執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
毛利家の外交僧安国寺恵瓊はなぜ関ケ原敗戦で斬首されたか?
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戦国大名毛利家の一外交僧であった安国寺恵瓊が、その類まれな能力で豊臣秀吉の
側近としてのし上がって行きながら、なぜ関ケ原の戦いで負けて、
京都六条河原の露と消えたのかをとことん解説します。
目次
安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)とは一体なに者?
通説では、、、
天文10年(1541年)に毛利元就に滅ぼされた安芸武田氏の一族と
言われ、安芸安国寺にて出家し、その後京都東福寺の僧侶と
なった臨済宗東福寺派の禅僧 揺甫恵瓊(ようほ えけい)
だと云います。
師の竺雲恵心(じくうん えしん)が毛利家の外交僧(使僧)だったため、
恵心引退後に弟子の恵瓊が後を継ぐ形となりました。
”三本の矢”の話で有名な毛利3兄弟(毛利隆元、吉川元春、
小早川隆景)のうち、小早川隆景に重用され、徐々に毛利家の
外交僧としての地位を確かなものにして行きます。
僧としても、京東福寺、南禅寺の住持〈住職)にもなり、禅宗の
最高位についた高僧です。
師の恵心に従って毛利家の外交に関わる内に持ち前の能力に
磨きがかかり、毛利家のネゴシエーターとして徐々に戦国の
世に名前を知られる存在となって行きました。
後の天下の覇者秀吉との関係は信長の上洛辺りからと思われ
ますが、何と言っても秀吉が中国攻めの責任者となってから
敵側毛利の外交僧として備中高松城を巡って対峙した
時からとなります。
この時は恵瓊と秀吉方軍師黒田官兵衛の折衝で、あの歴史上
有名な秀吉の”中国大返し”の演出をすることになります。
その後の恵瓊の豊臣政権内での出世を見ると、この備中高松
での談判の内容が見えるような気がします。
正に”毛利を踏み台にした”と言われても仕方のない状況
ではありますが、歴史の表に出ていない、恵瓊の人脈
の歯車がうまくかみ合っていたという事でしょう。
毛利家が反信長連合として、本願寺ー足利義昭を巡る政治勢力
と大きくかかわっていた関係上、恵瓊はこれらの関係者との
人脈と深く繋がり、将軍義昭に関連する細川藤孝(幽斎)、
明智光秀などともつながっていた可能性のある謎の
人物と云う見方も出来ます。
しかし、『策士、策に溺れる』との言葉どおり、ポスト秀吉の
状況を読み誤った恵瓊はあっけなく滅びることとなります。
今私たちは、結果を知っているのでそんなことが云えますが、
当時の状況を見ると、政権中枢部の要人は家康を除いてほぼ
西軍にいる感じで、いかに家康が大老であろうと大金持ちの
豊臣家を中心に西軍有利とみてもおかしくないと思います。
事実現場の状況でも、明治新政府が陸軍大学に招いたドイツ陸軍
の軍人メッケル少佐は現地踏査して陣立て図を見て、
即座に西軍の勝ちと云ったと伝えられています。
あの戦いの帰趨は計算では西軍の勝利だったんじゃない
でしょうか。
家康側は武闘派の猛将が多数集まっていますが、統制のとれ
ない人物ばかりで、これを制御したのは家康の武人として
の力なんでしょうね。
恵瓊のコンピュータも家康と云う巨人の持てる”人間力”を
計算し切れてなかったという事なのでしょうか。
安国寺恵瓊と云うひとは歴史の脇役かもしれませんが、、、、
NHK大河ドラマでも秀吉が絡む物語にはなくてはならない人物
(キャラクター)で日本の政治史の大舞台で光彩を放って
大きく羽ばたいた歴史上の人物と言っていいと思います。
《画像は京都南禅寺です》
安国寺恵瓊は本当に信長の転落と秀吉の活躍を予言したの?
