執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
1603年江戸に幕府を開いた徳川家康の出身地、本当はどこなの?
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・徳川家康の公式の出身地の確認が出来ます。
・徳川家康はなぜ幕府を江戸で開いたのかが分かります。
・徳川家康が姓名を「松平」から「徳川」に変更した理由が分かります。
・家康生誕地の「異説」が分かります。
目次
徳川家康の出身地はどこなの?
公式には、、、19世紀に編纂された江戸幕府の公式史書『御實紀(ごじっき)』では、、、
清康君 後の北方(華陽院殿御事なり)いまだ水野忠政がもとにおはしける頃設給へる御女あり(傳通院殿御事なり)。定吉はじめ酒井。石川等のおとなどもの計ひにてこの御女をむかへとり。廣忠卿の北方となし奉る。天文十一年十二月廿六日此御腹に若君安らかにあれましける。これぞ天下無疆の大統を開かせ給ふ當家の烈祖東照宮にぞましましける。
(引用:黒板勝美編『德川實紀 第一篇 23頁』1990年 吉川弘文館)
大意は、”家康の祖父松平清康(まつだいら きよやす)の後の夫人於富(おとみー華陽院ーけよういん)が、まだ刈谷城主水野忠政(みずの ただまさ)のところにいる頃に生んだ娘於大(おだいー伝通院ーでんつういん)がいた。重臣阿部大蔵貞吉(あべ おおくら さだよし)始め酒井政親(さかい まさちか)の働きでこの娘を家康の父広忠(ひろただ)公の夫人とした。そして天文11年(1542年)12月26日に若君が御生まれになった。この方が永遠の統一国を作った徳川家の家康公である。”位の意味です。
とあり、三河岡崎城へ復帰した松平広忠は刈谷の水野忠政の娘於大を嫁に取り、天文11年12月26日に三河岡崎城で家康は生まれたとしています。
また、これまた江戸後期、幕府によって編纂された徳川氏創業の事蹟を伝える『朝野舊聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)』にも、、、
公ハ贈大納言廣忠君の御子にして 御母者水野右衛門大夫忠政女なり 天文十一年壬寅十二月二十六日壬寅 三河國岡崎に誕生したまふ 御名を竹千代君と申奉る
(引用:福井保解題『朝野舊聞裒藁 第二巻 1頁』1982年 汲古書院)
大意は、”家康公は、広忠君のお子で、母上は三河刈谷城主水野忠政の娘である。天文11年(1542年)壬寅(みずのえとら)の年、12月26日壬寅の日に三河国岡崎城内にて誕生なされ、お名前を竹千代君と言われた。”位の意味です。
とあり、江戸幕府系のいずれの公式史書にも、徳川家康は1542年12月26日(新暦では1543年1月31日)、三河岡崎城内にて、父松平広忠、母於大の第一子嫡男として生れ、幼名「竹千代」であったことが記されています。
三河の松平氏は、「永享(えいきょう)の乱(1438年~1439年)」後に、関東から流れて来た親氏(うじちか)を初代として多数の分家に分れ、その内のひとつ安城松平氏が清康(きよやす)の代に勢力を拡げ、宗家の地位を固めたと考えられますが、清康の横死によりその地位を失い、後継の広忠(ひろただ)は安城庶家である桜井松平家の信定(のぶさだ)に三河を追われる始末で、重臣らの才覚で、当時なんとか岡崎に復帰をしたばかりの状況でした。
前述のように広忠は、尾三国境に勢力を張る水野氏との関係を強化するため、刈谷城主水野忠政の娘(於大)を娶り姻戚関係を結びますが、織田信秀率いる尾張織田氏の勢いが強く、天文12年(1543年)7月12日に水野忠政が死没し、その後継の信元(のぶもと)が織田方へ寝返ったため、天文13年(1544年)9月には、今川義元に依存する広忠は於大の方を離別すると言う結末となります。
(画像引用:久能山東照宮ACphoto)
家康は、なぜ三河ではなくて、江戸に幕府を開いたの?
この疑問に関しては、
- なぜ京都ではないのか?
- なぜ三河ではないのか?
- なぜ江戸なのか?
と言う事かと思いますが、、、
なぜ京都ではないの?
