明智光秀が関わった本能寺の変を含む事件の『理由』!ホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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明智光秀は、なぜ『本能寺の変』を実行したの?

織田信長は、「明智光秀を折檻した」!ホント?

明智光秀は大病に罹った!ホント?

安土での家康接待で、魚が腐っていた!ホント?

 

なぜ謀叛を起したのか?

『本能寺の変』は、本当に明智光秀がやったの?

明智光秀は実行犯ではなかった(つまり濡れ衣を着せられた)と言う説は、歴史作家八切止夫氏と、華道研究家井上慶雪氏が出しておられます。

先ず明智光秀が、中国遠征軍を丹波亀山城から出陣させて、まっすぐ信長の命令通り中国方面へ向かわせずに、なぜ軍を京都へ進軍させたのかに関して、、、

六月朔日申の剋計に家中の物かしらに申出しには 京都森お亂所より上様御諚には 中國へ陣用意出來候は人數のたきつき家中の馬とも様子可被成御覧候間 早々人數召連能上候得と御亂所より飛脚到來候間 其分相心得られ自是武者立へき事尤に候と申出 則龜山の東の柴野へ被打出候時ハはや酉の刻に罷成候

(引用:『川角太閤記 巻一』史籍集覧 第十九冊に所収)

大意は、”天正10年(1582年)6月1日午後4時頃、明智光秀は足軽大将たちを集めて、京都の信長様小姓森乱丸から信長様のご命令として、「中国出陣の用意が出来たら、軍を閲兵するので、早々に上洛せよ」との早飛脚が到着した。その事心得て、出陣せよと申し渡した。亀山城の東の柴野へ出た時には、もう午後6時になっていた。”位の意味です。

つまり、明智光秀が京都へ進軍したのは、織田信長の小姓森乱丸より『京都で閲兵するので、早々に軍を引き連れて上洛せよ』との織田信長の命令を伝えて来たからだと言います。

そして、午後6時から、悪天候の最中1万3千もの兵が狭い丹波の峠道を行軍して京都へ付いたのは、翌日6月2日に午前9時頃となっており、信長の本陣本能寺周辺はすでに何者かによって、襲撃されて焼け野原となっていて、現場周辺には明智家の旗が散乱しており、明智光秀はハメられて織田信長襲撃の犯人にされていたと言う筋書きです。

あの時刻から重装備の人馬の大軍で狭い峠を越えて亀山から京都市中まで行軍するのは簡単ではなく、到底襲撃時刻には間に合わず、アリバイが成立するので、明らかに明智光秀は実行犯ではなく、中国へ出発するはずが、森乱丸からと言う偽の飛脚便で急遽京都へ誘き出されたに過ぎない、本当の実行犯は別にいたと言う説です。

最初から明智光秀は、織田信長の中国出陣が6月4日なのを知っていますから、6月2日の午前中くらいに本能寺へ到着する腹積もりで、急ぎもせずにのんびりやって来たと言うことなのです。

しかし、、、、

 

あけちむほんいたし、のぶながさまニはらめさせ申候時、ほんのふ寺へ我等ゟさきへはい入申候などゝいふ人候ハゞ、それハミなうそにて候ハん、と存候。・・・・

・・・、人じゆの中より、馬のり二人いで申候。たれぞと存候ヘバ、さいたうくら介殿しそく、こしやう共ニ二人、ほんのぢのかたへのり被申候あいだ、・・・・

さだめて、弥平次殿ほろ衆二人、きたのかたゟはい入、くびうちすてと申候まゝ、・・・・

くりのかたゟ、さげがミいたし、しろききたる物き候て、我等女一人とらへ申候へば、・・・・。其女、さいとう蔵介殿へわたし申候。・・・

(引用:木村三四吾編『本城惣右衛門覚書』 1976年 天理図書館誌「ビブリア」に所収)

 

大意、”明智光秀が謀反を起し織田信長公が自刃した時、本能寺の中へ我々より先に入っていたと言う者がいたら、それは皆ウソである。・・・

軍勢の中より馬で乗りいれた者が二人おり、誰かと思えば斎藤内蔵助殿の御子息と小姓の二人で、本能寺の方へ乗り入れて行かれた、・・・

明智秀満殿の「ほろ衆」と思われる二人が北の方から入り、首は討ち捨てておけと言う、・・・

本能寺の庫裡(くり)の方から、下げ髪をして白い着物を着ている女を捉へ、・・・、その女を斎藤内蔵助殿に引き渡した。・・・”位の意味です。

この本城惣右衛門(ほんじょう そうえもん)と言う人物は、天正10年(1582年)6月2日未明に京都本能寺へ突入したクーデター部隊の一足軽です。この人物の証言により、自分たちより前に、本能寺を攻撃していた者はいなかった事軍勢の中に、斎藤内蔵助とその子息・小姓、明智秀満の側近が2名目撃されたことが分かります。

つまり、明智軍の主力部隊が本能寺に攻め込んだことは間違いない事、彼らの前に正体不明の軍隊が攻め込んだ形跡はまったくなかったことが、当時現場にいた一足軽「本城惣右衛門」によって証言されています。

これは、この人物が老境に入ってからの自慢話の覚書ですから、細部に間違いがある可能性はありますが、この人物は少なくとも武士の端くれですから、大筋、デタラメを述べているとは考えられず、どうやら、明智光秀が本能寺へ攻め込んだ下手人であることは間違いないようです。


(画像引用:本能寺ACphoto)

明智光秀は、なぜ織田信長討伐を決意したの?

