執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
『桶狭間の戦い』の後、徳川家康はいつから今川家を裏切ったの?
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・徳川家康がいつから今川家を離反して独立の道を歩み始めたのか分かります。
・『桶狭間の戦い』での徳川家康のパフォーマンスが分かります。
・徳川家康が『桶狭間の戦い』で率いた兵力が見積れます。
・徳川家康と織田信長の同盟がいつ結ばれたのかの見当が付きます。
・徳川家康が独立後勃発した『一向一揆』の真相が見えて来ます。
目次
徳川家康が『桶狭間の戦い』後に今川家を裏切り、独立の動きを始めたのはいつ頃からなの?
先ず、永禄3年(1560年)5月19日の『桶狭間の戦い』以前の、今川家と織田家の三河国を巡る状況を見てみますと、、、
今川義元(いまがわ よしもと)が三河国への侵攻を始めたのは、駿河での「河東一乱(かとういちらん)」が終息した翌年の天文15年(1546年)11月頃の事でした。
近年の研究によりこの時期、今川義元と信長の父織田信秀(おだ のぶひで)は結果的に連携して三河の国へ攻め込んだ形となっており、日本史学者平野明夫氏の説では、天文16年(1547年)6月までに今川軍は今橋(豊橋)城を落して東三河を制圧し、織田軍は安城を落し6月までには岡崎城を包囲し、9月には城主松平広忠(まつだいら ひろただ)は降伏し、織田軍が西三河を制圧し松平家は織田家に従います。
つまり、この時期に徳川家康の父である三河の岡崎城主松平広忠は、今川・織田双方と敵対していて、東西から同時に攻め入られていたことが分かって来ました。
この説に従えば、通説の有名な話『徳川家康の人質話(織田の攻勢に今川に助けを求めた松平広忠が、嫡子竹千代を駿府今川家に人質に出すところを、途中で織田家に奪われた)』とは少し違っていて、父松平広忠降伏の事実により嫡男竹千代(徳川家康)は、最初から織田家へ人質に出されていた事になります。
この混乱の中、従来今川方であった広忠の叔父松平信孝(まつだいら のぶたか)も織田方へ転じるなどの織田信秀の勢いが増し、危機感を抱いた今川方は、降伏したものの信秀に反抗する広忠の要請も受けて、織田との密約を破って西三河へ侵攻を始め、翌天文17年(1548年)3月19日に現在の岡崎市郊外の小豆坂(あずきざか)で、織田・今川の東西衝突が発生しました。
この天文17年(1548年)の『小豆坂の戦い』は今川軍優勢のまま終わり、今川軍は翌天文18年(1549年)には織田方が支配していた安祥(あんじょう)城を落城させて守将であった織田信秀の長男信広を捕虜とし、尾張に人質となっている松平竹千代(徳川家康)と人質交換するなど、次第に西三河での存在感を高めていました。
その後織田家は信秀の体調不良などもあって、天文年間末期には完全に織田家は西三河での足場を失ってゆき、今川家が三河での支配力を強めて行きます。
織田信長が父信秀死去により家督となった天文21年(1552年)以降には、今川家は三河国境を越え尾張国内にも浸食を始めていて、尾張下四郡の内、知多郡(緒川水野家支配地を除く)、愛知郡の東半分(山口教継ら支配地)、海西郡(服部党支配地)などは既に今川領になりつつあると言う有様でした。
こうして永禄年間に入りますと、徳川家康の本拠地岡崎を含む西三河一帯も駿河今川家がほぼ支配するところとなっており、三河国の主要な城には今川家の城代が常駐するような時代となっていました。
そんな経緯で時代が進む中、前述の人質交換で駿府に連れて行かれた松平元康(徳川家康)は、今川家で養育され、今川一門関口親永(せきぐち ちかなが)の娘を嫁に付けられ、将来今川家西三河支配の要である松平一族を統べる今川家重臣として育成されて、この時永禄3年(1560年)5月にも「今川義元尾張侵攻」の先陣を務めていました。
そして、、、
周知のとおり、「尾張侵攻」を企てた今川義元が満を持して出陣した永禄3年(1560年)5月19日の『桶狭間の戦い』で、織田信長率いる織田軍に義元は討死し、今川軍は完敗して尾張より敗走し、西三河からも退却する中、『桶狭間の戦い』の激戦に巻き込まれなかった徳川家康率いる松平軍は、今川軍として西三河岡崎城に留まりました。
