『桶狭間の戦い』、信長は10分の1の兵力で勝利した!ホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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『桶狭間の戦い』での織田信長の動員兵力の実体はどうだったの?
『桶狭間の戦い』は、織田軍による『奇襲戦』だったと言われているけど。
『桶狭間の戦い』での織田信長の勝利は、急な豪雨に助けられた幸運なものだったと言われていますが。
『桶狭間の戦い』で勝利に乗じて、織田信長はなぜ今川支配地域への侵攻をしなかったの?

父織田信秀が天文13年に25000の兵力で美濃稲葉山城を攻めていますが、なぜ信長は2000~3000しか動員出来なかったの?

父織田信秀の天文13年(1544年)の『美濃攻め』とはどんなものだったの?

織田信長関係の一級史料と言われる『信長公記』には、、、

去て備後殿は国中憑み勢をなされ、一ヶ月は美濃国へ御働き、又翌月は三川の国へ御出勢。或時九月三日、尾張国中の人数を御憑なされ美濃国へ御乱入。在々所々放火候て、九月廿二日、斎藤山城道三居城稲葉山山下村々推詰焼払ひ、町口まで取寄、既に晩日申刻に及び御人数引退かれ、諸手半分ばかり引取り候所へ、山城道三どっと南へ向て切りかゝり、相支候といへども、多人数くづれ立の間守備事叶はず、備後殿御舎弟織田与次郎・織田因幡守・・・(中略)・・・初めとして歴々五千ばかり討死なり。

(引用:奥野高広/岩沢愿彦校注『信長公記 首巻 19~20頁』1970年 角川文庫)

大意は、”織田信秀は、尾張中に出兵依頼して、ある月は美濃に出陣し、又翌月は三河へ出兵した。ある年(天文13年)9月3日、尾張国中に出兵依頼して美濃国へ攻め込んだ。村々へ放火をして、9月22日には斉藤道三の居城稲葉山城下の村々を焼き払い、城下町まで迫った。しかし、夕方4時を過ぎたので信秀は兵を退き始め、半分ほど退却したところへ道三の軍が攻めかかった。支えようとしたが全軍崩れて支えきれず、信秀の舎弟犬山城主織田信康・織田大和守家家老の織田因幡守・・・(中略)を初めとして重臣を含め5千名ほど討死した。”位の意味です。

 

織田信秀の大敗北・斎藤道三の大勝利として有名なこの戦いは、従来は天文16年(1547年)の出来事と考えられて来ましたが、近年の研究により天文13年(1544年)だった可能性が高まっています。

 

さて、天文一三年(一五四四年)、斎藤利政は最大のピンチを迎える。土岐二郎を支援して、隣国越前の朝倉氏、尾張の織田氏の軍が、南北より呼応して国内に侵入してきた。同年九月二三日、これらの連合軍合計二万五千の兵が井口城下に攻め入った。これに対し、利政は、敵軍を城下に引き寄せ、少数の軍ながら城より打ち出し、これを撃破した。さらに、織田信秀の敗軍を木曽川に追い詰め、二~三千人を溺死させるという大勝利をえたのである。織田氏の軍は、「弾正忠(信秀)一人やうやう無事帰宅」という敗北をきっしたのである。

(引用:『岐阜市史 通史編 原始・古代・中世』1980年 岐阜市  649頁)

 

とあり、『岐阜市史』も織田信秀の大軍での「美濃攻め」を、天文13年(1544年)の事としています

 

織田信秀が、当時の尾張の実力を越える兵力25000を率いて美濃攻め出来たのはなぜなの?

