『桶狭間の戦い』に敗れた今川軍に、一体何が起こっていたの?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

スポンサーリンク
『桶狭間の戦い』で惨敗した今川家に何が起こっていたのか分かります。
今川義元が尾張に攻め込んだ本当の目的が分かります。
今川軍の本当の兵力を推定しました。
今川の大軍が信長軍に敗れた仕掛けが判明します。
今川家が滅亡した本当の理由が分かります。

 

『桶狭間の戦い』で今川家が負ったダメージはどんなものだったの?

周知のように、永禄3年(1560年)5月19日(新暦では6月12日)に、織田信長(おだ のぶなが)率いる織田軍5000と、今川義元(いまがわ よしもと)率いる今川軍25000が、三河と尾張の国境の桶狭間(おけはざま)付近で衝突しました。

一般に戦国期の野戦の勝敗は、軍勢の多寡に負うところが大きく、戦前の下馬評では、目いっぱい見積もっても今川勢の1/5の軍勢しか集まらぬ織田信長方の、圧倒的不利な状況となっていました。

しかし結果的に、信長軍主力の動向・意図を正確に捕捉し損ねていたのか、今川軍は信長の直轄精鋭部隊2000名に義元本陣を直接攻められると言う事態に、分散した主力攻撃部隊の応援が間に合わず、大将今川義元討死と言う事態に立ち至り、今川は敗軍となりました。

 

・・・と言うのが、『桶狭間の戦い』の大まかな流れですが、今川義元が討取られた永禄3年(1560年)5月19日の未刻(ひつじのこくー午後2時頃)以降、今川全軍は一体どうなっていたのでしょうか?

 

通説によれば、、、、

 

今川勢は首將を失ふと共に全軍東方へ退却した。その死傷者は約二千五百人を數へ、松井宗信の率ゐる部隊の如きは全隊殆ど殲滅した。織田勢は敵を追撃することなく、直ちに兵を大澤村近傍の間米山に集合し、野分がは同地に於いて義元の首級のみを實検し、午後四時往路を採りて馬を班し、途中熱田神宮に賽して神馬一頭を献じ、薄暮清州城に入った。

(引用:高柳光壽編『大日本戰史 第二巻 284~285頁』1942年 三教書院)

 

と太平洋戦争中に出版された戦史の記載にあり、「敗北した今川軍は全軍が東へ退却し、織田信長は深追いはせずに、今川義元の首級を持って、夕刻居城の清須城へ帰還した。」となっているようです。

 

もう少し見ますと、、、

 

かくて義元討れしことを、敵方いまだしらず、猶乱入て戰ひしに林佐渡守心付て、義元の首を信長の旗の蝉本に結付高くさしあげ、大音声にて「敵の大将今川義元を服部小平太・毛利新助相討にしたるぞ。残る駿州勢一人も洩さず討取れ」と呼叫たれば、これを見聞て、信長勢は弥勇み今川勢は力を落し、四角八方に逃走るを追付する事数しらず。

其中に義元の叔父蒲原宮内少輔氏政・並義元の甥久野半内氏忠・同妹聟浅井小四郎政敏・・・(中略)・・・以下、随一の勇士五百八十三人、義元の討死と聞て、其場を去らず枕をならべ討死す。

・・・(中略)・・・。

信長は思のままに大勝して、討取首実撿有しに、都合三千九百七級凱歌を唱へて歸陣せらる。今川方大軍なれども、大将を討れ茫然としてあきれ迷ひ、吊軍せん心も付ず、瀬名駿河次郎親範・朝比奈備中守泰能・同小三郎泰秀・三浦右衛門佐義鎮等は、地鯉鮒・沓懸等の城々を守り居たるが、一戦にも及ばず、城を捨て駿州へ逃げ帰る。

(引用:桑田忠親監修/宇田川武久校注『改正三河後風土記(上)222~223頁』1976年 秋田書店)

 

大意は、”このように今川義元が討死したことを今川方が気が付いていないために、なお戦いが継続していることに織田軍の林佐渡守が気が付き、義元の首を信長の馬印の取り付け部に括り付けて高く差し上げて、大声で「敵の大将今川義元を服部小平太と毛利新助が討取ったぞ!残る今川軍を一人残らず討取れ!」と叫べば、これを聞いて織田勢は勢いづき、今川勢は落胆し四方八方へ逃げ始め、これで追われて討取られる者が多数に上った

その中で、義元の叔父・甥・妹聟など、名うての勇士583名が、御大将義元の討死を聞き、戦場を離脱することなく、その場に留まって枕を並べて討死した。

・・・(中略)・・・。

織田信長は思い通りの大勝利を収め、首実検をし、全部で3907の首級を上げて帰陣した。今川方は大軍ではあったが、大将今川義元を討ち取られてから軍としての統制を失くし、弔い合戦に及ぶ気概もなく、重臣の瀬名親範(せな ちかのり)朝比奈泰能(あさひな やすよし)朝比奈泰秀(あさひな やすひで)三浦義鎮(みうら よししげ)等重臣は、知立(ちりゅう)・沓掛(くつかけ)の城々を守っていたが、一戦も戦わずに城を捨てて国へ逃げ帰った。”位の意味です。

