城攻めの名人『兵糧攻め』の豊臣秀吉は、いつも楽勝だったの?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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豊臣秀吉の行った『兵糧責め』の有名な戦いの真相がよくわかります。

生き地獄と云われた『鳥取城の兵糧攻め』は、2度目の攻城戦だったことが分かります。

水攻め』で有名な備中高松城の攻城戦の真相は、やっぱり”あやしげ”です。

映画”のぼうの城”で有名な武州忍城の『水攻め』は、石田三成豊臣秀吉の命令で行ったようです。

 

豊臣秀吉が行った有名な『兵粮攻め』には、どこの城があるの?

それはどこのお城なの?

戦国時代の合戦で、相手が打って出ずに籠城戦に出られたら、それは相手の城を無理矢理攻める『力攻め』か、長期間城を包囲する『兵糧攻め』かのどちらかになると思われますが、豊臣秀吉は比較的籠城戦になる事が多かったようです。

織田信長が自身ですべての戦いには、出陣することをやめるようになったのは、嫡男信忠に家督を譲った天正3年(1575年)から4年(1576年)辺りで、信長が多方面で敵を抱えることとなり、”方面軍”が成立してゆくようになります。

それは近代の軍隊に例えれば”師団編成(1万~1万5千名)”くらいの規模を持ち、織田家では家老クラスの武将が司令官・大将を務めるわけです。

つまり、黒田官兵衛が安土に織田信長を訪ねた際に、豊臣秀吉が担当として付けられた訳ですが、その後秀吉が中国方面軍を率いて播磨入りするのは、天正5年(1577年)10月23日のこととなっています。

と云う訳で、豊臣秀吉が与力武将ではなくて、自軍の大将として合戦を指揮するのは、これ以降のことなりますが、その内有名なのは、、、

  1. 三木城(播磨国美嚢郡三木ー現兵庫県三木市上の丸町)
  2. 鳥取城(因幡国邑美郡ー現鳥取県鳥取市東町)
  3. 高松城(備中国高松ー現岡山県岡山市北区高松558-2)
  4. 小田原城(相模国小田原ー現神奈川県小田原市城内)
  5. 忍城(武蔵国埼玉郡ー現埼玉県行田市本丸17-23)

ではないかと思われます。

 

別所長治の”三木城“攻撃に、天才軍師竹中半兵衛も手こずったのはなぜ?

 

元々、播磨三木城の別所長治(べっしょ ながはる)は、織田方入りを表明して天正4年(1576年)11月に上洛し織田信長に拝謁しています。

ところが、その後毛利方に調略され、天正6年(1578年)2月には毛利方へ寝返り、それを受けて東播磨の国衆の8割が織田から毛利への寝返りを表明する事態となりました。

慌てた豊臣秀吉は、伯父の別所重棟(べっしょ しげむね)を別所長治の説得に出向かせますが不調に終わり、3月29日には秀吉軍1万2千名は三木城を包囲するに至りました。

三木城は美嚢川(みのうがわ)沿いの天険の丘の上に築かれている難攻不落の堅城で、しかも城の周囲がしっかりした幾つかの支城群に囲まれており、周囲の支城からひとつづつ落として行かねばならない攻めるに厄介な城でした。

軍師竹中半兵衛(たけなか はんべえ)の策も、急ぎの力攻めをせずに時間をかけてじっくり支城から落として行くと云うものでした。

しかし、この機を逃さずに毛利の本隊が総勢5万の大軍で押し寄せ、前年に秀吉が奪取した国境沿いの作用郡にある上月城(こうづきじょう)を取り囲みます

その為、急遽豊臣秀吉は三木城の包囲に一部の兵力を残したまま、主力の軍を率いて上月城救援に向かうこととなりました。

その一連の別所長治ら播磨国衆離反の不手際に激怒した織田信長から、豊臣秀吉はこの播磨攻めから外され、織田信忠率いる織田軍主力部隊の応援を頼むこととなったものの、結局ケリがつかず再度秀吉の登板となりました。

また、秀吉の上月城救援の後詰に入りながら、毛利を攻めなかった荒木村重(あらき むらしげ)の毛利への寝返りが発覚して、村重もまた居城伊丹の有岡城に籠城を始め、三木城・有岡城共に毛利方へ与する勢力となりました。

そんな経過から、三木城攻略には手間取ることとなりましたが、がっちりと包囲網を固めて天正8年(1580年)初まで掛かって、やっと三木城開城へ追い込み、別所長治の叛乱を抑え込むことに成功しました。

