明智光秀と豊臣秀吉の競争を利用して、歴史を動かしたのは誰か?

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本能寺の変(天正10年の政変)』の主役たちの置かれていた立場が分かります。

織田信長正親町天皇の関係の始まりがよく分かります。

正親町天皇の野望が見えます。

細川藤孝の正体が分かります。

 

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明智光秀の『本能寺の変』までの状況は?

永禄11年(1568年)9月の織田信長上洛以来、室町幕府幕臣と、織田信長の臣下の”二足の草鞋”を履いた明智光秀は、出世の機会を狙って、、、

元亀二年辛未正月、岐阜に御出被成候処、今年は山門を亡さむと信長被仰候を御聞不被得ふりにて、御帰被成候、是浅井・朝倉に山門の衆徒与する故也、

(引用:細川護貞監修『綿考輯録  第一巻 巻二 元亀2年正月の条』1988年 出水神社)

大意は、”元亀2年(1571年)の正月に、細川藤孝(ほそかわ ふじたか)公が岐阜へ年始の挨拶へ行った折、信長公より「今年は比叡山を滅ぼそうと思う」との話がありましたが、聞こえないふりをして帰還しました。これは浅井・朝倉勢に比叡山が味方することが理由です。”位の意味です。

この信長の意向を受けて、、、

明智光秀は、この年の7月までに宇佐山城(近江坂本)に入城し、浅井・朝倉軍の南下阻止と比叡山の動きを監視する役目に就きます。

そして、、、

・・・

仰木之事ハ是非共なてきりニ可仕候、頓而可為本意候、・・・

・・・

恐々謹言

(元亀二年)九月二日     明智十兵衛(花押)

和源殿

(引用:「福田達生・福島克彦編『明智光秀』2015年 八木書店」掲載 史料13 明智光秀書状『和田文書』)

 

大意は、”比叡山所領の仰木(おおぎ)攻撃の件は是非とも、敵を皆殺しにしたいものだが、すぐにでも実現するであろう。”位の意味です。

比叡山の入口に位置する宇佐山(うさやま)城の明智光秀から、近隣の雄琴(おごと)城を守る、光秀配下となった和田秀純(わだ ひでずみ)に対しての書状で、文面の他の内容から互いに戦闘の準備に余念のない様子が伺え、光秀は比叡山攻撃への好戦的な態度を丸出しにしています。

この10日後の元亀2年(1571年)9月12日に織田信長による史上有名な『比叡山焼き討ち』が実行されました。

この攻撃の論功行賞で、明智光秀は、信長から比叡山の麓 滋賀郡を与えられ、また将軍足利義昭より上山城の指揮権も与えられ、光秀の勢力は、山城~滋賀へと拡大して行きました。早速、織田信長よりほぼ支配権を与えられた、比叡山周辺の材木・人足などの資材をフルに活用して、宇佐山城に代わる”坂本城”築城を開始します。

織田家中の出世頭と言われている豊臣秀吉は、天正元年(1573年)9月に、”北近江浅井攻め”の論功行賞で旧浅井領を与えられて、初めて長浜城築城を開始していますが、明智光秀はそれより2年も早く、織田家中で初めての”城持ち大名”に出世していました。

この段階で、明智光秀の石高は近江志賀郡・延暦寺山門領に上山城地区の11万石を加えて、合計30万石を越える規模になったと思われ、旧浅井領12万石を拝領した豊臣秀吉、北伊勢の滝川一益(28万石)を抜いて、織田家随一の兵の動員力を備えて来たと考えられます。

その後、天正3年(1575年)5月に織田・徳川連合軍が奥三河長篠で宿敵武田軍の主力を壊滅させると、翌6月より織田信長の丹波攻略が始まり、明智光秀はその先陣として起用されました。

また、先に”中国毛利家への「取次役」”となって出世競争に先行し『筑前守(ちくぜんのかみ)』を拝命していた豊臣秀吉に対して、明智光秀は天正3年7月には他の重臣たちと共に氏姓任官し、”惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)”となって丹波攻略を命じられ、秀吉を抜き返すことになりました。

その後、天正7年(1579年)10月24日に丹波攻略・平定を実現した光秀は、天正8年(1580年)に石山本願寺との和解が成立して気をよくした織田信長より、長年対立していた石山本願寺の大坂退去と同日の8月2日に”丹波国”を論功行賞で与えられました。

