明智光秀は、一体誰の家臣だったの?

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明智光秀土岐宗家の家臣かどうかわかります。

明智光秀斎藤道三の家臣だったかどうかわかります。

明智光秀が越前朝倉義景に仕官していたかどうかわかります。

明智光秀がいつから室町幕府の幕臣であったのかわかります。

明智光秀織田信長足利義昭に両属していたかどうかわかります。

 

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明智光秀は美濃では、守護職土岐氏の家臣だったの?

日本の戦国史研究の権威として名高い高柳光寿氏は、著書『明智光秀』の冒頭で、、、

それにしても本能寺の変・山崎の戦以前の光秀を書くということは決して容易なことではない。この困難が光秀の伝記を今日まで作らせなかったのではないかと思う。

本書は光秀の出身からその死に至るまで、ひと通り彼の伝記を記述したつもりである。・・・・・

光秀の出自はどうもはっきりしない。・・・

(引用:高柳光寿『明智光秀』2000年 吉川弘文館)

とあり、戦国史最大のミステリーである『本能寺の変』の主役”明智光秀”の前半生は、どうもはっきりしていません。

先ず、明智光秀のいた時代の美濃国は、戦国の梟雄斎藤道三(さいとう どうさん)が守護職の土岐頼芸(とき よりよし)を追放して美濃国主となる訳ですが、、、

その間の事情について、『美濃國諸舊記(みのこくしょきゅうき)』によれば、、、

永正十六卯年六月、太守政房卒去ありて、嫡子盛頼家督を受繼ぎ、當國の屋形となりて、相變らず川手の城に在住たり。爰に於て、西村勘九郎、大望の企を窺ひけるが、折を見て、賴藝に種種謀叛を勧め、・・・(中略)・・・時に西村勘九郎正利、再び賴藝を勧め、某に討手を命ぜられ、聊か御勢を付けさせ給はヾ、忽ちに川手の城を攻め破り、盛賴殿を追落し、君の本意達せしめんこと、踵を巡らすべからずといふに、賴藝許容ありて、・・・(中略)・・・、其勢五千五百餘ハと云々。

于時大永七年八月十二日なり、勘九郎、自ら先陣に進みて押寄せたり。盛賴之を聞きて大に驚き、元來智慮深き良將なれども、不意を討たれ俄の事なれば、過急にして、遠方の幕下は夢にも知らず、馳せ参らざれば、漸く城に在合ふ兵に、俄に聞付けて馳せ加はりし輩を集め、其勢僅二千餘人なり。・・・味方不意を討たれ、殊に勢微少にして、防禦の手術薄く、空しく敗軍に及べり。一戰にして、甲斐なく逆心の爲に、御生害抔あらんも嘆かはしく、無念に存じ奉る。再戦を志して、一先ず城を落ち給うて、重ねて御誅伐あらん事。然るべく候はんといふに、盛賴も詮方なく是に随ひ、主従僅にて城を立出で、直に隣國越前に落行き、朝倉弾正左衛門尉孝景を頼み、一乗谷に蟄居せり。

(引用:『美濃國諸舊記 巻二 土岐賴藝松波庄五郎を取り立つる事の条』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”永正十六年(1519年)6月16日に、美濃国守護職土岐政房(とき まさふさ)が死去して、嫡男頼武(よりたけー盛頼)が家督を継いで守護職となり、そのまま川手(革手ーかわで)城に居住した。ここに於いて、美濃国に入り込んでいた斎藤道三(西村勘九郎)が野望の企みを計画し、折に触れて家督を継げなかった次男の土岐頼芸(とき よりよし)に謀反を勧めていた・・・(中略)・・・、ある時、斎藤道三がいつものように土岐頼芸に謀反を勧め、「私に、守護職土岐頼武公の討伐をお命じになり、手勢を付けて頂ければ、忽ちに川手の本城を討ち破り、頼武公を追放して、殿の本意を遂げさせてみせます。引き返す時ではございません。」と言うと、頼芸はその気になり、・・・付けた軍勢は5500人となった。

