明智光秀は、戦国の梟雄『まむしの道三』の家来だった!ホント?

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斎藤道三の家来であったはずの明智光秀が、「長良川合戦」で敵の義龍側にいたことが分かります。
明智光秀ら明智一族は、斎藤道三の家臣であったのかどうか分かります。
『国盗り物語』斎藤道三の一代記でなかったことが分かります。
・織田信長正室の『濃姫』が初婚でなかったことが分かります。

通説に従うと理解不能な、”明智光秀は「長良川の戦い」で、なぜ道三と対立する息子の斎藤義龍の側についた”の?

この事に関して、江戸時代初期に成立した軍記物『美濃國諸舊記(みのこくしょきゅうき)』によれば、、、

 

・・・、土岐左京大夫頼藝が一子一色左京大夫義龍、實父の仇を報ぜん爲め、此度義兵を發して候ひ畢。速に一戦を期すべしと云々。道三之を聞きて仰天、扨は密事露顕せしやと、長歎し乍ら、倶に合戦の用意をなし、卽刻國中に軍馬を廻し、勢を集め催し畢。

然れども天の許さゞる所にやありけん、此時に當って、國人等皆義龍の勢に加はり、十が一つも鷺山へは参らず、大半稻葉山へと集まりける。

其人人には、先ず西美濃の連氏随へたる揖斐五郎周防守光親・・(中略)・・・明智十兵衛尉光秀、是は伯父宗寂 道三が入魂、又伯母は、道三が内室にして、旁有縁の中なれども、土岐一門の義を重んじ、光秀一人、義龍の味方加はるヽ所也。

 

(引用:『美濃國諸舊記 巻之二 土岐頼藝松波庄五郎を取立つる事の条 56~57頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”・・・、自分こと土岐頼藝(とき よりのり)の子、一色義龍(いっしき よしたつ)は、実父土岐頼藝の無念をはらすために挙兵し、すぐさま戦いに打って出ると言う。斎藤道三これを伝え聞いて大変驚き、とうとう秘密(実は道三の嫡男義龍は、守護土岐頼藝の落胤である事)がバレたかとため息をつきながらも合戦の準備をし、国衆たちへ出陣の命令を下した

しかし、世論は道三に味方せず、国衆たちは義龍の陣営に加わり、道三のいる鷺山城へは10分の一も集まらず、大半は義龍の稲葉山城へ馳せ参じた

義龍の下に集まった顔ぶれは、西美濃の土岐衆の親族である揖斐五郎光親(いび ごろうみつちか)を始め・・・(中略)・・明智十兵衛尉光秀、光秀は伯父の光安が道三と入魂で、伯母が道三の内室で親族であったが、土岐一門の義を重んじて義龍側へ参陣した。”位の意味です。

と、『美濃國諸舊記(みのこくしょきゅうき)』に拠れば、たしかに光秀は、文中の理由を以て伯父明智光安と袂を分かち、道三の息子義龍側に加わったとされています。

この弘治2年(1556年)4月20日の『長良川合戦』の結果、斎藤道三は息子の斎藤義龍(さいとう よしたつ)に討ち取られ、義龍が美濃国主となります。

ところが、前述のように一族の明智光秀が義龍の味方をしたはずの明智一族は、9月になって、、、

弘治丁卯年、美濃国可児郡の明智の城主、明智入道の居城を、美濃国関の住人土岐氏の族、長井甲斐守尾張清須表の隙あるを窺い、三千有余騎の人数大河を打ち越え、可児郡へ乱入、諸取出を取り抱え入道の居城へ寄せ来たり候。・・・(中略)・・・旹弘治丁卯九月日の事。

(引用:吉田蒼生雄全訳『武功夜話 巻一 森甚之丞の舎弟森勘解由、美濃可児郡において討死の事の条』1995年 新人物往来社)

大意は、”弘治2年(1556年)、美濃国可児郡の明智城城主明智光安の居城を、美濃国関の住人土岐氏一族である長井隼人佐(斎藤義龍軍の大将)が、尾張清須城の織田信長の隙を見て、三千余騎の兵力で木曽川を渡河し、可児郡へ攻め入り、明智光安の明智城へ攻寄せた。・・・(中略)・・・。時に弘治2年(1556年)9月の事だった。”位の意味です。

とあり、前文によれば明智光秀が斎藤義龍に味方したにもかかわらず、明智一族の居城が長井隼人佐(ながい はやとのすけ)を大将とする義龍軍3000名に攻められた事を伝えています