ここに来て光秀は、失脚した重臣佐久間信盛(さくま のぶもり)の与力であった大和の筒井順慶(つつい じゅんけい)、さらに丹後の細川藤孝(ほそかわ ふじたか)、摂津の高山重友(たかやま しげとも)・中川清秀(なかがわ きよひで)・池田恒興(いけだ つねおき)なども与力に加えられ、織田家随一の勢力を誇る地位を獲得するに至り、ライバルの豊臣秀吉に大きく水をあけることとなりました。

この時、明智光秀は出世亡者の豊臣秀吉を抑えて、まさに絶頂期を迎えることとなりました。

そして、この天正8年(1580年)の”本願寺との和睦”は、信長と対立している正親町天皇の仲介によるいわゆる『勅命講和』だったのですが、当面の難敵が消滅したこの事件は、織田信長の西国政策を大きく転換させることとなります。

つまり、織田信長の戦いは、従前の”敵対大名との平定戦”から、”大名間の所領紛争への積極介入”へと変化し、この権利を持つ征夷大将軍と同じ権力を行使し始めます。”天下人”への示威行動とでも言うのでしょうか。

具体的には、大名間紛争に『停戦命令』(具体的には、中国停戦命令九州停戦命令四国停戦命令です)を出し始めます。

天正9年(1581年)6月になって、明智光秀が『取次役』を務めていた四国の長曾我部元親(ちょうそかべ もとちか)に対しても織田信長から、”土佐一国と阿波半国の領有は認めるので、三好家との四国征服戦を止めて、侵略した伊予と讃岐から撤退するように”と命令が出ました。

しかし、長曾我部元親は自力で勝ち取った領地は自分の手柄であると主張し、織田信長の命令を拒否します。

困った明智光秀は、天正10年の正月に元親の親戚筋にも当たる家老斎藤利三(さいとう としみつ)実兄の石谷頼辰(いしがい よりとき)を派遣し、元親の説得に当たりますが不調に終わります。

四国の長曾我部元親とは、明智光秀が取次を行なって、織田信長に臣従させ、しかも家老斎藤利三の親戚筋にもあたり、天正8年の半ば以降に大転換した織田信長の方針に、真っ向から逆らう長曾我部に対して主君信長の不興は高まり天正10年(1582年)6月の織田信孝(おだ のぶたか)・丹羽長秀(にわ ながひで)による長曾我部討伐の四国出陣予定が決まり、今まで築いた地位が足元から崩れることとなった明智光秀は、危機一髪の立場に追い詰められて行きました。

 


(画像引用:本能寺跡 ACphoto)

 

豊臣秀吉の『本能寺の変』までの状況は?

前述のように、元亀2年(1571年)の『比叡山焼き討ち』で、ライバル明智光秀に後れをとった豊臣秀吉は、天正元年(1573年)の『浅井攻め』で評価を受け、旧浅井領今浜に”長浜城”を築造して、先行する光秀を追いかけます

豊臣秀吉は、すでに永禄11年(1568年)9月の上洛後、西国へ関心を示す織田信長の意向を受けて、永禄13年から毛利家との『取次』役を勤め始めていました。

今度信長江従元就爲御使、永興寺御上国候、拙子可申次之由候間、執申候、信長別而入魂被申候条、弥向後無御隔心可被仰談事肝要候、我等事、乍若輩相応之儀示預、不可有疎意候、仍雖無見立候、馬一疋飛漕毛令進覧候、自今以後、別而可得御意表事候、猶如閑斎・柳沢新右衛門尉可被申候、恐惶謹言、

(永禄十三年)三月十八日        秀吉(花押)

小早川左衛門佐殿
人々御中

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <一> 19 小早川左衛門佐宛書状』2015年 吉川弘文館)

 

大意は、”この度、毛利元就殿より織田信長公へ使者として、永興寺殿が上洛され、私こと羽柴秀吉が取次を執り行いました。信長公におかれましては、特段に親しくするように申し付けられましたので、今後は遠慮なく御申しつけいただくことが重要かと考えています。私は若輩者ではありますが、礼儀は心得ており、異心なく務めて行きます。そんなことで、見立てはどうかわかりませんが、名馬一頭を進呈させていただきます。以後もお考えに沿えますようにやって行きます。なお、閑斎殿・柳沢元政殿にもよろしく。