明智光秀は、誰か又は何れかの政治勢力に嵌められてクーデターの犯人にされたのではなくて、どうやら実行犯は本当に本人だったらしいとすると、その理由があるわけですが。。。

仮に、従来から言われている「怨恨説」・「野望説」・「黒幕説」など様々な動機があったとしても、織田信長が付けいるスキを見せなければ、謀叛を起こさなかったのではないかと言う見方があります。そこで、”信長がみせた一瞬のスキに乗じ、乾坤一擲のチャンスをつかんだ”、言い方を変えれば、”千載一遇のチャンスが偶然に巡って来た”と言う説です。

その傍証とも思えるのが、歴史作家桐野作人氏があげられる史料”「福屋金吾旧記文書」所収の明智光秀の書状”で、、、

(追伸)なお去年の春だったか、(家来の)山田喜兵衛まで案内状をいただき、いつもお気遣いいただき歓悦しています。

それ以来、便りができませんでした。遠く離れているので思うようにまかせず残念です。さて、(信長が)山陰道に出陣するように仰せになったことについて、その方面でご入魂になれたら、まことに喜ばしく思います。南条元続が内々にお示しのとおり、これまたご懇意にされている様子、(私も)満足している旨よくよく(南条に)申し入れたいと思います。したがって、山陽道に毛利輝元・吉川元春・小早川隆景が出陣するところとなり、羽柴秀吉と対陣しているので、今度の儀(出陣)はまず、その方面(備中)でつとめるようにとの上意です。(備中に)着陣のうえ、様子を見て(方向を)変え、伯耆国へ発向するつもりです。そのときは格別に馳走されるよう望んでいます。なお、去年以来、そちら(伯耆国)にご在城され、あなたのご粉骨、そして南条元続の二度のお働きは、ともかくご忠節が浅からぬところです。くわしくは山田喜兵衛に申し述べさせますーーー。

(引用:桐野作人『だれが信長を殺したのか』2007年 PHP新書)

これは、原文にある日付が「五月廿八日 日向守光秀」となっているだけですが、桐野作人氏は書状の内容から”天正10年(1582年)5月28日”の事であるとし、織田信長が上洛する5月29日の前日までは、明智光秀がクーデターを起すことを決めていなかった証拠であるとされています。

一方、他の史料では、、、

 

勝頼公も明智十兵衛 当二月より逆心仕べきと申こす処に、長坂長閑分別に 籌をもって調儀にて申越スと云て、明智とひとつにならざる故、武田勝頼公御滅亡なり。

(引用:磯谷正義・服部治則校注『甲陽軍鑑 品第五十八 長坂長閑分別の事の条』1966年 新人物往来社)

 

大意、”武田勝頼に、明智光秀が天正10年(1582年)2月に、クーデターを起すので同調しないかと誘いがあった折、武田家重臣で家老の長坂長閑斎(ながさか ちょうかんさいー光堅)が、これは織田方の謀略に違いないので乗るべきではないと言う判断を示し、明智光秀の申し出に乗らなかったのが、武田勝頼公滅亡の原因である。”位の意味です。

とあり、明智光秀は、既に『本能寺の変』の4ヶ月前には、クーデター(『本能寺の変』)決行の意志を固めていたらしいことを示している情報です。

また、、、

先日者 御書被 下候 奉頂戴候 仍其表彌諸口被 思食御儘之由目出至極奉存候 然而一昨日御越河之由 申来候 何方迄被御馬出候哉 昨今者一向御左右無御座間 無御心元奉存候 随而上口様子委不承候 一昨日従須田相模守方召仕之者罷越 才覚申分者 自明智所 魚津訖使者指越 御當方無二御馳走可申上由申来候与承候 實儀候者 定自須田方直ニ使を上可被申候 将又 推參至極申事御座候得共 其元儀大方御仕置被 仰仕付候はヾ 早速被納 御馬能越両州御仕置被成之御尤之由奉存候 此旨宜預御披露候 恐惶謹言

河隅越中守
六月三日      忠清

直江与六殿

(引用:東京大学文学部篇『覚上公御書集 上  巻六 293~294頁』1999年 臨川書店)

大意、”先日は、お手紙いただきました。信州表の事、いよいよお考え通りとなる由、おめでとうございます。

ところで、一昨日、越中へ進出されるとのお話がありましたが、どの辺りまで進出されるお考えでしょうか。最近はご連絡もなく、心もとなく思っております。そんなことで、畿内の様子には詳しくないのですが、一昨日須田相模守の配下の者が参りまして、申しますに、明智光秀のところから魚津城まで使者を派遣して来て、当方にとってこの上ない有利なお話(織田信長討ち取りの件)を持って来たと言うので聞いてみました。事実ならばと思い、須田相模守より当方へ報告があったので、本来すぐにでもお伺いしてご報告すべき事ではありますが、早急にご方針をお示し頂き、出陣を御取り止めになり、織田軍敗退後の能登・越中の戦後処理をなされるのがよいかと思いまして、急ぎ書面にてこの情報をご披露させていただきます。”位の意味です。

