天下人豊臣秀吉は、内心、軍師黒田官兵衛を恐れていた!ホント?

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本能寺の変』の直後、豊臣秀吉の天下取りを進言したのは、黒田官兵衛かどうかわかります。

黒田官兵衛が、謀反を起した荒木村重のところに、ノコノコ出かけて行った理由がわかります。

黒田官兵衛が、いつ豊臣秀吉の家来になったのかわかります。

黒田官兵衛が、あれだけ豊臣秀吉の力になったのに、秀吉に疎まれた理由がわかります。

 

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『本能寺の変』が起こった時に、黒田官兵衛が豊臣秀吉に、”天下取り”を進言したと云うのは本当なの?

天正10年(1582年)6月2日の『本能寺の変』の後、備中高松で対峙していた毛利軍との和議を即座に整えて、早急に陣払いをして全軍畿内への移動を開始し、やっと6月8日夜10時頃に居城の姫路まで引き返して来て、風呂に入り側近と談笑・会食をしている場面です

黒田官兵衛指出被申上候事 主にハ申上にくき事を被申たなと人ゝ申合へると承候 殿様にハ御愁嘆の様には申候得とも御そこ心をは推量仕候 目出度事出來るよ 御博奕も被遊 幽古被申上候通 吉野の花も今盛そや櫻寒のうちに御覧成度と被思召候ても 時きたらてハみらねぬ花也

(引用:『川角太閤記 巻一』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意、”黒田官兵衛殿が差し出がましく言われた事ですが、殿様(豊臣秀吉)には申し上げにくいことを言われたなぁと人々が言っていると聞いています。「殿様はご愁嘆のご様子に見えますが、心の底を計ってみれば、めでたいことにも出来る、博奕も打てると云うところで、右筆の大村裕己が言うように、吉野の花は今が盛り、桜は寒い内に見たいと思っても、時期が過ぎたらみられないですからね。」”

つまり、黒田官兵衛は、「天下を獲るタイミングは今しかない」と云って、逡巡している豊臣秀吉の背中を押したと云います。

黒田官兵衛が豊臣秀吉に天下取りを進言した』と云うのは、この事を言っているんだろうと考えられます。

しかし、この大村裕己(おおむら ゆうこ)が言った”吉野の花も今が盛り、桜は寒い内に見たいと思っても、時期が過ぎら見られない”と云った意味は、ただ単に”タイミングが今だ外すなよ”と云っただけではなくて、言外の意味があります。

それは、この話に出ている”桜の花”が”日本=天皇”を象徴し、さらに”吉野”とわざわざ指定されていることから、それは”南朝=後醍醐(ごだいご)天皇”を指し、その政策方針である”王政復古(おおせいふっこ)”の路線をすすもうとしている”正親町(おおぎまち)天皇”の事を意味するとも考えられるからです。

この話は、秀吉の側近たちは大村裕己のような右筆(ゆうひつ)を始め、黒田官兵衛も含めた全員が既にこの状況を知っていることを意味しており、今度の『本能寺の変』は、朝廷が中心となった政変で、最初から最後の仕上げ人として豊臣秀吉が指名されている”出来レース”であることを、最後に黒田官兵衛がただ秀吉に冷やかしを言ったに過ぎないと思われます。

と云うことで、この場面で”黒田官兵衛が、天下取りをするように豊臣秀吉の背中を押した”と云うのは、少し違うのではないかと思われます。

つまりここは、この企てに豊臣秀吉が最初から入っていたと考えた方が、この大事件の史実の時間経過・展開への妥当性が高いと考えられます。

この記事が載っている『川角太閤記(かわすみ たいこうき)』は、江戸初期の作と言われていますが、江戸初期には『本能寺の変』に関わる豊臣秀吉のそんな風聞が普通に流れていたのかもしれませんね。


(画像引用:中津城ACphoto)

 

荒木村重謀叛の時に、豊臣秀吉が黒田官兵衛が同調していない事を信じた根拠はなに?

