明智光秀の最後は、小栗栖辺りで落ち武者狩りに討ち取られた?

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山崎の戦い』で、まちがいなく明智光秀豊臣秀吉に敗戦したことが確認出来ます。

山崎の戦い』後、明智光秀はどこで殺害されたのかが分かります。

本能寺の変』で織田信長の首が手に入らなかった明智光秀の、自分の首はどうなったのか分かります。

山崎の戦い』の後、明智光秀の家族はどうなったのか分かります。

 

明智光秀は『山崎の戦い』で敗戦!実際はどうなの?

明智光秀が『山崎の戦い』で、豊臣秀吉に敗戦した事は周知の事実ですが、古い記録は『山崎の戦い』の敗戦の事をどう伝えているでしょうか。見てみましょう!

 

公式文書の『公卿補任』での天正10年の該当記事は、、、

 

六月二日辰刻前右大臣於本能寺有事。後刻三位中將於親王御亭(二條)討死。家僕惟任日向守光秀叛逆也。兩所悉回祿。同十三日從南方。前右大臣息織田侍從信孝。同弟。次羽柴筑前守秀吉等出張。於山崎合戦。頃刻光秀敗北。・・・

(引用:『公卿補任(正親町 天正九ー同十) 671頁下段』国立国会図書館デジタルコレクション)

とあり、、、

大意は、”天正10年(1582年)6月2日午前8時頃 京都本能寺に於いて前右大臣の織田信長が災禍に遭った。子息の信忠も二条御所で討死。これは織田家家臣の明智光秀の謀叛である。本能寺・二条御所とも全焼した。6月13日に京都の南方から、信長の子息織田信孝とその弟、そして豊臣秀吉等が出陣して来た。山崎に於いて合戦し、光秀が敗れた。・・・”位の意味です。

朝廷の公式文書である『公卿補任(くぎょうぶにん)』には、このように『本能寺の変』の発生が伝えられ、内容が簡潔に記述されています。ここに天正10年6月13日の『山崎の戦い』での明智光秀の敗北がはっきりと明記されています。

 

明智光秀と関係の深かった吉田兼見卿の『兼見卿記』では、、、

十三日、己亥、雨降、申刻至山崎表鐡放之音數刻不止、及一戰歟、果而自五條口落武者數輩敗北之体也、白川一条寺邊へ落行躰也、自路次一揆出合、或者討捕、或者剥取云々、自京都知來、於山崎表及合戰、日向守敗軍、討死等數輩不知數云々、天罰眼前之由流布了、・・・

(引用:金子拓・遠藤珠紀校訂『史料簒集 新訂増補 兼見卿記第二 天正十年六月十三日の条』2014年 八木書店)

とあり、、、

大意は、”天正10年(1582年)6月13日、雨天、午後4時頃に山崎で鉄炮の音が鳴りやまず、戦いとなったのだろうか。思った通り、五条口から落武者が敗残兵の様子で、白川の一条寺辺りへ逃げて行くようである。途中で落ち武者狩りの者に遭遇し、討ち取られたり、身ぐるみ剥がされたりしているとか。京都から伝わって来ているが、山崎で合戦となり、明智光秀が敗北し、討死する者数知れずと言う。主殺しの天罰だと噂が流れている。”位の意味です。

本来、『兼見卿記(かねみきょうき)』では、明智光秀と親しい仲間内である吉田兼見卿は、記載にあるような”天罰”などと言うことは思ってもいないでしょうし、まして自主的に書かないはずですが、勝者の秀吉側からの『本能寺の変(織田信長暗殺)』の下手人探しの追及を逃れるため、わざわざこのような記述をしているものと考えられます。

 

山科言経卿の『言経卿記』では、、、

十三日、

一、惟任日向守於山崎ニテ合戦、卽時敗北、伊勢守巳來三十余人打死了、織田三七殿・羽柴筑前守巳下從南方上了、合戰也、二条屋敷日向守、放火了、・・・、

(引用:東京大学史料編纂所編纂『大日本古記録 言經卿記<一> 天正十年六月十三日の条』1959年 岩波書店)

とあり、大意は、”天正10年(1582年)6月13日、

一、明智光秀が山崎で合戦をし、すぐに敗れた。伊勢貞興以下30余人が討死した。織田信孝・豊臣秀吉等は京都の南方より上洛し、合戦となった。二条御所は明智軍が放火した。”位の意味です。