 

同十月七日、又、付城をよせられ、南は八幡山、西は平田、北は長尾、東は大塚、城への近さは五、六町、築地の高さ一丈余。上には二重塀に石を入れ、模雁・舁盾高く結び、重々に柵を築き、川の面に蛇籠を伏せ、梁杭を打ちて梱を掻き、橋の上に番を据え、巴巻く水の底まで、人の通るを用心し、裡には大名小名、宿作の軍屋を立てさせ、小路を通し、辻々に門を切り、昼夜に依らず、人を撰びて通しけり、・・・、

城内には、旧穀悉く尽き、巳に餓死する者数千人、初めは糠蒭を食ひ、中比は牛馬・鶏犬を食ひ、後には人の肉を刺して食ふ事限りなし。・・・

(引用:桑田忠親校注『戦国史料叢書1 太閤史料集 「天正記/播磨別所記」P17 三木城の兵粮責めの条』1965年 人物往来社)

 

大意は、”天正7年(1579年)10月7日、又三木城寄りに付城を作られ、南は八幡山、西は平田、北は長尾、東は大塚、三木城との距離は550~660m、築地塀の高さは3mくらい、その上に二重塀にして石を入れ、竹矢来(たけやらい)を組んで高くし、更に何重にも柵を設け、川の中には蛇籠(じゃかご)を伏せておき、杭を打って柳で梁(やな)を組んで設置し、川の底まで人が通るのを防いでいる。付城の内部には、宿営を作り、路地を作り門を設け、昼夜通行人をチェックする警備をを行なっている。・・・、

三木城内では、在庫の穀物はすべてなくなり、既に餓死者が数千人出ている。初めの頃は、ぬかや馬のまぐさを食べていたが、中ごろには、牛馬・鶏・犬を食べ始め、その内最後には、死者の人肉を食べるものが続出し始めていた。”位の意味です。

三木城への山越えの最後の秘密の食料搬入山岳ルートの拠点であった、摂津国の霊場丹生山(たんじょうさん)の明要寺(みょうようじ)が、軍師竹中半兵衛によって発見され、天正7年3月末に秀吉軍の夜襲によって潰されており、それ以来急速に三木城内の食糧事情が悪化したものと思われます。

この天正8年初の三木城落城も、長期間の兵糧攻めによる飢餓が、別所勢の継戦能力低下を決定づけ、最終的に豊臣秀吉が勝利した例と云えそうです。

 

”鳥取城“の『兵糧攻め』で、豊臣秀吉が城下で米の買占めをやった!ホント?


(画像引用:久松山と鳥取城址ACphoto)

 

 

天正8年(1580年)春、豊臣秀吉は三木城の決着がつくと休む間もなく、引き続き毛利勢力と対抗すべく陣ぶれを出し、因州(因幡ー鳥取)の攻略に取り掛かります。

5月から、丹波との国境にある毛利方の付城鹿野城を攻め落として、続いて6月末に豊臣秀吉は領主山名豊国(やまな とよくに)の在城する鳥取本城を2万5千もの大軍で包囲します。

7月に、領主山名豊国は豊臣秀吉と因州旧領8郡安堵の条件で、形の上では和議ながら”豊臣秀吉に味方する”と言う事実上の降伏(城下の盟を成す)をします。

しかしながら、豊臣秀吉自身はその後姫路へ引き上げたものの、因州8郡の内、実弟豊臣秀長に6郡(八東郡・法美郡・知頭郡・気多郡・八上郡・岩井郡)の管理、領主山名豊国には2郡(邑美郡・高草郡)の管理の命を下し、秀長はそのまま現地に居座って事実上の占領を始めた為、因州の長老・国人領主たちが”約定違反である”と騒ぎ始め、安易に和議(降伏)した領主山名豊国を突き上げ始めます。

10月になってとうとう、領主山名豊国は、毛利方に助けを求める重臣たちに鳥取城を追放され、城方は周囲に付城の築造を始め、豊臣秀吉に対する反抗の姿勢を明らかにします。

その動きに対応して、、、

しからば時に当るに新穀稔り候期に候、因州六郡の内に入会い、余米残らず取り付け買い請け収蔵致し、所務仕るべく仰せ付けられ候。・・・、(天正八年)十月四日の事に候。

(引用:吉田蒼生雄全訳『武功夜話 <二> 巻八 前野長康帰播して因州表の事筑前守に報告の事の条』1988年 新人物往来社)