当時の状況は、、、

豊臣秀吉は、天正5年(1577年)12月に但馬・播磨の平定を終わり、安土へ凱旋しました。この短期間での平定には、黒田官兵衛の働きが非常に大きかったことは当然の事でした。

そして、翌天正6年(1578年)2月に、秀吉は播磨へ帰って来ましたが、その時天正6年2月23日、三木城の別所長治(べっしょ ながはる)が突然毛利方へ寝返って籠城を始めます。

その期に乗じて、3月になると毛利方が国境を越えて上月(こうづき)城へ攻めかかり始めます。

そして11月には、摂津の荒木村重(あらき むらしげ)が信長に謀反を起し、説得に出向いた黒田官兵衛は村重につかまり、有岡城に監禁されてしまいます

この辺りの事情は、、、

政職乃ち官兵衛を招き、欺きて曰く、汝が諫言は我克く之を了解せり、然れども我今・信長に背き、輝元に属くせんとするは、全く村重の勧誘に従いたるものなれば、若し村重をして心を悛め、信長に復歸せば、我も亦織田氏に従はん、故に汝先ず有岡城に赴き、村重を説きて、その志を翻へさしめよと、・・・

政職乃ち官兵衛を有岡城へ遣はし、且つ派遣せしめたる陰謀を村重に密告し、彼をして官兵衛を殺さしめんとす。

・・・官兵衛乃ち有岡に赴くの途次、三木に立寄り、秀吉に謁して、村重勧誘の使命を告ぐ、・・・、官兵衛乃ち伊丹に赴く、村重は既に政職の密旨を受けたる事なれば、直ちに官兵衛を城中に招き、屈強の力士數人を伏せ置き、官兵衛を生け捕りて、城内の獄舎に投ず、是れ十月下旬の事なりき、

(引用:金子堅太郎『黒田如水伝 77~78頁』 国立国会図書館デジタルコレクション)

”村重の謀叛”に加担した、黒田官兵衛の主君御着(ごちゃく)城主”小寺政職(こでら まさもと)”に、黒田官兵衛が信長に敵対する不利を説くものの、御着城の小寺家重臣たちは毛利方に付いており耳を貸しません。そして目の上のたんこぶであるその官兵衛を亡き者にしようと、一計を案じ、、、

そして前述の話となりますが、その大意は、”そこで政職は官兵衛を呼びつけ、だまそうとして言うには、「お前の諫言する内容はよく理解しているが、自分が今織田信長に背いて毛利輝元に寝返ったのは、荒木村重の誘いに従ったものである。もし村重が考えを変えるのなら、自分も信長に従おう。だからお前は先ず有岡城へ行って村重を説得して来い。」と・・・

小寺政職は、官兵衛を有岡城へ行かして、村重に連絡して官兵衛を殺害しようとするものでした。・・・

そこで官兵衛は、有岡城へ行く途中、三木に寄って豊臣秀吉に面会し、村重の説得へ向かう旨を伝え、伊丹へと向かいます。荒木村重は、既に小寺政職から連絡を受けているので、到着した官兵衛を屈強な兵士たちに取り押さえさせ、城中の牢に監禁します。”位の意味です。

日頃、小寺家で若手家老として辣腕を振るって来た黒田官兵衛は、織田信長を恐れる古手の重臣たちに妬まれ、このチャンスで村重に頼んで有岡城での官兵衛暗殺が仕組まれたようですが、村重も親しい官兵衛を小寺政職の依頼通りに殺害することが出来ずに”有岡城幽閉”となったようです。

これに対して織田家側は、、、

信長は却って官兵衛を疑ひ、彼が有岡城より還らざるは、全く荒木村重に同心せしものと卽斷して、憤怒の餘り、人質・松壽を殺さんとす、松壽は秀吉播州下向の後、竹中半兵衛が監視の下に、長濱の城内に在りたれば、信長乃ち半兵衛を招き、「汝速に長濱に赴き、反逆者半兵衛の人質・松壽を殺し來れ」と命じたり、然れども半兵衛は、克く官兵衛の本心を識るものなれば、信長に説きて曰く、「官兵衛の還らざるは、必ず深き子細ぞあらん、官兵衛は元来忠義の志深く、且つ才智非凡なる者なれば、強き味方を捨てゝ、弱き敵に與みするものならんや、然るに、今其の質否を究めず、輕々しく人質を殺し給はヾ、是れ官兵衛父子駆って、敵に投ぜしむるものなり、・・・

