『本能寺の変』で、明智光秀と家康はグルだった!ホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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徳川家康の『伊賀越え』成功の裏には、明智光秀との密約はあったの?

織田信長は、その時、家康討伐命令を出していた?

家康は、なぜ明智光秀に関係する女性を家光の乳母にしたの?

明智光秀は本当に”怪僧天海”と同一人物なの?

 

徳川家康の奇跡の脱出『伊賀越え』の成功は、明智光秀との密約があったの?

この天正10年(1582年)6月2日払暁に勃発した政変『本能寺の変』の騒ぎに、巻き込まれた徳川家康の『神君伊賀越え』に関して、有名な幕臣大久保彦左衛門(おおくぼ ひこざえもん)が書いた『三河物語』では、、、

明智日向守は信長がとり立てた者で、丹波をあたえられていたが、きゅうに裏切って、丹波より夜襲をかけ、本能寺へ押しよせ、信長に腹を切らせた。

信長も表にでて「城介の裏切りか」とおっしゃると、森お蘭が「明智の裏切りのようでございます」と申す。「うん、明智の変心か」とおっしゃっているところに、明智の配下の者に、一槍つかれると、奥に引っ込まれた。お蘭は突き戦って、またとない働きをして戦死をし、おともする。館に火を放って、信長は焼け死んだ。・・・。

信長に腹を切らせた明智は、また城介殿の館へ押しよせた。織田九右衛門尉、福富をはじめとし、これはという者どもが百余名こもっていたので、城介殿の館では火花をちらして戦いが行われた。城介殿をはじめ、ほとんどが戦死をとげた。・・・・。

家康はこのことを堺でお聞きになり、もはや都へ行くことはならず、伊賀の国を通って引きあげた。

そのおり、信長がかつて、伊賀の国を攻めとられたとき、みな殺しにして、諸国へ逃げた者も、つかまえて殺したが、三河へ落ちて家康をたのんだ人びとを、家康はひとりも殺すことなく、生活の世話をなさったが、国に討ちもらされていた者が、そのときのことをありがたく思っていて、「こんなときにご恩をお返ししなくては」と家康をお送りした。

・・・

(引用:大久保彦左衛門原著・小林賢章訳『三河物語<下> 63~64頁』2002年 ニュートンプレイス)

とあり、これが大筋「通説」となっているようです。

つまり、「武田攻め」戦勝の論功行賞で、織田信長から安土城へ招かれた徳川家康一行が、折からの織田家重臣明智光秀のクーデター(本能寺の変)に巻き込まれ、出先の堺から命からがら岡崎へ生還出来た最大のポイントは、前年天正9年(1581年)9月の”織田信長伊賀攻め”の折に、信長が皆殺し作戦をとっている最中、家康が三河へ逃げて来た伊賀衆を保護したことの恩返しで、今度は危険な伊賀路での逃避行を”伊賀の地侍たち”が援護して助けてくれたことだと云います。

徳川幕府公認の通説は、言わば”徳川家康の人徳”のおかげで、徳川家康一行は畿内から無事三河へ生還出来たと言っています。

一方、異説では、、、

 

  1. 2017年のNHK大河ドラマ『おんな城主ー直虎』であったように、明智光秀から信長の家康抹殺計画をささやかれて、疑心暗鬼となった徳川家康は光秀クーデターの片棒を担いだ
  2. 織田信長父子と徳川家康は同時に抹殺する予定になっていたが、家康担当であった盟友細川藤孝(ほそかわ ふじたか)が光秀を裏切り、家康討伐をせずに丹後宮津へ帰城して、家康の逃亡を許してしまった
  3. 明智光秀は味方するはずの近江国勢多城主山岡景隆・景友(やまおか かげたか・かげとも)兄弟に裏切られ、結果安土城へ通じる勢多の唐橋を焼亡させられてしまって、クーデターの初動行動で大きくつまづく事となり、尚且つ甲賀山中城へ退去した山岡軍が、光秀の重要な標的であった徳川家康を支援し、伊勢への脱出に協力した

 

等々ありますが、この中で本記事のテーマにもなっています”明智光秀と徳川家康の密約説(最初からグルだった)はあったのか?”に関しては、1.のNHK大河ドラマ『おんな城主ー直虎』の説が近いようです。