以後の事に関して、、、
神君は五月廿一日岡崎へ帰らせ給ひても、定て織田信長押寄べし、敵に取詰られ籠城せん事いひ甲斐なく、城を打出て寄手を待、快く一戦すべしと、大樹寺辺まで出張して待給へ共、寄来る敵もなければ、長陣せんも無益なりとて岡崎へ引取給ふ。
然れ共近辺に信長与力の輩割拠するを捨置時は、畢竟味方の害なりとて、逆寄し追払ふべしとて、まづ三州挙母・梅坪を攻給ふ。
広瀬の城主三宅右衛門佐此事を聞て、士卒を引具して城中を打出て、払楚坂に陣取、要害に拠て軍をはげむ。岡崎勢真先に進みたる、足立金弥鉄炮にあたり討死す。三宅が勢是に気を得、勝に乗じて岡崎勢を追立る。
神君みづから鎗を取せ給ひ、御旗本の勢を進め、三宅が陣をかけ破り給へば、大森与八郎同じく鎗を揮て、三宅が陣の備を突破るに、御旗本一統勇み進んで駆立る。三宅が勢此驍勇に辟易して、散々に逃走れば、岡崎勢勝に乗じ城下迄攻付、凱歌をとなへ引返す。
神君は是より直に尾州沓掛に攻寄給ふ。城主織田玄蕃允打て出戦ひしが、是も一戦に利を失ひ城中へ逃入ければ、城下迄押寄近辺の民屋に火を放ち焼払ひ、引返さんとし給ふ所に、・・・(中略)・・・。
広瀬の三宅右衛門佐払楚坂にて敗北し、尾州沓掛城辺まで放火せられしと聞えれば、信長大に憤り、水野下野守信元に御身の甥元康を早々討取て出すべしと厳に命ぜらる。信元辞するに詞なく、出張すべしと聞えけるにぞ。
岡崎方にも横根村石ケ瀬に軍勢を押出し挑戦しけり。時は六月十六日・・・(以下略)。
(引用:桑田忠親監修『改正三河後風土記<上> 229~230頁』1976年 秋田書店)
大意は、”徳川家康は永禄3年(1560年)5月21日に岡崎城に入城したものの、必ず織田信長が攻めてくるだろうが、籠城しても仕方ないので、城外で敵を待ち野戦に出て一戦を行うと決し、大樹寺の辺りまで出陣して待ち受けたが、一向に現れないので岡崎城へ引き返した。
しかし、岡崎の近辺には織田信長に味方する三河国衆が多く点在し、これらは放置すれば必ず敵となるので、ここは逆襲して追い払おうと、先ず現在豊田市付近の三州挙母(ころも)・梅坪(うめがつぼ)を攻めた。
この動きを織田方国衆の広瀬城主三宅右衛門佐(みやけ うえもんのすけ)が聞きつけ、兵を引き連れて出陣し、払楚坂に陣取り兵の気力を奮い立たせた。松平軍はまっすぐ進軍して来て、先頭の足立金弥に鉄炮の玉が当たり討死した。これに気を良くした三宅勢は松平軍に襲い掛かった。
ここで、家康自ら槍を取って、旗本隊を進め、三宅勢の先陣を打ち破り、大森与八郎は同じく槍を振り回して三宅勢の主力陣を突破り、旗本勢打ち揃って突っ込んで行った。三宅勢はその勇猛さに根負けしてちりぢりに逃げ始め、松平軍は勝ちに乗じて広瀬の城下まで攻め込んでから帰城した。
家康は、すぐに尾州沓掛へ攻め込み、城主の織田玄蕃允(おだ げんばのじょう)が城から打って出たところ、たちまち攻め返されて城内へ逃げ帰ったが、松平軍は城下に放火して引き返して・・・(中略)・・・。
広瀬の三宅右衛門佐が払楚坂で大敗し、尾張の沓掛城下まで焼き打ちされたと聞いて、織田信長は頭に血が上り、水野信元を呼びつけて「おのれの甥っ子の松平元康(徳川家康)をすぐさま討取って首を差出せ!」と厳命した。信元は返す言葉もなく、「出陣するしかないな」とつぶやいたと言う。
それは家康側にも聞こえ、松平軍は現在の刈谷市近郊大府市付近の横根村石ケ瀬まで出陣し、水野信元と対戦したが、それは永禄3年(1560年)6月16日のことだった・・・。」”位の意味です。
とあり、一部で言われるように徳川家康は、もともと織田信長と通じ合っており、『桶狭間の戦い』で今川軍が大敗して、ほどなく岡崎城を奪取し今川家から独立した(裏切った)のではなく、戦後は岡崎城に常駐し、今川方武将として西三河に浸食してくる織田勢を食い止める働きをして、今川家家督の今川氏真(いまがわ うじざね)にも頼りにされて、西三河での存在感を高めていたらしいと述べています。
では本題の、松平元康(徳川家康)の今川家からの独立(離反)はいつのことなのでしょうか?