この時、明智光秀は伯父の光安から一族の行く末を託されて、落城する明智城を命からがら越前へ落ち延びています味方したにもかかわらず、このように義龍から攻め滅ぼされると言うのは、かなりおかしな話となります。

こうなる理由としては、

  1. 4月の『長良川合戦』から、9月の『明智城攻撃』まで、時間があることから、その間に光秀と義龍の間でもめた。
  2. 実際には、『美濃国諸舊記』にあるように、明智光秀が一族でひとり斎藤義龍に味方したなどと言う事実はなかった。
  3. そもそも諸資料に明智一族の『長良川合戦』への参戦記録が見当たらないことから、明智一族はこの義龍のクーデターに最初から中立的な立場を取っていて、戦後義龍の出仕命令に何らかの理由で従わなかった。

 

これくらいかと思いますが、父道三殺害後、息子の斎藤義龍は、反対勢力を一掃し美濃統一へまっしぐらだったと考えられます。強く臣従を求められた明智一族は、うたい文句と全く違って、実父だと言う追放された土岐頼藝を呼び戻そうともしない義龍の態度に強く不信感を持ち、稲葉山へ出仕しなかったのかもしれません。

統一を急ぐ義龍は、腹心長井隼人佐を送り、稲葉山城へ出仕して臣従しない明智一族の殲滅に向ったものと思われます。

また義龍にすれば、実母深芳野(みよしの)の敵である、道三の正室小見の方の一族である明智一統の殲滅は、最初からプログラムされていたとも考えられます。

しかし後年、『本能寺の変』の引き金ともなったと言われる「明智光秀による稲葉一鉄の家臣”斎藤利三”ヘッドハンティング事件」の際の、光秀と一鉄の確執を見ると、案外この時弘治2年の斎藤義龍クーデターの黒幕は稲葉一鉄を中心とする西美濃衆だったのかもしれません。実は道三の愛妾で、義龍の母である深芳野は稲葉一鉄の妹だったとの説もありますので。

そう言えば、稲葉家と明智家は、土岐家の家督を巡る美濃動乱以来、ずっと仲が悪いのか、織田信長時代も、稲葉一鉄は光秀軍の配下には入っていなかったようです。

案外、真相はこの辺りかもしれませんね。

 

(画像:大桑城跡登山道入り口2019/6/18 投稿者撮影)

明智光秀の一族は、もともと斎藤道三の家臣だったの?

斎藤道三の父長井新左衛門尉(ながい しんざえもんのじょう)は、一貫して美濃国守護土岐政房(とき まさふさ)の嫡男土岐頼武(とき よりたけ)を支えていましたが、嫡男の道三は父と違って土岐頼武(とき よりたけ)を見限り、次男の土岐頼藝(とき よりのり)支持へ鞍替えしていました。

享禄二年(1529年)に土岐頼藝から斎藤道三へ愛妾深芳野(みよしの)が下賜されたのは、この寝返りの褒賞と考えられています。

明智一統と美濃においては新参者であった長井新左衛門尉の息子斎藤道三との接点は、判明しているところでは、道三が東濃一の美女との誉れ高かった明智の姫(小見の方)を娶ったことから始まったと考えられます。

土岐明智氏は幕府奉公衆の一員とも言われますので、当然守護職である土岐氏を支える存在のはずですから、道三の父長井新左衛門尉のように、土岐政房の跡目である土岐頼武の支援が普通なのだと思いますが、色々あって、道三らの支援で土岐頼藝の擁立が成功した後、守護土岐頼藝の意向で、東濃の有力士族である明智氏は、姫を道三の下へ出すことになったようです。

以後、幕府奉公衆から国人領主化している明智氏は、事実上道三の配下に付いた形となったのではないでしょうか。

道三の一族は美濃では新参者ですから、美濃の有力士族明智氏がもともと道三の臣下と言うことはありません。おそらく上記のような経緯だったのではないかと思われます。

斎藤義龍に明智城を攻め落されて、明智光秀は越前へ落延びますが、これは以前守護土岐頼武夫人の実家が朝倉氏だった事で朝倉氏を頼った、頼武・頼純親子の流れに乗っています。

となると、明智一族はやはり道三が離反して頼藝支援に回った後も、なお頼武と行動を共にしていた可能性が高いように思うのですが、ここはやはり小見の方の件から道三と和解したと言う事かもしれません。

