執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
驚愕!あの大御所徳川家康が、戦場で大を「もらした」!ホント?
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・『家康が大便をもらした』の話の出所が分かります。
・その場面となった『三方ヶ原の戦い』の概略が分かります。
・有名な『しかみ像』とは何か!が分かります。
・戦闘心理学の専門家から、戦場での真相が語られます。
目次
「徳川家康が戦場で、恐怖のあまり大便をもらした」と言うこの話は、ホントなの?
この話は、実に有名で戦国史のお好きな方は一度くらいは聞いたことのある逸話なのです。
しかし、徳川幕府の正史の類は勿論、その他史料にも全くその興味深い事件の記述が見つかりません。
では、一体どこから出て来た話なのでしょうか? 少し探してみると、ひとつ手掛かりがありました。。。
又原書に大久保忠佐 神君浜松へ御歸城の時、其御馬の鞍壺に糞があるべきぞ、糞をたれ逃給ひたりと罵りたるよしをしるす。此日御出馬なければ逃給ふ事あるべきにあらず。是等皆妄説なる故に削り去りぬ。甲陽の説にも家康衆随分の侍大将四千余の人数にて打出るとは見えて、御出馬の事はなし。
(引用:桑田忠親監修/宇田川武久校注『改正三河後風土記(中)遠州一言坂軍の事 20頁 』1976年 秋田書店)
大意は、”原書には大久保忠佐(おおくぼ ただすけー徳川十六神将のひとり)は、神君徳川家康が浜松へ帰城した時、その馬の鞍壺に大便が有るのを見つけ、「御馬の鞍壺に糞があるではないか、殿は糞を垂れ流して逃げ帰って来たぞ」と大声で喚き散らしたと言う事が書いてある。しかし、この日は家康は出陣しておらず、逃げ帰る事もないので、この話は皆がウソであるとして削除した。また「甲陽軍鑑」にも、この日家康の重臣の侍大将が四千の兵を率いて出陣したとあり、家康自身が出陣したことは記されていない。”位の意味です。
とあり、事実ではないと江戸期の徳川関係者は認定したようですが、念のため、文中にある武田方の史料である『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』の該当箇所を見てみますと、、、
信玄公、十月中旬に甲府を御立あり、遠州たゝら・飯田両城落て、御仕置あり。乾 天野宮内右衛門に、遠州の定番の儀、能様に被仰付、久野の城御見廻の時、家康衆随分衆の侍大将、三かの川をきり、四千余の人数にて打出る。
信玄公、あれをのがさゞる様に打とれと被仰付、家康衆引さぐる也。
(引用:磯貝正義/服部治則校注『戦国史料叢書4 甲陽軍鑑(中)品第廿九〔二俣城攻付味方ヶ原合戦之事〕の条 324頁』1965年 人物往来社)
大意は、”元亀3年(1572年)10月中旬に、武田信玄公は甲府をご出発され、遠江の二俣川中流域にあるたたら(只来)城・飯田城を攻め落として、戦後処理をし、犬居(いぬい)城には天野景貫(あまの かげつら)に遠江の城番を申付けられた。久野城を偵察する時、家康の重臣の侍大将が三ケ野川(みかのがわ)を渡って、4000ほどの兵力で出陣して来た。
信玄公は、御覧になって「あれを、逃がさぬ様に討取れと命令された。」、すると徳川軍は引き下がって行った。”位の意味です。
とあり、前出の『改正三河後風土記(かいせいみかわごふどき)』の削除記述が、これによっても裏付けられるようで、どうやら本当に家康の出陣はなかったようです。
ついでに、徳川方の史料である『濱松御在城記(はままつございじょうき)』を見てみますと、、、
・・・十月中旬ニ、信玄、甲州ヨリ遠州犬井秋葉口ヨリ發向、犬井ノ天野宮内右門藤秀ヲ爲案内者、多々羅江・飯田ノ兩城ヲ攻取、天野ヲ遠州定番ニ居、久野ノ城巡見、袋井ニ着陣、此時濱松ノ御人数モ三加野臺江押出ス、敵兵、御味方ノ後ヲ遮ラント、兵ヲ右ノ方江回ス、
(引用:濱松市役所編『濱松市史 史料編 一』所収『濱松御在城記 元亀三年の条 23頁』1957年 浜松市役所)
大意は、”元亀3年(1572年)10月半ば、武田信玄は甲斐より遠江犬居城 秋葉口へ出陣、犬居城の天野宮内右衛門藤秀を案内役とし、只来・飯田両城を攻め取り、天野を遠江の城番に据えた。久野城の巡視をして袋井に着陣した。途中、徳川方が兵を三ケ野(みかの)へ出し、武田方は徳川方の後ろへ廻ろうと右の方へ動いた。”位の意味です。
ここにも、家康出陣のはっきりとした記述はなく、どうやら武田方に追われて逃げ帰る場面は出現しそうもありません。
記述のある『改正三河後風土記』にしても、『三方ヶ原の戦い』の項ではなくて、その直前の『一言坂の戦い(ひとことざかのたたかい)』の頃の記述と思われ、確かにこれも徳川方の負け戦ですが、家康が這う這うの体で命からがら逃げ帰る戦ではなかったようです。
史料内では話の整合性がないことから、江戸期に作られた前述史料では、「何かの間違い」と言う判断で削除とされているようですが、何かの拍子に漏れ伝わり、『家康が恐怖でもらした』と言う話だけが残ったものと考えられます。
しかし、記録にない・史料にないから『無い話』としてよのかどうか、特に後の時代の為政者が徳川家だっただけに、「史料の中で、削除」と言う事でよいのかよく分からないところですが、やはり公式には「徳川家康の脱糞話はなかった事」になっているようです。
(画像引用:ACphoto浜松城)
この「もらした」話が出た『三方ヶ原の戦い』とはどんなの?