『信長公記』のこの記事では触れてませんが、この戦いは織田信秀の美濃への単独侵攻ではなく、斎藤道三と対立する美濃守護の土岐頼純(とき よりずみ)とそれを後押しする越前朝倉孝景(あさくら よしかげーこの時の出陣は教景か?)との呼応した戦い、言わば連合軍であったことが知られています。

 

次郎・朝倉太郎左衛門・織田弾正忠三箇国主、於城下取懸候処、合戦得大利候御働、寔、無比類題目、前代未聞候。被疵御高名・御手之衆、数多討死候。御芳恩次第候。美濃守以書札申候。御帰国砌、及心底程、可被馳走事勿論候。恐惶謹言。

九月廿四日            利政

木沢左馬之允殿
人々御中

(引用:松田亮『斎藤道三文書之研究』 < 98~99頁 天文13年の条 利政、木沢左馬之允宛書状案>  1974年 岐阜文芸社)

 

大意は、”土岐頼純(とき よりずみ)・朝倉孝景(あさくら よしかげ)・織田信秀(おだ のぶひで)ら三カ国の国主が稲葉山城下に攻め込んで来たところ、合戦で大勝利を得ました。その時のお働きはまことに素晴らしく、前代未聞の事でした。御身は負傷され、配下も討死した者多数に上り、申し訳なくそのご恩に対し、美濃守土岐頼芸(とき よりよし)が書礼を以て御礼申すと言っています。ご帰国される折には、心よりの宴席を用意する所存です。

(天文13年)9月24日       利政(斎藤道三)花押

木沢左馬之允殿
御一統様       ”位の意味です。

 

とあり、『信長公記』にもありますように、織田信秀の大敗となっていますが、5000もの戦死者を出したと言うのはどうなのでしょうか、、、

 

甲辰 十三 九月廿二日未刻、濃州於井ノ口 尾州衆二千人打死、大将衆也、

(引用:『愛知県史 資料編10 中世3 1526 定光寺年代記<定光寺文書>』2009年 愛知県)

 

大意は、”天文13年(1544年)甲辰(きのえたつ) 9月22日 14時頃、美濃国井ノ口(稲葉山城下)にて、尾張衆2000人が討死し、大将も含まれる”位の意味です。

 

この愛知県瀬戸市にある定光寺の「定光寺年代記」に拠りますと、織田軍の討死が2000くらいだったようです。前掲「道三文書」にあるように、越前から土岐二郎頼純・朝倉孝影、織田信秀が尾張から押し寄せ、先陣の織田軍が大敗したため、頼純ら越前勢はそのまま越前に引き返して行ったようです。

又、織田信秀の軍勢が25000と言うのは、、、

 

先度以後可申通覚悟候処、尾州当国執相ニ付而、通路依不合期、無其義候、御理瓦礫軒・安心迄申入候、参着候哉、仍一昨日辰刻、次郎・朝倉太郎左衛門・尾州織田衆上下具足数二万五六千、惣手一同至城下手遣仕候、此方雖無人候、罷出及一戦、織田弾正忠手ヘ切懸、数刻相戦、数百人討捕候、頸注文進候、此外敗北之軍兵、木曽川ヘ二三千溺候、織弾六七人召具罷退候、・・・(中略)・・・、

九月廿五日        秀元(花押)

水野十郎左衛門殿
人々御中

(引用:『愛知県史 資料編10 中世3 1525 長井秀元書状写 <徳川美術館所蔵文書>』2009年 愛知県)

 

大意は、”この前以来ご連絡申し上げようとしていたのですが、尾張と美濃の戦いのために、街道の往来が出来ず連絡が出来ませんでした。内容は使者の瓦礫軒・安心軒に申し伝えましたが、お耳に届きましたでしょうか。
すなわち、一昨日の御前10時頃より、土岐頼純・朝倉孝景・織田信秀の軍勢25000~26000が、稲葉山城下に攻め込みました。当方は少人数でしたが、城外へ出て織田信秀の陣へ切り懸かり、数時間戦って数百人を討ち取りました。
獲った敵将の首名簿を送ります。この他敗残兵が退却の折、木曽川で2000~3000ほど溺れ死に、織田信秀は6~7人を伴って逃げ帰りました。・・・(中略)・・・、