それは大永七年(1527年)8月12日の事で、斎藤道三は自ら先陣に立って川手城へ押しよせた。守護の土岐頼武(盛頼)は大変驚き、本来冷静な大将なのだが、不意を襲われたこともあり、手勢が集まらず急を聞きつけて集まった者を集めても僅か2000人に過ぎなかった。・・・不意を討たれて、兵も寡少で防禦も出来ず、敗軍となってしまった。たった一度の戦いで、謀反を起されて自刃するのは嘆かわしく残念だ。ここは再戦を期して城から逃れ、ふたたび兵を起しなされと重臣たちに勧められ、土岐頼武(盛頼)も仕方なく、それに従い主従僅かな人数で城を脱出し、すぐに越前朝倉孝景(あさくら たかかげ)を頼って越前一乗谷に身を寄せた。”位の意味です。

この父土岐政房から家督を譲り請けた?嫡男頼武と、斎藤道三に使嗾されたとされる次男頼芸との跡目争いは、幾度も続き最後は頼武の病死によってこの争いは終息する事となります。

つまり、美濃守護職土岐政房の死去により、嫡男頼武が家督相続したものの、不満を持つ次男頼芸を取入っていた斎藤道三が時間を掛けてそそのかして、二派にわかれて兄弟対立させた揚句に弟頼芸に謀反を起させて、その後謀反の結果守護の座を獲得した頼芸をこれまた追放して、とうとう斎藤道三は土岐家を追放して美濃國の実権を握るというストーリーが「美濃國諸舊記」の語るところです。

実際のこの美濃の騒乱(家督争い)の実体は、こんな単純な話ではなく、二男賴藝を家督としようとしたのは、実は父の政房だったようで、永正14年(1517年)に両派が激突し、嫡男頼武側が勝利したものの、翌年には賴藝側が勝利して頼武が越前へ逃れたとされていますが、、、

話を明智光秀に戻しますと、、、

この斎藤道三の「国盗り物語」の通説の中で、道三が明智光繼(あけち みつつぐ)の娘小見の方(おみのかた)を正室に迎えたところから、光繼の嫡男とされる明智光秀は斎藤道三にその才を認められて可愛がられ、道三に仕えていたと言います。

しかし、最近の系図研究から、、、

土岐頼基(とき よりもと)を祖とする土岐明智家は、、その6代目頼秀(よりひで)の子に頼弘(よりひろ)と頼高(よりたか)がおり、応仁の乱の折、将軍に謀反の疑いのある西軍「山名宗全(やまな そうぜん)」に与するのを、良しとしなかった”頼弘”が明智家の領地美濃国へ下向し、そのまま京都の将軍のもとに残った”頼高”と明智家は活動拠点が分裂したようです。

その後、光秀はどこで生まれたか?ですが、歴史研究家の明智憲三郎によると、ひとつのヒントが、、、

土岐明智兵部少輔頼定与同名兵庫頭入道玄宣相論事、令和睦。於知行分者、可折中旨、被成御下知訖、宣被存知之由、所被仰下也、仍執達如件、

明応四年三月二十八日  下総守(飯尾為頼)
前丹後守(松田長秀)

土岐左京太夫(成頼)殿

(引用:明智憲三郎『光秀からの遺言』 52頁 掲載の「沼田藩土岐文書」より)

大意、”将軍が、明智頼定(あけち よりさだ)と玄宣(げんせん)との争いごとは和睦させ、知行地の分配に関しては折半として下知せよ。そう命じよと仰せられましたので、通達します。”位の意味です。

これは、土岐明智家の美濃在住の「頼弘系」の息子頼定(よりさだ)と、京都在住の「頼高系」の息子玄宣(げんせんー光高)が、美濃の領地争いをして、明応4年(1495年)3月28日に、足利将軍から半分づつにして争いを収めよと裁定されたことを示しています。

経緯は分かりませんが、正式に京都組が美濃に領地を得たのか、本来京都組が所有している美濃の領地の半分を現地組に横領されたことを示しており、とにかくこの裁定が出てから、急いで京都在住の一族が美濃に下向したものと思われます。

