明智光秀の運命の分岐点となった京都の足跡はここだ!ホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

スポンサーリンク

明智光秀は、実は京都に御屋敷を持っていた事がわかります。

明智光秀は室町幕府の「二条御所」で政務を執っていた?

本能寺の変』の直前、明智光秀が「愛宕神社」で何をしていたのか分かります。

明智光秀が襲った『本能寺』が織田信長の定宿だったのかどうかわかります。

 

明智光秀は、上洛後ほどない織田信長に、京都の私邸を宿所として提供していた!ホント?

通説では、織田信長が上洛するまで、長らく牢人生活をしていたはずの明智光秀が、掲題のように岐阜からたびたび上洛する信長の爲に、京都の真ん中の大きな自邸を宿所として提供出来たのはなぜでしょうか?

先ず、織田信長が京都の明智光秀邸を宿舎にした記事は、、、

永禄十三庚午年

〇正月大

・・・・

廿六日、甲午、雨降、自未刻晴、天一ヽヽ、

・・・

〇未下刻より奉公衆方、年頭之禮に罷向、路地次第、竹内治部少輔、濃州へ下向云々、三淵大和守、同彌四郎、一色式部少輔、曾我兵庫頭、明智十兵衛、濃州へ下向云々、・・・

・・・・

〇二月大

・・・

卅日、戊辰、天晴、五墓日、

・・・

〇織田彈正忠申刻上洛、公家奉公衆、或江州或堅田、坂本、山中等へ迎に被行、京上下地下人一町に五人宛、吉田迄迎に罷向、予、五辻歩行之間、則被下馬、一町計同道、又被乘馬、則明智十兵衛尉所へ被付了、

・・・・

〇七月小

・・・

四日、庚午、天晴、

・・・

〇申刻織田弾正忠信長上洛、四五騎にて、上下丗人計にて被上、遂遂に終夜上云々、直に武家へ被參之間、予則參、於北郡の様體御雑談被申、驚耳者也、次明智十兵衛所へ被行了、

(引用:『言継卿記 卅一』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”永禄13年1月26日、雨天、午後2時より晴、上々上々、

・・・

午後3時近くより幕府奉公衆方への年始回りに出掛ける。順番は道順で、竹内治部少輔殿(美濃へ出張中にて不在)、三淵大和守殿、三淵彌四郎殿、一色式部少輔殿、曾我兵庫頭助乘殿、明智十兵衛殿(美濃へ出張中で不在)、・・・

・・・

2月30日、晴天、五墓日(ごむにちー葬礼・播種その他万事において「凶」とされる日)

・・・

織田信長公が午後4時頃上洛して来た。知らせを聞いて、公家衆・幕府奉公衆たちが、近江面・坂本・山中などへ出迎えに行かれている。京都の町人は、一町に5人割り当てられて、吉田山辺りまで出ている。私はと言うと、馬を降りて、五辻の間一町ばかり信長の行列に同道し、その後乗馬したが、一行は明智光秀邸に到着された。

・・・・

7月4日、晴天、

・・・

午後4時に織田信長公が上洛、御供は4、5騎と、前後30名ほどの行列で上洛され、とうとう夜になって着かれたが、ただちに将軍家へ面会された。私もお供し、話題は北近江一帯の状況報告を盛んにされて、内容は驚くべきものであった。面談を終えられた後、明智光秀の屋敷へ行かれた。”位の意味です。

 

これは、永禄13年の公山科言継(やましな ときつぐ)卿の年始回りで、幕府奉公衆の屋敷を道順に回って行く時、明智光秀の屋敷(順番から将軍側近の曾我乗助邸の隣くらいに位置していた感じです)もスケジュールにあったことが分かります。つまり明智光秀はこの時点で、御所の近隣の幕府奉公衆の屋敷が立ち並ぶ一角に自邸を構えていたことが分かります。

そして、その明智光秀の屋敷は、織田信長特有の急な上洛行動に関して、寺などの宿所の手配が間に合わない折に、織田信長とその小姓・近習衆と警備兵50名~300名くらいの小集団が、京都で落ち着くにはちょうど良いサイズの大きな屋敷であったことが伺えます。

通説のように、明智光秀が諸国放浪の牢人暮らしを続けていたとすると、これらの公家の山科言継卿が当時記載した記事は、まったく腑に落ちない話となります。

これに辻褄を合わせて考えるとすれば、、、

織田信長の上洛話をうまくまとめて実現させた功労で、織田信長が屋敷を与えたか、将軍となった足利義昭が、永禄12年正月5日の「本国寺合戦」において、反乱軍の三好勢を激闘の末、追い払い将軍足利義昭を守り抜いた功労で、屋敷を与えたかという話の筋が見えます。

