『本能寺の変』で、明智光秀が捜した織田信長の遺体はどこへ?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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本能寺の変』で織田信長の遺体が見つからなかったのが事実かどうかわかります。

本能寺の変』で織田信長の遺体が見つからなかった理由がわかります。

明智光秀「天下取り」に失敗した理由がわかります。

本能寺の変』で何となく怪しい人物が誰なのかがわかります。

 

織田信長の遺体は見つからなかった!ホント?

天正10年(1582年)6月2日未明に、明智光秀が宿所の京都本能寺で襲った織田信長は、火を懸けられた本能寺と共に自刃して滅亡します。

第一級史料と言われる太田牛一(おおた ぎゅういち)の『信長公記(しんちょうこうき)』には、織田信長遭難時の様子を、、

・・・、信長初めには、御弓取り合ひ、二、三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の絃切れ、其の後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、是れまで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出よと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来なり候。御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ候か、殿中奥深く入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めされ、

(引用:太田牛一『信長公記 巻十五 信長公本能寺にて御腹めされ候事の条』国立国会図書館デジタルコレクション)

とあり、大意は、”・・・、織田信長は初め、弓を取って戦っていたが、弦が切れ、その後は槍で戦ったが肘に傷を受け、奥へ引き、側に仕えていた女性たちには、もういいから逃げなさいとおっしゃって御殿から脱出させ、御殿に火を懸けられた。首を取られてはいけないと思われたのか、奥深く入られ、戸を閉めて切腹された、”位の意味です。

一方、信長と別に二条御所で襲われた嫡男織田信忠に関しては、、、

三位中将信忠卿の御諚には、御腹めされ候て後、縁の板を引き放し給ひて、後には、此の中へ入れ、骸骨を隠すべきの旨、仰せられ、御介錯の事、鎌田新介に仰せつけられ、御一門、歴貼、宗従の家子郎党等、甍を並べて討死。算を乱したる有様を御覧じ、不便におぼしめさる。御殿も間近く焼け来たる。此の時、御腹めされ、鎌田新介、冥加なく御頸を打ち申す。御諚の如くに、御死骸を隠しおき、無常の煙となし申し、哀れなる風情、目も当てられず。

(引用:太田牛一『信長公記 巻十五 中将信忠卿、二条にて歴々御生害の事』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”信忠公のご命令は、自刃されて後、縁側の板を引き剥がして、その中に自分の遺骸を隠すようにと仰せられ、介錯は鎌田新介に命じられた。御一門他お歴々、家の子郎党は皆討死し、大混乱の有様をご覧になり、不憫に思われていた。御殿の火災も広がって、その時自刃され、鎌田新介はありがたいことに無事介錯に成功した。ご命令のとおり、遺骸を隠して置き、建物とともに焼崩れ、哀れな様子で目も当てられない。”位の意味です。

小瀬甫庵(おぜ ほあん)の『信長記(しんちょうき)』では、本能寺で襲われた織田信長に関して、、、

かくて奥深く引入り給へば、やがて御座所に火かゝり御殿一時の灰燼とぞ成りたりける。其の後御首を求めけれども更に見えざりければ、光秀深く怪しみ、最も其の恐れ甚だしく、士卒に命じて事の外尋ねさせけれども何とかならせ給ひけん、骸骨と思しきさへ見えざりつるとなり。

(引用:小瀬甫庵『信長記 下 惟任日向守謀叛の事の条』1981年 現代思潮新社)

 

大意は、”そして織田信長は宿所の奥へ入って行かれ、やがて火がつけられ、本能寺は灰燼に帰した。その後明智軍は織田信長の首を求めて探したが見つからず、光秀は不思議に思い、信長はもしかして生きているのではないかとひどく狼狽して兵に命じて探索させたが、見つからず骸骨さえも見当たらなかった。”位の意味です。

そして、同時代者の宣教師ルイス・フロイスの『日本史』では、本能寺における信長の事に関しては、、、

明智の軍勢は御殿の門に到着すると、真先に警備に当っていた守衛を殺した。内部では、このような叛逆を疑う気配はなく、御殿には宿泊していた若い武士たちと茶坊主と女たち以外には誰もいなかったので、兵士たちに抵抗する者はいなかった。そしてこの件で特別な任務を帯びた者が、兵士とともに内部に入り、ちょうど手と顔を洗い終え、手拭で身体をふいている信長を見つけたので、ただちにその背中に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍である長刀という武器を手にして出て来た。そしてしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自らの部屋に入り、戸を閉じ、そこで切腹したと言われ、また他の者は、彼はただちに御殿に放火し、生きながら焼死したと言った。だが火事が大きかったので、どのようにして彼が死んだかは判っていない。彼らが知っていることは、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄せしめていた人間が、毛髪といわず骨といわず灰燼に帰さざるものは一つもなくなり、彼のものとしては地上になんら残存しなかったことである。

(引用:ルイス・フロイス/松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史③ 織田信長篇Ⅲ 148頁』2014年 中公文庫)

以上のような記録が残っており、どうやら織田信長・嫡男信忠の父子も、自らの遺体を隠そうとした意図は持っていたようで、現場で明智軍が遺体を発見できなかったことは、事実ではないかと思われます。

 


(画像引用:京都阿弥陀寺ACphoto)

 

遺体が見つからなかった理由の諸説

信長は本能寺から脱出に成功していた?