(天文13年)9月25日       長井秀元(花押)

水野十郎左衛門信近殿
御一統様    ”位の意味です。

 

とあり、これは斎藤道三が大勝した知らせを、道三の重臣長井秀元から、尾州知多郡緒川城主 水野信近宛てに出された書状ですが、ここに土岐頼純・朝倉孝景・織田信秀の連合軍の軍勢が25000~26000の規模だったことが記されています。

つまり、、、

この時織田信長の父織田信秀が、「25000」もの大軍を催して美濃に攻め込めたのは、斎藤道三に追い出された元美濃守護の土岐頼武(とき よりたけ)の嫡男土岐頼純(とき よりずみ)の『美濃国守護職』奪還戦に、後押しする越前の朝倉孝景より”道三攻め”に誘われて協力したことから成立した大軍であったからであることが判明します。

 

兵力が今川義元25000に対して、織田信長2000~3000は少なすぎないか?織田の動員力は石高から見ると10000くらいあったんじゃないの?

江戸中期の宝暦2年(1752年)に完成した『張州府志(ちょうしゅう ふし)』に拠って、元禄年間(1688~1704年)編集されたと言う、尾張国内の石高データを拾ってみますと、、、

尾張国(八郡)全体の石高の基準数字(寺社支配を除く公領分)
  • 春日井郡    104,900
  • 葉栗郡      13,537
  • 中島郡      77,748
  • 丹羽郡      57,929
上四郡計     254,114(石)
  • 愛智郡       74,340
  • 海東郡       76,211
  • 海西郡       12,136
  • 智多郡       66,233
下四郡計      228,920(石)
尾張八郡合計   483,034(石)
動員可能兵力を一般的に言われている(250人/10000石)とすると、、、
48.3万×250人/万 ≒ 12,000人
天文13年(1544年)9月22日『美濃攻め』での、織田信秀の尾張衆の動員可能人員

『信長公記』に”去て備後殿は国中憑み勢をなされ、一ヶ月は美濃国へ御働き、又翌月は三川の国へ御出勢。”とありますが、国中の軍勢を結集出来たかどうかは、分からないところです。

知多半島も三河側の地区は今川勢力に浸食されていたと思われ、海西郡の服部一族は今川と内通していたと考えられることから、、、

(尾張八郡) ー (知多郡/2) ー (海西郡)

= 483,034 ー 66,233/2 ー 12,136

= 437,781(石)

動員可能人員 = 43.8万石 × 250人/万石

10,950 (人)

 

となりますが、本拠地の必要守備人員を差し引いて、出陣可能数を70%とみると、、、

11,000人 × 0.7 = 7,700人

くらいが概算で出て来ますが、、、

この時の織田信秀の動員力は、根こそぎ出陣して10000人弱ですが、それは無理として実際は5000~6000人位ではなかったかと思われます。

 

永禄3年(1560年)5月19日『桶狭間の戦い』での、織田信長の実際の動員力はどのくらいだったでしょう?

この時、前年の永禄2年に織田伊勢守家の岩倉城を落城させているものの犬山の織田信清とは対立しており、父織田信秀に忠誠を誓っていた鳴海・笠寺の山口左馬之助が今川に寝返っており、海西郡の服部一族は相変わらず今川シンパで、知多郡の水野家分も一応差し引くと、信長の動員力は、、、

(尾張八郡)ー (丹羽郡)ー (海西郡)ー(知多郡)

= 483,034 ー 57,929 ー 12,136 ー 66,233

=346,736(石)

動員可能人員 = 34.7万石 × 250人/万石

8,700人

 

となりますが、本拠地の必要守備人員を差し引いて、出陣可能数を70%とみると、、、

8,700人 × 0.7 = 6,090人

 

当日、柴田勝家などの重臣の名前が『信長公記』などに見えない事から、野戦に消極的な重臣らの軍勢そのものは清須城にとどまったものと想定すると、『桶狭間の戦い』での実働可能人員は5,000人程度だったのではないかと思われます。