そして、明智光秀は京都で室町将軍に供奉していた頼高系に属していて、一族が下向した美濃で生れ、一族は守護職政房の配下にいたものと思われ、家督を継承した土岐頼武(とき よりたけ)の配下についていて、その後の斎藤道三の引き起こした動乱の結果、頼武の嫡男頼澄(よりずみ)と明智光秀は同道して越前へ落ちて行ったものと考えられます。その為に逆臣斎藤道三とは対立する立場にあった可能性が高く、弘治2年(1556年)4月20日の所謂「道三崩れ」の時は、通説と違い斎藤義龍側に参加していたと言われています。

これまでの話で、明智光秀は、代々土岐家とともにあった家系に所属していたものの、守護土岐政房の死後家督争いで、後継者の嫡男頼武と次男頼芸の派閥に分かれてた時に、守護の土岐家の家督である土岐頼武の嫡男頼澄とともあったと考えられます。

よって、明智光秀は、若い頃美濃にあって、土岐家に仕えていた家臣だったのではないかと思われます。


(岐阜県可児市明智城跡 2019.4.4撮影)

通説のように、明智光秀はまむしの斎藤道三の家臣だったの?

前章にあったように通説では、、、

天下掌握の計議をなさんと欲しけるに、今斯の如く國主の下にありては、中々其事能はず。何卒是よりは屋形賴藝を亡し、我れ此國を治め、而して後、隣國を漸々に打随へ、扨天下の大事を計り見るべしと思ひ込み、深く奸計を巡らしける。扨又大謀を施さんには、先ず然るべき名家を求めて、緣を結ばんと工夫し、今秀龍、深芳野といへる妾はありぬれども、本室なし。

然るに當國可兒郡明智の城主明智駿河守光繼の長女、容顔美にして、而も詩歌の道に賢く、利發貞烈の娘なりければ、新九郎、則ち屋形賴藝に訴へ、緣談の事願ふ。賴藝許容ありて、頓て明智駿河守に命ぜられ、自ら媒となりて、婚姻をさせらるゝ。・・・天文元年辰年二月朔日、稲葉山に入與し、小見の方といへり。・・・

然るに小見の方は、秀龍に嫁して、其後天文四乙未年、女子出産す。其後天文十八年二月廿四日、尾州古渡の城主織田上總介信長に嫁す。歸蝶といふ。又鷺山殿ともいふ。明智光秀従弟なる故に、其餘情ある所なり。

(引用:『美濃國諸舊記 巻二 土岐賴藝松波庄五郎を取り立つる事の条 40~42頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”天下取りの計画を進めたいと思っていても、今のように守護職の配下でいては、それは出来ない。何とかして、これから主君土岐賴藝(とき よりよし)を亡き者とし、私斎藤道三(さいとう どうさん)がこの美濃國を治めて、その後だんだん隣国を攻略して行って天下を獲ろうと思い、じっくり謀略を考える。そしてこのような大きな謀(はかりごと)をしようと思えば、まずはふさわしい名家と姻戚関係を結ぼうと工夫をする、今斎藤道三には、深芳野(みよしの)と言う側室はいるが正室はいない。
ところで、美濃の名家可児郡明智の城主明智駿河守光繼(あけち するがのかみ みつつぐ)の長女は、容姿端麗・詩歌の才があり、利発貞淑の娘であり、斎藤道三は早速主君土岐賴藝に願い出て縁談を依頼した。主君は快諾し、すぐに明智光繼に命じ、自ら仲人となって結婚をさせた。天文元年(1532年)2月1日に稲葉山城へ輿入りし、「小見の方(おみのかた)」と言う。・・・

そうして小見の方は、斎藤道三に嫁入りし、天文4年(1535年)には女の子を出産し、その姫は、天文18年(1549年)2月24日に、尾張古渡城主織田信長(おだ のぶなが)に嫁入するが、これを「帰蝶(きちょう)ー奇蝶」と言い、又「鷺山殿(さぎやまどの)」とも言った。明智光秀はその奇蝶ー鷺山殿の従弟になるので、織田信長と間に縁戚関係もある訳である。”位の意味です。

となり、派生する通説では小見の方の娘奇蝶を可愛がる斎藤道三は、従弟の明智光秀もその才を愛でて、光秀も道三に仕え、後年役に立つ”鉄炮術”などを道三から鍛えられたなどと言うのです。