理を盡して辯疏したけれども、信長の憤怒激しく、更に聽き入れざれば、半兵衛も力及ばず、已むなく命を奉じて、長濱に赴く、・・・、然るに半兵衛は慮る所あり、窃かに松壽を拉し去て、己の領地・美濃國・不破郡に至り、岩手の奥なる菩提の居城に匿し置きたり、而して信長は勿論、世人も亦松壽、竹中半兵衛の刃の下に、亡き人となりたるものと認めたり、」

(引用:金子堅太郎『黒田如水伝 87~88頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”織田信長は、黒田官兵衛の寝返りを疑い、官兵衛が村重の有岡(ありおか)城から帰って来ないのは、村重に同心したものと決めつけて、怒りのあまり人質で預かっている官兵衛の嫡男松壽丸(しょうじゅまる)を処刑しようとする。松壽丸は、豊臣秀吉が播州へ出陣した折に連れ帰り、竹中半兵衛の監視下で長浜城に居るので、信長は半兵衛に「お前は直ちに長濱城へ行き、人質の松壽丸を処刑して来い。」と命じます。

しかし、黒田官兵衛の本心をよく知る竹中半兵衛(たけなか はんべえ)は、信長に対して「官兵衛が有岡城から戻って来ないのには深い理由があるに違いありません。官兵衛はそもそも忠義の士であり、非凡な才能の持ち主で、強きを挫き弱気を助けるような人物です。そんな人物なのに、子細も確かめずに軽軽しく人質を殺してしまえば、黒田父子を敵につけてしまうようなものです。」

と理を尽くして弁護してみましたが、信長の怒りは激しくて、聞き入れようとしないので、半兵衛も諦めて長浜へ行きました。しかし、半兵衛には深く考えるところがあり、密かに長浜城から松壽丸を脱出させ、自領の菩提山(ぼだいさん)城の城下の配下の館に匿(かくま)います。こうして織田信長は勿論、世間の人も皆、人質松壽丸は竹中半兵衛が処刑したものと思っていました。”位の意味です。

こうして、黒田官兵衛の嫡男松壽丸(後の黒田長政ーくろだ ながまさ)は、竹中半兵衛の命懸けの行動で命が助かりました

黒田官兵衛への信頼は、豊臣秀吉の理解はあったものの、竹中半兵衛の”黒田官兵衛に対する強い支持と信頼”が秀吉を動かして、松壽丸を織田信長の命令に違反してまで助けた理由であったようです。

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黒田官兵衛は、いつから秀吉の配下になったの?

豊臣秀吉の中国攻略の嚆矢(こうし)となった播磨(はりま)攻めの中で、、、

三木城の別所長治(べっしょ ながはる)が正式に信長に出仕したのは、天正3年(1575年)7月1日の事で、同年10月20日には、同じ播磨の御着城の小寺政職(こでら まさもと)・竜野城の赤松広秀(あかまつ ひろひで)、備前天神山城の浦上宗景(うらがみ むねかげ)、但馬出石城の山名韶熙(やまな あきひろ)らと一緒に再度出仕したとあります。

明治の大ジャーナリストの徳冨蘇峰氏によると、”黒田官兵衛は、天正3年7月に主家小寺政職の代參で、織田信長に謁見した”とあり、中世研究の大家桑田忠親氏によれば、”官兵衛の父の小寺職隆(こでら ともたか)が、そもそも織田信長に内通していた。”などと云われています。

ともあれ、、、

豊臣秀吉が主君織田信長の命を受けて、大軍で播磨入りした天正5年(1577年)10月23日に、職隆・官兵衛父子は居城の姫路城を”織田軍の本営”として提供しており、その後同調したはずの播磨衆は、寄せ来る毛利の調略に寝返っている中で、黒田官兵衛は司令官の豊臣秀吉の先兵となって奮闘しているところから、この時点ではもう豊臣秀吉の配下に入っていたと考えて良いのではないでしょうか。