永禄3年(1560年)5月19日当日は、それ以前に鳴海・大高城の付城・砦など5か所に既に人員が配備されているので、当日未明に熱田神宮に集まった兵員は2000~3000名と言われています。

 

正確ではないものの、概ね各史料が伝える当日の信長軍の人員に近いものとなっています。

家督相続して以降、信長を見限る国人領主たちが多かったようで、父信秀当時のように守護斯波氏の権威を使って動員もままならず、石高から見る正規の動員兵力は史料どおりだったのではないかと思われます。

しかし織田信長は、金銭で動員出来る津島・熱田の町衆・牢人の兵力を養成していた事が知られていたところで、石高から算出される国人領主の兵力以外に、金銭で集めた直属兵力を常時800名は確実に持っており、加えて『武功夜話』にあるように、川並衆など1000名を超える大規模野武士集団などの参戦もあったとすると、記録にある以外に、プラスして2000名ほどの戦力を別途有していた可能性はあるのではないかと思われます。

とすると、通説とは違って、織田家の正規軍の出陣勢力が3000名に満たなかったとしても、実際には信長は、守備兵力を除いて今川軍を迎え撃つために、ほぼ5000名の兵力を『桶狭間の戦い』の戦場に動員・参戦させていたのではないかと思われます。

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信長は迂回した奇襲ではなくて、正面攻撃で勝利したと言うけど、ホント?