この「上杉家家老”直江兼続”宛ての”河隅越中守忠清”の書面」は、明智光秀から”織田軍と対峙している上杉方へ、『本能寺の変(クーデター)』にて織田信長を誅伐した旨の連絡があった”事を伝えていますが、問題は日付で記載通り”6月3日”ならば、距離から考えて、クーデター前に明智の使者が上杉方へ出発した事になり、明智光秀の謀叛が思いつきではなく、計画犯罪だったことの傍証のひとつとなるわけです。

実はこの該当文書が掲載されている『覚上公御書集』は江戸中期の書写物で、その原文と思われる『歴代古案』の該当文書では肝心の日付が抜けていることから、この日付は江戸時代の『覚上公御書集』編者の加筆ではないかとの疑いも出ています。

しかし、当時から、(豊臣秀吉系の情報源、イエズス会宣教師からの情報等によると)明智光秀の謀叛は、かなり前から計画されていたものだとの疑いもあった訳です。

そこで、『理由』・『なぜ』の部分に入って行く訳ですが、、、

『本能寺の変』の企画者を考える時、この時期織田信長に明らかに敵対していた勢力は別として、織田信長の周囲にいて尚且つ信長からの警戒レベルの低かった、尚且つ動機を持つ人物・勢力が怪しいこととなります。

しかし、一番の下手人とされる明智光秀が、どれだけ追い込まれていたとしても、事後の政権運営の目処もなしに感情的に行動(クーデター)する人物とは、経歴からしてもとても考えられない事から謎が深まる訳ですが。

見え隠れする情報としては、、、

六日 雨降。・・・。吉田めし、安土へ明智方へ 勅使也。明日可罷下候由候。巻物被下候。各御談合共也。

七日 天晴。・・・。近衛殿、内府御方御所へいていにて御参候。御樽御進上候也。御盃参候。・・・。

・・・

十一日 雨降。坊城へふるまい也。入道殿、通仙、烏丸大さけ也。

・・・

十三日 雨降。早天明智陣所はいくん。・・・。京中さくらん中々申はかりなし。禁中京中参候也。

十四日 雨降。せうれん寺おもて打はたし、三七郎、藤吉郎上洛之由候。余 勅使。両人御太刀拝領させられ候。広橋、親王御方ヨリ御使参候。御太刀同前也。たうのもりまて参候て待申候。たうの林にて申聞候。一段はやはやとかたしけなき由申候。両人の者、馬よりおり申候。渡申候。

・・・

十六日 天晴。早天宮内法印上洛。友感事也。庭田大納言同道申候。まき三十は遣候。庭田ゆかけ遣候。御人参候て、近衛殿御事せひとも存分可申候。かちやう御方御所内々衆めし候。余所にも各来候。

十七日 天晴。早天済藤蔵助ト申者明智者也。武者なる物也。かれなと信長打談合衆也。いけとられ車にて京中わたり申候。見物出也。事外見物也。京わらへとりとり申事也。あさましき事無申計候。近衛殿、入道殿嵯峨御忍候。打可申候とて人数さかへ越候。御ぬけ候。御方御所にても御きつかい也。見舞参候也。近衛殿今度ひきよ事外也。

(引用:勧修寺晴豊『天正十年夏記』 立花京子『信長権力と朝廷 第二版』2004年 岩田書院 に所収)

大意は、”天正10年6月6日、雨降り。・・・。吉田兼見(よしだ かねみ)卿に命じ、近江安土城に入った明智光秀へ勅使を出す。明日安土へ下向し、誠仁親王(さねひと しんのう)様からの書状を渡す。皆、信長討ち果たしの談合仲間である。

6月7日 快晴。・・・。近衛前久(このえ さきひさ)卿が子息内大臣近衛信基(このえ のぶもと)卿邸へ武装して参られ、信長襲撃の成功を祝って樽酒を進上して、宴会をされた。

・・・

6月11日 雨降り。東坊城盛長(ひがしぼうじょう もりなが)邸にて、入道・典藥頭半井通仙(なからい つうせん)、烏丸光宣(からすま みつのぶ)らと再び酒宴を催した。

・・・

6月13日 雨降り。早朝 明智軍が豊臣軍に敗北。・・・。洛中は錯乱状態で、表現のしようがない。混乱の中、御所へ駆けつけた。

6月14日 雨降り。京都郊外長岡の勝竜寺城辺りで明智軍を壊滅させ、織田信孝と豊臣秀吉は上洛する勢いである。私(勧修寺晴豊卿)自ら勅使に立ち、帝から下された太刀を拝受させるために出向き、広橋兼勝は誠仁親王からの使者で、用向きは同じ太刀の拝受である。塔の森まで行って織田信孝・豊臣秀吉一向を待っていた。早々に申し訳ないと言いながら馬から降りて来た彼ら両人に、太刀を渡した

・・・

6月16日 快晴。早朝、宮内法印が上洛した。松井有閑(まつい ゆうかん)の事である。大納言庭田重保(にわた しげやす)も同道している。近衛前久の行方を捜しており、内大臣近衛信基卿の家中も召し出され、他の所にも立ち入っている。