当時の豊臣秀吉から、摂津の大名中川清秀宛ての書状に、、、

只今の殿迄打入候之処、御状披見申候、今日成次第、ぬま迄返申候、古左へも同前候、

自是可申与存刻、預示快然候、仍只今、京より罷下候者慥申候、上様幷殿様何も無御別儀、御きりぬけなされ候、ぜゝか埼へ御のきなされ候内ニ、福平左三度つきあい、無比類動にて、無何事之由、先以目出度存候、我等も成次第、帰城候条、猶追々可申承候、其元之儀、無御由断御才覚専一候、恐々謹言、

羽筑
六月五日               秀吉(花押)

中瀬兵

御返報

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集(一)424中川瀬兵衛宛書状 [梅林寺文書]』2015年 吉川弘文館)

大意、”今、備前の野殿(のどの)まで攻め込んでいるところです。書状拝見しました。今日の出来次第で、備前の沼(ぬま)まで戻るかもしれません。古田織部(ふるた おりべ)も同行しています。

気分が明るくなったので、これから申す事によいタイミングとなりました。つまり今、京から下って来た者が確かに言ったことですが、信長様と信忠様お二人とも、御無事に(謀反を)切り抜けられたようです。近江の膳所ヶ埼(ぜぜがさき)へ脱出されており、福富秀勝(ふくとみ ひでかつ)も同行し無類の活躍で、何事もなかったようで先ずはめでたいことです。私もここの処置が終わり次第帰城します。なお、追々お話しましょう。あなた様も御油断なく立ち回ってください。

(天正10年)6月5日          羽柴秀吉(花押)

中川瀬兵衛清秀
返書”位の意味です。

 

これは、”遺体がない”と言う事態を利用して、備中高松を引き払って『中国大返し』の途中で、姫路城から出状した豊臣秀吉の虚報(上記摂津の大名中川清秀宛ての豊臣秀吉の織田信長生存情報の書状)ですが、これらの書状からひょっとしたらと、信長の生存を信じる人もいたのではないかと思われます。当時の現場としてはあり得る判断のひとつなのかもしれません。

しかし、その後織田信長はこの世に現れておらず、このケースは全くあり得なかった訳です。これは完全に豊臣秀吉のフェークでした。

 

火災により遺体が焼け焦げていて、織田信長だと見分けがつかなかっただけの事だったのではないか?

常識的にこう思われる方は多数おられるのではないでしょうか。

調べてみますと、一般的に木造家屋の火災の場合は、5~10分で500℃まで上がり、1時間で945℃、2時間で1049℃くらいとなるようです。

因みに一般のご葬儀の後、故人のご遺体を焼く火葬場の炉の場合は、800℃~1200℃の間で運用され、時間はほぼ1時間くらいが目処のようです。

とすると、放火された火災の場合でも、意外に温度が上がるので、もし火力が一定時間持続して均等に焼かれれば、1時間以内くらいでも十分骨壺に収まるくらいの骨量になりそうです。

このように理屈の上では、信長の遺体が影も形もなくなっている可能性がないとは言えないようですが、現在新聞上に確認出来る焼死者の方の記事では、いつもご遺体の身元が確認されているようなので、実際の火災では温度変化が激しく火葬炉のように一定の温度が維持できないようで、影も形もなくなることはまずなさそうです。

とすると、前述の小瀬甫庵の『信長記』にある記述で、『・・・其の後御首を求めけれども更に見えざりければ、光秀深く怪しみ、最も其の恐れ甚だしく、士卒に命じて事の外尋ねさせけれども何とかならせ給ひけん、骸骨と思しきさへ見えざりつるとなり。』と言うのが正しいとすると、やはり織田信長の遺体は現場になかった可能性が出て来るのではないでしょうか。

つまり、小瀬甫庵の『信長記』にある記述によれば、光秀は現場で骨さえも見つけられずに、本能寺には見切りを付けて兵に命じて京都市内の探索へ出動させていることから、現場から生死不明ながらも信長の身体が、本能寺から持ち出されたと判断したようです。

・・・本應寺・二條御殿等放火、洛中・洛外驚騒畢、

悉打果、未刻大津通下向、予、粟田口邊令乘馬罷出、惟日對面、在所之儀萬端賴入之由申畢、

(引用:吉田兼見卿『史料簒集古記録編 「新訂増補 兼見卿記 第二」 天正十年六月二日の条』2014年 八木書店)