(永禄13年)3月18日      秀吉花押

小早川隆景殿
御家中様   ”位の意味です。

以後、信長の中国政策の要である毛利家との取次役として、この方面の窓口責任者として活躍して行くこととなります。

豊臣秀吉が正式に播磨の姫路へ進駐したのは、、、

回顧すれば天正三年七月、官兵衛岐阜に赴きて、信長に中國征伐の議進めしも、當時信長は、北陸・近畿の形勢に掣肘せられて、容易に手を中國に降すことを得ざりしが、其の後上杉謙信は征途に於て死去し、又根来・雑賀も漸く降伏したれば、信長終に中國征伐に着手することを得たり、是れ實に天正五年九月にして、官兵衛が岐阜に於て、中國征伐の議を上りしより、茲に二年の星霜を経過したり、漸く信長が遅々として、出征決せざるに依り、・・・

(引用:金子堅太郎『黒田如水伝 第二章 官兵衛と秀吉の中國下向の条』国立国会図書館デジタルコレクション)

とあり、織田信長は、岐阜城迄出兵要請をして来た播磨の小寺家家老黒田官兵衛に播磨出兵を約束し、豊臣秀吉を中国方面軍司令官に任命しながらも、反織田勢力との戦況悪化により実現が遅れていたが、前掲史料にあるように戦況の好転(但し実際の上杉謙信の死は天正6年3月の事)とともに、やっと天正5年になって”中國征伐”が始まったことが分かります。

豊臣秀吉は、有名な「柴田勝家に与力した越前の陣からの無断帰国事件」の、主君信長の勘気が晴れて解けての天正5年(1577年)10月23日からの播磨出陣となりました。

その後、先行した丹波攻略に手間取る明智光秀を尻目に豊臣秀吉は、一気に天正5年の年末までに但馬・播磨の平定を完了し、意気揚々と安土へ報告に向かいます。

ところが、豊臣秀吉が安土から播磨姫路へ戻った翌天正6年(1578年)早々の2月23日に、一旦は織田方へ帰順した三木の別所長治(べっしょ ながはる)が反旗を翻して毛利方についてしまい、それに同調して播磨の地侍たちも一斉に毛利方に寝返り、11月には摂津の荒木村重が織田家に反旗を翻し、豊臣秀吉の中国戦線は苦境に陥ります。

これらは、強敵本願寺を援助・呼応する毛利軍の調略に応じた動きで、織田信長は全力を挙げて織田全軍の戦いとしてこの動きに対応を始めます。

しかし、三木城の別所長治の籠城は長引き、三木城の開城は謀反の荒木村重(あらき むらしげ)の有岡城が天正7年(1579年)11月19日に開城された後の、天正8年(1580年)1月17日まで掛かる事となりました。

その間、天正7年(1579年)10月24日に、明智光秀は織田信長に”丹波・丹後平定”の報告を行ない、豊臣秀吉は再び明智光秀に先んじられました。

そして、天正8年(1580年)閏3月5日、織田信長は不本意ながらも正親町(おおぎまち)天皇の力を借りて、本願寺法主顕如(けんにょ)上人との間で『勅命講和』に漕ぎつけ、ここに元亀元年以来10年にも及ぶ”本願寺との戦い”が終息を迎えました。

天正7年に宇喜多嫌いと言われる信長の不興を買いながらも、備前の宇喜多直家(うきた なおいえ)の調略に成功した秀吉は、武力で毛利を攻めるべく鳥取城攻めを行うなど積極的に攻略を進めていました。

しかし織田信長は、天正8年の”本願寺との講和”が成立して畿内の抵抗勢力を一掃すると、毛利との和睦の道を好戦的な豊臣秀吉の頭越しで始めます

それは、歴史研究家の山本浩樹氏の研究により、この時期に織田信長が、”丹羽長秀・武井夕庵、明智光秀などを使って毛利との和平交渉を試みた”と言う安国寺恵瓊の書簡から、織田信長から豊臣秀吉が”毛利戦の進め方”に疑問を持たれていたことが判明しています。

この秀吉飛ばしの対毛利との直接交渉は、上月城の攻防戦と別所長治への交渉の不手際が影響して、秀吉に対毛利戦を任せていることに織田信長が不安を持ち始めていた証拠とも言えそうです。

とは云うものの、織田軍内の駒不足からか、豊臣秀吉の処世術の巧さからか、結局織田信長は天正10年(1582年)6月の運命の中国出陣を決めることとなるのですが、天正9年から10年にかけて、秀吉も相当に織田家内での出世競争で追い詰められていた状況だったと言えそうです。

 

細川藤孝の『本能寺の変』までの状況は?