おそらく徳川家康が政権を担って幕府を開くに当たって一番重視したのは、その所在地を京都以外にする事だったと考えられます。
そんな事を思い付いた理由としては、先に天下人となった織田信長・豊臣秀吉の失敗を目の当たりにしたからではないかと思われます。
つまり、古くは後醍醐天皇が親政を行なった『建武の中興政府』の崩壊の先例があり、信長は右大臣となり、秀吉は関白太政大臣となって、中央政府を作りましたが、事実上公武合体政権となっていた足利幕府の政治組織を使って運用したものであり、源頼朝が始めた武家政権以外は、すべて短期間に崩壊しています。
所謂「大臣政治」である公家政権、「将軍政治」の武家政権と分けると、本来公家と武家は相容れぬものがあり、公武混じり合って統一政権を担うなどとても出来ないようです。
このため徳川家康は幕府を開くに当たって、武家の公家化を防ぎ、武家が実権を握って公家を抑え込んで政権を動かす爲には、朝廷・公家が鎮座する京都を遠く離れることの必要性を、京から遠く離れた相模の鎌倉に幕府を開いた、源頼朝の実例に倣っていたものと考えられます。
なぜ三河ではないの?
家康自身、三河出身とは言うものの駿河暮らしも長く、譜代家臣ほど三河に愛着があったとは思えない事と、秀吉の命令により三河を離れて一族・家臣を引き連れて関東へ入部してすでに13年に及び、家臣団も代替わりをしてすでに本拠地が三河ではなくなっていたことが大きいのではないかを思われます。
なぜ江戸なの?
前項の話にも通じますが、徳川家臣団は天正18年(1590年)の徳川家関東入部以来、成長して大名化を始めており、家康も居城江戸城を中心に江戸の町づくりに莫大な投資を行って徳川家の関東支配体制を固めていました。
当初、豊臣秀吉の狙い通り、荒れ地・低湿地の多い江戸の地は、整備するのに莫大な費用を要しましたが、一方巨大な潜在力を持つ関東全域にわたる家康の巧妙な家臣団の配置は、秀吉の想定を大きく越えて徳川家を成長させることになっていたのです。
この家康が新たに造営した本拠地『江戸』は、源頼朝の狭隘な要塞都市『鎌倉』よりも、日本全域を支配する武家の政治都市としての機能を発揮してゆくことになりました。
慶長8年(1603年)征夷大将軍に任じられ幕府を開くに当って、その拠点は当然江戸であり、江戸以外に持って行くと言う考えは、徳川家康はじめ重臣たちにもなかったと考えられます。
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家康絡みでよく出て来る「世良田」と言う地名はどこなの?
『群馬県史』によると、、、
世良田という地名は平安末期に出現した。新田義重(にった よししげ)が新田郡西部に開発した私領十九郷の中に「せらた」があり、義重はこれを子息義季(よしすえ)に譲った。世良田郷は、鎌倉時代の領主として世良田頼氏(よりうじ)、南北朝時代の領主として世良田義政(よしまさ)・同憲政(のりまさ)の名が確認され、代々世良田氏に伝領されたものと考えられる。
長楽寺は、(中略)承久三年(1221)世良田義季によって建立された寺である。
・・・(中略)・・・。
世良田は本来農村であるが(世良田郷)、長楽寺と門前が発達すると、やがてそれこそが世良田と観念されるようになったのである。
(引用:群馬県史編さん委員会『群馬県史 通史編3 中世 194~195頁』1989年 群馬県)
と言う事で「世良田」とは、中世以来世良田郷と長楽寺の存在した、現在の群馬県太田市世良田町の事となります。
更に、、、
長楽寺ははじめ臨済宗で、承久3年世良田義季が栄朝を開祖に創建したという。天正18年徳川家康が江戸に入府すると、天海僧正を長楽寺の住職に任じ、その復興にあたらせた。天海は長楽寺を天台宗に改め、末寺700余を擁する大寺院として復興した。また元和元年間造営の日光東照宮奥社の拝殿ならびに、家康の墓標として建立された多宝塔を移して正保元年境内に東照宮を勧請し、長楽寺を別当寺として祭祀に当たらせた。東照宮の修理・祭典は幕府の財政によって賄われ、長楽寺は寺領100石、東照宮は社領200石を与えられた。そのため世良田は「お江戸見たけりゃ世良田へござれ」と歌われるほどの盛況を呈した。
(引用:「角川日本地名大辞典」編纂委員会/竹内理三編『角川日本地名大辞典 10 群馬県 551~552頁』1988年 角川書店)
