉討伐』(東軍)へ参陣させ、自身は領地の隠居城である丹後田辺城へ守兵500名で立て籠もり、石田三成派遣の15000の兵を9月12日までの52日間丹後田辺城に引き付け、9月15日の『関ケ原の戦い』に参戦出来る西軍の兵力を削減させました。
幽齋は、織田信長時代の『鳥取城攻め』の時、信長に毛利攻めの大将豊臣秀吉への与力を命じられて以来、小兵力ながら秀吉に臣従し(その後信長から命じられて、細川幽齋は明智光秀の与力大名となっていたはずなのですが、密かに秀吉と誼を通じ)ていました。
その後幽齋の読み通り天下人となった秀吉に、文人としてその御伽衆に加わっていた幽齋に対して、本当の実力を甘く見ていた石田三成は、秀吉の後継者を自認する自分がちょっと脅せば、幽齋はすぐになびくとでも考えていたのでしょう。
実は幽齋が、武人である息子の忠興よりはるかに軍事経験と実力のある武人でもあることを、小才子の三成は気が付いていなかったと言う事になりそうです。
しかし、500対15000の攻防戦と言う事実関係と、いくら幽齋が戦巧者で、田辺城を堅牢に縄張りしてあったとしても、30倍の兵力差で50日間以上も守り通すのはまず不可能です。しかもその500は精兵ではなかったと考えられるのですから。
そもそも、この戦いは攻め手の将の中に多く幽齋の歌道の弟子たちが入っていたと言われています。つまり、派遣された攻め手側も本気で田辺城を落そうとしてなかった可能性があるのです。
秀吉の御伽衆で力を持っていたはずの幽齋は、在坂奉行衆の動きから三成の意図は読んでいたでしょうから、それに対する手立てを組んでから、大坂から田辺へ向かった事でしょう。
こうした状況から、この勅命騒ぎの茶番はやはり幽齋が仕組んだもののような感じです。幽齋の母方の実家は、永く朝廷の大外記(だいげきー太政官の事務局長的存在)を世襲する名家のひとつである清原家です。尾張から田舎者の信長を担ぎ出す際にも、この清原家の関係者が動いていることから、この手の朝廷工作はお手のものです。伊達に13代将軍足利義輝の側近をやっていた訳ではないのです。
こうして大きく、後の天下人徳川家康にその存在感をアピールすることに成功したと言えそうです。
この戦国の世に、足利義輝⇒足利義昭⇒織田信長⇒豊臣秀吉と次々に主君を乗り換えて来た幽齋、今度はなぜ徳川家康へ乗り換えた?
細川藤孝(幽齋)の母は大外記の清原宜賢(きよはら のぶかた)の娘で、12代将軍足利義晴(あしかが よしはる)の子を身籠ったまま、将軍直臣の三淵晴員(みつぶち はるかず)に嫁ぎ、天文3年(1534年)4月22日に生まれたのが藤孝でした。
つまり、細川藤孝は13代将軍足利義輝(あしかが よしてる)の腹違いの兄で、12代将軍の御落胤(ごらくいん)だったわけです。
こうした特殊な事情の中で上流階級に生れた幽齋ですが、勉学は当代一流の学者である祖父清原宜賢に叩き込まれ、文人・歌人としても超一流の人材に育って行きました。
よんどころなき事情で、将軍の実子でありながら臣下の子となってしまったものの、上流階級の宮廷人である母の実家の力もあり、天文8年(1539年)6月には実父で12代将軍の足利義晴に無事御目見得し、和泉国守護で山城国勝竜寺城主細川元常(ほそかわ もとつね)の養子になるよう命じられました。藤孝(幽齋)は天文10年(1541年)1月12日には将軍義晴に出仕し、その後、若くして足利義藤(13代将軍の義輝)の側近として活躍して行くことになります。
永禄元年(1557年)以降、やっと京都に落ち着いた将軍義輝の腹心として側近を勤め、そして運命日の永禄8年(1565年)5月19日夜半に『永禄の変(将軍義輝弑逆事件)』が勃発し、主を失った藤孝は、義輝の実弟である興福寺の覚慶(かくけい)を担ぎ出します。