 

とあり、主戦場となってしまった『桶狭間』より東(つまり後詰め)に居た今川勢は、なんとそのまま城を捨てて退却し、西(つまり先陣)にあった鳴海城に居た岡部元信(おかべ もとのぶ)、大高城の徳川家康(当時は松平元康ーまつだいら もとやす)は、主戦場へ応援に行くことも出来ずに取り残されたようです。

これを見ると、今川軍が部隊間の連絡も途絶えるほど大混乱に陥っていた様子が伺え、逆に織田軍の攻撃が如何に短時間で迅速に行われたかがわかります。

織田軍の主力は大軍の今川軍が東西に長く伸びた陣形の真ん中に切り込んだ形になっていますが、常識的には大軍に突っ込んだ少数の軍は、包み込まれて殲滅される結末を迎えますので、ここで今川軍が圧倒された原因は、、、

 

  1. 今川軍は、織田軍の中央突破に前後の軍の応援が間に合わなかったほど東西に長く伸びた陣形になっていた
  2. 実は、迎撃する為にそれなりに備えをしていた今川軍の予想より、織田軍の軍勢が圧倒的に多数であった
  3. 通説のように今川軍は織田軍に不意打ちを受けて、今川軍の陣形が迎撃する体制となっていなかった

 

これくらいが考えられますが、、、

織田信長の『桶狭間の戦い』と言えば、江戸時代より典型的な「奇襲攻撃」で有名になっていますので、3.の少人数の軍による「不意打ち」と言うイメージが濃厚です。

 

しかし、敵の今川方史料とも言える大久保彦左衛門の『三河物語』では、、、

 

大高の兵粮入は請取せられ給ひて、入させ給ふ処に、敵も出で見えければ、物見を出させ給ひしに、鳥居四郎左衛門・杉浦藤次郎・内藤甚五左衛門・同四郎左衛門・石河十郎左衛門なと見て參。

今日の兵らう入者、如何に可有御座哉。敵陣を持て候と被申上候処へ、杉浦八郎五郎参て申上候は、早々御入候へと申上ければ、各被申けるは、八郎五郎は何を申上候哉。敵きをゐて陣を持たると云。

(引用:小野信二校注『戦国史料集6 家康史料集』所収『三河物語 298頁』1965年 人物往来社)

 

大意は、”前日の今川の軍議で大高城への「兵粮入れ」を命じられた松平軍は、「兵粮入れ」をしようと現地へ向かったところ、織田軍の姿も見える為、偵察隊が出た。鳥居忠広・杉浦時勝・内藤忠郷・内藤正成・石河十郎左衛門が見て来た。
「今日の兵粮入は見あわせた方が良い。敵は大軍です。」と言う。そこへ、杉浦八郎五郎がやって来て、「すぐにでも兵粮入れをしましょう。」と言った。それに対し、口々に言うには、「八郎五郎は一体何を言っているのだ。敵は気力旺盛な大軍なんだぞ。」”位の意味です。

一般に当時から、尾張の兵は戦いに弱いのが有名で、一方三河兵は精強で鳴らしており、その三河兵がビビッてこう言っているのですから、待ち受ける尾張の軍勢が少々の兵力ではなかったことが想像されます。

つまり、今川軍敗退の原因が、大方の予想を裏切って、2.の織田軍が圧倒的多数であった可能性もありそうなのです。

 

敗北の原因はともかく、結果として、、、

この『桶狭間の戦い』で、今川家は中核をなす軍団の大将クラスを多数失い、事実上の当主今川義元を含めて、その義元が作り上げた政権のコアがほぼ失われました。

 

残された家督の今川氏真を始め重臣クラスも当主が討死したことにより、強制的に代替わりをさせられるに至り、それは今川家の外交面・内政面共に弱体化を招きました。

つまり、織田家と今川家との国境の線引きが、尾張東南部から、西三河へ大幅に東へ押し戻される事となり、それへの今川氏真の出兵と言う必要な対抗策が、結果的に実現しなかったことにより、今川家の権威は大きく失墜し、その後の三河・遠江の国衆の離反を招きました。

また、同盟者であった戦国の虎である武田信玄にも侮られ、その後には信玄の今川領への侵攻を許すことになり、この『桶狭間の戦い』の8年後には戦国大名今川家が崩壊する運命が待ち受けていたのです。

 

(画像引用:ACphoto今川義元戦死場所)

今川義元の『尾張乱入』の本当の理由と目的はなんなの?