これに関しては、軍勢も連れずに武装もしない、言わば”丸腰”の姿で、しかもわずか40~50人の幹部クラスだけ連れて安土城へ向かうなど、いくら盟友織田信長からの誘いだったとは言え、戦国の常識からすれば正気の沙汰ではない徳川家康の行動から、明智光秀から要請のあった織田信長をおびき出す企みに乗ったのではないかと云う話です。

傍証としては、、、

 

七日、癸巳、かりや水野宗兵へ殿、京都にてうち死候由候、

八日、甲午、小田七兵衛、去五日ニ大坂にて、三七殿御成敗之由候、

九日、乙未、雨降、西陣少延候由申來候、水惣兵へ殿事、京都ニかくれ候て、かいり候由候、

(引用:続史料大成刊行会『家忠日記 <一> 天正10年6月の条』1967年 臨川書店)

大意は、”天正10年(1582年)6月7日、西三河刈屋城主水野惣兵衛(みずの そうべえ)殿が京都の『本能寺の変』にて討死したと言う。

6月8日、津田信澄(つだ のぶずみ)が、去る5日に大坂城にて、織田信孝(おだ のぶたか)殿に成敗されたと言う。

6月9日、雨天、上洛する軍の出陣は少し延期になったと御沙汰があった。討死したとの噂の水野惣兵衛殿が京都で隠れていて難を逃れ帰国したと言う。”位の意味です。

この水野惣兵衛なる人物は、徳川家康の叔父にあたり、先年武田勝頼(たけだ かつより)方へ内通したとして信長の命令で成敗された水野信元(みずの のぶもと)の弟になります。この時は、信長の嫡男織田信忠(おだ のぶただ)に随行して二条城で明智軍と交戦したと見られて、討ち死にしたとの情報が入っていました。

つまり、4日には岡崎へ帰還していた徳川家康一行に、7日になって、織田信忠軍に随行して『本能寺の変』で遭難討死との情報が流れていた水野惣兵衛が、9日に奇跡的に岡崎へ生還して来たと言う話です。

これは、あの明智光秀軍1万3千名の包囲殲滅攻撃で織田方は全滅しており、まともな武将で生き残っている人物はおらず、西三河刈屋の城将で徳川家康の叔父にあたる水野惣兵衛が生き残っているのは、『本能寺の変』が明智光秀ー徳川家康の共同謀議である以外には考えられないと言うことです。

もうひとつ徳川家康が織田方(豊臣秀吉)から疑われていることに、『伊賀越え』から岡崎に帰還以後の家康の動きがあります。。。

 

十三日、己亥、雨降、岡崎迄越候、城へ出候、

十四日、庚子、鳴海迄越候、

十五日、辛丑、雨降、旗本へ出候、明知ヲ京都にて、三七殿、筑前、五郎左、池田紀伊守うちとり候よし、伊勢かんへより注進候、

十六日、壬寅、雨降、明十一日ニ津嶋へ陣替可有由申來候、

十七日、癸卯、酒左手寄衆計津嶋へ陣替候、

十八日、甲辰、

十九日、乙巳、羽柴筑前所より、上方一篇ニ候間、早々歸陣候への由申來候て、津嶋より鳴海迄歸候、

(引用:続史料大成刊行会『家忠日記 <一> 天正10年6月の条』1967年 臨川書店)

大意は、”13日、雨天、岡崎迄来て城へ出仕する、

14日、鳴海迄出陣す、

15日、雨天、本陣へ行くと、明智光秀は京都で、神戸(織田)信孝、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興に討ち取られたと伊勢の神戸家より連絡があった。

16日、雨天、明日11日(17日の間違えか)に津島まで進出させよと(家康から)連絡が来た。

17日、酒井忠次の軍が津島まで進出した

19日、羽柴筑前守より、畿内の大勢は決まったので、早々に軍を退いて帰還するように言って来たので、津島から鳴海迄戻った。”位の意味です。

つまり、6月15日に徳川家康は、鳴海で、明智光秀が討ち取られた事を知った後も、お構いなしに6月17日には、更に20キロも先の津島まで進軍し続け、慌てた豊臣秀吉から織田家としての帰還命令を出され、やむなく鳴海迄軍を戻しています。

この時点では、徳川家康の動きは織田家に加勢する”明智光秀討伐の軍事行動”ではなくて、この騒ぎに自分も軍を進めて混乱に介入しようとしたか、明智軍と同調していたかと疑われるような行動をしていた可能性があることが分かります。

