明智光秀は、信長になぜ上洛後すぐに京都奉行に起用されたの?
・明智光秀が織田信長上洛後すぐに、京都奉行として活躍出来た理由が分かります。
・明智光秀が織田信長の家臣になったのは、永禄11年の信長上洛の前か後か分かります。
・明智光秀が、濃姫のコネを使って信長に取り入ったのかどうか分かります。
・明智光秀が、なぜ京都で顔が広いのか分かります。
目次
信長は、なぜ明智光秀を上洛直後から京都の行政職に就けたの?
織田信長の足利義昭を奉戴しての上洛は、永禄11年(1568年)9月26日となっていますが、その2年前の永禄9年にも信長の軍事力を頼みとして、足利義昭が上洛する計画があった事は良く知られるようになって来ました。
この時は、永禄8年(1565年)5月19日に『永禄の変』が勃発し、第13代将軍の足利義輝が松永久秀・三好三人衆らに御所で暗殺され、奈良興福寺一条院にいた将軍の舎弟覚慶(足利義昭)は松永久秀の手により幽閉されます。
前将軍の側近である細川藤孝・和田惟政らの働きかけに、越前朝倉義景なども動き、7月28日になって、覚慶は奈良脱出に成功して、伊賀の和田惟政の舘へ逃れます。上洛を道を探るため、11月21日には山間部の伊賀和田から交通事情の良い近江矢島へ移り上洛準備に取り掛かります。
そこで、他の記事にも引用したのですが、近年脚光を浴びている『米田文書』の中に、、、
御退座刻、其国儀、各以馳走無別儀候、然者、為 御入洛御供織田尾張守参陣儀、弥被賴 思食候条、此度別被抽忠節様、被相調者、可為御祝着由候、仍国中江可被下御樽候、此通被相触、参会儀、可被調候、定日次第ニ可被差越御使候、尚巨細高新・高勘・富治豊可被申候、恐々謹言、
八月廿八日 藤英(花押)
藤長(花押)田屋殿
(引用:『米田文書 一色藤長・三渕藤英連署書状』 「古文書研究 第78号」所収 2015年 吉川弘文館)
大意は、”義昭公が奈良を脱出する折、その国(伊賀の国衆)が皆協力してくれたおかげで無事だった。それで(今度)義昭公の御供には「織田尾張守(織田信長)」が参陣することになった。これからいよいよ(伊賀の国衆を)頼みに思うので、この度特に忠節を尽くしてくれるように段取りしてもらえれば、大変に祝着である。そこで、国中へ酒樽を贈る。この旨通達して貰い、味方するように尽力してほしい。上洛の日程が決まり次第使いを出す。尚詳細は・・・・。
(永禄9年)8月28日 一色藤長(花押)
三渕藤英(花押)
田屋殿 ”位の意味です。
ここで重要なのは、織田信長の官途の「尾張守」ですが、これまでの研究によりこれは永禄7年(1564年)から永禄11年(1568年)6月まで使用されていることが分かっています。織田信長の上洛直前にあたる永禄11年8月からは、信長の官途は「弾正忠(だんじょうのじょう)」と変わります。ここで、この「米田文書」には「尾張守」とありますから、この文書の日付は前後関係から永禄9年の事であると判断されます。また、この文書の翌日の8月29日には、義昭が頼りにしていた六角氏がなんと敵対する三好方へ寝返っていますので、この文書はその前日の発信となります。つまりこの時の足利義昭の目論見が崩壊した訳で、慌てて近江矢島から若狭へ逃亡するハメになりました。
と言う訳で、永禄11年(1568年)9月の織田信長上洛の前に、”永禄9年にも足利義昭の上洛計画”があり、既に足利義昭は永禄11年と同様に、織田信長の軍事力を頼りにして事を進めていたことがわかります。
次に織田信長から細川藤孝への書状があります。。。
就御入洛之儀、重而被成下御内書候、謹而致拝閲候、度々如御請申上候、上意次第不日成共御供奉之儀、無二其覚悟候、然者越前・若州早速被仰出尤奉存候、猶大草大和守・和田伊賀守可被申上之旨、御取成所仰候、恐々敬白、
十二月五日 信長(花押)
細川兵部太輔殿
(引用:奥野高廣『増訂 織田信長文書の研究 上巻 60細川藤孝宛書状』1994年 吉川弘文館)
大意は、”御上洛の事につき、重ねて御内書(ごないしょ)をお出し下され、つつしんで拝閲させて頂きました。度々のようにお請け申し上げる通り、お上の御下命あり次第、すぐにも御供いたします事、必達の覚悟にございます。ですから、越前の朝倉義景(あさくら よしかげ)、若狭の武田義統(たけだ よしむね)にも出兵をお命じになるのがよいでしょう。なお、使者の大草公広(大和守)、和田惟政(伊賀守)から申し上げる旨をよろしく御執り成しください。
12月5日 織田信長(花押)
細川藤孝殿 ”位の意味です。