この問題も、『桶狭間の戦い』の大きな謎のひとつです。

通説では、、、

 

今川義元は、家柄の自覚心も、ひとしお強く、京都に入りて、将軍家を擁し、覇を称せんとの野望も、恐らくは一朝一夕の故ではなかったであろう。それには邪魔物は、まず尾張の織田である。これを退治するは、第一の急務であった。

・・・(中略)・・・。

今川義元が多年の宿望であった西上の挙は、いよいよ永禄三年五月一日をもって、駿・遠・参、領邑の諸将士に触れ出した。同十二日には、嫡子氏眞を留守となし義元本隊は、府中ー今の静岡ーを出発した。総数四万と号した。・・・(中略)・・・。

彼の眼中、もとより織田無しじゃ。ただ一蹴りに蹴り散して、尾張を通過する存念であった。

(引用:徳富蘇峰『近世日本国民史 織田信長(一) 148~151頁』1980年 講談社学術文庫)

 

古くは、、、

 

永祿三年五月 駿河國今川治部大輔義元分國ヲ治メ 尾張國ヲ追罰シテ上洛シ 京公方エ出仕可申トテ 一萬餘騎巳ニ尾張國マテ責上ケル

(引用:近藤瓶城編『新訂 史籍集覧 第十三冊 第百十六』所収『足利季世紀 巻五 将軍地藏軍記 218頁』1968年 史籍集覧研究會)

 

大意は、”永禄3年(1560年)5月 駿河の今川義元は分国支配をしているが、新たに尾張国を討伐して上洛し、京の将軍へ仕える為と云い、1万余騎はすでに尾張国まで攻め上がっている。”位の意味です。

 

徳冨蘇峰は明治時代の著名なジャーナリストで、その著書『近世日本国民史』の中で、ほぼ江戸時代の通説に基づいた『上洛説』を述べています。

『足利季世記(あしかがきせいき)』は、作者不明ながら元亀4年(1573年)以降に書かれたものと言われ、現実の『桶狭間の戦い』から比較的近い時期の記述と思われますが、今川義元の出陣に関しては『上洛説』を採っています。

最近の研究に基づく説では、、、

 

ところで、この桶狭間の戦の原因に関説した研究の多くは義元の上洛をあげているが、はたして義元が尾張国へ侵入したのは上洛が目的であったのだろうか。『信長公記』や『三河物語』などにも原因はまったく記入されておらず、義元の上洛の意志を示す同時代の史料は管見のかぎり見当たらない。・・・(中略)・・・。

それでは、義元の尾張侵入の原因は何であったのだろうか。そこで考えられることは、今川氏の三河における文書発給の対象地域についてである。・・・、発給地域の特徴はほぼ三河一国に及んでいるとはいえ、東三河にくらべると西三河については圧倒的に少ない。この点は見逃すべきではない。

つまり、今川氏による三河一国の領国化とはいえ、完全な支配権を掌握していたのはおそらく東三河だけであり、西三河については未だであったのではないかという推測が文書発給地域の検討からなりたつ。・・・(中略)・・・。

おそらく今川氏が西三河を支配するにあたっては、やはり松平氏を媒介にすることによってしか行えなかったのではないだろうか。・・・(中略)。

さて、・・・永禄三年五月八日義元は三河守に任官した。三河における最高の支配者となったわけであり、ここに三河一国を完全に掌握しようとする名目的契機がおとずれたのである。

したがって義元の目指したものは上洛ではなく、むしろ三尾国境付近におよぶ大規模な示威的軍事行動ではなかったろうか。

(引用:今川氏研究会編『駿河の今川氏 第三集』所収 久保田昌希「戦国大名今川氏の三河侵攻」30~32頁  1978年 静岡谷島屋)

 

とあり、この歴史学者久保田昌希氏の論文が契機となったのか、「今川義元上洛説」を否定する「三河確保説」「鳴海・大高救助説」「尾張侵攻説」等諸説が噴出して来て、決定説はないものの、今や「非上洛説」が主流になりつつあります。

 

しかし新に「上洛説」が、中近世政治学者小林正信氏からまた違った切り口で提唱されています。

 

それは、、、

実は当時の政局は、室町幕府が『応仁の乱』終息後も、京都の将軍家(足利義輝ーあしかが よしてる)と古河公方(足利義氏ーあしかが よしうじ)の二元支配体制(東西対立)により、政治的なバランスを保っていました

義氏の妻は、相模の北条氏康(ほうじょう うじやす)の娘であり、当時関東の古河公方(こがくぼう)は後北条氏の傀儡(かいらい)となっている状態で、古河公方(関東公方)の京都方御目付役の関東管領(かんとうかんれい)には、越後の長尾輝虎(以後上杉謙信と記す)が任官していました。