山科言経(やましな ときつね)卿は、危機に陥った朝廷の財政責任者を務め、晩年は織田信長との交渉役でもあった先代父山科言継(やましな ときつぐ)卿とは違い、信長との関係はあまり見出せない人物で、豊臣期に徳川家康との関係が深くなったようです。

その為かこの『言経卿記(ときつねきょうき)』の記事は、事件に対する当時の一般的な朝廷人の受け止め方で淡々と記載されているように感じられます。

 

勧修寺晴豊卿の『晴豊記』では、、、

十三日、雨降。早天ニ明智陣所はいくん。吉田まへ 其外にけのき申者、正躰もなき。京中さくらん 中々申はかりなし。禁中京中参候也。

(引用:勧修寺晴豊『天正十年夏記』 「立花京子『信長権力と朝廷 第二版』2004年 岩田書院」に所収)

大意は、”天正10年(1582年)6月13日、雨天、明智軍は敗北し、吉田辺り(今の京都大学周辺か)に逃げて来て、更に洛外へ逃れようとする者は落ち武者の態であり、洛中は錯乱状態である。今日は御所と洛中を廻るつもりだ。”位の意味です。

勧修寺晴豊(かじゅうじ はれとよ)は、武家伝奏を務め、織田信長や豊臣秀吉との交流も深く、織田信長と石山本願寺の講和を斡旋するなど活躍した人物です。この『本能寺の変』の大混乱の中、翌日6月14日には、正親町帝の勅使を務め、『山崎の戦い』で明智軍を破った織田信孝と豊臣秀吉に、天皇からの御太刀を拝領させる役目を果たし、『本能寺の変』の朝廷側の事態収拾役として活躍しています。

 

三河深溝城主松平家忠の『家忠日記』では、、、

十三日、己亥、 雨降、岡崎迄越候、

十四日、庚子、鳴海迄越候、

十五日、辛丑、雨降、旗本へ出候、明知ヲ京都にて、三七殿、筑前、五郎左、池田紀伊守うちとり候よし、

伊勢かんへより注進候、

(引用:竹内理三編『続史料大成19 家忠日記<一> 天正十年六月の条』1967年 臨川書店)

とあり、大意は、”

13日、雨天、岡崎迄移動した。

14日、   鳴海迄移動した。

15日、雨天、家康殿の本陣へ出仕したところ、「明智光秀を京都で、織田信孝・豊臣秀吉・丹羽長秀・池田恒興が討ち取ったと、伊勢の神戸氏より注進があった」との話があった。”位の意味です。

この『家忠日記(いえただにっき)』によると、決死の「伊賀越え」にて6月4日岡崎に帰着した徳川家康は、前述の記事のとおり15日には光秀軍敗退の情報を得ていましたが、17日には徳川軍を津島迄、更に西へ進めていたところ、6月19日になって、豊臣秀吉より「事は終息したので、家康殿は帰陣されたし」と釘を刺しに来て、織田家内のクーデター騒動への徳川氏介入をあくまでも拒んで来ています

 

あの伝説の軍師竹中半兵衛の嫡男重門(しげかど)が書き残した『豊鑑』では、、、

・・・。十三日未明に天神の馬場を立 山崎に向ふ。中川瀬兵衛、高山右近、秀吉に心ざしありければ、山崎の宿のはずれ寶寺を東に軍だてして、明知が陣に向ふ。秀吉の先陣多加はりけり。いまだ戰はざるに、秀吉のずさ加藤遠江 旗を進て山崎の宿の南 川のはたを直にこがなはてを上りに後へまはらんと進行ば、明知が勢うしろをつヽまれじと色めきみえしに、中川、高山兵を進て掛りければ、明知先勢戰とすれど叶はず、御牧三左衛門尉などその場に討れぬれば、我さきにと落行けり。或は丹波路、久我縄手おもひおもひに落ものを、追掛々々討取事數もしらざりけり。明知光秀軍破ぬるを見て、青龍寺の城へはせいりぬ。

(引用:『新校羣書類従 巻第三百七十九 豊鑑巻一 375頁 』国立国会図書館デジタルコレクション)