又、小見の方の関係から、美濃國可児郡の長山城主である光秀の父明智光繼は、斎藤道三派に属していたので、弘治2年(1556年)の「道三崩れ」の時に、明智一族が道三側に付いていた為、斎藤義龍の説得に応じずに攻め亡ぼされ滅亡する憂き目に遭ったとされています。

これが”なんとなく明智光秀が斎藤道三の家臣だったストーリー”の今までの通説の概略ではないかと思います。

しかし、前章に記述しましたように、近年の系図研究により、当時の明智一族は分裂していた可能性があり、明智光秀の一族は、前掲『美濃國諸舊記』にあるような”次男土岐賴藝を推す斎藤道三派”ではなくて、あくまで”土岐宗家土岐頼武を支える中核”であったと思われます。

つまり、明智光秀は”斎藤道三の家臣”ではなくて、”道三が追放した土岐宗家”に仕えていたのではないかと考えられます。

となると、もしこの説に従えば、前掲『美濃國諸舊記』にあるような、明智光秀は”斎藤道三の娘である濃姫(帰蝶・奇蝶)の従弟”と言う話にはなりそうもなくて、「明智光秀が織田信長と将軍足利義昭の間を取り持った」などと言う奇妙な話も、併せてあり得ないことになりますね。

又、『美濃明細記(みのめいさいき)』によれば、、、

弘治元年國中の勢を催しけれども、義龍の勢に加り鷺山へは十が一も參らざりけり。義龍の味方に加はる宗徒の輩には、揖斐稲葉(周防)守、原紀伊守、船木大學介、石谷近江守、明智十兵衛、・・・

(引用:『美濃明細記 弘治元二年齋藤道三と義龍長良邊に戰ひ道三討死の事 167頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”弘治元年(1555年)国中の兵を集めたが、皆息子の斎藤義龍(さいとう よしたつ)の軍に加わり、斎藤道三に加わる者は、十に一もいなかった。義龍の味方に与力した主な者には、揖斐稲葉守、原紀伊守、船木大學介、石谷近江守、明智十兵衛、・・・”位の意味です。

なんと、明智光秀は、斎藤道三討伐軍に加わっていました。史料の信頼性からこれが証拠だとは確定出来ませんが、土岐家再興の為に逆賊斎藤道三を討つと言う名目を考えるならば、やはり明智光秀が道三の家来になっていた可能性は低いと思われます。

 

明智光秀が越前朝倉義景に仕官していたのはホント?

この説は、、、

光秀ハ当家的孫、殊ニ妙絶勇才ノ仁ニテ、直人共不覚候ヘバ、某ガ息男弥平次光春・甥ノ次郎光忠ヲモ偏ニ頼候也。如何様ニモ撫育シテ、家ヲ被起候ヘト、頻リニ被諫言ケレバ、光秀理ニ服シ辞スルニ処ナフシテ、一族ヲ相伴ヒ、涙ト共ニ城ヲ出、郡上郡ヲ経テ、越前穴馬ト云所ヲ過キ、偖国々ヲ遍歴シ、其後越前ニ留リ、太守朝倉左衛門督義景ニ屬シテ、五百貫ノ地ヲゾ受納シケル。

(引用:二木謙一校注『明智軍記 巻第一 美濃国守護事付明智入道宗宿事の条 25頁』2015年 OD版 KADOKAWA)

大意は、”明智城落城の折、城と運命を共にしたいとする光秀に対して、光秀は当家の跡継ぎで、特に優秀な人材で、ただ者ではない。我が息子弥平治光春・甥の光忠なども一様に頼るとこである。どのように育ててでもお家を再興するべきであると盛んに諫言すると、光秀も理解して城落ちすることにして、一族を引き連れ涙とともに城を落ちて行った。郡上郡を経て越前穴馬と言うところを過ぎ、そうして国々を遍歴し、その後越前に留まり、太守朝倉義景に仕官して、500貫の知行を貰った。”位の意味です。

