明智光秀が起した『本能寺の変』の『5つのなぜ』!ホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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改めて『本能寺の変』の諸説が分かります。

明智光秀『本能寺の変』の行動がはっきりしない理由が分かります。

明智光秀徳川家康を襲わなかった理由が分かります。

明智光秀がなぜ『麒麟』なのか分かります。

 

なぜ明智光秀は織田信長に謀反したの?

天正10年(1582年)6月2日払暁に勃発した『本能寺の変』は、室町幕府に代わる新たな武家政権の誕生目前で、その主人公たる戦国の覇者織田信長自身を破滅させ、信長が49年の生涯をかけて作り上げて来た織田政権を一瞬にして崩壊させました。

このクーデターの実行者は、織田家重臣”明智光秀”であると言われていますが、事変後のその行動に迅速さを欠き、政権構想もはっきりしないなど不可解さが目立ち、実行動機もはっきりしないなど、頭脳明晰を謳われた明智光秀らしくない行動に満ち溢れていることから、日本の戦国史上最大のミステリーとなっています。

その後政権を獲った豊臣秀吉の積極的な宣伝活動のせいもあり、真相はわからぬまま”謀反人明智光秀の動機”に関して江戸時代から諸説が多数存在し、今に至っています。

謀反の『動機』の主な諸説を見てみますと、、、、

 

怨恨説

いろいろ言われていますが、これはやはり主君織田信長に”武士の面子を潰された”と言うところから発生して来る説と考えられ、それに関しては、、、

一、信長公甲州へ御出陣アルヘシトテ 安土ヲ御立アリケル・・・信州諏訪郡イツレノ寺ニカ御本陣ヲスヘラルト 其席ニテ明智申ケルハ サテモカヤウナル目出タキ事ヲハシマサス 我等モ年來骨ヲリタル故 諏訪郡ノ内皆御人數ナリ イツレモ御覧セヨト申ケレハ 信長御氣色カハリ 汝ハイツカタニテ骨折武邊ヲ仕ケルソ 我コソ日コロ粉骨ヲツクシタリ ニクキヤツナリトテ 懸ツクリノ欄干に明智カ頭ヲオシツケ扣キ玉フ 其トキ明智諸人ノ中ニテ耻ヲカキタリ無念千萬ト存ツメタル氣色アラハレタル由申傳タリ・・・

(引用:『祖父物語 317~318頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”信長公が甲州へ出陣される時、安土を御立になり・・・信州諏訪の法華寺に本陣を据えられ時、宴席で明智光秀が申すには(武田家滅亡・織田軍大勝の報が伝わり)「さてこのようなめでたい事がありましょうか、私も年来骨を折って来たから、諏訪でこのように皆さんのお仲間になれました。どなた様もよくお聞き下さい」と言うと、信長公が顔色を変えて、「おまえがどこで骨を折るような武勲をあげたのか!オレがやったのではないか!コノ野郎!」と怒鳴り声を上げ、作り付けの欄干に明智光秀の頭を押し付けてタタかれた。その時明智光秀は衆人環視の中で大恥をかき、無念千万の表情を浮かべたと伝わっています。”位の意味です。

天正10年(1582年)3月に信長と武田討伐への出陣中に、征討軍の織田信忠が、一足早く進軍し、信長が武田領へ侵入し諏訪へ到着した頃には、武田勝頼を滅亡させた報告が諏訪の陣中に届き、その宴席での出来事とされています。

更に、、、

信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。ところで信長は奇妙なばかりに親しく彼を用いたが、このたび、その権力と地位をいっそう誇示すべく、三河の国王(徳川家康)と、甲斐国の主将たちのために饗宴を催すことに決め、その盛大な招宴の接待役を彼に下命した。

これらの催し事の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが、元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対意見を言われることに堪えられない性質であったので、人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたということである。

(引用:ルイスフロイス/松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史3 織田信長編Ⅲ 144~145頁』2014年 中公文庫)

これは、天正10年(1582年)の5月15~17日の”徳川家康の饗応”の内容を巡る、実際にあった織田信長と明智光秀との安土城内でのトラブルだったようです。

このあと明智光秀は、信長から家康の饗応役を解任され、毛利攻めの陣にある競争相手の豊臣秀吉の与力を命じられ、更に領地の召しあげを命じられたなどと伝わっています。

等々があり、織田信長から公けの席でも暴行を受け、武士の体面をひどく傷つけられ、左遷の憂き目にもあったことによる”遺恨”を晴らすための挙行だったと言う『怨恨説』です。

又、、、

明知日向守光秀丹波國の主にて龜山と云ふ所にありしが、信長卿に恨ありけるにや、討べき心を日比さしはさめりしに、・・・

(引用:竹中重門『豐鑑』<群書類従 新校 第十六巻 三七三頁> 国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”明智光秀は、丹波国の領主で亀山と言うところにいたが、織田信長に恨みがあったのだが、日頃謀反の考えをひた隠しにしていた”位の意味です。

豊臣秀吉の軍師として知られる竹中半兵衛の嫡男重門の筆になる『豐鑑(とよかがみ)』によれば、やはり”恨みの心”を日頃から持ち、ひた隠しにしていたと言っています。

 

野望説

それを伝える同時代史料として、、、

その過度の利欲と野心が募りに募り、ついにはそれが天下の主になることを彼に望ませるまでになったのかもしれない。そもかく彼はそれを胸中深く秘めながら、企てた陰謀を果す適当な時機をひたすら窺っていたのである。

(引用:ルイスフロイス/松田毅一・川崎桃太訳『全訳フロイス日本史3 織田信長篇Ⅲ 145頁』2014年 中公文庫)