この前に、豊臣秀吉は黒田官兵衛宛てに、有名な書状を残しています。。。

内々の御状うけ給候、いまニはしめさると申なから、御懇之たん、せひにをよはす候、其方のきハ、我らおとヽの小一郎めとうせんに心やすく存候間、なに事をミなミな申とも、其方ちきたんのもて、せうし御さはきあるへく候、此くにニおいてハ、せしよからハ御両人の御ちさうのやうに申なし候まヽ、其方も御ゆたん候てハ、いかいかに候間、御たいくつなく、せし御心かけ候て、御ちさうあるへく候、御状のおもて、一ゝ心ゑ存候、かしく、

七月廿三日

小くわん      ちくせんより

まいる   御返事

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書 <一> 140小寺官兵衛宛自筆書状』2015年 吉川弘文館)

大意は、”内密の書状を頂きました。今に始めると申しながら、遅れていること、申し訳ありません。あなたの事は、私の弟小一郎(豊臣秀長)のように心やすく思っていますので、何事もすべて申さずとも、あなたのご判断で対処してください。播磨の国においては、情勢はあなた方父子のおやりになる事で間違いないでしょうが、御油断なきように、手を抜かず、頑張って対応してください。お手紙にあったことは、すべて心得ております。

天正5年7月23日      羽柴筑前守秀吉(豊臣秀吉)より

小寺官兵衛(黒田官兵衛孝高)殿

御返事です     ”位の意味です。

このように、豊臣秀吉は書状で、”我らおとヽの小一郎めとうせんに心やすく存候”とあり、官兵衛を身内のように扱っていて、続いて”自分の判断で巧くやれ”と指示しており、もう配下になっているような様子が伺われるところです。

つまり、この時点、”天正5年(1577年)7月23日には、黒田官兵衛は豊臣秀吉の配下になっていた”と言って良いのではないでしょうか。

 

後年、豊臣秀吉に黒田官兵衛は疎まれていたの?

これについての話は、、、

抑勘解由は、曩に姫路城内に於て、秀吉と兄弟の誓約を結びし以來、九州平定に至るまで、彼の中國征伐と云ひ、山崎合戰と云ひ、近くは四國征伐と云ひ、常に秀吉の帷幄に參與して、偉勳を奏したり、然るに、四國平定の後、・・・偉勳の勘解由に及ばざる者に至るまで、一廉の大名になりたるに、勘解由獨り依然として、播州三萬石の小身に止まりて、・・・

(引用:金子堅太郎『黒田如水伝 249頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”黒田官兵衛は、先に姫路城内で秀吉と兄弟の誓約を結んで以来、九州平定に至る迄、中国征伐・山崎の合戦・四国征伐と云い、常に秀吉の陣中にあり、手柄を挙げています。しかし、四国平定後の論功行賞では、官兵衛に遥かに及ばない働きのものまで、大大名に取り立てられていますが、官兵衛一人が播州三万石の小身のままでした。”位の意味です。

誰から見ても、秀吉から差別されていて、わざと昇進させてもらえていないのは、明らかとなっています。

この原因には、黒田官兵衛キリシタン説・黒田官兵衛の能力説など色々あるようですが、どうやらそのことは、豊臣秀吉の『中国大返し』を開始した時に始まっていたようなのです。。。

・・・官兵衛は、・・・、毛利氏の追撃に備へつヽ、殿りして引き揚げたり

・・・官兵衛・跡より馬に鞭って、漸く追付き、秀吉に謂うて曰く、毛利氏の人質を返還せられよと、秀吉其の意を解せず怪しみ問うて曰く、是何の為なる乎、・・・

曰く、今や秀吉は、主君の弔合戦の為、上洛するものなれば、もしこの一戦に於いて、首尾よく光秀を誅戮せん乎、天下は終に秀吉のものならん、然らば則ち、毛利氏縦令人質を出さヾるとも、敢て秀吉に反抗すること能はざるべし、・・・

・・・、故に今・人質を送還して、毛利氏の歓心を収攬し置くこと、後日・秀吉の為ならんと、・・・・

然れども人質返還の獻策は、却て秀吉をして、官兵衛を恐怖するの念を懐かしめたるものにして、是所謂如水が七後悔の一なりと云ふ。

(引用:金子堅太郎『黒田如水伝 140~141頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”黒田官兵衛は、備中高松の陣より畿内を目指して引き揚げる秀吉軍のしんがりを務め、毛利軍の追撃に備えつつ、最後尾で引き揚げました。