今言われていることは、「今川氏真判物」として残っている次の文書に、、、
去酉年四月十二日岡崎逆心之刻、自彼地人数宇利・吉田江相移之処、同五月廿日父平左衛門与重時幷近藤石見守両三人、於三州最前令忠節、其以後飯尾豊前逆心之砌、遠・三忩劇之処、牛久保・長篠籠城刻、長篠江数度兵粮入置之、牛久保江数多人数送迎、無二令奉公之段、神妙之至也、・・・(中略)・・・、
永禄拾丁卯年八月五日
上総介(花押)
鈴木三郎大夫殿近藤石見守殿
(引用:久保田昌希/大石泰史編『戦国遺文 今川氏編第三巻 2138 今川氏真判物』2012年 東京堂出版)
大意は、”
永禄4年(1561年)4月12日の松平元康(まつだいら もとやす ー徳川家康)謀叛の時、岡崎周辺より新城と豊橋へ兵員を移動させるところ、5月20日に鈴木重勝・重時父子と近藤石見守の三名が、この三河の最前線に於いて忠節を尽くし、またその後浜松の飯尾乗連(いのお のりつら)の叛乱に始まる「遠・三忩劇(えん・さんそうげき)」における牛久保・長篠城の籠城の折には、長篠城へは数度の兵粮搬入、牛久保城へは兵の増援など多大な働きの事、誠に神妙である。・・・(中略)・・・、
永禄10年8月5日
今川氏真(花押)
鈴木三郎大夫殿
近藤石見守殿
”位の意味です。
とあり、今川氏が徳川家康の離反・独立に気がついたのは、この文書では永禄4年(1561年)4月12日となっていますが、永禄4年4月16日の今川氏真朱印状に「牧野平左衛門父子が4月11日の夜に、敵(松平元康)側に寝返った」とあり、事実松平元康は4月11日に今川方の東三河の牛久保城を攻撃していることから、今の歴史界では「徳川家康の独立は永禄4年4月11日」だとされています。
しかし、、、
改めて高校の日本史Bの教科書を見てみると、昔、織田信長と徳川家康の『清洲同盟』として有名だった事件の記載すら現在はありません。
昭和9年の三省堂の「増補 最新日本歴史年表」には、「永禄5年正月、松平元康(家康)織田信長ト盟約ス」と記載があり、これが高度成長期くらいまでは定説となっていたはずですが、近年の研究により一次史料による盟約の確証が見つからないため消されたのだと思われます。
本題に戻りますと、、、
一 其方御進退之儀、於何角茂見放申間敷事
一 越後許容有間敷事
一 縦無事候共、双方有談合可申扱事
此申候条々於偽者、日本国中大小之神祇、別而者富士・白山之可蒙御罰者也、仍如件、
松平蔵人佐元康 御直判
永禄四閏三月廿一日簗瀬九郎左衛門殿
原田新六殿
同 藤左衛門殿
参(引用:久保田昌希/大石泰史編『戦国遺文 今川氏編 第三巻 1672 松平元康起請文写』2012年 東京堂出版)
大意は、”
一 その方の進退に関しては、どんな事に関しても見放すことはしない。
一 鈴木越後守は許さない。
一 もし何事もなくても、お互いに話し合いがある事とする。
ここに言った事に偽りがあれば、日本国中の神社、特に富士・白山の罰を受けるであろう。
松平元康 御判
永禄4年(1561年)3月21日
簗瀬家弘殿
原田種久殿
原田種友殿
へ
”位の意味です。
とあり、徳川家康が永禄4年3月21日の時点ですでに、反今川派である浅谷城(現愛知県豊田市在)主簗田家弘(やなだ いえひろ)・久木城(現愛知県豊田市在)主原田種久(はらだ たねひさ)・同種友(たねとも)らに、家康に従属表明した見返りの身分保証の起請文を出しています。
つまり、永禄4年3月時点では、家康は独立大名の松平氏として西三河の国人領主たちを味方に付ける調略を仕掛けていたことがはっきり分かります。
加えて、、、
起請文之事
一 其家中之儀、ひくわん以下申様候共、取上ましき事
一 亀千代領中ひくわん以下、諸事年来のことく、其方可爲異見之事
一 亀千代成人之時、しせん何かと被申事候共、其方之儀、見はなし申ましく候事
一 此方之宿老中・其家中之儀、何かと申事候共、取上ましく候事
一 諸公事之儀、一切筋目次第可有異見、又用事直談ニも可有事
若此儀少もいつはり候者、
梵天・帝釈・四大天王、惣日本国中六十余州大小神祇、別伊豆・箱根両所権現、三嶋大明神・八幡大菩薩・天満大自在天神之はつを可蒙者也、仍如件、
松藏元康(花押)
六月六日
松井左近殿
(引用:久保田昌希/大石泰史編『戦国遺文 今川氏編 第三巻 1699 松平元康起請文』2012年 東京堂出版)
大意は、”起請文の事
一 汝の家中で、身分の低い者の言う事など取り上げなくてよい
一 松平家忠の領内の事の諸事は、従来どおり汝が取り仕切る事
一 家忠が成人すれば、何かと言われるだろうが、汝の事は、見放したりはしない
一 当家の重臣や汝の家中の物が何かと言うだろうが、取り上げなくてよい
一 訴訟事については、筋目に従って決めるがよい、また用事があれば余に直談してもよい
もしこれらのことで少しでも偽りがあれば、
