執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
『桶狭間の戦い』での今川義元の敗因はなんなの?
スポンサーリンク
織田信長が当時世間からどう思われていたのか分かります。
今川義元は頼っていた軍師を失っていました。
織田信長の軍勢は思ったより多かったようです。
『桶狭間の戦い』には仕掛け人がいました。
目次
敗因その1ー若造で『大うつけ(ただのバカ)』と評判の高い信長をなめてかかった~?
永禄3年(1560年)当時、武将として脂の乗り切った42歳の今川義元(いまがわ よしもと)です。
まだ経験も浅く、尾張一国も掌握しきれていない、若造の成り上がりの大名の小せがれ、織田信長を軽く見ていたのは、当然と言えば当然のことでした。
しかし、いわゆる歴史の一級史料にはそんな義元の思いは残っておらず、これは、、、
爰に今川義元は天下へ切て上り、国家の邪路を正さんとて、数万騎を率し、駿河国を打立ちしより、遠江三河をも程なく切り従へ、恣に猛威を振ひしかば、当国智多郡弱兵共は、予参の降人になりたりし者共も多かりければ、・・・
(引用:小瀬甫庵撰/石井恭二校注『信長記 上 義元合戦の事の条』2009年 現代思潮新社)
大意は、”この時今川義元は、京都へ攻め上り、幕政の混乱を収拾しようと数万の兵を率いて駿河国を出陣した。遠江・三河を程なく平定し、思うままに戦力を振るい、尾張国知多郡の国衆は、今川へ恭順したい者達が多かったが、・・・”位の意味です。
などの江戸初期の小瀬甫庵『信長記(しんちょうき)』の記述がベースとなり、、、
今川義元が多年の宿望であった西上の挙は、いよいよ永楽三年五月一日をもって、駿・遠・参、領邑の諸将士に触れ出した。・・・(中略)・・・、
彼の眼中、もとより織田無しじゃ。ただ一蹴りに蹴り散して、尾張を通過する存念であった。
(引用:徳冨蘇峰『近世日本国民史 織田信長<一> 第5章桶狭間役』1980年 講談社学術文庫)
と明治の大ジャーナリスト徳富蘇峰(とくとみ そほう)の筆は語っていて、江戸期より長らく今川義元の『尾張乱入』の目的は、『上洛』であるとされ、途上の尾張織田氏の抵抗など義元は問題にもしていなかったとの見方が大勢でした。
(画像引用:伊勢湾ACphoto)
敗因その2ー太源雪斎と朝比奈泰能の死去で頼りになる軍師と武将が不在だった!
近年の研究で実は、氏親の正室寿桂尼(じゅけいにー中御門胤宣の娘)の実子ではなく、庶子ではないかとされる出家していた今川義元は、父今川氏親(いまがわ うじちか)の順番から言うと三男で、天文5年(1536年)3月17日に直系(正室寿桂尼の子)の嫡男氏輝(うじてる)と四男彦五郎の不可思議な同日急死を受け、後継争いの筆頭に躍り出ました。
側室福島(くしま)氏の子(同じく庶子)で出家していた二男玄広恵探(げんこう えたん)も、譜代の有力重臣福島氏の勢力が氏親正室である寿桂尼を仲間に引き入れ、天文5年(1536年)4月27日に叛乱「花蔵の乱ーはなくらのらん」を起し、跡目争いに両派が対立し、今川家を二分するお家騒動になりました。
