これホント?『本能寺』明智光秀『徳川家康取り逃し』の真相!

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明智光秀謀反の肝である『徳川家康取り逃し』の原因がわかります。

徳川家康がなぜ、戦国の常識外れの、少人数による安土訪問を敢行したのか理由が分かります。

明智光秀徳川家康連絡係がいたのかどうかわかります。

徳川家康の有名な『神君伊賀越え』の実体はどうだったのか分かります。

 

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明智光秀は、『本能寺の変』で、なぜ徳川家康を取り逃したの?

中世史(織豊期)研究家小林正信氏によれば、織田信長が天正10年(1582年)までに作り上げた”織田政権”は、、、

 

  1. 信長自身が力によって獲得した美濃・尾張から畿内・西国に亘る”権力”
  2. 徳川家康との同盟によって守られた”東の壁”
  3. 明智光秀による畿内統治に係わる”足利幕府の統治機構”の協力体制

 

と言う”三つの柱”によって構成されていました。

そもそも織田信長は、第13代将軍足利義輝の時代から京都の室町将軍(幕府)の忠実なる協力者でした。

永禄8年(1565年)5月19日の『永禄の政変(足利義輝弑逆事件)』で13代将軍義輝が暗殺されると、細川藤孝(ほそかわ ふじたか)ら幕府奉公衆(ほうこうしゅう)たちに引き続き後継将軍擁立への協力を求められ、永禄11年(1568年)9月に後継者足利義昭(あしかが よしあきー覚慶が還俗)を奉じて岐阜より上洛し、足利義昭の15代将軍就任を助けました。

その後、織田信長は実質副将軍格で、幕府の軍事・行政組織を奉公衆である明智光秀を抜擢する形で統括させ、使われる明智光秀ら幕府奉公衆は、織田信長に足利幕府の再興の夢を賭けて協力を続けて行きます。

元亀4年(1573年)7月19日の第15代将軍足利義昭の”京都出奔”以降も、明智光秀ら大半の奉公衆は、義昭を見限り”そのまま幕府の制度を尊重している織田信長”に協力を続けます。

そして、東国の難敵武田勝頼の討伐を達成した天正10年(1582年)3月以降、全国制覇の目処が立ち始めたことから、織田信長は俄かに足利幕府に代わる独自の『織田幕府』設立を想定させる動きに出始めます。

その動きとして出て来たのが、天正10年5月15日の行われた安土での”徳川家康の饗応”の折、本来将軍にしか許されず、いままで信長も実施を手控えていた『御成(おなり)』の形式を、織田信長は明智光秀に実行するよう強要したのではないかと思われます。

これまでどんな事態になろうと”将軍への越権行為と見做される行為”を慎重に手控えて来た織田信長が、とうとう一線を越え始め、これが安土城での、様々な形で今に伝わる有名な”徳川家康の饗応を巡る織田信長と明智光秀のトラブル”の真相ではないかと云います。

この事は例えば、、、

 

・・・この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。ところで、信長は奇妙なばかりに親しく彼を用いたが、このたびは、その権力と地位をいっそう誇示すべく、三河の国主(徳川家康)と、甲斐国の主将たちのために饗宴を催すことに決め、その盛大な招宴の接待役を彼に下命した。

これらの催し事の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが、元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対意見を言われることに堪えられない性質であったので、人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたということである。だが、これは密かになされたことであり、二人だけの出来事だったので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが、・・・

(引用:ルイスフロイス/松田毅一・川崎桃田訳『完訳フロイス日本史③ 織田信長篇Ⅲ 144頁~145頁』2014年 中公文庫)

 

とあり、日本人の恣意的な忖度を持ち合わせない当時在日していたイエズス会の宣教師ルイスフロイス師の目を通すと、、、

織田信長が徳川家康を饗応するために、わざわざ武家の式典プロデュースが出来る明智光秀に任せた背景は、この宴会が並みの饗応ではなくて、将軍にしかゆるされていない『御成(おなり)』だった可能性が高く、これを将軍でもない織田信長が挙行しようとしたことに、激しく抗議・拒絶をした明智光秀に対して怒りにまかせて折檻した織田信長の様子が見えるようです。

このあと、あろう事か如何に見捨てた将軍とは言え、足利義昭を奉じる毛利軍に対して、幕府軍を統括する明智光秀へ総攻撃への出陣を命じられた事も、明智光秀配下の幕府奉公衆の怒りを買った原因のひとつではないかと中世史研究家の小林氏は云います。

理由と切っ掛けは兎も角として、天正10年(1582年)6月2日の明智光秀の叛乱(本能寺の変)は、『織田政権』を支える3つの大きな柱の内のひとつ”明智光秀を中心とする幕府の組織構成員である奉公衆”たちの蜂起である以上、残りの2つ織田政権の柱である『織田信長父子』・『徳川家康』の討伐は必須であったことになります。

結果、『神君伊賀越え』で逃亡させてしまったこの”徳川家康の討ちもらし”は、光秀の叛乱への対応を準備していた豊臣秀吉の迅速な畿内への帰還とともに、畿内光秀配下軍の諸将の動揺を誘い、光秀の反乱軍に軍勢が集まらなかった原因のひとつとされています。