前出の『美濃國諸舊記』に、、、

 

扨又大謀を施さんには、先ず然るべき名家を求めて、縁を結ばんと工夫し、今秀龍、深芳野といへる妾ありぬれど、本室なし。

然るに當國可児郡明智の城主明智駿河守光繼の長女、容顔美にして、而も詩歌の道に賢く、利發貞烈の娘なりければ、新九郎、則屋形頼藝に訴へ、縁談の事を願ふ。

頼藝許容ありて、頓て明智駿河守に命ぜられ、自ら媒となりて、婚姻をさせらるゝ。

光繼も、太守の命なれば、早速承知して、光繼・秀龍、聟舅の契約して、天文元辰年二月朔日、稻葉山へ入輿し、小見の方といへり。

 

(引用:『美濃國諸舊記 巻之二 土岐頼藝松波庄五郎を取立つる事の条 40~41頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

 

大意は、”道三が大きな謀(はかりごと)をを成そうとするには、まず美濃のそれなりの名家と縁を結ぼうと一計を案じた。道三は、主君土岐頼藝より拝領した深芳野と言う側室はいたが正室はいなかった。

そこで、可児郡の明智城城主明智光繼の長女が、才色兼備の誉れ高く、この娘に目をつけた道三は、守護の土岐頼藝に縁談のことを頼んだ。

頼藝は、許可しすぐに明智光繼に婚礼を命じ、自ら媒酌の労を取った。

明智光繼も美濃国太守の命令なので承知し、光繼と道三は婚礼を取り決め、天文元年(1532年)2月1日に稲葉山に輿入りし、小見の方と称した。”位の意味です。

とあり、やはり守護となった土岐頼藝の命令をもって、天文元年(1532年)から明智一族は斎藤道三の姻戚になったことが判明します。

おそらくこれは道三が、頼武派の切り崩しに名族の明智氏との姻戚関係を強引に作って、自派へ取り込んだとも言えそうです。

 

実際の「国盗り物語」は、通説のように”斎藤道三が一代で成し遂げた”のではなくて、父長井新左衛門と道三の二世代に亘る合作だった!ホント?

通説では、、、

斎藤道三といふ者あり。其由緒を尋ぬるに、元來其先祖、禁裏北面の武士なり。・・・(中略)・・・。

松波左近将監基宗、其子道三なり。松波、代々上北面の侍なりしが、基宗が代に至り、故ありて、山城國乙訓郡西の岡に居住す。道三は、永正元甲子年五月生。童名峯丸といふ。・・・(中略)・・・。

峯丸十一歳の春出家させ、京都妙覺寺の日善上人の弟子となし、法蓮坊と號す。・・・(中略)・・・。又此日善上人の同じ弟子に、南陽坊といふあり。・・・(中略)・・・。

扨此南陽坊といふは、美濃國土岐氏の幕下長井豊後守藤原利隆が舎弟にてありける・・・(中略)・・・。

扨又法蓮坊は、常々南陽坊を引廻す程の者なれば、專ら無雙の名僧なりしが、或る時如何なる心が付きけん、三衣を脱ぎて還俗し、西の岡に歸りて居住し、奈良屋又兵衛といふ者の娘を娶りて妻となし、彼の家名を変えて、山崎屋庄五郎と名乗りて燈油を商内す。・・・(中略)・・・。

大永の頃より、毎年美濃國に來り、油を賈りけるが、彼の厚見郡今泉の常在寺の住職日運上人は、幼少の砌の朋友、其知邊あるに依りて、數日常在寺に來り、様々の物語などして、當國の容體を窺へり、・・・(後略)。

(引用:『美濃國諸舊記 巻之一 土岐氏零落斎藤道三の事の条 26~32頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”斎藤道三と言う者がいた。その先祖を調べてみると、京都御所の上北面の武士であった。

松波基宗と言う者の子が道三である。松波家は、代々上北面の侍(御所の警固の武士)であったが、基宗の代に、山城の西岡に居住した。道三は、幼名「峯丸(みねまる)」と言った。

峯丸は11歳の時に出家し、京都妙覚寺の日善上人の弟子となり、法蓮坊と称した。又同じ日善上人の弟子に南洋坊と言う者がいた。この南陽坊は、美濃国土岐氏の重臣長井利隆の弟だった。