そもそも四男彦五郎誕生まで、氏輝の次の地位にあった栴岳承芳(せんがく じょうほうー義元)の師匠格の太源崇孚雪斎(たいげんそうふ せっさい)は、如才なく今川家と京都の太いパイプ役(取次)を務めており、5月3日には機敏に「栴岳承芳」には将軍足利義晴より偏諱(へんき)を貰い「義元」となって家督を認められ、今川家内の義元派を糾合し、又期を逃さず瑞渓院(嫡男氏輝妹で北条氏康の妻)の伝手により相模の北条氏康(ほうじょう うじやす)の援軍も得て、北条軍の武力をもって福島一族を殲滅して玄広恵探を自刃させて福島一族を含む反対派を一掃し、義元の家督を確定させました。
後年の豊臣秀吉ばりの手際の良さから、この雪斎がお家騒動の陰謀を企画したのではないかと勘繰るほどです。
しかし不手際もあり、政権掌握に力を借りて恩義ある相模の北条氏康の反対を押し切って、甲斐の武田と姻戚関係を結んだところ、それを理由に北条軍に駿河東部を制圧される「河東一乱」が勃発します。
これも天文14年までには北条との間で収まりがつき、重臣となった太源雪斎・常に突撃隊長を務める朝比奈泰能(あさひな やすよし)らが中心となって、天文15年(1546年)から義元の三河侵攻が開始されます。
一方、尾張の織田信長の父信秀は、尾張守護斯波氏の失地回復の意向を受け、混乱する今川家をよそに西三河への影響力を強めていました。この天文15年(1546年)には東から今川、西から織田と連携する形で三河攻略が進みますが、天文16年(1547年)秋、三河松平広忠(まつだいら ひろただ)は劣勢となって安城・岡崎と失い始めると援助要請を今川義元に出し、それを受けた今川氏は織田氏との対決姿勢へと変わって行きます。
太源雪斎主導で天文17年(1548年)3月、岡崎郊外の小豆坂(あずきざか)において今川軍と織田軍の衝突『小豆坂の戦い』が起こりました。今川義元の三河侵攻作戦は、雪斎が中心となって進めていました。
このように外交・政治両面において、太源雪斎は、出家させられて以来幼少の頃より義元の軍師であり、指導者であり続けました。
そして、もうひとつの義元の大きな柱は、朝比奈泰能(あさひな やすよし)でした。朝比奈氏は、元々駿河・遠江にまたがる国衆で、丹波守・駿河守系と懸川城主であった備中守系の2系統がありましたが、泰能は備中守系の懸川城主でした。
朝比奈泰能は、永正12年(1518年)に寿桂尼の実家である京都中御門家から嫁をもらい、今川家と濃厚な姻戚関係を結び、今川家を最後まで守る有力武将として信頼を得て、今川一族の中で重きを増してゆくことになりました。そして常に義元の侵攻計画の先陣を務めて行きます。
こうした有能な人材に後押しされ、また手強い相手の尾張織田信秀が病気で倒れると言う幸運にも恵まれて、今川義元の勢力は次第に三河から尾張国境地帯へと順調に膨らみ始めました。
ところが、今川義元の頭脳だった太源雪斎が弘治元年(1555年)閏10月10日に死去し、その2年後の弘治3年(1557年)8月晦日には、義元・今川軍団の後ろ盾的存在の朝比奈泰能が死亡してしまいます。
それから3年後の永禄3年(1560年)5月19日、42歳になった今川義元は、頼りにしていた重臣の太源雪斎と朝比奈泰能を失ったままで、難敵織田信秀の嫡男で新進の武将織田信長と尾三国境の『桶狭間』で対戦することとなりました。
単なる結果論に過ぎませんが、もし最盛期の太源雪斎と朝比奈泰能が率いる今川軍団とぶつかっていたら、織田信長は鎧袖一触(がいしゅういっしょく)で吹き飛ばされていたかもしれません。
しかし、運命は今川義元から「必要な頭能」と「頼りになる武力」をもぎ取ってしまっていたようです。
敗因その3ー実は予想外に織田軍の実働軍勢が多かった?
