執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
『本能寺の変』のなぞは、明智光秀の天下取りか?制度防衛か?
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織田信長が明智光秀に暗殺された『本能寺の変』の簡単まとめを作りました。
光秀の天下取り”野望説”の簡単まとめと解説作りました。
光秀が幕府を守ろうとした”制度防衛説”の簡単まとめと解説作りました。
光秀が濡れ衣を着せられた”冤罪説”の簡単まとめと解説作りました。
光秀に濡れ衣を着せたのは誰かが分かります。
目次
通説『本能寺の変ー明智光秀が反乱を起こした理由』の簡単まとめ
『本能寺の変』を巡る、現在の高校教科書の記述はどうなっているかと言えば、、、
・・・このようにして信長は京都をおさえ、近畿・東海・北陸地方を支配下に入れて、統一事業を完成しつつあったが、独裁的な政治手法はさまざまな不満も生み、1582(天正10)年、毛利氏征討の途中、滞在した京都の本能寺で、配下の明智光秀に背かれて敗死した(本能寺の変)。
(引用:笹山晴生ほか15名『詳説 日本史B 改訂版』2018年 山川出版社)
とあり、”織田信長は配下の明智光秀に背かれて、滞在した京都本能寺にて敗死した(本能寺の変)”の一行で簡単に記述されています。
それで、明智光秀を巡っての出来事を簡単にまとめてみますと、、、
100字まとめ
戦国大名の織田信長が、甲斐の武田勝頼を1582(天正10)年3月に滅ぼして東国を制圧し、天下統一へ西国征討に出陣した同6月2日未明に京都本能寺で、重臣の明智光秀に謀殺された事件を『本能寺の変』と言う。(100字)
200字まとめ
戦国時代、尾張・美濃の領主となった織田信長が、1568(永禄11)年9月に室町第15代将軍となる足利義昭を奉戴して上洛、その後10年間抵抗し続けた石山本願寺を朝廷による「勅命講和」にて平定し、次いで宿敵武田氏を1582(天正10)年3月に滅亡させて東国を平定、天下統一へ西国毛利家征討戦へ出発する6月2日未明に、京都本能寺にて配下の重臣明智光秀の謀反に遭って死去した。この事件を『本能寺の変』と言う。(200字)
(画像引用:京都本能寺信長公廟 ACphoto)
『本能寺の変』なぞ解き編①ー「明智光秀は天下取りを狙った説」ってどんなの?
簡単まとめ(100字)
1582(天正10)年3月、宿敵武田家を滅亡させて東国を制圧した織田信長が、西国討伐へ出陣する間際の6月2日払暁に、天下を狙う明智光秀率いる西国攻撃部隊により、京都本能寺で襲われ織田政権は崩壊します。(100字)
本当に「天下取り」を狙ったの?
史料を見てみると、、、
將軍者相具信忠、於京都御動坐、重而惟任日向守光秀爲軍使、早早令着陣、與秀吉可相談、依合戦之行、可有御動坐之旨、嚴重也、惟任奉公儀、揃ニ萬餘騎之人數、不下備中、而密工謀反、併非當坐之存念、年來逆意、所識察也、扨五月廿八日、登愛宕山、催一坐之連歌、・・・
(引用:大村由己『惟任退治記(これとう たいじき) 334~335頁』国立国会図書館デジタルコレクション)
大意は、”織田信長は、嫡男信忠と一緒に、京都へ移動した。明智光秀は何度も軍使を出して、早く着陣出来るように豊臣秀吉と打ち合わせを行い、合戦に行くため織田信長に光秀が供奉して移動することをきちんと決めた。しかしその為にそろえた2万人の軍勢は、備中へ向かわなかった。光秀によって、密かに謀叛が計画されたが、それは急に思いついたことではなく、光秀は常日頃から叛意を持っていたのだ。そして、光秀は5月28日に愛宕神社へ戦勝祈願に参り、併せて連歌の会を催した。”位の意味です。
又、、、
・・・。明知日向守光秀は、美濃國土岐郡明知といふ里に生れ、昔は土岐の一門とかやいひし。貧しくなりはて、下部の壱人をも持ず、越前の國などさすらへありき、思ひがけず信長に宮仕、心に叶ひもてきて、江西志貸郡をしり、坂本といふ所に城搆ありしが、天正六年の比にや丹波へ越はたのなどいへる國人を討亡し國の主になり、猶江西を知たり。