官兵衛は、馬に鞭打って急ぎ、やっと秀吉に追いつき、「毛利の人質を返してください」と献策します。不思議に思った秀吉がなぜかと問い返すと、「今や殿は主君織田信長様の弔い合戦のために上洛しています。この戦いで上手く明智光秀を倒すことが出来れば、天下は殿のものです。

ならば、敢えて人質を取っていなくても毛利は天下人に反抗しないでしょう。ですから、人質をここで返して毛利氏の歓心を買っておいた方がはるかに後日の殿のためになるでしょう。」と答えました。

しかし、この人質返還の献策は、人心の機微を計って行動する秀吉すら、考え付かなかったもので、それをこの移動中に考えていた黒田官兵衛に対して恐怖心を与えるに十分でした。官兵衛は後日そのことに気が付いて余計な事をしたと後悔しています。”位の意味です。

つまり、猪武者が多い戦国大名の中で、抜群の頭脳の回転の良さを誇る豊臣秀吉にとって、自分をも大きく上回って先を読んで行動する黒田官兵衛の能力を空恐ろしいと感じたようです。

また、或る日豊臣秀吉が側近たちに向かって、、、

秀吉、一日戯に近臣に向て、我死せば誰か我に代り天下を有つべきや、忌諱を憚らず、試に之を言へと言はる。

是に於て、人々見る所を言ふに、皆五大老の中なり、秀吉頭を掉て曰く、否一人天下を得る者あり、汝等之を知らずやと。

皆曰く知らずと、秀吉曰く、彼跛足(びっこ)之を得ん。皆曰く、彼の祿僅に十萬石なり、如何ぞ之を得ん。

秀吉曰く、汝等未だ彼を知らず、故に疑ふなり、・・・

秀吉、常に世に怖しきものは徳川と、黑田なり、然れども、徳川は温和なる人なり、黑田の瘡天窓(かさあたま)は何とも心を許し難きものなり、と言われしぞ。

(引用:岡谷繁実『名将言行録 <四> 22~23頁』1997年 岩波文庫)

大意は、”豊臣秀吉がある日、側近たちに「わしが死んだら誰が天下を取ると思うか、忌憚なく答えてみよ」と言われる。

皆、五大老様の中からでしょうと言うが、秀吉が頭を振って言うには、「そうではない。ただひとり天下を取る者がいるであろうが。皆わからないのか?」

皆知らないと云うと、秀吉は「足の悪い男(黒田官兵衛)が天下を取るだろう。」と云う。それを聞いて皆、「彼の禄高はわずか10万石に過ぎません。どうして天下が取れましょうか。」と。

豊臣秀吉が言うには、「おまえたちはまだ彼がわかっていないのだ。だから疑うんだが・・・常に世に怖ろしき者は、徳川と黒田だ。しかし、徳川は温和な人物であるが、黒田官兵衛は何とも心を許せない男だ。」と”位の意味です。

このように、豊臣秀吉が黒田官兵衛を昇進させずにいたのは、やはり黒田官兵衛がにらんだ通り、秀吉は官兵衛の才能に嫉妬して恐怖していたからだと言うことが正解のようです。

常に、豊臣秀吉自身が考え付かないような方法で物事を解決してゆく、カミソリのような切れ味の男黒田官兵衛に対して、自分自身が追い落とされる恐怖を感じていながらも、その才能に大きく依存せねばならない自分に苛立ちを持っていたようです。

キリシタンだったことが問題だったのではなく、これが、黒田官兵衛が豊臣秀吉に疎まれていた大きな理由だったようです。

 

黒田官兵衛は、豊臣秀吉の朝鮮出兵にも協力的だったの?

