石田三成は、巨人徳川家康になぜ『関ケ原の戦い』を挑んだの?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

スポンサーリンク

石田三成が、なぜ『関ケ原の戦い』で徳川家康に挑んだのか分かります。

石田三成にも、「豊臣秀吉の遺命違反」があった事が分かります。

淀君『関ケ原の戦い』に関係なかった!ホント?

『関ケ原の戦い』の敗戦後石田三成はどうなったの?

 

石田三成は徳川家康を相手に挙兵し、なぜ勝利する可能性が低い戦いを挑んだの?

「奉行」と言うのは、何か特定の役割の幹事役を務める職種を言うのが一般的だと思いますが、この豊臣政権の場合は、秀吉の指示・命令を各武将に伝える側にいる連絡係から始まり、大名と秀吉の取次役(とりつぎ役ー窓口)へとなって行き、徐々に政治力を付けて行きました。

豊臣秀吉が関白になって以降は、今の政党政治で言えば与党の「派閥の領袖」なのか、特定の政策を任されることからすれば、内閣の「大臣」くらいの政治勢力となっていたようでした。つまり、秀吉の「側近」と言う政権内部で「秀吉に話を通せる有力者」と言う立場の人物になっていた訳です。

 

そして豊臣政権末期の奉行は、、、

  • 浅野長政(あさの ながまさ)
  • 長束正家(なつか まさいえ)
  • 石田三成(いしだ みつなり)
  • 増田長盛(ました ながもり)
  • 前田玄以(まえだ げんい)

の5名にほぼ固定され、いわゆる「五奉行」と言う事になっていました。

 

彼等は秀吉から、武人としての軍務能力ではなく、「吏僚(りりょう)」と呼ばれる組織の事務・管理能力を重用された人材でした。織田信長も早くからそうした見方で臣下から人材を登用しており、「吏僚」としては、京都所司代の村井貞勝・堺代官の松井有閑など行政の長としての能力を発揮できる人材を発掘していました。また明智光秀のように文武両道で活躍できる人材や、豊臣秀吉のように調略(諜報・謀略)が得意な人材なども重用しました。

前述の秀吉の「五奉行」などは、『本能寺の変』と言う千載一遇の機会に政権を奪取したものの、有力な譜代家臣を持たない秀吉が、小姓・側近の中から目端が利く者を「吏僚」として重用して行った小才子たちでした。

 

大事件となった文禄4年7月の「関白秀次失脚事件」では、、、

 

〇石田軍記云。遣増田長盛于途。直令赴高野。

遣使曰。應如高野以竢命。附諸僧興山。時従者猶數百人。石田三成斥之。不得過左右三十人。遂住高野山、入靑厳寺。秀吉奏秀次大逆之罪。詔削秀次官爵。廢爲庶人。又収秀次子女及妻妾三十餘人。捕幽諸徳永壽昌第。禁錮龜山城。

秀次尋剔髪號道意。石田三成竊諭僧興山。勸秀次自盡。興山悉會法徒。欲爲乞減死一等。弗果三成及長盛以秀次存猶不安。日夜勸秀吉正典刑。秀吉乃遣福島正則。福原直高。池田秀氏。率兵一萬。

十四日。抵高野。達秀吉之命。僧徒猶請哀不肯。率兵圍靑厳寺。秀次怒曰。渠等奚無禮之甚乎。興山諭三使卻兵。

十五日黎明。秀次遂自殺。歳ニ十八嬖臣山本主殿等皆殉焉。

十六日。使者還獻元。秀吉不視日仛。興山胡不慈不情、三成請而梟首于京師。暴白其叛後諡曰善正寺。法名高厳道意秀次好内。右大臣晴季女美而嫠。秀次娶焉。其先夫之女亦婉。又取之。母子並寵。秀吉最惡之。・・・(中略)・・・、後房殆數百人。耦嫡者二十餘人。淫楽極醜。

八月。秀吉命玄以。長盛。三成。輿秀次幼子女及妻妾腰三十四人。徇諸京師。悉處斬。見者莫不流涕欷歔。瘞尸於一坑。標曰畜墳。

 

(引用:飯田忠彦『野史 第一巻 巻四十九 武將一十五 羽柴秀次 502~503頁』1929年 日本随筆大成刊行會)

大意は、”

〇「石田軍記」によると、(文禄4年7月8日、聚楽第の関白秀次の所へ)増田長盛が遣わされ、(関白秀次は)直ちに高野山へ行かされた。

使者の口上は、「まさに、高野山へ行き(太閤様の)御沙汰を待つべし。」と。付き添いの僧侶は興山らである。その時御供の者は数百人に上ったが、石田三成がこれを退け、御供は30人に満たない人数とした。一行は高野山へ到着し、靑厳寺へ入った。太閤秀吉は関白秀次を大逆罪として、秀次の官爵位を剥奪し、平民にした。又、秀次の妻子・側室を集め、先ず徳永壽昌の屋敷へ幽閉し、その後亀山城へ閉じ込めた。

秀次はまもなく頭を丸めて「道意」と号した。石田三成は密かに僧興山に、秀次へ自殺を進めるように言い聞かせていた。しかし僧興山は、坊主を全員集めて、秀次の罪一等を減じて死罪にしないように嘆願した。これに困った三成と長盛は、秀次が生存していることに不安を覚え、秀吉に秀次に厳罰を下すように日夜進言した。(その進言を受けて)秀吉は、福島正則・福原直高・池田秀氏を使者とし、兵1万引率させた。

7月14日に、(福島正則ら三使者が)高野山へ到着し、秀吉の沙汰が届いた。それでも尚、僧徒等が助命を懇請して承諾しないため、兵が靑厳寺を包囲した。関白秀次が怒って、「彼等はどうしてこんなひどく無礼なまねをするのか!」と言うので、僧興山が福島ら3人の使者を諭して、兵を退かせた。

(結果、翌日の)7月15日の明け方、関白秀次は自刃した。年齢28歳であった。寵臣の山本主殿(やまもと とのも)ら従者らも殉死した。

7月16日、秀吉の元へ使者らが帰り報告したが、秀吉は(秀次の首を)見ようともしなかった。僧興山は、なんでそんな慈悲も情愛もないことが出来ようかと思ったが、石田三成は京都で秀次をさらし首にするよう願った