これは、この六角氏の裏切りのあと近江矢島を脱出して、足利義昭が若狭武田氏・越前朝倉氏に身を寄せた後の文書と思われますので、永禄9年か10年となると思われます(この書状は永禄8年の説もあります)が、義昭からの出陣催促の書状が、度々、義昭側近の細川藤孝から織田信長へ出されていたことを物語ります。
という訳で、永禄9年の上洛計画を巡って、すでに織田信長が供奉することが決まっていたことがはっきりしていますので、冒頭の「細川家記(綿考輯録)」にあるような、”明智光秀が織田信長との間を取り持って”などと言う必要性は全くなかったことが分かります。
つまり、「細川家記(綿考輯録)」にある話は、どうやら事実と異なるようで、光秀による織田信長への紹介などなかったのではないかと考えられます。
加えて余談ながら、そもそも、いくら戦国の話とは言え、主君に忠実だった明智光秀の義を重んじる態度から見て、光秀の主君土岐頼澄を毒殺した斎藤道三親子(道三と帰蝶)を許すはずもなく、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』のように光秀が個人的に濃姫(帰蝶・奇蝶)を慕うとか、道三を師と仰ぐなどもあり得ない話と考えられますので、光秀は「織田信長の室に伝手がある」などとは言うはずがないような気がします。
このように、上洛のために足利義昭は、戦国大名に自分の上洛の援助をするように書状を出していましたが、それに二の足を踏む大名が多い中、早くから協力するとの意向をはっきりさせていたのが、尾張の織田信長であり、その取次役のような役割を細川藤孝が担っていたことが、織田信長の書面の宛先から分かります。
足利義昭との大事な取次役と言うことで、織田信長が注目したのは細川藤孝だったのではないかと考えられます。というのも、細川藤孝はこの時点での官職が、幕府の兵部大輔(軍務局長?)であったからです。しかも情報力のある信長が、細川藤孝は先代将軍足利義晴の御落胤と言われ、母が朝廷の従三位大外記(書記官長)・大学者の清原宣賢(きよはら のぶかた)の娘と言う、血筋の良い大教養人であることは百も承知だった考えられます。
足利将軍家を推す立場にある織田信長としては、義昭の上洛が成り、信長自身の影響力を行使出来る幕府が機能を始めることを考えると、ここは織田家の吏僚村井貞勝とともに、幕府方の人間として朝廷・公家筋にも顔の広い細川藤孝を、「京都奉行」に起用するのが極めて妥当な人事と思われるのですが、実際には、如何に幕府方の人間とは言え、それ以前に歴史上の露出のほとんどない明智光秀が起用されることとなります。
この奇妙な人事ゆえ、土岐源氏を標榜する正体不明の”明智光秀”に関し、後年たくさんの憶測が生まれる事となったようです。
例えば、、、
- 細川藤孝の書状を織田信長に届ける中間の役割をやっている内に、織田信長に目をかけられた(豊臣秀吉と同じスタイル)
- 織田信長の正室(濃姫)と従兄妹関係にあり、このコネで織田信長に仕官した
- 美濃動乱の中、主君土岐頼澄に仕え、斎藤道三と合戦を繰り返した軍事経験を評価された
- そもそも幕府奉公衆「土岐明智家」の一族で、京都二条界隈に邸宅を所有し(『言継卿記』による)、公家筋に顔が広いことが評価された
- 血統も良く、京都政界に知名度が高いのに、越前の田舎太守(朝倉義景)に飼われている変わり者の武辺者として、織田信長は興味を持っていた
- 一部の戦記物が伝えるように、織田信長と足利義昭をコーディネートしたのは、本当に明智光秀だった
これくらいの話は出てくるようですが、一般的には、1.2.6.くらいの説を簡単に触れて、深入りせずにさらっと流す歴史書・歴史家が多いようです。
今のところ、正体不明の「明智光秀」の出自にも関わる話なので、戦国史の中でも統一見解は出てないようです。
私見としては、史料の出方から3.4.5.辺りに正解がありそうな気がします。それは、後の織田信長の大納言近衛前久(このえ さきひさ)辺りへの対応を見ていると、基本的に”信長は公家嫌い”が見て取れるので、細川藤孝を起用しなかった理由は藤孝に付きまとう「公家臭」だったのかもしれません。
実戦経験上は明らかに明智光秀の方が勝っていると思われますが、全体としての政治的立場からすると、当時の織田信長にとっては、圧倒的に細川藤孝の利用価値の方が高いような気がしますけどね。

(画像引用:琵琶湖風景ACphoto)
実は、信長上洛前に明智光秀は織田家に仕官していた!ホント?