 

一、杉原七郎左衛門、副田甚兵衛は算明るき者に候わば、六郡の在郷諸村に入会い、新穀の取入れを相見計らい商いに通じたる者を拵え、金銀を惜しみなく差し遣わし、五百石なるとも、千石成るとも賄い集め、たとえ一石たりとも城方へ渡す間敷き事。これは先々城方兵粮相続き間敷くは必定、城詰め肝要なるべき事。

(引用:吉田蒼生雄全訳『武功夜話 <二> 巻八 羽柴秀長因州在番の事の条』1988年 新人物往来社)

大意、”そうであれば、丁度新米が実る時期に当り、因州六郡に入って、余剰米を残らず買い付け収蔵する段取りを取るようにと、御舎弟豊臣秀長様から云いつかっております。天正8年10月4日のことでした。

一、杉原家次(すぎはら いえつぐー秀吉正室”ねね”の叔父)、副田甚兵衛(そえだ じんべえー秀吉妹で後に徳川家康正室となる”朝日”の夫)は数字に明るい者なので、因州六郡に出向かせて、収獲した新米の買い付けを商人を帯同して、資金を惜しみなく使って、500石・1000石でも買い集め、たとえ一石たりとも城方に渡さないようにする事、これに失敗すれば城方の兵粮が続いてしまうことは間違いなく、城攻めのイロハです。”位の意味です。

このように、豊臣秀吉は、先ず管理下にある因州6郡内で、収獲される新米をすべて城方に渡さないように厳重に買い上げて、”鳥取城の籠城戦”に備えてゆきます。

そして、翌天正9年(1581年)3月に、毛利方から来援して鳥取城の城将となった吉川経家(きっかわ つねいえ)は、前年に因州二郡分以外の新米の搬入に失敗した鳥取城米蔵の在庫を見てがっくりした訳です。

天正9年6月初めの現地軍の軍議でも、

  1. 備州の宇喜多秀家(うきた ひでいえ)を使って、毛利をけん制しているので、毛利本隊は動けないし、鳥取城内の兵粮はもうあまり持たないはずなので、一揆衆を城内に追い込むなどして、より一層城内の食料の消費量を増加させること
  2. 豊臣秀長は、本陣をもっと鳥取城近くへ移す事
  3. 浅野弥兵衛に命じてあるが、船をもっと増やして、海上からの毛利の接近を必ず阻止すること
  4. 武器弾薬の補充を送るので、受け取って、姫路城の目処が付き次第出陣するのでそれまで頑張る事

など秀吉は書面で命令を的確に伝えています。

そして、6月末に秀吉軍全軍出陣し、鳥取本城を3万近い大軍で押し包み、天正2年の織田軍の勢州長島攻めに酷似した地形を持つ、鳥取加留川の河口沼沢地での島々にある鳥取城の5か所の付城への攻撃が始まりました。

この関連で、織田信長が丹後の細川藤孝(ほそかわ ふじたか)父子に命じて鳥取応援に行かせています。。。

 

七月五日秀吉の軍勢取鳥の城を取巻、亦浅野・杉原等を以後詰の通路を塞く、藤孝君は信長の命を受て、松井康之・有吉立行・船監桑原寸介を先として千五百余の士卒を差添、大船数艘にて取鳥に馳向ふ、

(引用:細川護貞監修『綿考輯録 <一>藤孝公 139頁』1988年 出水神社)

 

大意、”天正9年(1581年)7月5日、豊臣秀吉の軍勢が鳥取城を包囲し、浅野長政・杉原家次に出口を封鎖させた。細川藤孝は織田信長の命令で、家老松井康之・有吉立行と船奉行の桑原寸介を先陣として、1500名の兵士を付けて大船数隻で鳥取に出発させました。”位の意味です。

 

また、信長は、、、

 

次ニ今度其国賊船依申付彼口身方城々兵粮丈夫入置、其外敵船等追込灘□□深々相働之旨、是又肝心候、・・・

八月廿三日   信長(黒印)

長岡兵部大輔殿

(引用:奥野高廣『増訂織田信長文書の研究 下 (940) 長岡藤孝宛黒印状』2004年 吉川弘文館)

 

大意は、”次に、因州攻めに関し、海賊を味方につけて護衛をさせて兵粮を無事に運ぶことと、敵船が潜入しようしても彼らに撃退させるように、海が荒れていようがきちんと働かせることが肝心である。

天正9年8月23日   織田信長(黒印)