その謀叛が明らかになった後、関白秀次の諡号は「善正寺」、法名は「高嚴道意」。右大臣菊亭晴季の娘は美しい未亡人で秀次が娶った。その先夫の娘がまたあでやかで、秀次はこれも又側室とし、母子を並べて寵愛した。秀吉はこれを最悪とし、・・・(中略)・・・、秀次のハーレムにはおよそ数100人。二人子を成した者も20人余り、淫乱醜悪の極み。

8月、太閤秀吉は前田玄以・増田長盛・石田三成に命じて、秀次の幼い子女・妻妾・腰元34人を輿に乗せ、京都中を引き廻した後、全員斬首刑に処した。これを見た者で、涙・すすり泣き・忍びなきしない者は無く、遺体はひとつの穴に埋められ、「畜墳(畜生の墓)」と表記された。

 

”位の意味です。

 

この歴史上有名な事件は、その残忍な結末とともにすべて豊臣秀吉の残虐性を示すものとして有名ですが、幕末期の嘉永4年に国学者飯田忠彦(いいだ ただひこ)によって執筆された全291巻にも及ぶこの大著の『野史(やし)』のニュアンスでは、関白秀次の処分内容に躊躇している秀吉に対して、強硬に極刑にて処刑するように迫ったのは、石田三成ら奉行たちであると言っているようです。

 

 

そして、もうひとつの有名な事件は、『利休切腹事件』です。。。

 

千利休の事に関して、日本史の高校の教科書には、、、

 

堺の千利休(せんのりきゅう)は、茶の湯の儀礼を定め、茶道を確立した。利休の完成した侘茶(わびちゃ)は簡素・閑寂(かんじゃく)を精神とし、華やかな桃山文化の中に、異なった一面を生み出した。茶の湯は豊臣秀吉(とよとみひでよし)や諸大名の保護を受けておおいに流行し、茶室・茶器・庭園にすぐれたものがつくられ、花道(かどう)や香道(こうどう)も発達した。

 

(引用:笹山晴生 外15名『詳説日本史 日本史B 改訂版 168頁』2018年 山川出版社)

やっぱり、千利休が豊臣秀吉に殺された話は一切出て来ませんね。

 

一、スキ者ノ宗益今暁腹切了ト、近年新儀ノ道具共用意シテ高直ニウル、マイスノ頂上也トテ歟、以外關白殿御腹立、則ハタ物ニト被仰出テ、色々トワヒコトニテ、壽像ヲ作テ、紫野ニ置テハタ物ニ取上了、住屋獫斷、主ハ高野ヘ上ト、ヲカシキ事也、誠悪行故也、

 

(引用:多門院英俊/辻善之助編『多門院日記 第四巻 天正19年2月28日の条』1967年 角川書店)

 

大意は、”数寄者の千利休は今朝(慶長19年2月28日)明け方に切腹を遂げた。近年「新規の茶道具」を作り、高値で売買し、「売僧(まいす)の極み」と言われ、「以ての外だ」と関白秀吉殿は激怒され、磔に処せと命じられた。その他いろいろ悪事があり、木像を作って紫野大徳寺の山門に上げたとしてこれも罪状となり、寺の住職らも取り調べられ、住持は高野山へ送られるとか、奇妙なことである。本当にそんなに悪い事なのか。”位の意味です。

 

実際に起こった事件の概要はそんな事のようですが、、、

 

秀吉公 茶の湯を好、利休を尊ミ、千阿弥宗易利休居士と称せらる、抛釜軒不審庵と号す、茶の湯の名人にて古今稀也、然るに此度罪に行ハれ候、其科數箇条之由候へ共、多くハ例の讒言と聞へ申候、・・・(以下略)・・・、

 

(引用:細川護貞監修『綿考輯録 第二巻 忠興公(上) 巻十 100頁上』1988年 出水神社)

 

大意は、”太閤秀吉公は、「茶の湯」を好み、千利休を尊重し、「千阿弥宗易利休居士」と称せられ、「抛筌軒不審庵」と号した。「茶の湯の名人」にて古今稀な存在であった。しかし、今度罪を問われ、その罪は数ケ条に及ぶのだが、多くは例の讒言(石田三成らの告げ口)と言う噂である。”位の意味です。

 

「細川家譜」である『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』の細川忠興の巻に、”その茶道の師匠である千利休に掛けられたのっぴきならぬ嫌疑は、奉行の石田三成の讒言(ざんげん)によるものと皆が言っている。”と記載されています。

 

このように奉行の石田三成らが、秀吉の茶堂に過ぎない千利休を敵視・危険視した理由は、、、

・・・(前略)・・・、

美濃守殿へ參候折節、普請之假屋に御座候、殊外御取持、御酒なと數辺御進候、酉刻程に罷立候、はる~宗滴手をとられ候て、何事も何事も美濃守如此候間、可心安候、内々々儀者宗易、公儀之事者宰相存候、御為ニ悪敷事ハ、不可有之候、弥可申談と諸万人ノ中ヲ手ヲ取組、御入魂中々忝存候、

いつと□宰相殿を頼申候ハてハにて候間、能々御心得可入候、今度利休居士被添心、馳走之様子難申盡候、永々不可有忘却候、此元之儀見申候て、宗易ならてハ 関白へ一言も申上人無之と見及申候、

大形ニ被存候而者、以外候、とにかくに當末共秀長公・宗易へハ、深重無隔心御入魂専一候、・・・(後略)・・・、

 

夘月六日           宗滴(在判)

 

(引用:大分県教育庁文化課『大分県先哲叢書 大友宗麟 資料集 第五巻 1870大友宗滴書状写 217頁 天正14年4月6日付書状』1994年 大分県教育委員会)

大意は、”

豊臣秀長殿へ挨拶へ参った時、屋敷普請中との事で仮住まいにおられたが、歓待していただき、御酒など何度も勧めて頂いた。夕方6時過ぎに辞去しようとした時、少し遠くより手を取られて、「いつもいつも私はこのような様子なので、ご安心下さい。豊臣家内部の事は千利休に、公けの事は私秀長が承っております。あなたの為に悪い樣にはしませんから、どんどんご相談ください。」と皆がいる前で、手を取って親しくして頂いた。

いざと言う時には秀長殿を頼りにしようと肝に命じた。この度は利休殿にも心を込めて気を使って頂いた様子は言葉に尽くし難く、ずっと忘れないであろう。それらの様子を見るにつけ、利休殿以外で関白殿へ一言言える人物はいないのだろうと感じた。