件の織田信長父子を討ち取って以後の明智光秀の無策ぶりに、この『徳川家康の討ちもらし』などもただ”光秀がぼーっとしていただけ”ではないかとの印象を与えていますが、この大事を挙行した明智光秀の能力からして考えにくい事で、何らかのトラブルが重なっていたものと思われます。

先ず、本能寺の近所の妙覚寺(みょうかくじ)に織田信長の嫡男信忠(のぶただ)が滞在していることに気が付かず、本能寺攻めから信忠攻めまで時間差が生じています。

これに関しては、、、

 

然間家康も今度之御禮と被成、あづちへ御座被成候。信長は家康と打つれ都ゑのぼらせ給ふ。信長之仰には、家康は堺へ御越有而、さかいをけんぶつ被成候へよと仰けるによって、さかいへ御越被成ける。然處にあけち日向守、信長之取立者にて有りけるが、丹波を給はり有しが、にはかにぎゃくしんをくわ立、丹波寄夜づめにして、本能寺へ押寄而、信長に御腹をさせ申。信長も出させ給ひ而、城之介がべつしんかと被仰ければ、森之お覧が申、あけちがべつしんと見え申と申せば、さてはあけちめが心がわりかと被仰候處を、あけちがらうどうが參りて一鑓つき奉れば、其寄おくへ引入給ふ。

(引用:大久保忠教『三河物語 第三下 226頁~227頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”徳川家康公もこの度のお礼に安土城へ伺候する事となった。そして家康を連れだって上洛させ、織田信長公の言われるには、ついでに堺へも行かれ見物をしたらよかろうと言われるので、堺へ出かけた。ところが、信長公に取り立てられていた明智光秀と言う者が、丹波を拝領しているが、急に謀叛を起し、信長宿所の本能寺へ襲い、信長を自刃させた。その攻められた折に、「信忠の謀叛か?」と言われたが、森乱丸(もり らんまる)が「明智の謀叛と思われます」と返答すると、「そうか!明智の謀叛か」と言われているところ、明智の者が現れ、槍で突きかかって来ると、奥へ引きこもられた。”位の意味です。

ここで、他の史料にはない、織田信長の発言に「信忠(嫡男)の謀叛か?」と小姓の森乱丸に聞いている話が出て来ますが、これはふつうに聞くとかなりおかしな発言です。

実は、これには伏線があり、甲州から帰還した信忠は、そのまま中国攻めの総大将となることが決まっていたようで、出陣のついでに警護も兼ねて徳川家康の堺行きに同行して大坂方面へ行くように信長から命令が出ていたようです。

ところが、5月29日になって信長の安土からの急な京都入りを聞くと、信忠は信長の許可なく大坂より上洛したようで、この件で信長から命令違反の叱責があったとされています。本能寺で叱責を受けた信忠はすごすごと近隣の妙覚寺へ移ったと考えられ、ここで前掲の信長が「信忠の謀叛か」と思わず言ったのは叱り過ぎた仕返しかと思ったと言う話になります。

つまり、信忠はかなりイレギュラーな行動をしていて、さすがの明智光秀も織田信忠の行動をつかみ切れていなかったのが、本能寺に近隣に嫡男信忠がいながら当初は気が付かなかった理由ではないかと思われます。

一方、この謀反では、本能寺(京都)以外の大坂・堺方面に、織田信忠と徳川家康と家臣団一行がいることは分かっていたわけですから、この攻撃に当地に詳しい地元の部隊が担当するのは自然だと思われますので、明智光秀の盟友細川藤孝(勝竜寺城)と筒井順慶(大和郡山城)の軍が担当だったと考えられます。

となると、謀反の初動で「徳川家康取り逃がし」のチョンボをしたのは、兵の動員力から細川藤孝が担当だった可能性がかなり高いと考えられます。

要するに細川藤孝が、幕府奉公衆の盟友であるはずの明智光秀を裏切ったと言うことになります。

それに気づかぬ明智光秀は、まんまと徳川家康一行の逃亡を許してしまい、結果は豊臣秀吉との決戦に敗れることとなりました。


(画像引用:伊賀八幡宮ACphoto)

徳川家康は、織田信長からの安土への招待に、なぜ十分な兵も連れずに主だった重臣全員を引き連れて出かけたの?

盟友とは言え、徳川家は当主ばかりでなく、重臣ともども兵も連れず(普通なら、少なくとも4~5千人)に織田信長の安土城へ出かけています。

まず、討ち取って下さいと云わんばかりの態で、諸説(例えば、NHK大河ドラマ『真田丸』にあるように、「本能寺の変」への明智光秀と徳川家康のおとり作戦なのか?とか)が発生する原因ともなっています。

先ず、長らく父の時代から、織田家と徳川家は領土争いに明け暮れていました。一説には、家康の父松平広忠(まつだいら ひろただ)も祖父松平清康(まつだいら きよやす)も織田家(信長の父信秀らしい)の陰謀で暗殺されたと言われています。

そんな中、織田家の家督を継いだ織田信長が、将軍足利義輝(あしかが よしてる)の内意を得て、古河公方(こがくぼう)の意向を受けて上洛する当時の徳川家康の主君今川義元を、永禄3年(1560年)5月19日に尾張三河国境の桶狭間に於いて待ち伏せして迎撃し、今川軍を壊滅させました