天文23年(1553年)に武田信玄(甲斐)・北条氏康(相模)・今川義元(駿河)による『駿甲相の三国同盟』をすでに締結しており、今川家は足利家流ながら関東公方(古河公方)側となっています。

このように、永禄年間になって関東公方側である今川家は、北条氏康の意を受け、永禄元年にやっと近江から帰京を果すも不安定な京都室町将軍家(足利義輝)に圧力を掛けるべく上洛の動きを始めます

(この圧力を掛けると言うのは、本来『将軍職』は、鎌倉幕府のように関東に有るべきだと言う根強い主張が関東公方側にあり、京都にある『将軍職』を本来の関東へ戻すべきだと言う「政権争い」だと言います。)

この今川上洛軍の道筋に当る尾張の織田信長は、永禄2年(1559年)になってやっと尾張統一を果たしたところで、未だ関東公方側の今川上洛軍を迎え撃つ体制が出来ておらず、永禄2年2月2日に上洛し京都将軍家足利義輝に拝謁し援助を求めたと考えられます。これを受けて足利義輝は、今川家の動きを牽制するため関東管領の上杉謙信の上洛の実施を要請し、これに応えて謙信は永禄2年4月27日に5000の精兵を引き連れて上洛します。

このため、今川義元の上洛行動は1年遅れて翌永禄3年(1560年)5月になったと考えられます。

そして、永禄3年(1560年)5月19日の『桶狭間の戦い』に、尾張の織田信長が今川軍に劇的な勝利を収め、この結果を受けて将軍足利義輝は、既に越後に帰国していた上杉謙信に古河公方(実態は後北条氏)への攻撃命令を下し、永禄3年9月に将軍の意を受けた関白近衛前久(古河公方候補か?)が越後へ下り、謙信は近衛前久を同道の下、越山して関東へ攻め込み、永禄4年1月23日に関宿の「古河公方」足利義氏へ攻めかかります。

 

この一連の動きから判断して、永禄3年5月の今川義元の西上侵攻は明確に「上洛」が目的だったとしています。

これが、大まかな小林正信氏の『上洛説』の概要ですが、古河公方側の今川義元らの動きと京都の幕府政治を大局的に俯瞰していて、研究諸氏が指摘するであろう証拠(文書記録)の少なさが有るにしても、その行動の必然性を鋭く説いており、説得力も十分にあるような気がします。

 

以上が諸説乱立していて未だ定説が定まっていない、謎の「今川義元の尾張侵攻・乱入」でした。

 

スポンサーリンク

今川軍の兵力は本当のところどのくらいだったの?

前述の中にも一部ありますが、、、

 

  1. 徳冨蘇峰『近世日本国民史』では、40000人
  2. 『足利季世記』では、                    10000人
  3. 太田牛一『信長公記』では、         45000人
  4. 高柳光壽『大日本戦史』では、     25000人
  5. 『武徳編年集成』では、                40000人
  6. 山澄英竜『桶狭間合戦記』では、  45000人
  7. 松平家忠『家忠日記増補』では、  40000人
  8. 『絵本太閤記』では、                   46000人
  9. 『改正三河後風土記』では、         40000人

 

となっており、古文書では今川義元の軍勢は圧倒的に総数4万~4万5千くらいが多いようです。

 

それで、いつも通りの今川家の支配地域の石高から可能動員兵力の単純計算をしてみますと、、、

 

  • 駿河  150,000
  • 遠江  255,616
  • 三河  290,715            
  • 合計  696,331(千石)

 

ここまでの動員力:10000石で250人とすると

696,331×250/10000≒17,400(人)

 

当時実質今川支配下にあったとされる尾張下郡分まで入れると、、、

  • 知多郡 66,233
  • 愛知郡 74,340×1/2=37,170
  • 愛西郡 12,136                                   
  • 尾張国内今川支配分計 115,639(石)

尾張分の動員力 115,639×250/10000≒2,900(人)

石高より割り出した今川軍の動員力

17,400+2,900=20,300(人)

同盟国の応援兵力が、相模後北条から2000、甲斐武田から1000としても、合計で23,200人となります。

目いっぱいの動員で、これだけが計算されますが、どうやら2万5千が目一杯といった処になりそうです。

実際に上洛が目的であれば、後北条家からの応援も5000人位有ったかもしれませんが、やはり総員で20000から25000人位までに、見積もっておくほうが無難のようです。

やはり、40000とか45000人とかは実現出来そうもないようです。

(今川の石高根拠はネットの記事『大国・上国・中国・下国一覧』を、尾張分は『張州府志』を参照しました。)

 

御隠居の今川義元が討取られただけで、なぜ今川全軍は総崩れになったの?