と当時在日のイエズス会宣教師ルイス・フロイスの手厳しい証言があります。

又、、、

・・・、惟任奉公儀、揃二萬餘騎之人數、不下備中、而密工謀反、併非當坐之存念、年來逆意、所識察也、・・・

(引用:大村由己『惟任退治記』<史籍集覧 第十三冊 三百三十五頁 > 国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”明智光秀は織田信長の命令で、2万騎の軍勢を揃えたものの、指令のあった備中へは向わないで、ひそかに謀反を企んでいた。それは急に思い立ったことではなくて、従来よりずっと逆心を抱いていたと思われるのだ。”位の意味です。

豊臣秀吉が右筆の大村由己(おおむら ゆうこ)に書かせた”秀吉のプロパガンダ物語”と言われる『惟任退治記(これとう たいじき)』には、明智光秀は突発的に『謀反(本能寺の変)』を思い立ったわけではなくて、以前より織田信長を討って天下を獲ろうと目論んでいたのだと言わせています。

また、、、

明智、龜山の北愛宕山のつヽきたる山に、城郭を構ふ、この山を周山と號す、自らを周の武王に比し、信長を殷紂に比す、これ謀反の宿志なり

(引用:江村専斎『老人雑話 巻上 二十頁』史籍集覧 第十冊 国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”明智光秀は、亀山の北に、愛宕山の峰続きである山に城を構えた。この山を「周山」と命名し、自らを「周の武王」に比定し、織田信長を殷の紂王に比定して、自分は密かに周の武王を気取って謀反の考えを温めていた”位の意味です。

つまり、安土桃山時代から江戸初期までの当時を生きた、江村専斎(えむら せんさい)と言う京都の医者が残した記録によれば、明智光秀の本心は、日頃から「天下」を望んでいたと言う『野望説』を述べているようです。

歴史学の大家高柳光寿氏は、著書『明智光秀』で、”信長は天下が欲しかった。秀吉も天下が欲しかった。光秀も天下が欲しかったのである。”『野望説』を述べておられます。

また、、、

勝頼公も明智十兵衛当二月より逆心仕べきと申こす処に、長坂長閑斎分別に 籌をもつて調儀にて申越スと云て、明智とひとつにならざる故、武田勝頼公御滅亡なり。

(引用:高坂弾正昌信/磯谷正義・服部治則校注『甲陽軍鑑(下)品第五十八 457頁』戦国史料叢書5 1966年 人物往来社)

大意、”武田勝頼公も、天正10年(1582年)2月の時点で、明智光秀から謀反を起す事が告げられて来た時に、重臣の長坂長閑斎(ながさか ちょうかんさい)が判断して、これは織田信長が謀略を仕掛けて言って寄越したものだとした爲、折角の”織田信長を倒すと言う明智光秀の謀叛”に勝頼公は同調出来ず、結果武田勝頼公は滅亡することとなった。”位の意味です。

耳を疑うような怪しい話ではありますが、この話がもし本当だとすると、明智光秀は謀反決行の3ヶ月以上前に『謀反計画』を武田勝頼へ連絡していることとなり、前掲のルイス・フロイスや竹中重門の話を裏付けることにもなりそうです。

 

朝廷黒幕説

天正10年(1582年)6月2日の『本能寺の変』後の公家衆の様子に関して、、、

七日、・・・。近衛殿、内府御方御所へ いていにて御参候。御樽御進上候也。御盃参候。・・・

・・・

十一日、雨降、坊城へふるまい也。入道殿、通仙、烏丸大さけ也。

(後略)

(引用:勧修寺晴豊『天正十年夏記』 立花京子『信長権力と朝廷 第二版』に掲載分より)

大意は、”天正10年(1582年)6月7日(つまり、誠仁親王の命令で安土にいる明智光秀に対して祝勝の勅使が立った日の翌日)、従一位の公卿近衛前久(このえ さきひさ)殿は、息子の近衛信基(このえ のぶもと)邸へ武装のまま出かけ、酒を一樽進上し、私勧修寺晴豊(かじゅうじ はれとよ)も交えて宴会を行なった

6月11日、雨。東坊城盛長(ひがしぼうじょう もりなが)邸にて、入道(聖護院道澄か?ーしょうごいん どうちょう)、(典薬頭)半井瑞策(なからい ずいさく)、烏丸光宣(からすま みつのぶ)らと大酒を飲んだ。”位の意味です。

つまり、明智光秀クーデターによる織田信長暗殺成功の快挙に、大物の公家衆である近衛前久・勧修寺晴豊らが集まって各所で信長討伐成功の祝杯を挙げているとしか思えない記述が続きます。

また、『山崎の戦い』の後には、、、

廿日、丁丑、近衛相國、自三七殿可有御成敗之旨依洛中相觸、御方御所御身上御氣遣御迷惑也、出京之刻、流布之間祗候了、内府御身上聊無別義之由、・・・

(引用:吉田兼見『新訂増補 兼見卿記 第2 天正六月廿日の条』2014年 八木書店)

大意は、”天正10年(1582年)6月20日、近衛前久(このえ さきひさ)卿を、織田信孝殿が成敗せんとする噂が洛中に流れている。御子息の内大臣近衛信基(このえ のぶもと)卿の身の上も気遣われ心配である。そこで、出かける時、噂がある間は近衛殿の所へは行かぬ様にした。内大臣の近衛信基卿へは、特にお咎めはないようであった。”位の意味かと思います。

つまり、明智光秀を討伐した豊臣秀吉・織田信孝軍は、『謀反』の関係者として、近衛前久卿を成敗するのではないかと洛中に噂が流れていたことが記されており、当時から朝廷・公家の『本能寺の変』への関与が噂されていたことが分かります。

こうした点から、誠仁(さねひと)親王と近衛前久(このえ さきひさ)を中心とする公家達の、政変の黒幕として『本能寺の変』への関与が強く疑われるところとなっています。

 

豊臣秀吉黒幕説

これは、何と言っても豊臣秀吉が実現させた『中国大返し』の疑惑から来ているもので、常識的には前もって政変の発生を知らない限り、あのように早く京都へ戻っては来れないと言う見方から出ています。

