明智光秀は、織田家中の『城』持ち大名の第一号だった!ホント?

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明智光秀が織田家初の城持ち大名に出世する理由がよく分かります。

明智光秀が城持ち大名になる前に、住んでいた可能性のあるを調べてみました。

織田信長が安土城に蓄財していた金銀財宝の行方とその額について調べてみました。

明智光秀が、永禄9年(1566年)に近江高島郡田中城で、何をやっていたのか分かります。

 

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近江坂本城の築城により、明智光秀は織田家中で城持ち大名第一号となった!ホント?

戦国の覇者織田信長を『魔王』と言わしめた事件に、元亀2年(1571年)9月12日に行われた有名な『比叡山焼き討ち』があります。

直接的には、この事件が引き起こされた理由は、織田信長の天下支配に反抗する勢力の旗手となっていた浅井・朝倉勢を支援して、織田信長に協力しない延暦寺に軍事的制裁を加えたことです。

しかし、織田信長の真意としては、、、

一般に、信長は神も仏も信じず、寺や神社を徹底して迫害したかのように言われているが、実際は自らに従う寺社は手厚い保護を加えて支配体制の中に取り込んでいる。徹底的に打撃を加えるのは、自己に敵対する勢力であり、それは何も寺社に限られたものではない。延暦寺は特に美濃・近江に広大な所領を持つ荘園領主であり、領国支配の妨げになることは明らかであった。そして信長の警告を無視して暗に浅井・朝倉氏を支援。反信長勢力の一翼でもあった。

(引用:滋賀県立安土城考古博物館編『平成8年度秋季特別展ー元亀騒乱』46頁  1996年 滋賀県立安土城考古博物館)

とありますが、これに加えて、代々この延暦寺の天台座主(てんだいざす)は皇族・公家衆から出る事になっていました。つまり延暦寺は国家鎮護の役割とともに朝廷勢力の一翼を担う存在でもありました。

朝廷をも自分の手の内に入れたがっていた織田信長にとって、延暦寺の焼き討ち・破壊は、政界の黒幕である正親町帝へ衝撃を与えることでもあった訳です。

さてここで、明智光秀ですが、、、

明智日向守光秀候シ信長ノ座前ニ 問フ今度ノ上洛軍馬爲ル向ト何ノ地ニ否ヲ 此ノ時信長失ツテ口ヲ 云大敵在リ山上ニ人不ヤト知ラ之ヲ 於此ニ軍中初テ而知ル攻ルヲ山門ヲ 光秀數々上リテ諫ヲ 云ク・・・(中略)・・・雖種々加ト忠諫ヲ信長不聽 躬ラ下-知シ兵ヲ速ニ調ヘ船筏ヲ ・・・

(引用:澁谷慈鎧編『増補校訂 天台座主記 百六十六世 准三后覺恕の条 464頁』 1935年 比叡山延暦寺開創記念事務局)

大意は、”明智光秀が織田信長の前に座って、「この度のご上洛は軍馬をどちらへ向かわせるのでしょうか」と問うと、この時信長は一瞬詰まって、「大敵が山の上にいるのを人は気が付かぬ」と言ったので、ここで初めて皆が信長は比叡山を攻めるつもりだと知った明智光秀は色々お諫め申し上げ、・・・などと散々お諫めしたが信長はこれを聞かず、自ら兵に命令して船や筏を準備させた。”位の意味です。

通説にあるように、”明智光秀は国家鎮護の道場たる比叡山を焼討ちするなどとんでもない事だと、理をつくして信長を説得に当たったが、怒りに燃えた信長は家来の諫言に聞く耳持たず、比叡山焼き討ちの命令を下した”と言う話は、この叡山側の記録である『天台座主記』の当時の記録によるものの様です。

この元亀元年(1570年)3月23日に天台座主に就任した『覺恕(かくじょ)』は、後奈良天皇の第二皇子で母は伊予の局であると記されています。

ところが、歴史作家橋場日月氏の指摘によると、、、

四月小

一日、辛亥、・・・

・・・・

皈路之刻、嶋田使者走來云、自信長在御尋之子細、早〃可罷歸也、卽島田陣所へ罷向也、嶋田云、於信長御前而沙汰也、亡父云、南都相果之時、北嶺可破滅其分也、然者王城之災歟、此義慥申乎、直可有御尋之由也、令分別可罷出之由嶋田申也、相意得之由申了、令嶋田同道、罷出信長也、卽有り對面而云、亡父事達文學、惜人也、次右之条御尋也、答云、南都北嶺相果之間、可有王城之祟之由連〃申也、但無書裁文書義者歟申、信長、尤寄特也、今度洛中放火治定也、・・・

