豊臣秀吉にとって、石田三成は『獅子身中の虫』だった!ホント?

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石田三成が豊臣秀吉に重用された訳が分かります。

石田三成は、老いぼれた豊臣秀吉を利用して権力をろう断?

石田三成は、豊臣政権崩壊の元凶か?

石田三成は、豊臣秀吉の後継者になり得た?

 

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豊臣秀吉は、なぜ石田三成を重用したの?

石田三成(いしだ みつなり)が豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)に仕え始めたのは、秀吉が主君織田信長(おだ のぶなが)から滅亡させた浅井長政(あざい ながまさ)の旧領を拝領した、天正元年(1573年)9月1日以降で、天正2年(1574年)頃の事と考えられます。

拝領した旧浅井家の小谷(おだに)城を捨てて、琵琶湖畔にある水運の要衝である今浜を”長浜(ながはま)”と改称して、新城を築城し始めていた頃で、急に12万石の城持ち大名となった豊臣秀吉は、それに見合う家臣団の創設を急いでいた時期に当り、後に豊臣政権を支えた人材をリクルート中でした。

ここで、有名な逸話は、、、

石田三成は或る寺の童子也。秀吉一日放鷹に出て喉乾く。其の寺に到りて誰かある、茶を點じて来れと所望あり。石田は大いなる茶碗に、七八分にぬるく立て持ちまゐる。秀吉之を飲み舌を鳴らし、気味よし今一服とあれば、又立て之を捧ぐ。前より少し熱くして、茶碗半ばに足らず、秀吉之を飲み又試みに今一服とある時、石田此の度は小茶碗に少し許りなる程熱く立て出す。秀吉之を飲み其の氣の働を感じ、住持にこひ近侍に之を使ふに、才あり、次第に取り立て、奉行職を授けられぬと云へり。

(引用:『武将感状記 巻之八 秀吉石田三成を召し出さるゝ事の条 210頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”石田三成は、ある寺(近江石田郷近くの観音寺)の小坊主であった。豊臣秀吉が或る日鷹狩りに出ていた時、休憩にその寺に寄り、「誰かいるか?茶を一杯所望する」と云った。そこへ三成が大きめの茶碗に七八分目くらいにぬるめのお茶を点てて出したところ、秀吉はのどを鳴らして飲み干した。これはいいと言ってもう一服所望した。次の一服の茶碗は先の半分くらいの大きさで、前より少し熱くして出した。秀吉はこれも飲み干して、試しにもう一服所望したところ、今度は、小さな茶碗に熱いお茶を少しだけ点てて入れて来た。

秀吉は、茶を所望した時、のどの乾いた状態では、ぬる目に多めの茶を出し、次には量を減らして少し熱く、最後は小さな茶碗に少しの茶を熱めで出すという、小坊主のその「気働き」に感心し、その寺の住職に頼み込んで、小坊主を貰い受けて自分の近習に取り立てた。彼は、才能があって、どんどん出世し、このほど奉行職を拝命したと言う。”位の意味です。

この石田三成を見出す時の逸話は「三献茶」の話として有名になり、今に至るも語られています。

この時期、初めて大名となり、自前の家臣団を作る必要に迫られていた豊臣秀吉は、領内の旧浅井氏家臣で帰農している人材を中心に探して召し出しており、その途上で石田三成もスカウトされたものと考えられます。

 


(画像引用:秀吉・三成出会いの像 ACphoto)

 

この時期に召し出された人材に、小堀遠州(こぼり えんしゅう)、片桐且元(かたぎり かつもと)、脇坂安治(わきさか やすはる)、藤堂高虎(とうどう たかとら)、増田長盛(ました ながもり)、長束正家(なつか まさいえ)などがおり、三成も入れて後の豊臣政権を支えた”五奉行”のメンバーの大半がそろっているのが分かります。

この近江地方は、古来より”近江商人”の流れがあり、近代では、総合商社を中心に多数の商業人材を送り出しており、戦国期も地政学的な問題から、そうした算盤勘定を得意とする人材を育む土壌があったようです。

豊臣秀吉の主君である織田信長”は、織田家内に”鑓働き(やりばたらき)”一辺倒の武辺者が多い中にあって、早くから小姓たちの中に官僚を育成しており、坊主嫌いの信長は美少年の名声高い”万見仙千代重元(まんみ せんちよしげもと)”・”森乱丸(もり らんまる)”らや、信長末弟で後の茶人としても有名となった織田長益(ながますー有楽斎)も、当時戦国大名らが多用していた学問僧・外交僧代わりに、使命を果たす”吏僚”として積極的に育成・重用しており、それを見ていた織田信長配下たる豊臣秀吉も”経済官僚・外交官僚”の重要性には早くから気づいていた大名のひとりでした。