大意、”・・・本能寺・二条御所等に放火し、洛中・洛外は大騒ぎになっている。 明智光秀は、在京の織田方をことごとく討ち果たし、午後2時頃大津通を郊外へ向かって進んでいた。私(吉田兼見卿)は、馬を飛ばして粟田口(あわたぐち)辺りで明智光秀をつかまえ、簡単な打合せと私(自己)の領地安堵他を頼み込んだ。”位の意味です。

このように、午前9時過ぎくらいには、本能寺での信長の遺体の探索を諦め、続けて配下に指示して洛中・洛外の残党狩りと信長の遺体探索を行ったが、やはり埒が明かないので午後2時頃には、配下には引き続き京都市内の遺体探索の指示を出して、明智光秀自身は”信長の遺体の探索”を諦めて安土城の接収に向ったようで、途中粟田口辺りで、吉田兼見卿と出会っています。

どうやら、現場にはそれらしき物も発見できなかった様子で、遺体が焼けすぎていて見わけが付かなかったと言う感じではなくて、本当に信長公のご遺体は形跡すら見つからなかったようです

 

イエズス会が本能寺近隣にある教会から砲撃をして吹き飛とばしたか、高性能火薬を使って織田信長を爆殺した?

歴史作家の八切止夫氏がこの説を提唱され、この「イエズス会信長殺害説」を出されています。

天正七年七月にマカオから、日本へ来朝したアレッサンドロ・ヴァリニヤーノは、翌天正八年十月に、豊後府内の教会堂に於て、天主教の神父たちをあつめ、九州協議会をひらき、続いて安土の天主堂で、中央協議会。そして天正九年十二月には、長崎のトドス・サントス会堂で密儀がもたれた。そして、これを最後に正式の会合は姿を消し、翌天正十年の六月二日に、京都四条の三階建の天主堂から一町もない至近距離の本能寺で、いきなり突如として信長殺しは起きたのである。

もし当時の十字軍遠征用に考案されていた折畳み分解式のイサベラ砲を、この天主堂の三階へ運び上げていて、一階建の眼下の本能寺の客殿へ撃ち込むか、もし、それでは人目をひくものならば、その火薬を本能寺の境内へもちこんで導火させてしまえば、ドカンと一発、それは容易にかたのつくことである。

(引用:八切止夫『信長殺し、光秀ではない』52頁 2002年 作品社)

 

と、八切氏は『イエズス会犯行説』を示唆していますが、この説の底流になっているのは、『イエズス会日本征服説』だろうと思われます。

この『イエズス会日本征服説』は、当時、キリスト教と対立する仏教徒より出され国人領主たちに広がっていた懸念だったようで、、、

 

従来、日本の諸領主は、我等が日本でなんらかの悪事を企てているのではないか、もし自分達の国々をキリスト教化することを許せば、我等は後刻、我等を派遣している国王の為にキリスト教徒と共に叛起するのではないか、という強い疑念を抱いており、ヨーロッパの諸国王が何故にこれほどの費用を布教の為に支出するかを彼等に納得させることができない。

(引用:ヴァリニャーノ/松田毅一他訳『日本巡察記 「日本諸事要録 1583年」第九章』1982年 平凡社)

このように、当時のイエズス会巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノは来日後、現地日本の空気を十分理解していたようで、布教に当って日本の支配層を刺激しないように宣教師たちを指導するのに苦労していたようです。

彼等駐日宣教師たちの多数の報告書類には、当時のイエズス会が布教費用を捻出するために、ポルトガル王からの援助ではとても足らず、軍事物資(特に火薬)と中国絹の貿易を行なって、その利益を布教費用に充当していた実情が事細かに報告されています。

イエズス会が戦国期の日本での布教と自衛のために、西国の国人領主たちに武器弾薬等の軍事援助を与えていたことは事実のようですが、その対象の大半が九州の弱小領主だったこともあり、度々用をなさずイエズス会の戦争被害は増すばかりで、説にあるような力はなく、とても日本の政権を揺るがす規模の軍事援助を行っていた形跡はみられません。

掲題の「イエズス会信長殺害説」が成立する為には、天正年間にイエズス会が織田信長の天下取りに対して多額の軍事援助を与えていることが、前提(イエズス会の資金援助で信長は天下を獲ったと言う説があります)となると思いますが、今ある史料類からは、領土獲得目的での本国からの多額の資金供出の形跡は見つかりません

信長などは、武器弾薬類の入手に当り、堺の豪商ルートとイエズス会ーポルトガル商人ルートを持っていたと思われますが、主として豪商ルートが多かったと思われ、信長が軍資金面も含めて、イエズス会ーポルトガル(スペイン)の走狗(そうく)となっていた事実は全く無いと考えて良いようです。