(引用:斎木一馬・染谷光広校訂『兼見卿記 第一 元亀四年四月一日の条』1971年 群書類従完成会)

大意は、”元亀4年(1572年)4月1日、出回り先から帰宅しようとしていたら、織田信長側近の嶋田秀順(しまだ ひでより)から使いが来て「信長公より御尋ねしたいことがある」と言うので、早々に立ち戻り嶋田邸まで出向いた。嶋田が言うには「信長公の御前にてお話があり、そなたの亡父吉田兼右(よしだ かねみぎ)が『南都相果の時、北嶺破滅すべきこと、その分也。然れば王城災いか』と説いたのはその通りなのか」と直にお尋ねなのであると言う。心得ましたと言うと、嶋田に同道して信長のところへ出向いた。すぐに信長にお目通りすると、「汝の父は立派な学者で、惜しい人だった」と語り、先の話題のお尋ねがあった。そこで、「南都と北嶺が滅びると、都に祟りがあると言う話はよくしますが、確証はないのです。」とお答え申し上げると、信長が「それは良い、今度京の町に火を放つつもりなのだ、・・・」”位の意味です。

これは、『叡山焼き討ち』から2年ほど後の話ですが、この話から織田信長は比叡山を焼き払ったことを気に病んでいたことが分かり、朝廷との関係から本当は実行することに躊躇していたことを感じられると言います。

一方通説では、学識豊かな明智光秀は、『叡山焼き討ち』をしようとする魔王織田信長を必死で諫止しようとしていたと言う前述の話になるのですが、、、

仰木の事ハ、是非共なできり(撫切)ニ仕る可く候。頓て本意為る可く候、・・・

(引用:『新修 大津市史7 北部地域 348~349頁 』1984年 大津市役所)

大意は、”仰木地区の事は、是非共皆殺しにしようと思っています。そうすれば、比叡山の攻略が叶うでしょう。”位の意味です。

この元亀2年(1571年)9月2日の明智光秀から雄琴(おごと)城主和田秀純(わだ ひでずみ)宛の書状は、長い文面で『比叡山焼き討ち』の準備を着々と進めていることが細かく報告されています。

ここでは、通説で言われているのとは全く違う好戦的な明智光秀の様子と、実は『叡山焼き討ち』に躊躇する織田信長の実像が浮かび上がります

元亀元年の朝倉攻めの先陣争いと有名な「金ケ崎の退き口」を、その後の浅井攻めの攻勢で、豊臣秀吉に手柄を独り占めにされた焦りからか、明智光秀の好戦的な姿は際立っているようです。

・・・。御前へ参り、悪僧の儀は是非に及ばず、是れは御扶けなされ候へと、声々に申し上げ候と雖も、中々御許容なく、一々に頸を打ち落され、目も当てられぬ有様なり。数千の屍算を乱し、哀れなる仕合せなり。年来の胸朦を散ぜられ訖んぬ。さて、志賀郡、明智十兵衛に下され、坂本に在地候ひしなり。

(引用:太田牛一『信長公記 巻四 叡山御退治の事』インターネット公開版)

大意は、”織田信長の前へ引き立てられ、僧侶は問答無用に、これはお助けしてほしいと家臣が声を挙げても、信長は容赦なくどんどん首を切らせて目も当てられぬ惨状で、数千の遺体が散らばり悲惨な状況である。さて、延暦寺のある志賀郡は明智光秀に下げ渡されて、光秀は坂本在住となった”位の意味です。

このように、明智光秀が主導したとも思える『叡山焼き討ち』は成功裡に終わり、織田信長から人の嫌がる事をやり遂げたその功を称えられた明智光秀は、元亀2年に延暦寺の所領も含む滋賀郡を与えられ、早くもその年の12月には「坂本城」築城が始まります。