細川藤孝殿”

位の意味です。

このように、織田信長が、豊臣秀吉の鳥取攻めに関し、この戦いが毛利との一戦でもあることから、丹後の細川藤孝にも日本海の海上での出陣命令を出しており、この鳥取攻めが織田軍全体の戦いになっていることがよく分かります。

つまり、通説にあるような、若狭小浜の商人たちに黒田官兵衛が働きかけて、海上の運送・防禦をさせたのとは、規模の違う話だったことが判明する訳です。

そして戦いの方は、天正9年10月25日に城将吉川経家(きっかわ つねいえ)が、城兵5000名の助命を条件に自刃して果て、ここに鳥取城は開城します。

と云う事で、、、

通説にあるような、軍師黒田官兵衛の指揮のもとに、若狭の商人たちに鳥取市中のコメを密かに買占めさせて、なんと鳥取城内の米蔵の役人が市中相場の高いのにつられて藏米を商人に横流ししたというのは、どうやら江戸時代創作の講談話のようで、実態は、豊臣秀吉が和議の約定違反をして安堵されたはずの領地に強引に駐屯を行なって、丁度収穫期に当る村落の新米を商人も使って漏らさず買い取ってしまったというのが真相のようです。
当時、黒田官兵衛は改修姫路城の築城に忙殺されており、因州攻めの段どりに加われなかったことと、やはり、いくらなんでも城内の貯蔵米を金に目がくらんで城方の役人が売り払ったというのは、当時の緊迫した状況から考えてあり得ない話だと思われます。

この話は、当時のこの実戦に参加していた豊臣方武将である前野将右衛門らの証言が基になって書かれている情報(『武功夜話』の記述)ですから、かなり信頼度の高いものだと判断してよいと考えられます。

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”備中高松城”の清水宗治は、なぜ毛利家に見放されたの?

 

天正10年(1582年)6月2日の払暁に、歴史上の大事件『本能寺の変』が起こり、それからわずか11日後の6月13日に謀反人とされている明智光秀(あけち みつひで)と豊臣秀吉が京都の山崎で戦い、勝利した豊臣秀吉は天下人への階段を上り始めるのは、周知のとおりです

その最初のステップは、備中高松城を攻めている豊臣秀吉と毛利本隊が足守川(あしもりがわ)を挟んでにらみ合いをしているはずが、『本能寺の変』を境にまるで、昔から友好国同志だったように、”信長討死”の報が入った途端に、あっさり”手打ち”となり、豊臣秀吉は後ろも振り返らずに、全軍撤収してひたすら畿内へ向かって走って行けた事です。

通説では、すでに秀吉側と毛利側とで、開城交渉がすすんでおり、6月3日の夜に毛利方より早く『本能寺の変』の情報を得た豊臣秀吉は、3~4時間の交渉で『本能寺の変』の情報が入っていない毛利方との交渉を進めて3日深更に妥結して、4日に高松城主清水宗治(しみず むねはる)の切腹・開城を実行したとなっています。

しかし、この話はおかしいのです。毛利方は、鳥取城の教訓から備中高松城には、毛利小早川家から応援2000名の兵士とたっぷりの食料を搬入して籠城戦でも対応できる準備を万端に整えており、一方、豊臣秀吉が『備中高松城の水攻め』の工事が終わり、水を貯め始めたのは5月19日になってのことでした。

つまり、通常の戦国合戦に於いては、たった2週間余りの短期間で籠城戦の準備を整えた城が、食料不足による飢餓が原因で開城せねばならない理由など全くないのです。あるとすれば、それは政治的な理由のみです。

ところが、通説によると、、、

 

高松城では、五月の二十五、六日ころには、町家などはもはや水が床を高く越えて浸し、浮きつ沈みつするという有様で、糧食もまた尽きて、城中はすこぶる窮迫した。けれども輝元の援軍は岩崎山に到着しながら、秀吉の兵とは戦闘を交えることができないという状態であり、城兵の前途は全く悲観すべき立場に置かれてしまった。そこで城将清水宗治は、城兵の助命を条件とし、衆に代って自殺し、城を明け渡そうと、秀吉に申し出た。そして輝元もまた開城を宗治に勧めたけれども、宗治の自決には反対するという有様であった。

(引用:高柳光寿『戦国戦記 本能寺の変・山崎の戦 88頁』1958年 春秋社)

 