通り一遍の付き合いはとんでもない事で、秀長公と利休殿へは深く親しく付き合うことが大切なことだ。・・・(後略)・・・、

(天正14年)4月6日         大友宗麟(在判)

”位の意味です。

 

これは、豊後の大名大友宗麟(おおとも そうりん)が初めて大坂の関白秀吉を訪ねた折に、秀長邸を訪問した様子を国元の重臣へ書状で知らせた時のものです。この当時の豊臣政権は、関白の実弟秀長と、千利休が実権を持って動かしていたことが、この秀長の言動から分かります。

 

秀長の云う「豊臣家内々の事」と言うのは、奥向きの話ではなくて、家臣団に関する話で、利休はその「茶道の宗匠」としての絶大な力で大名間に強い人間関係を構築しており、関白秀吉も豊臣政権の運営に、利休の力を頼りにして大名間の調整に当たっていたことが知られています。

 

言ってみれば、秀吉から使い走りとして大名間の「取次」をやって来た三成等奉行衆よりも、重要な話になると利休の人脈が大きな力をもっていたことが、この秀長の言葉にも込められています。

 

力を持ち始めていた三成等奉行衆にとって、秀吉と大名とを茶の湯のルートで直結に結ぶ千利休の政治力は、老境に入り始めた豊臣秀吉に代って、淀君を操って権力をわがものにしようと考え始めていた石田三成ら奉行衆にとって、邪魔な「目の上のたんこぶ」であったことは間違いないようです。

 

こうして、関白秀次、千利休、豊臣秀長の後継者の抹殺など、謀略で次々と邪魔者を蹴落として権力の中枢を握り始めていた三成ら奉行衆にとって、最後に大きな壁となって立ちふさがる徳川家康を殲滅除去することが、彼らの最終目標になりつつあったのが、「反徳川勢の一斉蜂起」となって現れたものと思われます。

 

 

つまり『関ケ原の戦い』は、都合の良い「幼い秀頼様に忠義を尽くす」を錦の御旗として、”「秀吉に後継者として指名された徳川家康」打倒を目的とした決起した「石田三成ら奉行衆のクーデター」だった”と見て良いようです。

スポンサーリンク

『関ケ原の戦い』は、豊臣政権の、徳川家康と毛利輝元の跡目争い!石田三成はどうなの?

前章で示しましたように、慶長5年(1600年)7月から9月15日の『関ケ原の戦い』に至る「反徳川決起」を催した石田三成ら奉行衆の挙兵動機は、豊臣政権内の主導権争いと見て良いかと思います。

慶長3年(1598年)8月18日の太閤秀吉死去によって崩れた豊臣政権内での政治バランスは、遺言通り主席大老の徳川家康が政務を担当し、後継秀頼の傅役に大老の大納言前田利家がなる事によって、徳川陣営対反徳川陣営の政治バランスは辛うじて保たれることとなりました。

しかし、利家の病が重篤となり、慶長4年(1599年)閏3月3日死去に至ると、同日徳川寄りの反奉行・反石田三成の武将7名により、『七将襲撃事件』が起こって石田三成が襲撃され、結局徳川家康に先手を打たれた形で、奉行衆の首座である石田三成は政治的に失脚してしまい、本拠地近江佐和山城にて蟄居となり、豊臣政権は徳川家康が大老として権力を掌握します。

 

家康は間を置かず、他の有力大老を潰しにかかり、先ず各大老を帰国させ、程なく発覚した家康暗殺事件に絡んで加賀の前田利長を帰順させ、次に会津の上杉景勝の召喚をしたものの応ぜず、豊臣公儀軍として「会津征討」が慶長5年6月から始まることとなります。

 

もう一人の大老毛利輝元は、別記事でも解説しましたように、秀吉の死後ほどなく、三成を筆頭とする奉行衆(反徳川方)に付く誓約書を出しており、家康の会津出陣とともに、奉行衆から上坂要請のあった7月15日には、即全軍率いて船で広島から大坂へ出陣しました

 

もうすでにその決起の手はずは、毛利の外交僧であった安国寺恵瓊を通じて奉行衆との間で手順が取り決めてあったものと考えられます。輝元は上坂後すぐに反徳川決起軍(西軍)の大将となり、徳川関係者を追い出して大坂城二の丸を占拠します

 

しかし、毛利輝元の本当の狙いはこの際筆頭大老の徳川家康を叩き、政治的に有利な立場を確保して、西日本(西国)の覇権を取ろうとする領土的野心があるのみで、天下の政治など全く興味はありませんでした。

 

そう言う意味で、この時天下の覇権を争ったのは、徳川家康と石田三成一派と言う事になりそうで、肝心の豊臣宗家は名目ばかりに使われて、実際は「カヤの外」だったと考えて良いかと思います。

 

『関ケ原の戦い』前後で西国の太守毛利輝元がどう立ち回ったかに関しては、筆者の下記別記事をご参照ください。

別記事

石田三成にも、豊臣秀吉の遺命違反はあった!ホント?

ここで注目されるのは、先ず”「豊臣秀吉の遺命(遺言書)」とはどんなものなのか?”ですが、これは、浅野長政が秀吉の病床で聞き書きしたものが残されています。

 

「太閤様御覺書」

太閤様被成御煩候内ニ被爲 仰置候覺

一、内府久々里ちきなる儀を御覧し被付、近年被成御懇候、其故 秀賴樣を孫むこになさ連候之間、秀賴樣を御取立候て給候へと、被成 御意候、大納言殿年寄衆五人居申所にて、度々被 仰出候事、

一、大納言ハおさなともたちゟ、里ちきを被成御存知候故、秀賴樣御毛里尓被爲付候間、御取立候て給候へと、内府年寄五人居申所尓て、度々被成 御意候事、

一、江戸中納言殿ハ 秀賴樣御志うと尓なさ連候條、内府御年もよら連、御煩氣丹も御成候者、内府のをく、 秀賴樣之儀、被成御肝煎候へと、右之衆居申所尓て被成 御意候事、

一、羽柴肥前殿事ハ、大納言殿御年もよら連、御煩氣尓毛候間、不相替 秀賴樣御毛里尓被爲付候條、外聞實儀忝と存知、御身ニ替り肝を煎可申と被 仰出、則中納言ニ奈さ連、者したての御徒本、吉光之御脇指被下、役儀をも拾万石被成御許候事、

一、備前中納言殿事ハ、幼少より御取立被成候之間、 秀賴樣之儀ハ御遁有間敷候條、御奉行五人尓毛御成候へ、又於とな五人之内へも御入候て、諸職おとなしく、贔屓偏頗奈し尓御肝煎候へと、被成 御意候事、