覚慶担ぎ出し後、幕臣で奉公衆筆頭の和田惟政(わだ これまさ)らと覚慶(義昭ーよしあき)の上洛を後押しする大名を探しますが、頼りにしていた越前朝倉義景(あさくら よしかげ)は当てが外れ、結局声をかけていた中で乗り気だった尾張の織田信長の助力を得て、とうとう永禄11年(1568年)9月26日に上洛を果し、覚慶(足利義昭)は第15代将軍に任官します。
しかし、政権を握ったものの織田信長の傀儡(かいらい)となる気のない足利義昭は、ことごとく信長と衝突を始め、細川藤孝は、将軍としての器が小さい義昭に見切りをつけて、義昭が京都を追放された元亀四年(1573年)には信長の臣下に入ります。
そして迎えた天正10年(1582年)6月2日早暁、天下人織田信長は重臣明智光秀に寝込みを襲われ、宿所の本能寺で自刃します。
この時、細川藤孝の行動に関して、次にような記録があります。。。
天正壬午六月二日、亥の刻四ツ半、この一点天下の大事を知るなり。すなわち丹波表の長岡兵部殿よりの御使者到来、前将様、兵部大輔様よりの密書を見られ候いて、慄然として声なし。・・・(中略)・・・、
ややあって気息相調え、兵部少殿よりの一書の趣申し語られ候なり。
「明智日向守逆心、洛中の御宿所本能寺に人数差し向け不意を討ち、御運拙く御最期の注進に候なり」、一座の者天下の大事、気転倒して徒に戸迷いなす術を知らずなり。
(引用:吉田蒼生雄訳注『武功夜話 第二巻 明智日向守謀反の事 163頁』1988年 新人物往来社)
大意は、”
天正10年(1582年)6月2日午後11時頃、この天下の一大事を知った。つまり、丹波国より細川藤孝殿からの使者が到着し、前野将右衛門様が細川藤孝様よりの書状を一読されて、慄然として声を失われた。・・・(中略)・・・、
少し間をおいて、息を整えて、細川藤孝様よりの書状の内容を語られた。
「明智日向守が謀反を起し、京都の信長公の宿舎本能寺に兵を出陣させ、上様信長公を不意打ちし、武運拙く上様は討死されたとの急報があった。」、一堂この天下の大事件を聞き、気も動転しなす術を知らない。
”位の意味です。
ここでの注目点は、豊臣秀吉が備中高松城攻めをしている最中に、『本能寺の変』の第一報を得たのは、古くは明智方の毛利への密使を陣の手前で捕まえたとか、堺の豪商今井宗久の早飛脚だったとか言われていましたが、この当時播磨の三木城に在城した秀吉の与力であった前野将右衛門(まえの しょうえもん)の記録によれば、早馬にて急使で『本能寺の変』の第一報を秀吉陣営に知らせて来たのは、細川藤孝であったことが分かります。
なぜ備中高松城で毛利攻めをしている豊臣秀吉の与力前野将右衛門が三木城にいたかと言うと、織田信長が応援で毛利征討へ出陣する予定となっており、その出迎えのために秀吉が、拠点の播州姫路城よりさらに京都寄りの三木城まで前野将右衛門を出迎えに待機させていたからです。
細川藤孝はと言うと、、、
4月には一色五郎と連名の宛名で信長の朱印状を得ているからこのころには宮津へ帰っていたらしい。5月12日には再度上洛し安土へ向かっている。19日に実母船橋氏死去。6月2日の本能寺の変のさいは宮津へ帰国していたらしく、変の一報は代理として信長の迎えに出ていた米田求政からもたらされた。この時剃髪して幽齋と号す。
(引用:藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成 〔第2版〕細川藤孝の居所と行動の章』2017年 思文閣出版)