かく時めき富盛しに、猶あき飽たらず日本をしらんとて、信長を討し事欲心道をそこなひ、名をけがすこと淺ましといはん方なし。明知がことは中々おきぬ。信長はかくあるべきとしらず。國をあたへ返りて亡され給ふ事、人をしることの明かならざる科なるべし。・・・
(引用:竹中重門『豐鑑(とよかがみ)巻一 374頁』国立国会図書館デジタルコレクション)
大意は、”明智光秀は、美濃国土岐郡明智と言う郷に生れ、昔は土岐一族だったと言うが、今は貧しくなり果て、供を一人も連れずに、越前国などへ放浪していたが、運よく織田信長に仕官し、先の希望も持ち、湖西の志賀郡を得て坂本に城を持った。天正6年には丹波で、波多野と言う国人を討伐して丹波を平定し、湖西も得た。
明智光秀は、このように目覚ましく出世したのに飽き足らず、さらに天下を獲りたいと欲をかき、主君織田信長を弑逆(しいぎゃく)するような道理に外れた事を行ない武名を汚し、卑しいと言わない人はいない。明智光秀がやったようなことはめったにあることではない。主君織田信長は、このようになるとは思っても見ず、光秀に国を与えて却って滅ぼされてしまった。人を知ると言うことは難しいものである。”位の意味です。
これらの史料は比較的古く江戸時代初期以前に記述された記事です。但し、両者ともに筆者が豊臣秀吉の関係者(大村由己は秀吉の右筆、竹中重門は秀吉の軍師竹中半兵衛の息子)のため、明智光秀をおとしめるような書き方がある事を、割り引いてみる必要があります。
「明智光秀も天下を狙っていた」説は、この辺りの話を根拠に江戸時代から、流布されている可能性はあるかと思いますが、本人に丸っきりその気がなかったとは言えないのかもしれません。
『本能寺の変』なぞ解き編②ー「明智光秀は室町幕府の制度防衛に動いた説」ってどんなの?
簡単まとめ(100字)
明智光秀の仕えた織田信長が、将軍足利義昭を奉戴する毛利攻めを命じた事から、光秀は幕府の制度防衛の爲、天正10年(1582年)6月2日払暁、西国への出陣間際に叛乱し、京都本能寺で逆賊の信長を討ち取った。(100字)
光秀の「制度防衛」ってどんなの?
公式記録の『永禄六年諸役人附』によれば、、、
永禄六年諸役人附
永禄六年五月日
(13代将軍足利義輝関係)
御供衆
・・・
細川兵部大輔藤孝・・・
(15代将軍足利義昭関係)
御供衆
・・・
細川兵部大輔藤孝
・・・足軽
・・・
明智奈良御供衆
・・・
米田源三郎
・・・(引用:『大武鑑 巻之一 「永禄六年諸役人附」』国立国会図書館デジタルコレクション)
とあり、明智光秀は足利義昭の”足軽衆(馬に乗らない旗本衆)”に加えられていることが分かります。
これは、明智光秀の名前が、将軍足利義輝当時の名簿に記載がないことから、永禄8年(1565年)5月19日の「第13代将軍足利義輝(あしかが よしてる)弑逆事件」以降、次期将軍候補として、腹違いの弟である奈良興福寺一乗院門跡の覚慶(かくけい)を無事脱出させる時に、功績があったことから足軽衆に加えられたものと考えらえます。
つまり時系列的な整合性から見ると、光秀が越前にいたらしいことは痕跡がありますので、元々幕府重臣の細川藤孝と関係があり(細川藤孝の中間だったー多門院日記)、覚慶脱出の折に越前から駆け付けて細川藤孝に加勢したことが、評価されて名簿に記載されたのではないかと思われます。
以後細川藤孝の下働きとして、還俗して足利義昭となった覚慶が越前朝倉氏へ身を寄せ、その後織田信長が奉戴して上洛するまでの間、まめまめしく要領よく立ち働いたものと思われ、織田信長にも認められる存在となっていったようです。
信長の上洛後は、朝廷・幕府に距離を置く織田信長に代り、織田家と朝廷・幕府の間に立って雑事(行政実務)をこなして行き、急速に信長から信頼を得るようになって、織田家内部での存在感も増して行きました。