一、景勝、輝元御事ハ、御里ちき尓候之間、秀賴樣之儀御取立候て給候へと、輝元へハ直ニ被成 御意候、景勝ハ御國ニ御座候故、皆々ニ被爲 仰置候事、

一、年寄共五人之者ハ、誰々成共背御法度申事を仕出し候ハゝ、さけさやの躰尓て罷出、双方へ令異見、入魂之様ニ可仕候、若不屈仁有之而きり候ハゝ、おい者らと毛可存候、又ハ 上様へきら連候とも可存と、其外ハ徒らを者ら連、さう里を奈越し候共、 上様へと存知、 秀賴樣之儀大切ニ存知、肝を煎可申と、被成 御意候事、

一、年寄爲五人、御算用聞候共、相究候て、内府、大納言殿へ懸御目、請取を取候而、 秀賴樣被成御成人、御算用可多御尋之時、右御兩人之請取を懸 御目候へと、被成 御意候事、

一、何多る儀毛、内府、大納言殿へ得御意、其次第相究候へと、被成 御意候事、

一、伏見ニハ内府御座候て、諸職被成御肝煎候へと 御意候、城々留守ハ徳善院、長束大藏仕、何時も内府てん志ゆまても、御上り候ハんと被仰候者、無氣遣上可申由、被成 御意候事、

一、大坂ハ 秀賴樣被成御座候間、大納言殿御座候て、惣廻御肝煎候へと被成 御意候、御城御番之儀ハ、爲皆々相懃候へと被 仰出候、大納言殿てん志ゆまても、御上り候ハんと被仰候者、無氣遣上可申由、被成 御意候事、

右一書之通、年寄衆、其外御そ者尓御座候御女房衆達聞被成候、以上、

(引用:東京大學史料編纂所『大日本古文書 家わけ二 浅野家文書 107豐臣秀吉遺言覺書 135~136頁』1968年 東京大學出版會)

大意は、”

「太閤様覚書」

太閤様がご病床の中で、おっしゃられた事の覚え(備忘録・遺言書)

一、徳川家康殿は、長く律儀な所を見て近年親しくしている。そこで、秀頼を孫聟(まごむこ)とし(徳川家と姻戚関係となって)秀頼を盛り立ててほしいとの考えである。この事は、前田利家殿・奉行衆が居並ぶ中で、度々言っている。

一、前田利家殿は、自分の幼友達なので、その律儀な性格はよく知っており、秀頼の傅役(もりやく)として、秀頼を盛り立ててほしいと思い、德川家康殿・奉行衆の居並ぶ所で、度々言っている。

一、徳川秀忠殿は、秀頼の舅(しゅうと)となられるので、家康殿が年を取られ病気になられたら、その後を継いで秀頼の盛り立て役となってほしい。右の衆の居並ぶ中で申し伝える。

一、前田利長殿は、利家殿も年を取り、病身なので、利家殿と変わらず秀頼の傅役になられる様と、すぐに中納言に任官させ、「橋立の壺」・「吉光の脇差」を下げ渡し、役料として10万石を遣わす。

一、宇喜多秀家殿は、幼少の頃より取り立てているが、秀頼の事から逃げてはいけない。奉行五人の内にもなりなさい。又大老五人の内に入って、職務を真面目に勤め、依怙贔屓(えこひいき)などしない責任者におなりなさい。

一、上杉景勝、毛利輝元の事は、律儀のようなので、秀頼の事を盛り立てて行く様にと、輝元には直接私の意向を伝え、景勝は領国に帰っているので、皆に言っておく事。

一、大老職五人の者は、誰かが御法度に触れることをした場合、下げ鞘の体(戦闘をやる気がない事をみせている状態)で出て来て、双方意見を穏やかに交わして解決する事。もし、折れることなく双方でやり合い斬り合いに至った時は、追い腹を切らせるか又は私太閤に処断されたと思う事。その他、顔を殴られ、草履を直されても、私太閤にされたとし、秀頼への忠義を大切に思い、世話を焼いてほしい。

一、五大老で蔵入り(豊臣家の収入)の財務管理をするので、徳川家康殿・前田利家殿にお見せして、受取をもらっておく事。秀頼が成人して豊臣家の財務状況を尋ねた時には、そのお二人の受取を御見せするようにしてほしい。

一、どんな事であっても、徳川家康殿と前田利家殿の了解を得て、そのご意見次第で取り進めるようにする事。

一、伏見の城には、徳川家康殿に居てもらい、政務全般を執って貰う事。城番は前田玄以と長束正家が務め、何時でも家康殿が天守に上りたいと言われたら、気遣いなくお上げするように。

一、大坂の城は、秀頼に居てもらい、前田利家殿も居てもらい、傅役としてすべてお世話をお願いしたい。城番は皆交替で勤め、利家殿が天守に上りたいと言われたら、気遣いなくお上げするように。

 

右の書状の内容は、大老衆、その他側に仕える女房衆達にお聞かせになった。

”位の意味です。

 

とあり、この『豊臣秀吉の遺言書』により、「太閤秀吉が政権の後継者に徳川家康を指名している」ことが明確になります。秀吉がため込んだお金の金庫番までを、家康と利家の大老ふたりに任せていることが、政権をろう断しつつあった奉行衆、特に石田三成に激しい危機感を抱かせたのではないかと考えられます。

 

そして、三成の打った手立ては、別記事で解説したように、浅野長政を除く石田三成等四奉行と手を組んだ毛利輝元は軍事力を使い、、、

 

一、太閤様御事、去廿三日被成御遠行之由候、然者五人之奉行と家康半不和之由ニて、當家御操半之由候、安國寺御使之由被仰下候、御手前之御氣遣少茂無之由候、御存命中被堅候事、も者や相違之分ニ候、寀塚大藏・增田右衛門・淺 彈正忠・石田治部少輔・徳善院右之衆奉行ニて候

一、當家御人數二万餘被召置候、鐡炮七百丁、其外御家中相加候ハゝ五千丁も可有之由候間、不及氣遣候由佐石被申候

・・・(中略)・・・、

九ノ二       周竹

又次郎殿 參 申給へ

 

(引用:山口県文書館編集『萩藩閥閲録 第三巻 巻99ノ2 内藤小源太の項 慶長四年9月2日の条 167~168頁』1995年 マツノ書店)

大意は、”