毛利家吉川元春側近の児玉三右エ門、山県越前守、井上春忠
に宛てた天正元年(1573年)12月12日付の書状に、
『・・・信長・・高ころびにあおのけに転ばれ候。藤吉郎
さりとてはの者にて候』とあったと伝えられています。
『本能寺の変』のほぼ10年前です。
こんな書状が残っていますので、この予言は事実と
みていいんじゃないでしょうか。
恵瓊はこんな予言めいたことをどんな判断に基づいて
書いたのでしょうか。
先ずこの書状が出た時期に恵瓊が何をしていたのか
を見て行くことにしましょう。
元亀2年(1571年)6月14日領主毛利元就が『天下を
狙ってはならぬ』との遺言を遺して死去し、輝元を
当主として叔父の吉川元春、小早川隆景が補佐する
新体制が始まりました。
毛利は九州の大友宗麟との間を恵瓊を使って
和議を成立させて、山陰の尼子(あまご)の
残党の駆逐を始めていました。
折しも畿内では、信長が石山本願寺、三好三人衆、
比叡山延暦寺、浅井・朝倉勢のいわゆる織田包囲
網に対して、9月に入ってからその一角で資金元
と目される比叡山を焼き討ちにして包囲網の
突き崩しにかかっていました。
一方、、、
毛利家として、山陰の尼子一族を長い時間かけて
駆逐して来た狙いのひとつに石見銀山の利権が
ありました。
そして、もうひとつの利権と考えているものに
瀬戸内の海運がありました。
もうすでに西側は村上水軍を傘下に入れることに
より手に入れていますが、東側はまだ三好三人
衆の影響下にありました。
毛利宗家としては本願寺・将軍足利義昭サイドの
スポンサーになっていましたが、恵瓊は三好を
駆逐し瀬戸内全域を押さえる方が得るものが
大きいと踏んでいて、三好と敵対する
織田信長と組むメリットの計算を
していたようです。
恵瓊は、、、
その利を毛利家に説いて、織田信長への接近する
ことを考えていて、その年の12月にはもう
信長への謁見をしています。
そして翌年元亀3年(1572年)夏には信長に了承を
もらって備前の宇喜多家へ軍を進め屈服させて
から、三好の領地の四国阿波へ侵攻の為、
讃岐へ上陸しました。
そのまま10月に入り、武田信玄の上洛の情報に
接して侵攻を控えることなります。
結果、武田信玄の病死により信玄の上洛はなくなりましたが、
反信長勢力へ決起を促し続ける将軍足利義昭に対して、
忍耐の限度を超えた信長は翌年3月25日に岐阜
を進発して足利将軍を攻撃し、7月に15代将軍足利義昭を
京都から追放して室町幕府を滅亡させてしまいます。
そして、8月には浅井・朝倉を滅亡へ追い込み、浅井の
小谷城では、信長の妹お市の方とその娘達以外は
皆殺しにしました。
追放された足利義昭は堺に留まり、毛利家に対して自身の
受け入れの使者を送って来たので、恵瓊はその件に関し、
信長配下の京都奉行となっていた羽柴秀吉と
11月に京都にて談判しています。
問題の書状はこの年の12月12日付ですから、この談判の過程
での秀吉の人物評価と、それ以前の信長の所業(叡山焼き討ち、
浅井朝倉の皆殺し等)等、情報に裏打ちされた恵瓊なりの
人物評価を書いたものと思われます。
結果、恵瓊の”人を見る目の確かさ”は後日証明される
こととなりました。
側近としての秀吉政権での仕事は?