細川藤孝は、細川家記の『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』によれば、、、

一、天文三年甲午、御誕生、三淵伊賀守晴員主之御二男、実ハ将軍義晴公御胤、御母正三位少納言清原宣賢卿之御女也、

(中略)

一、天文七年戊戌六月、五歳にして初て公方義晴公ニ被謁候、此時細川播磨守元常君之御養子たるへき旨台命を被蒙候、

(以下略)

(引用:細川護貞監修『綿考輯録 第一巻』1988年 出水神社)

大意は、”細川藤孝は、天文3年(1534年)に、三淵晴員(みつぶち はるかず)の二男、実は12代将軍足利義晴(あしかが よしはる)の御落胤(ごらくいん)で、母は、大外記清原宜賢(おおげき きよはらののぶかた)の娘である。

天文7年(1538年)6月、5歳の時、将軍義晴に御目見得(おめみえ)し、守護大名で勝竜寺城主細川元常(ほそかわ もとつね)の養子になるように命令が下された。”位の意味です。

つまり、細川藤孝は、第13代将軍家足利義輝の腹違いの兄弟であり、母は世襲の大外記(おおげきー朝廷で太政官の書記官の長官職)清原家の娘で、5歳の時、父の将軍義晴に”守護大名細川家の養子になるように言い渡された”と言います。

細川藤孝は、将軍足利家と宮廷学者の血筋を引いた人物であることが述べられています。

父方が足利将軍家の血筋、母方が大外記清原家(学者一族)の血筋と守護大名細川家の一員と云う名流出身の細川藤孝は、有力な室町幕府奉公衆となり、しかも時の将軍家の兄弟という立場から、13代将軍足利義輝の側近として活躍します。

永禄六年諸役人附

永禄六年五月日

(13代将軍足利義輝関係)

御供衆

・・・
細川兵部大輔藤孝

・・・

(15代将軍足利義昭関係)

御供衆

・・・
細川兵部大輔藤孝
・・・

足軽
・・・
明智

奈良御供衆

・・・
米田源三郎
・・・

(引用:『大武鑑 巻之一 「永禄六年諸役人附」』国立国会図書館デジタルコレクション)

前掲『永禄六年諸役人附』にあるように、細川藤孝は、第13代義輝・第15代義昭の超側近である”御供衆(おともしゅう)”と呼ばれるVIPの立場の人物であった事が確認出来ます。

第15代将軍義昭関係で、序列は上から「御供衆」⇒「御部屋衆(おへやしゅう)」⇒「申次(もうしつぎ)」⇒「御番衆(ごばんしゅう)一~五」⇒「奉行衆」⇒「足軽衆」と身分順に将軍直属メンバーの名簿が続き、最後の「足軽衆」のその最後尾に”明智”とあり、これが”明智光秀”だとされています

所謂”幕府奉公衆”と言われる直属武家集団の最後尾に明智光秀が加えられたらしいと言うことが分かります。

しかし先の将軍第13代義輝の名簿には名前が見当たらない事から、明智光秀という人物は第13代将軍足利義輝暗殺事件後に、奈良興福寺一乗院から覚慶(足利義昭)を脱出させた細川藤孝の一味に加わった人物で、その功績により名簿上は義昭の奉公衆の末席に列せられたものの、名字だけしか記録されないような扱いで、従前は取るに足らない者だったのではないかと想像されるところです。

さて、細川藤孝の話に戻ります、、、

細川藤孝は、将軍家の側近中の側近として、一貫して織田信長への働きかけを担当しており、残る織田信長との書簡のやり取りからも、足利義昭を奉戴しての織田信長の上洛は細川藤孝の功績であることが明らかで、明智光秀が取り次いで実現した話と言うのはほぼ講談話・作り話だったのではないかと思われます。

 

・・・

(天正八年)三月十八日、叙従四位下侍従ニ被仕候、

・・・

(引用:細川護貞監修『綿考輯録 第一巻 127頁』1988年 出水神社)

大意は、”天正8年(1580年)3月18日に、従四位下侍従に任官した。”位の意味です。

もともと細川藤孝は「従五位下兵部大輔(じゅごいげ ひょうぶだいふ)」と官位官職名を持っていますので、この叙任も定例の年功序列の昇格くらいに思い簡単に見過ごしてしまいそうですが、今回は「従四位下侍従(じゅしいげ じじゅう)」とあり、官職名が『侍従(じじゅう)』となっていて、実は細川藤孝が正式に正親町天皇の側近となったことを示しています。