これに関する代表的な古文書の描写は、、、

 

空晴るるを御覧じ、信長鑓をおつ立て大音声を上げて、すはかゝれかゝれと仰せられ、黒煙を立てゝ懸るを見て、水をまくるがごとく後ろへくはつと崩れたり。弓・鑓・鉄炮・のぼり・さし物、算を乱すに異ならず。

今川義元の塗輿も捨てくづれ迯れけり。

(引用:奥野高広/岩沢愿彦校注『信長公記 首巻 55頁』1970年 角川文庫)

 

大意は、”空が晴れるのをご覧になって、信長様は槍を立てて大声を上げ、「それ!かかれ!かかれ!」とご命令を出され、兵士らが泥水を黑煙のように飛び散らかし敵陣へ殺到すると、敵陣は水をまかれたように後ろへぐわっと崩れ倒れた敵兵は弓・槍・鉄炮・のぼり・さし物など投げ散らかし算を乱して逃げ出した。

今川義元の塗輿も投げ捨てて、総崩れで逃亡し始めた。”位の意味です。

このように、それなりに備えのあった圧倒的大軍であったはずの今川軍が、織田軍に一気にぶっ飛ばされた様子がはっきりわかる描写となっています。まさに「鎧袖一触(がいしゅういっしょく)」と言う感じです。

この事態に対する従来の理解は、当時もその後の江戸時代以降も、今川軍のあまりのもろさに、織田信長が「迂回攻撃」・「不意打ち」を行ったからだとされて来ました。

しかし、近年の研究で、軍事史研究家の藤本正行氏により、『桶狭間の戦い』における織田軍の攻撃は、「迂回攻撃」ではなくて、「正面攻撃」だった事が明らかにされています

また、中近世政治学者小林正信氏によって、中嶋砦から出撃する織田軍の様子は、地形的にも、今川軍の前陣から丸見えであったことも明らかにされています

「迂回攻撃」でも「不意打ち」でもなかった、しかも今川本陣は従来理解の桶狭間の谷底ではなくて、桶狭間山の上にきちんとした陣地が作られていたことも分かって来ました。

こうなると、、、

今川勢は、正しくバーナムの森のように桶狭間の森が織田の大軍によって動くという、予期しない光景を目にして、マクベスのごとく驚愕し、その最期に上洛を阻止する将軍の強い意志を思い知ったに違いありません。この結末は正しく将軍による上意討ちです。

(引用:小林正信『信長の大戦略ー桶狭間の戦いと想定外の創出  211頁』2013年 里文出版)

 

とあるように、織田軍が従来の見方である「少数の軍勢」ではなく、「かなりの軍勢」であったことが明らかになって来たのではないでしょうか。

 

そもそも、、、

 

前述した、敵の今川方史料とも言える大久保彦左衛門の『三河物語』で、、、

 

大高の兵粮入は請取せられ給ひて、入させ給ふ処に、敵も出で見えければ、物見を出させ給ひしに、鳥居四郎左衛門・杉浦藤次郎・内藤甚五左衛門・同四郎左衛門・石河十郎左衛門なと見て參。

今日の兵らう入者、如何に可有御座哉。敵陣を持て候と被申上候処へ、杉浦八郎五郎参て申上候は、早々御入候へと申上ければ、各被申けるは、八郎五郎は何を申上候哉。敵きをゐて陣を持たると云。

(引用:小野信二校注『戦国史料集6 家康史料集』所収『三河物語 298頁』1965年 人物往来社)

 

大意は、”前日の今川の軍議で大高城への「兵粮入れ」を命じられた松平軍は、「兵粮入れ」をしようと現地へ向かったところ、織田軍の姿も見える為、偵察隊が出た。鳥居忠広・杉浦時勝・内藤忠郷・内藤正成・石河十郎左衛門が見て来た。
「今日の兵粮入は見あわせた方が良い。敵は大軍です。」と言う。そこへ、杉浦八郎五郎がやって来て、「すぐにでも兵粮入れをしましょう。」と言った。それに対し、口々に言うには、「八郎五郎は一体何を言っているのだ。敵は気力旺盛な大軍なんだぞ。」”位の意味です。

前日の5月18日の徳川家康の「大高城への兵粮入」時には、実は敵方の織田軍が小軍勢だと言う事前情報に相違して、意外な大軍であることが松平軍によって認知されており、、、

 

評定には、鵜殿長勿を早長々の番をさせて有。誰かを替にか置とて、誰か是か云内、良久敷誰ともなく、さらば元康を置申せとて、次郎三郎樣を置奉りて、引除処に信長者思ひの儘懸付給ふ。駿河衆是を見て、石河六左衛門と申者を喚出しける。

彼六左衛門と申者は、大剛の者にて、伊田合戦の時も、面を十文字に切わられ、を半分被切、身の内につゞきたる所もなく、疵を持たる者成を、喚て云けるは、此敵は武者を持たるか、又不持かと云。各の不及仰に、あれ程わかやぎて見えたる敵の、武者を持ぬ事哉候はん歟。