法蓮坊は、いつも秀才南陽坊を連れ歩くほどの者で、名僧を目指していたのだが、何を思ったのかある時還俗し、山城国の西岡へ帰り、奈良屋の娘を娶り入り聟し、屋号を変えて、山崎屋庄五郎と称して燈油の商売を始めた。

大永年間に入ると、庄五郎は毎年美濃へ行き油を売って回ったが、かつての朋輩南陽坊が住職の常在寺を根城に、情報収集にあたり、美濃国の政治情勢を探った。”位の意味です。

とあり、このあと、僧侶時代の朋輩である南陽坊の伝手で美濃の重臣長井家へ入り込み、世間に良く知られた斎藤道三の出世物語『国盗り物語』が始まる訳です。このストーリーの元となったのが、この『美濃國諸舊記(みのこくしょきゅうき)』などの江戸時代に書かれた軍記物でした。

このように、「美濃のまむし斎藤道三」は、彼一代でのし上がって行ったとされていました。

 

ところが、、、

彼斎治身上之儀、祖父新左衛門尉者、京都妙覺寺法花坊主落にて、西村与申、長井弥二郎所へ罷出、濃州錯亂之砌、心はしをも仕候て、次第ニひいて候て、長井同名ニなり、又父左近太夫代ニ成惣領を討殺、諸職を奪取、彼者斎藤同名ニ成あかり、・・・(後略)・・。

(引用:『岐阜県史 史料編 古代・中世四  894頁 六角承禎條書「春日文書」』1973年 岐阜県)

 

大意は、”斎藤義龍の経歴の事ですが、祖父の長井新左衛門尉は、京都妙覚寺の僧侶から還俗し、西村と云った。美濃動乱の時に粉骨砕身で働き、次第に頭角を現し、長井氏の一族となった。そして、父斎藤道三代に、長井氏の惣領を暗殺し、地位を奪い取り、斎藤の一族に成り上がった。”位の意味です。

この当時史料である、江州観音寺城の著名な戦国大名である六角承禎(ろっかく しょうてい)の衝撃的な文書により、僧侶から長井家へ取入って成り上がったのは、斎藤道三の父新左衛門尉であることが判明し、斎藤道三の「国盗り」は、父子二代によって行われたことが分かりました。

これにより、通説の話(斎藤道三の一代での出世譚)は、江戸時代の作り話か何かの間違いであった可能性が高くなり、斎藤道三の『国盗り物語』は、道三と父長井新左衛門尉の二人で成し遂げたようです。

 

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織田信長の室「帰蝶」は、道三と和解して大桑城へ帰還した美濃国守護土岐頼純へ嫁した道三の娘と同一人物なの?

戦国史において、織田信長斎藤道三濃姫(帰蝶)に較べて、土岐頼純(とき よりずみ)の知名度はとても低く、タイトルの話にしても関係性が不明でよく見えないかも知れないので、改めて想定出来る範囲内で見てみますと。。。

美濃國守護の土岐政房(とき まさふさ)が、永正16年(1519年)6月16日に死去し、後継者は嫡男の土岐頼武(とき よりたけ)が襲いました

禁制    巨景山永保寺

一、甲乙人等濫妨狼藉事

一、伐採山林竹木事

一、俗人借宿事

一、百姓等年貢等無沙汰事

一、爲領主臨時課役無謂之儀申懸事

右條々、堅停止畢、若有違反之輩者、速可處嚴科之者也、仍下知如件、

大永二年正月十九日 賴武(花押)

(引用:『岐阜縣史 史料編 古代・中世一 多治見市 10賴武禁制』1969年 岐阜県)

大意は、”   禁制(禁令)     巨景山永保寺

一、すべての者の乱暴狼藉の事

一、山林・竹木の伐採の事

一、僧侶以外の一般人が宿泊する事

一、百姓等が年貢を出さない事

一、領主がいわれなき臨時の賦役を課す事

右の事柄、固く禁じる。もし違反する者があれば、速やかに処罰する。 このように命じるものとする。

大永2年(1522年)1月19日  土岐頼武(花押)      ”位の意味です。

 

と言うように、これは正式な『禁制(きんぜい)』です。従来、永正16年(1519年)の守護土岐政房死後すぐに、斎藤道三等の力で次男の土岐頼藝(とき よりのり)が守護になったのではないかと思われていたのですが、このように政房のあとは、父の政房に替わって嫡男の頼武が守護職に就任していたことが確認出来ます

戦国濃尾史研究家横山住雄氏の研究によれば、父土岐政房の死後に守護となった土岐頼武の政権は、永正16年(1519年)より大永5年(1525年)までの6年間は続いたと考えられています。