先ず、織田信長と足利義昭の話をまとめたのは、大物奉公衆で御側衆の細川藤孝(ほそかわ ふじたか)であり、その手足で動いた可能性があるにしても明智光秀の功績ではありません。

それくらいの事は、織田信長も分かる訳で、尚且つこの時、明智光秀は幕臣の身分であり、信長が褒賞を与える対象となる信長の家臣ではありませんので、この説はありえません。

次に、足利義昭が「本国寺合戦」で、命を救われた功労賞で、屋敷を与えたという線は無いとは言えませんが、此の時ほとんどの奉公衆は参戦しており、光秀に渡す屋敷が空いていたとは思えません。

しかも、前掲の『言継卿記』の記事にあるように、内裏に程近い、有力奉公衆たちの屋敷街に位置していた可能性の高いことから、いかに将軍とは言え、有力奉公衆をわざわざどかせて迄明智光秀に屋敷を渡せた可能性はまずないと思われます。

とすると、織田信長の供回りも入れて百人単位の人数を収容できる明智光秀の大屋敷が存在していたことは疑う余地もありませんので、これは以前から光秀が奉公衆の身分で所有していたと言うことになります。

つまり、近年の”系図研究”などの結果、前述の通説とは違い、明智光秀の一族は、元は足利将軍家を支えていた有力奉公衆であったことが判明し始めており、有力奉公衆のお屋敷街の一角に明智光秀が属する一族がもともと屋敷を所有していた可能性が高いものと考えられます。

関連記事

 


(画像引用:二条城ACphoto)

 

織田信長が将軍足利義昭のために築造した「二条御所」で、明智光秀は仕事をしていたの?

織田信長が足利義昭を奉戴して上洛してから、義昭を将軍にして後、本拠地岐阜へ帰還し、その織田信長の留守を狙うように、翌永禄12年(1569年)1月5日に、三好三人衆が本国寺仮御所の足利義昭を襲う『本国寺合戦』がありました

幕臣である奉公衆と織田信長が残留させた在京部隊の奮戦で、叛乱軍を撃退し事なきを得たものの、将軍の居城として防御力のあるふさわしいものが必要と、織田信長が京都に居座り陣頭指揮を執って築造したものが『二条御所』です。

つまり、ここは室町幕府の政府所在地となり、政府のお役所ともなる場所ですから、足利義昭の率いる官僚たちはここで執務を執ることとなります。

先ず、織田信長の室町御所築造関係ですが、、、

永祿十二己巳年

〇正月大

・・・

廿七日、辛未、天晴、自未刻雨雪降、正月中、

〇當年于今令不參武家之間、朝飱以後出仕、・・・、先勘解由小路室町真如堂光源院御古城又御再興、織田弾正忠信長令奉行御普請有之、仍立寄禮申之・・・、

・・・・

〇二月大

・・・

二日、丙子、天晴、

・・・

〇勘解由小路室町真如堂、如元武家御城に近日普請云々、自今日石藏積之云々、尾州濃州勢州江州伊賀若州城州丹州攝州河州和州泉州播州少々悉上洛、石持之、先西之方云々、

・・・・

四月小

・・・

十三日、丁亥、天晴、四月節、

・・・

〇今晩織田弾正忠妙覚寺江移云々、磊之内へ明日武家御移云々、

・・・

十四日、戊子、雨降、自未刻晴、

〇巳刻武家勘解由小路室町江被移御座云々、

(引用:『言継卿記 三十』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”永禄12年(1569年)

1月27日、晴れ、午後2時頃からみぞれが降り始めた。

今年今に至る迄御所へ新年の挨拶にも来なかった将軍足利義昭が、朝食後に参内して来て、・・・、以前二条勘解由小路室町真如堂(かでのこうじむろまち しんにょどう)にあった幕府室町二条御所を再建する事とし、織田信長にその普請を奉行させることとしたので、ご報告の為に御礼ご挨拶に参りましたと言う。

2月2日、晴天、

勘解由小路室町真如堂の地に、以前の通りに二条御所が近日中に再建されると聞いていたが、今日から藏の石積みが始まった。尾張・美濃・伊勢・近江・伊賀・若狭・山城・丹波・摂津・河内・和歌山・和泉・播磨などから、石材を運んで上洛して来ており、先に西側から積み始めると言う。

4月13日、晴天、四月節、

今晩、織田信長が御所建設現場から妙覚寺へ移ると聞いている。まだごたごたして片付かない内に、明日将軍足利義昭は、引越して来るようだ。

4月14日、雨天、朝10時頃、

将軍足利義昭は、新築なった二条御所へ引越しされた。”位の意味です。

つまり、”織田信長によって、京都勘解由小路室町真如堂に、永禄12年(1569年)2月2日に着工され、4月13日に竣工した「二条御所」”に将軍足利義昭は、4月14日には入居したと言うことです。