以前の記事で、明智光秀が「仕官していた」と言えるのは、所領を宛行れてからだろうと言うことで、元亀2年(1571年)9月12日の『比叡山焼き討ち』の論功行賞で、織田信長から坂本・滋賀郡を貰ってからとしていました。
ところが、、、
御内書謹致頂戴候、喧嘩之次第被仰聞候、先以無是非題目候、存分之通御使両人ニ申渉候、猶明智かた迄申遣之条、可達上聞候、随而青瓜済々被成下候、殊名物之間、別而賞翫悉存候、此等之旨可預御披露候、恐々謹言、
六月十二日 信長(花押)
細川兵部太輔殿
(引用:奥野高廣『増訂 織田信長文書の研究 上巻 280 細川藤孝宛書状「横畠文書」』1994年 吉川弘文館)
大意は、”将軍様からの御内書(室町将軍の発給文書)を頂きました。喧嘩の次第を伺いましたが、論ずることもないと思いましたので、使いの者二人に存分に話ておきました。なお、明智光秀に申しておきましたので、上様へは伝わるでしょう。したがって、頂きました青瓜、名物とのことで、必ず賞味させていただきます。これ等のお話をお披露目頂ければ幸いです。
(永禄11年)6月12日 信長(花押)
細川藤孝殿 ”位の意味です。
次いで、、、
条々被仰下之通、何以存知仕候、幷御頭書之上、是又遂分別、明智ニ申含候、此等之旨、可有御披露候、恐々謹言、
八月十四日 信長(花押)
細川兵部大輔殿
(引用:奥野高廣『増訂 織田信長文書の研究 補遺・索引 補遺二九 細川藤孝宛判物「革島文書」』2007年OD版 吉川弘文館)
大意は、”将軍から指示された条々は何れも了承します。その条書の頭書もよく考えて、明智光秀に指示しております。これらのことを将軍へ御披露ください。
(永禄11年)8月14日 信長(花押)
細川藤孝殿 ”位の意味です。
この2通は無年号文書ですが、従来年号が元亀2年(1571年)の物と比定されて来ました。しかし近年の中世史研究家谷口研語氏の研究により、永禄11年(1568年)の物であることが判明しました。
加えて、、、
・・・、新公方は同七月十六日越州一乗谷を御立あり、其夜は當國今庄に御寄宿なり、翌十七日江州へ入らせ給うて、・・・(中略)・・・、斯して同月廿七日美濃國西の庄立政寺へ著御あって、御安坐を定められ、御休息ましましける、
(引用:早稻田大學編輯部『通俗日本全史 第七巻』1913年 早稻田大學出版部に所収 「織田軍記 新公方濃州御動座事の条」)
大意は、”足利義昭公は、永禄11年(1568年)7月16日に越前一乗谷を出発され、その日は今庄にお泊りになり、翌17日に近江へお入りになりました。・・・(中略)・・・、このようにして、7月27日に美濃の立政寺にお着きになられ、旅装を解かれました。 ”位の意味です。
つまり、最初の文書の日付が6月12日となっていて、その次に足利義昭が越前を出発して7月27日に岐阜西郊の立政寺に到着しています。そしてその次の書状が8月14日付となっており、足利義昭が織田信長を頼って岐阜に移動ずる前後の信長の書状に、信長が明智光秀を手足として使っていたことが記載されています。
中世史の大家高柳光寿氏も、以前から著書『明智光秀』の中で、、、
ところで、この義昭が越前から美濃へ移って信長に頼ったという一件に、光秀が関係していたのである。・・・(中略)・・・、
上来述べて来た『細川家記』の記事によって、義昭が京都帰還を信長に依頼し、信長がそれを承諾し、上洛が実行されることになったのは、藤孝が義昭方にあり、光秀が信長方にあり、両者の策動によってそれがなされたと普通にいわれているのである。・・・
・・・(中略)・・・。
それにしてもこれらの記事によって、義昭が美濃へ移った当時、光秀はすでに信長の部下になっていたことは事実と見てよい。
(引用:高柳光寿『明智光秀 6~7、9頁』2000年第7刷 吉川弘文館)
もし、この中世史研究家谷口研語氏の年代比定が確かなものであれば、明智光秀が足利義昭上洛を契機に織田信長の家臣にもなっていた公算が高いと言うことになりそうです。
信長室の『濃姫』と明智光秀は従兄妹関係!ホント?