とあり、大意は、”天正10年(1582年)6月13日未明、豊臣秀吉は摂津の天神馬場を出発して山崎へ向かった。摂津の中川清秀と高山右近は、豊臣秀吉に同調しており、山崎宿の寶寺(たからじ)の東へ陣立てし、明智光秀の陣と向かい合った。秀吉の先陣には多数の軍が参陣している。豊臣秀吉の従者である加藤光泰が隊を山崎宿の南の川端を遡って明智軍の後ろへ廻り、中川・高山軍が正面から仕掛けて挟み撃ちにし、明智軍の先陣は動こうにも動けず、御牧三左衛門(みまき さんざえもん)はその場で討死し、明智全軍総崩れで我さきに、丹波路へ、久我縄手(くがなわて)の直線道を逃げ始め、追手に討ち取られた者数知れずとなる。明知光秀は戦いに敗れたのを見て、勝竜寺城へ逃げ込んだ。”位の意味です。

 

このように、『豊鑑(とよかがみ)』には山崎の合戦の詳細も記載されており、秀吉軍は集まった大軍にものを言わせて、明智軍の先陣を押し包んで殲滅させていたことが分かります。明らかな敗戦に光秀は、本陣背後の勝竜寺へ逃げ込んだようです。

 

小瀬甫庵の『太閤記(たいこうき)』では、、、

斎藤内蔵助が諫に任せ、今日之合戦を止、坂本に入て籠城し侍らば、事之外むづかしく有べし。又明智左馬助二千余騎を進退せし大將なるを、安土山に残し置し事、至愚の長ぜるなり。日比蓄へをきし勢を一手になし、心を一致に定め苦戰せば、かほどにもろくはまくまじきを、勢を方々へ分つかはせし事、以外の淺知也。光秀此比思ふ所の圖、萬違ひし事多かりしは、背天理し故なるべし。

(引用:小瀬甫庵/桑田忠親校訂『太閤記(上)山崎の合戦の条』1984年 岩波書店)

とあり、大意は、”家老斎藤利三の諫言を聞き入れて、今日の合戦を回避し、坂本城に戻って籠城する以外は、戦うのは困難であった。また、明智左馬之助と言う二千騎を指揮出来る名将を安土城に残したままにした事は、愚かな事である。日頃準備している兵力を一か所に集中させて戦えば、このようにもろく敗れることはなかったのに、兵力を分散させてしまった。やってはいけない事である。この頃、明智美秀の政策方針に間違っていることが多いのは、天理に反する事ばかりだからである。”位の意味です。

ここで、小瀬甫庵は明智光秀が敗戦に至った理由を述べ、どうもこの頃道理に反する事ばかりやるようになっていたようだと光秀を批判しています。

 

明智軍記(あけちぐんき)』では、、、

・・・。松田承り、其手ノ武者大将並河掃部助ニ相断り、弓・鉄炮三百挺、都合七百余騎ヲ卒シ、天王山へ挙上り、今一町計ニ成ケル処ニ、南方ヨリ堀尾茂助鉄炮者二、三十人召連、早ク峠ニ登リ、頻リニ鉄炮ヲ放懸ルニ、松田ガ軍勢少モ疼マズ攻上リ、敵ト刃ヲ打違ル程ニ成ケル時分、敢ナクモ太郎左衛門敵ノ鉄炮ニ中テ、忽チ死ニタレバ、・・・松田ガ兵崩乱テ、散々散々ニゾ落行ケル、・・・

・・・南方の敵ハ、明智ガ備へ裏崩レシケル様ニ見成シツゝ、総軍勢勇進ンデ明智ガ陣ニ攻懸ル。・・・・

・・・明智方ニハ松田討レシヨリ一陣破レテ、残党不全習ナレバ、悉ク乱ケルニ付、並河掃部助易家一足モ不引討死ス。・・・・

・・・上方勢終ニ討ち負シカバ、・・・一人モ不残討死ス。・・・

・・・。大将日向守ハ、猶是迄モ本陣牀机ノ上ニ坐シケルガ、・・・、先々勝竜寺ノ城ニ引入玉ヒ、・・・

(引用:二木謙一監修『OD版 明智軍記 城州山崎合戦事』2015年 角川学芸出版)