天正12年(1584年)に黒田官兵衛は、豊臣秀吉の意向で、蜂須賀家政(小六の嫡男ーはちすか いえまさ)の娘を秀吉の養女にした上で、嫡男黒田長政の正室に迎えており、言わば豊臣家の一族に加わっています。

そんなこともあり、黒田官兵衛は臣下の立場以上に豊臣秀吉の知恵袋として、全力を尽くしていました

しかし、年齢と共に猜疑心(さいぎしん)が強くなった豊臣秀吉の魔手から逃れるためと、秀吉子飼いの小姓上がりの高慢な若手奉行たちとの正面衝突を避けるため、早めに隠居をして政権への関与を意識的に避けていました。

それは、軍功を挙げることによって、官兵衛が政治力をつけることを極端に恐れる豊臣秀吉の考え方がはっきりして来て、さすがの官兵衛にもやりがいの無い仕事を続けさせられることに限界が来ていたと言うことです。

とは云うものの、やはり黒田官兵衛を頼りにする豊臣秀吉からの求めに応じて、官兵衛は天正20年(1592年)5月に若手の御目付役として朝鮮への渡海をし、5月21日京城(ソウル)に到着しています。

ところが、無能な大将宇喜多秀家(うきた ひでいえ)に、大身ではなく地位が低い事を侮られて、官兵衛の言うことに耳を貸さず、京城(ソウル)での軍議においても、合戦の軍略経験に乏しい小西行長ら若手グループの暴走を止めることが出来ず、結果その後の日本軍平壌敗退を招き、すっかり嫌気が差した官兵衛は秀吉に帰国を願い出ます。

去月四日書状、今月十五日於大坂被加披見候、此已前も度々被仰遣候、定而可相届候、当年者遼東川限ニ相治之、所務等可申付候、来春御渡海候て可被随其候、九月五日ニ名護屋へ御下向候、其方煩然々共無之由候、早々令帰朝、於豊前国妻子等呼下、心安養生尤候、猶山中橘内・木下半介可申候也、

八月十五日   朱印

黒田勘解由とのへ

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <五> 4235黒田勘解由宛朱印状』2019年 吉川弘文館)

大意、”先月4日付の書状を今月15日に大坂で拝見した。前々から云っているように、きちんと届けをしてもらった。今年は遼東川(鴨緑江)のほとり辺りまで占領するので、そのように取進めるように言ってある。来春は自分も朝鮮へ渡海するので、その時には其方も随行せよ。9月5日には肥前名護屋へ向かって出発する。其方体調がすぐれぬとのこと、早々に朝鮮より帰国して、領国の豊前で妻子を呼んで心安らかに養生せよ。なお、山中橘内・木下半介には言っておく。”位の意味です。

この時豊臣秀吉が、肥前名護屋(ひぜん なごや)から大坂へ移動していた理由は、秀吉の母”なか(大政所)”が7月22日に死去していたことに依ります。

その為、黒田官兵衛は、帰国すると秀吉から「領国豊前にて養生せよ」との命があったものの、すぐさま大坂へ出向き、秀吉に拝謁して大政所薨去(こうきょ)の弔辞を述べます。そしてまた、酒食に溺れる関白秀次に諫言するなど、豊臣家の将来への気遣いを見せています。

このように見てみると、黒田官兵衛は豊臣秀吉の政治方針に対して、反対の立場を公けには全く取っていないようで、この豊臣秀吉の『唐入りー朝鮮侵攻』に関しても、嫡男長政を先陣に押し立て、秀吉から乞われれば自ら渡海して、侵攻作戦のアドバイスまで買って出る姿勢を示しています。

本音は別として豊臣秀吉存命中には、豊臣家と黒田家の安泰と繁栄第一に考え、政権への反政府行動は一切取っていないと考えていいようです。

その後、秀吉の「唐入り(朝鮮侵攻)」は、当初の勢いがすっかり影をひそめ和議交渉に入り始めると、その交渉を有利に進めるために、豊臣秀吉は朝鮮方の有力な拠点である”晋州城(しんしゅうじょう)”の攻略を命じ、文禄2年(1593年)2月に、その指導役として黒田官兵衛に二度目の渡海命令が出されます。

豊臣秀吉の『唐入り』の善悪論は別として、純粋に戦争として考えた場合の”軍略”は完全に見えている黒田官兵衛でしたが、秀吉から与えられた権限の小ささから、結局この戦いを勝利に導くことなど土台無理な注文だったようです。