6月17日 快晴。斎藤利三と申す明智光秀の軍の武将である。彼などは信長襲撃の談合仲間である。生け捕られて車で京中市中引き廻しされている。見物人が出ており、事のほか多い。痛ましいことである。近衛前久卿と入道殿は嵯峨野に隠れていたが、探査の人数を繰り出され、脱出されたようである。子息近衛信基卿も心配されており、お見舞いに参上した。近衛前久卿の今度の謀叛加担は重大事である。”位の意味です。

この”武家伝奏”の職にあった勧修寺晴豊(かじゅうじ はれとよ)卿の日記のこの天正10年の問題部分は、本来欠落部分と考えられて来ましたが、歴史家岩沢愿彦氏によって発見された物のようで、貴重な情報を今に提供してくれています。

この記事によると、6月13日に『山崎の戦い』の帰趨が決まった後、かなり早い時期から豊臣秀吉は、太政大臣近衛前久(このえ さきひさ)卿の探索に入っており、本人は一目散で京都を逃げ出し、最終的には浜松にいる徳川家康の下に庇護を求めると言う顛末を迎えました

前掲の勧修寺晴豊卿による所謂『天正十年夏記』を見る限り、明智光秀の織田信長父子襲撃事件(本能寺の変)は、光秀の単独犯ではなくて、近衛前久卿を中心とした朝廷・公家勢力との合同企画であった可能性があり、それ故慎重な明智光秀も結果的には暴挙となった『本能寺の変』に踏み切った可能性があることが想定されます

信長討伐に大成功したとばかりに、気分を高揚させて宴会を繰り広げて騒ぎまくっていた近衛前久卿も、6月13日に明智軍が豊臣秀吉軍に大敗したと知った時には、飛び上がってびっくりしたことでしょう。

明智光秀も織田信長に対して個人的な思いは大いにあったとは思われますが、事変後の政権運営も含めて、前述のような有力な朝廷・公家勢力の協力が得られる確証がなければ、到底『本能寺の変』を挙行する暴挙には至らなかったのではないかと思われます。

 

信長が光秀に厳しく当たったのはなぜ?

永禄11年(1568年)9月に織田信長が、第15代将軍となる足利義昭を奉戴して上洛してからの明智光秀の活躍は十分に信長の期待に応え、天下取りを目指す織田信長と明智光秀の関係は順調だったと言えそうです。

元亀2年(1571年)には、織田信長と敵対する『比叡山焼き討ち』の論功行賞にて獲得した近江坂本の地に築城を開始して織田家家臣となり、織田家初の城持ち大名にまでなりました。

転機が訪れたのは、天正8年(1580年)3月の10年余も敵対していた本願寺との”勅命講和”が成立した頃だったのではないかと思われます。

石山本願寺との講和により畿内に大きな敵がいなくなった織田信長は、東は徳川家康と柴田勝家の抑えに期待して、いよいよ中国筋と四国の制圧に目が向き始めていました。

ここで、”織田信長が明智光秀に厳しく当たった!”と言われるのは、何をもってそう言うのかですが、、、

  1. 天正10年3月の『甲州武田家殲滅戦』への陣中で起こったと伝えられる信じられない織田信長の光秀に対する暴力事件
  2. 天正10年5月の『安土城での徳川家康饗応役の件』で伝えられる安土城での信長と光秀の諍い事件

で起こった事を言うようです。

 

1.に関して、、、

信州諏訪郡イツレノ寺ニカ御本陣ヲスエラルト 其席ニテ明智申シケルハ サテモカヤウナル目出タキハシマサス 我等モ年來骨ヲリタル故 諏訪郡の内皆御人數ナリ イツレモ御覧セヨト申シケレハ 信長御氣色カハリ 汝ハイツカタニテ骨折武邊ヲ仕リケルソ 我コソ日コロ粉骨ヲツクシタリ ニクキヤツナリトテ 懸ツクリノ欄干明智カ頭ヲシツケ扣キ玉フ 其トキ明智諸人ノ中ニテ耻ヲカキタリ 無念千萬ト存ツメタル氣色アラハレタル由申傳タリ

(引用:柿屋喜左衛門『祖父物語 別記第百二十二 317~318頁』 国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”天正10年(1582年)3月、織田信長が武田攻めで、信州諏訪郡の何処かの寺に本陣を据えた時、会席で明智光秀が「(武田滅亡)と言うこのような目出度い事になったので、私も年来骨を折って来た甲斐があったとうれしく、ここにいる皆さまにご披露します。」と云ったところ、信長公の顔色が変わり、「お前がいつどこで武者働きの骨を折ったのか!粉骨砕身したのは、わしではないか!憎き奴め!」と怒鳴りあげ、作り付けの座敷の欄干に明智光秀の頭を押し付け殴り付けた。その時光秀は万座の中で大恥をかき、無ねん千万の形相だったと伝え聞いている。”位の意味です。

これは、『諏訪の事件』として有名な記事です。この史料『祖父物語』は尾張清須朝日村の柿屋喜左衛門(土豪か庄屋でしょうか)が、祖父が当時見聞きした事を書き留めたもので、成立が1607年(慶長12年)と言われ、織田信長らが活躍した頃の同時代人の証言に近いものと思われますが、どうした事か歴史家の間では評価が低く、余り重要視されていません。話がリアル過ぎて、講談風だからでしょうか。