公式的にはこれにある、細川藤孝は『本能寺の変』を腹心の米田求政(こめだ もとまさ)の注進によって知ったなどと、『細川家譜(綿考輯録)』の記述に拠って記載されていますが、『武功夜話』にある前野将右衛門の生々しい証言と時間的に食い違います。
まさに、この辺りが「既に細川藤孝が織田信長を見限り、豊臣秀吉についていた」と想定されるところです。また、『本能寺の変』の本当の下手人が明智光秀ではないと噂される一因もこの辺りの関係者の怪しげな動きにあるかと思います。
とにかく細川藤孝は、腹心米田求政が事変の確証を取った報告をのんびりと丹後宮津で待っていては、当時の道路事情で6月2日の午後11時に、三木城にいる秀吉の臣下である前野将右衛門のところに、早馬を着けるのは時間的に無理なのです。加えて、書状は藤孝の花押が必要ですから、書状の書き手は藤孝本人でなければなりません。事前の計画性を疑われるところです。
こうして、細川幽齋は主を豊臣秀吉に乗り換えて行きます。
そして、その豊臣秀吉は、小田原の後北条攻めが終了して、天下統一に成功した天正18年(1590年)以降、どんどん様子がおかしくなって行き、天正20年(1592年)に『唐入り』が始まります。
豊臣秀吉は、慶長3年(1598年)8月18日に死去し、秀吉の晩年、専横を極めていた石田三成を筆頭とする奉行衆に対して、幽齋は大半の武闘系有力大名がそうだったように秀吉の生前から距離を置き、その中で最も有力な徳川家康への支持を固めて行ったものと考えられます。
黒田如水のような野望があったようには見られませんが、細川幽齋も石田三成一味と徳川家康の衝突は時間の問題と考えていたようで、早くから徳川支持の考えを固めていたと思われます。
そして、事前の想定通りに始まった石田三成一味と毛利輝元らの『反徳川派の決起』は、最後、慶長5年(1600年)9月15日、『関ケ原の戦い』において東軍勝利で決着し、徳川家康方へ付いた細川幽齋の読みは見事に当たりました。
天正14年10月、家康はやっと秀吉の求めに応じて上洛したが、その時、幽齋も同席し、家康と懇意になったとか。
この件に関して、肥後細川家17代目当主細川護貞(ほそかわ もりさだ)氏の著作『細川幽齋』に拠れば、、、
天正十三年、・・・(中略)・・・、
秀吉は、関白に任ぜられ、禁中の作法等を菊亭右府晴季に学び、和歌を幽齋に学んだ。先ず連歌から入り、のちには和歌も詠むようになった。幽齋はそのほか公武の歴々は勿論、時の天皇を初め奉り、多くに歌道を伝授したので、これ以前にも大納言に任ぜられるとの御内意があったが、既に法躰の身であったから、秀吉の執奏で、二位の法印に叙せられ、折々参内もし、秀吉の所にも御伽に出仕していた。・・・(中略)・・・、
(天正14年)四月、幽齋は山城国西岡で三千石を在洛料として秀吉から拝領した。・・・(中略)・・・、
同月、大友宗麟が上洛して秀吉に謁した。秀吉は饗応して、相伴に大和大納言秀長、宇喜多秀家、幽齋、長谷川等が集った。
十月、家康は秀吉と和睦後、初めて上洛して来たので、秀吉は甚だ悦び、饗応したが、幽齋も相伴し、この時から幽齋と家康とは殊に睦じくなった。
(引用:細川護貞『細川幽齋 164~166頁』1972年 求龍堂)
とあり、細川家によると、天正14年(1586年)10月の徳川家康上洛・臣従の時、家康饗応の席に細川幽齋も同席し、その折に家康と幽齋が懇意になったと記述されています。
