明智光秀の『本能寺の変』決行は織田信長の四国政策変更!ホント?

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長曾我部元親織田信長の裏切りだと言った意味が分かります。

当初の織田信長の四国政策と将軍足利義昭の関係が分かります。

足利義昭と組んだ毛利家との戦いが瀬戸内海の制海権争いであることが分かります。

明智光秀の他家家臣召し抱え騒動』も、四国問題と絡む様子が分かります。

 

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織田信長の四国政策の方針変更を、なぜ長曾我部元親は信長の裏切りだと考えたの?

戦国史最大の謎とされる『本能寺の変』を解明するに当たって、近年、”天下人織田信長の「四国政策」の変更”が注目されています。

永禄11年(1568年)9月に、織田信長が足利義昭(あしかが よしあき)を奉戴(ほうたい)して岐阜より上洛して以来、畿内に強力な勢力を有する朝敵とも言える三好勢の掃討が課題となっていました。

そこで織田信長は、四国の阿波を根拠地として摂津・山城・河内の畿内西部に勢力を拡げる三好勢を背後から圧迫する目的で、土佐一国を平定して四国制覇の勢いに乗る長曾我部元親(ちょうそかべ もとちか)と手を結ぶ方針を採りました。

信長卿御上洛以前より通ぜられしなり。御奏者は明智殿なり。又明智殿の御内斎藤内蔵助は元親卿の爲には小舅なり。明智殿御取合を以て、元親卿の嫡子弥三郎、実名の御契約を致す。・・・則ち信と云ふ御字を給はる。之に依り信親と言ひしなり。その御祝儀として、信長卿より左文字の御太刀、鞘は梨子地、金具は後藤仕るなり。御馬一疋栗毛拝領あり。この由緒を以て四国の儀は元親手柄次第に切取り候へと御朱印頂戴したり。

(引用:高島重漸『元親記』山本大校注「第二期戦国史料叢書5 四国史料集」所収 1966年 人物往来社)

大意は、”織田信長卿とは上洛される永禄11年以前より付き合いがあった。取次役は明智光秀殿である。また、明智殿の家老斎藤内蔵助(さいとう くらのすけ)は元親(もとちか)卿の小舅(こじゅうと)である。明智殿の取次で、元親卿の嫡子弥三郎に偏諱(へんき)を頂き、「信親」となった。そのお祝いに信長卿より名刀「左文字」、鞘は梨子地で、金具は後藤家が担当する。栗毛の名馬も拝領した。このような関係強化により、四国の事は「元親切取り放題」との御朱印状を賜った。”位の意味です。

ここで、文中にある信長から、子息の弥三郎(やさぶろう)に偏諱を受け”信親(のぶちか)”を名乗ることと、信長からの四国を任せる(実力次第で自分のものにしてよい)ことを意味する朱印状が出された、と長曾我部元親が理解したのは同時期と思われます。

新たに発見されて2014年に発表された『石谷家文書(いしがいけもんじょ)』の中にある”史料18 長曾我部元親書状”の研究から、従来天正3年のものとみられているこの問題となっている御朱印状の出された時期に関して、実は天正6年(1578年)12月頃だったのではないかと言う説も出ています。

このように、長曾我部元親は、織田信長から四国領有を承認されたと都合よく思い込んでいました

ところが、天正8年(1580年)になると、織田信長から、、、

 

三好式部少輔事、此方無別心候、然而於其面被相談候旨、先々相通之段、無異儀之条珍重候、猶以阿州表事、別而馳走専一候、猶三好山城守可申候也、謹言、

(天正八年)六月十二日      信長

香宗我部安芸守殿

(引用:香宗我部伝証文『織田信長朱印状』 「四国と戦国世界」2013年 岩田書院 に所収 天野忠幸「織田・羽柴氏の四国進出と三好氏」に掲載)

 