そうなると、『イエズス会による信長爆殺説』は、当時の史料に”京都市中での大爆発音を聞いた記録”が全くないことも含めて、あり得ない説であると結論付けても良いのではないかと思われます。

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阿弥陀寺清玉上人が配下の僧侶たちと遺体を本能寺から阿弥陀寺へ搬出して葬った・・・と言う

これに関しては、京都阿弥陀寺(あみだじ)の由緒書きに、、、

明智日向守光秀か謀叛に依て、天正十年壬午六月二日拂曉、信長公御旅舘本能寺へ押寄せ合戦に及候事、早速淸玉上人聞つけ大に驚き給ひ、手前の坊主幷塔頭の僧徒二十人ばかり召連、とりあへす本能寺へ懸付申されしに、・・・本能寺の裏より垣をやふりて寺内へ漸く懸付られし所に、もはや本能寺へ火かヽり信長公切腹遊され候と聞て、力を落し片脇を見られけれハ、墓のうしろ藪の内にて十人餘り打より、そと葉體のもの折くべ火を燒あり、淸玉上人不思議と思ひ、其所へ立寄見給ひしに皆知れる武士方なり、是ハいかに扨信長公ハ如何かならせおわします、と問ひけれハ、もはや御切腹遊され御遺言にて御死骸を敵にとられな首を敵かたへ渡すなと仰置れ候、・・・御死骸を只今これにて御火葬に致し灰となして敵に隠し、・・・淸玉上人見給ひさてハ幸ひのことなり・・・火葬ハ出家の役なれハ爰をハ愚僧に御渡しあれ、・・・淸玉上人御火葬を受取、暫時に煙と成し奉り、さて御骨をとりあつめ衣ににつヽみ本能寺の僧衆の立退く風情して、阿彌陀寺へ歸られ御骨をまつふかく隠しをき、暫く日數もすぎて塔頭の僧徒ばかりにて、密に御葬禮執り行ひ葬り奉りて御墓を築き給ひし・・・

信長記ニ御首ヲ求メケレトモ更ニ見ヘサリケレハ、光秀深ク怪ミ士卒ニ命シテ事外尋サセケレトモ何トナラセ給ヒケン、骸骨ト思シキサヘ見ヘサリツルト有ルハ此謂也

(引用:近藤瓶城編『改定 史籍集覧 第二十五冊 新加別記第五十八 信長公阿彌陀寺由緒之記録』1991年 臨川書店)

大意は、”明智光秀が謀反を起し、天正10年(1582年)6月2日払暁に織田信長公が宿泊している京都本能寺を襲撃した。すぐに淸玉上人(せいぎょく しょうにん)は聞きつけ驚いて、弟子の坊主に加え、塔頭(たっちゅう)に宿泊している僧侶等20人ばかりを引き連れて、取り敢えず本能寺へ駆けつけた、・・・本能寺の裏より垣根を破って寺内へ入ったところ、すでに寺に火が懸けられ信長公も自刃されたと聞いて肩を落としたが、墓地の後の藪で10人ほどいて、卒塔婆のようなものを折って火を付けて焼いている。淸玉上人は不審に思い近づいたところ、皆見知った織田家家臣たちであった。これはどうしたことですか、信長公はいずれにおいでですかと問いただすと、すでに切腹されていて、御遺言で遺骸(首)を敵に取られるなと言われていますので、・・・ご遺体を今荼毘に付して灰にして敵方から隠そうと・・・、淸玉上人は、御覧になっていて幸運だと思い・・・火葬は出家の役目ですからこの場はお任せくださいと話した・・・淸玉上人は火葬を引き継がれ、暫くして終了され、信長公の御骨を集めて僧衣に包み込み、本能寺の僧侶に紛れて脱出し、阿弥陀寺へ帰って松林の奥深くに隠し、日数も過ぎてから寺の僧侶だけで、密葬を執り行い葬って墓所を作られました

小瀬甫庵の『信長記』に、「御首ヲ求メケレトモ更ニ見ヘサリケレハ、光秀深ク怪ミ士卒ニ命シテ事外尋サセケレトモ何トナラセ給ヒケン、骸骨ト思シキサヘ見ヘサリツル」とあるのは、この由緒書にあることです。”位の意味です。

また、後日談として、、、

惟任日向守逆心にて信長公生害の節、羽柴筑前守秀吉公西國御合戦の最中なりしに、注進にて早速御聞及、まつ西國の軍を御引取、御上京にて光秀を事なく打亡し、亡君の御欝憤を散し給ひ、天下の逆亂も大方靜り、秀吉天下の武將と成り給ひ、信長公御遺骨阿彌陀寺に葬候事 御存ゆへ當寺にて御法事御修行あるへき旨仰出され候・・・