と、まるで1年以上の籠城をした結果のような城内の惨状を述べていますが、これが事実は2週間位しか経過していないことから、まったくの作り話であることが判明します。やはり”備中高松城の開城”は、『水攻め』の結果ではなくて、純粋に”政治的な理由”と考えるのが普通だと思われます。

 

  • 6月2日払暁   『本能寺の変』発生
  • 6月3日夜    『本能寺の変』の情報を得て、毛利方と和議成立
  • 6月4日     備中高松城の自刃確認
  • 6月6日     豊臣軍全軍畿内への移動開始

 

このタイムスケジュールはどう考えても、”シナリオ通り進んだ結果”でなければ、実現不可能なタイムスケジュールだと思われます。

備中高松城主清水宗治は毛利家小早川隆景(こばやかわ たかかげ)の配下の武将だったと云います。”毛利家両川”と謳われる小早川隆景のもう一方の吉川元春(きっかわ もとはる)は、豊臣秀吉に『兵粮責め』に遭い、干殺しにされて天正9年(1581年)11月末に開城させられた”鳥取城”に対して、この天正10年(1582年)2月に再度海途奪還戦を挑み、付城ひとつを取り返しています。

となると、この謀略には、毛利家にあって吉川元春が”売僧(まいす)”と云って毛嫌いしている毛利家外交僧安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)と小早川隆景が関与し、豊臣秀吉と黒田官兵衛のコンピと極秘で進められていたものと考えられます。

京都の本能寺現場ウォッチャーの細川藤孝(ほそかわ ふじたか)からの確報である”織田信長死去の第一報”の到着をもって、事前に合意していたシナリオ通りに、黒田官兵衛と安国寺恵瓊との間で早急に実行に移されたと云う事ではないでしょうか。事実、和議成立後でさえも、織田信長の死を知ってこの和議を不審に思う吉川元春が秀吉軍の追撃を主張するも、小早川隆景が”和議を結んだ信義”を理由に全力で止めています。

このシナリオがなければ、歴史に残る事実(『大坂城織田信澄殺害』・『豊臣秀吉の中国大返し』・『明智光秀との山崎の戦い』)の実現は不可能であったことは火を見るよりも明らかと云えそうです。

すべての出来事が”偶然(天運)・ラッキー・幸運”でまとめられていますが、大博打の目は本当に幸運に出たとしても一回切りです。こんなに続くのは、本人たちの描いたシナリオが事前に存在した証拠ではないでしょうか。

結論として清水宗治の死は、豊臣秀吉・黒田官兵衛・安国寺恵瓊・小早川隆景の野望の犠牲になって使い捨てられた結果と思われます。

 

北条氏政の”小田原城”は、なぜあんなに早く開城したの?


(画像引用:小田原城天守閣ACphoto)

 

 

豊臣秀吉の北条家『小田原城攻め』は、天下統一事業の締めくくりとして、北条家と真田家の争いである『名胡桃城(なぐるみじょう)事件』を契機として、豊臣秀吉が北条家に天正17年(1589年)11月に宣戦布告をし、天正18年(1590年)3月に大軍で出陣しました。

それは、寄せ手の豊臣方が海陸併せて25万余もの大軍で、迎え撃つ北条方も7万に上る勢力でしたが、北条氏政(ほうじょう うじまさ)は自慢の”小田原城での籠城戦”を選択しました。

豊臣秀吉は、小田原城から西3kmのところにある笠懸山(かさがけやま)に総石垣の城を80日間くらいで築き長期戦の構えを見せ、ここ(笠懸山の石垣城は豊臣秀吉の京都政庁の出張所と化した)を舞台に関東・奥羽地方への宣撫活動を始め、最後に北条頼みの伊達政宗の臣従までも成功させて、政治の実力の違いを北条方へ見せつけます

北条氏政の考えていた従来の合戦とは、全く違う戦い方(財力と政治力)を目の前で展開させてゆく豊臣秀吉に対して、北条氏の戦意は大きく挫けて行ったと考えられます。

関東一円にある北条氏の支城は、武州の忍城(おしじょう)を除いて個別撃破・調略されて行き、本城の小田原城に籠ってみたものの、籠城戦に必要な”後詰の勢力”が全く消滅してしまい、北条氏の勝利の方程式は大きく崩れて行きます。