まず、どんな風に秀吉の側近になって行ったのでしょうか、、、
とっかかりとしては、天正10年4月の備中高松城の攻防戦
から恵瓊と秀吉の濃密な関係が始まったと云えます。
この時、、、
羽柴軍が撤収を始めたのは、6月6日からとなっていますが、
一説には動かなかったとされる4日の清水宗治自刃後には
もう既に動き始めたとも言われています。
しかも退き陣時には、すでに毛利軍首脳は本能寺の変と信長の死
の情報を得ていたはずで、騙されたと気づいて追撃に入るのが、
普通の戦国武将です。
羽柴軍は”しんがり”部隊を配置した気配すらないのです。
これは戦国時代の常識ではありえませんね。
これに対する答えは、秀吉と恵瓊は既に同盟を結んでいたと
云う事になります。
すべて、怪しいのです。。。
改めて、宣教師ルイス・フロイスの「日本史」を読んでみると、
”光秀の兵士たちはこの京都行は光秀が信長に命じられて
家康を討ちに行くのだろうと皆思っていた”
と記載されています。
やはり、『信長の家康謀殺に便乗した信長暗殺だったと云う
作家明智憲三郎氏の仮説』が説得力を持って来ます。
あの奇跡的な秀吉の”中国大返し”を可能にするには、「光秀
の謀叛」を秀吉も黒田官兵衛も安国寺恵瓊も予想していた
と云う事がないと成立しないでしょうね。
話を元に戻しますと、、、
毛利家の秀吉との交渉窓口になった恵瓊はこの本能寺の変に
対応する秀吉の一世一代のパフォーマンスの共犯者になる
ことにより秀吉の大きな信頼(或は大きな貸し)を
得て行ったと考えられます。
天下の統一に向かい始めた秀吉の有力な協力者となった
恵瓊は秀吉の四国攻めに毛利家を協力させ、徐々に
秀吉のブレーンとしての立場を作り始めて、
黒田官兵衛とともに軍師格となりました。
そして、”小牧長久手の戦”後、豊臣政権が確立していく
と秀吉の重要閣僚として、千利休、石田三成ら官僚、
諸大名の間を上手く取り持って行く政治家として
活躍を始めます。
また九州征伐時には、黒田官兵衛とともに遠征軍の
軍監を命ぜられるなど破格の出世をして行きます。
もう毛利家の一外交僧ではなく、ひと言で言うと、
秀吉の非常に有能な側近、重要閣僚のひとりと
なって行きました。
この働きのベースとなっているのは、外交僧として
培った諜報活動による状況分析力の確かさです。
他の武将にはない情報収集能力と現状分析能力を
秀吉に高く評価され、重要な役割を常に
こなして来た実行力を買われていた
のです。
現代風に云えば、CEOとしての能力を株主(秀吉)
のために十分に発揮していたというのが、
恵瓊の役割だったのでしょう。
毛利家との関係はどうだったのか?
恵瓊の凄いところは、主家たる毛利をないがしろに
するところがなかったところだと思います。
とかく、、、
下剋上の世は部下が力を持つと主家を打ち滅ぼして
成り替わろうとしたがるのものですが、恵瓊は
毛利家を立ちいく姿に持って行こうと家内
への説得を欠かしません。
結果、毛利家は長州藩として幕末まで生きながらえ、
近代日本を作る礎になることになります。
あの戦国の動乱の中で、恵瓊が毛利家を見捨てて
豊臣秀吉に踏みつぶされていたら、今の近代日本
はなかったかもしれないのですから、、、
そう考えると安国寺恵瓊は京都六条河原の露と消えた
人物ですが、結果的に歴史上の貢献度はかなり高い
のかもしれませんね。
当初、師匠の恵心から毛利の外交僧を引き継ぐ際に
出自が問題視されましたが、当主毛利元就の決断
で了承されました。
しかし、この時反対した吉川家は恵瓊と対立する
勢力として毛利家内部に存在し続けて、結果
後年関ケ原の戦いの西軍敗戦の大きな原因と
なってしまいます。
これこそ「歴史のIF」ですが、もし毛利家が一丸
となって西軍として戦っていれば、六条河原で
斬首されたのは家康だった可能性も否定
できないのです。