ここは、元々、第13代将軍足利義輝(あしかが よしてる)が幕府御所(邸宅)として使用していた所で、永禄8年(1565年)5月19日に起こった『永禄の政変(将軍足利義輝弑逆事件)』によって、三好三人衆と松永久秀により、襲撃破壊されたままの廃墟となっていたものを織田信長が再建したものです。

それで、、、

織田信長研究者谷口克広氏の指摘にもありますが、織田信長上洛直後に畿内の行政を担当した武将は、、、

  1. 柴田勝家(しばた かついえ)
  2. 森可成(もり よしなり)
  3. 坂井政尚(さかい まさひさ)
  4. 蜂屋頼高(はちや よりたか)
  5. 佐久間信盛(さくま のぶもり)

等の”永禄11年(1568年)における織田信長の上洛戦を先導した武将たち”が、そのまま軍政を京都に引く形で、信長の畿内行政に関与した形となっていたとされています。

しかし、一方、、、

義昭、禁制ヲ山城松尾社ニ掲グ

禁制      山城國松尾社境内谷山田

・・・

永禄十一年九月廿九日   前信濃守神宿禰(諏訪晴長)
散位平朝臣(松田賴隆)

義昭、禁制ヲ攝津多田院ニ掲グ、

禁制       多田院境内幷門前

・・・・

永祿十一年十月二日   左衛門尉平
右馬助三善(飯尾貞遥)

義昭、禁制ヲ大和法隆寺、藥師寺及ビ攝津本興寺ニ掲グ、

禁制       法隆寺

・・・

永禄十一年十月三日   前信濃守神宿禰(諏訪晴長)
散位平朝臣(松田賴隆)

(引用:東京大學史料編纂所『大日本史料 第十編之一 』1968年復刻版 東京大學出版會)

 

等々と、上洛戦の侵攻に従って沿線の各寺院への「禁制(きんぜい)」(身分・知行安堵状)を発給しまくった織田信長に代り、上記にあるように、上洛直後から足利義昭配下の室町幕府の奉行衆の名前で「禁制」が発給され始め、”足利義昭への将軍宣下”を待たずに、政府としての室町幕府が京都で再開されて動き始めていた事がわかります。

織田信長側は、初期の軍政を担当した柴田・佐久間ら一線の軍司令官たちを担当部署に戻し、永禄12年(1569年)4月の将軍御所(二条御所)の完成前後から、、、

  1. 丹羽長秀(にわ ながひで)
  2. 木下秀吉(きのした ひでよし)
  3. 明智光秀(あけち みつひで)
  4. 中川重政(なかがわ しげまさ)

等と交代させて来ます。ここで、丹羽・木下は織田家家臣、中川は織田一族、明智光秀は幕臣と織田家家臣の両属となっています。

しかしその後、織田家の諸将は出陣し、代りに文官の村井貞勝(むらい さだかつ)・松井有閑(まつい ゆうかん)らが表に出て、幕臣との調整役が出来る明智光秀と共に、織田政府(室町幕府)の実務をこなしてゆくことになって行きます。

この政治の中心は義昭であるが、信長の協力なくしては展開していかなかった。つまり幕府の政令としては、原則として、幕府奉行奉書と信長の朱印状が同時発給されている二重構造の政治であった。これに、幕府側からの細川藤孝や一色藤長以下の奉公衆と、信長側からの柴田勝家・佐久間信盛・木下秀吉以下の京都の軍政担当者、のち京都の奉行となった村井貞勝、義昭と密接な関係をもっていた明智光秀らが加わり、相互協力の形で京都の政治が行われたのである。

(引用:染谷光廣『織田政権と足利義昭の奉公衆・奉行衆との関係について』366~367頁(1985年 「戦国大名論集17 織田政権の研究」に所収 吉川弘文館)

とあり、幕府発給文書に明智光秀登場するのは、永禄12年(1569年)4月以降、足利義昭が二条御所へ移ってからになり、細川藤孝(ほそかわ ふじたか)・和田惟政(わだ これまさ)など他の奉公衆も登場して来るのは、夏以降が多いようです。

そんな事から、幕府奉公衆・奉行衆たちと明智光秀は、新装なった二条御所の政庁に詰めて、丹羽長秀(にわ ながひで)・木下秀吉(きのした ひでよし)ら武将政治家、村井貞勝・明院良政(みょういん よしまさ)ら織田家の吏僚たちと連携して、大量の文書を発給し、幕府(足利・織田政権)の政治業務に励んでいたものと考えられます。

スポンサーリンク

天正10年5月28日、中国出陣前に愛宕神社へ参ったのは戦勝祈願だったの?