公式文書の発給に関しても、織田家内部に旧幕府側の代表格として名前が現れるようになり、織田信長が天下人としてなすべき京都の行政に関して、織田家の吏僚たち(村井貞勝、武井夕庵、松井有閑等)に一目置かれるようになっていたと思われます。
本来、織田政権の幕府関係の仕事は、経緯から細川藤孝がやるべきだったと考えられますが、永禄12年(1569年)正月の「本圀寺襲撃事件」で、奮戦して三好方から義昭を守りとおした事で、明智光秀の幕府内での信任が集まり、本来藤孝がするべき仕事を獲ってしまったようです。やり方は違うものの、こうした織田信長にアピールする巧さは明智光秀と豊臣秀吉はよく似ているように思われます。
室町幕府の奉公衆たちも、幕府に籍を置きながら天下人の織田信長に重用されている明智光秀の存在は、和田惟政・細川藤孝のような御供衆・大物の奉公衆以外の幕府衆には次第に頼りにされて行ったのだと思われます。
事実、後年の「山崎の戦い」で、明智光秀に味方した人は、明智家以外では、近江・近在国衆と幕府衆でした。織田家の武将たちは誰一人味方しませんでしたから。
競争の激しい織田家の中で、信長の負託に応えて結果を出し続けた明智光秀でしたが、担当した畿内での騒乱が静穏になりつつあった天正8年(1580年)以降、目立つ手柄・成果が挙げる機会も失われていました。
そして、天下の平定が進み始めるとともに、織田信長の政治目標が見え始め、明智光秀ら幕府衆の考えていた”室町幕府再興を果たすとともに、将軍を盛り立てて行く政権構想”と言うものとは大きく違うものでしたl
それは、天正10年(1582年)3月11日の武田家滅亡に続き、3月23日には滝川一益(たきがわ かずます)を上野(こうずけ)に関東管領として配置して東国制圧を開始したところから、明らかになり始めます。
織田信長は、”足利幕府の武家政治の統治形式”を踏襲するものの、形の上では将軍足利義昭を奉戴している毛利氏を討伐する行動に出たことによって、明確に室町幕府そのものを倒そうと言う意図を明らかにしました。
加えて、武家政治の形である東西ニ元管理(畿内と関東)を更に強化して、室町幕府では有名無実化していた全国統一を完全に達成しようとしていました。
西国では朝廷・公家を京都に押し込めて、恐らく大坂を拠点にし、関東は鎌倉か江戸辺りに徳川家康を”将軍”として配置し、東国を支配させようする考えではないかと思われました。
これにより、光秀ら室町幕府衆の目的とする”足利氏の幕府”を再興する事など、信長は全く考えていないことが明らかになって来ていました。形としては後の徳川家康が構築した徳川幕府の支配体制が、それを実現したものと思われます。
天正10年(1582年)3月の武田討伐を終えて東国制圧の目処が出来、返す刀で西国毛利討伐へ動き出して、終に織田信長が牙を剥いたことから、さすがに光秀ら室町幕府衆も織田信長の真の政権構想に気が付き、慌てて”室町幕府体制維持を狙った叛乱”だったと言うことが動機面では濃厚と見られます。
しかしこの説は、豊臣秀吉の想定外の速攻的反撃によって、明智光秀が軍団長であった、畿内方面軍配下大名衆の裏切りを誘発してしまい、あっけなく明智軍(幕府軍)が崩れてしまったことから、明智光秀の事前の手配りがまったく準備不足であったことが露呈し、後世からみると本当は一体何がしたかったのかよく分からない事になってしまい、今では真相は闇で確認のしようがないのです。
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『本能寺の変』なぞ解き編③ー「明智光秀冤罪(えんざい)説」ってどんなの?
簡単まとめ(100字)
天正10年(1582年)6月2日朝、明智光秀は主君織田信長の命に従い、京都本能寺へ軍を引き連れて到着したところ、主君信長は既に襲撃されており、何と自分が謀叛を起したその下手人にされていることを知った。(100字)
『本能寺の変』に関し、明智光秀が犯人ではない可能性はあるの?