明智光秀は、織田信長の正室と従兄妹関係だった?
前章のとおりだとすると、明智光秀は、織田信長が稲葉山城を攻略した永禄10年(1567年)8月15日以降に、信長に接触して、翌永禄11年6月の段階では、すでに信長と義昭のつなぎ役と言う重要な任務を務めていたことになります。
この件に関し、細川藤孝の家記である『綿考輯録』によれば、、、
永禄十一年戊辰六月廿三日、義昭公より藤孝君・上野清信両使として濃州岐阜に赴かれ、明智十兵衛光秀に付て信長に謁し、当家一度京都ニ安座せしめ候様、賴思召候、・・・(中略)・・・、
明智十兵衛光秀は、・・・、朝倉義景ニ仕へて、五百貫の地を領せらる、・・・、藤孝君越前御逗留之中光秀より交を厚くせらる、・・・(中略)・・・、織田信長は当時之勇将今既ニ美濃・尾張を領して江州を呑んとするの気あり、我等彼室家に縁ありて、頻に被招、大禄を授けんとの故、却而猶予せり、貴殿忍んで岐阜に赴き、信長を御頼候へしと有けれハ、藤孝君仰ニ我も又是を思へとも、信長の内に知れる人無之、便りよからん時は足下を頼へしと御約諾被成候、・・・(中略)・・・、
其後藤孝君の御すゝめにて、義昭公御直に光秀に御頼被成、謹而御請被申候、・・・・
(引用:細川護貞監修『綿考輯録 第一巻』27頁 1988年 出水神社)
大意は、”永禄11年(1568年)6月23日、足利義昭公より細川藤孝公と上野清信が使者として美濃の岐阜城へ派遣され、明智光秀が同行して織田信長に拝謁し、将軍家を上洛させるために力を尽くしてくれるように依頼をした。・・・(中略)・・・、
(こうなった経緯は・・・)
明智光秀は、・・・、朝倉義景に仕官し、五百貫文の知行を与えられていた、・・・、細川藤孝公は(足利義昭公に供奉して)越前に逗留中に居合わせた明智光秀と親しくなられ、・・・(中略)・・・、(明智光秀が言うには)織田信長は有能な武将であり、既に美濃・尾張の二ヵ国を領有し、今や近江国も併呑しようとしている。私は織田信長の正室と縁があり、盛んに高禄で召し抱えたいと誘われているが、未だ猶予願っている。あなたが密かに岐阜へ行き、信長に依頼んだらどうでしょうか・・・と。(対して、)細川藤孝公がおっしゃるには、私もそう思っていますが、織田家に伝手がなくて困っていました、こうなったら貴殿に頼み申しますと約束が出来ました。・・・(中略)・・・、
その後、(この事を)藤孝公が義昭公に薦めて、義昭公が明智光秀に直接にご依頼なされ、光秀が謹んでそれをお請けしていた。・・・”位の意味です。
つまり、越前一乗谷で親しくなった細川藤孝に対して、明智光秀が”自分は織田信長の正室の親戚”なので、いつでも顔繋ぎが出来ると言っている訳です。ここに、「明智光秀は織田信長正室と従兄妹関係だった説」が浮上して来る訳です。
交渉役を勤めるべき細川藤孝が、配下の明智光秀に仕事を丸投げした?