出陣していた今川軍の一員である徳川家康ら松平勢は、大高城へ兵糧入れする段階で、待ち伏せする織田勢の大軍に気が付き、兵粮を入れた大高城に籠城して合戦には加わらず、今川義元を討ち取って引きあげる織田勢の背後から脱出して、徳川家康(松平元康)は、本隊壊滅の情報を得て岡崎城を逃げ出した今川の城代に代って、無傷の松平勢を引き連れて岡崎城に入城します。

その後、主君今川義元の後継者今川氏真(いまがわ うじざね)を見限って、家臣一同宿願であった独立を果たした徳川家康は、西三河の実効支配者として永禄5年(1562年)1月、織田信長と尾張との国境紛争に終止符を打って盟約(清須同盟)を結び、その後同盟者として織田信長の遊軍のように行動をともにして行きます。

徐々に変性しながらも維持されていた両者の関係が最後に大きく崩れたのは、天正10年(1582年)3月の武田家滅亡からだと考えられます。

 

三月廿九日、御知行割被仰出次第、

甲斐国 河尻与兵衛被下、但、穴山本知分除之、

駿河国 家康卿へ、

上野国 滝川左近被下、

・・・(以下略)・・・

(引用:奥野高廣『増訂 織田信長文書の研究 下巻 983知行割覚』1994年 吉川弘文館)

 

これは、天正10年(1582年)3月29日に、織田信長が実施した”旧武田領の知行割”で、徳川家康には”駿河国”が宛がわれたことを示しています。つまり、徳川家康は織田信長から領地の宛行(あてがい)を受けた訳で、家康はこれで同盟者から信長配下の大名となった事がはっきりわかります。

そして、織田信長研究の第一級史料とされている『信長公記(しんちょうこうき)』によれば、、、

 

・・・

五月十四日、江州の内、ばんばまで、家康公・穴山梅雪御出でなり。惟住五郎左衛門、ばんばに仮殿を立ておき、雜掌を構へ、一宿振舞申さるゝ。同日に三位中将信忠卿、御上洛なされ、ばんば御立ち寄り、暫時御休憩のところ、惟住五郎衛門、一献進上候なり。其の日、安土まで御通候ひキ。

五月十五日、家康公、ばんばを御立ちなされ、安土に到りて御参着。・・・

(引用:太田牛一『信長公記 巻十五 家康公・穴山梅雪御上洛の事』インターネット公開版)

 

大意は、、、

”5月14日、近江の番場(現滋賀県彦根市番場)に徳川家康穴山梅雪(あなやま ばいせつ)が到着した。織田家重臣丹羽長秀(にわ ながひで)が番場に仮設の館を建てて、食事の世話をして宿泊させた。同じ日に織田信忠が上洛の途次立ち寄り、休んで一献傾けその日の内に安土へ入った。

5月15日、家康は番場を出発し、安土に到着した。・・・”位の意味です。

と言う事で、、、

徳川家康は、安土に入る前に近江番場で、すでに丹羽長秀らの饗応を途次で受けているなど、ここでも家康一行が少人数だったことが推察されるので、信長から兵を連れずに重臣を連れて来いと命じられていたと考えられることと、家康は、3月の武田の論功行賞で、領地の宛行を受けており、同盟者ではなくて、ただの配下大名となっていて、信長の命令に逆らえる立場ではなくなっていたことから、あのような少人数による上洛となったようです。つまり当時の常識では、大名は信頼のおける有力な配下の武将を討ち取るなどあり得ないことと考えられるからです。

 

明智光秀と徳川家康を結ぶ人物がいた?

『本能寺の変』の織田方生き残り?

掲題の件に関してまず目につくのは、織田家と徳川家を結ぶような地域にある西三河の尾張国境に居住していた”水野一族”出身の徳川家康とは姻戚関係(姉の於大の方が家康の実母)にある叔父の水野忠重(みずの ただしげー惣兵衛)という人物です。

彼の長兄は、織田信長飛躍の足懸りとなった永禄5年(1562年)「織田・徳川同盟」締結の陰のプロデューサーとして有名な”水野信元(みずの のぶもと)”で、その後信元は武田勝頼との内通を疑われ、織田信長の命令で徳川家康に切腹させられています。

水野忠重(惣兵衛)は、織田家と徳川家を行ったり来たりしますが、天正8年(1580年)からは信長嫡男信忠の配下となっており、『本能寺の変』の当日妙覚寺から二条城へ避難し、二条城が明智軍に包囲殲滅された最中は、織田信忠に近侍していたので、騒ぎに巻き込まれて討死したものと見られていました。

ところが、、、

 

・・・

七日、壬巳、かりや水野宗兵へ殿、京都にてうち死候由候、

・・・

九日、乙未、雨降、西陣少延候由申來候、水惣兵へ殿事、京都ニかくれ候て、かいり候由候、

・・・

(引用:続史料大成刊行会『続史料大成 家忠日記 一 天正10年6月の条 』1967年 臨川書店)

 