京都『愛宕(あたご)神社』は、ウィキペディアによれば、、、

天正10年(1582年)5月、明智光秀は戦勝祈願のために愛宕神社に参籠し、本能寺の織田信長を攻めるかどうかを占うため籤を 3回引いたという。翌日、同神社で連歌の会(愛宕百韻)を催したが、その冒頭に詠んだ歌「時は今 あめが下しる 五月哉」は光秀の決意を秘めたものとされる。

(引用:ウィキペディア『愛宕神社』関連する出来事の欄)

とあり、明智光秀に関係する話はこれが通説となっているようです。

歴史史料では、、、

五月廿六日、惟任日向守、中国へ出陣として坂本を打立ち、丹波亀山の居城に至って参着。次日、廿七日に亀山より愛宕山へ仏詣、一宿参籠致し、惟任日向守心持御座候哉、神前へ参り、太郎坊の御前にて二度三度迄鬮を取りたる由申候。廿八日、西坊にて連歌興行、

発句    惟任日向守、

ときは今あめが下知る五月哉      光秀

・・・

(引用:奥野高広・岩沢愿彦校注『信長公記』1970年 角川文庫)

大意は、”天正10年(1582年)5月26日、明智光秀は中国へ出陣するために坂本城を立ち、丹波亀山城に到着した。翌27日に亀山から愛宕山へ参詣に出掛け、宿泊参籠し、光秀は気持ちがどうであったのか、太郎坊で二度三度と御御籤を引いたと言う。28日は連歌の興行をおこない、

発句     ときは今あめが下知る五月哉    光秀 ”位の意味です。

 

次に、、、

 

斯テ惟任日向守光秀ハ、同廿七日、三千余騎ヲ師テ坂本ヲ発シ、白河越ニ掛リ、都ヘハ不入シテ、西ノ京ヲ過ギ、嵯峨ノ釈迦堂ニ至リ、爰ニテ家来共ヘ申サレケルハ、我聊カ寄願ノ事有ニヨリ、愛宕山ニ詣テ通夜セシメ、明日丹州ヘ可行也。汝等ハ是ヨリ唐櫃越ヲ歴、又ハ大江山ニ懸り、亀山ヘ参著スベシ。・・・

偖、ソレヨリ光秀ハ、愛宕山ニ攀上リ、社参事終リケレバ、則西坊威徳院行祐ガ許ニ一宿シテ、連歌興行シケルニ、内々京都ヨリ達人紹巴・昌叱・兼如・心前ナド云者共ヲ召寄、幷上坊大善院宥源ヲ招テ、百韻ノ連歌ヲゾ催シケル。其句ニ云ク、

トキハ今天ガ下知五月哉     光秀

(引用:二木謙一監修『明智軍記 300~301頁』2015年OD版 角川学芸出版)

大意は、”このように明智光秀は、永禄10年(1582年)5月27日に3000騎を率いて坂本城を出発し、途中白川越えに掛かったが、京都市中へは入らず、西ノ京を過ぎて嵯峨野の釈迦堂に到った。ここで、光秀は家臣たちに、自分は戦勝祈願のために、愛宕山に参籠して一夜を明かし、明日丹波へ下るので、お前たちはそのまま唐櫃越えを通って、又は大江山経由で亀山城へ行くことにせよ。・・・

さて、それから明智光秀は愛宕山へ上り、祈願を終えて、西坊の威徳院行祐のところへ入り、翌日の連歌興行のために、密かに京都から達人の紹巴(じょうは)・昌叱(しょうしつ)・兼如(けんにょ)・心前(しんぜん)などを呼び寄せており、併せて上坊の大善院宥源(だいぜんいんゆうげん)などを招いて連歌は行われた。

その発句は、「ときは今天が下知五月哉」 光秀”位の意味です。

 

日にちのズレが生じていますが、どちらの記事も明智光秀の『愛宕神社参籠』を伝え、その目的は「戦勝祈願」と「連歌興行」となっているようです。

 

これについての異説は、、、

愛宕権現というのは、細川幽齋の上の娘の伊也を再嫁させた京の金融を司っていた吉田神道の兼治の出店にも当る神社なのである。

後世になると、愛宕山頂の勝軍地蔵を拝みに、出陣前の諸将は登山したように伝わっているが、実際は戦費の借出しに行ったのである。そして、金策がつくまで連歌をしたり、茶湯をたてて待っていたのは(今日でも預金者は入口の腰掛で待たせても、貸出の客には、何処の銀行でも応接間へ通して、そこで茶を振舞うのと)同じである。