これは、前章までで出て来ているように、織田信長の上洛は実際の上洛より2年前の永禄9年(1566年)9月22日に上洛する計画でした。この時の行動プランでは、足利義昭は近江野洲郡矢島で美濃から来る信長の参陣を待ち、信長と合流して上洛することになっていました。
そのため、尾張から美濃を通過して近江へ織田信長が出陣するには、当然美濃の斎藤龍興に妨害される事が想定される訳ですが、、、
就尾州矢止儀、人質事同心感悦処、信長乱入儀驚入候、雖然尚以参洛之事対尾張守申遣之間、最前之筋目無相違様令馳走者可爲神妙、猶信惠可申候也、
閏八月廿六日 (足利義昭花押)
(引用:愛知県史編さん委員会編『愛知県史 資料編11 五一七 足利義秋御内書』2003年 愛知県)
大意は、”織田信長との停戦について、(斎藤龍興殿が)人質まで同意してくれて感激していたところ、織田信長が違約して美濃へ攻め込んだとの事で驚いています。しかし、上洛する事について織田信長に言ってあるのは、先般の約束事はきっちり守りお手伝いせよと。尚、上野信惠に申し伝えさせます。”位の意味です。
これに関しては、、、次の史料のように、そもそも信長に供奉させての足利義昭の考えていた上洛予定は、永禄9年8月22日だったようなのです。。。
就御出張之儀被成御内書候、來月廿二日織田尾張守致参陳、御動座可御供申由候、就其三州・濃州・勢州四ケ國出勢必定候、此砌可被抽忠節者、可爲神妙由可申入旨候、猶爲成有演説候間、不能再筆候也、穴賢〃〃、
七月十七日 御判在之
十市兵部少輔殿
(引用:多聞院英俊『多聞院日記 永禄九年八月廿四日の条』国立国会図書館デジタルコレクション)
大意は、”足利義昭公は出陣について御内書を出された。8月22日に織田信長が出陣し、義昭公に供奉される。それについて、三河・美濃・伊勢の軍勢が併せて出動する見通しである。云々
(永禄9年)7月17日 御判在之
十市兵部少輔殿 ”位の意味です。
ところが、織田信長は8月22日になっても出陣しないばかりか、じりじりする義昭一行にあろうことか織田信長が、8月29日に美濃に攻め入ったと言う報が入り一同驚愕した訳です。
この直後、義昭が頼りにしていた六角氏も三好勢に同調する動きを見せ始めた為、義昭一行は近江矢島に留まることすら出来なくなり、慌てて若狭武田氏を頼って琵琶湖を渡って避難し、もうこの時点でこの永禄9年の上洛計画は幻と消えた訳です。
足利義昭周辺は、この時の上洛作戦失敗は、すべて織田信長が違約した責任だとして、先頭に立ってこれを指導していた細川藤孝と和田惟政の立場は非情に弱くなったと思われます。
しかし、当然、義昭の対抗馬である足利義栄(あしかが よしひで)を将軍に推す三好勢の調略は、美濃の斎藤龍興(さいとう たつおき)にも及んでいたと考えられ、そんな中で不安定な新将軍候補である足利義昭の停戦命令など、素直に織田信長が受けるはずがないと言う疑心暗鬼も手伝って、斎藤龍興は織田軍上洛阻止に取り掛かったと言う側面も十分ありうるわけです。
一方、織田信長にしてみれば、永年敵対する斎藤龍興が足利義昭の停戦命令などに本気で従う気があるのかどうか元々疑っており、戦備を整えて渡河して着陣したところ、やはり美濃軍は戦闘を仕掛けて来て、”やっぱりな!”と思い撤収にかかったところ、折からの天候悪化で再渡河に手間取ったと言う事だろうと考えられます。
この敗戦が、もし本当に龍興側の宣伝するように攻め込んだ信長軍の大敗だったならば、すぐ翌年の永禄10年に「稲葉山落城」をさせる力は信長に残っていなかったはずですから、この戦いは『信長公記』にも載らないほどの撤収戦だったのでしょう。
この翌年永禄10年に、斎藤龍興を除かねば上洛は不可能と見た織田信長の、本気の侵攻作戦により稲葉山は落城しました。これにより、やはり信長だと思いながらも、再度織田信長に上洛要請をしにくい反信長の雰囲気が義昭一行にあり、その為、立場を失っていた細川藤孝は、家臣の明智光秀を代表に立てて交渉をやらせたと言うのが、明智光秀が織田信長との交渉に直接関わってくる真相だったのかもしれません。
こういう状況展開の中、明智光秀と織田信長の関係が始まったと思われます。つまり明智光秀を織田信長の前に出したのは、結果的に細川藤孝だったのではないかと言う見方です。
織田信長が対面する内に、明智光秀の”武将としての才能”を見抜き起用した?