従来、通説では、江戸初期の儒学者・医師小瀬甫庵(おぜ ほあん)作の江戸時代のベストセラー『信長記』にある、、、
信長卿、すは首途はよきぞ、敵勢の後の山に至て推廻すべし。去る程ならば、山際までは旗を巻き忍び寄り、義元が本陣へかゝれと下知し給ひけり。
(引用:小瀬甫庵撰/石井恭二校注『信長記<上>』1981年 現代思潮新社 63頁)
大意は、”信長公は、さあ!幸先はいいぞ!敵勢の背後の山へ回り込め、山のすそ野までは(目立たぬ様に)旗を巻いて忍び寄り、今川義元の本陣へ攻め込め!と命じられた。”位の意味です。
これにより、江戸時代から、更に明治時代の陸軍参謀本部のお墨付まで得て、織田信長の『桶狭間の戦い』は、織田軍の敵陣を迂回した”奇襲攻撃”による勝利であるとされて来ました
しかし、近年の研究で織田信長研究の一級史料とされる太田牛一の『信長公記(しんちょうこうき)』の再評価が行われ、問題の箇所に関しては、、、
信長御覧じて、中嶋へ御移り候はんと候つるを、脇は深田の足入、一騎打ちの道なり。無勢の樣躰敵方よりさだかに相見え候。御勿躰なきの由、家老の衆御馬の轡の引手に取付き候て、声々に申され候へども、ふり切って中嶋へ御移り候。此時二千に足らざる御人数の由申候。
中嶋より又御人数出だされ候。今度は無理にすがり付き、止め申し候へども、爰にての御諚には、各よくよく承り候へ。あの武者、宵に兵粮つかひて夜もすがら来り、大高へ兵糧入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労してつかれたる武者なり。こなたは新手なり。
其上小軍ニシテ大敵ヲ怖ルヽコト莫カレ、運ハ天ニ在リ、此語は知らざる哉。・・・(中略)・・・。
山際迄御人数寄せられ候の処、俄に急雨石氷を投打つ様に、敵の輔に打付くる。身方は後の方に降りかゝる。・・・(中略)・・・。
空晴るるを御覧じ、信長鑓をおつ取て大音声を上げて、すはかゝれかゝれと仰せられ、黒煙立てゝ懸るを見て、水をまくるがごとく後ろへくはつと崩れたり。弓・鑓・鉄炮・のぼり・さし物、算を乱すに異ならず。今川義元の塗輿も捨てくづれ迯れけり。
(引用:奥野高広/岩沢愿彦校注『信長公記 首巻』1970年 角川文庫)
大意は、”信長公は戦場をご覧になり、(善照寺砦より)中嶋砦へ移動されようとするのを、中嶋砦への道は両側が足を取られる深田であり、細長い一本道で敵方よりこちらの軍勢が少ないことが丸見えです。家老衆がお止めくださいと大声を出して、信長公の馬の轡(くつわ)をひいて止めようとするのを振り切り、中嶋砦へ移られてしまった。この時、兵力は2千名ほどであった。
信長公は中嶋砦から更に出撃しようとされるので、今度は家老衆が懸命にすがり付きお止めしようとした時、信長公は次にようにご命令されます。
「皆の者、よく聞け!敵の兵は前夜に一晩中働いて大高城へ兵糧を入れてから、鷲津・丸根砦の攻防に従軍して疲れている兵たちである。お前たちは初戦であり、しかも兵力が少ない。大軍を恐れてはいけない、勝敗は時の運と言う言葉を知らないのか!」と、・・・(中略)・・・。
(中島砦を出撃して)桶狭間山の麓まで進んだ時、突然激しい雨が降り始め、敵の顔に打ち付けるように降り、味方は背中に降りかかった。・・・(中略)・・・。
雨が上がり始めると、信長公は鑓(やり)を立てて、大声で「それ!攻めろ攻めろ!」と言われ、信長軍が真っ黒な泥煙を上げて攻めかかって来るのを見て、その勢いに今川軍の前陣は押されて後ろへ下がり、そのまま今川軍は崩れ始め、兵たちは弓・鑓・鉄炮・のぼり・旗さし物を放り投げるなど算を乱し、大将今川義元の塗輿を投げ捨てて逃げ始めた。”位の意味です。
とあり、通説では、善照寺砦で集合した信長軍は、今川軍の前陣を避けて中嶋砦へは向かわず、迂回して今川軍本陣の後ろ側へ廻り”奇襲”を仕掛けたとしていますが、『信長公記』には、今川軍の先陣と対峙する谷底にある中島砦へ、織田信長の陣頭指揮の下移動し、更にそこから今川軍へ決戦を挑んで行ったことがはっきりと記載されています
近年の研究は、この織田信長関係の一級史料とされる太田牛一の書いた前述『信長公記』が述べている『正面攻撃』説を正しいものとし、通説は江戸期の小瀬甫庵による創作に過ぎないとの考え方に傾いています。
(画像引用:桶狭間古戦場公園ACphoto)

もし激しい雨がなかったら、果たして信長は勝てていたの?

これも通説によれば、、、

 

爰に於て、信長自ら引率せらるゝ人数ハ、善照寺砦の東の峡間へ引分け、勢揃へして三千兵なり、信長諸士に向て、敵、今朝の勝軍に誇て、大将も士卒も我を侮り油断して有りし所を、其不意を討たば、大利を得ん事、掌の中にあり、・・・(中略)、諸士ハ、はや勝たる心地して、即ち旗を巻き兵を潜め中嶋より相原村へ掛り、山間を経て太子根の麓に至る。・・・(中略)・・・。

時に、天俄かに黒雲たなびき覆ふて、暴風、熱田の方より頻に吹き来て、大雨、車軸を流すがことく味方ハ幸ひ追ひ風、敵ハ向ひ風にて、雨ハ沙石、氷を擲つに異ならず、・・・(中略)・・・。

信長、太子根より急に田楽狭間へ取り掛り、大音声にて敵、此雨ニて途を失ふべし、討て入れと下知せらる、・・・(中略)・・・、

駿河勢ハ、暴風大雨四方真暗ニして、振動し人音弁へず、且、敵爰に来るとハ思ひがけなかりけれハ、来敵とハ知らず、・・・

(引用:『豊明市史 資料編補二 桶狭間の戦い』2002年 豊明市  所収『桶狭間合戦記』320~321頁)