まず、アリバイから見ますと、この事件に関する古記録では、、、
(天正十年六月)二日、戊子、晴陰、
一、卯刻前右府本能寺、へ明智日向守依謀反押寄了、即時ニ前右府打死、同三位中將妙覚寺ヲ出テ、下御所へ取籠之處ニ、同押寄、後刻打死、・・・
(引用:東京大学史料編纂所『大日本古記録 言経卿記<一> 天正10年6月2日の条』1959年 岩波書店)
大意は、”天正10年(1582年)6月2日午前5時頃、織田信長がいる本能寺へ、明智光秀が謀反を起して押し寄せた。すぐに信長は討死し、息子の信忠は妙覚寺にいたが、逃げて二条御所へ立て籠もった。そこにも謀叛軍が押し寄せ、ほどなく討死した。”位の意味です。
又、、、
(天正十年六月)二日、戊子、 早天自丹州惟任日向守、信長御屋敷本應寺へ取懸、卽時信長生害、同三位中將陣所妙見寺へ取懸、三位中將二条之御殿親王御方御座也、此御所へ引入、卽以諸勢押入、三位中將生害、・・・
(引用:金子拓・遠藤珠紀校訂『新訂増補 兼見卿記 第ニ 天正10年6月2日の条(別本)』2014年 八木書店)
大意は、”天正10年(1582年)6月2日、夜明け前、明智光秀が丹波より織田信長の宿所本能寺へ攻め掛かり、程なく信長は自刃した。光秀軍は織田信忠の陣所の妙覚寺へ攻め掛かり、信忠は親王の御所である二条御所へ立て籠もったが、すぐに攻め掛かられて信忠も自刃した。”位の意味です。
とあります。
調べてみますと、旧暦の6月2日は、新暦の7月1日にあたり、2019年で見るとここ京都地区の日の出時刻は、午前4時45分頃と分かります。
つまり、反乱軍が織田信長を京都本能寺に襲ったのは、言経卿記では「卯の刻(午前五時)」、兼見卿記では「早天(夜明け前ーこの時は午前4時15分~午前4時45分)」となり、どちらも「卽」(すぐに)織田信長は自刃したと言っています。
この時、織田信長は午前4時半~5時には殺害され、息子の信忠は1時間位奮戦したことが伝わっていますので、5時半~7時頃には、暗殺が終了していたことが分かります。
一方、犯人と言われる明智光秀の情報は、、、
・・・
悉打果、未刻大津通下向、予、粟田口邊令乘馬罷出、惟日對面、・・・、
(引用:金子拓・遠藤珠紀校訂『新訂増補 兼見卿記 第ニ 天正10年6月2日の条(別本)』2014年 八木書店)
大意は、”(明智光秀は)織田信長父子側近たちを全部討ち取り、午後2時頃に大津通を通って行った。私(吉田兼見)は、粟田口(あわたぐち)辺りまで馬を飛ばして行き、明智光秀を捕まえ面談した。”位の意味です。
又、、、
二日、弑逆の当日、午前九時ごろから午後二時ごろまで、光秀は京都にいた。この間、信長および信忠の屍を求め得なかったので、心中甚だ安んじなかったと言われている。・・・
(引用:高柳光壽『本能寺の変・山崎の戦 54頁』1958年 春秋社)
こうなっており、午前9時までに”本能寺襲撃事件”は終了しており、通説では1万3千の明智軍が本能寺を襲ったことになっていますが、実は、亀山方面から来たと思われる1万余の”信長襲撃隊”の仕事が終了した後に、坂本から自軍3千を率いて、森乱丸を通して信長からあった集合命令通り、卯刻(午前9時頃)に坂本から自軍の3千の兵を連れて、本能寺へやって来た明智光秀は、明智の旗印が散乱する本能寺の焼跡を見て呆然としたと言う説です。
実は、明智光秀は当日現場に着くまで何も知らずに、現場で明智の名を語る何者かに主君が暗殺された事態を察知して、主君織田信長親子の遺体を京都中さがしまわったものの見つからないので、善後策協議の為に織田家本城である安土城へ向いました。
しかし、何者かに瀬田の唐橋を焼き落されたために、安土へ向かえず、やむなく架橋部隊を残して坂本城へ引き上げたものの、その間に『明智光秀謀叛』の噂・情報が全国に更に拡散してしまったと言う事態です。
このような説が出る背景は、天正10年の正月以降を見ても、”明智光秀に織田信長に謀反を起す積極的な動機が見つからない”ことを理由に挙げています。