大意は、、、

”天正10年(1582年)6月7日、刈谷城主水野惣兵衛(忠重)殿が、『本能寺の変』に巻き込まれて、京都にて討死されたようだ。

6月9日、雨天、家康公から西への侵攻軍(西陣)を少し進軍させよと命令が来た。刈谷城主水野惣兵衛殿のことで知らせがあり、当日京都でうまく隠れていて無事刈谷に帰還したとのことである。”位の意味です。

『本能寺の変』の折、明智軍に襲撃されて、織田方の兵は全滅したと伝えらている中、織田信忠に付き従っていた、徳川家康の叔父にあたる刈谷城主水野忠重が、9日には無事刈谷に帰還していたことが分かります。

これによって、徳川家康ら家臣団一行の『伊賀越え』での無事帰還に加えて、『本能寺の変』の現場渦中にいた家康の叔父水野忠重の生還と云い、これは偶然ではなくて、明智光秀と徳川家康は謀反の仲間である証拠だと当時も見なされ、この事を傍証として現在も徳川家康の共謀説・黒幕説などが取りざたされている訳です。

しかし、実はこの『本能寺の変』の現場渦中から脱出に成功した武将がもう一人いました。織田信長の弟で、後に千利休門人・大茶人で有名な長益(織田有楽斎)その人です。

この時の話が残っており、それによると、、、

 

織田源三長益、剃髪號有樂、信長ノ弟也、信長被弑ノ時、信忠ト共ニ二條ニ至ル、信忠自殺ノ後、長益御所ノウシロニテ柴ヲツマセ、四方ヲ高クシ、其中ニテ自殺シ、四方ニ火ヲ可發ト下人ニ下知〆、其用意ノ内ニ逆徒悉退散〆、近所ニ人不見ニヨツテ、コヽニテ自殺センハ犬死同然ナリト云テ、乃二條ヲノカレ出ルナリ、・・・

(引用:『武家事紀 巻第十三 480頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

 

大意は、”織田長益(おだ ながます)、剃髪(ていはつ)して「有楽(うらく)」と号したが、信長の弟である。織田信長が暗殺された時、嫡男信忠と共に二条御所に移動した。信忠が自刃した後、長益は二条御所の後ろで、柴を高く積ませてその中で自殺しようと、下人に火をかけるように指示したが、周りをみると、すでに反乱軍は退去しており、近くに人影もなくなっており、ここで自殺したところで犬死だと思い、二条御所から脱出した。”位の意味です。

つまり、建物の陰に柴を高く積ませて隠れていたら、反乱軍は意外に早く撤収して行ったので、見つかることなく二条御所から脱出することが出来たと織田有楽斎は語っていたようです。反乱軍は、織田の残党狩りに精を出していたのではなくて、「織田信長父子の遺体(首)」を捜すのに忙しかったようです。

こんなケースもあったようですから、仮に明智ー徳川の密約が本当にあったとしても、あの襲撃現場の修羅場の中で、兵が”水野忠重を家康の叔父と見分けて助け出す”のは不可能と思われますので、水野忠重本人の言うように隠れていたら助かったと言うのは、前述の有楽斎のケースもあるので、事実の可能性が高いのではないかと思います。

 

明智系図の中から考えられる人物は?

古文書『続群書類従 第128』に所収されている『明智系図』によると、、、

ちょっと面倒くさいですが、この系図上で「光秀」の3代前の「頼尚(よりなお)」に子が二人(頼典・頼明)いまして、「光秀」は長男「頼典(よりのり)」の系列になりますが、その頼典は廃嫡されてしまいました。家督相続した次男「頼明(よりあきら)」の系列(土岐遠山)の方は、次の「定明(さだあきら)」の代になって、天文21年(1552年)斎藤道三によって、守護の土岐頼芸(とき よりよし)が追放された折の戦闘で定明は他の土岐一族とともに討死し、子は母とともにその実家である奥三河設楽郡菅沼郷(現愛知県新城市)の菅沼家に落ち延びています。

母が奥平貞勝(おくだいら さだかつ)と再婚したため、この逃げ延びた幼児愛菊丸(あいきくまる)は伯父菅沼定仙(さだひさー定繼の事)の養子となり、藤蔵(とうぞう)と名乗ったと言います。永禄7年(1564年)に徳川家康に仕え、「姉川の戦い」ほか家康の合戦で武功を挙げ、天正10年(1582年)に旧武田領で1万石を与えられて大名になって、「明智定政(あけち さだまさ)」と改名しています。その後徳川家康に土岐家再興が許されて「土岐定政(とき さだまさ)」となりました

この奥三河の地域は、丁度その頃徳川家と武田家が領地争いで調略合戦を繰り広げていて、菅沼一族も今川家の支配力が低下して行く中、徳川家と武田家の間で揺れ動き分裂しているところで、特に徳川家康が力を入れている地域でした。

こんな中、徳川家康が愛娘の亀姫を嫁がせてまで、懐柔していた奥平一族とも関係の深い菅沼定繼(すがぬま さだつぐ)の元にいた愛菊丸(定政)には、家康の信頼度は高かったと考えられます。

つまり、徳川家康の手駒の中に有力な土岐宗家一族の人物(定政ー菅沼藤蔵)がいた訳ですから、明智光秀との特別な関係を作ろうと思えば、菅沼藤蔵は家康ー光秀双方にとって打って付けの繋ぎの者だったことになります。

しかしこの事は、菅原藤蔵ー明智光秀ー徳川家康との3者を結ぶ関係性を示す確実な史料は未だ見つかっていないようですので、あくまでも可能性の範囲内と言う話になります。

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徳川家康の『神君伊賀越え』で、6月2日早朝に堺を出発して、通説通り伊賀越えで6月4日に本当に岡崎へ帰れるのか?