梵天様・帝釈樣・四大天王様、日本国中六十余州の大小の神社、特に伊豆・箱根の権現様、三嶋大明神・八幡大菩薩・天満大自在天神の罰を蒙るものである。
松平元康(花押)
(永禄4年)6月6日
松井忠次殿 ”位の意味です。
とあり、徳川家康が松井忠次に東条松平家の家忠の後見役を命じている文書ですが、従来前述の通り、永禄4年のものと比定されていたのですが、これを永禄3年6月6日だとする見解が愛知県史などで出ているようです。
つまり、この文書を西三河の松平宗家の当主としての命令書と位置づけて、『桶狭間の戦い』から岡崎城に戻ってすぐに独立の動きを始めたと言う訳ですが、その後の叔父で織田方の国衆である水野信元と『石ケ瀬の戦い』を演じているところから、これは西三河の平定の動きの一環とも取れるので、まだ今川家から離れているとは判断しにくい状況ではないかと思われ、これはちょっと現時点では無理スジではないかと思われます。
しかし、家康は岡崎城に入城した後、今川氏真の動きを注視していたと考えられ、最初は織田方についた国衆を攻めて様子をみていたものの、氏真が『甲相駿三国同盟』に引きずられて、関東出兵に兵力を取られて行く状況から、今川の三河への大軍出動は不可能と判断して独立行動に踏み切った、と考えるのが道理のような気がします。
つまり、今川氏真の足元を見たと言うことになるのでしょうか。
しかし、家康が独立の意志を持って行動し始めた時期はかなり早く、永禄3年の秋口くらいではなかったかと思われます。
(画像引用:岡崎城ACphoto)
『桶狭間の戦い』の時、徳川家康の今川方武将としての役割はどんなもの?
織田方の話として彼の『信長公記』では、、、
一、今川義元沓懸へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、助けなき様に、十九日朝塩の満干を勘がへ、取出を払ふべきの旨必定と相聞え候の由、十八日夕日に及んで佐久間大学・織田玄蕃かたよりご注進申上候処、・・・
(引用:奥野高広/岩沢愿彦校注『信長公記 首巻 今川義元討死の事の条』1970年 角川文庫)
大意は、”「今川義元は(永禄3年5月17日に)沓掛へ着陣し、18日の夜には大高城へ兵粮を入れて救援し、我軍の応援が来れないように、19日朝に(鳴海潟の)満潮を狙って、(我が軍の)尾鷲津・丸根の砦を奪取しに来るものと思われます。」と18日夕刻になって(鷲津・丸根砦の守将である)佐久間大学・織田玄蕃より(清須城の信長まで)情報連絡があった。”位の意味です。
一方、今川方の様子は、著名な大久保彦左衛門の『三河物語』によれば、、、
永禄元年戊午の年、御年十七歳にして、大高の兵粮入は請取せられ給ひて、入させ給ふ処に、・・・(中略)・・・、
扨又義元、尾張の国へ出馬の時、次郎三郎元康も、御供被成て御立有。義元者、駿河・遠江・三河三ヶ国の人数をもよをして、駿府を打立て、・・・(中略)・・・、
永禄三年庚申、五月十九日に、義元は、池鯉鮒より段々に押して大高へ行、棒山の取出をつくつくとじゆんけんして、諸大名を寄て良久敷評定をして、さらば責取。其儀ならば元康責給へと有ければ、自元踸殿なれば、則押寄て責給ひければ、無程不屯して佐久間は切て出けるが、運も尽ずや。討もらされて落て行。
(引用:小野信二校注『戦国史料叢書6 家康史料集』所収「三河物語 298~300頁」 1965年 人物往来社)
大意は、”永禄元年(1557年)、御年17歳にして大高城への兵糧搬入の役目を受けられて、無事搬入された、・・・(中略)・・・、
またふたたび今川義元が尾張へ出陣の時、徳川家康もお供でご出発された。義元は駿・遠・三の三ヶ国軍勢を集めて駿府を出発した、・・・(中略)・・・、
その永禄三年(1560年)5月19日に、今川義元は知立よりどんどん進軍して大高へ向い、途中の織田方の棒山(丸根)の砦をじっくり御覧になり、諸大名を招集して軍評定をやや長く行い、「そうであれば攻め取る。それは徳川家康にまかせよう」となった。元来積極的な殿(家康)であるので、すぐに出陣して攻撃を始め、ほどなく佐久間大学は切り崩されるが、運が尽きていないのか、討ちもらされて脱出して行った。”位の意味です。
とあり、家康の大高城への兵糧入の記事は諸説あり、郷土史家の尾畑太三氏によれば、「徳川家康の大高城兵粮搬入は、どうやら永禄元年に一回あっただけと思われる」とのことで、この『桶狭間の戦い』の時の「兵粮入」は家康ではなかったようです。
半分人質の身分である『松平元康(徳川家康)』は、何度も駿府を留守にすることは難しいことから、『永禄元年の大高城兵粮入』が『初陣』のために行ったとされ、義元に監視されながらの出陣であったこの『永禄3年の尾張侵攻』では、「丸根砦攻撃」と「大高城の城番」だけだったようです。
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家康はどのくらいの兵力を率いて『桶狭間の戦い』に臨んだの?