とあり、徳川家康が何故かこの「世良田(せらた)」の地に並々ならぬ思い入れを持っていたことが分かります。また側近の天海大僧正は、家康の歿後に日光東照宮の勧請まで行っており、ここにも家康を分祀した事が分かります。
つまりこの「世良田」の地は、徳川家にとって極めて重要な場所であることが想定されます。
と言いますのは、、、家康の尊敬する祖父、松平清康(まつだいら きよやす)が、、、
奉爲逆修万疋奉加大檀那世良田次郎三郎清康安城□代岡崎殿
(引用:岡崎市史料叢書編集委員会『大樹寺文書 上 岡崎市史料叢書 79多宝塔心柱墨書銘写』2014年 岡崎市)
大意は、”逆修(ぎゃくしゅー生前に自らの仏事をして冥福を祈る事”の爲、1万疋(約1500万円)の寄附を行った。有力檀家 世良田二郎三郎清康 安城□代岡崎殿”位の意味です。
この文書は同時に記載された他の文書から、この岡崎大樹寺の多宝塔心柱が建立されたのは、天文4年(1535年)4月29日午刻(お昼11時~13時)と判明しています。
以上から、この心柱文書の「世良田次郎三郎清康」は、徳川家康の祖父「松平清康」と同一人物であることが分かります。
この頃、家康の祖父にあたる松平清康は絶頂期だったと思われ、三河をほぼ統一していたことで、三河の守護として恥ずかしくない家柄を求め、「清和源氏」の家系に連なる「世良田氏」を自称したものと考えられます。
この事を意識していた徳川家康は、三河統一後に祖父清康が自称した「世良田氏」の本家である「得川氏」を「徳川氏」と書き換えて朝廷から公認されることとなります。
徳川家康は、慶長年間になってから「源姓の系図づくり」を吉田神道の兼見卿の弟である神竜院梵舜( ぼんしゅん)に依頼します。
十三日、天晴、
伏見内府家康見舞罷、糒十袋、進物申也、次サイミ帷一、曝一ツ、内府より給、又家康系圖下書來也、
(引用:鎌田純一校訂『史料参集〔第二期〕舜旧記 第一 慶長三年七月十三日の条』1970年 続群書類従完成会)
大意は、”
慶長3年(1598年)7月13日、快晴、
伏見城へ内府徳川家康公へ見舞いに訪問した。干し飯を10袋を進物とした。次に、家康公より麻布のとばり(隠し布・カーテン)一反と曝し布を一反頂いた。また、「家康系図」の下書きの依頼があった。”位の意味です。
このタイミングは豊臣秀吉死去(同年8月18日)のほぼ一ヶ月前に当たり、秀吉死去後の天下の体制を考えて、家康自身の権威付けの準備を梵舜に依頼したものと考えられます。
(参考「尊卑分脈 清和源氏得川流」)
家康の出身地に関して異説はあるの?
まず有名な逸話ですが、、、
十九日、出御前殿、奈良不動院出仕、有御法談、次令尋維摩経之事給、又三論宗要文寫一紙、於御前讀進之、日野入道、金地院、因果居士等伺候云々、御雑談之中、昔年御幼少之時、有又右衛門某と云者、錢五百貫奉賈御所之時、自九歳至十八九歳、御座駿河國之由令談給、諸人伺候皆聞之云々、
(引用:『史籍雜簒 當代記 駿府紀 238頁』2006年 続群書類従完成会)
大意は、”慶長17年(1612年)8月19日、駿府の徳川家康のところへ出仕すると、奈良不動院住職が法談を行っていて、次に維摩経(ゆいまきょう)の事をお尋ねになった。また三論宗(さんろんしゅう)の経文の大事なところの写しが1枚あり、家康公の前で読み進めていた。そこには日野入道、金地院崇伝(こんちいんすうでんー家康の側近)、因果居士(いんがこじー安土宗論の判定者のひとり)なども出仕していた。
家康公の雑談の中で、「むかし、幼少の頃、又右衛門某と言う者がいた。私は錢5百貫文にて売り飛ばされ、9歳~18・19歳まで、駿河の国にいることになった」と、お話があり、出仕してその場にいた皆がこれを聞いていた。”位の意味です。
戦国時代の錢一貫文は、大体現代の15万円くらいと言われていますので、「500貫」であれば、7500万円となってしまいます。本当でしょうか?この原書となる『駿府政事録 慶長17年8月19日の条』にも、『五百貫』と確かに記載があり、誤記ではないようです。年寄の「ほら話」とその場にいた皆は聞き流したのでしょうけど。
この話は家康本人の発言だけに、非常に妙な話なのです。。。