現実的に考えて、この時代に想定外の事態が発生した情報が入った場合、その情報の信頼性の確認が出来ない限り、命運を賭けて短時間に意思決定して、部隊の全軍を挙げて行動を起こすなど無謀のひとことに尽きます。

しかし、準備をして待っていた場合に限り、それはただの”行動への合図”に過ぎないわけですから、手順に従ってすぐさま行動に移せる訳です。秀吉の場合、このケースに当ると思われます。

この入って来た情報(行動の合図)の信頼性に関しては、、、

天正10年(1582年)6月2日、謀反の当日、明智光秀は必勝の布石を打っていたはずですから、光秀本隊は信長を、盟友細川隊が家康の討伐を担当していたのものと思われ、細川藤孝は事前に家老の米田求政(こめだ もとまさ)を京都市内に潜入させていたと言われ、信長と家康の動静を捕らえ、藤孝へ的確な情報を送っていたと考えられます。

ところが、細川藤孝は明智光秀との打ち合わせどおり兵を動かさず、事変の情報をいち早く早馬で知らせたのは、なんと”備中の豊臣秀吉の陣中”でした。

 

一、天正壬午六月二日、亥の刻四ツ半、この一点天下の大事を知るなり。すなわち丹波表の長岡兵部殿よりの御使者到来、前将様、兵部大輔様よりの密書を見られ候いて、慄然として声なし。

(引用:吉田蒼生雄『武功夜話 <二> 巻十 日向守謀反の事 163頁』1988年 新人物往来社)

 

大意は、”天正10年(1582年)6月2日、午後11時、この時点で天下の大事(『本能寺の変』)勃発の知らせを受ける。ここで、丹波を移動中の細川藤孝殿からの使者が到着し、前野長康(まえの ながやす)様は、細川藤孝様よりの密書を見られ、慄然として声がなかった。”位の意味です。

豊臣秀吉の重臣前野長康は、すでに豊臣秀吉から指示を受けて連絡役として、秀吉が在陣している備中と京を結ぶ線の中間点である播州三木辺りに在陣して、来るべき知らせを待っていたところへ、計画どおり細川藤孝からの早馬にての連絡を6月2日当日の午後11時に受け取っていました。すぐさま前将は備中へ早馬を出して秀吉に知らせたことは言うまでも有りません。これから日本史上超有名となった『中国大返し』の始まりとなりました。

こうして、明智光秀は『徳川家康討ち取り』に失敗していたのですが、豊臣秀吉が得た”謀反に関する情報の確度”は、当事者の細川藤孝のものですから、これほど確かなものはない訳です。

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つまり秀吉が待っていたのは、その連絡役の細川藤孝からの「情報(合図)」でした。これほど確実は情報はない訳で、他の未確認情報ではなかったのです。

しかし、これは『中国大返し』の種明かしをしたことになるかもしれませんが、豊臣秀吉が『本能寺の変の黒幕』である証拠にはなりません。

その後の豊臣秀吉の出世のスピードから、秀吉の『黒幕説』が出ているようですが、当初秀吉は『黒幕』の”駒”に過ぎなかった可能性もある訳です。

ですから、この説も確証に乏しいと言わざるを得ないのです。

 

徳川家康黒幕説

この説は、、、

織田信長が天正10年(1582年)3月に武田討伐を達成し、武田氏の脅威がなくなった事から、「東国からの壁」となっていた同盟を結んでいる徳川氏の軍事的重要性が以前よりも大幅に小さくなりました。

そこで、織田信長は、自分の子供たちの将来に脅威を与える存在となり始めた徳川家康を、討伐するのではないかとの見方から来ているようです。

この当時、、、

一、あけちむほんいたし、のぶながさまニはらめさせ申候時、・・・・(中略)

其折ふし、たいこさまびつちうニ、てるもと殿御とり相ニて御入候。山さきのかたへとこゝろざし候へバ、おもひのほか、京へと申候。我等ハ、其折ふし、いへやすさま御じやうらくにて候まゝ、いゑやすさまとばかり存候。ほんのうふ寺といふところもしり不申候。

(引用:『本城惣右衛門覚書』 天理図書館誌『ビブリア』の連載記事「業餘稿叢」に所収 1976年 木村三四吾編)

大意は、”明智光秀が謀反を起し、織田信長様が自刃された時、・・・その時は、豊臣秀吉は備中高松にあって、毛利輝元と対峙していた。行軍が山崎へ向っていたところ、思いがけず京都へとの命令が出た。我々は、この時徳川家康様が上洛しているので、さては家康様を討ち取るのかと思った。本能寺と言うところは全く知らなかった。”位の意味です。

つまり、明智軍の一雑兵に過ぎない本城惣右衛門(ほんじょう そうえもん)でさえ、明智軍の備中への進軍が急遽京都へ変更されたことから、これは徳川家康の討ち取りだと瞬間的に思ったという話です。この事は、当時の噂として、織田信長の徳川家康殺害の話が広がっていたことを示しているようです。

ということから、黙って討たれる訳にはゆかない徳川家康が先手を打って、戦勝で”織田信長取り巻き”の気が緩んでいるこの機に乗じ、豊臣秀吉にしてやられて四国征討軍から外され、意気消沈している明智光秀を使嗾(しそう)して、「織田信長の脅威」を取り除こうとして暗殺を企んだのではないかと言う話です。

この明智光秀の謀反は失敗に終わり所謂「三日天下」に終わったのですが、後年徳川家康が天下を握ってから、徳川3代将軍となった家光の乳母に、『本能寺の変』の実行部隊を指揮した明智家家老の斎藤利三の娘”お福(後に権勢を振るった春日局)”が採用されていたり、明智光秀の本家『土岐家』の再興もみとめられていることから、”徳川家康の奇妙な明智びいき”が感じられ、ひょっとしたら天正10年6月の事変に徳川家康が関与していたのではと疑われている訳です。

 


(画像引用:細川幽齋像Wikipediaー天授庵所蔵

 

 

 