切っ掛けが、明智光秀が信長の正室の従兄妹だったにしろ、永禄9年の上洛失敗により義昭側近らの信用を失った細川藤孝が光秀に交渉役を丸投げしたにしろ、折衝を重ねた後の織田信長が光秀を配下に採用するようになって行ったのは、間違いない事実と考えられます。
この事が、上洛後義昭により再開した「室町幕府」と並立して、事実上成立した「織田幕府」の京都奉行として明智光秀を、織田家重臣らと共に重用する理由となりました。
前述したように、新将軍足利義昭の側近で織田信長との折衝担当だった細川藤孝も信長との接触はあり、結局織田信長が藤孝と光秀のどちらを気に入ったかとなると、、、
☆細川藤孝
長所:
- 早くから織田信長との交渉責任者であること
- 家柄から京都での人脈は広い
- 学識は抜群である
短所:
- 足利義昭に心情的に近すぎること
- 文人としては一流でも、幕府内で兵部大輔と言う官職ながら、部将としての実力は未知数である
- 少し貴族臭が強い
☆明智光秀
長所:
- 細川藤孝から交渉役を任されるほど事務能力がある
- 家柄から、学識と京都での人脈は期待出来る
- 美濃動乱での実戦経験が豊富と考えられ、鉄炮隊の運用にも詳しく武将としても期待できる
短所:
- 祖父の代までは幕府奉公衆であったものの、新将軍との関係は薄い
- 実家が滅亡しており、国人領主のように兵力を動員できる可能性は低い
- 付き合いが浅く、正体がよく分からない
これくらいかと思われますが、織田信長が光秀を一番買った点は、急速に拡大する織田家にとって有能な人材が喉から手が出るほど欲しい中、合戦の実戦能力と頭脳を併せ持つ人物であったことではなかったでしょうか。
信長にとっては、直系の織田家一族以外は、縁戚関係であることが、重大な評価点になるとは考えにくいので、光秀が濃姫の従兄妹かどうかはあまり問題にならないでしょう。
光秀が元幕府奉公衆の家系で、京都公家衆に顔が広いことを信長が評価した?
通説で言われている明智光秀の経歴では、この話は理由がサッパリ分からず『??』となるのですが、それなりの根拠はあるようです。
ちょっと、以前の明智光秀に関する投稿者の記事『明智光秀の本当の生誕地はどこなの?京都?美濃?』に立ち戻って、明智光秀の系図問題を解説しますと、、、
土岐明智兵部少輔頼定与同名兵庫頭入道玄宣相論事、令和睦。於知行分者、可折中旨、被成御下知訖、宣被存知之由、所被仰下也、仍執達如件、
明応四年三月二十八日 下総守(飯尾為頼)
前丹後守(松田長秀)土岐左京太夫(成頼)殿
(引用:『岐阜県史 史料編 古代・中世四 群馬縣 土岐文書 17 室町幕府奉行人連署奉書』1973年 岐阜県)
大意、”明智頼定と玄宣との争いごとは和睦させ、知行地の分配に関しては折半として下知せよ。そう命じよと仰せられましたので、通達します。”位の意味です。
これは明智光秀の曾祖父の世代の話ですが、土岐明智家が美濃在住の「頼弘系」の息子頼定と、京都在住の「頼高系」の息子玄宣(光高)が、美濃の領地争いをして、明応4年(1495年)3月28日に、足利将軍から半分づつにして争いを収めよと裁定されたことを示しています。
経緯は分かりませんが、正式に京都組が美濃に領地を得たのか、本来京都組が所有している美濃の領地の半分を現地組に横領されたことを示しており、とにかくこの裁定が出てから、急いで京都在住の一族が美濃に下向したものと思われます。
これで、系図の「頼弘系」・「頼高系」のどちら側にいても、明智光秀は美濃で生まれた可能性が出て来たようです。
この明智光秀の京都組の曾祖父に当たる明智玄宣(あけち げんせん)という人物は、京都の連歌界では超有名人で、光秀が細川藤孝の家臣をやっていながら、京都の政財界で厚遇されたのは、細川藤孝の身分もありますが、この曾祖父”玄宣(げんせん)”の知名度に依るものと考えるのが妥当のようです。
織田信長に供奉して永禄11年(1568年)上洛以降、即座に京都政財界の連歌の会・茶会に御座敷が掛かっているのは、織田信長ら美濃からポッとでの田舎侍には及びもつかないことです。
これで、光秀が京都に屋敷を所有していた事とか、上洛後すぐに京都の外交が任されていったことなどの謎の一端は解けそうです。これは出生地の話より、出自が物を言った事を示しているようです。
どうやら、光秀出自は”京都組頼高系”であることが有力のようです。
可能性としては、出生地が美濃だとすると、大垣とか可児の田舎ではなく、守護職土岐氏の住まう、当時西の山口、東の革手(かわて)と言われ繁栄した城下町を持つ”革手城(川手ー現在の岐阜市正法寺町付近)”周辺ではないかと考えられます。