これに関しても諸説ありと言う感じですが、見てみますと、、、
- 3000名
”御馬廻り前後列を整へ、三千余騎相印相詞を定らる。是は夜中敵に逢時も、同士討させじとの御事とぞ。”
(引用:桑田忠親監修/宇田川武久校注『改正三河後風土記(上)神君大高城御退去の事』1976年 秋田書店) - 2500名
”敵の堅砦たる丸根には、参河の兵二千五百を率いて、松平元康ー後に家康ーを向わしめた。”
(引用:徳冨蘇峰『近世日本国民史 織田信長<1> 桶狭間の役 153頁』1980年 講談社学術文庫) - 1000名
”今川軍の先鋒が駿府今川舘を出陣したのは永禄三年五月十日である。先鋒軍の大将は遠江の井伊谷城の城主井伊直盛で、この先鋒軍には松平元康が一〇〇〇の兵を率いて従軍していた。”
(引用:小和田哲男『今川義元 250頁』2004年 ミネルヴァ書房) - 1000名
”永禄三年五月十二日、今川義元は駿河・遠江・三河の軍勢おおよそ二万五〇〇〇人を率いて、駿河国府中(静岡県静岡市)を出発した。・・・(中略)・・・。なお、松平元康勢は一〇〇〇人余りであった。
(引用:安城市史編集委員会『新編 安城市史1通史編 原始・古代・中世 666頁』2007年 安城市) - 1000名
”今川義元は、三年五月一二日、駿府を出発して上洛の途についた。軍勢は四万と号されたが、実数は二万五〇〇〇位と推定されている。・・・(中略)・・・。当然元康も従った。軍勢一〇〇〇余という。”
(引用:新編岡崎市史編集委員会『新編 岡崎市史 中世 2 805頁』2002年 新編岡崎市史編さん委員会) - 2500名
”丸根砦攻撃部隊 徳川元康以下約二千五百人”
(引用:高柳光壽編『大日本戦史 第二巻 「桶狭間の戰」278頁』1942年 三教書院)
となっています。
江戸時代の史料を参考にしますと2500名~3000名、近年の研究者によりますと、家康の兵力は1000名位と言うのが現在の大勢のようです。
別件で、「大高城への兵糧搬入」と言うのがあり、これは家康がいつの搬入(永禄元年の分ではないかと言われています)を今川義元から任せられたのかはっきりしていませんが、家康本隊800名+小荷駄隊1200名というのが共通した人員データです。
ここで、丸根砦攻撃の戦闘に参加出来る軍団構成になっていそうなのが、家康本隊の800名でしょうから、家康の動員可能兵力はまあ1000名くらいが妥当かと想定されたようです。
しかしこの時、永禄3年(1560年)5月19日早暁に家康は今川義元の命令により、織田方の丸根砦を攻めて、守将の佐久間大学(盛重)を討ち取るなど、守備の織田軍を壊滅させています。
この時の様子を、、、
〇十九日黎明ニ 神君今川家ノ魁将ト乄 山家三方衆ヲ始メ 参州ノ國侍及ビ麾下ノ人数持チ・・・(後略)・・・
〇或曰 嚮ニ佐久間大學諸士ニ向テ曰 當城僅ニ騎士四百 今川ノ大兵急ニ攻バ忽チ陥ラン 各ハ速ニ去テ可ナリ 我一人爰ニ死スベシト云ヘリ
(引用:木村高敦編『武徳編年集成 上巻 永禄三年庚申年五月大の条 49~51頁』1976年 名著出版)
大意は、”
〇(永禄3年5月)19日の払暁、徳川家康は今川軍の先陣の大将として、山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)を始め、三河の国衆と麾下の武士団を・・・(後略)・・・
〇ある人が言うには、戦いの前に丸根砦守将の佐久間盛重(さくま もりしげ)は兵士に向かって「我々はわずかに400名であり、今川の大兵力がすばやく攻めて来たら、たちまち落城するだろう。諸君はすみやかに脱出してよい。私一人はここで死ぬことにする」と話したと言う。”位の意味です。
ここで、丸根砦の守将佐久間大學は「今川は大兵」と松平軍を見立てています。佐久間大學は織田家内で孤立する信長の数少ない理解者であったことが知られていますので、信長の遭遇した境遇に共感していたことがこの言葉を言わせたのかもしれません。この時信長が迎え撃つ今川軍との兵力格差は、ほぼ5倍以上とみられていますので、佐久間大學もそう考えたのではないでしょうか。
つまり、迫って来る敵が2倍や3倍の兵力では、ここで「大兵」とは言わないと思いますので、5倍から10倍近い兵力だったのではないかと思われます。
と言うことは、5倍としても2000名、10倍として4000名となります。
5月12日に今川義元に連れられて駿府を出発する時は松平宗家の親衛隊800~1000名だったとしても、5月19日払暁に丸根砦を攻めた時は、三河から国衆をかき集めて2000~4000名の兵力を持っていたのではないかと考えられます。
家康は、なぜ『桶狭間の戦い』後に織田信長と同盟を結んだの?