 

大意は、”ここで織田信長が自ら率いている兵の人数は、善照寺砦の東の峡谷へ分けたので、総員で3千名ほどであった。信長は兵に向って「敵は、今朝の勝ち戦に驕って、大将も兵もわが軍を侮り油断しているところで、その不意を衝けば、勝利を得られるのは間違いない。」・・・(中略)・・・、兵たちはもう勝ったような気持ちとなり、すぐに旗を巻いて見つからないように中嶋砦より相原村を通り、山合いを太子根の麓まで到達した。・・・(中略)・・・。

その時、空が俄かにかき曇り、暴風が熱田社の方角よりどんどん吹いて来て、大雨は車軸を流す様な勢いで、織田軍には追い風で、今川軍には向かい風となり、雨脚は激しく氷を打つような勢いであった、・・・(中略)・・・。

信長は太子根より桶狭間山へ攻めかかり、大声で「敵は、この雨で混乱している。攻撃を開始せよ」と命令した。・・・(中略)・・・。

今川勢は、暴風と豪雨で周りは真っ暗になり、その音で織田軍の攻めかかる騒音は聞こえず、敵襲が来ていることに気が付かなかった、・・・。 ” 位の意味です。

 

『桶狭間合戦記』には記述されており、織田軍の奇襲攻撃は突然の突風と豪雨にかき消されて、今川軍が織田軍の接近にまったく気が付かなかったのが、織田信長の勝利の理由であるとの見方をしており、江戸期以来これが”『桶狭間の戦い』における織田信長の勝利”の原因だとしていました。

しかし近年、歴史研究家の藤本正行氏らの研究により、前述の”一級史料『信長公記』の記述”にあるとおり、織田軍は、”雨が上がってから、奇襲攻撃ではなくて、正面攻撃をしていた”ことが明らかになって来ています。

信長は、迂回をしたのではなく、雨中に紛れて奇襲攻撃をしたのでもなく、雨が上がってから、なんと正面攻撃をしていたと言うことが分かって来ました。

つまり、雨が降ろうが振るまいが、雨とは関係なしに桶狭間山への取り掛かり攻撃は行われていたようです。

 

ここでの織田軍の成功要因に関して、相手方の今川方の記録となる松平家(後の徳川家)の大久保彦左衛門による『三河物語』に、興味深い記事があります、、、

 

さらば、元康を置申せとて、次郎三郎樣を奉りて、引除処に信長者思ひの儘懸付給ふ。駿河衆是を見て、石河六左衛門と申者を喚出しける。彼六左衛門と申者は、大剛の者にて、伊田合戦の時も、面を十文字に切わられ、頸を半分被切、身の内につゞきたる所もなく、疵を持たる者成を、喚て云けるは、此敵は武者を持たるか、又不持かと云。各の不及仰に、あれ程わかやぎて見えたる敵の、武者を持ね事哉候はん歟。敵は武者を一倍持たりと申、然者敵の人数は何程可有ぞ。敵の人数は内ばを取て五千も可有と云。其時各笑て云。何とて五千者可有ぞと云。

其時六左衛門打笑て云。かたかた達は人数の積は無存知と見えたり。かさに有敵を、下より見上て見る時は、小勢をも大勢に見る物成。下に有敵をかさより見をろして見れば、大勢を小勢に見る物にて候。旁々達の積には何として五千より内と被仰候哉。

(引用:小野信二校注『戦国史料叢書6 家康史料集』1965年 人物往来社  所収『三河物語』300頁)

 