天正10年(1582年)6月2日払暁に勃発した『本能寺の変』以降の、徳川家康の泉州堺からの帰還に関しては、諸説ありますが、、、

 

四日、庚寅、信長之儀秘定候由、岡崎緒川より(明知別心也)申來候、家康者境ニ御座候由候、岡崎江越候、家康いか、伊勢地を御のき候て、大濱へ御あかり候而、町迄御迎ニ越候、穴山者腹切候、・・・

(引用:松平家忠/続史料大成刊行会『家忠日記<一> 天正十年六月四日の条』1967年 臨川書店)

 

大意は、”天正10年6月4日、「本能寺の変」の事は極秘事項となっているが、すでに岡崎城家臣団・緒川(現愛知県東浦町)の水野氏一族から明智光秀の謀叛の話は伝わって来ていて、家康公は堺にいたが、すでに岡崎へ戻られている。家康公以下家臣団は、伊勢を出発して、大浜(現愛知県碧南市浜寺町辺り)に入港し、我等は一行を町まで出迎えに行った。同行者だった旧武田の臣穴山信君にすでに切腹したという。”位の意味です。

驚いたことに、4日には伊勢白子湊を船出して、4日午後遅く(又は5日早朝)には三河湾の碧南市大浜港に到着していたことが、この律儀な家康の家臣三河深溝(ふこうず)城主松平家忠(まつだいら いえただ)の日記で判明します。つまり、堺を出てから6月2日に泉州堺を出て、4日の午前中には伊勢の白子湊(長太)まで付いていたことなります。

和泉⇒河内⇒大和⇒伊賀を抜け、最大難所・野盗野伏の巣窟である伊賀・伊勢国境の”加太峠(かぶととうげ)”を越えて、伊勢の国に入っています。秀吉の「中国大返し」のような平たん路をだった訳ではなくて、陸路36里(約150㎞弱)は難所の続く山岳コース+海路で、総計75里(約300㎞)となります。実に驚くべきスピードです。

今まで、なぜかあまり問題にされていませんが、豊臣秀吉の『中国大返し』と同様に、この徳川家康の『神君伊賀越え』の方もあり得ない超人的な行程ではないかと思われます。一体どうなっているのでしょうか?

ここで、堺の出発前後の状況につき、、、

 

二日朝、徳川殿上洛、火急に上洛の儀候、上様安土より廿九日御京上之由アリテそれにつき不□と上洛由候也、これハ信長御生害ヲ知テ計略ヲ云テ上洛也。

(引用:宇野主水日記『鷺森日記』津村別院誌 国立国会図書館デジタルコレクション)

 

大意は、”天正10年6月2日の朝、徳川家康が急な上洛で堺を出発して行った。信長公が5月29日に上洛すると連絡が入って来て、そのためバタバタと上洛して行ったとの話であるが、これは信長公の暗殺を事前に家康が知っていて「急ぎの上洛」と取り繕ったものである。”位の意味です。

この史料は、当時泉州堺に一番近いところ(和歌山鷺森)にいた本願寺法主顕如(けんにょ)上人の右筆宇野主水(うの もんど)の記録ですので、本願寺側は、この『本能寺の変』への徳川家康の関与を強く疑っているのではないかと思われる文面です。

ここで、ひとつ注目すべきは、”火急に上洛の儀”と表現されていることと、本願寺側が『家康の本能寺の変への関与』を疑っていることからして、家康の堺出立の時間が異常に早かったのではないかと考えられます。恐らく2日の払暁くらいの出立で、京都に配置した腹心の茶屋四郎次郎に『本能寺の変』の実行を確認させた上で、途中伏見辺りから徳川家康一行は脱出行に入ったと思われます。

一方、徳川家の正史である『徳川実紀』によると、、、

 

君は先立て都にのぼられ給ひ和泉の堺浦までおはしけるが。今は織田殿もはや上洛せらるヽならむ。都にかへり右府父子にも對面すべし。汝は先參て此よし申せとて。御供志たがひし茶屋をば先にかへさる。又六月二日早朝かさねて本多平八郎忠勝を御使として。今日御帰洛あるべき旨を右府に告げさせ給ふ。・・・

六日に伊勢の白子浦につかせ給ひ。・・・。七日に岡崎へかへらせ給ひ。主従はじめて安堵の思をなす。(これを伊賀越とて御生涯御艱難の第一となす。)八日にはいそぎ光秀を征し給はんとて軍令を下され。・・・

(引用:『徳川実紀 巻三 天正十年』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”家康公は、織田殿に先立って安土より上洛し、泉州堺まで来ているが、今はもう織田殿が上洛されているらしいので、都へ帰り織田父子に面会しよう。おまえは先に出掛けて段取りを整えておいてくれと供奉していた茶屋四郎次郎清延を京へ返し、6月2日には早朝に本多平八郎忠勝を使いとして先行させ、本日に上洛を織田殿に伝えさせた。・・・