敵は武者を一倍持たりと申、然者敵の人数は何程可有ぞ。敵の人数は、内ばを取て五千も可有と云。其時各笑て云。何とて五千者可有ぞと云。

其時六左衛門打笑て云。かたかた達は人数の積は無存知と見えたり。かさに有敵を、下より見上て見る時は、少勢をも大勢に見る物成。下に有敵をかさより見をろして見れば、大勢をも少勢に見る物にて候。旁々達の積には何として五千より内と被仰候哉。

(引用:小野信二校注『戦国史料集6 家康史料集』所収『三河物語 300頁』1965年 人物往来社)

 

大意は、”戦い前日の5月18日の軍議で、大高城の鵜殿長照(うどの ながてるー三河国宝飯郡上ノ郷城主)の在城が長すぎるので、誰かに替えようと言って、誰彼言っている内に、暫くして誰ともなく、ならば松平元康(徳川家康)にせよと言って、家康様が決まり、皆引き上げる所に織田本隊が戦場に着陣した。

戦場を自由に動き回る大将の織田信長を見て、今川家中は大高城に在番することになった松平家の石河六左衛門を呼んだ。彼の者は剛の者で、伊田合戦(天文2年1533年12月)の時、顔を十文字に切り割られ、顔面の半分が損傷して全身傷だらけの者である。

呼んで聞いたのは、「敵の織田軍は兵力があるかないか」と。六左衛門が答えて「皆さんに言われるまでもなく、あれ程大将信長に元気があるのは、大軍勢を持っている証拠で、見かけの2倍の軍勢は控えているでしょう。」と言う。「では、敵の軍勢はどのくらいのものだ。」と重ねて聞かれると、「敵の人数は控えめに見ても5000人は下らないでしょう。」と。それを聞いて諸将は大笑いし、「なんで5000人もいるのだ。」と言う。

その時、六左衛門はにやりと笑って、「あなた方は軍勢の数え方をご存じないと見える。かたまっている敵は、下から見上げる時は実際より大勢に見え、上から見下ろす時は、実際より少ない軍勢に見える物です。皆さま方はどうして5000より少ないと見るのですか?」”位の意味です。

とのやり取りがあり、今川諸将も織田軍が到着して来ているのを認知していたにもかかわらず、信長の軍勢の隠し方が上手なのか、ハナから織田軍は2000~3000の少軍勢と決めつけていた今川軍首脳部の油断があったのかもしれません。

前日18日から織田軍を見ている松平軍の歴戦の強者である石河六左衛門は、織田軍の軍勢を見えるだけで1万近いと見たようで、現場の実感としては実際の今川軍と織田軍の兵力差はあまりなかったと感じられます。

これらからやはり、今川軍惨敗の原因は、織田軍の精鋭部隊が全軍で総攻撃を仕掛けて来た時に、広がった陣形で部隊間の連絡もきちんと取らず、散漫に立ち向かったことが大きな理由であるようです。

最後に織田信長が裸になった義元本陣(600名)に親衛隊2000名を突っ込ませた時、本陣の応援に本陣以外の今川軍が義元救援に駆け付けなかった理由は、信長軍の攻撃がすばやかったこともあるでしょうが、すでに緒戦で壊滅させられてしまい、応援に行くことが不可能であったと言うのが本当のところのようです

この信長の、兵力を寡少に見せて相手を油断させるテクニックは、その後の天正3年(1575年)の『長篠の戦い』でも十分に生かされ、宿敵武田勝頼の判断を大きく誤らせて武田主力を壊滅させています

 

家督の今川氏真が駿府にいたにもかかわらず、なぜ生き残った有力武将は、氏真を押し立てて今川家再建に向かわなかったの?

中世期の日本の合戦は、戦闘の規模の割に死傷者の数が少なく、戦力がそれほど落ちていないので、戦費の調達に目処がつけば、案外早期に再戦を行っているケースが多いのが特徴だと思います。

 

しかし、全部がそうではなくて、壊滅的な被害を受けている場合は、再起に時間がかかったり、一族滅亡の道を辿ることになります。

永禄3年の今川家の場合は、当主が討死すると言う事態を迎え、結果的に8年後には戦国大名としては歴史の舞台から消えて行くことになりました。

では当時、今川家に何が起こっていたのでしょうか?