細川藤孝は、天正元年(1573年)の第15代将軍足利義昭の京都追放(出奔)以来、足利義昭を見限り織田信長の配下に付いていますが、明智光秀が当初義昭と信長の二君に仕えたように、細川藤孝は義昭と正親町天皇の二君に仕えていたと考えられます。

明智光秀が足利義昭を見限ったように、細川藤孝も同様に義昭を見限ったようですが、光秀がもう一人の主君織田信長に入れあげて織田家重臣として出世して行く中、藤孝は信長の命令に従いつつも正親町天皇との距離をつめていたようで、その結果としての『侍従』昇格であり天皇側近としての地位を固めていたのではないかと考えられます。

織田信長は当然そのことを知りつつも、藤孝の息子忠興が武将として十分信長の期待に応えていることもあり、正親町天皇の取り扱いに手を焼いている状況の中、朝廷対策において細川藤孝の使い道があることを考えて、奨励していたか黙認していたかのどちらかであろうと思われます。

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織田信長の正親町天皇との『本能寺の変』までの状況は?

正親町(おおぎまち)天皇は、弘治3年(1557年)後奈良(ごなら)天皇の崩御を受けて践祚(せんそ)したものの、朝廷が貧窮していて”即位の礼”の費用がなく、安芸の大名毛利元就(もうり もとなり)の献納を受けて、永禄3年(1560年)なってやっと「即位の礼」を挙げることが出来ました。、

そんな事から正親町帝は、朝廷の置かれた惨めな状況を打開するために、政権を朝廷の手に取り戻す『公家一統』の御代を再現する事を生涯の目標とした人物でした。

その為、正親町帝が「即位の礼」を挙行した永禄3年(1560年)に、駿遠三の太守今川義元(いまがわ よしもと)を鮮やかに討ち取った名もなき尾張の青年武将”織田信長”の事は、”頼りになる武将”或は”利用価値のある武将”として正親町帝に強く印象づけられ記憶されたようです。

つまり、その頃”京都の政界を壟断(ろうだん)する三好一族と室町幕府ら武家政治家”に、幼き頃より激しい怒りを抱く正親町帝は、それらを一掃して自分の理想とする『公家一統(くげいっとう)』実現に協力してくれる頼もしい武家として、”織田信長”に一抹の期待を持ったものと考えられます。

そしてその初めは、、、

 

今度國々屬本意由、尤武勇之長上、天道之感應、古今無双之名將、彌可被乘勝之□爲勿論、就中兩國御料□□被出御目錄之條、嚴重被申付者、可爲神妙旨、綸命如此、悉之以狀、

永祿十年十一月九日                 右中辯(花押)晴豊

 

(引用:『立入文書 十九 永祿十年十一月正親町天皇の綸旨案』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”この度、国々(尾張・美濃)を平定させたことは、まことに(織田信長殿は)武勇のお人であり、天も感じ入った古今無双の名将であられます。ますます勝ちに乗じられることは勿論の事、とりわけ、武家に横領されている両国(尾張・美濃)にある天皇の御料所回復など、目録にある条項を確実に実行されるなら、誠に神妙な事であります。天皇のご命令はこのようなことであります。

永禄10年(1567年)11月9日                  右中弁(花押) 勧修寺晴豊  ”位の意味です。

これは、”決勝綸旨(けっしょうりんじ)”と言われる”上洛要請とそれに伴う武力行使の許可証”のような天皇の命令書(御墨付き)です

ここにある”目録の条”と言うのは、、、

  1. 天皇行事(即位礼など)に対する資金援助
  2. 長年武家に横領されたままになっている天皇のご料所の回復
  3. 御所の修理

などであったようです。

織田信長は、この綸旨に対して、、、

綸旨・女房御奉書、殊紅衫被下候、則致頂戴、忝事不斜候、随而被仰出条々、先以意得奉存候、旁従是可致言上候、恐惶敬白、

(永禄十年)十二月五日      信長(朱印)

万里小路大納言殿
人々御中

(引用:奥野高廣『増訂 織田信長文書の研究 補遺117 万里小路惟房宛朱印状』1994年 吉川弘文館)

大意は、”天皇綸旨・女房奉書、特に紅衫(赤色の単衣の肌着)を下されたこと、まことにありがたく思いました。従いまして、綸旨による御下命条項の主旨を理解して、仰せに従って実行させていただきます、