永禄4年(1561年)2月に結ばれたと言う徳川家康と織田信長の同盟は、はっきりした文書として残っていない事から近年は存在自体に疑問が持たれていますが。
古く、幕臣木村高敦により元文5年(1740年)に成立した徳川系文書『武徳編年集成(ぶとくへんねんしゅうせい)』によれば、、、
德川織田兩家累年 土地ヲ爭ヒ國弊ヘ民勞乄其功ナシ 所詮兩家和融乄境目ノ兵ヲ収メ 信長ハ上方ヘ伐登ルベシ 德川家ハ東國ヘ向テ武力次第ニ伐取 タガヒニ助勢ヲ成メ其大功ヲ遂ベキ㫖 信長所存ノ由達セラル ・・・(中略)・・・
神君ハ 織田信長ト會盟有ベキ爲ニ 岡崎ヨリ兩酒井兩石川植村天野高力等騎兵百餘ヲ攜ヘ 尾州淸洲ニ赴カセ玉フ・・・
(引用:木村高敦編『武徳編年集成 上 永禄4年9月の条 64頁』1976年 名著出版)
大意は、”徳川家と織田家は永年に亘って領地の取り合いをしていたが、国は疲弊し民に苦労をさせて利益はなかった。結局両家が和解して国境の兵を退き、信長は畿内方面へ攻め上り、徳川家は東三河を武力で従えるのに、互いに助け合ってその成功を遂げるべきだと言うことを信長も理解した。・・・(中略)・・・、
家康は織田信長と同盟を結ぶために、岡崎から両酒井・両石川・植村・天野・高力等騎兵100余を引き連れて、尾州清洲へ出発した。”位の意味です。
又、前出の明治の大ジャーナリスト徳富蘇峰は、、、
家康との講和は、水野信元が橋渡しをした。けれども信長にその下心がなければ、これに同意するはずがない。信長は当時において、既に天下を取るの志があった。地方の小ぜり合いに、一生を屈託するは、彼の本意でなかった。家康と握手し、参河方面における兵備を撤し、その全力を挙げて西に向うは、彼の志を成す所以であった。・・・(中略)・・・、、
織田・徳川の修好は、思いの外すらすらと成就した。休戦でなく、講和でなく、いよいよ同盟となった。而して、永禄四年の春には、両将の会見となった。・・・(中略)・・・、
この会合について、徳川時代に編纂せられたる諸書には、今より両家水魚の交わりを為し、両旗をもって、天下を定めむ。織田天下を一統せば徳川その簱下となるとの盟書を取り交わしたとある。しかしこれは徳川氏のために、強いて面皮を作為したる記事で、当時の実際ではあるまい。
家康は崛強であった。家康よりは叩頭は為さなかった。調停の申入れは、織田側からであった。
(引用:徳冨蘇峰『近世日本国民史 織田信長<1> 第七章 織德同盟 二 信長・家康の会盟 186~189頁』1980年 講談社学術文庫)
と述べています。
最近の研究では、、、
桶狭間の戦い後の状況は、家康がいつ自立したかによって異なる。永禄四年(一五六一)説では、桶狭間の戦いから永禄四年四月まで、家康は信長方との戦いを継続していたということになる。家康は、挙母・広瀬・伊保・梅ヶ坪・沓懸(以上、愛知県豊田市)などで戦っており、これらをいずれも織田方との戦いとする。
そして、刈谷城(愛知県刈谷市)近くの十八町畷および、緒川城(愛知県知多郡東浦町)近くの石ケ瀬でも戦ったとされている。ともに、水野氏の拠点近くであり、水野信元との戦いと伝えられている。
しかし、戦いがあったとされる地は、当時、いずれも今川領であった可能性が高い。・・・(中略)・・・。
十八町畷・石ケ瀬での戦いは、家康と水野信元との戦いとされている。しかし、五月末ごろ、刈谷城は今川方によって落城している。十八町畷・石ケ瀬での戦いは、家康と信元による刈谷城奪還の一環だったのではなかろうか。
家康は、すでに対今川戦を開始していた。これは、織田・今川両者を敵に回しての両面作戦とも考えられる。しかし、家康は信長と、いち早く同盟をむすんだのではなかろうか。
その仲介者とされるのが、水野信元である。十八町畷・石ケ瀬の戦いが、家康による信元援軍であるならば、信元は刈谷城奪回のため、早々に信長と家康を結ばせる必要があった。・・・(中略)・・・、
信長と家康の同盟は、永禄三年(一五六〇)であり、桶狭間の戦いから、それほど経過していない時期と考えられる。
(引用:平野明夫編『家康研究の最前線』所収 平野明夫「信長・信玄・謙信を相手に独自外交を展開した家康」2016年 洋泉社)
との説が出てきており、従来の永禄4年説よりもさらに早い時期に会盟があったとしていますが、家康の目的としては、水野信元の刈谷城奪回作戦への援軍と、やはり三河統一戦に関する西側の安全保証(織田軍の脅威を排除出来るメリット)が有力と考えられ、信長の意図としては尾張東側の安全保証だった可能性が高いのではないでしょうか。
つまり家康と信長の利害がこの時完全に一致した結果だったと考えられます。
家康が今川家の支配を離れて、三河統一に取り掛かった直後に『一向一揆』が勃発したのはなぜなの?