(引用:八切止夫『信長殺しは光秀ではない』215頁 2002年 作品社)

とか、『愛宕百韻』に関して、、、

一筋白し月の川水

と、紹巴は「月の座」で句を付けている。

中国渡来の伝説によれば、月には桂の大樹があり、その根元より清流が湧いて川となるという。王朝和歌にも好まれた伝説である。

とすれば、「月の川水」が「桂川」を指すことは決定的である。桂川を目指せ、という紹巴の句が光秀の京攻めを促していることは明らかであろう。

かくも大事なことを紹巴の一存で表明するわけはない。彼は朝廷側の使者として連歌興行に参加したとしか考えられない。

・・・

その興行を通して光秀は朝廷の意向を受けた源氏が平氏を討つことの正当性を表明したのである。

(引用:津田勇『「愛宕百韻」を読む』2002年『真説 本能寺の変』集英社 に所収)

これらによると、八切説では、明智光秀が愛宕神社に参籠に出掛けたのは、通説にあるような「戦勝祈願」以外に、金融業者である愛宕社に”戦費調達(借出し)”に出掛けたと云います。

また、津田説では、明智光秀の愛宕山参籠は「戦勝祈願」に名を借りて、連歌の宗匠であり朝廷よりの使者である里村紹巴(さとむら じょうは)を待っていたと云います。つまり、里村紹巴はこの織田信長暗殺クーデターの実行部隊である明智光秀に、最終的な朝廷の”信長暗殺計画決行”の意向を伝えるとともに、確定した織田信長の行動予定を伝えたと言う訳です。

また今年初見したフリージャーナリスト斎藤忠氏の説では、、、

然處にあけち日向守は、信長の取立之者にて有けるが、丹波を給はりて有しが、にはかにぎゃくしんをくわ立、丹波寄夜づめにして、本能寺へ押寄而、信長に御腹をさせ申。信長も出させ給へ而、城之介がべっしんかと被仰ければ、森之お覧が申、あけちがべっしんと見へ申せば、さてはあけちめが心がわりかと被仰候處、・・・

(引用:大久保彦左衛門忠敬『三河物語』227頁 国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”明智光秀は織田信長によって取りたてられた者であるが、丹波国を与えられていた。急に謀叛を企てて、丹波から夜通し行軍して京都本能寺に押し寄せ、織田信長を自刃させた。その時、織田信長は寝間から飛び出して、「息子信忠の謀叛か」と叫ばれたが、小姓の森乱丸が「明智光秀の謀叛と思われます」と言うと、「そうか明智光秀は心変わりしたのか」と言われた。”

位の意味ですが、この説は、ここで出ているように、本能寺で寝込みを襲われた織田信長が、第一声で「城之介がべっしんか」と叫んだことを問題にしています。

普通にこの有名な大久保彦左衛門(おおくぼ ひこざえもん)の『三河物語』のフレーズは、”信忠の謀叛か?、いいえ!明智光秀の謀叛です。”と読まれる訳ですが、実はこのフレーズは、”信忠の謀叛か?ええ、明智光秀の謀叛です!”となると言います。信忠と光秀は一味だと言う理解なのです。根拠は、次の信長の発言である”さてはあけちめが心がわりか”にあり、息子信忠と信長は近年仲が悪く、”とうとう信忠の挙兵に明智光秀までが加担したのか”と言う話のようです。

これでも、荒唐無稽の話に思えますが、、、

信長の世子は名を城介といひ、元来我等の教を好み、パードレ達を庇護し、聖堂を建つる地所ならびに十字架を建つる野を市内に与へたが、その父を喜ばせ或は時期を待つためか、または父と同じく欺かれてか、その死する少し前甲斐の国王に勝ち、その四ヵ国を占領して帰った時、同地方で非常に尊崇されたる偶像を持帰り、これを尾張国に安置して、一層尊崇することを命じた。而して最近都に着いた時、同所より三レグワのところに在る愛宕と称する悪魔に勝利に対する感謝を表するため、二千五百クルサドを納めた。而して同じ悪魔に、崇敬を表するため、家に帰って雪をもって身体を洗った。然るにこの奉仕の報として、その後三日を経て左に述ぶるが如く身体に多くの傷を受けて死し、魂は地獄において焼かれた。・・・

(引用:村上直次郎訳・柳谷武夫編輯『イエズス会日本年報 上 新異国叢書 3 1582年[天正10年]の日本年報追加の章』208~209頁 1969年 雄松堂書店)

これを見ると、天正10年(1582年)6月2日の勃発した『本能寺の変』の3日前、5月28日か29日に城之介(織田信忠)が愛宕神社に参詣したことが記されています。これは、後年の日本の関係者の恣意的な改ざんの手が加わらない当時のイエズス会『1582年日本年報追加』の記録です。

この微妙なタイミングで明智光秀と織田信忠が、偶然同じ日に愛宕神社に参詣に出向いたとは思われず、ふたりは最後の会合を持つために申し合せて出掛けたとしか考えられません。

今回は、この記事が明智光秀の愛宕社へ出向いた理由を問うものなので、ここまでで止めますが、このフリージャーナリストの斎藤忠氏の説は、面白い初見の説だと思われます。

 

『本能寺』は、織田信長の京都での定宿だったの?