その後の『細川家記(綿考輯録)』にも、同様の記述がありますが、それはこの『明智軍記』が種本と思われ、明智光秀が弘治2年(1556年)の『道三崩れ』の折、斎藤義龍に明智城を攻め落され、越前に逃れて朝倉氏に仕官したという通説が出来上がりました。

しかし、前章の説に従って見てみると、、、

光秀の生まれた土岐明智氏が支えていた土岐頼武が、たびたび越前朝倉氏の助力を得ているのは、土岐頼武の正室の実家が越前朝倉氏であったことに由来するようです。

朝倉氏も娘聟の土岐頼武の為には、軍事援助も含めて手助けしていたようですが、明智光秀が仕えていた頼武の嫡男頼澄が死去した後には、明智光秀が越前朝倉氏を頼ったものの、明智氏が土岐氏の傍流とは言え、さすがに家臣にするなどの援助はなかったようで、、、

なお、明智家に縁のある家系の方の伝承では、信長に仕える前の光秀公が仕えたのは、朝倉ではなくその家来の黒坂備中守とあるそうです。それなら、称念寺のすぐ隣りに黒坂館跡があり、交流が一層自然なことであり、朝倉の家臣に光秀公の名が記録されていないことにも納得が出来ます。

(引用:新田義貞公菩提所称念寺四十一代住職 高尾察誠『称念寺のあゆみ 十三 明智光秀公と称念寺の項 』2017年 称念寺)

とあり、このように現地越前の情報でも、明智光秀は朝倉の家臣ではなかったとあります。

また、越前長崎に所在するこの時宗の寺「称念寺(しょうねんじ)」にまつわる話として、、、

正月廿三日御行事成就し七条へ帰寺。同廿四日坂本惟任日向守へ六寮被遣、南都御修行有度之条筒井順慶へ日向守一書可有之旨被申候。惟任方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしか、越前朝倉義景頼被申長崎称念寺門前に十ヶ年居住故念珠にて、六寮旧情甚に付て坂本暫留被申。

(引用:橘俊道校注『遊行三十一祖 京畿御修行記』大谷学報第52巻第1号ー5)

大意は、”天正8年(1580年)1月23日に、遊行上人(ゆぎょうしょうにん)は遊行を満了されて、京都七条の道場へ戻られた。翌24日に、坂本城の惟任日向守(これとう ひゅうがのかみー明智光秀)のところへ使いの僧をやった。上人が奈良に修行で回られた折、領主の筒井順慶(つつい じゅんけい)に惟任日向守から書面で一言伝えてくれていて歓待された。惟任日向守は、もと明智光秀と云い、美濃國の土岐一族の牢人で、越前朝倉義景公を頼って来た折、長崎の称念寺門前に十年間在住して同寺と親しくなっていた。使いの僧も顔見知りで旧交を温め、坂本に引き留められたと言う。”位の意味です。

これは、諸国修行の旅を満了された”遊行上人”が、奈良に修行で立ち寄った折、今は織田軍近畿地区司令官となっている坂本城の明智光秀から、奈良郡山城主筒井順慶宛てに書面で遊行上人の話を通しておいてくれていたので、現地で歓待された事を記録している遊行上人の旅日記です。明智光秀が10年間越前長崎の称念寺門前に居住していたことを記す貴重な記録となっています。

明智光秀が何度目かの越前入りで、弘治2年(1556年)の『道三崩れ』の後、土岐家再興を目的として斎藤義龍軍に加わったものの、義龍に裏切られて美濃を追われた時期から10年とすると、永禄8年(1565年)の『永禄の政変(将軍足利義輝弑逆事件)』の後、後の将軍義昭が最初の永禄9年(1566年)の上洛計画で、明智光秀が朝倉義景から近江の足利義昭のもとへ派遣されたと考えると、前掲遊行上人の話(明智光秀は10年間越前長崎にいた)と時系列的にほぼ一致することから、この遊行上人の話は事実と思われます。

そして、『称名寺のあゆみ』にある地元伝承から、朝倉家に仕官していたのではなくて、黒坂備中守(くろさか びっちゅうのかみ)の客分だった可能性が高いので、直接「朝倉家に仕官」していたのではないことが分かります。

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明智光秀はいつから室町幕府の幕臣だったの?