このように、豊臣勢力の巨大さを見せつけられた北条氏は、豊臣方からの”降伏の勧告”に乗って行くことになり、、、

孝高承諾して家人井上周防守之房か弟平兵衛に潜に太田十郎氏房の陣に遣し、和睦の事を申し入らる。氏房一段同意たれとも、氏政父子爾々承引なきの由に付て、秀吉公又宇喜多宰相秀家に命せられ、家長花房助兵衛幸次に云含めて、重て氏房の待口へ矢文を射込、氏政父子和融あらは伊豆、相模の両国領せらすへし。

(引用:中丸和伯校注『第二期戦国史料叢書15 関八州古戦録 巻之第二十 小田原城大扱の事の条』1967年 人物往来社)

大意、”黒田官兵衛は承諾して、側近の井上之房か弟の平兵衛を、密かに北条方太田氏房の陣に派遣し、和睦を申し入れさせた。氏房は自身では同意するものの、北条氏政父子がうんと言わないと云う。そこで豊臣秀吉又は宇喜多秀家に命じられて、花房幸次に云い含めて、再び太田氏房の陣中へ、もし北条氏政父子が和議に応ずるならば、伊豆・相模の両国は安堵しようと云う矢文を打ち込んだ。”位の意味です。

このように、最後の場面で、豊臣秀吉から伊豆・相模の二国安堵の了承を与えて和議に持って行った事が分かります。

豊臣秀吉は、莫大な経費をかけて、周りの状況を作り上げて北条氏政に脅しをかけて気弱にさせ、最後に伊豆・相模の本領安堵の話を持ち出して開城させ、結局領地没収・本人処刑としました

北条氏政が、先は見えないものの、まだまだ継戦能力を大きく残したまま、鉄壁の小田原城を開城してしまったのには、こんな事情があった事がわかり、最後の最後まで豊臣秀吉に騙されたと云う気の毒な顛末でした。

この後に豊臣秀吉は、政策方針として徳川家康の『関東移封』をするつもりだったので、そもそもこの豊臣秀吉が北条に本気で伊豆・相模の本領安堵などするわけがないのです。この徳川家康の『関東移封』話を、徳川家内では下位の侍まで承知していたと云いますから、対する北条家は、情報収集能力が大きく欠けていたのではないでしょうか。

こうした事が、豊臣秀吉の”真田昌幸(さなだ まさゆき)を使った「名胡桃城事件のワナ」”に嵌められて、滅亡戦に追い込められた原因でもあるのだろうと考えられます。

これを通説では、称して”北条家は井の中の蛙で田舎者だった”と云いますが、北条氏政は、戦国武将として最低限必要な情報収集能力もしくは分析能力が、不足していたことが致命傷になったようです。

 

石田三成は、”忍城”をなぜ水攻めにしたの?


(画像引用:忍城ACphoto)

 

 

豊臣秀吉より、東上野舘林(たてばやし)城と武州忍(おし)城攻めを命じられた石田三成(いしだ みつなり)は、天正18年(1590年)5月22日より舘林城へ攻めかかり同末日には落城させて、武州忍城へ取り掛かります。。。

 

石田治部少輔申けるは、当城は要害の地にして剰兵粮、矢玉も沢山に籠置しと聞へたれは、輙くは陥り難からん。城郭の四方に堤を築き、利根川、荒川を切懸けて浸責にすへしとて、

(引用:中丸和伯校注『第二期 戦国史料叢書15 関八州古戦録 武州忍の城初度軍浸責の事の条』1967年 人物往来社)

 

大意は、”石田三成が言うには、忍城は要害の地にあって、しかも兵糧が有り余るほど有り、武器弾薬も十分在庫があるとの事で、すぐには陥落させることは難しい。城の四方を堤で囲み、利根川・荒川を使って水攻めにすべしと、”の意味です。

城の周囲は深田に囲まれていて、城に続く道は細く、攻めかけて行ったものの、一気に大軍を寄せることが出来ない地形で埒が明かないため、三成は豊臣秀吉の許可を得て、備中高松城のように”水攻め”にする作戦に出ます。

と石田三成は純粋に作戦上の問題で、秀吉が備中高松城でやった通りのことをやるのでと云っています。

ところが、豊臣秀吉は、、、

 

この戦いが東国の人びとに武威を見せつけるショーであることを自ら明らかにしているのだ。

はたして、秀吉は、このすぐあとに、武蔵の忍城を水攻めにする事を決めた。そして、かつて彼が備中の高松城を水攻めにしたときに築いた堤防(全長四キロメートル)を、はるかに凌駕する全長二八キロメートルもの大堤防を築かせるのだが、いうまでもなくこれも、東国の人びとに関白の武威を見せつけるための演出のひとつであった。