そして、光秀は、、、

十二月・・・・。

明智坂本ニ城ヲカマヘ。山領ヲ知行ス。山上ノ木マテキリ取。

(引用:『永禄以来年代記 元亀二年十二月の条』「続群書類従 第29輯」に所収  国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”元亀2年(1571年)12月、明智光秀は坂本に築城を始め、比叡山延暦寺の所領を知行する。坂本城築城のために、比叡山の山の上まで用材を伐採した。”位の意味です。

明智光秀は、信長からもらった坂本の地に、神聖な比叡山の樹木を伐採してまで、築城を急いで行っており、、、

去廿二日、明智爲見廻下向坂本、杉原十帖・包丁刀一、持參了、城中天主作事以下悉被見也、驚目了、入夜歸、路次大雪降了、

(引用:斎木一馬・染谷光広校訂『史料纂集 兼見卿記 第一 元亀3年12月24日の条』1971年 続群書類従完成会)

大意、”元亀3年(1571年)12月22日に、明智光秀のところへ見舞いに行こうと坂本へ、杉原紙(すいばらし)10冊・包丁一丁を手土産に持参して出かけた。ほぼ出来上がった坂本城の天守閣を見て、その見事さに大いに驚いた。夜に帰京したが、途中で大雪になった。”位の意味です。

この兼見卿の「城中天主作事以下悉被見也、驚目了」の記事に関して、、、

 

そして明智は、都から四里ほど離れ、比叡山に近く、近江国の二十五里もあるかの大湖(琵琶湖)のほとりにある坂本と呼ばれる地に邸宅と城塞を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。

(引用:松田毅一・川崎桃太訳 ルイス・フロイス著『完訳フロイス日本史③織田信長篇Ⅲ 第56章 144頁』2014年 中公文庫)

と、イエズス会宣教師ルイス・フロイスも絶賛しているほどの出来栄えの坂本城だったようです。

こうして、前述にあるように明智光秀は、元亀2年(1571年)9月に織田信長から『叡山焼き討ち』の功労によって志賀郡の領地を与えられ、ここに坂本城を築城して織田家中で初めて『一国一城』の主「大名」になったことが分かります。

ライバルの豊臣秀吉が、織田信長から江北長浜に領地を与えらるのは、浅井長政の滅亡した天正元年(1573年)9月の事で、明智光秀から遅れる事2年でした。

そして、通説とは全く違う、戦国武将”明智光秀”の姿が分かって来ることになります。


(画像引用:坂本城址公園 ACphoto)

 

美濃在住時代に明智光秀が住んでいた城はどこなの?

明智光秀の美濃在住時代と言うのは、生れ(享禄元年<1528年>説と永正13年<1516年>説があります)てから弘治2年(1556年)の所謂「道三崩れ」で、斎藤義龍(さいとう よしたつ)の攻撃を避けるために、美濃から越前へ逃れた時までを言うことになります。

近年の系図研究により明智光秀は、京都在住で足利将軍を支えた幕府奉公衆土岐一族の内、明智頼高(あけち よりたか)系の一族で京都より急遽美濃に下向した家族に、美濃で生れた人物の可能性が高いのではないか、と思われて来ています。

とすると、美濃守護職土岐氏の在城する現在の岐阜市正法寺付近にあったとされる国府革手(かわで)城辺りにいた可能性が高いと思われますが、当時美濃国は天下の騒乱に巻き込まれていて、光秀が生まれた頃は、「応仁・文明の乱」の最中に美濃で一世風靡した、守護代斎藤妙珍(さいとう みょうちん)の死後の騒乱で、土岐家・斎藤宗家ともに衰微してしまい、美濃の国政は土岐家の宿老(重役)たちの合議制によって運営されている状況でした。

そして、この宿老合議制は永く続かず、永正14年(1517年)には、宿老の一人斎藤新四郎利良(さいとう しんしろう としなが)と父土岐成頼(とき しげより)のあと守護職に就いていた土岐政房(とき まさふさ)との間で内乱が起こると言った状態でした。この間光秀の家は守護職土岐政房が後継に推す次男頼芸(よりよし)ではなく、嫡男土岐頼武(とき よりたけ)側に付いていたとされ、いずれにせよ国府革手城を中心に騒乱が続いていたようです。