とまあ、こんな経緯があって、明智光秀は”京都での顔が広い”と言う点を、織田信長が評価したのではないかと言う話です。
信長と光秀は、鉄砲論議をするくらい軍事談議が好きだったので、すぐに意気投合した。
永禄11年の上洛前の織田信長と鉄炮に関して
もう伝説のようになっていますが、、、
織田信長公甚被砕武勇御心。別而鐡炮勢如何鐡山鐡壁無不打碎之云事。深感有。鐡炮打之用法有傳流之願所。是頃橋本一巴云有鐡炮打之義。煉摩其名世上高。信長公達臺聞。被召出一巴爲師。鐡炮打之義甚盡給朝煉。
重而信長公爲諚意。未鐡炮甚少。急鐡炮張煉之鐡匠申付。數多用意可有之旨。被仰付。一巴蒙命。早速相尋處。於江州國友村。國友善兵衛・兵衛四郎・助太夫・藤九左衛門。右四人之者共。鐡炮張錬之依爲鐡匠。六匁玉鐵炮五百挺。
天文十八年酉七月十八日。信長公諚意之趣。從橋本一巴被仰渡。同十九年十月ニ十一日。奉制作之。
(引用:『國友鐵炮記』 洞富雄『種子島銃』1958年 雄山閣出版 に所収)
大意は、”織田信長公は、武力増強に日頃から熱心であったが、この頃出回り始めた「鉄砲」の威力が鉄の壁をも打ち砕くと言う事に強く惹かれ、鉄砲の使用法を習いたく、その頃鉄砲打ちとして高名だった橋本一巴(はしもと いっぱ)の事を聞きつけて、すぐにコーチとして雇い入れ、日々「鉄砲」の訓練に励んだ。
その上、織田軍の持つ「鉄砲」の数が非常に少ないので、すぐに鉄炮鍛治を見つけて、量産させるように橋本一巴に命じた。一巴は信長の命令を受けて、さっそく探し始め、近江国友村の國友善兵衛・兵衛四郎・助太夫・藤九左衛門の四人の鉄砲鍛冶を見つけ、「六匁の鉄砲」500挺を、天文18年(1549年)7月18日に織田信長公からのご命令として、橋本一巴より國友村に発注され、天文19年(1550年)10月21日に納品された。”位の意味です。
とありますが、この話は、天文22年に斎藤道三と織田信長の尾州富田での会見時に、織田信長が鉄砲隊を率いて現れたと言う事の辻褄合せ・数合わせみたいな話です。しかし、國友村の「由緒書」によれば、織田信長と國友村との最初の接触は元亀2年(1571年)としており、真相は分からないところです。
ただ、最新鋭の武器である「鉄砲」に関して、当時各戦国大名の関心は高く、信長に限らず自軍の戦闘能力強化を目指す武将たちは、その情報を集めていたのは事実だろうと思います。この話もそんな時代の雰囲気で捉える必要があると思われます。
永禄11年の織田信長上洛前の、明智光秀と鉄砲に関して
係ル処ニ、九月廿日ノ晩景ニ及ンテ、一揆ノ悪党如雲霞寄来レリ。青蓮華初ヨリ宿城ノ外ニ堀柵ヲ構へケレバ、少モ騒ズ静リ還テ扣ヘケルニ、先駆ノ一揆大将金剛寺三郎右衛門ト云フ者、健民二千余人ヲ催シ、太鼓ヲ打、南ノ方ヨリソ攻め懸リケル。味方兵近々ト引請、明智十兵衛・同弥平次・同次右衛門ヲ先トシテ、究竟ノ鉄炮ノ上手五十余人、櫓井楼ニ上リ鉄炮ヲ列放シ懸タリケレバ、一揆ノ輩鉄炮ト云名ノミ計ハ聞ケレ共、始テ斯ル物ニハ逢ツ、稲麻竹葦ノ如ク立並ビタル事ナレバ、争カ溜ルヘキ。
宗徒ノ郷民三百余人、将棋倒ノ如クニ犇犇ト打倒サレ、・・・
(引用:二木謙一校注『明智軍記 巻第一』2015年 角川学芸出版)
大意は、”そんなところに、永禄5年(1562年)夕刻となって、加賀一揆のおびただしい一軍が押し寄せて来た。朝倉軍の青蓮華近江守景基(せいれんげ おうみのかみ かげもと)は、初めから城の外に堀・柵を築いており、少しも慌てずに押し寄せる敵を静観視していた。一揆軍の先陣の大将金剛寺三郎右衛門(こんごうじ さぶろうえもん)と言う者が、頑強な者2千余人を引連れ、太鼓を打って、南方より攻めかかって来た。味方の兵は相手を十分に引き付けて、明智十兵衛・同弥平次・同次右衛門らを先陣に、屈強の鉄砲の名手50余名が、くみ上げた楼閣に登り、鉄砲をつるべ打ちに連射仕掛けた。攻寄せる一揆軍は、鉄砲と言う名前くらいを聞いた程度で初めて実戦で遭遇した。多人数が驚いて立ち止まり、前方の宗徒300名くらいが将棋倒しに打倒された。”位の意味です。
朝倉義景の命で、加賀の一揆鎮圧に出陣した黒坂備中守に与力した客将身分の明智光秀は、一揆軍の先陣に向けて鉄砲をつるべ打ちに連射して殲滅し、後に朝倉義景より感状が出ています。
このように、『明智軍記』によれば、美濃動乱でも実戦経験の多い明智光秀は、永禄5年(1562年)に側近の鉄砲隊を率いて、朝倉家重臣黒坂備中守の軍に従軍し、期待どおりの戦功をあげていたと云います。
こうした軍功もあり、鉄砲隊を率いた実戦経験のある明智光秀と、鉄砲隊を充実させつつあった織田信長の会話はどんなだったでしょうか?