一、太閤殿下は、8月23日にご逝去されたそうです。しかし、奉行衆と大老徳川家康は不和の状態であり、当家の工作も半ばのようです。安国寺恵瓊殿が言われているのですが、あなた様の御心配はもう無用のようです。太閤殿下ご存命中の決め事は、もはや意味を成さないそうです。輝元君がご懇意の、長束正家・增田長盛・石田三成・前田玄以らが奉行なのですから。

一、當家の兵力20000を(畿内へ)既呼び寄せており、鉄砲700挺、駆け付ける御家中を加えると、5000挺もあるそうで、心配には及びませんと佐世元嘉(させ もとよし)が言っております。

・・・(中略)・・・、

(慶長4年)9月2日      内藤隆春(ないとう たかはる)

内藤元盛(ないとう もともり)殿

”位の意味です。

 

どうやら、毛利輝元は石田三成ら奉行衆と密約を結んで、天正20年の『太閤の裁定』を反故(ほご)にするために、太閤死去に合わせて領国安芸国より2万もの軍勢を呼び寄せており、一方、石田三成は前掲『太閤遺言書』にある「後継者徳川家康」を消すため、その輝元の軍事力を利用して新たな取り決め(政権の後継者が徳川家康であることを無効にする事)を作る作戦だったようです。

 

そして、慶長4年9月3日付にて通称「十人連判状」なるものが締結され、「取り決めは大老5名奉行5名の10人の多数決にて決定する」と言う事になり、石田三成の思惑どおり「太閤遺言書」は反故にされてしまいます。

 

こうして「徳川家康が後継者」と言う秀吉の意向は、石田三成らによって無視されることとなりました。

 

前掲「別記事」でも既に紹介した石田三成ら四奉行と毛利輝元の密約とは、、、

(慶長三年八月廿八日付毛利輝元起請文の石田三成による加筆部分)

もし、今度被成 御定候五人之奉行之内、何も 秀頼様へ逆心ニハあら徒候共、心ゝニ候て、增右、石治、徳善、長大と心ち可い申や可らあらハ、於吾等者、右四人衆と申談、 秀頼様へ御奉公之事、

 

(引用:東京大学史料編纂所編『大日本古文書 家わけ八ノ三 毛利家文書之三 962毛利輝元起請文前書案 247頁』1997年覆刻 東京大学出版会)

大意は、”もし太閤様のお決めになった大老5人の内、誰かが、秀頼様への謀叛の考えはないにしても、増田長盛・石田三成・前田玄以・長盛正家の四奉行の方針に逆らう者があれば、私毛利輝元は奉行四人衆と心を合わせて、秀頼様への奉公を致します。”位の意味です。

 

つまり、太閤秀吉死去よりわずか10日にして、石田三成は「秀吉遺言覚書」体制に違反して、「私党を組んでいた」ことが判明し、まさにこの盟約に基づき、三成の要請により前述の毛利軍畿内出兵がなされたと考えられます。

 

そこで、、、

石田三成ら奉行ばかりでなく、大老前田利家まで巻き込んで史上有名になり、石田三成らの家康弾劾の発端となった「徳川家康私婚事件」の根拠となっているものは、実はこの「秀吉遺言覚書」の中にはなくて、、、

 

     御掟

一、諸大名縁邊之儀得 御意以其上可申定事

一、大名小名涂寺令契約誓紙等堅停止之事

一、自然於喧嘩口論者致堪忍之輩可屬理運之事

一、無實之儀申上輩有之者雙方召寄堅被遂御糾明事

一、乘物御赦免之衆家康利家景勝輝元隆景古公家長老出世之衆 此外雖大名若年之衆者可爲騎馬 年齢五十以後之衆路次及一里者駕籠之儀被成御免候 於當病者是又駕籠御免之事

右條々於違犯之輩者可被處嚴科者也

文禄四年八月三日            隆景 輝元 利家 秀家 家康

 

(引用:近藤瓶城『改訂 史籍集覧 第十三冊 130豐太閤大坂城中壁書』1968年 史籍集覧研究會)

大意は、”

御掟

一、諸大名間の婚儀は、太閤秀吉の了解を得てから取り進める事

一、大名小名は寺社を除き、その間にて誓紙の取り交わしを行う事を禁止する

一、もし喧嘩口論が起きたら、こらえて許すのが理に叶っている

一、訴訟で無実を主張する者がいたら、双方出頭させて事実を糾明する事

一、乗り物(駕籠・輿)を許すのは、徳川家康・前田利家・上杉景勝・毛利輝元・小早川隆景、並びに古くからの公家長老・出世した者、その他は大名と言えども若年の者は騎馬にて、年齢50歳以上の者で1里以上の距離は駕籠で、病身の者も駕籠でよい

この条文に違反する者は、厳罰に処す

文禄4年(1595年)8月3日     小早川隆景 毛利輝元 前田利家 宇喜多秀家 徳川家康

 

”位の意味です。

これは、秀吉死去の3年前に出された「豐太閤大坂城中壁書」と言われる文書です。

 

確かにこれには家康の私婚問題は抵触しそうですが、石田三成が秀吉の死後わずか10日で内密に結んだ、毛利輝元との誓紙取り交わしもはっきり抵触します。

 

石田三成が、この「掟」を破った根拠は”「掟書」を出した本人の豊臣秀吉が死去したのだから当然無効である。”とのことでしょうから、毛利輝元と私党を組んだ三成も同罪であり、家康の事を言えた義理ではないのです。

 

つまり、「徳川家康私婚問題」は石田三成の完全な「言いがかりであった」ことが判明します。

 


(画像引用:関ケ原石田三成本陣ACphoto)

淀君は石田三成の「反徳川決起挙兵」に同調していなかった!ホント?