(引用:近藤瓶城編『改定 史籍集覧 第二十五冊 新加別記第五十八 信長公阿彌陀寺由緒之記録』1991年 臨川書店)

大意は、”明智光秀の謀叛にて信長公が自刃した時、豊臣秀吉公は西国で合戦の最中でしたが、京よりの注進で「本能寺の変」を知り、すぐに兵を率いて上洛し光秀をなんなく打ち滅ぼして、亡き主君の仇討ちを果たし、その後天下の騒乱も静まり、豊臣秀吉は天下人になりました。秀吉公は信長公の御遺骨が阿彌陀寺に埋葬されていることをご存じなので、阿彌陀寺で信長公の葬儀をやりたいと仰せになりました。”位の意味です。

そして、公家の山科言経(やましな ときつね)卿の天正10年7月の日記には、、、

十一日、丁夘、天晴、

・・・・

一、・・・、次阿弥陁寺へ參了、今度打死衆前右府御墓已下拜之、哀憐之躰也、・・・

(引用:東京大学史料編纂所『大日本古記録 言經卿記<一> 天正十年七月十一日の条』1959年 岩波書店)

とあり、大意は、、、

”天正10年(1582年)7月11日、晴天、

・・・

一、・・・、次は、阿弥陀寺へ参詣した。この度の『本能寺の変』での戦死者と自刃した織田信長公の御墓を墓参し、悲しみに身を震わせる様子であった、・・・”位の意味です。

このように両古記録の情報を合わせてみると、明智光秀があれだけ捜して見つからなかった”織田信長の遺体”の埋葬場所を、なんと事変後わずか一か月後に”豊臣秀吉”は、織田信長の遺体の所在を承知しているかのように墓参に出掛けています。そしてその時かその後に、織田信長の葬儀をここで大々的に行おうと阿弥陀寺淸玉上人に申し入れているようです。しかし、前述した『阿弥陀寺由来書』の後段に実は記述があるのですが、淸玉上人は何故か秀吉の申し出を頑なに断り、秀吉を大変怒らせています。一体、淸玉上人は何を知っていたのでしょうか。

 

光秀軍より先に別の襲撃部隊が殺害し、寺に火を放って遺体を持ち去ったと言う

これに関しても詳説されているのは、歴史作家の八切止夫氏の説です。

八切氏説を簡単にまとめると、

  1. 『本能寺の変』の当日天正10年(1582年)6月2日の朝、本隊は夜明け前から本能寺を取り囲んでいたと記録にあるが、総大将のはずの明智光秀は午前9時頃に到着した可能性があること。
  2. 事変は午前9時頃までには終了しており、光秀は織田信長襲撃に間に合っていないので、本当は光秀の指揮下にない謎の軍団が、織田信長父子を襲ったのではないか。
  3. 事変後京都を午後2時頃離れて安土城へ向かったものの、通説にある1万3千いたはずの軍団が3千ほどになっていて、瀬田大橋を渡れずに坂本城に入ったこと。
  4. これらから、光秀が到着する前に早暁に本能寺を襲った別の軍団によって、織田信長の遺体は持ち去られていたのではないか。

 

大まかに言うとこのようなストーリーだと思われますが、、、

あけちむほんいたし、のぶながさまニはらめさせ申候時、ほんのふ寺へ我等ゟさきへはい入申候などゝいふ人候ハゞ、それハミなうそにて候ハん、と存候。・・・・

・・・、人じゆの中より、馬のり二人いで申候。たれぞと存候ヘバ、さいたうくら介殿しそく、こしやう共ニ二人、ほんのぢのかたへのり被申候あいだ、・・・・

さだめて、弥平次殿ほろ衆二人、きたのかたゟはい入、くびうちすてと申候まゝ、・・・・

くりのかたゟ、さげがミいたし、しろききたる物き候て、我等女一人とらへ申候へば、・・・・。其女、さいとう蔵介殿へわたし申候。・・・

(引用:木村三四吾編『本城惣右衛門覚書』 1976年 天理図書館誌「ビブリア」に所収)

 

大意、”明智光秀が謀反を起し織田信長公が自刃した時、本能寺の中へ我々より先に入っていたと言う者がいたら、それは皆ウソである。・・・

軍勢の中より馬で乗りいれた者が二人おり、誰かと思えば斎藤内蔵助殿の御子息と小姓の二人で、本能寺の方へ乗り入れて行かれた、・・・

明智秀満殿の「ほろ衆」と思われる二人が北の方から入り、首は討ち捨てておけと言う、・・・

本能寺の庫裡(くり)の方から、下げ髪をして白い着物を着ている女を捉へ、・・・、その女を斎藤内蔵助殿に引き渡した。・・・”位の意味です。

この本城惣右衛門(ほんじょう そうえもん)と言う人物は、天正10年(1582年)6月2日未明に京都本能寺へ突入したクーデター部隊の一足軽です。この人物の証言により、自分たちより前に、本能寺を攻撃していた者はいなかった事、軍勢の中に、斎藤内蔵助とその子息・小姓、明智秀満の側近が2名目撃されたことが分かります。