こんな中、革手城付近の館に安心して幼児期を過ぎせたとも思えず、幼児光秀の身は、土岐明智氏の拠点長山城(可児郡)にあったとも思われますが、その後光秀が仕える守護頼武の子頼澄(よりずみ)と幼少期より一緒に過ごした可能性が高いことから、やはり守護の住む革手城に人質として預けられていたのではないかと考えられます。

とすると、この説に従うと、明智光秀は長山城(明智城ー可児郡)⇒ 革手城(岐阜市)と移り、その後土岐政房の次男頼芸(よりよし)と組んだ斎藤道三に追い出されて越前に落ちた嫡男頼武の子頼澄が、斎藤道三と和議を結んで美濃に復帰して入った、と思われる大桑城(おおがじょうー岐阜市)の順ではないかと考えられます。

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『本能寺の変』後に明智光秀は、安土城の財宝をどうしたの?

天正10年(1582年)6月2日未明の『本能寺の変』の時、安土城では、、、

六月三日、未の刻、のかせられ候へと、申され候。御上臈衆仰せらるる様、とても安土打ち捨て、のかせられ候間、御天守にこれある金銀・太刀・刀を取り、火を懸け、罷り退き候へと、仰せられ候ところ、蒲生右兵衛大輔、希代無欲の存分あり。信長公、年来、御心を尽され、金銀を鏤め、天下無双の御屋形作り、蒲生覚悟として、焼き払ひ、空く赤土となすべき事、冥加なき次第なり。其の上、金銀・御名物乱取り致すべき事、都鄙の嘲笑、如何が候なり。・・・

(引用:太田牛一『信長公記 巻十五 江州安土城御留守居衆の有様の事』インターネット公開版)

大意、”天正10年(1582年)6月3日午後2時頃、安土の女房衆が、城から避難するなら天主にある金銀財宝を取り出し、城に火を懸けて退去しようと言い出していたところ、安土城留守将の蒲生賢秀(がもう かたひで)は、安土城は信長公が年来の心を尽くして築城され、金銀をちりばめ、天下無双の城づくりをされたもので、賢秀としては、それを焼き払うなど畏れ多いことであり、まして金銀財宝を略奪するなど、日本中の笑いものになるだろうよと諭して、・・・”位の意味です。

このように、安土城留守将の蒲生賢秀は、在城の女房衆に金銀財宝に手を付けさせずに、城に火も懸けることなく息子の氏郷(うじさと)と協力して、時を惜しんで蒲生氏の居城近江日野(ひの)城へ落ち延びさせていました

と言うことで、安土の織田勢は天正10年(1682年)6月3日の城からの退去時に、安土城の財宝には手を付けていなかったことが分かります。

織田信長が、安土城にどのくらいため込んでいたのかよくわかりませんが、、、

当時のイエズス会宣教師ルイス・フロイスによれば、、、

信長は莫大な数量の宝を集め、日本のすべての重立った財産と貴重品を入手し、さらにその権力を誇示すべく該地方において特筆に値する多くのことを行なった。

彼は近江国の安土山に、実に見事で不思議なほど清潔な城と宮殿を造営した。彼がもっとも誇っていたことの一つは、その邸の美麗さと財産、ならびに七層を数える城塞であった。

(引用:松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史③ 織田信長篇Ⅲ 第55章 131~132頁』2014年 中公文庫)

 

と前述太田牛一とこの宣教師ルイス・フロイスの証言もあり、莫大な財宝が織田信長の安土城に手つかずで存在していたことは間違いないようです。

そして、、、

・・・、明智ガ軍勢ハ干戈ヲ動サズシテ、輙ク城ヲゾ乗取ケル。・・・、偖、信長公ノ貯へ置給ヒシ金銀財宝ハ、夥敷安土ノ城ニ有之シヲ、悉ク奪取テ京都ヘ指上セケレバ、日向守光秀、則チ、財宝ヲ家来共ニ分与ケリ。又、後生菩提ノ為ニ、南禅寺・天竜寺・相国寺・東福寺・建仁寺・万寿寺・大徳寺・妙心寺此寺々ヘ祠堂銀ヲ大分施入シケル。

(引用:二木謙一監修『明智軍記 巻九 安土城以下開退事附光秀京都政務事の条 307頁』2015年OD版 角川学芸出版)