掲題の話の根拠とされているものは、、、

 

遠路御使札忝存候、御帋面之趣、則内府爲申聞候所、被入御念段、祝著ニ被存候、然者於上方、石治少・大形少、別心仕ニ付而、大坂より御袋様幷三人之奉行衆、北國羽肥州なと、早々内府被上洛尤之由申來候間、右之別心仕兩人爲成敗、今度此方江御下候上方衆致同道、上洛被申候、路次中城々江も番勢越入、

仕置丈夫尓致、被罷上候、此表之仕置者、武蔵守に被申渡候、旁可御心安候、拙者式今度ハ此方尓残置被申候、相替儀候者、節々可申達候、恐惶謹言、

 

七月廿七日                   榊式部太輔 康政書判

秋藤太郎樣 御報

 

(引用:国立公文書館編集『譜牒餘録 中 巻49 531下~532上頁』1974年 内閣文庫)

 

大意は、”

遠い所を書状ありがたく存じます。書面のご趣旨をすぐに家康に申し伝えましたところ、しっかり理解されめでたい事でした。

それで、畿内に於いて、石田三成・大谷吉継が謀反を起し、大坂より淀の方や3人の奉行衆、北陸の前田利長などから、早々に徳川家康上洛すべきだと言って来ています。

謀叛を起した二人を成敗する為に、今回東国へ下向していた上方の軍勢を同道して上洛するべく、途中の城々に軍勢を入れ、準備を十分にして上洛します。

この東国には、徳川秀忠殿を残していますので、ご安心下さい。私も残留を決めていますが、もし交替の場合は順次ご連絡致します。

(慶長5年)7月27日             榊原康政(さかきばら やすまさ) 書判

秋田實季(あきた さねすえ)様 御連絡

”位の意味です。

 

と言う事で、ここで問題は、文中に”淀の方からも謀叛人を討伐しろと言って来ている”と言うところかと思います。これを捉えて、淀君と三奉行は三成らに同調していないと言う話につながったのではないかと思われます。

 

ここで言われている情報は、この文書の発信2日後の7月29日に、かの有名な『内府ちがひの条々』と言う石田三成等奉行衆の檄文の到着によって打ち消され、大坂城にある豊臣政権中枢部が三成・大谷らと共に「反徳川家康決起事件」の中核を為していることが判明します

 

残っている文書群の中に「淀の方」の存在は、事件関与として確認出来る史料が見当たりませんので、やはり奉行衆と大老毛利輝元の叛乱だったと言う事になるのかもしれませんが、彼らの「錦の御旗」が彼女の息子である豊臣秀頼である以上、「淀の方も無関係であるはずがない」と言うのが常識的な見方ではないかと思います。

 

 

『関ケ原の戦い』後、石田三成はどうなったの?

『関ケ原始末記』によれば、、、

・・・廿三日輝元ハ大坂を退て和州木津へ引のき、増田ハ其居城郡山へ蟄居す、是に依て井伊兵部少輔 本多中務少輔 福島左衛門太夫 池田三左衛門 浅野左京太夫 藤堂佐渡守等大坂へ發向し西の丸を請取勤番す、福島浅野黒田等本丸へ赴て秀賴に謁す、

同日、田中兵部少輔北近江にて、石田治部少輔を搦め捕て兵部少輔自警固し大津へ召具して參向す。

石田去十五日敗軍の後、戰場を迯れ伊吹山を越て草深く路嶮しき岩窟の中の堂にかくれてやふれたるつヽれを身に纏ひ、米を腰に付、鎌を指て樵夫の病に伏る体にて伏居たりけるを、田中か家人尋捜して終に召捕けり、

大津の御陣へ參りけれハ御小袖を下さる飢寒を救はせ給ひ本多上野介に預けられ、きひしく警固す、石田折節腹中を煩けれハ、醫者に仰付られ養生を加志めらる。

・・・(中略)・・・、

十月朔日、石田治部少輔三成、小西攝津守行長、安國寺恵瓊長老大津より大坂へ引渡され、今日京へ遣され奥平美作守請取て三人ともに各車一兩つヽにのせ、洛中引渡し四條河原にて三人共に斬罪せられ三條河原に首を梟らる。

 

(引用:近藤瓶城『改訂史籍集覧 第二十六冊 新加別記第六十九 關原始末記下 27~28頁』1968年 史籍集覧研究会)

大意は、”(慶長5年)9月23日、毛利輝元(もうり てるもと)は大坂城西の丸を出て大坂木津の毛利屋敷へ引き揚げ、増田長盛(ました ながもり)は居城郡山へ蟄居した。これによって、井伊直政(いい なおまさ)・本多忠勝(ほんだ ただかつ)・福島正則(ふくしま まさのり)・池田輝政(いけだ てるまさ)・浅野幸長(あさの ゆきなが)・藤堂高虎(とうどう たかとら)等は大坂へ出発し、大坂城西の丸を請取り城番に入った。福島・浅野・黒田(くろだ ながまさ)は本丸の豊臣秀頼へ謁見した。

同日、田中吉政(たなか よしまさ)が北近江にて石田三成(いしだ みつなり)を捕縛し、吉政自身で警護して大津の陣屋へ引き立てた

石田三成は、9月15日の関ケ原敗戦の後、戦場を落ち延びて伊吹山を越えて、山奥の道険しい洞窟の中にある御堂に隠れて、ぼろを身にまとい、腰に米袋をぶら下げ、鎌を差して、木こりが病に臥せっている風を装っていたが、(三成と同郷の)田中吉政の家臣が探索してとうとう捕まえた。

大津の陣屋へ引き立てられてから、寒気を防ぐ小袖を着せられて、本多正純(ほんだ まさずみ)に渡され、厳しく監禁された。石田三成はときどき下痢をしていたので、医者を付けられて治療が行われた。

10月1日、石田三成、小西行長(こにし ゆきなが)、安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)は大津陣屋より大坂へ移動し、さらに京都へ連行されて奥平貞能(おくだいら さだよし)が受取り、3人別々の車に乗せられ、洛中引き廻しの上、京都四条河原で斬首刑に処せられて、三条河原に首をさらされた。”位の意味です。

 

また、『美濃雑事紀』によると、、、

 

石田治部少輔三成は伊吹山より谷草野と云ふ所へ行き、其より小谷山を経て馬上山に走る。爰迄 磯野平三郎、渡邊勘平、藍野清助共したり。

石田三成三人に向て各々是迄の志誠に以忘れ難し、我思ふに子細あり、一先づ大坂へ打越し島津兵庫頭義弘を頼み運を開かんと思ふ也、・・・(中略)・・・、三人の者共力及ばず、然る上は兎にも角にも御運開かせ玉はんこそ我等が願ふ處なれと、暇申して互いに涙にむせながら別れ別れにぞなりにける。

三成は獨すごすごと幼稚の昔物習したる三重院と云ふ僧、法華寺と云ふ所に在住あるを頼み見ばやと思ひ、夜に紛れ彼の方へ行き門を叩く。三重院弟子出て誰ぞと問ふ。三成斯くと云。内より田中兵部少輔吉政井ノ口迄越され、山家を残る所なくさがし、剰へ三重院を縛り井ノ口へ出で行き候、斯様にては中々隠れ給はん事叶ふまじと云ひければ、三成力を落し、又近き所に善駐院とて相知れる僧の有りけるに立寄れば如何すべきと案ずる處に、在所の者來つて大事の落人を隠置き給はんこと以ての外の悪事也、