イエズス会黒幕説

『本能寺の変』に関して、最初に”イエズス会”の関与を言い出したのは、歴史作家の八切止夫氏ではないかと思われますが、なぜか八切止夫氏の説は、中世史研究者にはまったく相手にされていない状態でした。

次に、中世史研究者の立花京子氏が、フロイスの次の文面を指摘し、、、

信長の家臣と、諸国から用務のために政庁に来ていました他の多数の貴人たちは、我らの主なるデウスが、信長を通して我らに示し給う好意について驚嘆し、驚いたことだ、・・・彼らが不思議がるのは当然でした。けだし彼らは、万のことは、あらゆる善と慈悲の尽きない泉から出ていることを知らなかったからであります。

(引用:ルイスフロイス/松田毅一・川崎桃太訳『全訳フロイス日本史 2 第38章 211頁』2015年 中公文庫)

と、宗教的な表現が続きますが、ここで大事な事は、織田信長に宗教的な興味は一切ないことです。次に、、、

彼は、それらすべてが造物主の力強き御手から授けられた偉大な恩恵と賜物であると認めて謙虚になるどころか、いよいよ傲慢となり、自力を過信し、その乱行と尊大さのゆえに破滅するという極限に達したのである。

(引用:ルイスフロイス/松田毅一・川崎桃太訳『全訳フロイス日本史 3 第55章134頁』2014年 中公文庫)

どちらも”宣教師ルイス・フロイスの日本史”ですが、最初のものは、岐阜城で織田信長がルイスフロイス師に謁見する場面で、読み替えるとフロイスは信長に必要な軍事援助を与えているから、こんなにも信長はフロイスに好意的なのだと言うことと、2番目は周知の『本能寺の変』で織田信長が遭難した後のコメントで、”イエズス会の援助があればこそ天下統一を進めれたのに、その恩も忘れて自分の力だと過信しうぬぼれるから、こんな目に遭うのだ。”とフロイスが述べていることになります。

こうした記録から立花京子氏は、フロイスが、”織田信長は、イエズス会から強力な兵器である鉄炮・大砲に必要な硝石を優先的に供給してもらい、そのおかげで軍事的に優位に立ち続けていた”と示唆しているのだと捉えています。そして、後半のフロイスの言葉から、”信長がいままでの恩を忘れて行動し始めたので罰を与えた”とも読み取れるので、イエズス会の事変への何らかの関与があるはずだと言う説となります。

基本は、戦国時代の合戦に革命を起こした武器”鉄炮・大砲”に不可欠な『硝石』の供給が、輸入に頼らざるを得なかった現実から、堺の商人の先にいるイエズス会の存在が浮かび上がって来る訳です。

事実、後年の徳川幕府が、外様大名の軍事的脅威を除くための方策のひとつとして、『硝石』の輸入禁止を確実にするために事実上の”鎖国”に踏み切ってまで、徳川家が『硝石貿易』独占を計っていたらしいことからも、この説の可能性はあり得ないとは言えないかもしれませんが、はたして『黒幕』と言うのはどうでしょうか?

 

最近の研究では

明智光秀の書状に、以下の”5月28日付”のものがあるのですが、、、

猶以去春歟、山喜迄御内状毎事御気遣歓悦候、 其以来、不能音問候、依遼遠互不任心底所存之外候、抑山陰道出勢之義被仰出付、於其面可有御入魂之由、誠以祝着候、南勘御内証之通、是又御懇意満足之旨、能々申入度候、随而山陽道毛利・吉川・小早川於出、羽藤対陣之由候間、此度之義ハ、先至彼面相勤之旨上意候、着陣之上、様子見合令変化、伯州へ可発向候、至其期別而御馳走所希候、猶以、去年以来其許御在城、貴所御粉骨、南勘両度之相働、彼是以御忠節無浅所候、委曲山田喜兵衛自可有演説候、恐々謹言、

五月廿八日       惟任日向守 光秀在判

福屋彦太郎殿 御返報

(引用:藤田達生・福島克彦編『史料で読む戦国史③ 明智光秀 第一部資料編 114 明智光秀書状写』2015年 八木書店)

大意は、”今年の春の事だったか、家来の山田喜兵衛(やまだ きへい)にまでいつもお手紙いただき嬉しく思います。その時以来、ご連絡も出来ず、遠方の事ゆえ、思うように出来ず残念です。さて、主君織田信長の命により山陰道への出陣となり、その方面にてまたご昵懇となれれば、まことに良いと思います。羽衣石城主南條元続(なんじょう もとつぐ)が内々に明かされている通り、これまたご昵懇にされているとの事で、私も満足していることを、よくよく申したいと思います。

従って、山陽道に毛利輝元・吉川元春・小早川隆景が出陣して来て、豊臣秀吉が対陣しているので、この出陣は、その方面で戦うようにと言う上意です。その為着陣した上で、様子をみて方向を変えて、鳥取方面へ行くつもりです。その時は面倒を見て頂くことを望んでいます。尚、貴殿は昨年以来籠城されて奮戦され、南條殿も二度にわたって奮戦されていることは、御忠節浅からぬものと思います。詳しくは使者で出向く山田喜兵衛に申し述べされます。”位の意味です。

この書状は、『信長公記 巻十四 伯耆国南條面発向の事』にも、南條公の事が出て来て一致することから、天正9年(1581年)の豊臣秀吉の「鳥取城攻め」の頃のものとされて来ました

しかし、最近の研究で、記事の中に毛利全軍(吉川・小早川の両川)の出陣が記載されていることから、天正10年(1582年)の『本能寺の変』直前の5月28日付の書状ではないかと言う説が出て来ています

もしそうだとすると、明智光秀は織田信長の命令に従い中国への出陣のつもりで動いていて、”謀反”の気配がまったく感じられないように見られることから、本当に直前まで明智光秀が”謀反決行”の決断をしていなかった傍証とされています。

つまり、織田信長が5月29日に安土から京都へ側近のみ引き連れた上洛情報を確認出来てから、明智光秀は謀反決行を決断したと言う事になり、あまり計画性を感じさせないものとなっています。

これは、行動のきっかけの説明としてはあり得ても、全体の説明には頼りないものとなっている感じで、少なくとも、大きな疑問のひとつである『豊臣秀吉の中国大返し』の説明にはならないようです。

やはり、近年の平成26年6月23日に発表された、岡山県の林原美術館所蔵『石谷家(いしがいけ)文書』の内容によって注目されるようになった来た、織田信長の『四国政策の変更』に伴う、明智光秀の織田家内部の地位低下・転落を大きな理由にしている論調が目立つようです。

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なぜ明智光秀は『本能寺の変』後の対応が後手に回っているのか?