織田信長への怨恨説、明智光秀の野望説など、後の政権の御用作家・江戸時代の軍記物作家などの作り話の可能性も高く、どれも決め手に欠けると考えられます。
光秀は牢籠の身からわずかに十二ー三年で丹波一国と近江数郡の領主となり、信長の陣営にあっては宿老を凌いで一方の大将となった。これは彼自身の器量にもよること勿論であるが、信長の信任によることもまたいうまでもない。それは彼自身がそれをいっている通りである。彼は信長の恩義に感謝こそすれ、信長に背いてこれを殺すなどということは普通では考えられないことである。そこで後世光秀を論ずる人々がその理由の発見に苦しんだらしい。このことがいろいろ揣摩臆説を生むに至ったのである。
(引用:高柳光寿『明智光秀 173頁』2000年 吉川弘文館)
このように中世史の大家高柳光寿氏も『謀反の決定的な理由は見当たらない』との見解を出しています。
『明智光秀冤罪(えんざい)説』は、誰が犯人なのかは別として、確実な動機の見つからない明智光秀は、どうも”濡れ衣を着せられた”可能性が高いのではないかと言う説が生れました。
『本能寺の変』なぞ解き編④ー「明智光秀はハメられた説」ってどんなの?
簡単まとめ(100字)
明智光秀は、正親町天皇と細川藤孝、豊臣秀吉などに天正10年(1582年)6月2日に、織田信長が暗殺された『本能寺の変』の実行犯と云う濡れ衣を着せられ、無実を証明出来ない為未だに名誉回復は出来ていない。(100字)
この事件のプロデューサーは誰なの?
この説は、当該期の今上天皇である正親町(おおぎまち)帝が、『延喜・天歴の治(えんぎ・てんれきのち)に帰れ』を合言葉に、武家政権から王朝の論理が主導する国権の移転を企んでいる、簡単に言えば、武家政権に対して王政復古を目標としていると言うのを前提にしています。
歴史上、この朝廷の動きが起こる時は、必ず日本に外敵の脅威が近づく事態が発生します。『蒙古来襲』・『キリスト教伝来』・『黒船来航』等です。この時期は『キリスト教伝来』に当ります。
言い換えれば、国家的危機の存在に乗じて王朝側が武家政権を揺さぶり、政権奪還の謀略を仕掛けると言う筋書きにもなります。
そもそも、この織田信長は、正親町天皇に目を付けられて、政権奪取を可能とする武力を提供してくれる重要な協力者として、つまり王政復古の為に選び出された武将のひとりだったのではないかと考えられます。
そこで、、、
今度國々屬本意由、尤武勇之長上、天道之感應、古今無双之名將、彌可被乘勝之□爲勿論、就中兩國御料□□被出御目錄之條、嚴重被申付者、可爲神妙旨、綸命如此、悉之以狀、
永祿十年十一月九日 右中辯(花押)
晴豊(引用:『立入文書 十九 永祿十年十一月正親町天皇の綸旨案』国立国会図書館デジタルコレクション)
大意は、”この度、国々(尾張・美濃)を平定させたことは、まことに(織田信長殿は)武勇のお人であり、天も感じ入った古今無双の名将であられます。ますます勝ちに乗じられることは勿論の事、とりわけ、武家に横領されている両国(尾張・美濃)にある天皇の御料所回復など、目録にある条項を確実に実行されるなら、誠に神妙な事であります。天皇のご命令はこのようなことであります。
永禄10年(1567年)11月9日 右中弁(花押) 勧修寺晴豊 ”位の意味です。
これは、”決勝綸旨(けっしょうりんじ)”と言われる”上洛要請とそれに伴う武力行使の許可証”のような天皇の命令書(御墨付き)です。
つまり、正親町帝は、織田信長に”武力行使の御墨付”を与えて、永禄10年(1567年)には既に織田信長の上洛を促していました。
そして、織田信長の足利義昭を奉戴しての永禄11年(1568年)9月の上洛に関して、ずっと将軍側近として信長との交渉を引き受けていた細川藤孝は、又”従五位下兵部大輔(じゅごいげ ひょうぶだいふ)”と言う官位官職を持つ、正親町帝の側近グループの武官でもありました。