大意は、”ならば、(大高城の守備に)松平元康(後の徳川家康)を付かせよと言って、元康樣を奉じて松平軍が引き払った後に、織田信長が到着して来た。今川方はそれを見て、松平家の歴戦の強者石川六左衛門を呼び出した。六左衛門は、剛の者で、『井田合戦(天文5年頃の織田と松平の戦い)』の時に、顔を十文字に斬られるなど体中傷だらけとなった武将で、彼に「この敵は兵力が多いか少ない」と聞くと、曰く「言うまでもなく、あれほど活気のある敵が兵力を持たぬはずはなく、かなりの兵力です。」と、此れを聞いて、「どのくらいの兵力と見るか」、「敵の兵力は少なく見積もっても5千はいるでしょう。」、それを聞いて今川方武将は大笑いし、「どうして5千と見るのか」と言う。

それに対して、六左衛門は笑い「皆さんは軍勢の数え方をご存じないと見える。群がっている敵を下から見上げている時は、少人数でも多人数に見え、下にいる敵を上から見下ろすと多人数も少人数に見えるものです。皆さんはどうして5千より少ないと言われるのですか?」” 位の意味です。

 

とあり、最初から弱小軍団と織田軍を見下している今川軍は、松平家の歴戦の武将である石河六左衛門が、警告しているにもかかわらず、中嶋砦から出て来る織田信長が陣頭指揮する織田軍を見て、貧弱な兵力だとの見方を変えず、十分な警戒と戦闘態勢を取る事を怠っていたようです。

前章までで見たように、織田信長の石高から見る実際の動員兵力は、精鋭の信長直属の部隊800の外、5000名以上の兵力を十分に用意出来た可能性が高いのです。

沓掛から大高まで、広域に兵力が分散していた今川軍に対して、一直線に 善照寺砦 ⇒ 中嶋砦 ⇒ 桶狭間山へと続くラインを最短距離で、分厚く多人数の精鋭を投入して来た織田軍の勝利は、”雨の問題とは関係なかった可能性が高い”と思われます。

今川軍本陣の前方で、善照寺砦方面の防禦を担当していた今川方遠江国井伊谷(いいのや)城主の猛将井伊直盛(いい なおもり)が率いる井伊軍がほぼ全滅している(2017年のNHK大河「おんな城主 直虎」でやってました)ことからも、如何に信長軍の攻撃が、”多人数による集中した正面攻撃”であったかを示しているようです。

 

信長は今川義元を破ったのに、なぜ今川領へ侵攻・占領しなかったの?

以前、軍事評論家の別宮暖朗(べつみや だんろう)氏が、「警察」と「軍隊」の違いについて述べられていたところによると、、、

私はその組織が所有・運用する兵器の破壊能力の差だろうと思っていたのですが、実は、”所有している兵器の差ではなくて、ロジスディクスがあるかないかの差だ”と言われてました。

実際その後私は、中国北京一の繁華街”王府井(ワンフーチン)”の交差点で、カーキ色の装甲車が止まり、迷彩服に身を固めて軽機関銃を手にした兵士?が警戒に当たっているのに遭遇しました。

装甲車のボディには「武警」を白くペイントされていて、これが「軍隊」ではなくて「警察」であることを示していたようでした。私の見たところ、武装から見るとそれは完全に”軍隊”でした。

別宮氏の本を見た時、ピンとこなかったのですが、共産中国があの「武警」を警察だと称する理由は、恐らく別宮氏の分類が正しいことを示しているんだと腑に落ちました。

 

話を本題に戻しますと、、、、

永禄3年(1560年)5月19日の未明、周知のように、織田信長は小姓6名を伴って清須城を飛び出し、熱田神宮で織田軍を集合させます。

話の流れからすると、織田信長から三河・遠江・駿河へ侵攻・遠征するだけの”兵站”の準備をするような命令が出ている気配はありません。

 

永禄3年の5月19日も、今川軍の侵攻を『桶狭間の戦い』で防ぎ、幸運にも総大将今川義元を討ち取ると言う大戦果を挙げましたが、その日の内に居城の清須へ引き揚げています。

 