 

『改正三河後風土記』の記述によって、戦場の現場では、、、

 

  1. 戦場で義元を守っていた重臣・駆け付けた重臣は、義元討死後も親族を中心にその場に居残って斬り死した。
    (随一の勇士五百八十三人、義元の討死と聞て、其場を去らず枕をならべ討死す。)
  2. 義元討死の報に接した後詰の重臣たちは、戦いに参加することなく城を捨てて戦場から離脱した。
    (今川方大軍なれども、大将を討れ茫然としてあきれ迷ひ、吊軍せん心も付ず、瀬名駿河次郎親範・朝比奈備中守泰能・同小三郎泰秀・三浦右衛門佐義鎮等は、地鯉鮒・沓懸等の城々を守り居たるが、一戦にも及ばず、城を捨て駿州へ逃げ帰る。)

 

織田信長にはこの戦闘後、その場での「今川領への侵攻計画」はなかったので、信長は清須城へ引き揚げ敗れた今川軍は駿河へ撤退して、家督の今川氏真の下で『今川家中』で、善後策の協議と言うことであったと考えられます。

松平元康(徳川家康)の三河松平軍は、合戦後も城番として大高城に居残っていたものの、元康の叔父織田方武将緒川城主水野信元(みずの のぶもと)からの勧めもあって、大高城を引き払い三河岡崎へと戻ります。

そして、退却する今川勢と入れ替わりに今川家の岡崎城城番として入城した徳川家康は、今川家の一員として今川氏真から、今川領西三河の維持管理を任され、義元後継の今川氏真が西三河の安定のため出陣して来るのを待つ形になりました。

ところが前述(小林正信説)のような政治構図により、織田軍によって今川軍の上洛の動き?が止ったのを見た上杉謙信は、関東管領上杉憲政(実は予ての将軍義輝の意向)の求めに応じて、8月になって越山し相模の北条氏康を叩くために関東へ出陣します。

これに対する古河公方方の北条氏康の求めに応じて、北条氏救援の為に今川氏真は関東への出兵(永禄4年3月武蔵国河越城への出陣)を余儀なくされ、事実上、三河への出兵は困難となりました。

この動きを見て徳川家康は、今川氏真による三河統治は困難と判断し、叔父水野信元の仲介で、翌永禄4年(1561年)2月に織田信長と以後20年も続くこととなる「同盟関係」に入り、4月11日に今川方の牛久保城(愛知県豊川市)を攻撃し、はっきり今川家から離反します。

これをきっかけに東三河の国衆たちの今川家からの離反(三州錯乱ーさんしゅうさくらんーと言う)が始まり、永禄6年には遠江引間(浜松)の飯尾(いのお)氏ら遠江の国衆たちの離反(遠州忩劇ーえんしゅうそうげきーと言う)が始まり、永禄11年末には、姻戚関係を破棄して武田信玄が駿河へ攻め込み氏真は駿府城を追い出され、逃げ込んだ掛川城へ永禄12年に、西から徳川家康が攻めかかり、今川氏は降伏して戦国大名の座から滑り落ちます

 

永禄年間当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった太守今川義元を西上させた「駿甲相三国同盟」が、今度は息子の今川氏真の首を絞めると言う皮肉な結末となりました。

 

まとめ

『桶狭間の戦い』と言うと、戦国の覇者織田信長の出世譚となりますが、一方の今川家ではどうだったのか、イマイチよく分からないので、今回少し調べてみました。

今川義元はおしろいにお歯黑の公家成の『おぼっちゃま・バカ殿』のイメージがありますが、実は、傅役とも軍師とも言われる太源崇孚(たいげん すうふー雪斎)と二人三脚で、厳しい家督争いを実母の寿桂尼(じゅけいに)ら既存の実権者を退け、特に福島(くしま)一族を一掃し、対抗馬の庶兄玄広恵探(げんこう えたん)を滅亡させ、実力で『花蔵(はなぐら)の乱』を勝ち抜いて来た戦国時代らしい強者でした。

今川義元にツキがないのは、軍師の太源崇孚と実力者朝比奈泰能(あさひな やすよし)ら頼りになる重臣たちが、永禄元年までに死没していたことで、十分慎重な熟考型だったはずの義元も、代替わりした若手の重臣たちでは、とても義元に適切な助言が出来なかった恨みが残りそうです。もし重臣らの父親たちが存命で現場に臨場していたら、結果は違ったものになったかもしれません。

この『桶狭間の戦い』の結果により、その武名を天下に広めた織田信長に対して、義元の息子今川氏真は、その後8年で戦国大名今川家を潰してしまったことから、悪く言われることとなりました。

戦国の国人領主(こくじんりょうしゅ)たちの親方撰びは、やはり身を守ってくれることが第一だったようで、今川氏真も早期に三河へ大軍を送り込んで今川領を安定化をさせていれば、家康の離反も、三州錯乱も遠州忩劇も、武田信玄の裏切りもなかったかもしれません。

同じようなケースでは、武田勝頼が『長篠の戦』で大勢の重臣たちを失ったことに加え、決定的な事は『高天神城』の救援へ行かず見殺しにしたことが、家中の重臣たちの離反を招き、鉄壁だったはずの武田軍団がもろくも崩壊してしまった原因となったことが挙げられます。