『日本国史事典』によれば、、、
三方原の戦(みかたがはらのたたかい)
武田信玄と徳川家康が、遠江国浜松(静岡県浜松市)の西北方にひろがる三方原台地上で戦い、信玄の圧勝に終わった戦いである。
元亀三年(一五七二)十月、信玄は二万五千という大軍を率いて甲斐を出発し、高遠から飯田、さらに青崩峠・兵越峠を越えて遠江に侵入し、家康方の支城である只来(ただらい)城・二俣城(天竜市)などを落として浜松城に迫った。このころの家康の軍勢は八千ほどで、それに織田信長からの援軍三千を合わせて一万一千の軍勢で信玄と戰うことになったのである。
戦いがあったのは十二月ニ十二日で、信玄は浜松城を力攻めにすることはせず、三方原台地に上り、家康の軍勢を城から誘い出す作戦をとり、城から出た家康と三方原で戦いとなった。
信玄軍の先陣は小山田信茂・山県昌景で、二陣は武田勝頼と馬場信房、三陣が信玄で、後陣が穴山梅雪という布陣となっており、そこに突っこむ形となった家康軍は完膚なきまでにたたかれ、浜松城さして敗走していった。・・・(後略)。
(引用:国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第十三巻 273頁』1992年 吉川弘文館)
歴史上ほとんど大負けしない徳川家康が、大敗した戦いとして有名です。
同盟を結んでいる織田方の一級史料とされる『信長公記』では、、、
霜月下旬、武田信玄遠州二俣の城取巻きの由注進これあり。則、信長公御家老の衆、佐久間右衛門尉・平手甚左衛門・水野下野守大将として、御人数遠州浜松に至り参陣の処に、早二俣の城攻落し、・・・
(引用:太田牛一/奥野高広・岩沢愿彦校注『信長公記 巻五 138頁』1970年 角川文庫)
大意は、”元亀3年(1572年)11月下旬、武田信玄が遠江二俣城を包囲したとの急報があった。すぐに信長公は、家老衆の佐久間信盛・平手汎秀・水野信元らを大将として援軍を送り、遠州浜松へ参陣したところに、早くも二俣城が落城し、・・・”位の意味です。
とあり、織田家から佐久間信盛・平手汎秀らが、援軍として派遣されたことが分かります。
他の徳川方の史料『武徳大成記(ぶとくたいせいき)』では、、、
織田信長、武田ノ兵遠州ニ出ルヲ聞テ、佐久間右衛門尉信盛、瀧川伊豫守一益、平手甚左衛門汎秀等、九部ノ兵ヲシテ、來リ援ケシム、十一月中旬、尾州ノ援將、濱松ニ至ル、信長ノ言シ傳テ曰ク、信玄縦ヒ戰ヲ挑ト云フトモ、慎テ兵ヲ出サシムルコトナカレト、是ニヨリテ、月シ踰テ、戰ナクシテ相守ル、
(引用:福井保解題『武徳大成記<一> 巻八 信玄二俣城ヲ陥ス事の条 233頁』1989年 汲古書院)
大意は、”織田信長は、武田信玄が遠州に出兵したのを聞いて、佐久間信盛・滝川一益・平手汎秀等に9部(「部」が不明ですが、「備ーそなえ」位とみると、一備が300名~500名位なので、3000名~4000名位か?)の兵力で応援に出掛けた。11月中旬、尾州の援軍は浜松に到着した。その織田信長の指示は、「たとえ信玄が戦いを挑んで来ても、兵を出して応戦してはならない。」と、これにより月を越しても戦わずに守備に専念した。”位の意味です。
時期的に浅井・朝倉・本願寺と回りが敵だらけの時で、家康への応援を行う兵力の捻出にも窮していた信長ですが、情報収集の結果、信玄の軍勢は長期遠征の備えをしていないと判断していたので、応援部隊には、徳川家康に決して信玄に手向かうことなく、スルーさせることを命じていたようです。
ところが、実際には信長の進言に従わず徳川家康は応戦して、結果としてものの見事に信玄の術策に嵌り、『三方ヶ原』で壊滅する損害を受けてしまいます。この理由に関しては、本記事のテーマとは違うので、また別記事で考えてみる事と致します。
概略こんなことですが、本当は病を押して将軍足利義昭の織田信長の追い落とし要請に応えるように出陣して来た武田信玄ですが、『三方ヶ原の戦い』では徳川・織田連合軍に大勝したものの、その後本格的に体調を崩し、越年して三河在陣のまま養生したものの、結局甲斐への撤退を余儀なくされ、翌元亀4年(1573年)4月12日に帰途の駒場にて陣没してしまいます。
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この大敗の反省に描いたとされる『しがみ像』は、どんなもの?