その理由として、常識的には、、、

  1. 明智光秀は全く『本能寺の変』の謀反に係わっておらず、畿内担当の織田家重臣として当然の事態収拾に当たり、また禁裏からもそれを期待されて動いていただけなのだが、信じられなことに何者かに”濡れ衣”を着せられ実行犯・謀反人に仕立て挙げられた。
  2. 5月29日の”織田信長丸腰上洛”の僅かなタイミングを見つけ、急に事を起こした「突発事情」だったため、あとの準備が出来ていなかった。
  3. 旧室町幕府の幕臣を主力として、織田幕府成立を阻止すべくクーデターを敢行したが、盟友細川藤孝らの裏切りにより情報が事前に漏れ、『中国大返し』による予想外の早期の豊臣秀吉軍の反撃に遭い対応が間に合わなかった。
  4. 武家政権打倒・王政復古を狙う正親町帝周辺の巧妙なワナに嵌められて、織田政権・室町幕府同時壊滅させられたことによる。

これくらいかと思われますが、どれも決め手に欠けるようです。

「1」に関しては、事変後の明智光秀の対応の不手際さから、逆に考えられた説のように思われ、ここに黒幕説の「イエズス会説」・「豊臣秀吉説」・「徳川家康説」などが言われているようですが、決め手に欠けます。

「2」に関しては、織田信長上洛予定が直前にならないとつかめたはずがないことから、愛宕山参詣で「愛宕百韻」の連歌会を催して、参加メンバー(例えば、連歌師の里村紹巴)からの確報を待って実行したことと想定され、これにより動機に「怨恨説」・「野望説」が引き出されていますが、いずれも江戸時代の戦記物の創作の疑いがぬぐえません。

「3」に関しては、この事変前にも、実は永禄5年(1562年)8月に足利幕府の政所執事(まんどころ しつじ)である”伊勢貞孝(いせ さだたか)”が、第13代足利義輝(あしかが よしてる)と通じて時の”天下人三好長慶(みよし ながよし)”に対して起こしたクーデターの実例があります。今回の『本能寺の変』も当時の伊勢貞孝と同じ立場(幕府の政所執事)の明智光秀が”天下人織田信長”に対して起こした同様の事件だと考えられますが、結局盟友細川藤孝(ほそかわ ふじたか)の裏切りで失敗したと思われます。

「4」に関しては、幕臣でありながら室町幕府に見切りをつけて、天正8年(1580年)3月18日に「従四位下侍従(じゅしいげ じじゅう)」に就任し、”正親町帝の侍従=側近”に鞍替えした”細川藤孝”がプロデューサーとなって、近衛前久らと正親町帝の「公家一統=王政復古」の政治方針を実現する為に、”織田政権と室町幕府の同時壊滅”を狙ったものだとする中世史研究者の小林正信氏の説です。

「1」と「2」は、諸説の内かと思いますが、「3」と「4」は、”細川藤孝”と朝廷側のフィクサー五摂家筆頭の公家”近衛前久(このえ さきひさ)”の連係プレーではないかと思われます。

私見ですが、この二人(細川藤孝と近衛前久)が『本能寺の変』の陰謀の『仕掛人』ではないかと思います。

『本能寺の変』直後の天正10年(1582年)6月9日付で、明智光秀が細川藤孝へ送った有名な書状には、”光秀の驚きと失望”が満ち溢れており、明らかに当初の”謀反のメンバー”に細川藤孝が入っていた事を匂わせます

以上から、「事変後の対応が後手に回っている」原因は、想定外に素早く戻って来た豊臣秀吉への対応が出来なかった事に尽きると考えられますが、あとは誰がそうさせたかだと言う事ではないでしょうか。

 

なぜ明智光秀は徳川家康のいる堺へ兵を出さなかったのか?

明智光秀のこの謀叛が計画性を以て実行されたと仮定した場合、無防備の織田信長父子と徳川家康とその家臣団を討ち取ることは必須事項だったと考えられます。

そのため、この織田信長の同盟者である徳川家康を討ち取る大役は、やはり明智光秀の盟友で、現京都府長岡京市にあった”勝竜寺(しょうりゅうじ)城”の元城主であって、山城地区での動員力のある細川藤孝の役割であった可能性が高いのではないでしょうか。

前述したように、細川藤孝は、明智光秀の謀反実行ー織田信長自刃の報を自筆書状で、備中の豊臣秀吉宛てに早馬を出していた記録(『武功夜話』)が残っています。豊臣秀吉は、その信頼できる細川藤孝からの連絡を受けて『毛利との和睦』・『中国大返し』への動きを事前に決めていた手順に従って粛々と進めて行きました。

明智軍は、細川家が管理していた京都郊外の桂川の渡し場を通過して、京都への進軍を続けたことも判明しており、やはり細川軍も明智軍に従っていた疑いが濃厚です。本来細川藤孝は、そこからそのまま西へ下り勝竜寺城を経由して堺方面に進軍するはずが、本能寺での明智軍の首尾を見届けた後、アリバイ工作の為に大急ぎで丹後へ引き揚げて行き、途中で予ての打合せ通りに豊臣秀吉への確報の早馬を出したものと考えられます。

もう、”明智光秀謀反の成否を決める徳川家康討伐”の軍は討伐に向わず、こうして謀反失敗は演出されて行ったのではないでしょうか。頭脳明晰な明智光秀が徳川討伐に失敗して取り逃がした原因は、こうしたシナリオではなかったかと思われます。

豊臣秀吉の『中国大返し』の大成功の裏に、極めて早い時期での細川藤孝の確定情報があり、そのことが当日の細川藤孝の行動を裏付けていると考えられます。

よって、明智光秀は徳川家康討伐の兵を出していなかったのではなく、その役割をもっていた盟友の細川藤孝に裏切られていたのが、”徳川家康取り逃がし”の理由だったのではないかと考えられます。

 

なぜ明智光秀は盟友細川藤孝に裏切られたのか?