美濃国守護土岐家のこの後継者争いは、最初から複雑な様相を呈し、そもそも二男頼藝(よりのり)に継がせたい父政房(まさふさ)と、相続を主張する長男頼武の争いに家臣も巻き込んで両派に分かれた騒動となり、永正15年(1518年)8月に頼武派は争いに敗れて、頼武は舅の越前朝倉氏の下へ一時避難していましたが、永正16年(1519年)6月16日の父土岐政房死去により、朝倉勢の支援を得て美濃へ帰国し守護に就任すると言う経緯をたどります。

しかし、土岐頼武は美濃に帰国したものの、支配地域は美濃の北半分に限られ、南半分は父土岐政房の支援を受けていた次男頼藝の支配地となっていると言う不安定な状況でした。

重臣である斎藤道三の父長井新左衛門尉(ながい しんざえもんのじょう)が、当初守護土岐政房の嫡男土岐頼武の方を支えていた事は分かっていますが、息子の斎藤道三はと言うと、後にこの次男土岐頼藝支持に回り、跡目争いの混乱に乗じてのし上がって行くきっかけをつかんで行きます

そんな中、大永5年(1525年)6月頃に重臣長井長弘(ながい ながひろ)が守護の土岐頼武を見限って、次男の土岐頼藝を担いでクーデターを起し、その巻き返しを狙って攻勢に出た守護の土岐頼武が、8月2日になって戦死してしまうなどして、美濃の政局は頼武派の守護代斎藤一族から、頼藝に乗り換えた長井一族へと交替することとなり、この跡目争いの主役であった次男の土岐頼藝は、やっと守護の地位を確かなものとしたようです。

八日。・・・。みのヽとき御代はしめの御れいに御むま千疋。御たち二百疋。しん上する。・・・

(引用:塙保己一/補・太田藤四郎編『屬群書類従 補遺3 お湯殿の上の日記3 大永七年四月八日の条』2013年OD版 八木書店)

大意は、”(大永7年4月)8日、・・・。美濃の土岐(頼藝)氏は、新政権の始めに当たって、京都の朝廷へ御馬(千疋相当)と御太刀(二百疋相当)を進上した。”位の意味です。

とあり、土岐頼藝(とき よりのり)と思われる人物が大永7年(1527年)4月、新守護就任の御礼・挨拶として、禁裏に馬(千疋相当)と太刀(二百疋相当)を寄進して、土岐頼藝が美濃の国主になった報告・御礼を朝廷に行った事が確認出来ます。

その後クーデターの主役と思われる長井長弘と、道三の父長井新左衛門尉が、なんと天文2年(1533年)になって相次いで死去し、その後道三に美濃の権力を掌握出来るチャンスが転がり込んでいることから、案外、この『長井氏のクーデター』の本当の黒幕・企画者は斎藤道三だったのかもしれません。

因みに父長井新左衛門尉は、天文2年(1533年)4月1日に亡くなったものと見られ、道三の初見文書が天文2年(1533年)6月に出ている事が確認出来る事から、一応父からの地位継承は平穏に行われたと考えられます。

こうして斎藤道三は、担ぎ上げた土岐頼藝を守護にすることに成功しますが、その権力奪取の強引な手法に国内は反道三派が満ち溢れ、安定政権にはほど遠い状況で、最大の危機は、天文13年(1544年)に訪れました。

と言うのは、天文12年(1543年)に、道三は兵を起し、依然美濃で影響力を残す前守護土岐頼武の遺児である土岐頼純(とき よりずみ)を、拠点としていた大桑城(おおがじょう)より追放しているようです。

天文十二大桑亂後、集六萬戰死骨埋之也、

(引用:『岐阜県史 史料編 古代・中世二 「別本仁岫語録 打一偈以薦戰亡諸靈の条」 259頁上段』1972年 岐阜県)

 

大意は、”天文12年(1543年)の大桑の大乱において、6万の戦死者の骨を集めて埋葬した。”位の意味です。

これにより、天文12年(1543年)に土岐頼藝(とき よりのり)と斎藤道三が、大桑城(おおがじょう)に土岐頼武の遺児頼純(よりずみ)を攻めた戦闘の存在が確認出来そうです。この後、土岐頼純は尾張の織田信秀を頼って行きます。