この件に関しては、あの大久保彦左衛門の『三河物語』にある以下の記述が有名です。。。
評定には、鵜殿長勿を早長々の番をさせて有り。誰を替にか置とて、誰か是か云内、良久敷誰とてもなく、さらば元康を置申せとて、次郎三郎様を置奉りて、引除処に信長者思ひの儘付給ふ。
駿河衆是を見て、石河六左衛門と申者を喚出しける。・・・(中略)・・・、喚て云けるは、此敵は武者を持たるか、又不持かと云。
各の不及仰に、あれ程わかやぎて見えたる敵の、武者を持ぬ事哉候はん歟。敵は武者を一倍持たりと申、然者敵の人数は何程可有ぞ。敵の人数は、内ばを取て五千も可有と云。
其時各笑て云。何とて五千者可有ぞと云。其時六左衛門打笑て云。かたかた達は人数の積は無存知と見えたり。
かさに有敵を、下より見上て見る時は、少勢をも大勢に見る物成。下に有敵をかさより見をろして見れば、大勢をも少勢に見る物にて候。旁々達の積には何として五千より内と被仰候哉。
(引用:小野信二校注『戦国史料叢書6 家康史料集』1965年 人物往来社)
大意は、”永禄3年(1560年)5月19日朝の軍議において、「鵜殿長照(うどの ながてる)にはもう長々と大高城の城番をさせており、誰かと交代をさせねばならない。誰が良いのか」とあり、ややあってから誰からともなく、「松平元康(まつだいら もとやすー徳川家康)と交代ならよかろうと。」
家康様は大高城へ入られたが、松平軍が落とした丸根砦を引き払った後に、清須より織田信長が出陣して来た。
それを見ていた今川軍は、大高城へ移動して来た松平衆の強者石河六左衛門(いしかわ ろくざえもん)を呼びつけた。・・(中略)・・・、そして問い糺すには、「あのやって来た織田軍には武装兵はいたのかいないのか?」と。六左衛門答えて曰く「言うまでもなく、あれほど元気のいい軍団に武装兵がいない訳はありません。敵は我々の2倍の兵力を持っているでしょう。」と答えた。
「ならば、具体的にどのくらいの兵力とみるか?」と聞かれ、「敵の人数は、控えめに見ても5000はくだらない」と申し述べた。
今川方武将たちは、それを聞いて大笑いし、「どうして5000もの兵力がいるのだ?」と、対して六左衛門も笑い、「皆さま方は敵兵力の見積もり方をご存じないとみえる。かたまっている敵と言うものは、下から見上げる時は寡兵が大兵に見えるが、上から見下ろす時は、大兵が寡兵に見えるものなのです。皆さま方はどうして5000より少ないと考えられるのですか!」 ”位の意味です。
当時家康率いた松平軍は2500名位と考えられていますので、石河六左衛門の見立て通り2倍なら、5000名以上の軍団と言う意味になり、付城にいる守備城兵以外に5000以上の新たな織田の軍勢が桶狭間の戦場に現れたことになります。
今川の侍大将たちは、領主今川義元との軍議で、織田信長の動員兵力が3000名に満たないほどの弱小軍団に過ぎない事を聞かされていますので、松平家の石河六左衛門が自分の目で実際に見て来た報告も容易に信じなかったことでしょう。
仕組みがどうなっていたのかは別稿に譲りますが、ここでは、丸根砦に程近い善照寺砦に駆け付けて来た織田信長が、通説の2000名ではなくて、5000以上の兵力を持っていた可能性があることを記憶しておく必要がありそうです。
この後、同日午の刻(昼12時頃)過ぎのゲリラ豪雨が収まった頃より、織田軍と今川軍の衝突が始まり、遠江の有力国衆松井宗信(まつい むねのぶ)・井伊直盛(いい なおもり)軍ら5000が陣取る今川軍本隊が、織田軍により打ち破られて、そのまま今川本陣迄大崩れすることになります。
今川軍は、にわか仕立ての陣立てではなくて、桶狭間山の本陣の設営は事前に計画されていたことが、近年知られています。そして、本軍の陣立ての方角は、織田信長軍が来るであろう方角、北東向きに作られていたことが分かっています。
この『桶狭間の戦い』は、以前の通説では『迂回奇襲説』が主流でしたが、近年は『正面攻撃説』が有力になりつつあります。