通説では、、、
永禄五年の秋能末、三河の住人菅沼藤十郎取手を致し、兵粮の為尓佐々木の上宮寺へ行て、もみを保して置多るを取て城へ帰る。
此寺ハ、三河國の三ケ寺の院家の其一也。残て二ケ寺野寺針崎の御坊連寄合て談合志介留ハ、此寺ハ當國の本地尓て、開山上人より依頼久敷不入の地也。か様の甲乙人のらう勢き春へき所尓非春。
巳來の為尤戒へしとて、菅沼の所へ行、土民共を催し菅沼可内能者共を打婦せ、雑穀阿ま多取返して帰る。菅沼大尓怒喧嘩を起し介れとも不叶。此由酒井雅楽助尓申。
酒井聞て使を以天断申介れハ、其使を切介る間、家康是を聞召、酒井雅楽助を検断尓被仰付、寺中能狼藉のもの共いましめ給ひ、彼寺の坊主能檀那幷末寺真末山土民百姓一味して一揆を起し、
駿河衆の所々尓残里し衆へ触送里逆心を催し、先三ケ所能寺を城尓かまへ、家康譜代衆も皆此宗旨能檀徒ハ一味し、家康へ逆心をな須。
(引用:坪井九馬三/日下寛校注『松平記 巻二』国立国会図書館デジタルコレクション)
大意は、”永禄5年(1562年)秋の末、三河の住人菅沼定顕(すがぬま さだあき)が城を作り、兵糧確保のために佐々木村の上宮寺(じょうぐうじ)へ出かけて、籾を干して置いてあったものを城へ持ち帰った。
この寺は三河に有る三ヶ所の院家(いんげー門跡寺院に付属する寺格の高い寺院)のひとつだった。残り二ヶ所の野寺村の本証寺(ほんしょうじ)・針崎村の勝鬘寺(しょうまんじ)の御坊が集まって言うには、この佐々木村の上宮寺は三河における教団の本拠地で、開山の祖聖徳太子以来久しく「不入の地」である。このような部外者の狼藉を受けるような所ではない。
将来のためにも戒めをすべきだと言って、門徒の百姓たちを引き連れて菅沼の城まで行き、菅沼家内の者達を打ち伏せ、雑穀など多量に取り返して帰った。菅沼定顕は大いに怒り喧嘩をしようとしたが上手く行かず、此の事を寄親の西尾城主酒井正親(さかい まさちか)に注進した。
注進を受けた酒井正親は、使者を出して決定を申入れに行ったところが、その使者を切り捨てると言う事態となり、家康がこれを聞きつけ、西尾の酒井正親に佐々木村上宮寺の取り調べを申付け、寺中の狼藉に加担したものをしょっぴいた。それに対し、一向宗の坊主・檀家ならびにその末寺末山の土民百姓たちは、総動員で一揆を起した。
三河国の所々に残留している駿河衆にまで触れ廻って反徳川の勢を起し、問題の三ケ所の寺を城塞化し、家康の譜代家臣衆も一向宗徒はこれに加担し、家康への叛逆を始めた。 ”位の意味です。
つまり通説としては、「桶狭間の戦い後に今川家から独立した徳川家康の足元で一向一揆が勃発したのは、当時三河統一に動いていた家康が一向宗の寺院から、古来より寺社が持つ”不入権”を犯して兵糧を徴発したのが発端となった」としています。
前述の発端を契機に、「松平家対一向宗門徒一揆」の対決となって行きます。
歴史家の新行紀一氏によれば、肥沃な西三河の平地の物資流通の主導権を教団が握っていることから、徳川家康が三河統一に当ってその経済力を掌握する目的で、一向宗徒を挑発し一揆を起す様に仕向け、ものの見事に家康の計略に一向宗徒が引っかかったとしています。
これには、本願寺派寺院・門徒が状況判断を間違え、独立したばかりの松平宗家の力を過小評価したことにあり、また家康側の計算違いは松平家有力譜代衆の中から家康に背き、宗門側についた者が多数出た事なのでしょう。
これにより、徳川家康は予想以上に苦労したものの西三河地域の豊富な経済力を手にして、実態経済力では今川家に肩を並べて行き、東の今川支配地への侵攻を進めて行くことが可能となって行ったようです。
まとめ
永禄3年(1560年)5月19日の『桶狭間の戦い』で、今川義元が織田信長によって討ち取られた事によって、今川の『尾張侵攻軍』の先陣を務めていた徳川家康は、永年に亘って自らと三河国を支配していた今川家から、独立を果たしたことは周知の史実です。
そして徳川家康の今川からの独立時期について、従来は今川義元後継今川氏真の残る史料から、永禄4年(1561年)4月11日夜とされていました。