 

2.に関しては、、、

信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。ところで信長は奇妙なばかりに親しく彼を用いたが、このたびは、その権力と地位をいっそう誇示すべく、三河の国主(徳川家康)と、甲斐国の主将たちのために饗宴を催すことに決め、その盛大な招宴の接待役を彼に下命した。

これらの催し事の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが、元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対意見を言われることに堪えられない性質であったので、人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたと言うことである。

(引用:ルイス・フロイス/松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史③織田信長篇Ⅲ 144~145頁』2014年 中公文庫)

 

これも有名なイエズス会宣教師ルイスフロイスの『日本史』の一節です。

これらは、『本能寺の変』の謎である明智光秀の実行動機の内、有名な3大理由のひとつ「怨恨説」の一角に位置するものですが、今や『野望説』、『黒幕説』とともに、否定的にみられています。

『織田信長が厳しく当る』と言う意味で、「信長の光秀折檻事件」を挙げてみましたが、実際この関係の史料は相互に関連が全くないと考えられるものにもこれを書き記した史料は存在し、従来後の江戸期創作の講談話だと受け取られていたものがそうではなくて、どうやら事実だったのではないかと考えられるようになり始めています。しかし、それが光秀のクーデターの動機になったかどうかは別問題です。

この折檻の原因となった「織田信長と明智光秀の諍いの理由」ですが、近年の研究で新たに注目されているのが、、、

 

  1. 織田信長の約定違反を伴う四国政策の変更
  2. 織田家中での、明智光秀の有力家臣の引抜問題

 

となっています。

1.に関しては、どういうことなのかと言えば、、、

従来織田信長は、四国政策を進めるに当たって、明智光秀の家臣斎藤利三が姻戚関係でもあった長曾我部氏を重用し、「領地切り取り次第」との朱印状まで発給し、その子息に偏諱(へんき)まで与えて(弥三郎⇒信親)蜜月関係にありました。

ところが、織田信長は天正8年(1580年)3月に宿敵石山本願寺と講和を結び、本願寺勢力の脅威が取り除かれた途端に、一転長曾我部の敵対勢力であった三好と結んで、四国での長曾我部占領地の返還を求め始めました。当初信長は「四国は切取り次第」(「信親記」等)と信親に朱印状まで出していたため、当然”信長の約定違反”だとばかりに長曾我部元親は信長の命令に反発して、一気に関係が悪化して行きました。

背後に、長曾我部氏との取次役を勤めていた明智光秀と、三好氏と組んで信長をそそのかした豊臣秀吉の勢力争いがあり、結果的に秀吉の話に乗った信長によって明智光秀は四国政策から外されて行ったことになりました。

織田信長の裏切りにより存亡の危機に立たされた長曾我部氏を救うために、織田信長の三男信孝を大将とする四国征討軍が大坂を出発する直前の6月2日に、明智光秀は織田信長父子を襲ったと言う話になります。

しかし、これは長曾我部側に立った一方的な見方(通説)に過ぎないと思われます。。。

近年の四国戦国史の研究進展により長曾我部氏は四国全土の制圧計画に当って、土佐一国の統一は成し遂げたものの、阿波・讃岐・伊予に関して統一には至っておらず、しかも阿波・讃岐に関しては織田家との連携、伊予に関しては毛利氏との連携で侵攻をしていたことが判明しています。

こうした状況を考えると、織田信長が本願寺との泥沼の戦いを繰り広げている最中、本願寺と組んで反抗する三好勢を抑えるために、四国側から三好勢を挟撃する勢力としての長曾我部氏は、信長として組むメリットが十分にあったものの、天正8年(1580年)に本願寺との和睦が成立して三好勢の取り込みにも成功し、全国統一を視野に入れている織田信長にすれば、四国の長曾我部氏との関係見直しに向かうのは自明の理となります。

まして、伊予方面で当面の織田の敵である中国の覇者毛利氏と深く手を結んでいる長曾我部氏へは、織田信長が厳しい対応に出るのは明智光秀でなくとも判断はつくと言うものでしょう。だからこそ、明智光秀は長曾我部元親への説得工作に力を入れていたわけですから、戦国の論理を知り尽くしている明智光秀が、ここで状況の読めない田舎者の長曾我部元親を救うために、一族の命運を賭けて織田信長殺害へ向かうストーリーなどは考えにくいところです。

 

次に、2.に関してですが、、、

其後 稲葉伊与家人那波和泉斎藤内蔵介を日向高知にて抱る 伊与方より断申せ共不返 其段信長聞給ひ明智を召 早々伊与へ可返との怒りなれ共 不請に付信長せひて日向をとらへ 両の鬢をつかみ敷居の上へあて折檻の時 爪先日向か月代に入血流 日向申上は三十万石の大禄を被下候へ共 身の欲に不仕 能兵を抱候は 偏に御奉公の爲也と申上る其時 信長己脇指をさしたらは成敗致べけれ共 丸こしなれは命を助ると仰す 日向もやみやみ退出せし也

(引用:国枝清軒『武辺咄聞書 99頁』京都大学付属図書館蔵 1990年 和泉書院)