やはり、この戦争は勝つ気なら、豊臣秀吉が前線で采配を振るわない限り、勝利はなかったものと思われます。と云う意味では、最初から負けが見えていた戦いであったと言えそうです。

さすがの黒田官兵衛も、自身が暴走する前線部隊を抑え込む指揮権を持たないこの戦争は、やりようがなかったのではないでしょうか。

つまりは、豊臣秀吉の猜疑心がすべてをダメにしたという事でしょうか。秀吉には、半兵衛も官兵衛も使い切れなかった訳です。

 

まとめ

黒田官兵衛が、豊臣秀吉に”天下取り”を進言したと云うのは、有名な話です。

しかし、『川角太閤記』を見てみると、”おぜん立てが全部出来てるんだからやるべきですよね”と黒田官兵衛ばかりかそこにいた側近の皆が豊臣秀吉に言っていることが分かります。

現代では知られていませんが、何にもまして、秀吉のバックに朝廷が付いていることを既に皆が知っていることが、作り話っぽいですが、これが書かれた江戸時代初期にはそんな考え方が広まっていたことがあるのではないでしょうか。

また、別所長治(べっしょ ながはる)から始まった播磨・摂津の信長離れの謀叛騒ぎで、荒木村重(あらき むらしげ)の事件に黒田官兵衛が巻き込まれた訳ですが、この時この流れで織田家に背いた官兵衛の主家御着城主小寺政職が、この官兵衛幽閉事件の仕掛人であったことが判明し、なぜに突然黒田官兵衛が、有岡城へ頼まれもしないのに村重説得に出掛けたのかの理由がよく分かります

官兵衛の嫡男松壽丸(しょうじゅまるー黒田長政)を救ったのが、竹中半兵衛(たけなか はんべえ)であったことは、周知のとおりです。

黒田官兵衛が織田家に関係するのは、官兵衛が直接安土の織田信長に謁見を求めに行き、その結果中国方面担当となった新進気鋭の武将であった豊臣秀吉と面識が出来る訳ですが、本当に臣下になったのは、前述したように進出して来た豊臣秀吉に、居城の姫路城を本営として明け渡した天正5年(1577年)だと考えられます。

豊臣秀吉の天下取りに大きな貢献をした黒田官兵衛ではありましたが、その切れ味鋭い頭脳が、天下を取ってしまった豊臣秀吉の警戒心を呼び起し、官兵衛は政権の中枢部から遠ざけられます

しかし、城づくり、軍略・戦略など知力を込めて力を入れるものに惹かれる官兵衛にとって、高齢になったしんどさもあるものの、”朝鮮侵攻”は官兵衛にとっては働き場になると考えていたようです。

と云うことで、豊臣秀吉の『唐入り(朝鮮出兵)』政策に表立っての反対はしていなかったようですね。

千利休のように我を強く張って、己の世界に深くのめり込んでいたら、黒田官兵衛も千利休の二の舞を踏んだかもしれなかったですね。

おそらく、竹中半兵衛の警告もそんなところにあったのでしょう。

結果として、豊臣秀吉が創業した豊臣家は慶長20年(1615年)には滅亡してしまい、その後黒田家は明治に至るまで250年以上領主として存続することになる訳です。

豊臣秀吉が、もし黒田官兵衛を右腕として生涯前田利家のように扱っていたら、江戸時代が訪れていたかどうかよくわかりませんが、一方黒田家もその後無事に明治まで生き残れたかどうか、難しいところなのではないでしょうか。

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参考文献

『川角太閤記 』(国立国会図書館デジタルコレクション)

金子堅太郎『黒田如水伝』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書 <一>』(2015年 吉川弘文館)

〇岡谷繁実『名将言行録 <四>』(1997年 岩波文庫)

〇島津亮二『小西行長』(2010年 八木書店)

〇名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <五>』(2019年 吉川弘文館)

〇北島万次『朝鮮日々記・高麗日記』(1982年 そしえて)

〇北島万次編『豊臣秀吉朝鮮侵略関係史料集成 1・2』(2017年 平凡社)

 

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