異見を用ひ不給ば、我々訴人可申と言ふに依て其處にも留り得ず、山林に身を隠し食せざる事四日とかや。餘りの事に稻の穂などを喰ふ故、脾胃を損じ瀉痢して山中に伏しける所に、古恩惠せし古橋村與次郎太夫と云ふ者の許へやうやうに行き頼み玉へば、興次郎太夫甲斐甲斐敷頼まれ、山中の洞に隠し置き、毎日食事を運ぶ。爰に一兩日あり。然る處に同村又左衛門と云ふ者與次郎太夫に言けるは、汝三成を隠す事沙汰あり、今天下の怨敵の科人ころよしなし、兎も角も分別候へと云。

此由三成聞て與次郎に申しけるは、我は迚も遁る可き身に非ず、此程の芳志謝するに詞なし、我茲にあらんと聞えば、汝が従類刑罰に逢ふべし、我汝を殺さんこと死後迄恥辱也、迚も可生我ならねば、汝訴人に成り我を捕へて訴へ出でよとあれば、與次郎泪を流し、是は思ひも不依仰哉、たとへ如何樣罪科に行はるゝ共悔ひ侍らん、唯何國迄も御供申し成行き玉はんを見届け申すべしと誠に思入て云ひければ、三成志は初より満足なり、乍去顯れんは必定なれば、切ては汝を遁してこそ黄泉迄も心安けれ、疾く疾くと有ければ、與次郎太夫力なく、泣く泣く田中兵部所へ斯くと告げる。

兵部悦び急ぎ士卒を遣し、三成を生捕り、乗物に入れ井ノ口迄來る。・・・(中略)・・・、

或説に浅井郡の内脇坂と云ふ所の葦原の中にて、田中兵部家來田中傳右衛門と云ふ者生捕るとも云。

・・・(中略)・・・、

治部少輔三成を森山より田中兵部召連れ都へ上り、夫より小西、安國寺を加へ、囚人三人召に依て大坂へ行く。・・・(中略)・・・、

去ぬる日鉾楯の諸矦其外諸歴々出座有しが、三成に對し、常の利巧と違ひ不覺にして縲絏の恥に逢ふよりは天晴關ヶ原にて討死可有事也と云々。

三成此事を傳へ聞てあざ笑て、討死抔を能き事とするは葉武者のする事なり、大將たる者は如何にもして命を全うして後日の功を思ふなり。我命を捨てざりしこと全く臆したるに非ず、一度大坂へ入り、輝元と評合せ、今一戰と志す故なり。内府の御運強きが故に吾れ如是、武將の法を知らぬ人々哉と云ひければ、皆皆理に伏して詞なく、福島正則申されけるは、三成の詞至極せり、武士に生れん者は、誰々も三成の如くして死にたき者也、豈恥辱とせんやと云はれける。

 

(引用:伊東實臣/間宮宗好『美濃明細記・美濃雑事紀合本 美濃雑事紀 巻一 三成等の末路の条 460~463頁』1969年覆刻 大衆書房)

 

大意は、”石田三成は伊吹山から谷草野と言う所へ出て、そこから小谷山を経由して馬上山に向った。ここまで磯野平三郎・渡邊勘平・藍野清助が同行した。

石田三成は三人に向って、これまでの諸君の忠誠心は忘れがたいが、私には思う所があるので、ひとまず大坂へ出て、島津義弘殿を頼って運を開こうと思う。・・・(中略)・・・、三人の力が及ばず、この上は殿には運を開いて欲しいと我等の思う所ですが、御暇いただきますと言って、別れ別れになった。

三成はひとりになり、幼い頃の勉学の師である三重院と言う僧侶が法華寺にいるので、頼れないかと思い、夜陰に紛れて門を叩いた。小僧が出て来たので事情を話すと、田中吉政の手の者がやって来て三重院和尚はしょっ引かれてしまいました。そんな状況なので、お匿いするのは無理ですと答えがあった。三成はがっかりしたが、近所の善駐院に見知った僧がいるので立ち寄ろうかと思っていると、村の者が寄って来て、御尋ね者を匿うなど以ての外ですと言う。

話も出来ず、我々通報しなければならないと言い出すので、ここにもおられず山林に身を隠し、四日間も食事が取れずに、無理やり生米など食べて下痢を起こして、山中で横になっていたところ、昔恩を売ったことのある古橋村の與次郎太夫と言う男のところへなんとか辿り着き、助けを頼んだ。與次郎はかいがいしく世話をし、山中のお洞に匿い毎日食事を運んでくれた。しかし、二日ほどした時、同じ村の又左衛門と言う男が與次郎に言うには、「おまえが、石田三成を匿うのは問題だ。今天下のお尋ね者ではないか。よく考えてみろ。」と

このやり取りを三成が聞いていて、「私はどうしても逃げなければいけない訳ではない。お前にはとても感謝している。私がここにいると分かれば、お前の一族に累が及ぶ、私はお前に危害が及べば一生の恥辱である。私を生かすのであれば、お前が通報人となって私を捕らえるよう訴えでよ。」と言った。與次郎は涙を流して、「思いも寄らない仰せです。たとえ罪に問われようと悔いはありません。どこまでもお供して行く末を見届けたく思います。」と言うのだが、三成は十分満足しており、「もう見つかるのは時間の問題だから、お前を安全にしてこそ成仏出来る。早く、早く」と言われ、與次郎は、泣く泣く田中吉政の陣屋へ通報した。

田中吉政は大喜びで、兵を出動させて三成を生け捕り、駕籠に入れて井ノ口の陣屋まで運んだ。・・・(中略)・・・、

一説には、浅井郡西脇坂と言うところの葦原の中で、田中吉政の家臣田中傳右衛門と言う者が三成を生け捕りにしたと言う。

・・・(中略)・・・、

石田三成は守山の陣屋から田中吉政に連行されて上洛し、そこで小西行長・安國寺恵瓊も加えて、囚人三人は大坂へ移動させられた。

先日、関ケ原合戦のお歴々が顔を揃えた時、石田三成に対して、「いつもの頭の切れと違って、大失敗して合戦に負け、捕虜になるくらいなら、あっぱれ、関ケ原で討死すべきじゃなかったのか?」と言う。