この歴史学者の藤井譲治氏他11名の歴史学者・研究者の先生方の労作である『織豊期主要人物居所集成』によれば、永禄11年(1568年)以来14年間に凡そ50回に上る上洛時の、織田信長の京都における宿所は、、、

  • 妙覚寺  20回
  • 二条屋敷 12回
  • 本能寺   4回
  • その他  14回

となっています。

「その他」に至っては10ヶ所にも及んでおり、天下人織田信長が案外京での宿所に難儀していたことが分かります。

永禄12年(1569年)4月14日に将軍足利義昭用の「二条御所」が完成して、将軍の居所は定まりました。しかし、信長の方は定まらず、結局京都での信長の居所(「二条屋敷」)が定まるのは、安土城建設の目処もついて来た天正5年7月6日のことでした。

ところが、織田信長は天正7年(1579年)11月16日には、この折角造営した「二条屋敷」を誠仁(さねひと)親王に進呈して退去してしまい、またまた「妙覚寺」暮らしとなります。そして翌天正8年(1580年)2月26日には、過去に2度ほど使った事のある、「本能寺」を増築して宿所にすることを織田家吏僚の村井貞勝(むらい さだかつ)に命じます。

翌天正9年(1581年)2月20日にこの増築なった「本能寺」に入り、2度目は天正10年(1582年)5月29日に使う事となり、運命の6月2日を迎えることとなります。

最近の”本能寺跡の発掘”で、通説で言われているような要塞化した改築が行われたわけではなくて、意外にも寺の一部を占める小規模な改築であったことが判明しています。

なぜこうなのかと言えば、織田信長の考えは、どうやら天正8年(1580年)に屈服させた大坂の石山本願寺の跡地に、西国を睨む拠点城郭を作ることにあったようです。

抑も大坂は、凡そ日本一の境地なり。・・・日本の地は申すに及ばず、唐土・高麗・南蛮の舟、海上に出入りし、五畿七道こゝに集まり、売買利潤、富貴の湊なり。

(引用:太田牛一『信長公記 第十三巻』インターネット公開版)

大意は、”この大坂と言うところは、日本一のすばらしいところである。・・・日本は言うに及ばず、中国・朝鮮・欧州の船が海上から出入りし、日本中からも物資がここに集まり、利益を生み出す最高の港である。”位の意味です。

物流網を押さえておけば、とてつもない利益を生むことを理解している織田信長らしい発想と言え、近々この石山本願寺址に拠点の城を築くことを念頭に入れていたのが、本能寺の改築が”仮の宿所”のようになった理由と考えられます。

後に、これをそっくりそのまま豊臣秀吉が実現してしまいます。

こんなことで、合理主義者の織田信長は「本能寺」をしっかりした定宿(城塞)にしようとしていた訳ではなさそうです。

 

『山崎の戦い』で、明智光秀が逃げ込んだ「勝竜寺城」は誰のものだったの?

これに関しては、、、

今度被対信長被抽忠節候、誠神妙至候、仍城州之内限桂川西地之事、一職ニ申談候、全領知不可有相違之状如件、

元亀四
七月十日        信長

細川兵部太輔殿

(引用:奥野高廣『増訂 織田信長文書の研究 上 375 細川藤孝宛朱印状』1994年 吉川弘文館)

大意は、”このたびの信長に対する忠節のこと、まことに神妙である。その功により、山城国の桂川の西岸地区の支配権を与える。此の事は間違いないことである。

元亀4年(1572年)7月10日    信長

細川藤孝殿 ”

位の意味で、織田信長が細川藤孝に対して、桂川西岸地区(現長岡京市一帯)を領地として与える(勝竜寺城の城主にする)と言うお墨付きです。

突然何の話かと言えば、、、

三月廿五日、信長御入洛の御馬を出される。然るところに、細川兵部大輔・荒木信濃守、両人御身方の御忠節として、廿九日に逢坂まで両人迎へに参らる。御機嫌申すばかりもなし。東山知恩院に至って、信長御居陣。・・・。此の時、大ごうの御腰物、荒木信濃に下され、名物の御脇差、細川兵部大輔殿へ。