大意は、”明智光秀軍は兵力を使うことなく、安土城を乗っ取った。・・・さて、信長公が蓄えていた金銀財宝は、莫大なものが安土城にあった。明智光秀は、これをすべて強奪し、家来に分け与え、信長公の菩提を弔うためとして、南禅寺・大徳寺など多数の寺へ寄進した。”位の意味です。

また、、、

パードレ等及びセミナリヨの少年等が去った直後の土曜日に明智は安土山に着いたが、諸人が逃亡してゐたため少しの抵抗もなく、信長の宮殿と城を占領し、城の最も高い所に登って、信長が金銀及び各種貴重品を満したと言はれる蔵を開いた。ここには日本中のよいものを皆集めてあったが、これを十分にその部下に分った。信長が十五年乃至二十年の大なる骨折と戦争とによって得たものを、二、三日の間に貴族たちには身分に応じて分配し、低い者には己の意に従って黄金を分ち与へた。

・・・都に禅宗すなわち現世の後には何物もなしといふ宗派の主要な寺院が五カ所あり、これを五山Gosamと称したが、この僧院に各々七千クルサドを贈って、信長のために葬儀を行はせた。都の市民の多数ならびに同所にゐた彼の知人達には、多額の金と大なる価値のある品物を与へた。

(引用:村上直次郎訳『イエズス会日本年報 上 新異国叢書 3 一五八二年[天正十年]の日本年報追加 220~221頁』1969年 雄松堂書店)

とあり、安土城に手つかずで保管されていた織田信長の莫大な財宝は、明智光秀がその部下達に分け与え、京都の朝廷・貴族・五山など有力寺院ならびに、市中の有力者たちにばら撒いてしまった事が種々に史料によって明らかにされています。

 

明智光秀が近江高島郡の田中城に籠城していたのは、なんのためにやっていたの?

明智光秀が近江高島田中城に籠城していた話は、近年の史料(米田家文書)からの新しい発見により広まりました。

 

右一部、明智十兵衛尉高嶋田中籠城之時口伝也、

(引用:米田貞能<救政>『米田家文書「針薬方」の紙背文書』2014年 吉川弘文館『古文書研究 第78号』所収 村井祐樹「幻の織田信長上洛作戦」注6に記載)

 

大意、”右の内容の一部は、明智光秀が高嶋郡田中城で籠城していた時に口頭で聞いたものである、”位の意味です。

これが、新発見の明智光秀の初出文書とされるもので、永禄9年(1566年)以前の米田救政(こめだ もとまさ)自らの記述と想定されています。

通説では、この時期は越前朝倉氏の保護を受けているはずの明智光秀が、なぜ近江国の湖北地域にある高嶋田中城にて籠城戦を戦っているのか、全く訳の分からない話です。

これに関して、歴史作家の橋場日月氏によれば、、、

 

田中氏は当時近江の戦国大名、六角義賢(承禎)の支配下にあり、北近江で勢力を伸ばす浅井長政の圧迫を受けていた。ということは、光秀の籠城は浅井氏から田中城を守るためだった、ということになる。

ではなぜ彼が田中城に入ったのだろうか。

それは、足利将軍家の命令によるものと考えられる。

・・・・

永禄八年時点より以前、田中城とその周辺は、足利将軍家の支持勢力の財政を支え、将軍家と若狭の連絡ルートを確保し、また六角・武田の提携を維持するために、何が何でも守らなければならない政治戦略上の重要拠点だったのだ。そのため、将軍家は奉公衆の光秀に対し、田中城防衛に協力するよう命じ、高島郡へ派遣したのだろう。

(引用:橋場日月『明智光秀 残虐と謀略』2018年 祥伝社新書)

 

とあり、また上記の浅井氏が田中氏に干渉していた事に関し、、、

 

今度三坊申談儀付而、種々御馳走本望候、仍河上六代官之内田中殿分進之候、向後彌御忠節管要候、恐々謹言。

永禄九年 卯月十八日     浅井備前守長政(花押)

千手坊 御宿所

(引用:小和田哲男『浅井氏三代文書集 浅井長政35「来迎寺文書」』1972年 浅井家顕彰会)

 

大意、”今度、三坊(西林坊・定林坊・寶林坊)から訴えの有った件について、色々お世話してくれる事本意と思い、河上六代官の内、田中氏の分を進上する。今後忠節に励んでほしい。