(画像引用:徳川家康三方ヶ原戦役画像ー徳川美術館所蔵)
この徳川美術館所蔵の『徳川家康三方ヶ原戦役画像』通称『しがみ像』と呼ばれる徳川家康の肖像画は、「三方ヶ原の戦いでの大敗に、その惨めな姿を絵に留めることによって、己の慢心を諫め、生涯座右を離さなかった。」とか、「尾張家初代の徳川義直が父・家康の苦難を忘れないように描かせた。」とか、色々口伝が伝わっているものです。
ところが、「三方ヶ原の戦い」の敗戦に関しての、家康本人の反省の弁に関しては、、、これもどこを探しても見当たりませんので、家康の「己の慢心を諫め」などと言う話は、全く根拠のない後付け話ではないかと思われます。
もっとも、江戸幕府で「家康の神格化」が始まってから、御用学者総動員で家康の神格化に都合の悪い関係史料を廃棄した可能性も高いので、どうなのか真相はわかりませんが、『三方ヶ原の戦い』の敗戦そのものを隠していないので、家康は、いちいち敗戦を反省するような神経質な人間ではなかったと言うことかもしれません。
また、絵そのものも、江戸中期になってからの作とも言われ、別の意図を以て描かれたものの可能性も高いとも言われているようです。
人は恐怖で本当に「脱糞」までするものなの?
戦国武将の逸話の中にも、大将が合戦での死の恐怖で「脱糞」したなどと言う話は、この家康の逸話以外には一切出て来ませんし、話題にもなっていません。
私などは、漫然と勇猛な戦国武将たちに限って、死の恐怖に直面しながらも戦場で恐怖のあまり「脱糞」などするはずがないと思っているのですが、実際にそんな場面に直面した人たちの記録のようなものはあるのでしょうか?
多大なストレスのかかる生きるか死ぬかの状況に直面したとき、下腹部に”荷物”が入っていれば、それは放り出される。これは、「膀胱がどうしたって?括約筋?括約筋なんか知ったことか!」と身体が言っているのだ。そういうときはどうしたらよいかと言えば、もちろん、そのまま戦いつづけるしかない。
救急救命士や警察官や消防士として負傷者の救出に当たっている人は、負傷者の大小失禁が少しもめずらしくないことを知っている。・・・(中略)・・・。
同じ事が戦闘中の人間にも起きる。・・・(中略)・・・。『アメリカの兵士』という、第二次大戦時のアメリカ軍の戦いぶりに関する公式報告があるが、それに収録されたある調査によれば、第二次大戦で戦った米兵の四分の一が尿失禁の経験があると認め、八分の一は大失禁を経験したと認めている。”先鋒”に当たる兵士だけに着目し、激しい戦闘を経験しなかった兵士を除外すれば、激戦を体験した兵士のおよそ半数が尿を漏らしたと認め、四分の一近くが大便を漏らしたと認めているのである。
これは自分でそう認めた兵士の数だから、実数はおそらくもっと大きくなるだろう。・・・(中略)・・・。
2001年9月11日の数か月後、私は僭越ながら連邦捜査官たちに講義する機会を与えられた。その受講者のなかに、あの攻撃のさいにワールドトレードセンターにいたという捜査官がひとり混じっていた。私が大小失禁について教えたとき、話が終わってから彼は近づいてきて、・・・(中略)・・・。
「ずっと不思議に思ってたんですよ」彼は言う。「あのときはみんな大便を漏らしていたのに、私だけは例外だったんです。やっと理由がわかりました。さっき『下腹部に荷物が詰まっていると、それが放り出される』と言われましたよね。あの悪党どもがビルに突っ込んでくる直前に、私は便所に行って朝のでっかい一発を済ませていたんです。」
(引用:デーブ・グロスマン/安原和見訳『「戦争」の心理学ー人間における戦闘のメカニズム 40~43頁』2020年 二見書房)
とあり、第二次大戦後も世界で最も長く戦争を継続しているアメリカで、ベトナム戦争の従軍経験もあり、ウエストポイント陸軍士官学校の教授も務めた心理学・軍事学の専門家であるデーブ・グロスマンによれば、長時間に及ぶ生死に関わるストレスを受け続けた場合、人間が大小失禁を犯すのはごく自然のことなのだと言い、続けてそんな不名誉な話をあとで誰が正直に話すだろうかとも指摘しています。