信長は今川軍の侵攻を止める準備だけ(砦の構築など)をしていましたが、その後父信秀のように、三河へ攻め込む準備は何もしていなかったのは明らかです。

つまり、『桶狭間の戦い』の時の信長には、、、

  1. 侵攻する気がなかった
  2. 侵攻する準備がなかった
  3. 侵攻する力がまだなかった

と言うことになります。

織田信長は、戦勝したことで調子に乗り、準備もないのに他国へ攻め込むと言った、無思慮・無謀な行動に出るような『大うつけ者』ではなかったと言うことですね。

 

まとめ

周知のように、織田信長は永禄3年(1560年)5月19日に、尾張と三河の国境の桶狭間で、駿遠三の太守であった今川義元の2万5千名の大軍を迎え撃ち、わずか2000名で破って尾張の危機を救うとともに、一躍戦国の世にその武名を知らしめました

この歴史上有名な『桶狭間の戦い』の通説に関して、疑問に思う事柄を幾つか出して調べてみました。

先ず、信長の父信秀は、天文13年(1544年)の『美濃攻め』で2万5千の兵力を動員しているのに対して、永禄3年(1560年)の織田信長は、なぜ2~3千の兵力しか集めれなかったのかと言う疑問があります。

これは、天文13年の父信秀の出陣は、単独ではなくて越前との連合軍であり、尾張守護の斯波氏の動員令も出しての動員であったにも拘わらず、信秀単独では5~6千くらいであった可能性が高く、当時の織田信秀の支配地の石高から推計すると、『桶狭間の戦い』当時の信長の動員力とあまり差はなかったものと考えられます。

信長は、『桶狭間の戦い』の前年永禄2年に、岩倉の織田伊勢守家を追い出して、尾張下四郡に加えて上四郡に関しても独力でかなり動員できる状況を作っており、津島・熱田の町民兵などを直属兵として800名ほど養成し、また川並衆などの野武士集団を千名以上臨時動員できる状況にもあり、実働兵力として動員出来たのは、石高推計から言っても、直属兵の2千名を加えて、やはり桶狭間の狭い戦場に総員で5千名近くを投入出来ていた可能性を否定できないのではないかと思われます。

織田信長の『寡兵よく大軍を破る!』は、やはり神話だったのではないかと考えられます。

近年、信長の『桶狭間の戦い』での『迂回による奇襲攻撃』に関しては、歴史専門家の間でも『信長公記』の記載を尊重して、『正面攻撃』だったと訂正されて、『奇襲』だったと言う通説が見直されつつあるのが大勢となって来ているようです。

また、信長軍は、山間に姿を隠しながら今川本陣に近づいたとか、突然の風雨に信長軍の姿が隠されて、今川軍が信長軍の接近に気が付かなかったとされる『奇襲説』につながる要因に関しては、先ず今川軍から中嶋砦を出撃する信長軍が丸見えであったこと(『三河物語』にその記述あり)と、織田信長は雨が上がってから攻撃を開始していることから、風雨をついて攻め入ったと言うような事はなかったようです。

そして、信長が『桶狭間の戦い』での勝ちに乗じて、今川家支配地域への侵攻を試みなかったのは、その準備がなされていなかった現実に、そのまま信長が冷静に従った結果と言えそうです。

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参考文献

〇奥野高広/岩沢愿彦校注『信長公記』(1970年 角川文庫)
〇『岐阜市史 通史編 原始・古代・中世』(1980年 岐阜市)
〇松田亮『斎藤道三文書之研究』(1974年 岐阜文芸社)
〇『愛知県史 資料編10 中世3』(2009年 愛知県)
〇横山住雄『織田信長の系譜』(1996年 濃尾歴史研究所)
〇『張州府志(全)』(1974年 愛知県郷土資料刊行会)
〇小瀬甫庵撰/石井恭二校注『信長記<上>』(1981年 現代思潮新社)
〇『豊明市史 資料編補二 桶狭間の戦い』(2002年 豊明市)
〇小野信二校注『戦国史料叢書6 家康史料集』(1965年 人物往来社)
〇藤本正行『信長の戦争』(2004年 講談社学術文庫)
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