つまり、記述の事項にあるように、この頃の細川幽齋は秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)として、相談役のような役割を務めており、大事な会談には秀吉の側に必ずいたので、この「徳川家康の上洛」と言う重大政治事件には同席していたと言う話の流れになっています。
ところが、、、
天正14年(1586年)
(前略)・・・・、
10月15日に兼和をともない丹後田辺へ帰国。24日には忠興の居城を訪れ、26日には宮津へ帰城している。兼和は30日に帰京している。
(引用:藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成 〔第2版〕細川藤孝の居所と行動の章』2017年 思文閣出版)
と、細川幽齋の行動記録が記載されています。そこで、徳川家康の上洛記録を見てみますと、、、
晦日、辛夘、殿様去廿六日ニ大坂へ御着被成、御宿ハ美濃守也、明日廿七日關白様より御對面可被成候處、秀吉待かね被成、其夜御宿へ御越、殿様御手をとらせられ候て、おくの御座敷へ被成御座、御存分被仰、御入魂中ヽ無申計候、則御酒もりニ被成、關白様御酌にて御盃を殿様へ被進候、又御酌を殿様とらせられ候て、關白様へ被遣事、
(引用:竹内理三編『家忠日記<二> 天正14年十月の条 26頁』1967年 臨川書店)
大意は、”(天正14年)十月末日、家康様は去る26日に大坂へ到着され、御宿は関白実弟の豊臣秀長邸であった。翌日27日に関白豊臣秀吉との対面になる予定のところ、秀吉は待ちかねて、26日夜に宿の秀長邸へお越しになった。家康様の手をとられて、奥の座敷へ座られ、ざっくばらんに思いの丈を仰せになり、意気投合されて、すぐに酒盛りをされ、関白様御酌にて家康様へ盃を勧められ、またご返杯をされた。”位の意味です。
とあり、徳川家康が豊臣秀吉と対面したのは、天正14年(1584年)10月26日~27日であったことが判明します。
そうなると、前出『織豊期主要人物居所集成』にあるように、この時細川幽齋は領国の丹後に帰国していたと記載されており、念のためその論拠を検証してみますと、、、
廿四日、乙酉、令幽齋同道、宮津へ罷向、田邊ヨリ五里也、未刻着宮津、路次へ各迎ニ當津衆罷出畢、越中守昨日上洛云々、田邊・當津城中普請驚目畢、城中一之斎ニ於テ先入風呂、夕湌在之、殊更丁寧也、今夜玄蕃頭宿所へ罷向、一宿了、
(引用:橋本正信外3名校訂『兼見卿記 第3 天正14年10月の条 194頁』2014年 八木書店)
大意は、”(天正14年10月)24日、細川幽齋に同行してもらい、丹後宮津城へ出かけた。(宮津城は)田邊城から20㎞くらいのところである。午後2時頃に宮津城へ到着、沿道には宮津の人たちが迎えに出ていたが、当主の幽齋子息細川忠興は、昨日上洛したとのことである。田邊城ばかりか宮津城も見事な造作でびっくりさせられた。城中で幽齋室の兄沼田一之斎の邸で風呂を頂いた。晩餐が出たが見事なものだった。”位の意味です。
これによりやはり幽齋は、10月24日に吉田兼見卿と同道して、京より丹後国へ帰国していることが明白となり、10月26~27日に大坂城での豊臣秀吉ー徳川家康の会談に同席はしていないことがはっきりしました。
この時(第一回目の徳川家康上洛時)同席したのは、大広間の居並ぶ諸大名の中にいた(25日に宮津を出発していた)幽齋子息の細川忠興でしかなく、どうやら細川家の伝承と実際の史実は違いがあるようです。
しかし、周知の年表によれば、翌天正15年(1585年)の8月5日にも、徳川家康は2回目の「豊臣秀吉との上洛面談」をしているので、その時の幽齋の行動記録では7月25日~8月26日まで上洛していたようなので、この間に徳川家康と面談する機会はあったのではないかと思われます。