とあり、大意は、”

・・・。松田太郎左衛門政近(まつだ たろうざえもん まさちか)は、明智光秀の命令を受け、部隊の大将並河易家(なみかわ やすいえ)に許可を得て、弓鉄炮三百挺・七百騎を引き連れて天王山に登り始めた。頂上まで一町くらいのところで、南方より早く登っていた秀吉方堀尾茂助のニ三十人の鉄炮隊がしきりに撃ちかけて来たが、松田隊は怯まずに進軍し、刀の触れ合う距離に近づいた時、突然指揮官の松田太郎左衛門が討たれて死亡し・・・松田隊は大混乱となり、散り散りになって退却した。・・・

・・・秀吉軍は、明智軍の陣形が背後からの攻撃で崩れ始めたのを見て、総攻撃を懸けた。・・・

・・・明智軍は、天王山で松田太郎左衛門が討死して、第一陣が崩されて大混乱となり、並河易家も一歩も動けない内に討死した。・・・

・・・明智軍はとうとう全軍総崩れとなって打ち負かされ、・・・主だった武将が一人残らず討死していった。・・・

・・・大将の明智光秀は、それでも本陣の床几に座ったままであったが、・・・とうとう勝竜寺城へ退いて行った。・・・

”位の意味です。

どうも、天王山を重視する明智光秀は、重装備の700名の大編成の部隊を登らせて緒戦のイニシアティブを取ろうとしますが、その意図を見抜いた豊臣秀吉は身軽な小編成の鉄炮隊を駆け上がらせ、光秀軍より早く天王山頂上を確保して、登って来る光秀軍を壊滅させて緒戦を制し、戦いを有利に運んだと言っているようです。

これは事前に、秀吉軍が明智軍の2~3倍の戦力で上洛して来る情報を得ていた家老の斎藤利三が言った通りに、圧倒的な戦力差で戦う前から負けが決まっていたようなことだったようです。

斎藤利三の制止も聞かずに決戦に臨んだところを見ると、やはり明智光秀は豊臣秀吉の実力を甘く見ていた、と言われても仕方のないところでしょうか。

 

日本史学会の重鎮であった歴史家の高柳光壽氏によれば、、、

山崎合戦の勝敗は、戦前においてすでに決定していたと言える。かりに光秀・秀吉両軍の兵力が五対五の状態にあったとしても、一方は主殺しの不評の下にあり、一方は主の仇を報いるという正義の軍としての名がある。これが士気の上におよぼす影響は決して少なしとしない。しかも事実は七対三という兵力比であった。これは何人が判断しても光秀の敗軍としなくてはなるまい。

(引用:高柳光寿『戦国戦記 本能寺の変・山崎の戦』 16-4 山崎の戦い 189頁 1958年 春秋社)

とあるように、史料から見る限り『山崎の戦い』は、圧倒的な兵力差で明智光秀の敗北となっています


(画像引用:勝竜寺城ACphoto)

 

明智光秀はどこで最期を迎えたの?

通説では、、、

”天正10年(1582年)6月13日、豊臣秀吉との『山崎の戦い』に敗れた明智光秀は、勝竜寺城へ逃れた後夜陰に紛れて、勝竜寺城を抜け出し、安土城にいる明智秀満との合流を試みたが、途中伏見小栗栖で土民に襲われ一命を落した。”と言われています。

この”小栗栖(おぐるす)”と言う地名は、現在「明智藪」と言うところが存在する「京都市伏見区小栗栖小坂町」一帯を示すのでしょうか?

前章の記述の戦国史学者高柳光壽氏の著作『明智光秀』に、”光秀敗走路”と言うタイトルの地図が示されており、それによると勝竜寺城を夜陰に紛れて脱出した光秀一向は、勝竜寺北方から伸びる久我縄手の直線道路を突っ走って伏見の町の北側を大亀谷へ入り、大津方面を目指して山越えで小栗栖へ出たとされています。

前述の小栗栖の地図とほぼ一致するようです。

一部の歴史作家は、”小栗栖”と言う場所は存在しないと記述していたように記憶していますが、実際には”小栗栖”と言う地名は、現在でも京都市伏見区の広域に残っているようです。

この件に関して、前出の古記録ではどうなっているのでしょうか?