(引用:森田善明『北条氏滅亡と秀吉の策謀 232頁』2013年 洋泉社)

 

とあり、この”忍城への水攻め”は、純粋に戦術上の問題以外に、豊臣秀吉が自らの武威を東国武士に見せつけ、今後の東国を順調に平定するための恫喝として使う政策的な意味があったと云います。

関八州における北条の支城がその豊臣秀吉の大軍に恐れをなして比較的簡単に開城に応じている中、この武州忍城だけが激しい抵抗を示し、小田原城以外では、秀吉の関東における象徴的な攻城戦となりました

結果は、大堤防が完成するも予想外の大雨で、突貫工事の長大堤防が決壊して寄せ手の三成軍が逆に壊滅すると云う、後年の石田三成の”関ケ原の戦い”を暗示させるような出来事もあって、この後武州忍城は、豊臣秀吉の大軍を相手に本城小田原城が開城するまで頑張り抜きました

この逸話は、作家和田竜氏によって歴史小説『のぼうの城』に描かれており、野村萬斎主演によって映画化までされています。

 

豊臣秀吉は、なぜ城攻めで『力攻め』より『兵糧攻め』を選ぶの?

小田原城攻めの最中に豊臣秀吉が、配下の浅野弾正少弼(あさの だんじょうしょうひつー浅野長政)と木村常陸介(きむら ひたちのすけー木村重茲)に宛てた書簡に、、、

 

一、ひたち・弾正一人の人数ほともたせられ候時さへ、三木の干殺、鳥取のかつやかしころし、十三か国持候毛利を、六丁七町之内ニ、五万六万の人数を後巻ニうけさせられ候てさへ、高松城を水責ニさせられ、太刀も刀も不入、水をくれ候て可被成御覧と被思召候刻、両人の者ハ存候哉、・・・

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <四> 3213 浅野弾正少弼他宛朱印状』2018年 吉川弘文館)

 

大意は、”わしは、常陸介や浅野弾正ひとりくらいの兵力したもっていない時でさえ、「三木城・鳥取城の兵糧攻め」をやってのけ、13か国もの国持である毛利軍が、2㎞くらいの間に5~6万の兵力が詰めて来るのと対峙した時でさえ、備中高松城の水攻めをやり、武力を使わないで、水だけでやるのを見てみよと思っている頃のことをそちらふたりは知っているかや?”位の意味です。

つまり、敵の堅固な城攻めに、『兵糧責め』・『水攻め』だけで、武力を使わず・戦闘で無駄に兵力を消耗させることなく、兵力を温存したままで攻城戦を勝ち抜いて来たことを部下に自慢しているわけですが、これが秀吉の合戦の時の基本方針なのだろうと思われます。

これは、豊臣秀吉自身が武家の出身でないため自前の兵力を持たず、知力だけで出世して来た経歴と、更に竹中半兵衛と黒田官兵衛と云う能力の高い軍師を得ていたことから来ているようです。

 

豊臣秀吉は、『兵糧攻め』の莫大な資金をどのように得ていたの?

江戸時代初期の作家小瀬甫庵による『太閤記』には、、、

 

或問。殿下秀吉両度の金配は、道にもちかゝらんや、否。對曰、是は富るをつぎ、貧きをば削る意味也。何道に近かるべけんや。

百姓を辛くしぼり取、金銀の分銅にし、一往目を悦ばしめ、餘るを以侯大夫に施し給ひしは、恵下給ふに非ず。

(引用:小瀬甫庵/桑田忠親校訂『太閤記』1984年 岩波文庫)

 

大意、”ある人が言うには、太閤殿下の金配りは、人の道に近いのか、そうではないのか。

答えて言うには、これは、金持ちを富ませて、貧乏人からむしり取ると云う意味であるから、どうして人の道に近いなどと言えようか。

百姓からひどく絞り取って蓄財し、ちょっと配って悦ばせ、あとは大名諸侯に配るのだから、民に配るわけではないのだ。”

との指摘が小瀬甫庵の『太閤記』の冒頭の記述にあり、これは豊臣秀吉の財政の根本が民百姓への酷税であったことを示しています。

 

一、百姓其在所ニ有之田畠あらすへからす、其給人其在所へ相越、百姓と令相対検見を遂、其毛之上升つきをして、有米三分一百姓ニ遣之、三分二未進なく給人可取事、

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <三> 1844 奉公人等ニ付定写』2017年 吉川弘文館)