こうして、図らずも豊臣秀吉は、配下に多数の”官僚武士”を抱えて行くこととなり、その際たる者が石田三成を筆頭とする”近江出身の武士たち”だったのではないでしょうか。

”武家出身ではない豊臣秀吉”の郎党たちは、加藤清正(かとう きよまさ)・福島正則(ふくしま まさのり)などの下層民出身の親戚筋や、蜂須賀小六(はちすか ころく)ら野武士・野盗集団など、鑓働きの得意な武辺者が多く、大事な軍資金の調達などは秀吉と同等に唯一算盤勘定の出来る、弟の小一郎(豊臣秀長ーとよとみ ひでなが)に頼り切りのまま長浜時代を迎えていましたが、その後、石田三成ら近江武士を抱え始めると秀吉の期待に応えて彼らの活躍が始まります。

端的に言えば、”豊臣秀吉は資金調達・カネもうけの上手な者を重用”して行きます。一番手が豊臣秀長(実弟・小一郎)で、それから近江時代から育て、資金の源泉たる農地の検地をきっちり期待通りこなす石田三成らと、堺の豪商たちでした。

百姓の下で小作として働かさせられる下層民出身の豊臣秀吉は、百姓たち(大百姓)がどのように資金を貯め込むか熟知していて、とことん絞り取る『検地』を実施して軍資金をねん出して行きます。

貿易で財を成す千利休(せんのりきゅう)・今井宗久(いまい そうきゅう)・津田宗及(つだ そうぎゅう)、小西隆佐・行長(こにし りゅうさ・ゆきなが)父子ら堺の豪商達、そして農地を耕す百姓たちが、豊臣秀吉の力の源泉であり、それを取り仕切って行く豊臣秀長や秀吉側近の石田三成らの吏僚たちが蜂須賀小六・加藤清正ら武辺者と並んで重用されて行きます。

この初期の時期には、後に親友で幼馴染で大老ともなった”前田利家(まえだ としいえ)”などは、まだ政権の中枢におらず、軍師として重用されていた側近黒田官兵衛(くろだ かんべえ)などもその後に遠ざけられてゆくことが、この政権内部の力関係を物語っているようです。

要するに、、、

石田三成が豊臣秀吉に重用されて行く理由は、秀吉の拡大する軍団の必要資金を従来のような武力による侵略・略奪ではなくて、理にかなった方法でねん出して来る「能力」を持ち合わせていることだと思われます。

とにかく、豊臣秀吉は”お金が大好き”で、金儲け・資金調達に長けている者がもっと好きだったのではないでしょうか。

 

石田三成は豊臣秀吉の高齢化が進むにつれて、豊臣政権の壟断(ろうだん)を企画していたの?

通説では、江戸時代(徳川幕府)史観を根底に、、、

”石田三成は、大納言豊臣秀長が亡くなってほどなく、秀吉側近の茶頭千利休を讒言して追い落とし、政権内に妻女が高台院と繋がっていて、政治的には毒にも薬にもならぬ無害な前田利家を昇格させることで、自身の政治的発言力を高めようとした。

また、病死した豊臣秀長(とよとみ ひでなが)の後継者の秀保(ひでやす)の不審死(水死と言われる)も三成の暗殺の可能性が高く、関白豊臣秀次の切腹も怪しい。証拠はないが、石田三成の仕業ではないか。

豊臣秀吉は、初期には手放しで重用していた軍師黒田官兵衛を、『山崎の戦い』に勝利し天下人への道を歩み始めて以降、自身より智謀の優れた危険な人物として警戒し遠ざけているが、これも三成の助言ではないか。”

などと言われ、石田三成は”豊臣家の御為”を「錦の御旗」にして、自分の政権内での競争相手・政敵をあらゆる手段を使って追い落として行ったのではないかとの見方が太宗を占めています。

これに対して、江戸時代初期の徳川家筋の”石田三成への見方”として、、、

又、仰せられ候は、石田治部少輔三成は、にくからざるものなり、人おのおのその主の為にすと云義にて、心をたて事を行ふ者、敵なりとも、にくむべからず、君臣ともに心得べき事なり、