周知されている後年の種々の公式記録では、天文16年(1547年)織田信秀の西三河侵攻に対して、今川義元の援軍を求めた家康の父松平広忠が、見返りの人質として嫡男竹千代(家康)を今川へ出すことになり、その駿府への移送途中で田原の戸田宗光に拉致されて、反対に尾張の織田信秀に送られてしまったとあり、時に家康6歳のこととされています。
その後天文18年(1549年)、織田方に占領されていた安城城を今川方が奪還し、降伏した信秀庶子織田信広と織田家に拉致された松平竹千代を交換して、家康(竹千代)は当初の駿府へ送られます。これによれば、天文11年(1542年))生れの家康は、時に7歳と言う事になります。
徳川系の記録では松平家から証人(人質)として駿府今川家へ移送中に、田原の戸田氏(「駿府記」にある「又右衛門某」か?)に拉致され、なにがしかの金銭で尾張の織田信秀に売り飛ばされたと言う史実はありそうだと確認出来ます。
冒頭の家康の告白話とこの史実が、当時の家康の年齢に少し誤差があることを誤差範囲内と言う事で無視して、家康自身に起こった同一の話だとすれば、別に問題がない訳ですがこれを問題にした人物がいました。
元福岡藩士で明治の教育官僚であった村岡素一郎(むらおか もといちろう)氏で、静岡で官職につく傍ら、徳川家康の事蹟に疑問を持ち「家康(世良田次郎三郎元信)と岡崎の松平蔵人藤原元康とは別人物である」との考えに至り、その説を公けに発表しましたが、驚き激怒した徳川家一族や旧幕臣らの圧力で官職を追われています。
明治38年に村岡素一郎氏の著書が出版されるや否や、徳川家・旧幕臣らが激昂したと言う理由は、逆にそれが事実を含んでいる(痛いところを衝いた)可能性があるためであろうとも考えられます。
村岡氏の説は家康の事蹟の多岐にわたるため、ここでは本テーマに関係する出身地にまつわる事だけ取り上げてみることとします。
村岡氏に拠らなくても、家康が幕府体制が固まった後も駿府を拠点にしていたことは色々理由が述べられていますが、やはりちょっと引っ掛かります。
文久元年(1861年)に成立した『駿河志料』に、第三代将軍徳川家光が作らせた「駿河城の時の鐘」の事が出ています。。。
兩替町六町
【時之鐘】
此鐘は、寛永十一年始てこれを鑄て、時を報ずと云
鐘の銘云 上略 駿陽者、就中東照大權現垂迹地也、是以贋于寛永倉龍甲戌夏、第三代征夷大將軍源氏長者左大臣家光尊君、命土井大炊頭利勝臣、以倉陳一萬五千石、賜當國惣府内民衆可謂盛事也、前代所未聞也、誰不敢銘佩矣哉、是故衆人一於心、以所賜配餘之万分之一、鑄華鐘、・・・(以下略)
(引用:中村高平著/橋本博校訂『駿河志料 一 801~802頁』1969年 歴史図書社)
大意は、”
両替町六町
【時の鐘】
この鐘は、寛永11年(1634年)初めてこれを鋳造し、(駿府城内にて)時を知らせると言う。
鐘の銘文に有るのは、、、(中略)、、、
駿府は、とりわけ、東照大権現徳川家康公の垂迹の地(つまり、家康がこの世に姿を現したところー生誕の地)である。寛永の蒼龍甲戌(そうりゅうきのえいぬ)のこの夏にあたって、第三代征夷大将軍にて源氏長者の徳川家光公が、筆頭老中の土井利勝に命じて、一万五千石を駿府内の民百姓に賜ると言う素晴らしいお祝い事で、前代未聞のことである。誰が敢えて鐘銘文について言うだろうか、つまり衆人一致のことである。賜ったお金の一万分の一を使って、この鐘を鋳造した。”位の意味です。
つまり、今文久元年には、駿府両替町の時の鐘として使われているが、寛永11年(1634年)に鋳造され駿府城内にあったと言う鐘の銘文には、三代将軍家光公が「この駿府の地は東照大権現徳川家康公の生誕の地だ」と示唆している内容が刻印されています。
德川家光は、特に祖父家康を尊敬する気持ちが強かった人物だと言われ、素朴な社だったはずの『日光東照宮』を今に残る華麗な社殿に大改築したのも、家光公であることはよく知られたことです。
幕府・徳川系正史の類が生誕地と説明している三河岡崎を差し置いて、孫の家光がいくら家康が亡くなった駿府城の所在地だからと言っても、確証がなければ駿府を「家康生誕の地」だとする事はあり得ないのではないでしょうか。
また、徳川宗家一族も参列する「日光東照宮例大祭」が、日光以外では、三河岡崎ではなくて静岡の「久能山」でも引き続き行われていることで、なにやら示唆するものもあるのではないでしょうか?