明智光秀は、系図上では京都で将軍家を支えていた幕府奉公衆明智頼高系の子孫と考えられますので、そもそもは室町幕府の幕臣の家系になると思われますが、光秀に限って言えば、、、

永禄六年諸役人附

・・・(前略)・・・

御供衆
・・・
細川兵部大輔藤孝
・・・
和田伊賀守惟政
・・・

・・・

足輕衆

・・・

明智

(引用:『永禄六年諸役人附』国立国会図書館デジタルコレクション)

とあり、この『永禄六年諸役人附』は2部構成になっていて、前半は13代将軍足利義輝の時の物、後半は15代将軍足利義昭の時のものとされています。

明智光秀は、前掲のとおり、後半足利義昭の時の「足軽衆」に記載されており、時期的には、永禄9年以降と考えられます。

明智光秀は前述のあるように、そもそも幕臣の家系ですが、永禄8年の「永禄政変」から近江へ逃れていた足利義昭の求めに応じて越前朝倉義景が派兵させた折に、明智光秀は客将として出陣し、そこでかつて奉公衆であった土岐衆の一員として認められたものと思われます

つまり、この時、永禄9年(1566年)に、朝倉義景から足利義昭の下へ派遣された時から、ふたたび幕臣(奉公衆)として認識されたのではないかと考えられます。

 

明智光秀は、将軍足利義昭と天下人織田信長に両属していたってホント?

先ず、戦国史研究の権威故高柳光寿氏の著書によれば、、、

貴族や社寺の被官である荘官が、同時に武家の家人であったというのはいくらでもある。いやそれが普通であった。・・・(中略)・・・、
けれども戦国時代になると違ってくる。主人は家人に対してただその主人一人だけへの忠誠を要求する。だから家臣が他から所領を与えられるということはなくなって来た。家臣はただ一人の主人に仕える。それなのに光秀は信長からも義昭からも所領を与えられ、信長も義昭もそれを公認しているのである。これはこのころとしては特種なケースであるといってよいであろう。この特種が認められるところに、光秀の微妙な人間価値を認めないわけには行かないのである。

(引用:高柳光寿『明智光秀  68~69頁』2000年 吉川弘文館)

とあり、”以前は複数の領主に所属するのは当時は特に珍しいことではなかったが、戦国期になって忠誠心を強く求められるようになってからは、武家が同時期に二君に仕えることはなくなっている。しかし明智光秀の場合は実力を認められた特別なケースだ。”と述べられています。

明智光秀の立場に関して、代表的な事例は、織田信長が足利義昭を奉戴した”永禄11年(1568年)9月の上洛”1年半後の永禄13年(1570年)1月23日付で、織田信長から将軍足利義昭宛てに出された『五カ条の事書(ごかじょうのことがき)』と言う書面があります。

これは、上洛後の翌年永禄12年(1569年)1月5日に将軍足利義昭が三好三人衆などに襲撃された『本国寺合戦』の後、信長は『殿中御掟(でんちゅう おんおきて)』を1月14日付にて制定して幕政に介入していますが、それを遵守しない将軍義昭を厳しく諫めた文面になっています。

この宛先が、『日乗上人』と『明智十兵衛』となっており、朝廷の代理人としての僧侶『朝山日乗』と、幕府側代理人としての『明智光秀』の立場が明確になっていると思われます。これを信長の部下となった光秀とする見方もありますが、ここは、将軍足利義昭を叱責している織田信長の姿勢を、正親町帝と将軍足利義昭に伝えると言う意味合いが強いと思われますので、ここでの光秀の立場は足利義昭側近・幕府の役人でなければいけないようです。

ここで、歴史作家明智憲三郎氏の著書によれば、、、

公家の吉田兼見は四月十四日の日記に、信長の所に若狭・丹波・播磨の衆が多数押しかけて訴訟で混乱した状況になっていると書いている。このような混乱を解消するために、信長方三人と幕府方の光秀が一時的にチームを組んで大量の案件を捌いたと考えられる。・・・。