つまり、明智軍の主力部隊が本能寺に攻め込んだことは間違いない事、彼らの前に正体不明の軍隊が攻め込んだ形跡はまったくなかったことが、当時現場にいた一足軽「本城惣右衛門」によって証言されています

と、当時本能寺の変に参加した足軽本城惣右衛門がこのように証言しており、この史料に拠る限り明智軍が実行部隊であったことは間違いないようで、よってこの八切説は成り立たないことになります。

 

6/1夜本能寺で対局していた本因坊算砂が、原志摩守宗安に指示して本能寺から信長の首級を持ち出し、西山本門寺へと運び出させたと言う

これは静岡県富士宮市の、「織田信長の首塚」がある「西山本門寺」に伝わるお話のようですが、、、

・・・夜10時頃から、信長自身初段の腕前だったとされる囲碁の勝負を観戦した。

日蓮宗の名僧である本行院日海は、別の名を本因坊算砂と言った。本因坊第一世であるこの算砂から信長は教えを受けていたが、この算砂と本能寺の鹿塩利賢が対局したのだが、盤上に劫が3カ所もできる非常に珍しい三劫ができて勝負がつかず、引き分けに終わり、算砂はそのまま本能寺に泊った。そして光秀の謀叛に遭遇した。・・・・

早朝、光秀謀反軍の襲撃を算砂すなわち日海は知る。たちまち本能寺は戦いの修羅場となり、堂宇に火がかかって燃え上がる。その日海の側には原志摩守宗安がいた。

彼は信長に従う武士で、父胤重と兄孫八郎清安は変の最中で討ち死にした。その宗安に日海は、自刃した信長の首を直ちに持ち出して、富士山本門寺に葬るよう命じたのである。

なぜなら富士山本門寺の当時の住職は日順上人で、日海の弟子であった。しかも日順は原家の出身だった。

宗安は信長の首に加えて、従者に父と兄の首も持たせて、無事に本能寺を脱出し、夜を日に継いで富士山本門寺に至ったのだ。・・・

(引用:WEB歴史街道『本能寺で討たれた信長の首は富士山麓に葬られた!?~西山本門寺にある首塚の謎』2018年02月26日 公開記事 「歴史街道」PHP研究所)

こんな話もあるようで諸説が混在し、真相は未だ闇の中に隠れていますね。

 

明智光秀にとって織田信長の遺体を見つけることは必要だったの?

前掲したように、小瀬甫庵の『信長記』によると、「・・・明智軍は織田信長の首を求めて探したが見つからず、光秀は不思議に思い、信長はもしかして生きているのではないかとひどく狼狽して兵に命じて探索させたが、見つからず骸骨さえも見当たらなかった。」とあります。

また、天正10年(1582年)6月2日の当日の話ですが、山科言経卿の日記『言経卿(ときつね)記』には、、、

二日、戊子、晴陰、

一、夘刻前右府本能寺へ明智日向守依謀叛押寄了、則時ニ前右府打死、同三位中將妙覚寺ヲ出テ、下御所へ取籠之處ニ、同押寄、後刻打死、・・・

・・・

三日、己丑、晴陰、

一、洛中騒動不斜、

・・・

四日、庚寅、

・・・

一、洛中騒動不斜、

(引用:東京大学史料編纂所『言継卿記 <一> 天正10年6月の条』1959年 岩波書店)

 

大意は、”天正10年(1582年)6月2日 晴れ時々曇り

一、午前5時前に織田信長公の宿舎本能寺へ、明智光秀が謀反を起して押し寄せた。即刻信長公は討死し、織田信忠公も宿所の妙覚寺を出て、二条御所へ立て籠もったが、ほどなく討死した。

6月3日 晴れ時々曇り

一、京都市内は騒乱状態である。

6月4日

一、京都市内は騒乱状態である。”位の意味です。

 

小瀬甫庵『信長記』の内容から、6月2日当日、明智光秀は信長の遺体の捜索範囲を、本能寺の現場から京都市内へ拡げている事が分かります。それを受けて、『言経卿記』に6月3日ー4日の京都市内の騒ぎ(「洛中騒動不斜」)が続いていることをわざわざ山科言経卿が記載しているのは、明智軍の信長の遺体探しが継続されているのを示しているようです。

やはり、明智光秀は信長の遺体が確認出来ない事に焦り、執拗に捜索を続けていたと考えられます。光秀は、確実に狙った相手を倒した確証(信長の首)を早く世間に示さねばならなかったと考えられます。

そして、明智光秀が、恐れていたことが起こります。。。

つまり明智光秀が「織田信長の首」を天下にさらせなかった事から、前述したように「織田信長生存情報」の書状を摂津衆中川清秀へ出すなど、諸将の光秀軍への参加阻止を意図する、豊臣秀吉の効果的な情報戦に利用されることになりました。

 

明智光秀が信長の遺体を見つけられなかったのは偶然で、ただ単に光秀に運がなかっただけなの?