しかし道三にしてやられたままで黙ってはいない土岐頼純は、翌天文13年(1544年)9月22日に、尾張織田信秀と越前朝倉義景の応援を得て、美濃の南北より同時に攻め入りました

この時の戦いは、、、

 

去て備後殿は国中憑み勢をなされ、一ヶ月は美濃国へ御働き、又翌月は三川の国へ御出勢。或時九月三日、尾張国中の人数を御憑なされ美濃国へ御乱入。在々所々放火候て、九月廿二日、斎藤山城道三居城稲葉山山下村々推詰焼払ひ、町口まで取寄、既に晩日申刻に及び御人数引退かれ、諸手半分ばかり引取り候所へ、山城道三どっと南へ向て切りかゝり、相支候といへども、多人数くづれ立の間守備事叶はず、・・・(中略)・・・歴々五千ばかり討死なり。

(引用:奥野高広/岩沢愿彦校注『太田牛一 信長公記 首巻 (四)』1970年 角川文庫)

 

大意は、”織田信秀は、尾張国中に出兵の要請をして軍勢を集め、一ヶ月は美濃へ攻撃を仕掛け、又翌月は三河へ出陣するという具合で、天文13年(1544年)9月3日には、尾張国中に総動員を掛け美濃へ乱入し、あちらこちらへ放火して回った。9月22日には、斎藤道三の居城稲葉山の山下の村々を焼き払い、城下町まで攻め込んだが、夕刻となり半ば引き揚げ始めたところへ、道三の軍が城より撃ち出て攻めかかり、織田軍は支え切れずに総崩れとなり、・・・(中略)・・・、5千名も討死する大敗となった。”位の意味です。

この時、朝倉軍は近江からの六角氏援軍を遮断する任務についていた為、織田軍のみで稲葉山城へ攻めかかり、防戦一方のふりをしていた道三の計略に引っかかって大敗してしまいました。

頼みの織田信秀が道三にしてやられた爲、土岐頼純はこの時の攻勢を諦めて、朝倉軍とともに越前へ引き揚げて行ったようです。

そして2年後、、、

其後尾張ノ武衛殿幷京公方様ヨリ御アツカイノ使有リテ。斎藤ト土岐殿和談有リテ土岐殿大桑へ御歸座有リ。・・・(中略)・・・。頼藝ハ隠居アリ。子息次郎殿屋形ニナヲリ給ヒケリ。次郎殿ハ則道三聟ニ取リ奉ル。

(引用:『群書類従・第二十一輯合戦部』所収「江濃記」六十五頁 1960年 続群書類従完成會)

 

大意は、”その後(天文15年)、尾張守護斯波氏と京都の将軍の斡旋があって、斎藤道三と土岐頼純の和睦が成立し、土岐頼純は大桑城へ帰城した。・・・(中略)・・・。土岐頼藝は隠居して、頼純が当主に復帰した。頼純は、斎藤道三の娘を娶り聟となった。”位の意味です。

この和睦は、織田信秀と越前の朝倉孝景が京都に働きかけ、近江の六角定頼の同意の下、成立したものであったのは当然の事と考えられます。

しかし、、、

 

又父左近太夫代ニ成 惣領を討殺、諸職を奪取、彼者斎藤同名ニ成あかり、剰次郎殿を聟仁取、彼早世候而後、・・・・

(引用:『岐阜県史 史料編 古代・中世四  894~895頁 六角承禎條書「春日文書」』1973年 岐阜県)

大意は、”又、父の斎藤道三の代になると、長井家の惣領を暗殺し、その立場を奪った。その後斎藤家の同名衆へも成り上がり、尚且つ土岐頼純を聟にした。その聟が早世した後は・・・”位の意味です。

とあり、また、前出の『江濃記』の続きには、土岐二郎(この場合は頼純)を騙し討ちにして討取ったとあり、「主ヲウチ ムコヲコロスハ 美濃尾張 昔ハ長田 今ハ道三」と道三の屋敷の前に落首が書かれていたと伝えています

山県郡高富町大桑の瑞応山南泉寺に、土岐頼純の在銘五輪塔があり、そこに「天文十六年十一月十七日」の命日が記されていると云います。

つまり、落首によって土岐頼純はわずか1年後に、斎藤道三によって暗殺されたことが暗示され、長井家のことと云い、のし上がるためには容赦なく邪魔者を消してゆくと言う道三のやり口が示されているようです。

土岐頼純の死により、嫁いでいた道三の娘(当時15~16歳)は、道三の下へ戻ったと考えられます。

そして、その道三の娘(帰蝶)の事ですが、、、

 