(引用:『桃源遺事 53~54頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”又、西山公(水戸光圀)がおっしゃられる事には、石田三成は悪者ではない、ひとそれぞれがその主君のためにすると言う意味において、臣下として意思をしっかりもって忠義を実行する者は、敵と云っても憎んではならない。君主・臣下の者ともに心得ておくべき事である。”位の意味です。

つまり、神君徳川家康公の孫にあたる天下の副将軍徳川光圀(とくがわ みつくに)公、いわゆる水戸のご老公黄門様(西山公)は、徳川家に対する関ケ原での敵役であった”石田三成”を、天下の忠義者として絶賛していたようです。

一方、江戸中期以降の”石田三成の悪者説(政権を壟断)”を強調させて行った三成側の状況と云うものには、、、

  1. 三成が数字に強い人材であり、部下に係数感覚の優れた者が集まっていたこと
  2. 三成が組織運営の才能に恵まれていたこと
  3. 秀吉の初期の栄達を支えた尾張出身の猛将たちが、地方の大大名として転出して行き、秀吉の側近には三成ら近江出身の吏僚たちだけが残されたこと

と云う状況が出現し、特に3.の事態は、見方を変えれば、秀吉子飼いの尾張出身の加藤清正ら武闘派の、近江吏僚たちにとっては目障りな人材を、出世の名の下に吏僚たちが意図的に秀吉の周囲から引き離したとも考えられます。

そして、天正18年(1590年)の小田原戦以降の天下統一事業の完成によって、国内での本格的な合戦は姿を消して、今度は政権内で政治力を持っていた勢力、①豊臣秀長ー千利休、②関白豊臣秀次が、相次いで政治失脚していった事などが発生して行きます。

あまりにも、石田三成が政権を壟断するために都合のよい状況が立て続けに出続けることから、三成の意図的な陰謀と捉え、江戸中期以降の徳川家の御用学者たちから”三成の陰謀”だったのではないかと指摘されている訳です。

近年になっては、この”石田三成陰謀説”には根拠がないとの論調が多くなっており、起こった事実に対する”石田三成の無実”が主張されています。”時代の寵児(ちょうじ)”とはそんなものだと言う事なのでしょう。

もし、この主張が本当なら、主君豊臣秀吉とともに、寵臣石田三成のふたりとも、信じられないほどの幸運が二人を政権の頂点に押し上げたこととなり、正直これはあり得ない事のように思われます。

こうして見てみると恐らく、歴史的な出来事と云うものは、全部が本当ではないかもしれないが、全部がウソでもないと言うことなのだろうと考えられます。

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石田三成は、豊臣政権崩壊の引き金を引いた元凶にひとりなの?

今、通説で言われている豊臣政権崩壊の原因とは、、、

  1. 臣秀吉の「唐入り(朝鮮侵攻)」強行による財政逼迫(諸大名の困窮)と政権に対する大名・民衆の不満の高まり
  2. 豊臣秀吉の暴走(失政)と石田三成の豊臣政権壟断
  3. 豊臣秀吉の死去後の豊臣系大名勢力の分裂

くらいが主なものでしょうか。

豊臣秀吉の死後、豊臣政権を支えるべき政治勢力を、秀吉の生前に秀吉自身と三成が反秀吉勢力と判断して潰してしまい、その魔手を切り抜けた徳川家康に牙を剥かれたことになりました。

つまり、豊臣政権崩壊の理由はだいたいこんな事だと言うことは、誰もが理解しているところでしょう。

すべて、豊臣秀吉自身が招いた事(政策の失敗)とは言え、秀吉の意を受けてそれを忠実に実行した”石田三成”に、諸大名の怨嗟の声が集中したと言うところですね。

この時点を捉えると、三成に全責任をかぶせるのは”気の毒”となる訳ですが、三成が常に最高権力者豊臣秀吉の側にいて、実権を握り続けようとした意思そのものが、三成の罪を構成したことになるのではないでしょうか。

これは、後年、三成と同様にいわゆる最高権力者への『取り次ぎ』職を握り続けた、権力志向者が皆落ち入った運命だとも言えそうです。

例えば、江戸時代の第五代将軍徳川綱吉の寵愛を受けた側用人(そばようにん)の”柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)”、第九代将軍徳川家重・第十代将軍徳川家治の寵愛を受けた側用人で老中の”田沼意次(たぬま おきつぐ)”と比較して考えるとよくわかるのではないでしょうか。