大意は、”三好康俊(みよし やすとし 三好康長の息子)は、織田家に対して敵対する気持ちはないようだ。そこで貴殿は阿波方面の事につき、よく三好康俊と相談してほしい。貴殿と手を結ぶについて何ら異議はなく、めでたい事である。阿波国について一層奔走することが大切である。三好康長(みよし やすながー康俊の父)より詳しい話はいたす。

天正8年(1580年)6月12日   信長

香宗我部安芸守殿  ”位の意味です。

ここでなんと織田信長は、敵対していたはずの三好一族と手を結び、三好の軍勢を阿波に侵攻させると長曾我部元親に通告してきたわけです。

四国の事は自分に任されたと思い込んでいる長曾我部元親は信長の違背に激怒し、ここに織田信長と長曾我部元親の蜜月関係は破たんして行くことになりました。

四国のことは任すと朱印状まで出しておきながら、なんら相談もなく一方的にそれを破棄した織田信長の行為を長曾我部元親は「裏切り」であるとし、事態にあわてた明智光秀が差し向けた、長曾我部の正室の実兄にあたる石谷頼辰(いしがい よりとき)の説得にも耳を貸さない事態へとなりました。

織田信長の政策と長曾我部元親の思惑が大きくズレて、二人の関係は軋んで行く事になり、この『四国問題』に長曾我部家ー織田信長の取次役を務めていた明智光秀自身も巻きこまれて行きます

 

淡路洲本城AC画像
(画像引用:淡路島洲本城ACphoto)

 

織田信長は最初から長曾我部元親に四国を任せるなどと言う事は考えてもいなかった!?

前章にある織田信長の四国政策のことは、すべて『信親記』をベースにした話で、つまり長曾我部元親側に立った考え方に沿ったものなのですが、一体織田信長としては本当はどう考えていたのでしょうか?

話は、織田信長が足利義昭(あしかが よしあき)を奉戴して上洛戦に臨んだ永禄11年(1568年)9月の頃に戻ります。

近江観音寺城の六角氏を一蹴して、9月26日には織田軍は京都に入り、政権を握っていた三好氏はなんと信長軍と戦闘を交えることなく、三好氏が奉戴した14代将軍足利義栄(あしかが よしひで)ともども畿内から阿波へ引き揚げて行きます。

京都周辺をほぼ制圧した織田信長の軍事力に支えられる形で、永禄11年(1568年)10月18日に足利義昭は第15代将軍に就任し、室町幕府は再興されました

ところが、畿内平定と足利義昭の将軍就任を終えて、織田信長が岐阜へ帰還していた翌永禄12年(1569年)1月5日に、京都から撤退していたはずの三好勢が、本圀寺を御座所にしている将軍足利義昭を襲いました

警護についていた幕府衆と、応援に駆け付けた織田系武将の奮戦でどうにか防戦をしましたが、やはり三好勢の力は侮れず、新政権を支える織田信長と足利義昭と幕府勢の当面の目標は、13代将軍足利義輝を弑逆し、現政権の脅威ともなっている三好勢の掃討戦に力を注ぎこむ事となって行きます。

永禄8年(1565年)5月19日に実兄の将軍足利義輝を弑逆され、尚且つ将軍となった自分を襲った三好勢に対する将軍足利義昭の怒りは激しく、、、

 

豐州間和与之儀、對元就輝元申遣候、今度討果凶徒等、少々逃退四國之由候、然者、退治節候樣、異見肝要、委細聖護院門跡可有演説候、猶信惠、藤長可申候也、

正月十三日      義昭(花押)

吉川駿河守とのへ

(引用:東京大學史料編纂所『大日本古文書 家わけ 九ノ一 469足利義昭御内書』1979年 東京大學出版會、国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”豊後國大友氏との和議について、毛利元就父子に申し渡す。今度発生した御所襲撃事件の凶徒たちは討ち果たしたものの、討ちもらした者が四国へ逃亡した。追討を致す事を命ず。詳しくは聖護院道澄(しょうごいん どうちょう)から話をさせる。なお上野陸奥守信忠、一色式部少輔藤長にも申しつけてある。”位の意味です。