  1. 公卿補任』    ”同14日醍醐邊率籠。捜出斬首。本能寺ニ曝之。”
    「6月14日醍醐辺りに隠れていたところを見つけ出され斬首にされ、本能寺で梟首された。」
  2. 兼見卿記』    ”十四日、庚子、昨夜向州退散勝竜寺云々、未聞落所、”
    「6月14日、昨夜明智光秀は勝竜寺城を脱出したと言う。逃げた所は聞いていない。」
  3. 言経卿記』    ”十五日、惟任日向守醍醐邊ニ窂籠、則鄕人一揆ト乄打之、首本能寺へ上了、”
    「6月15日、明智光秀は醍醐辺りに潜伏していたが、一揆衆によって討取られ、首は本能寺へ届けられた。」
  4. 晴豊記』     ”十五日、・・・。明智くひ勧修寺在所にて百姓取候て出申候。”
    「6月15日、明智光秀の首は勧修寺家の在所(勧修寺家の領地は、当時は山城国の小栗栖付近にもあったとされているようです)で、土民に討たれて、首は本能寺へ届けられた」
  5. 家忠日記』    ”十五日、辛丑、雨降、旗本へ出候、明知ヲ京都にて、三七殿、筑前、五郎左、池田紀伊守うちとり候よし、伊勢かんへより注進候、”
    「6月15日、家康本陣へ出仕したところ、京都で明智光秀を、・・・が討取ったと、伊勢の神戸家から連絡があった。」
  6. 豊鑑』      ”伏見の北の方大龜谷に掛り。山中にて物具をばぬぎ捨。勸勧修寺を過小栗栖を通りしに。野伏どものこゑして。・・・里の中道の細きを出行に。垣ごしにつきける鎗。明知光秀が脇にあたりぬ。されどさらぬ躰にて掛通りて三町計ゆき里のはづれにて馬よりころび落けり。”
    「伏見の北方の大亀谷へ入り、山越えの山中で武具を脱ぎ捨て、勘修寺・小栗栖を通っていた時、野盗たちの声が聞こえた。里の中の細い道を抜けて行く時、生垣越しに槍が付き出され、明智光秀の腰へ辺りに槍が刺さったが堪えて通り抜けたが、3町ばかり言った町外れで、落馬した。」
  7. 太閤記』     ”・・・忍び出伏見へ落行、其より小栗栖へ出て行處を、藪の中より、・・・乘行騎兵を突たるに、惟任が右の脇をしたゝかに突入てけり。”
    「明智光秀は、勝竜寺城を抜け出して伏見へ落ちて行き、そこより小栗栖へ通っている時に、藪の中から馬上の兵を突き立て始め、明智光秀の右脇にしっかり突き刺さった。」
  8. 明智軍記』    ”十三日ノ亥刻ニ勝竜寺ヲ出、・・・、十四日丑ノ刻計、小栗栖ノ里ヲ歴ケル処ニ、郷人共蜂起シテ、落人通ニ物具端剥ト訇ル声シテ、鎗ヲ以テ竹垣ゴシニ無体ニ突タリケル。日向守ハ、馬上六騎目ニ通シ処ニ、薄運ニヤ有ケン。脇ノ下ヲゾ撞レケル。”
    「明智光秀は、6月13日午後10時頃に勝竜寺城を出て、14日午前2時頃に小栗栖の里を通過していたところ、土民が蜂起して、落武者狩が通るので武具を剥ぎ取れと怒鳴る声がし、通りの竹垣越しに槍を乱暴に突き立てていた。光秀は騎馬武者の6頭目で通過していたが、運の悪い事に、脇の下を突かれてしまった。」

前出の史料では、公式記録の『公卿補任』の記事では、”醍醐辺り”とあり、公家の日記類には、”醍醐”、”勧修寺”となっています。武家の記録ではほぼ”小栗栖”と記されていますが、地図上で見る限り、この伏見から京都を迂回して山科・大津へ抜けるこの街道沿いの地名となっています

街道を北上するにつれ、小栗栖→醍醐→山科のような感じで並んでいます。つまり、小栗栖でも勧修寺でも醍醐でもほぼ同じエリアと見て差し支えないと思われます。『小栗栖』は『晴豊記』に記載があるように、勧修寺晴豊卿の領地だったようです。

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明智光秀の首はどうなったの?