この『本能寺の変』で、もっとも重要であった「織田信長の首級を挙げる事」が出来ず、結果的に畿内の織田諸将を味方につけることに失敗した明智光秀は、『山崎の戦い』で豊臣秀吉に惨敗し滅亡してしまいました。

通説では、「明智光秀の三日天下」と呼ばれ、主君信長を騙し討ちにして倒した事に、心情的に畿内諸将から賛同が得られず盟友の細川藤孝にさえ見放されて、豊臣秀吉に敗れ去ったと言われています。

しかし、そもそも戦国期の大名たちは誰しも似たり寄ったりで、件の織田信長でさえ尾張統一の過程で、織田弾正忠家内部で信長と並ぶ実力者であった実弟の織田信勝(おだ のぶかつ)を、騙し討ちにして暗殺したことは周知の事です。

諸研究者によれば、江戸初期においてもこの明智光秀の行動(織田信長暗殺)は特段異端視されることはなく、光秀が「主君殺しの汚名」を着せられたのは、織田信長を英雄視するようになる明治期以降ではないかと言います。

話を元に戻しますと、ここからは焼失した本能寺に織田信長の遺体は本当になかったと仮定した上での私見ですが、、、

豊臣秀吉のデマ情報のタイミング(姫路からの的確な指示)が良すぎることと、細川藤孝が事変に関与した可能性が疑われること(素早すぎる秀吉への連絡・光秀への裏切り等)から、そもそも明智光秀が、信長の首を発見できるストーリーにはなってなかったのではないかとも考えられます。

そうなると、後の「本能寺の変」の明智軍従軍者である本城惣右衛門が何と言おうと、明智軍と思われていた襲撃隊の中に光秀の命令系統とは違う謎の軍団が混じっていて、彼らが信長を暗殺して寝所から遺体を持ち出して、本能寺裏で待機していた阿弥陀寺の僧侶たちに渡していたと考えれば、7月に入って素知らぬふりをした豊臣秀吉が、まっすぐ阿弥陀寺に埋葬された信長のもとへ墓参出来た理由が理解出来る訳です。

この謎の襲撃隊の企画者は十分に、”明智光秀が織田信長の首を確保出来ない時の効果”を計算していたことになります。

この織田信長暗殺の実行部隊に関して、ルイス・フロイスは『日本史』の記事の中で、、、

明智の軍勢は御殿の門に到着すると、真先に警備に当っていた守衛を殺した。内部では、このような叛逆を疑う気配はなく、御殿には宿泊していた若い武士たちと奉仕する茶坊主と女たち以外には誰もいなかったので、兵士たちに抵抗する者はいなかった。そしてこの件で特別な任務を帯びた者が、兵士と共に内部に入り、ちょうど手と顔を洗い終え、手拭で身体をふいている信長を見つけたので、ただちにその背中に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍である長刀という武器を手にして出て来た。そしてしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自らの部屋に入り、戸を閉じ、そこで切腹したと言われ、また他の者は、彼はただちに御殿に放火し、生きながら焼死したと言った。・・・

(引用:ルイス・フロイス/松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史3 織田信長篇Ⅲ 148頁』2014年 中公文庫)

 

このようにイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、「特別な任務を帯びた者」の存在を、おそらく当日織田信長に近侍していて幸運にも無事助かった黒人彌助(やすけ)の情報に基づいて知り得たと思われます。

当日の緒公家日記からの情報でも、明智軍が取り囲んで、すぐに信長が討たれたとの記載がありますので、明智軍?が京都本能寺に到着した卯の刻前(午前五時前)より、ほどなく即座に信長が殺害された模様です。

このフロイスの記事を信用すれば、歴史小説家の八切止夫氏の設定する謎の兵たちは軍団規模の別動隊ではなく、明智光秀ではない人物の密命を受けたもっと少人数の暗殺隊が、明智軍に先駆けて本能寺奥深く侵入し、織田信長を暗殺した可能性は否定出来ないようです。

このようなストーリーが成立するなら、真相は闇の中ながら、最初から明智光秀は「信長の首級」を手にする事は出来るはずもなかったのかもしれませんね。

 

信長に付き添っていた黒人奴隷の彌助は、釈放されてから単にイエズス会に信長最後の情報をもたらしただけなの?