しかし、臨時設営ではない桶狭間山の「今川義元本陣」を守る今川本隊の陣立てがきちんとなされていた以上、もし信長が「正面攻撃を敢行した」とすると、いくら精鋭を揃えた信長の軍団とは言え、前面の今川軍を上回る兵力が必要であったことは自明の理となります。
この『桶狭間の戦い』の兵力は、、、
御敵今川義元は四万五千引率し、おけはざま山に人馬の息を休めこれあり。・・(中略)・・・、
・・・家老の衆馬の轡の引手に取付き候て、声々に申され候へども、ふり切って中嶋へ御移り候。此時二千に足らざる御人数の由申候。・・・(中略)・・・、
(引用:太田和泉守/奥野高広・岩沢愿彦校注『信長公記 首巻』1970年 角川文庫)
大意は、”敵将今川義元は、45000を引率して桶狭間山に人馬を休めていた・・・・家老たちは馬の轡に取り付き、声を枯らして止めたが、織田信長は中嶋砦へ移っていった。追従兵力は2000にも満たなかった。・・・”位の意味です。
と一級史料とされる『信長公記 首巻』にあり、これが後世に「両軍の兵力の印象」を決めました。
しかし、前述したとおり、『正面攻撃』で今川本隊を押し切ったのであれば、もし通説どおり正面の松井軍・井伊軍が5000とすれば、最低これを超える兵力が必要であったことは論を待ちません。
これには、
- 今川軍の動員兵力が広域に分散され、今川本陣の正面がたまたま押し寄せる織田軍より寡兵になっていた
- 織田軍の攻撃隊が、歴史家の皆さんが指摘されるように、ごく狭い範囲に集中的に攻撃を厚くして今川本隊を打ち破った
- 本当に織田軍の実働兵力が今川軍本隊を上回っていた
くらいの話になるのでしょうが、いずれも確証のない推論となり説得力に乏しいところです。
スポンサーリンク
敗因その4ー今川義元は、尾張乱入の先導者元尾張守護の斯波義銀のそそのかし(攻撃プラン)に信頼を寄せすぎた!
今のところ超異説になりますが、郷土史家の尾畑太三氏の研究成果として、、、
一、尾張国端海手へ付いて石橋殿御座所あり。河内の服部左京助、駿河衆を海上より引入れ、吉良・石橋・武衛仰談らはれ、御謀叛半の刻、家臣の内より漏れ聞え、則御両三人御国追出し申され候なり。
(引用:太田和泉守/奥野高広・岩沢愿彦校注『信長公記 首巻』1970年 角川文庫)
大意は、”尾張の国境の海辺に尾張守護職斯波義銀(しば よしかね)の叔父石橋左馬頭義忠(いしばし さまのかみ よしただ)の別邸があります。ここで尾張海西郡河内(鯏浦二之江ー現愛知県弥富市鯏浦町)の服部左京亮(はっとり さきょうのすけ)と、吉良義安(きら よしやす)・石橋義忠・斯波義銀が談合し、駿河今川義元を海上より尾張に引き入れて、織田信長を倒す謀叛を計画していたところ、計画半ばで家臣から計画が漏れて、3人とも国外追放になった。”位の意味です。
こんな記事が、太田牛一『信長公記 首巻』に記載されています。そこには、日付が記載されていませんが、織田信長による守護斯波義銀の尾張追放は、吉川弘文館『国史大辞典』に拠りますと、永禄4年(1561年)のことだとされています。
永禄3年(1560年)5月19日の『桶狭間の戦い』の折、尾張海西郡の一向宗徒の服部党が駿河の今川義元尾張乱入に呼応して、大高沖に1000隻におよぶ大船団を出していたのは、記録に残る史実です。
この斯波義銀の謀叛話と河内服部党の大船団出陣の事実を根拠に、郷土史家の尾畑太三氏が提唱されている説ですが、、、
守護職の自分を傀儡(かいらい)にする織田信長に対して反感を持っていた守護職斯波義銀は、駿河に逃亡し今川家に身を寄せた元尾張小守護代坂井大膳(さかい たいぜん)から事(守護職斯波義統殺害事件の黒幕が実は織田信長だった事)の真相を聞き、尚且つ一向宗徒の服部党とも入魂で、今まさに尾張を併呑しようとしている、飛ぶ鳥を落とす勢いの今川義元の力を借りて、過去の威光を取り戻そうとしたものと思われます。