 

藝州間和睦儀、久我殿迄度々申候、仍今度入洛以来、逆徒等蜂起處、即時討果、属本意訖、然者敵少々逃退四國由候、退治候之間、急度閣私意趣、可抽戦功事肝要候、猶愚菴可有演説候也、

正月十三日      御判(足利義昭)

大友左衛門督入道とのへ

(引用:大分県教育委員会『大分縣史料 (32)大友家文書(2) 1502足利義昭御内書』1979年 大分縣中世文書研究会)

大意は、”安藝國毛利家との和睦について、久我通晴(こが はれみち)卿へ度々申し入れている。入洛後の今度(永禄12年1月5日に)叛乱者の襲撃があり、すぐに撃退したのは真によかったが、残念なことにわずかに四国へ取り逃がしてしまった。必ず私の意を汲んで追討して戦功を挙げてほしい。なお久我晴通(宗入)からも話があるだろう。”位の意味です。

従来言われている足利義昭の通説イメージでは、すべて織田信長にお任せの傀儡(かいらい)将軍のようですが、実際は機敏に、阿波の三好勢を背後から圧迫するために、中国の吉川元春(きっかわ もとはる)と九州の大友宗麟(おおとも そうりん)へ将軍御内書(ごないしょ)を飛ばして毛利と大友に和議を結ばせ、両者で四国の三好勢を挟撃するように命令しているようです。

つまり当時織田信長は、この将軍義昭の動きにその期待に応えるべく、四国の三好勢への対応が当面の政策のひとつとなっていたようです。

そこで織田信長は、この将軍義昭の命令の実現を目指して、四国の優勢な三好勢を討つために、将軍の動きに合わせて中国の毛利家と九州の大友家への働きかけを行ない、また別途四国内での反三好勢力の養成にも力を入れて行くこととなって、それが土佐で力をつけつつあった長曾我部氏に目を付けるきっかけになって行きます

最近の研究によりますと、、、

元亀元年(1570年)頃の政局の全体像は、阿波三好家の宿老篠原長房(しのはら ながふさ)とその作り出した反織田信長包囲網(大坂本願寺・備前浦上氏・能島村上氏・出雲尼子氏)と、将軍義昭と織田信長に与した安芸毛利氏・讃岐香川氏・伊予河野氏・土佐長曾我部氏・肥前龍造寺氏の対立する西国大戦争に拡大の様相を見せていたことが分かり始めました。

ところが、元亀4年(1573年)に入ると足利義昭と織田信長の関係が破たんし、また中国(毛利家)・畿内(織田家)の両面作戦を強いられていた阿波三好家も財政破綻により内部分裂を始め、事態は複雑化の様相を深めて来ます。

また同年改元した天正元年(1573年)は、信長にとって画期の年となり、7月に前述の将軍義昭を京都から追放し、8月に盾突く越前朝倉氏、9月に北近江浅井氏を滅亡させ、一方三好方では、反信長戦を主導していた篠原長房が主君の三好長治に滅ぼされました。

そして、織田信長は天正2年(1574年)讃岐の香川氏に三好の讃岐領の配分を約束し、天正3年(1575年)には土佐の長曾我部氏の子息弥三郎(やさぶろう)に偏諱(へんき)を与えて讃岐・土佐に調略の手を進め、また同4月には畿内河内高屋城(かわち たかやじょう)の三好康長(みよし やすなが)を降伏させるなど三好勢への攻略が続きます。

続いて天正4年(1576年)には、信長の援助を受けた阿波守護家の細川真之(ほそかわ まさゆき)に攻められて三好長治は死亡し、阿波三好家は滅亡することになりますが、その細川真之は阿波掌握に失敗し、三好宗家筋にあたる十河存保(そごう まさやす)に阿波勝瑞城(あわ しょうずいじょう)に入られて、阿波三好家を再興されてしまい信長の作戦は失敗します。