光繼・秀龍、聟舅の契約して、天文元辰年二月朔日、稻葉山に入與し、小見の方といへり。・・・(中略)・・・。然るに小見の方は、秀龍に嫁して、其後天文四乙未年、女子出産す。其後天文十八年二月廿四日、尾州古渡の城主織田上總介信長に嫁す。

(引用:『美濃國諸舊記 巻之二 土岐頼藝松波庄五郎を取立つる事の条 41頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”明智光繼と斎藤道三は婚姻の取決めをし、天文元年(1532年)2月1日、明智の姫は稲葉山城へ輿入りし、「小見の方」と称した。・・・(中略)・・・。そして、「小見の方」は道三の正室となり、天文4年(1536年)女子を出産した。その後その女子は、天文18年(1549年)2月24日に尾張古渡城城主織田信長へ輿入りした。”位の意味です。

とあり、後半の斎藤道三の娘である濃姫(帰蝶)が織田信長の正室になったのは有名な話ですが、問題は前半の時間を費やして説明した・歴史上一般的には無名の土岐頼純に嫁いだ斎藤道三の娘と同一人物かどうかです。

前出の戦国期濃尾史の研究家横山住雄氏の研究によれば、斎藤道三の娘は実は3人いたと思われ、、、

 

さて、『岐阜軍記』が載せる斎藤道三系図によれば、道三の娘は三人である。織田信長室・金森五郎八室・三木久庵室である。・・・(中略)・・・。

また『美濃国雑事記』の道三系図では、女子三人を、信長室・土岐七郎頼満室・土岐八郎頼香室とする。・・・(中略)・・・。

このように見てくると、道三が信長に嫁がせる娘としては、もと頼純の妻となっていて家に戻っている娘だったと見るほうが理解がし易い。・・・。

(引用:横山住雄『斎藤道三 第四章一、天文十五年の講和と二郎頼純の死 83頁』1994年 濃尾歴史研究所)

とありますが、一般には出典が確認しにくい文書史料で、文中でも決定打を欠く状況なので、やはり明確な確証は出ていないようですが、時系列の状況からは、小見の方の長女「帰蝶(後の織田信長室)」が頼純へ嫁がされた道三の娘だったとするのが妥当と考えられるようです。

 

明智光秀と織田信長の正室で、斎藤道三の娘である「帰蝶」は、親戚か?

これに関しては、、、

 

・・・、然るに小見の方は、秀龍に嫁して、其後天文四乙未年、女子出産す。其後天文十八年二月廿四日、尾州古渡の城主織田上總介信長に嫁す。歸蝶の方といふ。又、鷺山殿ともいふ。明智光秀従弟なる故に、其餘情ある所なり。・・・

(引用:『美濃國諸舊記 巻之二 土岐頼藝松波庄五郎を取立つる事の条 41~42頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”そうして「小見の方」は、斎藤道三に輿入れし、天文4年(1535年)に女子を出産した。その女子は、天文18年(1549年)2月24日に尾張古渡城主の織田信長に輿入れした。「帰蝶(きちょう)の方」と称す、又「鷺山殿」とも言う。明智光秀は従兄妹となり、関係の深い所である。”位の意味です。

と、この『美濃國諸舊記(みのこくしょきゅうき)』では、帰蝶と明智光秀は、従兄妹関係であると述べており、これが通説となっているようです。

史実としては、そもそも明智光秀自身の出自が確定しておらず、小見の方と帰蝶は明智の宗家筋ではないかと思われますが、光秀は本当は明智の遠い分家筋の出身とも言われていますので、現況としてはなんとも言えないところです。

であれば、帰蝶と光秀は従兄妹関係と言う事で良いではないかとなりそうですが、これが後に、織田家内での明智光秀の脅威の出世とも関連付けられて来るので、ある程度は知りたいところですね。

明智光秀の出自に関しては、以下の別記事も参考にして頂ければと思います。

別記事

 

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まとめ

天下人織田信長を暗殺した『本能寺の変』で歴史上の有名人となった明智光秀ですが、実は歴史上に名前が出始めるのは、永禄11年(1568年)9月に織田信長が足利義昭を奉戴しての上洛戦以降のことになります。