永禄10年(1567年)12月5日       織田信長(朱印)

万里小路(までのこうじ)大納言殿
御家中様 ”  位の意味です。

このように返書を出した織田信長は、この”決勝綸旨”が”天皇からの上洛命令”であり、足利義昭を奉戴しての上洛戦に天皇の許可が下りたと理解し、翌永禄11年9月の上洛を決意したと思われます。

このように、永禄11年(1568年)までの正親町天皇と織田信長の関係は、表面上、誠に上手く行っていたと言っても良いようです。

そして、信長上洛に当り、、、

入洛之由既達叡聞、就其京都之儀、諸勢無乱逆之様可被加下知、於禁中陣下者、可令召進警固之旨、依天気執達如件、

(永禄十一年)九月十四日      左中弁経元

織田弾正忠殿

(引用:奥野高廣『増訂 織田信長文書の研究 上巻 151頁』1994年 吉川弘文館)

大意は、”織田信長の上洛の件は、既に主上のお耳に届いております。京都に関して、上洛軍が市中で狼藉をしないように命じることと、御所の警護に万全を期すことを主上の命により通知します。

永禄11年(1568年)9月14日     甘露寺経元(かんろじ つねもと)

織田信長殿 ”  位の意味です。

先に出した『決勝綸旨』の上洛要請に対し、天皇の命に従って上洛して来る信長に対して、上洛後の都での振る舞いに関して、前述のような指示までしている正親町天皇にとって、織田信長は思い通りに動いてくれる待ち望んでいた頼もしい武将に思えていたに違いありません。

室町時代を通じて、天皇家・朝廷は物質的にも政治的にも疲弊を極め、そんな境遇で育った正親町天皇は、弘治3年(1557年)に40歳で即位するとともに動き出します。

そんな経緯で、正親町天皇は父君の後奈良天皇の治世期以前とは大きく違う考え方に立ち、鎌倉末期の後醍醐天皇の失敗を教訓に、巧みに政治介入を行なっていたと考えられます。

簡単に言えば、『王政復古』による『天皇親政』の実現と言う事になりますが、過去の醍醐天皇の失敗を教訓にと言うことで、あくまで政局の表面に出て目立つようなことをせず、あくまでも裏で黒幕として動くと言うやり方となります。

その一環として正親町帝は、「朝儀再興(ちょうぎさいこう)」の機運を高め、朝廷儀式の復興、裁判・調停などの政務についても朝廷が独自にその役割を果たす様になって、信長自身もその役割を利用する事もあり、ますます正親町帝の存在感が増して行く状況下にありました。

こうした事から、独自の判断を示す朝廷(正親町帝)は、天下をほぼ手中にしている織田信長にとってその存在が懸念材料となりつつあり、足利義昭が京都退去した後の天正元年(1570年)には、早くも正親町天皇へ”譲位”の話を持ち掛けているようです。

つまり、織田信長が譲位要求をし始めた理由と言うのは、王政復古して失った政権の失地回復を図ろうと、存在感を高めつつある正親町帝の影響力排除の為だったと思われます。

後釜は、信長が手なずけた正親町帝の子息である誠仁親王(さねひとしんのう)を次期天皇に起てるつもりでした。

その”譲位要求”に屈せず粘る正親町帝に対して、しびれを切らした織田信長は、京都の自邸用に建設を進めていた二条の屋敷を誠仁親王へ献上し、これを正親町帝の「上御所」に対して、「下御所」と称して実質的に天皇の政務に当らせると言う実力行使に出ました。

天正10年(1582年)3月の武田勝頼滅亡後は天下人織田信長が忠実なる臣下ではなく、”天皇の尊厳”をも犯しかねない不敬の輩であると、実力戦国天皇の正親町帝に考えさせ始めていたとも言えそうな状況を迎えていました。

 

歴史を動かしたのは誰か?