明治期の教育者であった村岡翁が永年にわたる調査の上に、明治35年(1902年)に満を持して発表されたこの説を、決定的な誤説であるとするには、この「徳川家康の本当の出身地は駿府だった」を語る傍証が多そうです。
なぜ家康は姓を「松平」から「徳川」へ変更したの?
先ず、それはいつの事だったか?と言う事ですが、、、
十二月小廿九日 丙辰 従五位下に叙し参河守尓任し給ふ・・・(中略)・・・
又 勅許をうけて松平氏を改め徳川氏尓復し給ふ
(引用:福井保解題『朝野舊聞裒藁 第二巻 永禄9年12月の条 828~829頁』1982年 汲古書院)
大意は、”永禄9年(1566年)12月29日 (徳川家康公が)従五位下に叙任し、三河守に任ぜられる。
また、勅許(天皇のご許可)を得て、徳川家康公は、氏姓を「松平氏」から改めて「徳川氏」に戻られた。”位の意味です。
この時期に関して、旧来「永禄12年(1569年)説」が有力だったのですが、家康研究の泰斗中村孝也博士を始め、近年の研究ではこの「永禄9年(1566年)説」が主流となっています。
次にその理由ですが、、、
これに関して、前出中村孝也氏は、、、
松平族党は三河の国の中部、東加茂郡の松平郷より発生して、惣領宗家をめぐって十八松平家が分出し、南下して国の中枢地域に分布し、鬱然たる大族党にまで成長したのであったが、・・・(中略)・・・、清康の歿後、庶流・家門の分離が顕著になり、家康が駿河府中に流寓している間に、宗家に背いて独自の行動をとる者が少なからず、或は有力なる国衆と結合し、或は今川氏に属し、織田氏に通じて自家の利益を図った。その風は家康が岡崎城に復帰しても改まらず、永禄六、七年の内乱に至ってその極に達したのであった。
然るにこの内乱は反作用を起して、家康を中心とする結束を強化し、西三河の異分子を粛正し、東三河の今川勢力を駆逐し、三河全国を統一する機運を促進した。・・・(中略)・・・。家康は居然として三河王国の君主になったわけである。・・・(中略)・・・。
今や国外の強大なる大名、例えば織田氏・今川氏・武田氏・上杉氏・北條氏と対等の立場に立って張り合うためには、伝統と威厳とを兼備し、一見して尊敬の情を起さしめる相応しき氏姓を誇示する必要がある。ここにおいて松平族の発祥に伴う古伝承を活用して、「徳川」姓を採り上げたのであった。・・・(中略)・・・。
新田氏の支流たる徳川姓を高らかに掲げることは、自己満足たるばかりでなく、人心収攬の上にも大きな効果を将来するものであった。
それ故家康は、この改姓を、私意を以て遂行することなく、殊更朝廷に願い出し、天下万人の面前において、派手に勅許をいただいたのであった。それは実に永禄九年十二月ニ十九日のことであり、この日家康は三河守に任ぜられ、従五位下に叙せられ、姓を徳川に復することを許されたのである。
(引用:中村孝也『徳川家康文書の研究 上巻 「徳川と改姓した時期」の項 88~91頁』1967年 丸善)
とあり、前述した家康が、「松平宗家は、清和源氏新田流の庶流德川氏・世良田氏である、との祖父松平清康の主張に従い、独立した戦国大名として他の松平庶家との差別化を図るために德川への改姓を行った」のだと言う、上記の中村孝也博士の説明が一般的となっています。
しかし、ここで前出の異論者である村岡素一郎翁の主張される説に従うと、『そもそも下加茂神社の神人であったとされる三河国松平郷出身の十八松平氏と、新田源氏流の駿河国出身の徳川氏(世良田氏)は別の氏族』であり、一時松平一族として合流していたものの、時節が到来し「徳川氏」として別称したのは、単に本来の呼び方に戻しただけであると言う事になります。
いくら以前に祖父松平清康が新田流の家系図上にある「世良田氏」を称したことがあるからと言って、三河の安城松平宗家の家康が、突如世良田氏流の「得川氏=徳川氏」を称するのは、それなりに理由付けがあるとは言え、さすがに唐突すぎる感がするのですが、村岡説に従えば、案外自然にすんなり理解出来るところとなります。
まだまだ異説に関して、検討する余地はありそうですね。
まとめ
徳川300年の太平の世の基礎を作った徳川家康の出身地に関して、幕府・徳川家関係の公式文書では、『三河国岡崎の出身』となっていて少しの揺るぎもありません。
最初に私が単純に違和感を持ったのは、明治維新で徳川幕府が崩壊した折、新政府が徳川家の処遇に関して、江戸から追放して駿河70万石へ移封したことでした。
「なんで駿河?三河じゃないの?」、幕臣は既に代々「江戸者」ですから、「追放」と言う事に関しては、江戸以外は駿河でも三河でもどっちでも同じはずなのに、なぜ「駿河」?