なお、光秀がこのような立場を務められるのは、信長の『殿中御掟』をみても藤孝の家臣で足軽では無理だ。この時点では義昭直臣の奉公衆に取り立てられていたとみるべきだ。おそらく本圀寺での活躍や前年十一月の連歌会へのデビューが高く評価されたものであろう。

(引用:明智憲三郎『光秀の遺言 166~167頁』2018年 河出書房新社)

とあり、これは、上洛翌年の永禄12年(1569年)の事で、文中の署名人が4人ですが、信長方三人は羽柴秀吉・丹羽長秀・中川重政の織田家臣の実務担当者で、書状の署名の順位が光秀は最後となっていることから、光秀は織田家臣ではなくて、幕府方役人の立場であることは明白となっているようです。

尚、引用した文中に「公家の吉田兼見は(永禄)四月十四日の日記に」とありますが、公開されている『兼見卿記』は元亀元年からの記述になります。しかし『公家の山科言継卿の「言継卿記の永禄十二年四月十五日の条」』で、まさにそのとおりの混乱状態が記載してあることが確認出来ますので念の爲。

又、光秀の両属の状態を直接示すものとして領国を与えると言うことがありますが、、、

太田牛一『信長公記』の「比叡山延暦寺の焼き討ち事件」の記事の終わりに、、、

さて、志賀郡、明智十兵衛に下され、坂本に在地候ひしなり。

(引用:太田牛一『信長公記 巻四 叡山御退治の事』インターネット公開版)

大意は、”織田信長公は、元亀2年(1571年)の「叡山焼き討ち」の論功行賞として、志賀郡を明智光秀に与え、光秀は坂本の地に在住した。”位の意味です。

つまり、織田信長は、明智光秀がこの『比叡山焼き討ち』に積極的に働いた褒美として、旧比叡山延暦寺領を含む志賀郡一帯を与えたことが分かります。つまり、この時点ではっきりと光秀は信長の家臣となっていることが判明します。

また、将軍足利義昭からは、、、

十日、乙未、東寺、明智光秀ノ、同寺八幡宮領山城下久世荘ヲ押妨スルヲ停メンコトヲ幕府ニ請フ、

就下久世儀上意ヘ申状

當寺八幡宮領下久世庄、年中爲御神供料所、等持院殿様御寄附巳來、于今無相違之處、明知十兵衛尉方、彼庄一職爲上意被仰付由被申、年貢諸事物等、至于今無寺納候條、御訴訟申上与存刻、・・・

(引用:『大日本史料 第十編之四 260~261頁 元亀元年四月十日の条』1969年復刻 東京大学史料編纂所)

大意、”元亀元年(1570年)4月10日、東寺、明智光秀の同寺八幡宮領下久世荘の横領を停止させることを幕府に要請する。

下久世荘の件に関して将軍へ上申する事

東寺八幡宮領下久世荘は、常に東寺の所領であり、足利尊氏殿より寄進されて以来、今至る迄東寺領であることに変わりはないが、明智光秀が、この下久世荘の管理を足利義昭様より申し付けられたと称して、年貢その他が今に至る迄、東寺に納付されない。それに付き、幕府に訴えるところである。”位の意味です。

ここに、「明智光秀が将軍から東寺領である南山城の下久世荘を所領として頂いた」と述べていることで、この訴えによって、東寺の所領を勝手に足利義昭が将軍として明智光秀に与えたことが判明しますが、これによって光秀が義昭の臣下であることが分かります

見くるしく候て憚入存候、御志計候、

昨今ハ懸御目、快然此事候、就其我等進退之儀、御暇申上候處、種々御懇志之儀共、過分忝存候、とニかくニゆくすへ難成身上之事候間、直ニ御暇を被下、かしらをもこそけ候様ニ、御取成頼入存候、次此くら、作にて由候て、可然かたより給置候間、進入候、御乗習ニ御用ニたてられ候ハゝ畏入存候、かしく、

明十兵 光秀

曽兵公 人々御中

(引用:東京大学史料編纂所『大日本史料 第十編之七 196頁』1970年覆刻 東京大学出版会)