(引用:太田牛一『信長公記 巻六 公方様御構へ取巻きの上にて御和談の事の条』インターネット公開版)

大意は、”元亀4年(1572年)3月25日に、織田信長は岐阜より上洛の途に付かれた。そうしたところ、幕府有力奉公衆である細川藤孝と荒木村重が、織田信長への恭順の証として3月29日に逢坂山まで出迎えに行かれた。信長公は、大変上機嫌で、知恩院に到着され、その時、荒木村重に郷義弘の鍛えた大刀を、名物の脇差を細川藤孝へ下賜された。”位の意味です。

つまり、幕府方重鎮の細川藤孝と奉公衆の荒木村重が、将軍足利義昭側から織田信長へ寝返り、信長は対立する将軍義昭に大打撃を与えることが出来て、この3ヶ月後には義昭は京都から追放されて、織田信長は天下人として全権をを振るうことになりました。

この信長への寝返りの代償として、細川藤孝へ勝竜寺城が渡されたものと考えられます。

早々に信長へ寝返っている藤孝の配下だった明智光秀は、『叡山焼き討ち』の功労により、元亀2年には坂本の領地が与えられていますので、幕府重鎮の細川藤孝も時流に逆らえずに義昭を見限り、信長に付いたものと思われます。

これに関して、細川家側では、、、

藤孝君元亀四年七月十日桂川西地御拝領、右靑竜寺江御在城被成しと覚たる者多し、左にてハなし、御祖父元有君江明応六年五月公方義澄公より桂川西にて三千貫之地を拝領ニ而靑竜寺に城を築て御在京之里城とせらるゝ也、信長公より始めて御拝領にてハなし、元亀之比は信長公の天下一統ニ成候故、御領知無相違之御証書とミへたりと云々、

(引用:細川護貞監修『綿考輯録 第一巻 74頁』1988年 出水神社)

大意は、”細川藤孝公は元亀4年(1572年)7月10日付で、織田信長公より桂川西岸地区を拝領した。それ故「勝竜寺城」に在城しているのだと覚えている者がいるが、それはない。藤孝公の祖父細川元有公が、明応6年(1497年)5月に、時の将軍足利義澄公より桂川西地区三千貫の土地を拝領して、勝竜寺城を築城されて京都の守りとされた。信長公より初めて拝領した訳ではない。元亀年間は信長公が天下統一を達成しつつあったので、あの書面は領地を領有している証拠として、改めて発給してもらったものだと思われる。”位の意味です、

とありますが、この『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』にあるような細川元有(ほそかわ もとあり)が将軍足利義澄(あしかが よしずみ)から拝領した話は、確かな記録が見当たらず、永禄11年(1568年)の織田信長上洛戦で三好三人衆の岩成友通(いわなり ともみち)が守っていたのを、織田軍が追い払っていることから、やはり細川藤孝及び細川家は、この時初めて信長に貰ったというところが、本当のところではないかと思われます。もともと細川家が持っていたものだと言う根拠はないようです。

勝竜寺城に関する最も古い文献は『東寺百合文書』康生三年(一四五七)で、山城守護畠山義就が乙訓郡の郡役所として利用していたようである。応仁・文明の乱には文明二年(一四七〇)に勝竜寺城搦手北の口で合戦があり、この時勝竜寺城は東軍西岡衆の野田泰忠に攻められている。その後戦国期には、松永久秀、三好三人衆の城となったが、永禄十一年(一五六八)には織田信長により落城させられている。信長は細川藤孝に西岡地方(桂川以西)を”一職”として支配させた。

(引用:村田修三『図説中世城郭事典 第二巻』318頁 1977年 新人物往来社)

 

とあり、一般的にも細川家が勝竜寺城を手に入れたのは、”織田信長からもらった”からとなっているようです。

 

スポンサーリンク

まとめ

明智光秀ゆかりの京都となると、超有名な『本能寺』と『山崎合戦場』、明智光秀のゆかりの寺院、となると思うのですが、、、

今回は、明智光秀の運命に影響を及ぼした場所について、、、

  1. 明智光秀の『京都屋敷』
  2. 将軍足利義昭の『二条御所』
  3. 戦勝祈願に行って連歌会を開いた『愛宕神社』
  4. 織田信長を討った『本能寺』
  5. 『山崎の合戦』で敗戦し、まず逃げ込んだ『勝竜寺城』

の5ヶ所を考えて調べてみました。

1.に関しては、通説の貧乏牢人である明智光秀との落差の大きすぎる京都の御屋敷所有話は、公家山科言継卿の日記の信頼性から、通説の明智光秀の経歴の方に問題があるような感じです。やはり明智一族はただの田舎豪族ではなかったようです。