周知の通り、天正10年(1582年)6月2日払暁に惹起した『本能寺の変』により、中世を終わらせ近世の扉を開いたと言われる天下人織田信長が暗殺されました。

まさに一瞬にして”織田信長の政権”が崩壊すると言う、歴史が動いた前代未聞の大事件でした。

この歴史的大事件の下手人は織田家重臣の”明智光秀(あけち みつひで)”と言われています。その動機に関しては諸説あり、黒幕の存在もささやかれ、未だ事件の真相に関する定説は固まっていません。

俗説に、諸国遍歴をした明智光秀が放浪の末に越前の朝倉氏に職を得て、一乗谷にいたところ、丁度朝倉氏に身を寄せていた足利義昭(あしかが よしあき)の知遇を得て、上洛の大義を求めていた織田信長へ話を繋ぎ、足利義昭と織田信長の上洛に功績があったと言うのがあります。

しかし、将軍義輝の異母弟で出家していた足利義昭を、将軍義輝を弑逆した当の松永久秀(まつなが ひさひで)と交渉して奈良興福寺一乗院から脱出させ、将軍に就けるべく活動をしていたのは、前述したとおり前将軍義輝側近御供衆(おともしゅう)であった細川藤孝(ほそかわ ふじたか)でした。藤孝は、義昭を奉戴して上洛できる実力のある大名として織田信長への接触を続け、信長上洛を成功させた立役者です。

前出の公式記録『永禄六年諸役人附』によると、細川藤孝が前将軍に引き続き、足利義昭になっても引き続き側近の”御供衆”であるのに対して、明智光秀はやっと”足軽”の末席に加わっていることが認められるのみです。

いくら浪々の身とは言え、仮にも将軍候補の足利義昭ですから、経緯から言っても残っている記録からも、織田信長との交渉を詰めて行ったのは、明智光秀ではなくて、義昭側近の細川藤孝であったことは間違いないところでしょう。

細川藤孝は、”従五位下兵部大輔”と言う朝廷での官位官職を持っており、室町幕府で将軍御供衆と言う側近の顔と、家系から朝廷の学者一族(大外記清原家)の一員でもあり、天皇に仕える身でもありました。

そして、前章にあるように織田信長が天正8(1580年)年3月に宿敵本願寺と天皇の仲介による『勅命講和』を結び、畿内での覇権を確立した頃の天正8年3月18日に、細川藤孝は”従四位下侍従”へ叙任任官しています。

つまり細川藤孝は、織田信長の地位が固まり始めたのを見て、完全に室町幕府将軍側近から正親町帝の側近へ方向転換したものと考えられます。今度は、表面上 織田家に臣従しながら、実は正親町帝の側近になると言う処世術のようです。

ところで、細川藤孝は、永禄8年(1565年)5月19日の『室町御所での将軍足利義輝弑逆事件』と、永禄12年(1569年)1月5日の『京都本圀寺への将軍義昭襲撃事件』では、将軍側近の身でありながら何故かその時には、細川藤孝は将軍と共におらず姿を消しているのです。

どちらの事件も正親町天皇が将軍家の暗殺を狙った可能性を否定出来ず、対象はどちらも天皇親政を邪魔立てする”武家の将軍家”なのです。これらは、正親町帝の意を受けたプロデューサーが、細川藤孝であったとすると、彼が毎回姿を消している理由が判然とする訳です。

こう考えると、正親町帝の意に添わぬ方向へ行く事が明確になった”天下人織田信長”の弑逆を狙う3度目の武家将軍暗殺として、『本能寺の変』が正親町帝の意を受けた細川藤孝によって企画された可能性は、あるのではないかと思われます。

もしそうであるなら、『細川藤孝』は、この時期の歴史を動かしていたとも言えるのではないでしょうか。

 

まとめ

百姓にこき使われるような最下層の階級から、知恵と才覚をフルに使って必死に這い上がって来た天文6年(1537年)生れの豊臣秀吉と、名族土岐氏につながる城持ち国衆の家に享禄元年(1528年ー諸説有)?に生まれながらも、実家の没落とともに一介の牢人となり、急成長する織田信長に見出された明智光秀が、織田家内で出世を争います。

豊臣秀吉・明智光秀は、ともに出自に不明な点が多く、よく分かっていないのが実情ですが、急成長を遂げる織田家の中にあって、永禄11年(1568年)の織田信長上洛後では家中でほぼ2強と言っても良いほど有力者となります。

また、織田信長もこの二人の知力と忠誠に支えられて「天下人」への階段を上って行ったと言っても過言ではないでしょう。

一方、細川藤孝は、幕府側の人間・将軍の側近(室町幕府の高級官僚)として、もっぱら織田信長との交渉役を行なって来た人物ですが、折角苦労して将軍の座につけた足利義昭が、全く不出来の人物であり、天正元年(1573年)に信長とのトラブルがこじれて義昭が「京都からの追放(出奔?)」されると、幕府を見放し信長から誘われて織田家家臣となります