永禄9年(1566年)4月18日   浅井長政

千手坊 宿所”位の意味です。

 

更に、、、

 

高嶋之儀、饗庭三坊之城下迄令放火、敵城三ヶ所落去候て今日令帰陣候、然処、従林方只今如此註進候、可然様御披露肝要候、相替儀候ハヽ追々可申上候、恐々謹言、

五月十九日      明智十兵衛尉光秀(花押)

曾我兵庫頭殿 御宿所

(引用:永靑文庫所蔵『細川家文書』2015年 藤田達生・福島克彦編「明智光秀 史料で読む戦国史③」 八木書店 に所収)

大意は、”高嶋郡の件、饗庭三坊(あえば さんぼう)の城下迄放火させ、敵城3ヶ所を落城させて、今日帰還した。そうしたところ、今、林員清(はやし かずきよ)より報告もあったので、状況ご報告いたします。状況が変わりましたら、追加で報告いたします。

5月19日       明智光秀

曾我助乗殿 御宿所”位の意味です。

 

とあり、後の文書が引用本では元亀3年(1572年)に比定されていますが、内容から永禄9年(1566年)の可能性が高く、両文書を合わせてみると、永禄9年に明智光秀が高島郡の田中氏周辺で浅井氏と戦っていた様子が想定出来そうで、後の文書の宛先の曾我助乗(そが すけのり)が足利将軍家の側近であることから、命令者は、将軍家であった可能性が高いのではないかと思われます。

この田中氏への与力の出陣命令は、将軍家の意を受けた越前朝倉氏に命じられて、当時朝倉家の客将であった可能性のある明智光秀が出陣していたものか、光秀が奉公衆明智家として将軍より直接命令を受けて出陣していたものかは判然としませんが、将軍側近曾我助乗に報告書を挙げていることから、光秀が率いていたのは幕府軍であった可能性が高いものと思われます。

永禄11年(1568年)の足利義昭・織田信長の上洛以前に、明智光秀が幕府軍として仕事をしていたらしいことを示す『米田家文書(こめだけ もんじょ)』で発見された「明智光秀の田中城籠城記事」は、通説の修正を強く迫るもののように感じられます。

 

『本能寺の変』の時に明智光秀が、織田信忠の逃げ込んだ堅牢なはずの「二条御所」を、簡単に落城させることが出来たのはなぜ?

このような疑問・通説が出て来る原因のひとつは、誠仁親王(さねひとしんのう)がお住まいの「二条御所(下御所)」と、京都在住していた頃の15代将軍足利義昭(あしかが よしあき)が政庁として使っていた「二条城(二条御所)」を、名前が同じ事から同一視・混同されている事のようです。

天正7年(1579年)から誠仁親王が”下御所”に使っていた「二条御所(下御所)」は、もともと織田信長が、京都の邸宅(織田幕府の政庁)として使おうと建設した屋敷であり、一方永禄12年(1569年)に将軍足利義昭の為に、織田信長が陣頭指揮して築いた「武家御城(ぶけごじょう)」と呼ばれた堅牢な建造物である「二条城(二条御所)」は、元亀4年の「将軍足利義昭の京都追放」の後、取り壊されたとされており、また誠仁親王の「二条御所」とは場所も違うようです。

要するに、「二条新御所」は、城塞ではなくて普通の御屋敷であったので、明智軍の攻撃を防ぐことが難しかったと言う話になります。

もうひとつは、、、

小沢六郎三郎、鳥帽子屋の町に寄宿これあり。信長公御生害の由承り、此の上は、三位中将信忠卿御座所へ参り、御相伴仕るべきの由、申され候。・・・亭主・隣家の者ども、名残惜しく存知、跡をしたひて見送り候へば、御構へに走り入り、中将信忠卿に御目に懸かり、其の後、面の御門をかため、何れも申し合せ、切って出でて、面々の働き、中々、是非に及ばず。か様候ところ、御敵、近衛殿御殿へあがり、御構へを見下し、弓鉄炮を以て打ち入り、手負死人余多出来。次第次第に無人になり、既に御構へに乗り入れ、火を懸け候。

(引用:太田牛一『信長公記 巻十五 中将信忠卿、二条にて歴々御生害の事』インターネット公開版)