かれらも徳川幕府において”幕政を壟断”した輩と言われたのです。

しかも、石田三成は歴史の流れに押し流されて、たまたまそうなったのではありません。

態申遣候、仍我等 事内々ハちくこ ちくせん被下、九州 物主ニ被遣候ハんと の事ニ候つれ共、さ候へハ、又さわ山 にをかせられ候ハん人も なく、こゝもとニて 御用御申つけ候 人もすくなく候間、 我等ニハこのまゝ の分ニてあり候へと 御意ニ候間、 江州其方知行幷 くら入なと少成共 あらし候ハゝくやみ申 候間、よくよく申つけ 可申候、次ニちくこ ちくせんハ御くら入ニ なされ候ニより、その むね百姓ニも 申きけ候、又いま きんことの越州へ 御こしかわりめ候間、 すなわち我等ニ 御たいくわん御申 つけ候間、まいり候て 、ミまわり候つる 御事ニ候間、五三日 之ニ内おりかへりニ ちくせんへ下可申候間、 其地へ一両日中ニ 下、それより下候ハん間、 内々その心へく候て、 此由内義、おきとのへ も可申候也、

廿二日  (三成花押)

(引用:中井俊一郎『石田三成からの手紙 慶長3年5月 家臣・大音新介宛書状 宇津木文書』2015年 サンライズ出版)

 

大意、”殿下より、筑前と筑後の国を私にくだされ、九州の物主にしてやろうとの内意がありました。しかしそうなると、佐和山城を任せられる人もおらず、殿下の側にいて御用を務められるものも少ないので、私はこのままにしてもらいました。そうすると、近江のその方の領地や直轄地の管理地も増えないので残念ですが、そのように申付けます。筑前と筑後は直轄地になるでしょうから、そのように百姓たちに伝えます。また領主だった小早川秀秋は、越前へ転封となり、私に直轄地となった筑前筑後の代官が命じられました。近々に筑前へ見廻りに行きますので、心得ていてください。このこと、妻と父に伝えておいて下さい。”位の意味です。

豊臣秀吉は、石田三成を普通に寵臣のひとりと捉えていたようで、三成を自分の側にばかりおかず、国持大名のひとりに出世させようと、上記のように九州の筑前・筑後の大名ではどうかと内示の打診をしたのですが、居城佐和山城の後任がいない事を理由に断っているようです。内心は秀吉への”取り次ぎ”の職を誰にも渡したくないと言う気持ちが強く、見せかけの出世で地方へ飛ばされるより、引き続き豊臣秀吉の側の権力中枢にいて、権勢を振るいたいとの欲望があらわになっていたようです。

先の徳川時代の側用人たちと同様に、権力者への『取り次ぎ』職を手にしてからと言うもの、権力中枢に座り続ける道を選んだ石田三成は、結局その権勢欲が邪魔して自在に時代の流れに乗ることに失敗し、流れに呑みこまれて行ったと云えそうです。

このように権勢を振る快感に身をゆだねてしまった石田三成は、豊臣政権転覆の元凶のひとりと云われても仕方がないのではないかと考えられ、近年のいかなる弁護も意味を成さないのではないかと思われます。

 

『小田原の戦い』で、豊臣秀吉が武州忍城攻略に石田三成を起用したのはなぜなの?

吏僚・側近・取り次ぎと道を歩んで来た石田三成には”軟弱”・”戦下手”のイメージが付きまとっていますが、天正11年(1583年)4月21日の『賤ヶ岳の戦い』で、、、

其時之先懸衆ハ加藤虎之助 大谷桂松 石田左吉 片桐助作 平野権平 奥村半平 福島市松 同與吉郎 大島茂兵衛 一柳次郎兵衛 同四郎兵右衛門 稲葉清六以下十四人也 一萬五千之敵ニ可馳向所存無類之儀ト其刻申由

(引用:『一柳家記 74頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”天正11年(1583年)4月21日の『賤ヶ岳の戦い』のその時の先駆衆(先陣)は、加藤清正大谷刑部石田三成片桐且元、平野長泰、奥村半平、福島正則、福島與吉、大島光政、一柳次郎兵衛、一柳四郎兵右衛門、稲葉清六など14人であった。1万5千の敵に立ち向かった様子は格別の事だとその時は言われた。”位の意味です。

とあり、石田三成は『賤ヶ岳七本槍』には入らなかったものの、”先陣を切った十四人の功労者”に入っており、加藤清正らと共に奮戦した荒武者たちのひとりで、決して軟弱・文弱の徒ではなかったようです。