このように、織田信長の四国政策は、常に三好家への対応が中心で、長曾我部氏はその手段・駒として使われていたに過ぎない事が明らかとなっています。

天正8年(1580年)3月に大坂本願寺が実質的に降伏し、畿内での抵抗勢力の一掃に成功した織田信長は、弱体化した三好勢にも目処が立ち、四国政策にも展望が開けて来たことから、信長の保護を良い事に自国領の拡大のみを目的として活動し、徐々に信長の抵抗勢力になりかけていた長曾我部元親へ方針転換を迫った、と言うのが信長サイドの真相のようです

 

四国で勢力を伸ばしつつあった長曾我部氏への『取次』となり、明智光秀の立場は織田家内で更に頂点へ登りつめた?

前章迄の話で、当初織田信長は三好家討伐の為に、反三好勢力を育成する方針を固め、土佐で頭角を現し始めていた長曾我部氏と接触を始めたのは天正3年頃の話で、その役目を家臣が長曾我部氏と姻戚関係にある明智光秀に任されました

對惟任日向守書状令被見候 仍阿洲面在陳尤候 弥可被抽忠節事管要候 次字之儀信遣之候 即信親可然 猶惟任可申也 謹言

十月廿六日   信長

長曾我部弥三郎殿

右高知雨森九右衛門蔵 今按天正三年乙亥遣人於惟任光秀

請名字於信長公公授一字名之信親 且賜左文字佩刀及駿馬

(引用:『土佐國蠹簡集(384)』 『高知県史 古代・中世資料編』1977年 高知県 所収)

大意は、”明智光秀に対する貴殿の書状を見せてもらった。阿波への出陣のこともっともであり、ますます忠節に励むことが大切である。次に「偏諱」の件だが、「信親」でよい。光秀に申付けておく。

(天正3年)10月26日     信長

長曾我部弥三郎 殿

右の書状は高知の雨森九右衛門の蔵にあり、今調べたところ、天正三年に明智光秀を取次として、信長公より名を一字授けられ「信親」とし、さらにお祝いに名刀「左文字」と駿馬をいただいた。”位の意味です。

天正3年と言うと、織田信長が奥三河の長篠で武田勝頼を破った『長篠の戦い』があった年で、織田信長と長曾我部元親の関係は、前章で見たように元親の思惑は別として、信長の方は三好対策(四国対策)であったと考えられます。

余談ですが、この時信長が長曾我部元親の子息弥三郎(信親)に祝いとして渡した脇差『左文字』とは、桶狭間の戦いで信長に討ちとられた今川義元が所持していた天下に名だたる名刀で、信長としては戦国大名として全国デビューした時の大切な戦利品であったことから、この長曾我部対策にずい分力を入れていたことが分かります。

一方明智光秀が、織田信長から正式に長曾我部家との取次役を命じられたのは、天正6年(1578年)のことと言われておりますが、天正3年(1575年)9月には信長の命により丹波攻めに取り掛かっており、その後天正7年(1579年)10月24日に安土城で信長に丹波・丹後平定報告をしています。

天正7年11月には、誠仁親王(さねひと しんのう)に献じられた京都の信長邸(後に下御所と言われる)への「移徙(わたましー貴人の引越)」の奉行を、織田家の吏僚村井貞勝(むらい さだかつ)とともに任じられ、又困難を極めた京都に隣接する丹波・丹後平定を成し遂げたことで、翌天正8年(1580年)には丹波国を信長より与えられ、織田家中第一の大身宿老の立場を確固としたものにし、明智光秀は信長がもっとも信頼する家臣となって行きます

続いて翌天正9年(1581年)2月には、織田信長の一大儀式で、正親町(おおぎまち)天皇を迎えて挙行された「京都馬揃え」の奉行にも任じられるなど、明智光秀は生涯の絶頂期を迎えました。