では、なぜその盟友細川藤孝(ほそかわ ふじたか)に裏切られることとなったのでしょうか?

細川藤孝の出自は、、、

一、天文三年甲午、御誕生、三渕伊賀守晴員主之御二男、実ハ将軍義晴公御胤、御母正三位少納言清原宣賢卿之御女也、(後略)

一、天文七年戊戌六月、五歳にして初て公方義晴公ニ被謁候、此時細川播磨守元常君之御養子たるへき旨台命を被蒙候、(後略)

(引用:細川護貞監修『綿考輯録 第一巻 巻一 三頁』(1988年 出水神社)

大意は、”一、細川藤孝は、天文3年(1534年)に、三渕晴員(みつぶち はるかず)の次男として生まれたことになっているが、実は第12代将軍足利義晴(あしかが よしはる)の御落胤(ごらくいん)であり、母は朝廷の大外記(おおげき)清原宜賢(きよはら のぶかた)の娘である。”

一、天文7年(1538年)6月に、藤孝5歳の時、12代将軍足利義晴(あしかが よしはる)公に御目見得(おめみえ)し、この時に細川元常(ほそかわ もとつね)公の養子となるようにとのご命令を拝命された。”位の意味です。

つまり『細川家記(綿考輯録)』によれば、細川藤孝は、第12代将軍足利義晴の実の息子であり、第13代将軍足利義輝の異母兄弟となります。母は朝廷の大外記(書記長官)であった清原宜賢の娘で、将軍の側室ではなくて女官で出ていたのが将軍の御手付きとなったため、その母の身柄は先ず臣下の三渕晴員(みつぶち はるかず)へ下げ渡しとなって、それから藤孝が5歳になって、三渕氏より高位で跡取りのいなかった細川元常の養子となって、将来将軍家の側近となる待遇となったものです。

このように、細川藤孝は、将軍家の異母兄弟であり、幼少時は大学者である祖父の清原宜賢の手元で養育を受けて、後年の明智光秀も遠く及ばぬ学識豊かな人物であったことも分かります。

それが、やっと説得した織田信長を上洛させた永禄11年(1568年)以降、名族土岐家の傍流で”幕府奉公衆”であるとは言え、12代将軍の実子であり現将軍側近の自分より、明らかに身分は低いが要領のいい明智光秀の配下に甘んじ、後には天下人となった織田信長の命令でその明智の子息と婚姻関係を結び、明智光秀と親戚にまでさせられていました。

ところで、幕臣であった細川藤孝が信長に仕えるようになった転機と言うのは、天正元年(1573年)にありました。前年12月に『三方ヶ原の戦い』に徳川・織田連合軍が武田信玄に大敗した報を受けて、足利義昭が取り巻きに操られ暴走し始め挙兵したことから、細川藤孝は、側近として供奉していた足利義昭に見切りをつけ、以後も他の側近のように都落ちする将軍義昭に同道することはありませんでした

この時の事を、太田牛一(おおた ぎゅういち)の『信長公記(しんちょうこうき)』には、、、

三月廿五日、信長御入洛の御馬を出ださる。然るところに、細川兵部大輔・荒木信濃守、両人御見方の御忠節として、廿九日に逢坂まで両人御迎へに参らる。御機嫌申すばかりもなし。・・・

(引用:太田和泉守『信長公記 巻六 公方様御構へ取巻きの上にて御和談の事』インターネット公開版)

大意は、”天正元年(1573年)3月25日、織田信長公は上洛の為に出陣した。そうしたところ、将軍配下の細川藤孝と荒木村重が、信長へ寝返り忠節をつくす証として逢坂山まで、出迎えに出た。織田信長の機嫌は言うまでもなく良かった。”位の意味です。

また、小瀬甫庵(おぜ ほあん)の『信長記(しんちょうき)』には、、、

かくて室町殿御謀叛、事にも立つまじきなれども、打静めらるべしとて、信長卿、同廿五日に数万騎を引率し、岐阜を立ちて廿七日には大津にぞ著き玉ひける。斯つし処に、細川兵部大輔、荒木信濃守は、内々御手に属し申すべき旨、佐久間を以て御理り申し上げしかば、逢坂まで馳參る。

(引用:小瀬甫庵/神郡周校注『信長記 上 巻第五 信長卿攻め上らるゝ事の条』1981年 現代思潮社)

大意は、”そうしたところ、将軍足利義昭が挙兵して謀叛を起し、事を荒立てたくはないが事態を収めねばならず、織田信長公は天正元年(1573年)3月25日に、数万の兵を率いて岐阜を出陣し、27日には近江の大津に到着した。そうしたところ、細川藤孝と荒木村重が、内々に織田勢に内応する旨を重臣の佐久間信盛を通じて申し入れて来ており、信長を出迎えるために逢坂山まで馳せ参じていた。”位の意味です。

このように、自分が骨を折って将軍に擁立したものの、時流が全く読めない将軍足利義昭に手を焼き、また幕臣の中で孤立感を深めた細川藤孝は、天下人への道をひた走る織田信長の家臣へ転進することを決意したものの、前述のとおり、先に織田家の重臣となって活躍する同じく幕臣の明智光秀の後塵を拝することとなってしまいました。