又、裏で正親町帝の側近としても働き始め、織田信長が石山本願寺との間で、天正8年「勅令講和」を結び、事実上畿内を平定すると、「従四位下侍従」に任官し天皇の側近と云う立場をより鮮明にします。

以後ますます悪化する織田信長と正親町天皇の関係のなかで、細川藤孝は正親町帝の目標である武家政治を排し天皇親政とする、”『公家一統』の仕掛けづくり”を行なうこととなります。

天正元年の「将軍足利義昭の京都追放」の時期に、毛利の外交僧安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)が、織田家の毛利家取次(とりつぎ)役であった豊臣秀吉と接触している頃の本国への安国寺の書状に、、、

・・・、

信長之代五年三年者可被持候、明年邊者公家なとに可被成候ろと見及申候、左候て後、高ころひにあおのけにころはれ候へると見え申候、藤吉郎さりとてはの者ニて候、・・・

(天正元年)十二月十二日   恵瓊花押

山縣越前守殿
井上又右衛門尉殿

(引用:『大日本古文書 家わけ九ノ一 吉川家文書之一 545~549頁 610安国寺恵瓊自筆書状』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”織田信長の世は3年や5年は保つし、来年は公家の位階を得もしようが、しかし、派手派手しくあおむけにひっくりかえるように見えます。そして豊臣秀吉はなかなかできる人物ではないかと考えております、”位の意味です。

この後に、毛利家は織田信長と対立してゆくことになりますが、すでにこの時期に安国寺恵瓊は、朝廷・正親町帝との不和が織田信長の致命傷になる可能性があることを見抜いていたようです。

織田信長は、豊臣秀吉・滝川一益と同様に小者・よそ者から一気に重臣に出世させた明智光秀と云う人物の安全弁に、室町幕府・朝廷関係に顔が広く実直そうな細川藤孝と姻戚関係を命じて作らせましたが、これを”正親町帝ー細川藤孝”に悪用されてしまった訳です。

つまり、織田信長は正親町帝の側近で一番の謀臣の、信長にとって獅子身中の虫である細川藤孝に、明智光秀の持つ畿内の軍事力を渡してしまったこととなり、これが命取りになってしまったようです。

譲位をさせねばならぬほど、織田信長にとって正親町天皇はやっかいな存在であり、対する正親町天皇も意のままにならぬ信長を”更迭(暗殺)”しようとしていたという事になります。

こうして、正親町帝の側近細川藤孝プロデュースによる複雑な手口を使ったこの織田信長の暗殺は、正親町帝による”帝のクーデター・上意討ち”であった可能性もあり、もしそうだとすると、細川藤孝の描いたシナリオは見事に実行されたことになります。しかしその後、駒に使ったはずの豊臣秀吉が、帝の思い通りに動かなかったのが誤算だったと言えるかもしれません。

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参考文献

〇細川護貞監修『綿考輯録  第一巻 』(1988年 出水神社)

〇橋場日月『明智光秀 残虐と謀略』(2018年 祥伝社新書)

〇小林正信『明智光秀の乱』(2014年 里文出版)

〇藤田達生・福島克彦編『明智光秀』(2015年 八木書店)

〇名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <一>』(2015年 吉川弘文館)

〇高柳光寿『明智光秀』(2000年 吉川弘文館)

〇川岡勉・古賀信幸編『西国の権力と戦乱』(2010年 清文堂出版)

〇田中義成『豊臣時代史』(1980年 講談社学術文庫)

金子堅太郎『黒田如水伝』(国立国会図書館デジタルコレクション)

『大武鑑 巻之一 「永禄六年諸役人附」』(国立国会図書館デジタルコレクション)
〇奥野高廣『増訂 織田信長文書の研究 上巻』(1994年 吉川弘文館)

〇小林正信『正親町帝時代史論』(2012年 岩田書院)

『立入文書』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇奥野高廣『増訂 織田信長文書の研究 補遺・索引』(1994年 吉川弘文館)

〇谷口克広『織田信長の外交』(2015年 祥伝社新書)

〇日本史史料研究会編『信長研究の最前線』(2014年 洋泉社)

〇日本史史料研究会監修/渡邊大門編『野分が研究の最前線②』(2017年 洋泉社)

『大日本古文書 家わけ九ノ一 吉川家文書之一 』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇今谷明『戦国大名と天皇』(2001年 講談社学術文庫)

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