結局、『桶狭間の戦い』で今川家の受けたダメージは、当主今川義元ばかりでなく、支える重臣たちを多く失ったことと、今川家の権威が大きく失墜したことでしょう。これにより、領土に対する支配力を失ってしまい、結果戦国大名の地位から滑り落ちることとなりました。

 

次に、今川義元の『尾張乱入』の目的ですが、従来は『上洛説』が一般的でしたが、1978年、歴史学者久保田昌希氏が「戦国大名今川氏の三河侵攻」を発表されて以来、非上洛説』が主流となりつつあります。

そんな中で、中近世政治学者小林正信氏が平成になってから、政治の視点から室町幕府の東西対立を原因とする『上洛説』を出され、学会とは一線を引きながら異彩を放っていると感じられます。

 

『尾張乱入』した今川軍の兵力ですが、4万5千~2万まで諸説がありますが、現在は2万5千くらいが一般的になりつつあります。

そこで、支配地域の米の生産高から今川軍の兵力を見積もってみました。

それによると、案外少なく計算値実数で2万人に満たないようで、応援の北条軍と武田軍?の推定援軍5千をいれても、ぎりぎり2万5千位でなかったかと考えられます。

 

また、今川軍の負け方のもろさの原因も謎のひとつです。

これに関しては、従来説は、『織田軍の迂回による不意打ち攻撃』で、休息中の今川義元本陣が襲われて義元討死となり、それが原因で総崩れとなったとされています。

ところが、近年の軍事史研究家の藤本正行氏の研究により、織田軍の攻撃が、『迂回攻撃』でも『不意打ち攻撃』でもなかった『正面攻撃』だったことが示され、今はそれが主流になりつつあります。

となると、大軍だった今川軍が負けたと言うことは、信長一流の「長槍隊」・「鉄炮隊」の活躍もあったのかもしれませんが、普通に考えれば、本文中にありますように、今川の守備陣が「鎧袖一触」にぶっ飛ばされていることから、織田軍の軍勢が圧倒的多数であったことを示しています。

どうも、信長は姿をさらしながら今川軍へ近づいていたことは、記録に残されていることから、どこかに大兵力を隠していたとしか考えられないのです。これは松平軍の兵士が前日より気が付いていました。

とにかく、地元出身の私が言うのも恥ずかしいですが、尾張の兵は弱いので有名なのです。同数では精鋭の軍団には絶対勝てません。信長の父信秀も、美濃斎藤道三に散々敗北をしていますし、信長も敗退を重ねています。この『桶狭間の戦い』での完勝は、兵力が今川に勝っていたとしか考えられません。

 

最後に、今川家がこの『桶狭間の戦い』を境に、滅亡の道を歩んだ最大の原因は、この戦いで、家中の中心となる重臣を多数失ったことにあるようです。

もし織田信長に合戦の才能があったとすれば、敵方に味方の兵力・戦闘能力を寡少に誤認させる能力に長けていたと言うことでしょうか。

 

スポンサーリンク

参考文献

〇尾畑太三『桶狭間古戦論考』(2012年 中日出版社)

〇尾畑太三『証義・桶狭間の戦い』(2010年 ブックショップマイタウン)

〇黒田基樹編著『今川義元とその時代』(2019年 戎光祥出版)

〇高柳光壽編『大日本戰史 第二巻』(1942年 三教書院)

〇桑田忠親監修/宇田川武久校注『改正三河後風土記(上)』(1976年 秋田書店)

〇徳富蘇峰『近世日本国民史 織田信長(一)』(1980年 講談社学術文庫)

〇近藤瓶城編『新訂 史籍集覧 第十三冊』(1968年 史籍集覧研究會)

〇今川氏研究会編『駿河の今川氏 第三集』(1978年 静岡谷島屋)

〇足利峻『足利家通系』(1985年 足利峻)

〇小林正信『信長の大戦略ー桶狭間の戦いと想定外の創出』(2013年 里文出版)

〇大石泰史編『今川氏年表』(2017年 高志書院)

〇花ケ前盛明編『新編 上杉謙信のすべて』(2008年 新人物往来社)

〇奥野高広/岩沢愿彦校注『信長公記』(1970年 角川文庫)

〇木村高敦編『武徳編年集成(上)』(1976年 名著出版)

〇豊明市史編集委員会『豊明市史 資料編補二 桶狭間の戦い』(2002年 豊明市)

〇『大国・上国・中国・下国一覧』(慶長3年次)

〇『張州府志(全)』(1974年 愛知県郷土資料刊行会)

〇小野信二校注『戦国史料集6 家康史料集』(1965年 人物往来社)

〇大石泰史『今川氏滅亡』(2018年 角川選書)

〇丸島和洋『東日本の動乱と戦国大名の発展』(2021年 吉川弘文館)

 

スポンサーリンク



コメントを残す

Time limit is exhausted. Please reload the CAPTCHA.