ひょっとすると、冒頭の話のように鉄砲を巡って、織田信長と明智光秀の会話は弾んだのかもしれませんが、明智光秀の鉄砲上手の話からして確証がなく怪しいので、本当に活発な会話があったとしても、京都を巡る政治情勢の情報交換が主だったのではないかと思われます。
まとめ
前から、豊臣秀吉と明智光秀の出世話は、ふたりが織田信長の勢力拡大の両輪とも言うべき存在でありながら、豊臣秀吉の方は織田家内での手柄話の積み重ねが比較的明らかである一方、明智光秀の突然の出現と出世のスピードは不可思議でした。
そのため、同じ美濃出身と言うことで、明智光秀は織田信長の正室濃姫との親戚関係が取りざたされ、その伝手と身びいきで信長の腹心の部下になって行ったと、大方はそんな理解が広がっていたと思われます。
ところが、美濃国守護職土岐氏の内紛で、長男土岐頼武(とき よりたけ)と次男土岐頼藝(とき よりよし)の跡目争いで、父の土岐頼房(とき よりふさ)は次男頼藝に肩入れし、斎藤道三はちゃっかりと頼藝のお気に入りになっていました。明智光秀は斎藤道三と対立する土岐頼武に仕えていた一族とされます。
美濃守護土岐頼武の正室は越前朝倉貞景の娘で、そこで政争に敗れた土岐頼武は朝倉氏を頼って越前一乗谷へ逃れることになります。当然光秀も同道していたものと思われ、後年弘治2年(1556年)道三の息子斎藤義龍に明智城を追われた時も、その縁で光秀は自然に越前朝倉氏を頼った訳です。もし通説で言われるように、織田信長正室濃姫との一族としての因縁が強いようであれば、あの切羽詰まった場面では、明智一族は越前の朝倉氏ではなく、尾張織田信長正室の濃姫を頼ったはずだと考えられます。
こうした話の前提から、本稿を始めていますが、記事のテーマである”織田信長はなぜ明智光秀を京都奉行に抜擢したのか?”と言うことに関しては、、、
記事の中にあるように、偶然機会を得た光秀が織田信長と接見する内に、信長は独特の嗅覚で明智光秀の才能を見抜き、配下に入るようにくどいたのではないかと思われます。
タイミングとしては、前掲した歴史家谷口研語氏の研究で明らかになった「史料年代比定の修正」により、永禄11年(1568年)の”織田信長の上洛”の前から、将軍側近細川藤孝の中間(将軍家足軽)の地位より、織田家での仕事を優先する立場となっていた可能性が高いと思われます。
もし織田信長の正室「濃姫」が、斎藤道三の娘「帰蝶」と同一人物であれば、「帰蝶」の母が、守護となった土岐頼藝に斎藤道三が無理矢理所望して獲た嫁であったにしても、明智の姫「小見の方」である以上、明智光秀と織田信長の正室は従兄妹関係か親戚である可能性は高いと考えられます。
しかし、明智光秀がこの関係に頼って織田信長との関係を作って行ったとは、記事の中で見た通り考えにくいと思われます。
「明智光秀の京都での顔の広さ」ですが、連歌師の里村紹巴(さとむら じょうは)などとの交流が早いところから、やはり京都での”曾祖父で連歌の名手と謳われた明智玄宣”の名声が物を言ったと言う感じなので、やはり元奉公衆の家柄と見てよいようです。
能力的に大きな差はなくとも、早めに織田信長に近づいた明智光秀と、足利将軍の側近としての立場に縛られた細川藤孝の立場の差が、実戦経験の豊富さとともに、明智光秀をして、天下人へ向かっていた織田信長に大きくアピールして行ったのではないかと考えられます。