6日には伊勢の白子湊へ到着し、7日には岡崎へ帰還した。主従初めて安堵した。(これを”伊賀越え”として神君家康公の生涯第一の艱難とした。) 8日には光秀討伐の陣ぶれを出した。”位の意味です。

この江戸時代になってから、徳川家が全力を挙げて記述した『徳川実紀』と、同時代のウォッチャーである深溝城主松平家忠の記載内容の日付に大きなズレが生じていることが分かります。

 

  1. 岡崎の到着日が『家忠』では、6月4日で、『実紀』では、6月7日となっています
  2. 所謂”西陣”の陣ぶれが『家忠』では、6月5日で、『実記』では、6月8日になっています。(しかし、現実の西陣の出陣は6月14日で一致しています。)

 

という相違が生じています。

常識的に言えば、300㎞の脱出行を走破するには、『実記』の方が現実的にような感じですが、同時代人の『家忠』の記述の方が恣意的な要素を入れる時間的な余地がなく間違いとも言えないような気がします。

『徳川実紀』に記載されていますが、6月2日に近江瀬田川の橋を焼き落し、明智光秀の当日での安土入りを阻止した山岡景隆(やまおか かげたか)・景佐(かげすけ)・景友(かげとも)兄弟が、甲賀忍者軍を出し、伊賀に入ってからは同行していた服部半蔵(はっとり はんぞう)が柘植(つげ)の伊賀忍者軍を警護に動員していたことが確認出来て、家康の脱出行の途次には通説と違ってほとんど困難な場面はなかったと考えられ、秀吉の『中国大返し』と違い極めて少人数の徳川家康一行は、恐らく早馬の乗り継ぎなど忍者軍団の手助けで超スピードの帰還が実現したのではないかと考えられます。

私見ですが、『徳川実紀』はおそらく常識的な線に引き戻した記述を行ない、現実の家康一行の行動の隠ぺい・辻褄合わせを行なったのではないかと考えます。このズレで稼いだ3日間になにか秘密(『東陣』の算段でしょうか)があるような気がします。光秀に義理があるはずの山岡兄弟があっさり光秀を裏切って、家康の脱出に手を貸しているなど、おかしなことが多すぎるというのが正直な感想ですね。

 

余談ですが、、、

豊臣秀吉と同様に徳川家康も事前に『本能寺の変』勃発を知っていて、事前に腹心の町人茶屋四郎次郎清延(ちゃや しろうじろう きよのぶ)に京都を見張らせ、当日に本多忠勝(ほんだ ただかつ)を京都へ出するなど、その後の行動方針を決める為の念を入れた情報収集だったのではないか?との疑惑は深まるばかりです。

また、前章までに述べた織田信長が信忠の命令違反を咎めたのは、信長は信忠に同行させて不審な徳川家康を見張らせていたのではないか?だから『三河物語』にあるように織田信長は、最初森乱丸に”謀反は信忠か”と聞いたのではないか?

そして、、、

 

・・・信長は明智が自分を包囲している次第を知らされると、何でも噂によると、口に指をあてて、余は余自ら死を招いたなと言ったと言うことである。

(引用:アビラ・ヒロン『日本王国記 第4章 163頁』1973年 岩波書店)

 

上記のように同時代の来日スペイン人商人ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンによる『日本王国記』で、織田信長最後の言葉として『我は自ら死を引き寄せてしまった』という話が伝わっていて、『本能寺の変』の真相の一端を告げる逸話のひとつではないかと思われます。

 

明智光秀の義弟明智秀満が安土城を退去した後、城を引き取って火を放ったのは誰なのか?織田信雄だとか本当は徳川忍者部隊だとか?

通説では、『安土城炎上』は、明智光秀から安土城の守備を任された義弟明智秀満(あけち ひでみつ)が安土城退去の時に火を放った、くらいに言われており、特段、誰も問題にしているわけではないようです。

歴史作家の八切止夫氏によると、、、

 

そして翌十五日。織田信長の二番目の倅にあたる、昔の茶筅丸が成人した織田信雄(のぶかつ)が、日野の蒲生(がもう)の倅で、のち氏郷(うじさと)となった忠三郎賦秀(ちゅうざぶろうのりひで)と共に迫った。

さて七層だてで金銀に朱をもって飾られた天下一の名城。安土文化の殿堂である安土城は、この日に焼け落ちた。

<甫庵太閤記>と<秀吉事記>は、明智秀満が退去の際に放火したものだといい、現在、安土町の小学校や、町役場は、この説をとっている。・・・(中略)。

<兼見卿記>には「安土のお城は、十五日に焼けおわりぬ」とだけある。

しかし十五日というのは、坂本城へもどっていた明智秀満が、堀久太郎秀政に包囲され、その異父兄で先手大将として攻めてきた堀直政に、国行の刀、吉光の脇差などの古美術品を目録をそえて贈り、光秀の妻女や自分の妻子を刺してから、煙硝に火をつけ、城もろとも灰になった日である。

だから、明智秀満が火をつけたのは安土城ではなく、自分の坂本城のほうである。自殺のためである。

(中略)