計画としては、緻密な今川義元によって考えられ、通説のように”織田信長を挟み撃ちにして殲滅する”企画だったようです。つまり、濃尾平野の広いところで会戦をしては、地元の利もあり信長に自由に逃げられてしまうため、なんとしてでも信長を討ち取りたい義元は、尾三国境周辺の狭隘な丘陵地(桶狭間)へ信長を追い込む計画で、池鯉鮒(現豊明市)で軍を二手に分け、尾張中心部への本道(鎌倉道)と服部党が船で迎えに来る黒末川(天白川)河口の大高への大高道に部隊を1万づつ分け、先ず義元本隊が信長軍を桶狭間周辺で対峙して引き付け、今川別動隊が鎌倉道から進軍して、織田軍を善照寺砦付近まで押し戻し、その間に義元本隊は大高へ移動し、大高城下黒末川(天白川)河口より服部党の舟で伊勢湾を清須へ向い、手薄なはずの清須城を占領して、尾三国境に張り付いているはずの織田軍を西から挟み撃ちにして壊滅させると言うプランだったと言います。
こんな計画を義元に実行させたのは、尾張守護職斯波義銀ら謀叛組の3年越しの提案だったと言う訳です。
当時、陸上の今川軍の動向は、蜂須賀小六ら川並衆や簗田政綱(やなだ まさつな)らに大規模な細作(スパイ)を放させていた織田信長は、十分把握していたものの、さすがに舟で迂回しての「清須攻め」まで読んでなかったと言います。
逆に言うと、慎重な今川義元はそれほど織田信長を手ごわい相手と見ていたと言うことになります。
結果、今川義元はファーストインパクトであっけなく織田信長にやられてしまい、折角の「織田信長誅伐計画」の準備はすべて無駄になってしまいました。
後日落ち着いて、元守護斯波家の家臣であった簗田弥次衛門政綱から、斯波義銀らの謀叛計画を聞いた織田信長は、本来主筋である斯波義銀を処刑する訳にもゆかず、翌永禄4年(1561年)に国外追放処分にしたと言うのが、織田信長の一級史料と言われている『信長公記 首巻』に書かれている内容の意味のようです。
もともと反信長派で、後日対立して行く一向宗徒である服部左京亮の大船団が、『桶狭間の戦い』の折、なぜ海上をうろうろしていたのか、役割は何だったのかが以前から疑問に思っていましたが、この話は実行面でまだかなりの問題があるにせよ、従前にはない切り口でヒントを与えてくれたものと考えられます。
正に、『目からウロコ』のすっきりしたストーリーで、このように太田牛一の『信長公記 首巻』を改めて探し読みしてみると、郷土史家の尾畑太三氏の指摘どおり、確かに前述のストーリーが全部書いてありますねぇ。
まとめ
戦国時代の大きな歴史の転換点と言われる『桶狭間の戦い』ですが、当時気力・実力の充実した駿遠三の太守今川義元が、大方の予想に反して尾張の小童織田信長に大敗を喫した原因を改めて探ってみました。
記事中にもありますが、通説では、今川義元4万5千、織田信長2千と言う兵力差の数字は、織田信長に関する歴史の第一級史料として認定されている太田牛一『信長公記』が表示したものでした。
ところが、今川が多すぎで、織田が少なすぎと言うバランス論理が働いているのか?近年では、今川2万5千~2万、織田4千~6千くらいに修正されて来ているようです。
しかし、『信長公記』の史料性を尊重して再度検証している歴史研究家の江端英郷氏は、著書『桶狭間』で、今川義元遠征軍の実数はやはり4万5千近いものになることが示されています。
ただ、近代の軍隊と戦国時代の軍編成には大きな違いがあるので、参加人数だけ比べても仕方ないのかもしれません。
本題に入りまして、『今川義元の敗因』ですが、考えられることを4つ提示させてもらいました。
敗因
- 今川義元が織田信長を「尾張のうつけ」となめてかかっていた
- 今川義元が頼りとする「軍師太源雪斎」と「突撃隊長朝比奈泰能」を失っていた
- 今川方が想定したよりも織田軍の実働兵力がかなり多かった
- 今川義元が斯波義銀らの尾張側の陰謀「織田信長誅伐計画」の成否を見誤った