大意、”その後、稲葉伊予守貞通入道一鉄の家臣である那波和泉守直治(なんば なおはる)斉藤内蔵介(さいとう くらのすけ)を明智光秀が召し抱えた。稲葉一鉄(いなば いってつ)より明智家へ抗議を申し込んだが返さない。その事を織田信長が聞きつけて、明智光秀を呼び出し稲葉一鉄に戻すように怒って命じたが、光秀は従わない。すぐに信長は光秀をつかまえ、左右の鬢をつかんで敷居押し付けた時、信長の爪が光秀の月代に入り血が流れた。光秀が言うには、「三十万石の大禄を頂いていますが、欲をかいて仕えたことはありません。能力の高い家臣を抱えることは、ひとえに殿にお仕えするためです。」と言うと、信長は、「今、脇指を持っていたらこのまま成敗してやるのだが、丸腰なので命は助けてやる。」と言われるので、光秀もやむなく退散した。”位の意味です。

この逸話は、天正10年に入ってからの事と言われており、舅の稲葉一鉄(いなば いってつ)と折り合いが悪く、一方的に辞して明智光秀に主替えをして明智家重臣となっていた斎藤利三(さいとう としみつ)が、元同僚であった稲葉一鉄の家臣那波直治(なんば なおはる)をも明智家臣に引き抜き、我慢ならなくなった稲葉一鉄が”明智光秀による御法度の家臣引抜”として、主君織田信長に訴え出たところから起こった騒ぎとされています。他の史料(稲葉家譜等)にも同様の話がみられることから実話と見られています。

ここでも織田信長による明智光秀折檻事件が起こっており、天正10年(1582年)の年明け、武田戦の頃から頻発する同様の事件に、「本能寺の変」への動機(怨恨説)を暗示するものとして伝わっています。

以前は一蹴されていた「怨恨説」ですが、”信長が光秀に厳しく当たり始めた”と言う観点から、この「織田信長の四国政策の変更」と「明智光秀の稲葉家家臣の引抜事件」は、「本能寺の変」へつながる「怨恨説」につながる事実として見直され始めています。

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光秀が「惟任(これとう)」姓をもらったのはなぜ?

織田信長関係の第一級史料とされる『信長公記』によれば、、、

七月三日、信長御官位を進められ候への趣、勅諚御座候と雖も、御斟酌にて御請これなし。

併、御心持候ふや、御家老の御衆、有閑は宮内卿法印。夕庵は二位法印。明智十兵衛は惟任日向になされ、簗田左衛門太郎は別喜右近に仰せ付けられ、丹羽五郎座衛門は惟住にさせられ、忝きの次第なり。

(引用:太田牛一『信長公記 巻八』インターネット公開版)

大意は、”天正3年(1575年)7月3日、信長公が朝廷より官位を勧められた。天皇のご命令ではあるが、よくよく考えられてお請けにならなかった。

しかし、内々に考えるところがあったのか、重臣たちへの官途勅許を得、松井有閑は宮内卿法印(くないきょうほういん)、武井夕庵は二位法印(にいほういん)、明智光秀は惟任日向守(これとう ひゅうがのかみ)になされ、簗田広正は別喜右近(べっき うこん)も申付けられ、丹羽長秀は惟住(これずみ)になされた。かたじけないことである。”位の意味です。

皆、九州の名族の名前を下賜されており、通説では、織田信長の西国制圧に向けた布石であると言われています

つまり、この臣下の名乗りは官途勅許を得て行なった、織田信長の思いの詰まった姓名官途の下賜だったと云えそうです。この時、豊臣秀吉の「筑前守」、塙直政(ばん なおまさ)の「原田備中守」、村井貞勝(むらい さだかつ)の「長門守」、滝川一益(たきがわ かずます)の「伊予守」の官途名も同時に下賜されたものと考えられています。

ここで明智光秀は、「惟任日向守」と姓に加えて官途名も得ており、「筑前守」と官途名だけの豊臣秀吉に、織田信長の信頼の厚さを見せつけたとも言えそうです。

これによって、明智光秀は、今後の西国制圧の中で、織田軍の九州進出で重要な役割を与えられる立場を得たことを内外に示したことになりました

 

明智光秀が大病に掛かったと言う話で、病名はなに?

明智光秀が病気になったと言う関係記事は、、、

御状被見候、所労之儀、弥取続得験気候、軈而可本復候條、可御心安候、・・・

六月十三日        日向守光秀

小畠左馬進殿
御返報

(引用:藤田達生・福島克彦編『明智光秀 史料で読む戦国史』所収明智光秀文書集成 144明智光秀書状 2015年 八木書店)

大意は、”書状拝見しました。病気の事は、徐々に良い兆しがあり、やがて回復するでしょうから、ご安心ください。・・・

(天正6年以前)6月13日       日向守光秀

小畠左馬進殿
御返事    ”位の意味です。

 

廿三日、乙卯、 惟日以外依所勞皈陣、在京也、罷向、道三療治云〃、

廿四日、丙辰、惟日祈念之事自女房衆申來、撫物以下之事以一書返答、

(引用:斎木一馬・染谷光広校訂『兼見卿記 第一 天正四年五月の条』1971年 続群書類従完成会)