大意は、”安土城築城の石奉行小沢六郎三郎(おざわ ろくろうさぶろう)は、京都市中の鳥帽子屋町(現京都市内烏丸三条付近)に下宿していた。本能寺にて既に織田信長公自刃の噂を聞き、せめてもと嫡男信忠卿の御座所に行き、命運を共にしたいと申され、・・・下宿屋の亭主や隣人たちに見送られ、二条御所へ駆け込んで、信忠卿にお目にかかり、その後、表の門を固め、防禦に努め、諸士の働きも中々のものではあるが、苦戦であった。そんなところ、反乱軍は、隣の近衛邸の屋根にあがり、二条御所を見下ろして、弓鉄炮を打ち込み、御所内のお味方に多数の死傷者が出て、徐々に全滅した。反乱軍は二条御所に押し入り建物に放火した。”位の意味です。

二条新御所の隣の敷地は、近衛前久(このえ さきひさ)卿の屋敷であり、前久は反乱軍の兵士を屋敷に誘きいれて、二条新御所に面した建物の屋根から、御所内の織田信忠一行を銃で射殺するのに便宜を図ったと疑われたことです。

つまりこの謀叛『本能寺の変』に近衛前久が深くかかわっているのではないかと言う話になります。事実、山崎の合戦後に豊臣秀吉の追及を逃れるために、直ちに近衛前久は京都を出奔し行方をくらましているようです。

通説では、織田信忠が立て籠もった二条御所は、信長が討ち取られた本能寺と比べて防御力のある城塞だったのではないかと思われていたはずでしたが、現実には簡単に落城してしまい、その理由としては上記2点が考えられます。

当時の見方では、二条御所の隣家である近衛邸の屋根からの鉄炮連射が出来た事が大きかったとされ、同時にその手引きをした前太政大臣近衛前久卿が、豊臣秀吉らから”明智光秀の謀叛に加担した”と疑われた訳です。

 

まとめ

明智光秀は、永禄12年(1569年)初旬の『本圀寺合戦』、その後の京都での行政手腕、元亀元年(1570年)の『金ヶ崎退き口』などの貢献と、元亀2年(1571年)の『比叡山焼き討ち』の論功行賞により、織田信長から近江志賀郡に領地が与えられて、遂に坂本の地に築城が許されました

ついに明智光秀は、領地を拝領することによって織田信長の家臣となり、坂本城の築城が許されたことにより、織田家家臣で初の”城持ち大名”となることが出来ました。

美濃国出身と言われる明智光秀が、歴史の表舞台に出て来る足利義昭上洛の永禄11年(1568年)以前に居住していたと思われる”城”を探してみました。

本文で見るように、現美濃加茂市にある「長山城(明智城)」 ⇒ 現岐阜市正法寺付近の美濃国国府の「革手(かわで)城」 ⇒ 現岐阜県山県市にある「大桑(おおが)城」ではないかと思われます。

次に、巨万の富を蓄えていたと言われる安土城にあった織田信長の財宝の行方が気になるところですが、史料を見る限り、通説通りに明智光秀が家臣や京都の寺社・公家衆に配って散財してしまったと思われます。

しかし明智光秀が、ほんの数日の安土城滞在で持ち出せたとは思えないほど有ったと考えられる織田信長の財宝ですから、一気に散財したと言うのはとても信じらない話ですが、後に慌てて安土城に入城した信長次男の織田信雄(おだ のぶかつ)が見つけたと言う話もありませんので、本当になくなっていたのでしょうから全く不可思議です。

そもそも織田信長の財宝が安土城にどのくらいあったのかの目安は、その後を継いだ豊臣秀吉の大坂城での蓄財の例が参考になるかと思います。

本線から外れますが、ちょっと凡そを計算してみましょう、、、

天正20年(1615年)5月8日の大坂城落城の後、徳川家康の命令で、大坂城の蔵にある金銀財宝の調査が行われましたが、その結果、黄金2万8千枚、銀2万4千枚の存在が確認され、総額約30万両程度と思われます。

これは徳川家康が、慶長5年(1600年)9月の『関ケ原の戦』の後、豊臣家の豊臣家の石高を220万石から畿内65万石に縮小させ、その後方広寺の大仏再建も含め多数の寺社の修理・建立を行なわせ、最後に『大坂の陣』に多額の戦費を使わせた後の残高だったと言うことになります。