話を元に戻しますと、、、
毛利家内で常に恵瓊の支持をしていたのが、
小早川隆景で、この英邁な君主は時代が
武力だけの戦国から政治中心へと変わり
始めている状況を正確に見抜いて
いました。
隆景の支持を得て、毛利家をまとめ秀吉
の評価を得続けて行った恵瓊ですが、
慶長2年(1597年)に隆景が死没すると、
後ろ盾がなくなって毛利家内部での
恵瓊の立場は微妙になって行きます。
続いて慶長3年(1598年)に頼りの主君豊臣秀吉
の死去で、家康の台頭、世の混乱、後ろ盾の
消滅により、恵瓊は時代の寵児から滑り落ち
始めます。
ここでわかることは、あくまでも恵瓊のエネル
ギッシュな活動を支えていたのが、毛利家で
あった事とそして何よりも小早川隆景の
サポートだったことですね。
逆に云えば、毛利家は恵瓊の活躍で豊臣政権内部
での存在感を示し、西日本の覇者として東の
北条家のような滅亡する危機から脱して
いたと云えます。
やはり、小早川隆景の洞察力は凄いのです。
恵瓊の失敗があったとすると、小早川隆景の後継
にあたるサポートしてくれる毛利家内部の有力者
の支持を得ることを怠っていたことでしょうか。
とすると、さすがの恵瓊も豊臣政権内部でのあまり
の栄達に自らを見失い、毛利家のサポートで成り
立っている自分を忘れてしまったの
かもしれませんね。
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『関ケ原の戦い』ではどんな働きをしたのか?
通説によりますと、石田三成と同調して毛利輝元を西軍大将に
担ぎ出し、西軍の主力軍のひとつとして参戦させたと
あります。
本人の実戦は、、、
緒戦は毛利勢について手勢1800名を率いて伊勢路の攻略に
向かい、毛利勢とともに、現在の津市にある安濃津城の
攻略を行い、その後決戦の行われる関ケ原へと
伊勢街道を北上します。
関ケ原での布陣は南宮山北東山裾で東軍池田輝政と
対峙する位置で、吉川広家の後ろに着陣しました。
合戦が始まると、東軍に呼応している吉川広家は
毛利勢の一番前面に布陣している利を生かして、
後ろの他の毛利勢の戦場への進出を阻んだ為、
恵瓊の軍もあおりを受けて合戦に参戦出来ず
に決着後の戦場を後にしました。
そんなことで、、、
実際の戦闘には貢献しなかったようですね。
東軍はきちんと大老の家康が陣ぶれを出して動員
されていた軍だったのに対して、西軍は毛利軍以外
は嫌われ者の元奉行が慌てて個別に書状を出して
集めた軍のようですからその命令に対する
忠誠度は違いますよね。
もしこの西軍の陣ぶれが、秀頼名でなされていたら
家康サイドは大苦戦に陥っていたことでしょうが、
この戦いはお互いに豊臣政権内の問題分子を
懲らしめる形を取ってますので、秀頼名で何か
出ると云う事はない訳です。
このように後世の私たちには非常に分かりにくい
戦争理由でしかも、三成は自分が大将のつもりだった
と思いますが、西軍には実質的な大将が本当は不在と
いう体たらくです。
そんな状況を考えるとこの三成の挙兵は全く準備不足と
言わざるを得ません。
恵瓊は三成の力を過大評価していたのでしょうか?
皆がついて来ていたのは、後ろに秀吉がいる
三成だったわけで、三成政権になっていない
かぎりそんな論法は通用しないですね。
だから、西軍の諸将は何か戦う大義がなかった
ので元気がなかったのではないかと思います。
恵瓊は政権慣れし過ぎてつい勘違いしてしまったこと
になるんでしょうね。
結果論ではありますが、恵瓊は戦いの現場の関ケ原に
行かないで、大坂城で毛利輝元の側にいたら、ずい分
違う『関ケ原の戦い』となったような気がします。
結局、恵瓊は最後の最後に規模の大きなこの戦いで
自分を見失ってしまい、その洞察力を生かすことが
出来なかったようです。
武将でもないのに、なぜ京都六条河原で斬首されたのか?