創業者の徳川家康が死去したのも駿府城でした。そもそも家康は隠居しても生まれ故郷とされる三河岡崎へ帰ろうともせず、もっぱら駿府の繁栄に寄与し続けたのです。
やはり、何かがおかしいでしょ!
このような事は「老人の望郷の念」だけで決めれる事ではないと言ってしまえばそれだけの事かもしれませんが、当時の家康は日本の帝王となっており、何でも思い通り出来た人物なのです。
加えて本文中の、孫の家光が鋳造させた『駿府城の時の鐘の鐘銘』を見ても、家康の生誕地は駿河であることを窺わせます。
これらの事実に素直に反応していたのが、元福岡藩士で教育者だった村岡素一郎翁でした。
しかし、今のところ正史は勿論、『野史(やし)』に至る迄、「徳川家康の生誕地は、三河国岡崎」となっています。
東照公。諱家康。姓源氏。贈太政大臣成烈公廣忠第一子也。母贈従一位傳通太夫人。水野忠政女。以天文十一年十二月二十六日。生於参河岡碕城。・・・(中略)・・・、小字竹千代甫生。
(引用:飯田忠彦『野史 第一巻 野史巻五十一 武将列傳第十七 東照公上 531頁』1929年 日本随筆大成刊行會)
大意は、”東照公、諱(いみな)を家康、姓は源氏。贈太政大臣成烈公 広忠君の第一子である。母は、贈従一位傳通院太政大臣夫人、水野忠政の娘。天文11年(1542年)12月26日に三河岡崎城にて生まれる。幼名は竹千代で最初の子として生まれる。”位の意味です。
このように、嘉永4年(1851年)に完成した、有栖川宮侍臣飯田忠彦の大著『野史(やし)』にも、「徳川家康の生誕地は三河岡崎城内」と記載されており、今のところは、『徳川家康の出身地は、三河国岡崎』と言う公式見解に落ち着きそうですね。
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参考文献
〇黒板勝美編『新訂増補國史大系 德川實紀 第一篇』(1990年 吉川弘文館)
〇福井保解題『内閣文庫所蔵史籍叢刊 特刊第一 朝野舊聞裒藁 第二巻』(1982年 汲古書院)
〇煎本増夫『戦国時代の徳川氏』(1998年 新人物往来社)
〇岡崎市役所編『岡崎市史別巻 徳川家康と其周圍 上巻』(1987年 国書刊行会)
〇中村孝也『家康傳』(1965年 講談社)
〇群馬県史編さん委員会『群馬県史 通史編3 中世』(1989年 群馬県)
〇竹内理三編『角川日本地名大辞典 10 群馬県』(1988年 角川書店)
〇岡崎市史料叢書編集委員会編『大樹寺文書 上』(2014年 岡崎市)
〇鎌田純一校訂『史料参集〔第二期〕舜旧記 第一』(1970年 続群書類従完成会)
〇黒板勝美/國史大系編集會編集『新訂増補國史大系 第六十巻上 尊卑分脉 第三篇』1966年 吉川弘文館)
〇村岡素一郎『史疑 徳川家康事蹟「明治35年(1902年)4月18日発行 民友社版」の復刻版』(2000年 批評社)
〇榛葉英治『新版・史疑 徳川家康』(2008年 雄山閣)
〇『史籍雜簒 當代記 駿府紀』(2006年 続群書類従完成会)
〇中村高平著/橋本博校訂『駿河志料 一 』(1969年 歴史図書社)
〇中村孝也『徳川家康文書の研究 上巻』(1967年 丸善)
〇飯田忠彦『野史 第一巻』(1929年 日本随筆大成刊行會)