となると、まだ豊臣秀吉の生存していた時期の最終蓄財額は、、、

慶長20年(1615年)当時の大坂城の実残高が約30万両余あったことを考えると、秀吉の死後17年に及ぶ莫大な豊臣家の歳費・家康に支出を強要された寺社の建造費・『大坂の陣』の戦費などによる散財した消費などから見積りますと、(根拠はありませんが、天正期の1両=米4石、江戸の貨幣価値で見た1石=75,000円相当を基準に考えるとすると)、、、

豊臣家が、関ケ原以降の収入(65万石程度)で従業員1万人の大坂城をそのまま維持していた事を考えると、凡そ年額で少なくとも100万石くらいの取り崩しが必要だったのではないかと思われますので、17年間の取り崩し額で1700万石(=5兆1千億円)と、その間寄進した寺社の建造費用(正確には想像も付きませんが仮に控えめに見て2000億円とする)、大坂の陣の戦費(仮に少な目に見て5000億円)を合計すると、5兆6千億円くらいにはなるかと思います。

慶長3年(1598年)の秀吉死去時の蓄財額は、控えめに見た大まか計算でも5兆6千億円くらいになりそうで、とすると師匠である織田信長の天正10年(1582年)当時の蓄財額は、少なくとも同程度(およそ6兆円くらい)はあったのではないかと想定されます。びっくりですね・笑。

次に、”明智光秀に関する新史料”と言われる熊本の『米田文書』にあった「近江高島郡の田中城籠城」の件ですが、これが本当だとすると、どうやら光秀は永禄9年(1566年)以前に既に”幕臣”だった可能性が出て来そうですね。

最後に、『本能寺の変』の時、織田信長嫡男の織田信忠が逃げ込んだ「二条城」が簡単に落城した原因について、永禄12年(1569年)に足利義昭のために織田信長が築城した『二条御所』と、信忠が逃げ込んだ『二条御所』を同一建造物であると誤認したことによる勘違いだったようです。

当時の情報には、施設の勘違いなどありえませんから、前太政官近衛前久卿の屋敷屋根からの弓・鉄炮での射撃・皆殺しであったことを問題視して、前久の『本能寺の変』への関与を問題視したようです。

以上、明智光秀の”城”に関する沢山あるエピソードの中から、興味のある5点をピックアップして調べてみました。何かのご参考になれば幸いです。

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参考文献

〇滋賀県立安土城考古博物館編『平成8年度秋季特別展ー元亀騒乱』(1996年 滋賀県立安土城考古博物館)

〇澁谷慈鎧編『増補校訂 天台座主記』(1935年 比叡山延暦寺開創記念事務局)

〇橋場日月『明智光秀 残虐と謀略』(2018年 祥伝社新書)

〇斎木一馬・染谷光広校訂『兼見卿記 第一』(1971年 群書類従完成会)

〇『新修 大津市史7』(1984年 大津市役所)

〇太田牛一『信長公記 巻四』(インターネット公開版)

〇『永禄以来年代記』「続群書類従 第29輯」に所収 (国立国会図書館デジタルコレクション)

〇斎木一馬・染谷光広校訂『史料纂集 兼見卿記 第一』(1971年 続群書類従完成会)

〇松田毅一・川崎桃太訳 ルイス・フロイス著『完訳フロイス日本史③』(2014年 中公文庫)

〇勝俣鎮夫『戦国時代論』(1996年 岩波書店)

〇藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成【第2版】』(2017年 思文閣出版)

〇明智憲三郎『光秀からの遺言』(2018年 河出書房新社)

〇太田牛一『信長公記 巻十五』(インターネット公開版)

〇二木謙一監修『明智軍記』(2015年OD版 角川学芸出版)

〇村上直次郎訳『イエズス会日本年報 上 新異国叢書 3』(1969年 雄松堂書店)

〇米田貞能『米田家文書「針薬方」の紙背文書』(2014年 吉川弘文館『古文書研究 第78号』所収 村井祐樹「幻の織田信長上洛作戦」注6)

〇小和田哲男『浅井氏三代文書集』(1972年 浅井家顕彰会)

〇永靑文庫所蔵『細川家文書』(2015年 藤田達生・福島克彦編「明智光秀 史料で読む戦国史③」 八木書店 に所収)

 

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