しかし天正十年正月づけの<ルイス・フロイス書簡>によって調べてみると、

「織田信長のたてた安土の巨大な城は、美術博物館のような素晴らしいものである。六月二日に、父の信長、そして兄の信忠が死んでいるから、順番からゆけば、今や相続人は次男の織田信雄である。それなのに彼は、六月十五日に、自分の物となる筈の安土城を、そこに敵兵が一人もいないのに攻めた。そして放火した。焼いてしまったのである。彼は、気が変になって狂人になってしまったのか。そうでなければ、これは生まれつきの愚者という他はない。・・・(中略)。」

と、いと明白に「放火犯人は、織田信雄」であることが、指摘されている。(後略)。

(引用:八切止夫『信長殺し、光秀ではない  338~339頁』2002年 作品社)

 

とあり、当時在日していた宣教師ルイス・フロイスの同時代証言により、あの天下の名城と言われた今では国宝級の安土城の放火犯は、なんと信長の次男である織田信雄だと指摘されています。

そして、異説では、、、

明智秀満退去後に、徳川家康の『神君伊賀越え』を影警護(かげけいご)していた忍者部隊200名が、家康の命を受けて引き返し、織田の拠点とならぬように安土城を焼いたとしているようです。

しかし、、、

 

三日、己丑、雨降、京都酒左衛門尉所より、家康御下候者、西國へ御陣可有之由申來候、さし物諸國大なるはたやミ候て、しない成候間、其分申來候、酉刻ニ、京都にて上様ニ明知日向守、小田七兵衛別心にて、御生かい候由、大野より申來候、

(引用:松平家忠/続史料大成刊行会『家忠日記 <一> 天正十年六月三日の条』1967年 臨川書店)

 

大意は、”天正10年(1582年)6月3日、雨降り、家康公に同行している京都の酒井忠次(さかい ただつぐ)より、「家康公の御下命があり、西国への出陣するので用意せよ」と云って来ている。やがて午後6時頃に、「(前日早朝)京都にて信長公が、明智光秀と織田信澄の謀叛により自刃された」と知多半島の大野湊(現愛知県常滑市北部)から報告があった。”

としており、家康に同行する重臣酒井忠次は、すでに2日には、岡崎で待機する部下たちへ直ちに西への出陣を家康命令として伝えています(多分岡崎到着3日午前中)。夕方には岡崎でもその出陣命令の理由が判明し、『本能寺の変』が伝わります。随分早い情報の伝達で、いかに徳川家康の情報部隊(伊賀者)が優秀であったかがわかります。

これに関して、通説にあるように家康はいち早く京都へ駆け付け、本当はどうしようとしていたのかは分からない訳です。異説が正しければ、京都進軍の大きな障壁になる安土城之破壊は、あり得ることにもなります。

そして実際には、家康は、6月4日に岡崎へ帰還してすぐに6月5日には、、西への出陣(西陣)命令を下すとともに、6日には旧武田領への出陣(東陣)命令を出しています。

 

此時候間、下山へ相うつり、城見立候てふしんなさるべく候、委細左近左衛門可申候、恐々謹言、

六月六日            家康 御判

岡次參る

(引用:中村孝也『徳川家康文書の研究 上巻 岡部正綱に遣れる書状(天正十年六月六日)』1967年 日本学術振興会)

 

大意は、”すぐに領国の駿河より国境を越えて甲斐に侵攻し、下山(現山梨県南巨摩郡身延町下山)に築城すべきこと、詳細は左近左衛門に申付けてある。”位の意味です。

どうやら徳川家康は、天正10年(1582年)6月2日の『本能寺の変』以後の自身の政治行動に関して、西へ侵攻して政権争奪戦に介入するか、東へ侵攻して旧武田領の簒奪を図るかの両建ての作戦を立てていたものと考えられます。

そこで打った手としては、、、

 

  1. 腹心の茶屋四郎次郎に6月2日に事変を確認させて、すぐに家康は忍者の飛脚便を出して、岡崎で出陣準備をさせること
  2. 『西陣』の時に、安土城の存在を京都進軍への邪魔と見て破却させること
  3. 『東陣』に先立って、旧武田の岡部正綱(おかべ まさつな)へ、至急富士川を遡り甲斐国へ越境侵入して、下山へ拠点の築城をさせること

 

ということになるわけですが、、、

結果、徳川家康の『西陣』の侵攻スピードが異常に遅いことから、最初から手回しよく忍者軍団の諜報網を張り巡らして、10日までにはほぼ秀吉の状況を把握していたものと思われ、そんな家康が体制の決まりつつある京都への進軍のために、6月15日になってわざわざ”安土城の焼き討ち”をするなどあり得ないような気がします。

と言う事で、家康の忍者陰警護部隊による『安土城焼き討ち』などはなかったと考えられます。

 

まとめ

本記事は、別記事 ”『本能寺の変』で、明智光秀と家康はグルだった!ホント?”の追加版です。

明智光秀の『本能寺の変』は、織田信長父子殺害までの絶妙の手際と、その後の手順のまずさが、緻密と定評のある明智光秀像と一致せず、そのため諸説が百花繚乱となって収集つかなくなっている状態です。