細川家の記録は、家康の第2回目の秀吉との上洛面談時の話を、ドラマチックにするために1回目の上洛時の話に持って来て記憶されていたと言う、よくある話だったのではないかと思われます。
とは言うものの、最終的に幽齋は、家康の将来性に賭けて豊臣政権からの乗り換えを図ったことは間違いないところでしょう。
スポンサーリンク
まとめ
『関ケ原の戦い』の西軍の初戦は、家康居城の伏見城と幽齋の守る丹後田邊城の攻撃でした。
石田三成は、伏見城攻撃はともかく、細川家の隠居である幽齋だけがいる丹後田辺城をなぜ攻撃させたのでしょうか?それは、黒田長政とともに、早くから家康支持を打ち出して豊臣系大名を引っ張っている細川忠興を、西軍に寝返りさせる目的だったと言われています。
しかし三成の思惑は大きく外れて、老いぼれのはずの細川幽齋がしぶとく抵抗し、なんと三成の虎の子の15000もの兵力を、52日間も丹後田邊城に釘付けにして、『関ケ原の戦い』西軍敗因のひとつになってしまいました。
田邊城開城に当たっての幽齋の駆け引きは大変なもので、大坂から田辺へ帰国する前に朝廷工作など仕組んでおいたのものと思われる展開でした。しかし、忠興夫人のガラシャを死なせてしまった事は、同時期に同じ立場の黒田長政・加藤清正らが妻子の大阪脱出を成功させている事を考えると、やはり緻密な幽齋にしてこの不手際(ガラシャを見殺しにした)は、幽齋の明智光秀に対する心の闇を覗く思いがします。
足利将軍の第一子として生まれながら、臣下の子とされた幽齋は、幼い頃より将軍の側近として、天下人を見極めて行く鋭い感性が備わっていたようで、見事なまでに次の武家の棟梁を見極めて乗り換えて行きます。
将軍に登りつめたものの、とても天下人の器でなかった足利義昭の切捨て、天下を掌握しつつありながら、最後に暴君となり始めた織田信長の弑逆?、天下人となったものの後の手立てが組めずに亡くなった豊臣秀吉から徳川家康への乗り換えと、見事なまでに乱世を泳ぎ切っています。
特に『本能寺の変』は、決め手に欠ける『陰謀説』・『黒幕説』等が百出して収まりませんが、犯人・黒幕として挙げられた「天皇」ー「朝廷(公家)」ー「豊臣秀吉」ー「明智光秀」などの”各勢力と『本能寺の変』”の陰に共通して細川幽齋の存在を感じるのも不気味なところです。
目立たず上手く動くと言う処世術が、細川幽齋の身を救っているようで、織田信長の時代は明智光秀と張り合うことなく公家社会と信長を結ぶ役割をこなし、秀吉の時代には豊臣秀次・千利休・豊臣秀長の息子たちのように豊臣政権の中枢に触れて、石田三成等奉行達の粛清に遭う事もなく、家康からも忠誠を疑われることなく切り抜けて行きました。
毛利家・上杉家同様に、外様の有力大名として残され、存在するはずの種々の都合の悪い証拠は、徳川幕府側も隠滅に協力して行ったのではないかと思われます。
参考文献
〇細川護貞『細川幽齋』(1972年 求龍堂)
〇熊本大学文学部付属永青文庫研究センター監修『武将幽齋と信長~細川家古文書から』(2011年 熊本日日新聞)
〇細川護貞『綿考輯録 第一巻』(1988年 出水神社)
〇藤井治左衛門編著『関ケ原合戦史料』(1979年 新人物往来社)
〇藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成〔第2版〕細川藤孝の居所と行動の章』2017年 思文閣出版)
〇吉田蒼生雄訳注『武功夜話 第二巻』(1988年 新人物往来社)
〇竹内理三編『家忠日記<二>』(1967年 臨川書店)
〇橋本正信外3名校訂『兼見卿記 第3』(2014年 八木書店)