一説には、実はこの時点で岐阜周辺まで軍を進めていた豊臣秀吉と、徳川家康が清須城で会談して和解し、畿内の織田家内の紛争に今後介入しない事を条件に、西から軍を退いて東へ転じ関東の旧武田領(織田領)へ進軍を始めたのではないかと言う穿った見方すらあります。

事実この時点で、もし精強の徳川軍と衝突すれば、豊臣秀吉としても、10日後の6月27日に織田家重臣が集まって開催された「清須会議」を、史実のように有利に取り仕切れたかどうか難しいところだったのです。

こんな状況だったので、”実は『本能寺の変』を起した明智光秀と徳川家康の密約が、事前にあったのではないか”と疑われている異説がある訳です。

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(画像引用:明智光秀銅像 ACphoto)

織田信長から明智光秀へ下されたと言う「徳川家康討伐命令」はあったの?

天正10年(1582年)2月、織田信長武田征伐に関して、決着をつける為に自身で乗込むつもりでしたが、先ず嫡男の織田信忠に先陣を任せる段取りを採りました。。。

 

二月九日、信長信濃国ニ至而可被成御動座付て、

条々 御書出

一、信長出馬に付てハ、大和人数出張之儀、筒井召列可罷立之条、内々其用意可然候、但高野手寄之輩少相残、吉野口可警固之旨、可申付之事、

・・・

一、摂津国、父勝三郎留主居候て、両人子共人数にて可出陣事、

一、中川瀬兵衛尉、可出陣事、

一、多田、可出陣事、

一、上山城衆、出陣之用意無由断可仕之事、

・・・

一、永岡兵部大輔之儀、与一郎兄弟・一色五郎罷立、父彼国に可警固事、

一、惟任日向守、可出陣用意事、

右遠陣之儀候条、人数すくなく召連、在陣中兵粮つヽき候様にあてかい簡要候、但、人数多く候様に戒力次第、可抽粉骨候者也、

二月九日          御朱印

 

(引用:奥野高廣『織田信長文書の研究 <下> 967 条々写』1994年 吉川弘文館)

 

大意は、”2月9日、信濃出陣に関して、

一、信長出陣について、大和衆は、筒井順慶(つつい じゅんけい)が引率して出陣するように内々で用意せよ。但し高野方面の諸将は少し残り吉野口の警護をせよ。

・・・

一、摂津の国は、池田恒興(いけだ つねおき)が留守番をして、子供の元助・輝政(もとすけ・てるまさ)が軍を率いて出陣せよ。

一、茨木の中川清秀(なかがわ きよひで)は出陣せよ。

一、多田方面の塩川勘十郎(しおかわ かんじゅうろう)等も出陣せよ。

一、上山城の諸将は、出陣の用意を油断なくしておくこと。

・・・

一、細川藤孝(ほそかわ ふじたか)については、子供の忠興(ただおき)兄弟および一色義春(いっしき よしほる)は出陣し、細川藤孝は留守番をせよ。

一、明智光秀は出陣せよ。

以上は遠征なので、人数は最小限にして糧食は賄えるようにすることが大事だ。ただし、出来るだけ多くに兵を連れて行くように努力はせよ。

2月9日    織田信長御朱印”位の意味です。

織田信長は、先陣を嫡男信忠に申しつけ、自らの率いる軍の陣ぶれをしています。

これによると、連れて行く兵は最小限でよいようなことを言っており、武田軍討伐の主力は嫡男信忠に任せるつもりであったようです。

しかし、遠征軍には元気のよい息子を出せと重臣たちに指示していますが、重臣の明智光秀には、わざわざ”兵は少なくて良いからとにかく付いて来い”と出陣を命じています。

これに関しては、明智光秀・筒井順慶らに信州の帰路に近々侵攻する予定の徳川領地を見分させるのが目的だったのではないかと見られています。

又、6月2日の『本能寺の変』当日に関して、、、

 

順慶今朝京都へ上處、上様急度西國ヘ御出馬トテ、既ニ安土ヘ被歸由歟、依之被歸了、

(引用:多門院英俊『多門院日記 第3巻 天正10年6月2日の条 224頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”筒井順慶(つつい じゅんけい)が6月2日の朝京都へ上洛したが、織田信長公はすでに西国へ出発するため、安土へ帰城されたようで、その為帰還した。”位の意味です。