こうした事態を打開する為に、、、

三月十八日、叙従四位下侍従ニ被任候、

(引用:細川護貞監修『綿考輯録 第一巻 巻三 天正8年3月18日の条』1988年 出水神社)

大意は、”天正8年3月18日、従四位下(じゅしいげ) 侍従に任ぜされる”位の意味です。

細川藤孝は、見て来たように、もともと実家が朝廷の書記官でその長官の家柄なので、帝の周辺事情には詳しかったものと考えられ、ここで、織田家に属しながら『天皇の侍従(じじゅう)』となり、織田信長が手を焼いている”織田家と朝廷”を結ぶ役割に活路を見出す事となります

そうする内に、正親町帝とその立場を代弁する元関白近衛前久らとの交わりの中で、帝と揉める”天下人織田信長”対策を朝廷側の立場でものを考えて行く人物となって行き、ここが幕臣の立場を色濃く持つ明智光秀と道を分かつ理由になって行ったと思われます。

細川藤孝が盟友と考えられている明智光秀を裏切った理由は、前述したように、立場の違い、おそらく近衛前久に同調していた可能性が高いからではないかと考えられます。

 

なぜ明智光秀は『麒麟』と呼ばれるのか?

ネットでNHKサイトの”大河ドラマ『麒麟がくる』”を見てみますと、、、

【企画意図】

王が仁のある政治を行う時に必ず現れるという聖なる獣、麒麟。

応仁の乱後の荒廃した世を立て直し、民を飢えや戦乱の苦しみから

解放してくれるのは、誰なのか・・・

そして、麒麟はいつ、来るのか?

若き頃、下剋上の代名詞・美濃の斎藤道三を主君として

勇猛果敢に戦場をかけぬけ、その教えを胸に、やがて織田信長の盟友となり、
多くの群雄と天下をめぐって争う智将・明智光秀。

「麒麟がくる」では謎めいた光秀の前半生に光を当て、彼の生涯を中心に、
戦国の英傑たちの運命の行く末を描きます。

従来の価値観が崩壊し、新たな道を模索する現代の多くの日本人に向けて、
同じように未来が見えなかった16世紀の混迷の中で、

懸命に希望の光を追い求めた光秀と数多くの英傑たちの青春の志を、
エネルギッシュな群像劇として描き

2020年、新たな時代を迎えるすべての日本人に希望と勇気の物語をお届けします。
明智光秀とはいったい何者なのか?

麒麟は一体、どの英雄の頭上に現れるのか・・・

今、すべてが、始まる──

(引用:NHKドラマ『ドラマトピックスー2020年大河ドラマ「麒麟がくる」出演者発表』

となっていますので、私見ですが、この【企画意図】を読んだだけで、もうすでに史実とはかなり離れていることが感じられます。

つまり、モチーフに『本能寺の変』と言う歴史的大事件を起して有名になっている戦国武将「明智光秀」を使った、実力派の脚本家池端俊策氏の創作ドラマと言うことになりそうです。

あまり内容の歴史的事実に拘らず、歴史的事実をほとんど問題にしていない”韓流時代劇”を観る感覚で、”池端ワールド”を観て楽しめばよいのではないかと思います。

この脚本家池端俊策氏脚本の歴史ドラマは、過去NHK大河ドラマ「太平記」で評判を取っていたと言うことなので、私は観た事がありませんが、ドラマとしては期待したいと思います。ドラマは出演者より脚本次第と思っていますので。

さて、主題にしている『麒麟(きりん)』ですが、、、

現代日本では、ビール会社の商標くらいにしか思われていないものですが、前出【企画意図】によりますと、「王が仁のある政治を行う時に必ず現れるという聖なる獣、麒麟。」となっています。

と言うことは、”明智光秀”が世を変える”仁のある政治を行う王”に比定される事になるのでしょうか。

これは、”卑怯な騙し討ちをして世話になった主君を暗殺し、挙句の果て三日天下に終わった哀れな武将”と言う400年以上前に”豊臣秀吉がねつ造・プロパガンダした明智光秀の歴史的イメージ”を少しでも正常に戻す役割を果たすかもしれません。

しかし、一方では少しでも正しい本人の真実の姿も捕まえておく必要がありそうですが、どの歴史上の人物にはいくつもの顔があるのが普通で、一面ではとてもとらえきれないのが実体だろうと思います。

現物のドラマを観ずに【企画意図】を見ただけでの話ですが、今回は、「盛り過ぎ」となる可能性もあります。とは言え、明智光秀は悪い面が強調され過ぎている歴史上の人物ですので、すこしでも中和されることが出来ればよいのではないでしょうか。

 

まとめ

ネットで”キーワード「明智光秀 なぜ」”を検索すると、まず天正10年(1582年)6月2日に勃発した『本能寺の変』の関係記事がぞろぞろ出て来ます。つまり、”明智光秀はなぜ謀反を起したか?”が知りたい事の第一という訳です。

そんなことで、本文では『本能寺の変』に関連して、従来言われている明智光秀がらみの代表的な諸説を並べてみました。

2020年度のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』はどの説を取るのかよく分かりませんが、【企画意図】を見る限り新説は出て来ないだろうと思っています。

明智光秀の謀叛動機として、光秀が長らくずっと思い続けて我慢していたものが爆発したというのもあるのかもしれませんが、私見では、やはり最近の研究者が注目している織田信長が事変の直近で抱えていた政策問題に真相があるような気がします。

しかし、やられた織田信長ばかりでなく、やった明智光秀に目を転じてみると、動機がもし従来の『怨恨説』・『野望説』でないとすれば、同様の政治状況の中で起こった永禄5年(1562年)の『室町幕府政所執事(まんどころしつじ)伊勢貞孝(いせ さだたか)の叛乱』に目が行きます。

この時も、やはり『天下人三好長慶(みよし ながよし)』の暗殺事件でした。今回も『天下人織田信長』の暗殺事件なのです。どちらも政治をろう断する”天下人”から、将軍の手に実権を取り戻す事(制度防衛)が目的だったのではないでしょうか。