これに対する今までなされている説明は:
1)西軍の主導的な役割をした首脳だから
2)助命嘆願する有力者がいなかったから
くらいに集約されそうです。
関ケ原の戦いの戦後処理が大変だったのは、形の上で豊臣家
のお家騒動であったことで、しかも当主たる秀頼が仕切る
ことが出来ないことにありました。
徳川方も西軍大名から領地を召しあげ東軍の功労者へ
論功行賞するに当たって当主でない家康名で文書
が出せませんので、口頭で済ますと言う異例の
対応になりました。
そんな事もあってか、敗将たちへの懲罰も異例の寛大さと
なりました。首謀者石田三成の家族も無事です。
そうなると、通常は罪を問われない外交僧の特権のある恵瓊
が、なぜ処刑されねばならなかったかは大きな疑問となり
ます。
その答えが上記の2点くらいと云うのはどうでしょうか。。。
理由が明快すぎるからなのか、本当はよくわかっていないのか
どちらなのでしょうか?
私は、通常はあり得ない措置だったと考えます。
僧侶に罪を問うことは僧侶にあるまじき破戒僧で極悪人以外は
ありえないと思うのです。
恵瓊は極悪人だったのでしょうか?
恵瓊は日本の禅宗の最高位である南禅寺の住持だったのですから、
そんなことはありえませんね。
昔、その時々の権力者に対して謀叛の疑いがあるものでさえ、
大半が配流(遠島)ですから、処刑されるケースは
日本史上まれと云えそうです。
そう考えると、、、理由としては、、、
1)東軍に協力した吉川広家から、毛利家の罪はすべて恵瓊の
責任だと讒訴があった
2)たまたま(見せしめに主だったものに責任を取らせる)
3)宗教界から始末要請があった
4)家康本人に殺したい理由があった
もう400年以上も経っているのだから、政治的な理由とかであれば、
もう真実が出て来てもいいと思うのですが、相変わらず曖昧
なのは、本当にわからないのでしょうかね。
私は個人的には4)の理由が有力のような気がします。
要するに、作家明智憲三郎氏の提唱する『本能寺の変の真相』
を知っている可能性の高い恵瓊は家康にとって
目障りな人物なんですね。
それと最近出ている、家康側近の”南光坊天海”光秀説
と合わせてみると、ずい分説得力のある話になりそうです。
まとめ
戦国の一大怪僧安国寺恵瓊は、『関ケ原の戦い』で西軍に
与して敗戦し、武闘派諸将の恨みを買っていた石田三成、
小西行長らと一緒に京都六条河原で斬首されました。
恵瓊以外の二人は西軍の首脳と云う理由で処刑された
ように見えます。
一方、いかに太閤秀吉の寵愛を受けていたとしても
僧侶、しかも禅宗の高僧(南禅寺住持)であることを
考慮すれば、処刑に値するような罪人とは
とても思えません。
敢えてこのようなことを行った家康の思惑に思いを
寄せますと、恵瓊を処刑しなければならない理由
が別にあったと考えるのが至当です。
それは、どう考えても”本能寺の変の真相”以外には
ないような気がするのです。
後の世が徳川政権であったことを考慮すれば、真相が
世に出ずに埋もれて行ったのは当然かと思います。
以前別稿でお話した私が気になる家康の”光秀びいき”
と、この”恵瓊の処刑”はつながっていると考えます。
この処刑によって、余計、家康の本能寺関与が疑われ、
関ケ原前後から突然に現れた家康の参謀役の怪僧
『南光坊天海』の光秀説も浮上して来る
ことになるような気がします。