イエズス会の巡察使ヴァリニアーノが信長に贈った黒人奴隷の彌助(やすけ)の消息は、宣教師ルイス・フロイスが長崎口之津からマカオへ発信した『1582年日本年報の追加』の条項に下記の通り記載されており、彌助は『本能寺の変』の混乱の中、主人織田信長に付き添ってよく戦っていて、明智軍に捕らえられたものの、無事解放されたことが分かります。

ビジタドールが信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き、相当長い間戦ってゐたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差出せと言ったのでこれを渡した。家臣はこの黒奴をいかに処分すべきか明智に尋ねたところ、黒奴は動物で何も知らず、また日本人でない故これを殺さず、インドのパードレの聖堂に置けと言った。

(引用:村上直次郎訳/柳谷武夫編『新異国叢書3 イエズス会日本年報 上 1582年の日本年報追加の条 216頁』1969年 雄松堂書店)

 

これにより、宣教師ルイスフロイスの『本能寺の変』に関する記述(『日本史』の記述も含めて)は単なる伝聞ではなくて、巡察使(ビジタドール)アレッサンドロ・ヴァリニヤーノが連れて来て信長の近習扱いとなり、現場で織田信長の身近にいた黒人奴隷”彌助”は、本当に無事生還したらしいので、本当に本人の証言に基づくものであることが判明します。

この証言により、彌助は織田信長の小姓のひとりとして信長のそば近くに仕え、織田家の一員として本能寺だけでなく、二条御所でも信忠のために、明智軍と戦うなど、後にイエズス会に状況報告をしただけでなく、襲撃現場で防戦して十分な活躍をしていたことが分かります。

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まとめ

本能寺の変』で明智光秀が織田信長の首級を見つける事が出来なかった事は、その11日後の6月13日に『山崎の戦い』で、配下の与力大名に裏切られて兵を集めきれずに豊臣秀吉に大敗した原因であると見られています。

常識的に、油断をして眠りこけていた織田信長の宿所を1万3千名の大軍で取り囲んでいて、取り逃がすなどと言うことは考えにくいことです。

また信長が放った火により、本能寺が全焼してしまい、遺体が焼け焦げて判定がつかなかったと言う見方もありますが、光秀の行動には、明らかに遺体は本能寺の焼跡から発見できず寺から外へ持ち出されたと判断して、市中を3日間に亘って捜索させていた形跡があります。

後に、信長の遺品で名刀類などは秀吉が本能寺焼跡から採取して復元したものもあるくらいですから、信長の遺体らしき形跡があれば、持ち物からある程度判断はつくはずです。

やはり、本当に本能寺にはなかった可能性が高いのではないかと思われます。

一番不審なのは、明智光秀があれだけ捜しても見つからず、公家衆の日記にも、信長の遺体・遺骨が見つかった話題もないままにもかかわらず、わずか1か月後の7月11日に、豊臣秀吉が当然のように京都阿弥陀寺に墓参に出掛けている事です。

もうこれは、豊臣秀吉は最初から知っていたと結論付けても問題ないような気がします。明らかに豊臣秀吉は信長の遺体の埋葬場所を知っていたのです。

その後、何が原因なのかわかりませんが、阿弥陀寺の淸玉上人が、秀吉の再三の申し入れにもかかわらず、織田信長の葬儀を阿弥陀寺で行うことに拒否をしたことから、秀吉が猛烈に怒っています。

関白になっていた頃の豊臣秀吉なら、兵を阿弥陀寺に派遣して強引に従わせたか、力でねじ伏せたかもしれませんが、この時点では騒ぎを起こして信長暗殺時の状況が明るみに出ることを避けたかった(特に織田家中に)のか、阿弥陀寺に対してはその後寺領の削減などの嫌がらせ程度で終わったようです。

何度もお話しますように、真相は闇の中ですが、織田信長の首級を得ることが出来ずに、結果的に「三日天下」に終わってしまった明智光秀の悔しさはいかばかりだったでしょうか。

 

参考文献

〇太田牛一『信長公記 巻十五』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇小瀬甫庵『信長記 下』(1981年 現代思潮新社)

〇ルイス・フロイス/松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史③ 織田信長篇Ⅲ』(2014年 中公文庫)

〇近藤瓶城編『改定 史籍集覧 第二十五冊』(1991年 臨川書店)

〇村上直次郎訳/柳谷武夫編『新異国叢書3 イエズス会日本年報 上』(1969年 雄松堂書店)

〇八切止夫『信長殺し、光秀ではない』(2002年 作品社)

〇ヴァリニャーノ/松田毅一他訳『日本巡察記』(1982年 平凡社)

〇木村三四吾編『本城惣右衛門覚書』 (1976年 天理図書館誌「ビブリア」に所収)

WEB歴史街道『本能寺で討たれた信長の首は富士山麓に葬られた!?~西山本門寺にある首塚の謎』(2018年02月26日 公開記事 「歴史街道」PHP研究所)

 

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