前出の『公卿補任』に、、、

”同14日醍醐邊率籠。捜出斬首。本能寺ニ曝之。”(6月14日醍醐辺りに隠れていたところを見つけ出され斬首にされ、本能寺で梟首された。)

とあり、公式文書には、本能寺で梟首されたとなっています。

前出の歴史学者高柳光壽氏によれば、、、

信孝・秀吉は、十五日三井寺に在陣中、光秀の首を獲たが、翌十六日、これを粟田口に曝し、その翌日十七日には光秀の老臣斎藤利三を六条河原に斬って、これも併せて梟首し、その武威を示した。

(引用:高柳光壽『戰國戰記 本能寺の變・山崎の戦』14近江・美濃の平定 167頁  1958年 春秋社)

また、大村由己『惟任謀反記』によれば、、、

・・・斎藤内蔵助いけどりまいり候。すなはち、帝都を車にひかせられ、明智日向が首をつがせ、両人一しょに、粟田口に、はりつけにかけをかせられ、・・・

(引用:「桑田忠親校注『太閤史料集』1965年 人物往来社」に所収 大村由己 「天正記」内『惟任謀反記』明智光秀滅亡の条)

大意は、”・・・斎藤利三は生け捕りされ、洛中を車に引かれて曝され、明智光秀の首と胴を縫い合わされて、斎藤利三も首と胴を繋いで二人一緒に粟田口に磔にされた。”位の意味です。

とあり、織田信長父子のように首を隠しおおせなかったようで、明智光秀の首はすぐに見つけられて豊臣秀吉の手中に入り、一旦は本能寺にあったようですが、どうやら首と胴体が縫い合わされて、六条河原で斬首された斎藤利三と二人とも一緒に京都粟田口(三条口)に、磔にされたようです。

 

『山崎の敗戦』後、明智一族はどうなったの?

前出の『太閤記』によれば、、、

左馬助は湖水と町との間を乘りぬけ、からき命のみ助て、坂本の城に入にけり。・・・。佐馬助は、光秀が子三人息女三人さし殺し、其後殿守に火をかけ、・・・

(引用:小瀬甫庵/桑田忠親校訂『太閤記(上)138頁』1984年 岩波文庫)

とあり、明智光秀の女婿である明智弥平次秀満が、坂本城にいた光秀の子供たちを殺して、城に火を懸け自害したと言う話のようです。

 

また、フロイスの『日本史』によれば、、、

安土を去った明智の武将は坂本城に立て籠ったが、そこには明智の婦女子や家族、親族がいた、・・・最高の塔に立て籠り、内部に入ったまま、彼らのすべての婦女子を殺害した後、塔に放火し、自分らは切腹した。その時、明智の二子が死んだが、非常に上品な子供たちで、ヨーロッパの王子を思わせるほどであったと言われ、長男は十三歳であった。

(引用:松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史3 織田信長篇Ⅲ 176頁』2014年 中公文庫)

とあり、豊臣秀吉の書状では、、、

坂本明智居城にてハ、明智子二人・明知弥平次腹を切、殿守焼崩死候事、

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集<一> 436高木彦左衛門尉宛書状』2015年 吉川弘文館)

大意は、”明智光秀の坂本城には、明智光秀の子供二人と明智秀満が自刃し、天守閣には火がかけられた。”位の意味です。

とあり、安土城から坂本城へ戻った明智秀満が、秀吉軍に包囲されて、光秀の子息ふたりを殺してから天守閣に放火し、自刃したと言っています。

また、『兼見卿記』によって、、、

十五日、・・・坂本之城、天主放火云々、高山次右衛門付火切腹云々、

(引用:金子拓・遠藤珠紀校訂『史料簒集 新訂増補 兼見卿記第二 天正10年6月15日の条 』2014年 八木書店)

大意は、”天正10年(1582年)6月15日、坂本城の天守閣が放火されたのは、高山次右衛門が天守に火を懸けた後自刃したのだと言う。”位の意味です。

これによって、天守に火を懸けたのは、明智秀満自身ではなくて、主人の自刃をみとった後に、近侍していた者が放火したようです。

近江坂本城は、城兵はほとんど逃亡してしまい、前述までのように領主一家が自刃して、天主に火が懸けられ、先に山崎の合戦で亡くなった者も含めて、明智家は滅亡したようです。