そして、その舞台裏で明智光秀は、四国の長曾我部家との関係を足掛かりに、将軍足利義昭を擁して織田信長に敵対している毛利家への和平工作を進めており、石山本願寺と将軍足利義昭がネックで西国の平定が進まずイラついている信長に、毛利との講和を進める打開策を信長に進言し取り進め、成功の果てには西国政策の責任者として家内に重きをなす事を考えていたようです。

しかし、織田水軍が天正6年(1578年)11月6日の「第二次木津川海戦」で毛利水軍を壊滅させ、織田水軍が大阪湾の制海権を握ったことから、石山本願寺は補給を絶たれ、前述のようにとうとう天正8年(1580年)3月に『勅命講和』と言う形で事実上の降伏をしてしまいました。

そのため、織田信長は苦労して、光秀の言うような毛利との和睦を進める必要性がなくなり、天正9年(1581年)には将軍足利義昭を奉戴する毛利家との”全面戦争方針”へと切り替えて行き、明智光秀の進めていた裏面での和平工作は水泡に帰します

こうした中で気が短い織田信長は、毛利攻めの重要な政策である”瀬戸内の制海権掌握”を有利に進めるための四国平定を、もたつく長曾我部氏に任せるのではなく、直接織田家の軍事力で実現する方針に切り替えて行ったようです。

明智光秀は、織田信長から丹波平定の褒美に拝領した丹波国の領国経営・京都の「馬揃え」奉行などに忙殺され、生涯の絶頂期を迎えていたはずが、その間にライバルで信長の身内衆になっていた豊臣秀吉が進めていた、対毛利強硬策の西国政策が信長に採用されるなど、光秀は気が付かない内に、織田信長の取り進める天下取りの第一戦から外されて行ったようです。

実際に進行しつつある事態は、縁のある四国長曾我部家の危機救済どころではなく、光秀自身が政権の第一線から外され始め、奈落の底へ落ち込みかけており、光秀は不覚にもそれに気づくのが少し遅れた?と言うことなのでしょうか。

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織田信長は三好長康の取り込みに成功してからは、対毛利対策に腐心していた!ホント?

先ず、毛利家と織田信長の関係史を見てみましょう。

織田信長は、永禄11年(1568年)9月26日に足利義昭を奉戴して上洛し、10月18日に義昭が足利15代将軍に就任させた後、翌永禄12年(1569年)年明け辺りから毛利家(小早川隆景との)書状のやり取りが確認されるので、足利将軍を支える大名同志と言う関係で付き合いが始まったようです。

ところが、元亀4年(1573年)に織田信長に京都を追放されていた将軍足利義昭が、紀州由良の興福寺から天正4年(1576年)備後鞆の浦に動座して来ました。

 

就備・播之儀、去年以来信長存分被申懸之間、無事之取操半之処、如此公方様御下向之条、弥有疑心、至境目与風被及行候者、即可令出張候、有御用意、御馳走所仰候、於無事相調者、無申事候、猶追々可申承候、先以当時之趣申入候、恐々謹言、

(天正4年)二月廿二日               (毛利)輝元(花押)

湯浅治部太輔殿
御宿所

(引用:土居聡朋・村井祐樹・山内治朋編『戦国遺文 瀬戸内水軍編 444 毛利輝元書状「湯浅文書」』2012年 東京堂出版)

 

大意は、”備州・播州の事につき、昨年来織田信長が好き勝手を云って来ており、和睦交渉半ばの所へ、このように将軍足利義昭公が鞆の浦へ下向され、とうとう互いの信頼関係もなくなり、国境辺りでの軍事衝突が有りそうです。すぐにでも出陣御用意をして、お働きをお願いします。和睦交渉が出来れば申すことはないのですが、追って申し上げることにします。まずは今の状況をお知らせします。”位の意味です。

上記史料は、毛利家が領内にある”鞆の浦”に飛び込んで来た将軍足利義昭を受け入れてしまい、折角対決を避けるために誼(よしみ)を通じていた織田信長と全面対決の可能性が出て来たことを、配下の国衆へ急遽連絡した毛利家当主輝元の書状です。