しかし、石田三成は武功を挙げた『七本槍』の武将たちと違い、その後は豊臣秀吉の側近の吏僚として頭角を現して行き、”槍働き”を重ねて行く”武功派”の武者たちとは一線を画して行きました。

この時代は、やはり合戦に強い武将が尊敬を集める傾向が強く、前田利家が豊臣系武将に人気が高かったのは、若いころからの槍名人の名声に加えて、合戦での実績が十分にあったことが人望を集めていた理由でもありました。

そんな中、豊臣の軍団も大きく成長し、合戦が大型化する一方、そもそも自ら軍を指揮して合戦に参加する機会の少なかった若手の吏僚たちは、ますます軍務での実績を上げることが難しくなっていました。

彼らは、官僚として仕事を続けるには支障がないものの、現場の軍団長である武功派の大名たちを動かすとなると、常に豊臣秀吉の権威が必要でした。

こうした中、少しでも側近の若手を育てる必要性を感じていた豊臣秀吉は、優勢に進めている『小田原攻め』の合戦の中で、いつも裏方の兵站奉行ばかりさせている石田三成ら官僚たち(増田長盛、大谷刑部ら)にもに大軍団を指揮するキャリアを積ませる意味から、『舘林城攻め』と『武蔵忍城攻め』を命じたものと考えられます。

基本の作戦方針は豊臣秀吉が出していたようです。”武蔵忍城の水攻め”も秀吉の方針に対して、三成は反対の意見を述べていたとも伝えられています。

このように、この時の石田三成の起用は、秀吉なりに文治派の側近たちに武将としてのキャリアを積ませることを目的とした行動ではなかったかと思われます。

 

石田三成は、太閤豊臣秀吉にとって、豊臣政権の後継者に成り得るの?

豊臣政権である前に豊臣家である以上、豊臣秀吉の後継者は血縁・姻戚関係者に限られることが大原則と云えます。

豊臣家の関係者(家の子郎党)は、基本的に幼年時に秀吉の正室たる北政所(おね)の養育を受けた者が大半と云えますし、これが豊臣系大名の大黒柱となっています。

豊臣秀吉は、北近江の長浜で一国一城の主となった天正元年以降に、創設された12万石の大名家を立ち上げるのに必要な臣下を大急ぎでかき集めて行きましたが、石田三成は、吏僚系臣下の中で親戚筋の浅野長政以外の、この長浜時代以降に新規で加わった者達の内の一人に過ぎない訳です。この新規加入の臣下たちは北政所との関係性は薄いと思われ、石田三成もそのひとりです。

一般的に、一サラリーマンでオーナー企業に入社した者(石田三成)が、その企業の経営者(豊臣秀吉の後継者)になろうとすれば、その一族(豊臣家)に姻戚関係と成って入り込むか、その一族(豊臣家)から経営権を簒奪する以外にないわけです。

結果的には、豊臣秀吉は一族の人材で、誰もがその実力を認める後継者を作る事に失敗したため、幼君たる豊臣秀頼を後継とせざるを得ず、その傅役(もりやく)に親友の前田利家を指名して死去しました。

つまり、太閤秀吉にとって、寵臣であっても石田三成を後継者にしょうとする事は、考えもしていなかったようです。

そして、この絶好の機会を豊臣政界きっての実力者である徳川家康が逃すはずもなく、さっそく政権簒奪へ動きを始めます。

このような状況の中で、生前に豊臣秀吉の後継指名もない”石田三成”がもし万が一後継者を目指すとすると、もはや徳川家康を倒すこと以外に道はなかったと言えます。

しかし、この天下の形勢で徳川家康に対抗するには、石田三成の立場で最低限絶対必要だったのは”豊臣秀吉の後継指名”だったと思われます。

本当は本人もその気はなかったはずですから、当然こうした条件づくりに着手していない石田三成には、そもそも”豊臣秀吉の後継者”になれる可能性は全くなかった訳です。

通説では、徳川家康の見え見えの挑発に、ものの見事に引っかかって石田三成が挙兵した事となっていますが、こんな簡単なロジックを明晰な石田三成が分からぬはずはなく、やはり『関ケ原の戦い』の謎は深まるばかりです。

 