大意は、”みっともなくて憚られるところですが、ご厚意を期待しまして、

昨日今日お目に掛かり、私が義昭公からお暇を貰うことに関して、色々ご配慮を頂き、大変かたじけなく思います。とにかく、行く末が難しいことではありますが、義昭公から直ちにお暇を頂いて、頭を丸めることが出来ますように、御執り成しをお願いいたします。さてこの鞍ですが、しかるべき方よりいただいたものですが、差し上げますので、乗用にお役立ていただければと思います。

明智光秀

曽我助乗殿

”位の意味です。

この書状は、日付がありませんが、元亀2年(1571年)12月20日付の他の書状と内容的に関連していることから、この近日のものと考えられ、明智光秀が足利義昭の近習である曽我助乗(そが  すけのり)に自分が義昭に仕えることを辞める執り成しを依頼している書状と考えられます。

ここで明智光秀は、織田信長から『叡山焼き討ち』の論功行賞で志賀の領地を得たことから、足利義昭と手を切ることを決めたようです。

どうやら、元亀2年(1571年)9月12日の『叡山焼き討ち』以後、織田信長の配下となって行ったようですが、それ以前(永禄9年~元亀2年)は幕臣として足利義昭に仕えていて、”信長と義昭への両属”と言っても、形式上はともかく実体は、ほんの一時期であった可能性が高いと思われます。

 

まとめ

冒頭にありますように、戦国史の大家高柳光寿氏が述べたように、”明智光秀の前半生ははっきりしない”のですが、『明智軍記(あけちぐんき)』・『美濃國諸舊記(みのこくしょきゅうき)』・『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』などで作られた通説によって語られています。

その中で、明智光秀は、最後天正10年(1582年)6月2日の『本能寺の変』の時には、織田信長の家臣であったことは間違いないのですが、それ以前は誰に仕えていたのかは、足利義昭以前が「光秀のはっきりしない前半生」の為に通説以上には知り得ませんでした。

通説によりますと、仕えた主君は、、、

  1. 斎藤道三(さいとう どうさん)
  2. 朝倉義景(あさくら よしかげ)
  3. 足利義昭(あしかが よしあき)
  4. 織田信長(おだ のぶなが)

最近の研究では、確実に仕えていたのは、、、

  1. 土岐頼澄(とき よりずみ)
  2. 足利義昭(あしかが よしあき)
  3. 織田信長(おだ のぶなが)

の順となっており、永禄9年(1566年)以降の明智光秀の後半生は、足利義昭の将軍擁立に動いていて通説も同一となります。

斎藤道三に仕えただとか、朝倉義景に仕えただとか、諸国武者修行だとかが物語の創作になるかと思います。

こうしてみると、明智光秀は、生を美濃国で受けて、元服してからは一貫して美濃守護職の土岐宗家に仕え、守護の土岐家が道三によって滅ばされると、越前で朝倉家の保護下に入って越前での10年の雌伏の時を過ごし、永禄9年以降は、将軍足利義昭擁立の奉公衆に交じって積極的に行動し、義昭擁立の協力者である織田信長の知遇を得て(スカウトされて)活躍を始めたものと思われます。

話が見えない最大の理由は、京都での騒乱に合わせて始まっていた美濃国での騒乱の解明が進んでいないことが、明智光秀の正体がはっきりしない事の原因ともなっているようです。

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参考文献

〇明智憲三郎『光秀からの遺言』(2018年 河出書房新社)

〇高柳光寿『明智光秀』(2000年 吉川弘文館)

『美濃國諸舊記 巻二』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇二木謙一校注『明智軍記 巻第一』(2015年 OD版 KADOKAWA)

『美濃明細記』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇新田義貞公菩提所称念寺四十一代住職 高尾察誠『称念寺のあゆみ』(2017年 称念寺)

『永禄六年諸役人附』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇橋場日月『明智光秀 残虐と智謀』(2018年 祥伝社新書)

〇太田牛一『信長公記 巻四 』(インターネット公開版)
f

〇東京大学史料編纂所『大日本史料 第十編之四』(1969年覆刻 東京大学出版会)

〇東京大学史料編纂所『大日本史料 第十編之七』(1970年覆刻 東京大学出版会)

 

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