このように、将軍足利義昭の備後鞆(びんご とも)への動座に伴い、織田信長と毛利家は対立関係を深めて行きます。

ここに始まった織田と毛利の戦いは、”物資補給の生命線である瀬戸内海”の制海権を巡る争いで、織田家にとって水軍勢の本拠地とも言える四国を制する戦いとも言えました。

織田信長にとって、上洛とともに始まった三好一族との戦いも、当初は「将軍足利義昭の兄、前将軍義輝の敵討ち戦」でしたが、足利義昭を追放した後は、三好勢が持つ瀬戸内西部の強力な水軍力をどう使うかが毛利との戦いのポイントでした。

つまり、西国の大国毛利家を叩く為には、毛利(小早川家)の瀬戸内海中西部の制海権を持つ水軍力と、対抗する瀬戸内海東部で力のある三好勢の力を利用することが、信長の興味の焦点となって行ったと思われます。

天正3年(1575年)4月8日に河内高屋城に籠る三好康長を降伏させ、近畿地区の三好一族も掌握し、四国土佐の長曾我部氏を手なずけながら、阿波三好家を圧迫していました。

将軍足利義昭が備後鞆へ動座した天正4年以後、義昭の命で本格的に大坂石山本願寺との連携に入った毛利は、讃岐・淡路まで進出して来て東瀬戸内海の制海権をも掌握して、水軍力を使い石山本願寺へ海上から補給を開始していました。

これに対して大坂湾で海上封鎖を試みた織田水軍(和泉水軍)は、天正4年(1576年)7月13日大坂木津川口にて、毛利方(村上水軍)に完敗し、大坂湾の制海権も毛利方に制圧され、石山本願寺へ大量の糧食が補給されてしまいました(第一次木津川口の戦)。

この対抗策として、重臣の滝川一益(たきがわ かずます)に命じて伊勢の九鬼(くき)水軍に鉄板を張った大型の軍船を建造させ、天正6年(1578年)11月6日大坂湾木津川口にて織田水軍は、石山本願寺への補給船を突入させて来た毛利水軍を壊滅させました(第二次木津川口の戦)。

これにより、補給路を断たれた石山本願寺は、とうとう天正8年(1580年)3月に『勅命講和』の形で事実上織田軍に降伏しました。

これで、畿内制圧に成功した織田信長は、西国征伐へと矛先を進め、淡路ー家島以西の毛利が制海権を持つ西瀬戸内海へと駒をすすめるために、制海権争いを有利に進めるための四国の制圧を考え、そこでもたついている長曾我部を切捨て、三好宗家を継いだと思われる降伏した三好康長を先兵に四国直轄支配へと舵を切って行きます

長曾我部氏も織田信長の考えを読み切れずヘタな抵抗を試み、また取次役の明智光秀からの教育も不足して、世渡りに失敗したようです。

織田信長の対毛利政策も、当初は同盟関係の構築を考えていたのではないかと思いますが、本願寺を降伏させてからは武力制圧を念頭に入れたようで、この状況を動かした阿波三好勢の取り込み成功が大きな一歩になったことは間違いないようです。

果たしてこんな状況下にもかかわらず長曾我部元親は、従前どおり織田信長とは同盟関係の立場を維持できると考えていたのでしょうか

 

明智光秀の重臣となった斎藤利三が引き起こした稲葉一鉄からの家臣引抜問題は、織田信長の折檻事件につながったか!