細川藤孝は、「正親町帝の”キリスト教排斥”方針」に従わない室町第13代将軍足利義輝暗殺の当日(永禄8年5月19日)、義輝の側近でありながら姿を消していました。そして、織田信長上洛後の永禄12年(1569年)正月の三好党らによる第15代将軍足利義輝の襲撃事件『本圀寺事件』の折も、姿を消していました。
どうも、細川藤孝は正親町帝専属の謀略専門の工作員のようです。そして、信長と石山本願寺の間に正親町帝による『勅命講和(ちょくめいこうわ)』が成立し、織田信長の畿内平定が実現した天正8年には、細川藤孝は”従四位下侍従(じゅしいげ じじゅう)”に叙任し、天下人織田信長配下の大名の顔をしながら、実は完全に”正親町帝の侍従”となっています。
正親町帝の『公家一統 ー王政復古』政策を全く認めない織田信長と正親町帝の関係は悪化しており、前年の天正7年(1579年)11月22日には、信長が手なずけた誠仁(さねひと)親王が二条の御所(下御所)に移り、度重なる信長の譲位要求にも屈しない正親町帝(上御所)と上下御所での二元体制となり、織田信長は誠仁親王への譲位を強引に進めようとしているかのようでした。
ここに至って、ついに正親町帝は昔の2件の将軍襲撃事件のように、天下人織田信長の”更迭”(謀殺)を、新たに”侍従の細川藤孝”に検討させ始めたのではないかと思われます。
ここでの正親町帝(と細川藤孝)の狙いは、『公家一統』実現のために、”織田政権の破壊”と、ついでに”足利幕府の解体”の同時実現することだったと考えられます。
ストーリーは、こうです。。。
織田信長を謀略で殺害し、何も知らない明智光秀に”信長殺しの罪を着せ”、それをネタに”主君の仇討ち”と称して、正親町帝の「公家一統」を承諾した豊臣秀吉に、光秀を討たせ、光秀が引き連れている幕府奉公衆をも壊滅させて、幕府を潰すという謀略でした。
この謀略は、細川藤孝の構想にたいして、具体策の脚本は軍事謀略の天才黒田官兵衛(孝高ーよしたか)が書いたように思えます。とにかく手配りが細部にわたって行き届いており、やり口が水際立っています。
結果から見た見方ですが、、、
- 事が成就したあと、豊臣秀吉が、黒田官兵衛は秀吉出世の最大の功労者にも拘わらず、異常なほど官兵衛を警戒し、疎んじたこと。
- 織田信長襲撃軍の現場責任者たち(小野木縫殿助・木村弥一郎など)は、異例の出世を遂げたあと、非業の死を遂げている事。
- 明智光秀から寝返った摂津の大名で、高山右近は国外追放、中川清秀は賤ヶ岳の戦いで戦死している事。
- 『清須会議』の主要メンバーも柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興らは、その後皆消されている事。
- 織田信長の京都への誘き出しに一役買ったと言われる千利休が、秀吉に切腹させられている事。
- 朝廷側の謀略責任者だったと思われる、誠仁親王(さねひと しんのう)が、後に秀吉によって自刃に追い込まれた事。
こんな話が真実味を帯びてくるのは、なんと言っても明智光秀が織田信長父子の遺体を全く発見できなかったことに尽きるようです。なんせ、事件が起こって”遺体が運び出された後だったから、見つからなかった”と考える以外は理由がないようです。
歴史小説家の八切止夫氏の言うように、織田信長は高性能爆薬で吹き飛ばされたというのは、当時のあの大都会京都で、記録として”大爆発音”がしたと言うものが皆無であることから、成立は困難と見ます。
やはり、織田信長父子の遺体は謀略の実行犯に持ち去られた、と考えるのがノーマルだと思われます。
この項と前項③との相違点は、明智光秀が実行犯ではなかったのみならず、織田信長から信任を受けている畿内警備の軍団長であることと、配下に室町幕府奉公衆の武将・官僚たちを多く抱えていることなどが、光秀が冤罪犯のターゲットにされた理由であったと言えそうな事です。前項③の解明版のような感じです。
この説では、はっきりと誰が仕組んだかを特定して考えていることから、分かりやすいのですが、他説と同様にまだ推定の域を出ていないことも併せて考えておく事が必要です。