しかし近年の研究により、もっと早い段階の永禄4年の3月時点にすでに三河の国衆への調略(家康の起請文)がみられることから、永禄3年の秋以降には、今川からの離反を決意していたのではないかとも考えられています。
また日本史学者の平野明夫氏によれば、『桶狭間の戦い』の後、岡崎に入城した家康は、残留した今川方武将として、国境にある挙母・広瀬・伊保・梅ヶ坪・沓懸などの織田方の城を攻めていたとされていますが、これが実は当時すべて今川領にあった城だったのではないかとの可能性も出てきています。
かつ、『桶狭間の戦い』の折、最後まで鳴海城に残った今川方武将岡部元信に、帰りがけに落城させられた刈谷城をいつ水野氏が取り戻したかがはっきりしないことから、織田方の叔父水野信元と刈谷と大府の間の石ケ瀬で戦ったとされているものが、実は家康が水野信元に加勢して取り戻す合戦だったのではないかとの可能性も指摘されています。
家康の信義に厚いと言う神君イメージを作るために、「ぎりぎりまで今川家に忠義を尽くそうとしたが、暗愚な若殿氏真(うじざね)にやむなく見切りをつけた」と言うストーリーに、後年幕府の意向又は忖度で、話が替えられた可能性も検討される必要がありそうです。
永禄3年5月19日の敗戦の時、大高城の城番をしていて今川軍の敗退を信用していなかった家康に、大高城からの早期撤退を勧める為に、わざわざ叔父水野信元は家臣の浅井六之助と言う者を派遣しているなど、このタイミングから叔父―甥の関係が生きていたことを考えると、その後伝えられるように、水野信元と合戦など行う訳がないと言うのが自然な見方ではないでしょうか。
その後永禄6年に、家康の足元で勃発した『三河一向一揆』の際も、水野信元は援軍を出して甥の家康の苦境を助けています。
あれこれ考えると、やはり徳川家康の今川家からの独立は、桶狭間から岡崎城へ帰還した段階ですでに芽生えていたと考えた方がよさそうで、その後家康は川家・今川氏真の対応を見ながら、具体的な行動を起こして行ったのではないでしょうか。
ここでのキーマンが「叔父の水野信元だ」と考えると、水野家の立場から松平家と織田家の盟約を急いだと思われます。まだ家康と信長の盟約は正式な文書は確認されていませんが、現行の永禄4年2月時点より前に、水野信元の仲介の下に盟約は成約出来ていたのではないでしょうか。
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参考文献
〇大石泰史『今川氏年表』(2017年 高志書院)
〇平野明夫編『家康研究の最前線』(2016年 洋泉社)
〇丸島和洋『列島の戦国史⑤東日本の動乱と戦国大名の発展』(2021年 吉川弘文館)
〇桑田忠親監修/宇田川武久校注『改正三河後風土記<上>』(1976年 秋田書店)
〇久保田昌希/大石泰史編『戦国遺文 今川氏編 第三巻』(2012年 東京堂出版)
〇黒田基樹編著『今川義元とその時代』(2019年 戎光祥出版)
〇笹山春生(ほか15名)『詳説日本史改訂版』(2018年 山川出版社)
〇大森金五郎/高橋昇造著『増補 最新日本歴史年表』(1934年 三省堂)
〇奥野高広/岩沢愿彦校注『信長公記』(1970年 角川文庫)
〇小野信二校注『戦国史料叢書6 家康史料集』(1965年 人物往来社)
〇尾畑太三『証義・桶狭間の戦い』(2010年 ブックショップマイタウン)
〇徳冨蘇峰『近世日本国民史 織田信長<1>』(1980年 講談社学術文庫)
〇小和田哲男『今川義元』(2004年 ミネルヴァ書房)
〇安城市史編集委員会『新編 安城市史1通史編 原始・古代・中世』(2007年 安城市)
〇新編岡崎市史編集委員会『新編 岡崎市史 中世 2』(2002年 新編岡崎市史編さん委員会)
〇高柳光壽編『大日本戦史 第二巻』(1942年 三教書院)
〇木村高敦編『武徳編年集成 上巻』(1976年 名著出版)
〇新行紀一『一向一揆の基礎構造ー三河一揆と松平氏ー』(1975年 吉川弘文館)
〇坪井九馬三/日下寛校注『松平記』(国立国会図書館デジタルコレクション)