それ以前の明智光秀に関しては、”織田信長に仕える前は、越前で朝倉家に仕官していたらしい、それ以前は美濃で斎藤道三に仕えていたが、道三が息子の斎藤義龍の裏切りに遭い、その折道三に仕えていた明智家は、明智城で義龍に攻め亡ぼされてしまった。明智光秀は命からがら明智城を逃れ、諸国放浪しながら、越前の朝倉家に仕官した。”と言うような通説が出来上がっているようです。

そこで、今回は”斎藤道三に仕えていた”と言われる時期に焦点を絞って、斎藤道三と明智光秀の関わり合いを探ってみました。

時間的には前後しますが、最初に斎藤道三が息子に殺された弘治2年(1556年)4月20日の『長良川合戦』で、義龍側に参戦した武将の中に明智光秀がいることから、家族が敵味方分かれて一族の延命を図る当時の武家の習いに従ったものかと考えられます。

しかし、合戦が終わって4ヶ月以上経過してから、斎藤義龍は明智城の攻撃命令を出しており、言われているように、義龍の再三の出仕命令に逆らって、明智一族が明智城に立て籠もってしまったのが攻められた原因なのだと考えられます。

私見ですが、合戦後義龍は、道三誅伐の大義名分に”土岐頼藝の息子である事”を標榜していたにもかかわらず、義龍の御父上であるはずの、近江へ避難している土岐頼藝を呼び戻そうともしなかったことが、『義』を大事にする明智氏の癇に障ったのではないでしょうか。

そこで、明智氏は斎藤道三の家来だったのかと言う点ですが、成り上がり者の後斎藤氏(ごさいとううじ)となる斎藤道三一族は、土岐氏譜代の明智氏辺りとは、そもそも格が違うと言えそうです。

と言うことで、やはり、守護となった土岐頼藝の命により、道三と姻戚関係を結ばされた天文元年(1532年)以降から、道三の後斎藤家との臣従関係が始まったと考えて良いのではないでしょうか。

斎藤道三の『国盗り物語』一代記は、昭和48年に見出された所謂『春日文書』によって、父長井新左衛門尉と斎藤道三の父子二代に亘る物語であったことが判明しています。しかし、地元の『国盗り物語』ブームを配慮してか、未だにテレビ・映画などは”斎藤道三一代記”を継続しているようです。

織田信長の正室の「濃姫(帰蝶)」が初婚ではなかった話は、最初の結婚相手が守護の土岐頼純(とき よりずみ)であったことの説明が長くなりましたが、反面”まむしの道三”の面目躍如と言ったところになりました。

美濃の動乱は、守護の跡目争いに端を発して、守護代の斎藤家の凋落に、斎藤家の家人であった長井氏が力をつけ、そのタイミングで道三の父、長井新左衛門尉が大活躍をして美濃の政界で重きを成して行き、その後息子の道三が力づくで邪魔者を消して行ったと言う流れだったようです。

その歴史の激流の中に消えてしまっていたのが、守護土岐政房の嫡男頼武と頼純父子です。この消えた部分に、大きく長井新左衛門尉・斎藤道三父子が関係しているところとなり、これを見ることにより、明智光秀の前半生も少し見えて来るのではないでしょうか。

明智光秀と織田信長正室「帰蝶」が本当に親戚かどうかは、ひとえに光秀の前半生の解明に掛かっていると言えそうです。

 

参考文献

〇『美濃諸舊記 巻之二』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇吉田蒼生雄全訳『武功夜話 巻一』(1995年 新人物往来社)

〇小和田哲男『明智光秀・秀満』(2019年 ミネルヴァ書房)

〇『美濃國諸舊記 巻之一』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇『岐阜県史 史料編 古代・中世四』(1973年 岐阜県)

〇横山住雄『美濃の土岐・斎藤氏(改訂版)』(1997年 濃尾歴史研究所)

〇横山住雄『斎藤道三』(1994年 濃尾歴史研究所)

〇横山住雄『忠誠武士選書29 斎藤道三と義龍・龍興』(2015年 戎光祥出版)

〇松田亮『斎藤道三文書の研究』(1974年 岐阜文芸社)

〇『岐阜市史 通史編 原始・古代・中世』(1980年 岐阜市)

〇『新潟県史 資料編3 中世一』(1982年 新潟県)

〇『岐阜県史 史料編 古代・中世二』(1972年 岐阜県)

〇奥野高広/岩沢愿彦校注『信長公記』(1970年 角川文庫)

〇『群書類従・第二十一輯 合戦部』所収「江濃記」(1960年 続群書類従完成會)

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