今のところ、この『光秀冤罪説』・『光秀はハメられた』という説は、歴史作家の八切止夫氏と茶道・日本史研究家の井上慶雪氏などが提唱されています。
まとめ
天正10年(1582年)6月2日に『本能寺の変』を引き起こした明智光秀の、謀叛を起した本当の動機と云うものは、光秀が織田信長に対して強い恨みを抱く「怨恨説」と、光秀も天下を欲しがったと言う「野望説」のふたつが主力となって語られて来ました。
現在の高校の教科書では、”織田信長の独裁的な政治手法が不満を生み、・・・配下の明智光秀に背かれて敗死した”と、明智光秀の動機には直接言及することを避けています。
今回の記事では、光秀が実行犯である「野望説」(光秀は本当に天下を狙ったのか)と、その派生である「制度防衛説」、そしてその他の説である「黒幕説」も通り越して、明智光秀は”実行犯ですらない”と言う「冤罪説」と、同系のさらに実行犯を特定した「光秀はハメられた説」について紹介してみました。
大まかな分け方としては、①明智光秀は謀叛を起したのか?②起こさなかったのか?となりますが、①の場合、前出のような「怨恨説」は、どうも史料的にも決め手がなく、その後の政権か江戸時代の作り話の可能性が高そうです。
それで、「野望説」ですが、これも「怨恨説」と似たり寄ったりで、次の政権である豊臣秀吉の関係者の話が初期に多く出ており、決め手に欠けると言わざるを得ないと思われます。
それで、もし光秀がやったの(実行犯)なら、室町幕府自体を潰そうとする織田信長を倒して「制度防衛」をしようと云う説だと云えそうです。
次に、光秀がやらなかった場合では、実行犯の濡れ衣を着せられたと言う「冤罪説」と、誰にやられたかの仮説を立てた「光秀はハメられた説」となります。
最近、この事件に”朝廷が絡む可能性は低い”と言う説も出始めて来ており、正親町(おおぎまち)帝が本気で「公家一統(くげいっとう)」の政治を進めようと実力行使をしていたことを中心にしている前出の「光秀はハメられた説」などの説は微妙な感じです。
しかし、後醍醐(ごだいご)天皇以後、幕末に至る迄は天皇の実力行使を伴うような政治状況は出現しなかったと言うような思い込みからすると、この一説には「戦国天皇」と言われ、黒子に細川藤孝を使う正親町帝の暗躍は、従来のこの時期の朝廷に対する見方を一変させるもので、なかなか興味深いと言わざるを得ません。
”関与していたとは考えられないですよ”などと言われても、幕末の天皇を巡る公家達の暗躍を見ると、この動乱の戦国期に本来血の気の多い禁裏側近の公家達が、宴会と茶の湯だけやっていたなどとは考えられず、なかなか素直には受け取れないところです。
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参考文献
〇笹山晴生ほか15名『詳説 日本史B 改訂版』(2018年 山川出版社)
〇池上裕子『織田信長』(2012年 吉川弘文館)
〇高柳光寿『明智光秀』(2000年 吉川弘文館)
〇大村由己『惟任退治記』(国立国会図書館デジタルコレクション)
〇竹中重門『豐鑑 巻一 』(国立国会図書館デジタルコレクション)
〇『大武鑑 巻之一 「永禄六年諸役人附」』(国立国会図書館デジタルコレクション)
〇多門院英俊『多門院日記 第三巻 』(国立国会図書館デジタルコレクション)
〇小林正信『明智光秀の乱』(2014年 里文出版)
〇井上慶雪『明智光秀冤罪論』(2005年 叢文社)
〇八切止夫『信長殺し光秀ではない』(2002年 作品社)
〇東京大学史料編纂所『大日本古記録 言経卿記 <一> 』(1959年 岩波書店)
〇金子拓・遠藤珠紀校訂『新訂増補 兼見卿記 第ニ 』(2014年 八木書店)
〇高柳光壽『本能寺の変・山崎の戦』(1958年 春秋社)
〇小林正信『正親町帝時代史論』(2012年 岩田書院))
〇『立入文書』(国立国会図書館デジタルコレクション)