つまり、織田信長は、大和の筒井順慶に西国出陣と称して、京都本能寺への上洛を命じていたようです。ということは、この時同じように明智光秀にも京都本能寺への上洛命令が出ていた可能性が高いと考えられます。

そして、堺へ遊覧に回った”徳川家康一行”も、織田信長側近の長谷川秀一(はせがわ ひでかず)に引率されて、6月2日の早朝に堺を発ち京都本能寺へと向かっていました。

そこで、当日の明智軍に加わっていた兵卒”本城惣右衛門(ほんじょう そうえもん)”の有名な証言です。。。

一、あけちむほんいたし、のぶながさまニはらめさせ申候時、・・・・、

のぶながさまニはらさせ申候事ハ、ゆめともしり不申候。其折ふし、たいこさまびつちうニ、てるもと殿御とり相ニて御入候。それへ、すけニ、あけちこし申候由申候。山さきのかたへところゝざし候へバ、おもひのほか、京へと申候。我等ハ、其折ふし、いへやすさま御じやうらくにて候まゝ、いゑやすさまとばかり存候、ほんのふ寺といふところもしり不申候。

(引用:『本城惣右衛門覚書』木村三四吾編 天理図書館誌「ビブリア」連載記事『業餘稿叢』の纏め本に掲載 1976年出版 )

 

大意は、”明智光秀が謀叛を起し、織田信長様が自刃された時のこと、、、

信長様が自刃された言う事は、夢にも思わなかった、その時は、豊臣秀吉が備中で毛利輝元と対陣しており、その援軍に行くと明智光秀は言っていた。山城国山崎の辺りに来たところ、思いがけず京都へ行くと言うので、我々兵卒らは、この時徳川家康様が上洛されているので、さては家康様を成敗するのだと思った。自分は本能寺などと言うところは知りもしなかった。”位の意味です。

つまり、当時は明智の兵卒に至る迄、織田信長からの命令は徳川家康の討伐だと思っていたという事のようです。

以上の天正10年(1582年)の始めからの織田信長を巡る出来事を並べて行くと、、、

 

  1. 信長自らが率いて、明智光秀ら畿内方面軍の一同に甲州からの帰路である徳川家康領地を見せて歩いたこと。
  2. 信長が軍を先に畿内へ帰らせたあと、少人数で家康領地をゆっくり見て回り、その後饗応に出た家康を安土へ、主だった部下を引き連れて来るように招待していること。
  3. 信長の様子から少人数で安土を訪問せざるを得なかった徳川家康一行を、秀吉からの早馬で西国出陣の急な軍務が出来たにもかかわらず、そのまま京・堺の周遊へ引き出し6月2日に京都本能寺へ戻ってくるように仕向けていること。

以上から、、、

織田信長から明智光秀に対して、6月2日の午後に京都本能寺にて、堺より戻って来た徳川家康一行を討伐し、呼び集めてある畿内軍を引き連れて明智光秀が、そのまま徳川領へ侵攻する命令が出ていた可能性があることがわかります。

尤も、当時の政治情勢から、織田信長の東国経営は緒についたばかりで、織田政権にとって、北条家ほか東国諸大名の押えとしての盟友徳川家康の力の重要性・必要性は、誰しも考えることですから、上記のような可能性は全くないと言っているのが、史学界の大勢と云う状況です。

前述のような状況証拠ばかりですが、織田信長から明智光秀に『徳川家康討伐命令』が出ていた可能性は、完全に否定出来ないのではないかと思われます。

あの織田信長の無警戒ぶりは、この企ての成功を疑っていなかったことからくる油断であったような気もします。

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明智光秀が実行部隊となったクーデター計画に家康はカヤの外だったの?