敗因1に関しては、通説どおりですが、まあ”今川義元が桶狭間で宴会をやっていた”などはまずあり得ないので、江戸期の作り話とわかります。
敗因2に関しては、雪斎の代わりがいなかったのは痛かったでしょう。情報と一口に言っても「インフォメーション」を「インテリジェンス(情報)」に変える人物が不足するのは致命的ですね。
敗因3に関しては、大久保彦左衛門の『三河物語』の記述が参考になりますが、これが本当に勝敗に結び付くものかは判断できることではありません。
敗因4に関しては、これまであまり聞いたことのない話で新鮮なのですが、これが勝敗に直接関係したかどうかは難しいところです。これに敗因2・3が複合要因として絡み、あの結果をもたらしたのだとは言えるかもしれません。
勝敗に関しては、前出江端英郷氏が『桶狭間』で、再度『信長公記』の記述場面”黒煙立てゝ懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れたり。弓・鎗・鉄炮・のぼり・さし物、算を乱すに異ならず。今川義元の塗輿も捨てくづれ迯れけり。”と、あるのを見て、これは戦闘部隊の陣営ではなくて、後詰の小荷駄隊の有様だと指摘されているのは、言い当てて妙ではないかと思います。
これをもって、織田信長の『正面攻撃説』を否定され、最近では珍しい『迂回攻撃説』を採られています。『信長公記』の該当部分を再読すると、そのとおりの状況の描き方と考えられます。
しかし問題は、どうやって信長は今川本陣の後ろ側に回ったのかですが、江端説では信長の別働隊2千は、鎌倉街道を沓掛峠を越えて今川本隊の後ろへ回ったとしていますが、実はこれは不可能なのです。
これに関して、残っている古文書である徳川家の『桶狭間図』に、鎌倉街道には池鯉鮒から分かれた今川別動隊が来ていたことが『今川魁首此道ヲ押』(今川軍の先陣が進軍して来た)とはっきり図上に記載されています。
つまり、江端英郷氏が『信長公記』の記載内容を指摘した通りに織田軍別動隊が動いたとすると、沓掛峠を越えた辺りで今川別動隊1万と正面衝突することになり、奇襲攻撃どころではありません。ちょっとこれは無理スジの話ですね。
永禄年間当時は、「東海道」などと言う便利な街道はまだ存在していませんでしたので、どうにも織田信長が今川軍の背後に回ったルートは、信長の居た「善照寺砦」・「中嶋砦」からでは見つからないのです。
今川義元の敗因に、どうも劇的な理由は見つかりませんが、織田信長を警戒しすぎた今川義元が、精密に広範囲に人員配置をし過ぎた間隙を、織田信長に突かれたと言うところでしょうか。その一因に、敗因4があったことも否定できないと考えられます。
もし、最盛期の太源雪斎が今川義元の傍らに控えていたら、こうはならなかったのではないかと言う気がしてなりません。
スポンサーリンク
参考文献
〇小瀬甫庵撰/石井恭二校注『信長記 上』(2009年 現代思潮新社)
〇徳冨蘇峰『近世日本国民史 織田信長<一>』(1980年 講談社学術文庫)
〇丸島和洋『東日本の動乱と戦国大名の発展』(2021年 吉川弘文館)
〇小和田哲男『今川義元』(2004年 ミネルバ書房)
〇静岡県『静岡県史 通史編2 中世』(1997年 静岡県)
〇大石泰史編『今川氏年表』(2017年 高志書院)
〇小野信二校注『戦国史料叢書6 家康史料集』(1965年 人物往来社)
〇太田和泉守/奥野高広・岩沢愿彦校注『信長公記』(1970年 角川文庫)
〇尾畑太三『証義・桶狭間の戦い』(2010年 ブックショップマイタウン)
〇尾畑太三『桶狭間古戦論考(新装版)』(2012年 中日出版社)
〇国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第四巻』(1984年 吉川弘文館)
〇江端英郷『桶狭間』(2009年 カナリア書房)