この事件は、、、

其後 稲葉伊与家人那波和泉斎藤内蔵介を日向高知にて抱る 伊与方より断申せ共不返 其段信長聞給ひ明智を召 早々伊与へ可返との怒りなれ共 不請に付信長せひて日向をとらへ 両の鬢をつかみ敷居の上へあて折檻の時 爪先日向か月代に入血流 日向申上は三十万石の大禄を被下候へ共 身の欲に不仕 能兵を抱候は 偏に御奉公の爲也と申上る其時 信長己脇指をさしたらは成敗致べけれ共 丸こしなれは命を助ると仰す 日向もやみやみ退出せし也

(引用:菊池真一編『武辺咄聞書 99頁 第136話』京都大学付属図書館蔵 1990年 和泉書院)

大意、”その後、稲葉伊予守貞通入道一鉄の家臣である那波和泉守直治(なんば いずみのかみ なおはる)・斉藤内蔵介(さいとう くらのすけ)を明智光秀が高禄にて召し抱えた。稲葉一鉄(いなば いってつ)より明智家へ抗議を申し込んだが返さない。その事を織田信長が聞きつけて、明智光秀を呼び出し稲葉一鉄に戻すように怒って命じたが、光秀は従わない。すぐに信長は光秀をつかまえ、左右の鬢をつかんで敷居押し付けた時、信長の爪が光秀の月代に入り血が流れた。光秀が言うには、「三十万石の大禄を頂いていますが、欲をかいて仕えたことはありません。能力の高い家臣を抱えることは、ひとえに殿にお仕えするためです。」と言うと、信長は、「今、脇指を持っていたらこのまま成敗してやるのだが、丸腰なので命は助けてやる。」と言われるので、光秀もやむなく退散した。”位の意味です。

この逸話は、天正10年に入ってからの事と言われており、舅の稲葉一鉄と折り合いが悪く、一方的に辞して明智光秀に主替えをして明智家重臣となっていた斎藤利三が、元同僚であった稲葉一鉄の家臣那波直治をも明智家臣に引き抜き、我慢ならなくなった稲葉一鉄が”明智光秀による御法度の家臣引抜”として、主君織田信長に訴え出たところから起こった騒ぎとされています。他の史料(稲葉家譜等)にも同様の話がみられることから実話と見られています。

ここでも織田信長による明智光秀折檻事件が起こったと伝えており、天正10年(1582年)の年明け、武田戦の頃から頻発する同様の事件に、「本能寺の変」への動機(怨恨説)を暗示するものとして伝わっています。

この話は、明智光秀の「怨恨説」につながる話の可能性を指摘されていますが、同時に信長から那波直治引抜を統制を乱す行為として斎藤利三に切腹命令が出ました。

これは斎藤利三と長曾我部元親の姻戚関係を詳しく知っていたはずの信長の命令なので、四国政策変更(長曾我部切捨て)の象徴的な話とも言えそうです。

つまり、織田信長の「四国政策変更の話」と、「斎藤利三と那波直治召抱え事件」は、同根の出来事なのかもしれません

明智光秀も必死になって信長に食い下がり、盾突く光秀に激怒した信長の折檻事件、と言うのが天正10年(1582年)初からの流れだったのでしょうか。

 

まとめ

近年、『本能寺の変』の研究で注目されている『織田信長の四国政策の変更』と『明智光秀の「斎藤利三(さいとう としみつ)と那波直治(なんば なおはる)の召抱え」問題』を追ってみました。

織田信長は、上洛した翌年から畿内に依然として優勢な勢力を誇る三好一党の討伐のため、本拠地の四国で反三好勢力へ肩入れする対応策を実行に移しました。

これは、瀬戸内海西部の制海権を持つ西国大名毛利氏との連携と、四国の反三好地場勢力との連携で特に勢力を伸ばし始めた土佐の長曾我部氏の育成でした。

ところが、上洛以来徐々に悪化して行った織田信長と将軍足利義昭の関係は、元亀4年(1573年)破たんを迎え、信長は義昭を京都から追放処分とします。

その後、足利義昭は反信長包囲網を作りながら、天正4年(1576年)になって下向先の紀伊から、毛利家の庇護を求めて備後鞆の浦へと動座します。

こうして足利義昭のおかげで、はっきり織田信長との対決状況に巻き込まれてしまった毛利家が、織田信長にとっては、三好勢に替わった西国平定の大きな壁となって来ました

三好勢討伐のために、連携してみた長曾我部でしたが、敵が三好勢から強大な毛利家に替わって行った中で、織田信長にとって長曾我部元親の持つ野心は自分の行く手を阻む危険なものと映って行ったものと考えられます。