『本能寺の変』を巡る京都の関係者の発言の中で重要なものがあります。。。

十五日、

一、惟任日向守醍醐邊ニ牢籠、則郷人一揆トソ打之、首本能寺ヘ上了、

十七日、

一、日向守内齋藤藏助、今度謀叛随一也、堅田ニ牢籠、則尋出、京洛中車ニテ被渡、於六条川原ニテ被誅了、

(引用:東京大学史料編纂所編『大日本古記録 言経卿記<一>天正10年6月の条』 岩波書店 1959年)

大意は、”天正10年(1582年)6月15日、明智光秀が京都郊外醍醐辺りで隠れていたところ、一揆衆に襲われ討ち取られ、首は本能寺にさらされた。

同6月17日、明智家家老の斎藤利三(さいとう としみつ)が捕まった。彼は今度の謀叛の随一の人物である。近江の堅田で隠れていたところを探し出され、京都中を引き廻されて、六条河原にて打ち首になった。”位の意味です。

十五日、天晴。・・・。明智くひ勧修寺在所にて百姓取候て出申候。本能寺ニむくろト一所首おかれ候。見物衆數しらぬ也。首共を信長はてられ候跡ニならへ候。三千程有之由候。

・・・

十七日、天晴。早天ニ済藤藏助ト申者明智者也。武者なる物也。かれなと信長打談合衆也。いけとられ車にて京中わたり申候。見物出也。事外見物也。京わらへとりとり申事也。あさましき事無申計候。

(引用:勧修寺晴豊『天正十年夏記 6月の条』 ”立花京子『信長権力と朝廷 第二版』2000年 岩田書院” に掲載分)

大意は、”天正10年(1582年)6月15日、晴天。・・・。明智光秀の首が勧修寺晴豊卿の在所で、百姓によって討ち取られた。本能寺に遺体と首が一か所に置かれた。見物衆は数限りない。首などは、信長様が果てられた跡地に並べてあった。3千くらいもあると言う。

同17日、晴天。早朝に斎藤利三という明智の手の者、彼なども信長暗殺の談合に加わっていた。生け捕られて車で京中引き廻されて、見物人がたくさん出て、京わらべが様々取沙汰している。あきれるほどひどい事ばかり言っている。”位の意味です。

どちらの記述も15日に明智光秀が一揆軍に討ち取られ、17日には家老の斎藤利三が捕らえられて京中をを引き廻されたと述べて、尚且つ斎藤利三が信長暗殺計画の談合に加わっていたと語っています

そして、その事実をこの”禁裏の武家伝奏職”を務めている山科言経卿・勧修寺晴豊卿らの公家達がこの時点で知っていると言うことは、この『本能寺の変』に朝廷関係者が深く関わっている可能性があることを示唆しています。

徳川家康が”おとり役”に使われた可能性はあるものの、前述のようにこの変事を企てた主体は完全に中央の政権関係者であることは確実で、如何に織田信長の盟友だったとは言え、一地方大名の徳川家康がこの陰謀の関係者である可能性は、極めて薄いのではないかと思われます。

 

徳川家康は、過去の事とは言え、なぜ謀反人明智光秀の腹心斎藤利三の子供を第3代将軍家光の乳母にしたの?

ただ普通に高札にかけて募集したところ、於福が応募して採用されただけで、”於福(ふくー春日局)”が明智光秀の家老斎藤利三の娘であったのは、単なる偶然であったと主張される歴史研究者も多いのですがどうでしょうか?

諸説ありというところで、、、

  1. 『本能寺の変』に加担していた徳川家康が、『山崎の戦い』で明智光秀が豊臣秀吉に敗れた後、家康との連絡役でありクーデター計画の首謀者のひとりであった斎藤利三が、捕らえられた後も京都六条河原で処刑されるまで、徳川家康加担の事実を一切もらさなかったことに関して、非常に恩義に感じた家康が遺族である娘の於福を乳母に採用して恩義に報いたという説。
  2. 於福が変事の後、京都の西三条家に身を寄せていたものを家康に召し出されて、京都伏見城に在住していた徳川家康が側室にしていたと言う説

などが言われています。

ここで、後日の有名な逸話があります。。。

それは、『大坂夏の陣』も終わって2か月ほどした元和元年(1615年)7月の事でした。

突然、駿府在住の徳川家康が、江戸城に現れ将軍家徳川秀忠を謁見して、併せて嫡男竹千代と次男国松を呼び出し、子供たちに茶菓の饅頭を与えようとします。家康が近くに竹千代を呼び寄せた時、次男の国松も隣に座ろうとすると、家康が厳しく叱りつけて”お前は、第三代将軍となられる竹千代君と同じ席についてはならん!”と云い、第三代将軍を嫡男竹千代(後の家光)に確定させたというものでした。