つまり、元亀3年(1572年)12月22日に、『三方ヶ原の戦い』において、徳川家康が脱糞しながら浜松城へ敗走したとのうわさ話が出たのは、当時の戦闘に参加した武士の中ではとりわけ珍しい事ではなかったと言えそうです。
この平和な現代日本の中にあって、すでに国家的な戦争状態を脱してから76年も経つ今、もう徳川家康自身が約450年ほど前に直面したこの事態を理解出来る人はほぼ存在しません。
しかし、軍事国家であるアメリカ合衆国の専門家の話として、『戦闘の恐怖で脱糞する』と言うのは、ごく普通の事であることが明らかにされました。まだ記憶に新しい『9・11テロ事件』のワールドトレードセンタービルの現場に臨場した連邦警察官の話はリアルに真実を伝えてくれます。
これで、元亀3年の『徳川家康の脱糞話』は、事実であった可能性もあることが判明しました。しかしもし事実としても、それは当然、徳川家康の歴史的人物としての価値を減ずるものではなく、人間としてごく自然な生理であったことも理解出来そうです。
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まとめ
この徳川家康の『脱糞逸話』は、戦国史の中でも時々出て来る話です。
今回、その真偽につき調べてみました。
この話の出所で現在簡単に確認出来るのは、江戸末期の儒学者で儒官でもあった成島司直(なるしま もとなお)によって、天保8年(1837年)に編纂された『改正三河後風土記(かいせいみかわごふどき)』であることが分かりました。
しかし、その中にも「是等皆妄説なる故に削り去りぬ。」と記載があり、「これはウソ!だから削除する。」と言っています。にもかかわらず、現代まで「削除」されずに伝わって来ているのは、実はそれなりの真実を含んでいると成島司直が考えていたのからかもしれません。
現在、徳川美術館に所蔵されている徳川家康を描いた通称「しかみ像」の図柄は、『三方ヶ原の戦い』で大敗して逃げ帰った徳川家康の姿をとどめたものとされていて、この図柄と『脱糞話』が妙にマッチングしたのも、この話が「人口に膾炙(じんこうにかいしゃ)」して行った原因のひとつかもしれません。
また、『合戦』と言う、自身の生死のかかった超ストレス状態が長時間続く状況下では、アメリカの軍事心理学者デーブ・グロスマンが著作中で述べているように、人間が「大小失禁」を犯すのはごく普通にみられることで、珍しい事ではないと判明しました。
江戸時代、幕府の体制が固まって行くにつれて、神格化されて行った徳川家康ではありましたが、家康の唯一の大敗とも言っていい『三方ヶ原の戦い』が、どんなに過酷な試練であったかを伝えるためにも、この武士としては不名誉なこの逸話が、手違いのように残されたのかもしれません。
また、この『改正三河後風土記』の原本である『三河後風土記』は、慶長15年(1610年)5月の成立とされ、著者は、重臣の平岩親吉(ひらいわ ちかよし)となっていて、これに「大久保忠佐 神君浜松へ御歸城の時、其御馬の鞍壺に糞があるべきぞ、糞をたれ逃給ひたりと罵りたるよし」とあったと言うことですから、この本は徳川家康生前の頃の成立で、この「徳川氏創業史」に記載されていたという事実はかなり重いはずなのですが、家康自身がこんな話を気にしていなかったのだろうとも考えられます。
これら以上の経過を総合しますと、「戦場の心理学者」の述べるように、この時の家康の『脱糞話』が事実であった可能性は高いのではないかと考えられます。
参考文献
〇桑田忠親監修/宇田川武久校注『改正三河後風土記(中)』(1976年 秋田書店)
〇磯貝正義/服部治則校注『戦国史料叢書4 甲陽軍鑑(中)』(1965年 人物往来社)
〇濱松市役所編『濱松市史 史料編<一>』(1957年 浜松市役所)
〇国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第十三巻』(1992年 吉川弘文館)
〇福井保解題『内閣文庫所蔵史籍叢刊 第92巻 武徳大成記(一)』(1989年 汲古書院)
〇デーブ・グロスマン/安原和見訳『「戦争」の心理学ー人間における戦闘のメカニズム』(2020年 二見書房)