 

まとめ

本記事は誰でも知っている周知の事実とされている、天正10年(1582年)6月13日の『山崎の戦い』の結果と大将たる明智光秀の身柄がどうなったのかを、歴史書や読み物に書かれている根拠となった古記録での記述内容を調べてみました。

これで、聞いた話ばかりでなく、同時代に近い人たちが書き残した記録によって、明智光秀の最後がどうだったのかに関して、ある程度確認が出来たのではないかと思います。

やはり、明智光秀は、豊臣秀吉との戦いに敗戦して、本当に落命している可能性が高い(遺体が京都市内に曝された)のではないかと思われます。

それから余談ですが、明智光秀の正室煕子(ひろこ)がどうなっているのかが、有名な歴史家の本にも明確に記述されているものが少ないような気がします。

兼見卿記』の天正4年10月の条では、、、

十日、惟日女房衆所勞也、祈念之事申來、祓・守令持參見廻了、

廿四日、惟日女房衆所勞驗氣也、先日祈念祝着之由、

(引用:『史料簒集 兼見卿記<一> 天正4年10月の条』 1971年 続群書類従完成会)

大意は、”天正4年(1576年)10月10日、明智光秀の室が病気となり、御祈祷の申込があったので、御祓神具を持参し実施した。

10月24日、明智光秀の室の病は平癒に向かい、先日の祈念がうまく行ったとの事だ。”位の意味です。

ところが、明智光秀室の実家妻木氏の菩提寺西教寺の過去帳に、明智光秀室煕子が天正4年11月7日に死去した記録が残っています。

10月24日に病気回復し、11月7日に亡くなると言うことはないとは言えないものの、奇妙な話です。

それで、調べてみますと、、、

明智光秀の子供は、男3人女4人の7名と伝わっていて、上4人が女の子で、下3人男の子です。そして長女と末っ子三男の年齢差が21歳あることから、どうやら、通説とは違い明智光秀には、江戸期の側室に当る「妾(しょう)」が2名程度いたのではないかと思われ、天正10年6月15日に坂本城で、光秀義弟明智秀満に殺害されて死去したのは、正室煕子ではなくて妾だった可能性が高いようです。

最近の研究で、戦国期までの身分の高い武家の正室は、普通2~3人しか子供を生んでいない事が明らかになりつつあり、5人以上の子供がいる場合は、まず間違いなく「妾(しょう)」の存在を考えて良いようです。

まだまだ謎だらけの『明智光秀』ですが、今後、新史料発見があって『本能寺の変』の解明が進めば、明智光秀の謎もひとつひとつ明らかになって来るものと思われます。

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参考文献

〇東京大學史料編纂所『大日本史料 第十一編之一』(1967年 東京大學出版會)

〇『公卿補任(正親町 天正九ー同十)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991100/4

〇金子拓・遠藤珠紀校訂『史料簒集 新訂増補 兼見卿記第二』(2014年 八木書店)

〇東京大学史料編纂所編纂『大日本古記録 言經卿記<一>』(1959年 岩波書店)

〇勧修寺晴豊『天正十年夏記』 「立花京子『信長権力と朝廷 第二版』2004年 岩田書院」に所収

〇竹内理三編『続史料大成19 家忠日記<一>』(1967年 臨川書店)

〇『新校羣書類従 巻第三百七十九 豊鑑 巻一』(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879789/211?tocOpened=1

〇小瀬甫庵/桑田忠親校訂『太閤記(上)』(1984年 岩波文庫)

〇二木謙一監修『OD版 明智軍記』(2015年 角川学芸出版)

〇高柳光寿『戦国戦記 本能寺の変・山崎の戦』(1958年 春秋社)

〇桑田忠親校注『戦国史料叢書1 太閤史料集』(1965年 人物往来社)

〇高柳光寿『明智光秀』(2000年 吉川弘文館)

〇松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史3 織田信長篇Ⅲ』(2014年 中公文庫)

〇名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集<一>』(2015年 吉川弘文館)

〇斎木一馬・染谷光広校訂『史料簒集 兼見卿記<一>』 (1971年 続群書類従完成会)

 

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