これは、城中で竹千代君より国松君の方が英明で、お世継ぎは国松君だと言う雰囲気が充満していたところ、竹千代乳母の於福が駿府の家康に直訴して、それを受けた家康が遠路駿府から体調も思わしくない中にわざわざ江戸まで来て、後継者を竹千代に確定させたと言われる実際にあった事件でした。

これに関係する裏話には、第二代将軍秀忠の正室江与の方の実子が国松君で、竹千代君の母が於福(春日局)で、そして父が秀忠ではなくて家康だと言う尾ひれがついた話となっています。

つまり、徳川家康は、恩のある斎藤利三の娘に生ませた子(竹千代ー家光)を跡取りにするために、、於福を家光乳母として江戸城に入れたと言う流れです。

ありそうな、なさそうな噂話ですが、この説を強く主張する歴史作家八切止夫氏は、、、

右は神君大御所駿府御城御安座之砌、二世将軍秀忠公御台所江被進候御書 拝写之 忝可奉拝誦之者也

秀忠公御嫡男  竹千代君  御腹 春日局  三世将軍家家光公也  左大臣

同  御二男  国松君   御腹 御台所  駿河大納言忠長公也  従二位

(引用:『慶長十九年二月二十五日付、神君家康公御遺文』  八切止夫 『家康と春日局』に掲載分)

とあり、これを根拠に第三代将軍徳川家光の実母は於福(春日局)だとして、家康も老体に鞭打って駿府城から江戸城に現れて、竹千代君が第三代将軍だと決めたと言います。

家康は、命の恩人の娘だったからか、側室として自分の実子を生んだからか、何らかの理由でこの於福を優遇し、そのため後に於福(春日局)は、時の老中をも意のままに操ったほどの権勢を誇ることになりました。

 

明智光秀は徳川家の政治顧問『天海僧正』になった!ホント?

東京上野の東叡山寛永寺の開祖天海(てんかい)僧正は、江戸時代初期の幕府の朝廷・宗教政策に深く関与し、将軍の政治顧問として108歳まで生きながらえて徳川3代に仕え、”黒衣の宰相”とも言われた怪僧です。

通説では、天海は弟子たちにも自身の素性・生年を明らかにしなかったのですが、陸奥国会津郡の太守芦名(あしな)一族の出自と言われています

また、室町幕府第12代将軍足利義晴(あしかが よしはる)のご落胤(ごらくいん)との説もあり、そうなると第13代将軍足利義輝(あしかが よしてる)や細川藤孝と兄弟になる訳で、朝廷・幕府筋ではこの”天海貴種説”が広く信じられていたようです。

いづれにしても、戦国時代末期の朝廷では正親町(おおぎまち)天皇・誠仁(さねひと)親王・後陽成(ごようぜい)天皇、武家では第15代将軍足利義昭(あしかが よしあき)や織田信長・豊臣秀吉・細川藤孝・明智光秀・徳川家康らと同時代を生きた人物だったようです。

異説では、、、

天正10年(1582年)6月2日に、天下人織田信長にクーデター(本能寺の変)を起し織田政権を倒したものの、11日後の『山崎の戦い』で豊臣秀吉に敗戦し、この世を去ったと言われる明智光秀と天海僧正が同一人物ではないかと言われています

天海と家康は、叡山の宗門争議の折に、家康が叡山対策の人材に困った折、侍医の施薬院宗伯(せやくいん そうはく)より推薦されて、家康の命により叡山に派遣された時が初対面と言われています。

若い頃より宗門対策に苦労して来たこともあり以後、天海僧正の学識・人格に惚れた家康は、折に触れて政治むきの意見も求めるようになり、徐々に幕府の政治顧問となって行ったようです。

また、”天海僧正と明智光秀同一人説”に関しては、、、

徳川家康は、『本能寺の変』による織田信長暗殺に関し、後世伝わるほど明智光秀をほとんど罪悪視するような考えを持っておらず、むしろ人物として評価していた傾向がみられる事。

例えば、臣下の水野勝成に、”明智光秀ゆかりの槍”を与え、”明智光秀にあやかれ”と云った話が伝わっているとか、光秀とともに本能寺の首謀者とされている家老の斎藤利三の娘を孫の乳母として採用しているなどがあります。

豊臣秀吉によって徹底的に悪人化された明智光秀を、家康が普通の武人として評価する姿勢だったとか、後の天海上人との関係などから、天海・光秀同人説が生まれたのではと考えられます。