 

大意、”一、百姓はその村にある田畑を荒らして(放置したままにして耕作をしないこと)はいけない。領主はその村へ出かけて行って、百姓と直接会って収穫量の検査をし、3分の1を百姓に渡し、3分の2はもれなく領主が受領すること。”位の意味です。

このように農民から、しっかり検査に出かけ収穫高の3分の2を取り上げて来いと云う、豊臣秀吉の命令です。

当時は、分け前が四分六か、五分五分くらいが大半だったと思われる中、収獲の7割近くを取り上げてしまえと云うのは、とんでもない重税であったことが分かります。

豊臣秀吉は、その他鉱山開発・貿易振興にも熱心に努め、豪商達から運上金(売上税・関税)を収めさせていましたが、やはりその収入の太宗を占めるのは、農民からの年貢・米でした。

そのため、史上有名な『太閤検地』が進むにつれて、重税に耐えかねた在郷百姓の逃散(在所からの逃亡・夜逃げ)が増加し、全国に人手不足による荒田(耕作放棄地)が増加し、各大名とも年貢の未収・減収に悩むこととなって行きます。

 

まとめ

武士の出身ではないために、武力を使った侵攻を出来るだけ避け、調略や兵粮攻めによる籠城戦などで、敵味方の兵の消耗を出来るだけ避けようとした武将であったと云うのが豊臣秀吉の一般的な見方ではないでしょうか。

しかし、農民は武力を持たない丸腰の人びとだというのは、現代人の大きな勘違いであって、昔の合戦の主力はほとんど農民であったことを考えると、”武士と比べて農民は平和を求める”と云うのが、ほとんど嘘であることが分かります。

その際たるものが豊臣秀吉ではないでしょうか。

秀吉が調略と兵糧攻めを好んだのは、地盤のない武将であった豊臣秀吉は、今持つ兵力の消耗を最小限にする戦い方法を常に考えていたと思います。出自の怪しい豊臣秀吉の最初の家来たちは、蜂須賀小六・前野将衛門ら”川並衆”と呼ばれた昔からの仲間である野武士たち(野盗・河原者・武装農民ら)でした

何でもありの戦い方をする非武士である彼らを手足のように使っていた豊臣秀吉は、何度でも戦えるように、配下の野武士たち同様に、怪我したり死んだりすることのない安全な戦い方が身についていますが、それが豊臣秀吉の戦略戦術になっていったものと考えられます。

今回はそんな豊臣秀吉の攻城戦の様子を少し紹介してみました。

豊臣秀吉が農民から平然と収獲を収奪出来るのは、彼自身が農村の最下層で暮らしていた経験を持つからで、農民のしぶとさを、織田信長など武士育ちの人間にはわからないほどよく知っているからだと考えられます

農民は、彼らの考え・行動様式が全部、豊臣秀吉に読まれているので、他の領主たちよりもやりにくかったはずです。なんせ、百姓がどこに食料・お金を隠しているのか、どうやってやりくりしているのか全部知っているのですから。

ですから、豊臣秀吉の財政基盤の主力は一番取りやすい農民がら取り上げていたのですね。

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参考文献

〇桑田忠親校注『第一期 戦国史料叢書1 太閤史料集』(1965年 人物往来社)

〇谷口克広『信長軍の司令官』(2005年 中公新書)

〇谷口克広『織田信長合戦全録』(2002年 中公新書)

〇吉田蒼生雄全訳『武功夜話 第二巻』(1988年 新人物往来社)

〇火坂雅志『軍師の門 上・下』(2014年 角川文庫)

〇細川護貞監修『綿考輯録 <一>藤孝公』(1988年 出水神社)

〇奥野高廣『増訂織田信長文書の研究 下 』(2004年 吉川弘文館)

〇高柳光寿『戦国戦記 本能寺の変・山崎の戦 』(1958年 春秋社)

〇高柳光壽・松平年一『戦国人名辞典 増訂版』(1981年 吉川弘文館)

〇中丸和伯校注『第二期 戦国史料叢書15 関八州古戦録 』(1967年 人物往来社)

〇森田善明『北条氏滅亡と秀吉の策謀』(2013年 洋泉社)

〇名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <四> 』(2018年 吉川弘文館)

〇脇田修『秀吉の経済感覚』(1991年 中公新書)

〇小瀬甫庵/桑田忠親校訂『太閤記』(1984年 岩波文庫)

〇名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <三> 』(2017年 吉川弘文館)

 

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