もうひとつは、近年の研究で評価が見直されている『清良記(せいりょうき)』等に記載されている、天正9年(1581年)4月23日~25日に亘って行われた伊予國での『岡本(おかもと)合戦』(「よど第20号」東近伸)の結果です。

これによって、長曾我部軍は重臣3名まで失う大敗を喫しており、武力面でも織田信長に頼りにならないと判断されたのか、信長への相談なしに勝手に伊予(愛媛方面)へ攻め込んで大事な人材を戦死させ大敗すると言う不祥事を起こしたことも信長の構想から外された一因かもしれせん。

これが、織田信長が方針変更へ大きく舵を切った契機となった可能性もあるのです。

また、「明智光秀の稲葉家家臣の引抜事件」は、前述のように長曾我部の取り扱い問題も含んだ斎藤利三イジメから、”明智光秀外し”へ進んで行った事件の可能性もありそうです。

やはり、「毛利との和睦政策」を進めていた明智光秀が、「毛利への強硬策」を主張する豊臣秀吉に、明智光秀が土俵際で”うっちゃり”を食った感じが一番ピッタリ来るかもしれません。

以前は一蹴されていた「怨恨説」ですが、”信長が光秀に厳しく当たり始めた”と言う時点から、この「織田信長の四国政策の変更」と「明智光秀の稲葉家家臣の引抜事件」は、「本能寺の変」へつながる「怨恨説」として見直されて来そうです。

 

私見ですが、、、

「怨恨」と言っても、信長に対するものと言うより、光秀が秀吉との競争に負けた、してやられた「恨み・悔しさ・後悔」であり、その一発逆転・起死回生の策が『本能寺の変』だったと言う事でしょうか。しかしそれさえも、豊臣秀吉に先読みされていたような感じですよね。

結果から見ると、織田重臣の中で唯一豊臣秀吉だけが、明らかに”明智光秀の謀叛”を待ち受けていたような感じに見えますね。とにかく手回しが良すぎます。これも軍師黒田官兵衛(孝高)の知恵なのでしょうか。

 

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参考文献

〇四国中世史研究会・戦国史研究会編『四国と戦国世界』(2013年 岩田書院)

〇高島重漸『元親記』 山本大校注『第二期戦国史料叢書5 四国史料集』所収 (1966年 人物往来社)

〇浅利尚民・内池英樹編『石谷家文書』(2018年 吉川弘文館)

〇奥野高広『人物叢書 足利義昭』(1960年 吉川弘文館)

〇東京大學史料編纂所『大日本古文書 家わけ 九ノ一 吉川家文書之一 496足利義昭御内書』(1979年 東京大學出版會、国立国会図書館デジタルコレクション)

〇大分県教育委員会『大分縣史料(32) 大友家文書(2) 1502足利義昭御内書』(1979年 大分縣中世文書研究会)

〇東近伸『本能寺ノ変直前の四国の軍事情勢と岡本合戦の意義』(2019年 西南四国歴史文化研究会発行『よど 第20号』に所収)

〇藤田達生『明智光秀伝』(2019年 小学館)

〇谷口克広『織田信長の外交』(2015年 祥伝社新書)

〇奥野高広『人物叢書 足利義昭』(1960年 吉川弘文館)

〇土居聡朋・村井祐樹・山内治朋編『戦国遺文 瀬戸内水軍編 444 毛利輝元書状「湯浅文書」』(2012年 東京堂出版)

〇菊池真一編 『武辺咄聞書』京都大学付属図書館蔵 (1990年 和泉書院)

〇金子拓『信長家臣 明智光秀』(2019年 平凡社)

〇桐野作人『誰が信長を殺したのか』(2007年 PHP新書)

 

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