天海上人と明智光秀同人説は、年齢的に少し無理があることと、最近の研究(以下のブログ)においても、二人の文書の筆跡に違いがみられることから、別人であると思われます。

もじすけの文字ブログ

 

まとめ

徳川家康の『本能寺の変』後の『伊賀越え』に関しては、従来より190名の伊賀者が家康一行の”陰警護”に付いて陰乍ら随行いたと言う話があり、そのお陰で家康は楽勝で三河へ帰国したとされています

今回、諸説の中で、『本能寺の変』の最中、家康の叔父水野惣兵衛が織田信忠が立て籠もった二条城から生還していたと言う実話から、徳川家康の信長暗殺加担説に結び付いたものと考えられます。

また、三河への帰国後の家康軍の動きに不審な点があり、明智討伐ではなくて、明智軍との呼応も疑われるところです。

それ以後は、織田政権が豊臣秀吉に簒奪される過程の中で、『小牧長久手の戦い』までは、家康は東国への事態に集中し、秀吉の動きには一切介入せず様子見をしていたところから、家康が天正10年6月19日まで清須近辺でうろうろしていたのは、豊臣秀吉と会談をするために時間を稼いでいたとも考えられ、ひょとするとその時点での両者の一時的な和睦はあり得たのではないかと思われます

これを考えると、家康の変事加担の可能性はあり得ると思われます。

”織田信長の徳川家康討伐説”は、『本城惣右衛門覚書』から当時の常識とも思われ、あり得ない話ではないと考えられます。当時の信長の関心が中・九州討伐に向っていたことから、東国最大の敵である武田氏を滅亡させた後、強敵となる可能性が高い徳川討伐は必然ではないかと思われます。

当時の公家達の怪しげな動きから、朝廷も『本能寺の変』に一枚かんでいた可能性があり、そうなると、家康は変事に全くの”カヤの外”だったかどうかは判然としませんが、地方大名の家康は端役のひとりに過ぎなかった可能性は高いと思います。

於福の事に関しては、最後の『饅頭事件』での家康の行動から於福の発言権の強さは特別なものがあり、家康ー於福のただならぬ関係を示唆するものと考えられるところです。

”怪僧天海と明智光秀の同一人説”は、面白すぎる話ですが、根拠に乏しく、やはり後世の作り話と考えざるを得ないようです。

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参考文献

〇大久保彦左衛門原著・小林賢章訳『三河物語<下>』(2002年 ニュートンプレイス)

〇続史料大成刊行会『家忠日記 <一>』(1967年 臨川書店)

〇奥野高廣『織田信長文書の研究 <下>』(1994年 吉川弘文館)

多門院英俊『多門院日記 第3巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇『本城惣右衛門覚書』 (天理図書館誌「ビブリア」連載記事『業餘稿叢』の纏め本に掲載 木村三四吾編 1976年出版 )

〇東京大学史料編纂所編『大日本古記録 言経卿記<一>天正10年6月の条』 (岩波書店 1959年)

〇立花京子『信長権力と朝廷 第二版』(2000年 岩田書院)

〇小林正信『明智光秀の乱』(2014年 里文出版)

〇橋場日月『明智光秀 残虐と謀略』(2018年 祥伝社新書)

〇井上慶雪『秀吉の陰謀』(2015年 祥伝社黄金文庫)

〇明智憲三郎『本能寺の変ー431年目の真実』(2015年 文芸社文庫)

〇高柳光寿『明智光秀』(2000年 吉川弘文館)

〇桑田忠親『明智光秀』(1983年 講談社文庫)

〇藤田達生・福島克彦『明智光秀』(2015年 八木書店)

〇藤田達生『証言 本能寺の変』(2010年 八木書店)

〇谷口研語『明智光秀』(2014年 洋泉社)

〇八切止夫『家光と春日局』(1982年 日本シェル出版)

〇中村晃『天海』(2000年 PHP研究所)

〇司馬遼太郎『国盗り物語(1)~(4)』(2010年 新潮文庫)

〇真保裕一『覇王の番人 上・下』(2011年 講談社文庫)

もじすけの文字ブログ『江戸時代の怪僧天海僧正は明智光秀なのか ~2人の筆跡を比べてみた~』

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One Response to “『本能寺の変』で、明智光秀と家康はグルだった!ホント?”

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