 

大意は、”天正4年5月23日、明智光秀が予想外の急病で帰陣し京都にいる。医師の曲直瀬道三(まなせ どうさん)が治療に当っているという、、

5月24日、明智光秀の病気快癒の祈祷依頼が光秀の妻からあった。祈祷に使う人形・衣服などの必要な物を書状で返答した。”位の意味です。

この天正3年から4年にかけて、明智光秀は「丹波攻め」に傾注している頃で、4年の正月に八上(やがみ)城の波多野秀治(はたの ひではる)の寝返りに遭い、惨敗して2月から巻き返しを始めました。しかし4月には信長の命令で「本願寺攻め」で河内へ出陣し、5月3日には織田軍の重臣原田直政が討死するなど苦戦し、その後原田直政戦死の後始末に奔走し、天王寺砦まで戻って来た5月13日頃に倒れたようです。

一時、死亡説も流れるなどかなりの重体だったようですが、信長から派遣されたと思われる名医の曲直瀬道三の治療などが功を奏し、6月13日には元気になったと配下の小畠左馬進(こばたけ さまのしん)に前掲のような書状を出すまでに回復していたようです。

転戦による疲れが高齢の明智光秀を痛めつけていたようで、件の本願寺戦で負傷していたとの情報もないので、原因は「転戦続きによる過労」と言うことだったのではないでしょうか。

 

安土での家康接待で、用意した魚が腐っていたと言う話は本当か?

この話は、昔から言われていた有名な逸話ですが、原点は、、、

 

然るに 家康卿は駿河國御拝領の爲御禮 穴山殿を御同道被成御上洛之由被聞召付 御宿には明智日向守所御宿に被仰付候處に 御馳走のあまりにや肴なと用意の次第 御覧可被成ために御見舞候處に 夏故用意のなまさかな 殊の外さかり申候故 門へ御入被成候とひとしく風につれ悪き匂ひ吹來候 其かほり御聞付被成 以之外御腹立にて 料理の間へ直に御成被成候 此様子にては家康卿馳走ハ成間敷と御腹立被成候て 堀久太郎所へ御宿被仰付候と 其時節の古き衆の口は 右の通とうけ給候 信長記には大寶坊所家康卿御宿に被仰付候と御座候 此宿の様子は二通に御心得可被成候 日向守面目を失ひ候とて木具さかなの臺 其外用意のとり肴以下 無残ほりへ打こみ申候 其惡にほひ安土中へふきちらし申と相聞え申候事

(引用:『川角太閤記 巻一』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”天正10年(1582年)5月に、徳川家康が駿河拝領の御礼のために、甲斐の穴山梅雪を同道なされ、上洛されると言うのを聞かれた信長公は、明智光秀に宿舎と饗応を命じられ、その準備状況をご覧になるためにお出かけになったところ、用意された生魚が夏の暑さでいたみ、門を入るや否やその悪臭が漂い、その臭気を嗅いだ途端に、調理場へ直接出向かれ、この様子では家康卿の饗応は出来まいとお腹立ちになり、宿舎を堀久太郎邸へ変更された。当時の人たちはその通りだと言うが、『信長記』では、家康卿の宿舎は大宝坊となっているので、この宿舎の話はふたつあるようである。ともあれ明智光秀は面目を失い、用意した食材を台ごと堀へ放り込み、またその悪臭が安土中に漂ったと伝わっている。”位の意味です。

 

太田牛一の『信長公記』では、、、

五月十四日、江州の内、ばんばまで、家康公・穴山梅雪御出でなり。惟住五郎左衛門、ばんばに仮殿を立ておき、雑掌を構へ、一宿振舞申さるゝ。同日に三位中将信忠卿、御上洛なされ、ばんば御立ち寄り、暫時御休息のところ、惟住五郎左衛門、一献献上候なり。其の日、安土まで御通候ひキ。

五月十五日、家康公、ばんばを御立ちなされ、安土に至り御参着。御宿大宝坊然るべきの由。上意にて御振舞の事、惟任日向守に仰せつけられ、京都・堺にて珍物を調へ、生便敷結構にて、十五日から十七日まで、三日の御事なり。

(引用:太田牛一『信長公記 巻十五』インターネット公開版)

大意は、”天正10年(1582年)5月14日、近江の番場(滋賀県米原市番場 蓮華寺付近)まで、徳川家康と穴山信君がやって来た。丹羽長秀はこの番場に仮宿舎を建て、一行を饗応する体制を整えて一泊の世話をした。当日岐阜から織田信忠がやって来て、番場仮宿舎で休息し、丹羽長秀が一献差し上げた。信忠はその日のうちに安土城へ入った。

5月15日、家康公一行は、番場を出発し、安土城下へ到着し、宿舎の大宝坊に入った。織田信長の命令で、接待役は明智光秀が起用され、京都・堺の珍しいものを取り揃え、見事な饗応を15日から17日まで3日間行なった。”位の意味です。

織田信長の公式記録となっているような『信長公記』には、前掲の『川角太閤記』にあるような、明智光秀の徳川家康の饗応失敗による騒ぎはまったく記載されておらず、安土での饗応は無事恙なく終了したこととなっています。