今回の『本能寺の変』もその可能性が高いような気がしますが、研究者からは明智光秀が現役の将軍足利義昭(あしかが よしあき)と連絡を取っている証拠が全く見当たらず、この説は成り立ちにくいとされています。

そこで、謀反を起した明智光秀の裏切った盟友細川藤孝への天正10年(1582年)6月9日付の最後の書簡に、、、

一、・・・

一、・・・

一、我等不慮之儀存立候事、忠興なと取立可申とての儀ニ候、更無別条候、五十日百日之内ニハ近国之儀可相堅候間、其以後は十五郎・与一郎殿なとへ引渡申候而、何事も存間敷候、委細両人可申候事、

(引用:細川護貞監修『綿考輯録 第一巻 巻四 145頁 光秀書簡』1988年 出水神社)

大意は、”私がこのような事を起したのは、細川忠興などをとり立てようとしての事で、他の考えはない。50日~100日くらい経過して都の政情が固まってくれば、その後は明智光慶(あけち みつよしー光秀嫡男)・細川忠興(ほそかわ ただおきー細川藤孝嫡男)殿に政権を譲るつもりであり、ほかに考えはない。詳しくは両人に申し伝えるつもりだ。”位の意味です。

裏切った盟友細川藤孝に対しての詰問状のはずが、最後に息子たちに渡すつもりで政権を自分が私する考えはないのだとの意思表明なのか、少し意味不明の感じもあって従来は問題にされていませんでした。

ところが、これが『本能寺の変』を起した明智光秀の動機の中の『制度防衛説』のカギなのではないと言う説があります。

従来前述のとおり、『制度防衛説』の場合に、担ぎ上げる将軍足利義昭と明智光秀が連絡を取り合っている形跡が全くなく、この説は成り立たないとされています。

その上、明智光秀は既に将軍足利義昭をとうに見限っており、”今更足利将軍でもないのではないか”という訳です。しかし、一部に明智光秀は別の将軍候補を用意していたのではないかと言う話もあり、その傍証がこの6月9日の文面に現れていると言います。

どういうことかと言えば、ここで出て来る与一郎こと細川忠興(ほそかわ ただおき)は明智光秀の娘聟ですが、この嫡男とされる十五郎こと明智光慶(あけち みつよし)とは、本当は光秀の子ではなくて、永禄8年(1565年)に暗殺された前将軍足利義輝の側室”小侍従(こじじゅう)”が実は、明智光秀の妻(妻木氏)と入れ替わって、殺害されることなく生き延びており、その時身ごもっていた子供が明智光慶であると言う話です。

この話は、当時の側近の関係者である細川藤孝は十分に承知をしているはずなので、光秀からの最後の書簡の例の文面になってあのように現れたと言う訳です。

かなり、突飛な話で歴史学会では相手にされていませんが、この辺りが、明智光秀が突然織田家家中で頭角を現し、幕府奉公衆の仲間としてあらわれて来る理由の一端なのかもしれませんし、しつこく『制度防衛説』が唱えられる原因なのでしょう。

足利義輝が死去した『永禄の政変』から『本能寺の変』まで17年なので、もし御落胤が生存していたとすると、件の明智光慶と足利義輝の忘れ形見の年齢がほぼ一致するようなので、可能性のある話となりそうです。

私見ですが、織田系の武将たちが光秀から離反する中、幕府奉公衆たちがあれだけ人気の無かった光秀を支えて『山崎の戦い』に臨んだ理由は、案外この辺り(亡くなった前将軍の忘れ形見を擁立するという目的)がありそうで、そうなると明智光秀が無理矢理謀叛を起した、彼なりの正統性もこれなのかもしれません。

そうなると、もし本当にあったとすれば、細川藤孝の『裏切り』は、歴史を大きく動かしたと言えそうです。

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参考文献

〇桑田忠親『明智光秀』(1983年 講談社文庫)

〇高柳光寿『明智光秀』(2000年 吉川弘文館)

〇小和田哲男『明智光秀』(2014年 PHP新書)

『祖父物語』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇ルイスフロイス/松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史3 織田信長編Ⅲ 』(2014年 中公文庫)

竹中重門『豐鑑(とよかがみ)』 (国立国会図書館デジタルコレクション)

『惟任退治記』 (国立国会図書館デジタルコレクション)

〇高坂弾正昌信/磯谷正義・服部治則校注『甲陽軍鑑(下)』(戦国史料叢書5 1966年 人物往来社)

〇勧修寺晴豊『天正十年夏記』 立花京子『信長権力と朝廷 第二版』に掲載分より(2000年 岩田書院)

〇吉田兼見『新訂増補 兼見卿記 第2』(2014年 八木書店)

〇吉田蒼生雄『武功夜話 <二>』(1988年 新人物往来社)

〇『本城惣右衛門覚書』 天理図書館誌『ビブリア』の連載記事「業餘稿叢」に所収 (1976年 木村三四吾編)

〇立花京子『信長と十字架』(2004年 集英社新書)

〇八切止夫『信長殺し光秀ではない』(2002年 作品社)

〇ルイスフロイス/松田毅一・川崎桃太訳『全訳フロイス日本史 2 織田信長編Ⅱ』2015年 中公文庫)

〇洋泉社編集部編『ここまでわかった本能寺の変と明智光秀』(2016年 洋泉社)

〇藤田達生・福島克彦編『史料で読む戦国史③ 明智光秀』(2015年 八木書店)

太田和泉守『信長公記 巻十四』(インターネット公開版)

〇細川護貞監修『綿考輯録 第一巻』(1988年 出水神社)

〇小林正信『明智光秀の乱』(2014年 里文出版)

太田和泉守『信長公記 巻六』(インターネット公開版)

〇小瀬甫庵/神郡周校注『信長記 上』(1981年 現代思潮社)

NHKドラマ『ドラマトピックスー2020年大河ドラマ「麒麟がくる」出演者発表』(2019年6月17日付記事)

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