まとめ

石田三成と云うと、『三献茶(さんけんちゃ)』の逸話をよく聞かされます。

幼少の頃より気配りの利く賢い少年で、ひと目で気に入った豊臣秀吉は、長浜城へ連れ帰って小姓に取り立てたと云います。

ここに、実子のいない秀吉ファミリーではお決まりの、秀吉の家で集まり騒ぐ秀吉の妻おねのかわいがる子供達(秀吉チルドレン)の仲間に、三成が入っていない印象です。

後年、この加藤清正・福島正則ら秀吉チルドレンと石田三成は激しく対立をして行く運命となりますが、先駆けは三成が、最初にこの秀吉邸でおねにかわいがられる子供の仲間に、入れなかったことから始まっているのかもしれません。

徳川家康が創設した江戸時代では、”関ケ原の敵役 石田三成”のイメージは散々です。

江戸時代においても、大坂を中心に根強い人気のある、明るいイメージの豊臣秀吉と対照的に、その寵臣であった石田三成は、暗く・陰険なエリート官僚として描かれて行きます。

秀吉人気を打ち消せない徳川幕府に、エスケープゴートにされた石田三成は、秀吉の愛妾淀君とともに豊臣時代の悪役とされて来ました。

近年の研究で、吏僚の石田三成は豊臣秀吉の方針を正確に実行していただけで、むしろ秀吉政治の暗部を引き受けていた優秀な官僚であったと、江戸時代の悪役イメージが否定されています。

つまり、石田三成の業績を正確に辿ってゆくことは、”通説にある庶民的な雰囲気の豊臣秀吉の太閤人気”の裏にある太閤秀吉の正体を暴いてゆくことにつながっています。

石田三成の陰謀・悪事は、すべて豊臣秀吉の指示の下に行われていた、石田三成はただの忠実な部下に過ぎないと言うような方向です。

そして、前述のように江戸時代初期の徳川家康の孫たる黄門様徳川光圀は、石田三成を『忠義』と云う点で絶賛しており、すべて主君秀吉の為に成したことであると考えています。

確かに権力を私するために、秀吉の力を利用して権勢を振るうと言うスタイルではないにしても、石田三成の考え方は、おそらく主君への忠義を思うあまり、自分は「豊臣秀吉の代理」であると考えていたのではないでしょうか。

最初は、秀吉の考えの先回りをして、”秀吉の天下”の障害となる可能性のある人物を示唆するくらいが、最後は、秀吉ではなくて、自分に敵対する人物は秀吉にも敵対するはずだと言う、自分中心の論理に変わって行ったのではないかと思われるほどです。

例えば、、、

軍師から側近化した黒田官兵衛の左遷、茶頭から側近化した千利休の処刑、政権№2の豊臣秀長の病死後、その後継者である子息の不審死、政権の後継者たる関白秀次の切腹など、疑えばキリがないですが、すべてが”秀頼可愛さによる秀吉の老いの狂気”の成せるわざとは言えず、それを助長して自分ら吏僚グループと老いた秀吉本人だけが政権中央にいるように画策した石田三成がいるようにも思われます。

そのため、これを”エリート意識による自信過剰”と表現されていますが、とにかく”鼻持ちならない男”になっていたのは、盟友である大谷刑部が関ケ原の前に石田三成を諫めた話が伝わっているほどですから、事実だったんだろうと思われます。

もし、石田三成が本当に豊臣秀吉に対する忠義者であれば、明治天皇崩御の折の乃木大将のように、豊臣秀吉の死後”殉死”するのではないかと思われますが、そうではなくて、石田三成は豊臣政権の神輿に豊臣秀頼を祭り上げて”政権”と”自分の権勢”を維持しようとしたのではないでしょうか

勿論、それらは確証のある話にはなりませんが、石田三成の豊臣秀吉に対する『忠義』は、水戸光圀の言うような単純な『忠義』ではなかったことは明白だと思われます。

豊臣系の子飼いの大名が徳川家康の誘いに乗って、『関ケ原の戦い』で石田三成に皆そっぽを向いたと云う事は、単に昔から仲が悪いだけでは済まされないものがあるようです。

結局、豊臣秀吉のどうしょうもないところは、誰もが疑いようのない実子(後継者)がいなかったことが致命傷だったのかもしれません。

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参考文献

〇小和田哲男『石田三成』(1997年 PHP研究所)

〇今井林太郎『石田三成』(2008年 吉川弘文館)

〇桑田忠親『石田三成』(1985年 講談社文庫)

〇渡邊世祐『本稿 石田三成』(1929年 雄山閣)

『武将感状記 巻之八』(国立国会図書館デジタルコレクション)

『桃源遺事』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇中井俊一郎『石田三成からの手紙』(2015年 サンライズ出版)

『一柳家記』(国立国会図書館デジタルコレクション)

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