明智光秀が接待に使用した什器類は、京都・奈良の寺社から名代の名品を借出して来たもので、間違っても腹いせに安土城の堀に腐った魚とともに投棄してよいものではなく、『信長公記』には騒ぎも記載されていないことから、『川角太閤記』にある”腐った魚”の記述は作者の作り話である可能性が高いと考えられます。

ルイス・フロイスの『日本史』にあるようなトラブルが、本当に織田信長と明智光秀との間で発生していたとしても、安土での”徳川家康の饗応失敗”にはつながらなかったようです。

 

まとめ

謎の多い、明智光秀にまつわるエピソードは、本人とその中心にいた実行関係者が皆直後の動乱に巻き込まれて死亡していること、その後壊滅した『織田政権』を引き継いだ形の豊臣政権とその関係者により、明智関係書類が処分・改ざんされた形跡があることなどから、事件後400年以上経過していて一層ミステリアスになっています。

現在も地道な研究が進められているので、少しづつ真相が明らかになって行くことを期待しつつ、『明智光秀』『理由』と言うキーワードで現在の気になる話を見てみました。

明智光秀に関して先ず最初に知りたい『理由』は、何と言っても『本能寺の変』を引き起こした事でしょう。

近年の話題は、2014年6月22日に岡山県の林原美術館と岡山県立博物館が、『林原美術館所蔵の古文書研究における新知見についてー本能寺の変・四国説と関連する書簡を含むー』と銘打った記者発表を行ったことです。

これによって、「石谷家(いしがいけ)文書」が、歴史の表舞台に出て、『本能寺の変ー四国説』が勢いを得て来ました。

これにより、いままで四国の長曾我部元親にまつわる話が『元親記』・『長元物語』・『南海通記』などの所謂2次史料によっていたものに、新たにかなりまとまった1次史料が出現したことになりました。

この発見を契機に戦国期の四国研究が動き始めたようです。

いままで、織田信長と長曾我部元親の関係が大きく損なわれて行ったのは、信長が元親に対して「四国は切り取り次第」などと朱印状まで出していたのに、それを一方的に破棄して、元親に対して占領地を返還せよと言い出したことにあり、仲違いの原因は”信長の裏切り”だと思われて来ました。

しかし、元親が土佐以外の四国の地域を統一した形跡はなく、元親は阿波・讃岐は信長の助力を得、伊予に関しては信長の宿敵毛利と手を組んだ進めていたことが分かり始めました。

信長が元親の態度を不審・不満に思うのは当然であり、本願寺との和平が成った天正8年以降は、全力で西国政策を進めたい信長にあって、自己都合だけで動いている長曾我部氏に見切りを付けたのは当然と言えそうです。

いくら重臣の斎藤利三の姻戚関係が絡んでいるからと言って、奔流のように動き出している織田信長に対して、明智光秀が単独で阻止に向かうと考えるのは無理があり、光秀が行動を起こしたのなら、何か背中を推す勢力がいたのではないかと思われるところです。

それから、織田信長の明智光秀に対する「折檻事件」は、「本能寺の変ー怨恨説」が否定されて以降、”あったのかもしれないが大したことではない”と言う感じで流されていますが、豊臣秀吉の御用作家と言われる大村裕己の文書の中にさえも、光秀折檻の記事がないことから、どうやら光秀を貶めるために作られた話ではないのかもしれません。

また、多数見受けられ、中にはイエズス会宣教師ルイス・フロイスまで書き残しているくらいなので、事実と見てよいのではないでしょうか。

「怨恨説」を採るわけではなくて、何であるかは分かりませんが、織田信長と明智光秀に深刻な対立があった証拠として考えて良いのではないでしょうか

それが何であるかが分かれば、『本能寺の変』の解明も一歩進むかもしれません。

「光秀が惟任(これとう)姓をもらったのはなぜ?」・「明智光秀が大病に掛かったと言う話で、病名はなに?」・「安土での家康接待で、用意した魚が腐っていたと言う話は本当か?」は、少し事実関係を調べてみたものです。

織田信長は、本当に明智光秀に対して無防備であったことは事実で、光秀の信長に対する思いと信長の思いに大きなズレがあったのでしょうね。

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参考文献

〇八切止夫『信長殺し、光秀ではない』(2002年 作品社)

〇井上慶雪『明智光秀冤罪論』(2005年 叢文社)

『川角太閤記 巻一』史籍集覧 第十九冊に所収(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇木村三四吾編『本城惣右衛門覚書』 (1976年 天理図書館誌「ビブリア」に所収)

〇桐野作人『だれが信長を殺したのか』(2007年 PHP新書)

〇立花京子『信長権力と朝廷 第二版』(2004年 岩田書院)

〇金子拓『織田信長 明智光秀』(2019年 平凡社新書)

〇柿屋喜左衛門『祖父物語』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇ルイス・フロイス/松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史③ 織田信長篇Ⅲ』(2014年 中公文庫)

〇平井上総編著『長曾我部元親』(2014年 戎光祥出版)

〇国枝清軒『武辺咄聞書 99頁』京都大学付属図書館蔵 (1990年 和泉書院)

〇太田牛一『信長公記 巻八』(インターネット公開版)

〇太田牛一『信長公記 巻十五』インターネット公開版)

 

 

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