2.に関しては、通説では、足利義昭は坊主上りの実務的には無能の陰険な陰謀政治家イメージが強いですが、永禄11年(1568年)10月18日に将軍となり、お役所としての室町幕府組織が動き出します。最初は先代将軍の時の官僚たち(奉公衆・奉行衆)たちがそのまま事務にとりかかったようです。この足利義昭の幕府の実体は、織田信長との連合政権の色彩が強く、永禄12年正月の『六条合戦』以来、存在感を強めた明智光秀も、新御所の完成する永禄12年4月以降には、政権内の業務に係わり始めています。

3.『愛宕神社』は、かなり登りのきつい山にあり、おまけに当日天候の悪いにもかかわらず、明智光秀にはどうしても、ゆかねばならない事情があったと考えられます。それには二つ考えられ、ひとつは織田信長の命じた長丁場の遠征に備えた金策と、もうひとつはクーデター実行に関する最終決定だったと思われます。ここでいままで言われたことのない『織田信忠のクーデター説』が出て来ました。まさか、このタイミングで織田信忠と明智光秀が愛宕神社で会談をしていた可能性があるとは思ってもみませんでした。このフリージャーナリスト斎藤忠氏の説は注目してよいのではないでしょうか。イエズス会の年報に『本能寺の変』のレポートがきちんと書かれているのは、驚かされます。しかし、異説の故、研究されておらず、明智光秀との関わり合わせが今ひとつ明確でないので、決定力には欠けると言わざるを得ないのが残念なところです。

4.明智光秀が攻めた『本能寺』は、織田信長の定宿だったと言う刷り込みが私にはありましたが、実際調べてみると、華道文化研究家井上慶雪氏の指摘するように、本能寺の改築がなって以後、2度しか織田信長の宿泊記録はないのです。しかも近年の発掘調査により、改築して城塞化した『本能寺』と言うイメージは間違いであることがはっきりしました。どうやら織田信長の頭には、大坂城の築造計画が進んでいたようなのです。

5.織田信長に『勝竜寺城』を貰って以来、藤孝は名字を「細川」から、城の所在地である「長岡」に変えるなど、この勝竜寺城の周辺の民政に気を配ってゆくなど、もともとの自分の一族の領地でなかったことは明白なようです。しかし、城としては堅牢な作りであったようで、光秀もそれを考えて敗戦直後の退き先にここを選んだのでしょう。

色々見て来ましたが、明智光秀の謀叛の真相は相変わらず不明のままなので、行動に筋が通らないことが、山積されたままというところですが、注目がさらに集まって来ているので、新史料の発見も含めて、新たな研究の進展が期待されるところです。

 

参考文献

『言継卿記 第四』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇奥野高広『足利義昭』(1960年 吉川弘文館)

〇谷口克広『信長と将軍義昭』(2014年 中公新書)

〇谷口克広『信長軍の司令官』(2005年 中公新書)

〇橋場日月『明智光秀 残虐と謀略』(2018年 祥伝社新書)

〇山田康弘『戦国期幕府奉行人奉書と信長朱印状』「古文書研究 第65号」に所収(2008年 吉川弘文館)

〇谷口克広『信長の天下所司代』(2009年 中公新書)

〇染谷光廣『織田政権と足利義昭の奉公衆・奉行衆との関係について』(1985年 藤木久志編「戦国大名論集17 織田政権の研究」吉川弘文館)に所収

ウィキペディア『愛宕神社』関連する出来事の欄

〇奥野高広・岩沢愿彦校注『信長公記』(1970年 角川文庫)

〇八切止夫『信長殺しは光秀ではない』(2002年 作品社)

〇津田勇『「愛宕百韻」を読む』(阿部龍太郎・立花京子他著 2002年『真説 本能寺の変』集英社 に所収)

〇齋藤忠『天正10年の史料だけが証すー本能寺の変の真実』(2019年 じっぴコンパクト新書)

〇村上直次郎訳・柳谷武夫編輯『イエズス会日本年報 上 新異国叢書 3』(1969年 雄松堂書店)

〇藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成 【第2版】』(2017年 思文閣出版)

〇奥野高廣『増訂 織田信長文書の研究 上』(1994年 吉川弘文館)

太田牛一『信長公記 巻六』(インターネット公開版)

〇細川護貞監修『綿考輯録 第一巻』(1988年 出水神社)

〇井上慶雪『本能寺の変 秀吉の陰謀』(2015年 祥伝社黄金文庫)

〇村田修三編『図説中世城郭事典 第二巻』(1977年 新人物往来社)

スポンサーリンク



コメントを残す

Time limit is exhausted. Please reload the CAPTCHA.