本来、真実はひとつのはずですが、どの説もやはり決め手に欠けており、未だに『日本史の大きな謎』となっています。

まず明智光秀にとって大きなの問題は、やはり中世史研究家の小林正信氏の指摘するように、『徳川家康取り逃がし問題』だろうと思います。この解明が『豊臣秀吉の中国大返しの疑問』に答えることではないかと思われます。

本文のとおり、明智光秀の謀叛にとってその成否の決め手は、”織田信長父子と徳川家康の両者を仕留める事”が必須事項だったのです。

そのため、必勝の布石が打たれていたはずですから、光秀本隊は信長を、盟友細川隊が家康の討伐を担当していたのものと思われ、細川藤孝は事前に家老の米田求政(こめだ もとまさ)を京都市内に潜入させていたと言われ、信長と家康の動静を捕らえ、藤孝へ的確な情報を送っていたと考えられます。

ころが、細川藤孝は明智光秀との打ち合わせどおり兵を動かさず、事変の情報をいち早く早馬で知らせたのは、備中(岡山)の豊臣秀吉の陣中でした

 

一、天正壬午六月二日、亥の刻四ツ半、この一点天下の大事を知るなり。すなわち丹波表の長岡兵部殿よりの御使者到来、前将様、兵部大輔様よりの密書を見られ候いて、慄然として声なし。

(引用:吉田蒼生雄『武功夜話 <二> 巻十 日向守謀反の事 163頁』1988年 新人物往来社)

 

大意は、”天正10年(1582年)6月2日、午後11時、この時点で天下の大事(『本能寺の変』)勃発の知らせを受ける。ここで、丹波を移動中の細川藤孝殿からの使者が到着し、前野長康(まえの ながやす)様は、細川藤孝様よりの密書を見られ、慄然として声がなかった。”位の意味です。

豊臣秀吉の重臣前野長康は、すでに豊臣秀吉から指示を受けて連絡役として、秀吉が在陣している備中と京を結ぶ線の中間点である播州三木辺りに在陣して、来るべき知らせを待っていたところへ、計画どおり細川藤孝からの早馬にての連絡を6月2日当日の午後11時に受け取っていました。すぐさま前将は備中へ早馬を出して秀吉に知らせたことは言うまでも有りません。これから日本史上超有名となった『中国大返し』の始まりとなりました。

こうして、明智光秀の『徳川家康討ち取り』は、失敗していました

徳川家康一行が織田信長に招待されて、少人数で安土に出向いた理由は、光秀に謀反を使嗾されて”おとり”になったとの説があるようですが、やはり同盟者から配下大名となっていた為、信長の命令に逆らえなかったからとする方が分かりやすそうです。

また、明智光秀と徳川家康の間を繋ぐ人物には、系図上では徳川配下に奥三河の菅沼家に養子となっていて、後に名族土岐家を再興した土岐定政がいますが、傍流明智の光秀に較べて、定政は土岐宗家筋と思われ、家康に命令されない限り光秀との連絡役を引き受けるとは思えないところです。

『本能寺の変』勃発後に、有名な『神君伊賀越え』を敢行した徳川家康は、やはり豊臣秀吉同様になんらかの情報を得て、事前に周到な帰還準備をしていた節が見られ、秀吉の『中国大返し』にならぶ行程300㎞をほぼ2日間で逃げ切ると言う離れ業をやってのけています。

最後に気になる『安土城炎上』の犯人ですが、どうも歴史作家八切止夫氏の指摘している”織田信雄犯人説”が、当時日本在住の宣教師ルイス・フロイスの書簡証言から、一番もっともらしく見えそうですが、本当のところはどうでしょうか。

 

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参考文献

〇小林正信『明智光秀の乱』(2014年 里文出版)

〇ルイスフロイス/松田毅一・川崎桃田訳『完訳フロイス日本史③ 織田信長篇Ⅲ』(2014年 中公文庫)

〇大久保忠教『三河物語 第三下』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇奥野高廣『増訂 織田信長文書の研究 下巻』(1994年 吉川弘文館)

〇太田牛一『信長公記 巻十五』(インターネット公開版)

〇谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』(2010年 吉川弘文館)

〇戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典』(2006年 吉川弘文館)

〇明智憲三郎『光秀からの遺言』(2018年 河出書房新社)

〇松平家忠/続史料大成刊行会『続史料大成 家忠日記 <一> 』(1967年 臨川書店)

『武家事紀 巻第十三』(国立国会図書館デジタルコレクション)

『続群書類従 第128 系図部 明智系図』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇関西大学中世文学研究会編『明智物語』(1996年 和泉書院)

〇明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』(2015年 文芸社文庫)

宇野主水日記『鷺森日記』(津村別院誌 国立国会図書館デジタルコレクション)

『徳川実紀 巻三』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇谷口克広『信長と家康ー清須同盟の実体』(2012年 学研新書)

〇アビラ・ヒロン『日本王国記』(『大航海時代叢書<Ⅺ>』内収納 1973年 岩波書店)

〇八切止夫『信長殺し、光秀ではない』(2002年 作品社)

〇中村孝也『徳川家康文書の研究 上巻』(1967年 日本学術振興会)

〇吉田蒼生雄全訳『武功夜話 <二>』(1988年 新人物往来社)

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