三成はこれを聞いてあざ笑い、「討死するなどをりっぱなことだと言うのは端武者の事である。大将たる者は何としてでも生き延びて後日の功を期すると思うものだ。私は命を捨てることを怖がったことはない。今一度大坂城に入り、毛利輝元殿と打ち合わせて、もう一戦するつもりだった。家康殿の運が強かったために、今私はここにこうしているのだ。まったく武将と言う者を知らぬ人たちだ。」と言うと、座がシーンとなり、福島正則が「三成の言葉はもっともだ。だれでも三成のように死にたいものだ。どうして恥だと言えようか。」言われた。”位の意味です。

 

上記にあるように、石田三成は関ケ原を脱出した後、故郷の北近江へ逃げ延びたようですが、この史料を見る限りにおいては、生まれ故郷の人々は彼に予想外に協力的ではなかったようですが、明智光秀のように落ち武者狩りで命を落とすことなかったようです。

 

しかし、言動を見ていると、石田三成は毛利輝元の寝返りにはまったく気づいていなかったようで、その辺りも関ケ原の敗因のひとつなのかもしれません。

 

三成の行動は、秀吉の出世物語が手本だったと思われますが、謀略だけでのし上がるのは、やはり並大抵のことではないと言う事でしょうか。

 

まとめ

明治時代になって、日本陸軍の御雇外人で軍事顧問のドイツ陸軍メッケル参謀少佐が『関ケ原の戦い』の諸大名の陣形図を一見して、即「これは西軍の勝利」と言ったという話がありますが、絶対勝利の陣形を取りながら、西軍は反乱軍リーダーの石田三成と西軍大将の毛利輝元の思惑が大きく違っており、型通り人数さえ集めれば合戦は勝てると読んだ石田三成は大敗北に終わりました。

 

ではなぜ、実戦経験の少ない吏僚出身の石田三成が、この歴戦の武将である徳川家康に挑んだかと言うのは謎のひとつですが、やはり豊臣秀吉の成功を自分の成功だと石田三成ら奉行衆が勘違いしていたとしか考えられません。

 

そして、たまたま天下人豊臣秀吉の側近でいたために、一度経験してしまった「権力の味」は如何ともしがたい魔力があるようです。恐らく、晩年の石田三成にとって、近年老醜の目立つ秀吉や豊臣秀頼・淀君は自分の権勢欲を満たすための単なる駒に過ぎなかったのでしょう。

 

自分の権勢欲の邪魔者である「豊臣秀次・千利休・豊臣秀長の息子たちまで」を次々に抹殺して行く非情さは、権勢欲に取り付かれた男石田三成の妄執を感じざるを得ません。

 

本文中に記述しました様々な事件には、背後に必ず石田三成ら奉行衆の影があり、秀吉を除く周辺の重要人物をひとりひとりと排除してゆく様には、凄まじいものがあります。秀吉が秀頼を守るために一番排除せねばならなかったのは、実は思い上がって危険な男となっていた石田三成ではなかったでしょうか。結局、彼が豊臣家を滅ぼした張本人とも言えそうです。

 

石田三成らが「反徳川決起のクーデター(庚子争乱ーこうしそうらん)」を起す書状「内府ちがひの条々」で、家康の秀吉の遺命違反を挙げていますが、本文中に示したように、石田三成は秀吉の死後10日も経たない内に、毛利輝元と奉行衆で「徒党を組む」遺命違反を犯していることが明らかになっています。

 

石田三成は、豊臣政権を乗っ取ることは考えていなかったにせよ、天下の政権を壟断(ろうだん)しようとしていたことは明白で、その大きな邪魔者徳川家康を潰すことに全精力を注ぎ込んだと言う流れになりそうです。

 

一次史料ではありませんが『美濃雑事紀(みのざつじき)』の一説にある、三成が捕らえられた後、縛られたみじめな姿を東軍の武将たちに笑われた折、「討死するなどをりっぱなことだと言うのは端武者の事である。大将たる者は何としてでも生き延びて後日の功を期すると思うものだ。私は命を捨てることを怖がったことはない。今一度大坂城に入り、毛利輝元殿と打ち合わせて、もう一戦するつもりだった。家康殿の運が強かったために、今私はここにこうしているのだ。」と強がった姿に、自身を過大評価している様子と、権力へ執着する考えがにじみ出ています

 

とは言うものの、このような考え方は戦国武将として覇権を争った人物であれば、当たり前のスタンスかもしれません。今の時代を生きる私には計り知れないところですが、現代の倫理基準で物を考えると大きな間違いを犯しそうです。

 

やはり石田三成は、戦国期を精一杯生きた歴史上の武将として、大いに評価をせねばならない人物のひとりであることは間違いないようです。

 

スポンサーリンク

参考文献

〇桑田忠親『豊臣秀吉研究』(1975年 角川書店)
〇飯田忠彦『野史 第一巻』(1929年 日本随筆大成刊行會)
〇笹山晴生 外15名『詳説日本史 日本史B 改訂版』(2018年 山川出版社)
〇多門院英俊/辻善之助編『多門院日記 第四巻』(1967年 角川書店)
〇細川護貞監修『綿考輯録 第二巻 忠興公(上)』(1988年 出水神社)
〇大分県教育庁文化課『大分県先哲叢書 大友宗麟 資料集 第五巻』(1994年 大分県教育委員会)
〇乃至政彦/高橋陽介『関ケ原の合戦はなかった』(2018年 河出書房新社)
〇東京大學史料編纂所『大日本古文書 家わけ二 浅野家文書』(1968年 東京大學出版會)
〇山口県文書館編集『萩藩閥閲録 第三巻』(1995年 マツノ書店)
〇東京大学史料編纂所編『大日本古文書 家わけ八ノ三 毛利家文書之三』(1997年覆刻 東京大学出版会)
〇近藤瓶城『改訂史籍集覧 第十三冊』(1968年 史籍集覧研究會)
〇国立公文書館編集『内閣文庫影印叢刊 譜牒餘録 <中>』(1974年 内閣文庫)
〇近藤瓶城『改訂史籍集覧 第二十六冊』(1968年 史籍集覧研究会)
〇伊東實臣/間宮宗好『美濃明細記・美濃雑事記合本』(1969年覆刻 大衆書房)
スポンサーリンク



コメントを残す

Time limit is exhausted. Please reload the CAPTCHA.