執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
豊臣秀吉は、徳川家康を『関東へ移封』させて左遷した!ホント?
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徳川家康の『関東移封』は、豊臣秀吉による”左遷”だったのかどうかわかります。
『小牧長久手の戦い』の勝利者は誰だったのか、判明します。
徳川家康は織田信長後継を豊臣秀吉に譲ったのか?
豊臣秀吉は、徳川家康の『関東移封』をいつ思い付いたの?
目次
『関東移封』は本当に左遷なの?
左遷だとみられる理由
安政7年(1860年)生れの明治の国史学者田中義成(たなか よしなり)氏によれば、、、
秀吉の家康を八州に封せしは、其名優遇にあるも、其実は敬遠するにあらざるを得んや。
・・・
之を要するに家康を関東に移し、家康の旧領には豊臣氏の一族元勲諸将を封ぜしは、重大なる政治的意味を有するに似たりと云うべし。
(引用:田中義成 『豊臣時代史 204~205頁』1980年 講談社学術文庫)
とあり、江戸末期・明治時代の評価としては、この関東移封は、豊臣秀吉の徳川家康への警戒心の深さだと指摘しているようです。
これの下地となったと見られるものに、、、
秀吉今度北條を攻め亡ぼし、その所領ことごとく、君(家康)に進らせられし事は、快活大度の挙動に似たりといへども、その実は当家年頃の御徳に心腹せし駿・遠・参・甲・信の五国を奪ふ詐謀なること疑ひなし。其のゆへは関東八州といへども、房州に里見、上野に佐野、下野に宇都宮、那須、常陸に佐竹等あれば、八州の内、御領となるは僅かに四州なり。
(引用:徳冨蘇峰『近世日本国民史 豊臣時代丙篇 261頁 「徳川実記」からの引用文』1981年 講談社学術文庫)
とあり、気前よく8州を徳川領としているが、実態は4州しか自領ではなく、直前の5州あった事と比べれば、縮小となっているではないかと『徳川実記』の作者はこの豊臣秀吉の移封命令に怒っています。
豊臣時代の後が徳川氏の時代(江戸時代)となったことも、この徳川家の史観にイメージが固定する原因ともなったようです。
左遷とは考えられないと言う理由
これに関して、明治の大ジャーナリストの徳冨蘇峰(とくとみ そほう)氏は、、、
蛇の道は蛇が知る。・・・すなわち欣然として移封の命を承け、八月朔日には、江戸に入った。
・・・
家康はすこぶる迅速に、移封の措置をした。七月十三日に、そのことが発表せられ、八月朔日には、自ら江戸に移り、その臣下も八月九月に、ほとんど移転をおえしめ、その旧領の引渡しを申告した。
・・・
家康が秀吉の意を迎え、志を承け、これを奨順・励往したることは、間違いはあるまい。
(引用:徳冨蘇峰『近世日本国民史 豊臣時代丙篇 268~269頁』1981年 講談社学術文庫)
とあり、公けに命令の出る以前から、すでに”関東移封”は両雄了解事項であったかのように、徳川家康は何の差しさわりのないが如く粛々と、豊臣秀吉の東北仕置へ出発するのに合わせるように、短時間で家臣共々任地の江戸に着任したと言っています。
秀吉の意図は、『本能寺』以降織田家の一員として東北の『惣無事(そうぶじ)』達成に尽力している家康の功労を認め、『唐入り』準備を急ぎたい秀吉は、この後の『東国の重し』として、家康が関東・奥州に睨みを利かせることを期待していて、それを家康も承知していたと述べているようです。
また、歴史家の渡邊大門(わたなべ だいもん)氏は、、、
家康の東国入国は、豊臣政権の東国支配構想という大きな戦略の中で実施されたもので、小田原攻め以前から関東・奥羽の問題に対応していたという家康の役割に応じた処置だったこと、関東のみならず奥羽の問題とセットで考えねばならないことが明らかになった・・・
(引用:渡邊大門編『家康伝説の嘘 113頁』2015年 柏書房)
と述べられていますが、秀吉と家康は、家康が上洛臣従した折に、戦略の協定が出来たと考えてよいのではないかと思います。秀吉にとっては、西方へ外征『唐入り』の構想があり、東国を抑える勢力として徳川家康に期待したのではないかと考えられます。
従って、近年の研究は、徳川家康の『関東移封』に関して、『左遷』と言うには当たらない可能性が高いと言う意見が主流になりつつあるようです。
(画像:小牧山城2019.1.4投稿者撮影)
豊臣秀吉と徳川家康の初めての直接対決『小牧長久手の戦い』は、本当に家康が勝ったの?
先ず、、、
一般的に、、、
豊臣秀吉は天正10年(1582年)6月2日の『本能寺の変』で主君織田信長の横死の後、クーデターを起した主犯と言われる”明智光秀(あけち みつひで)”を6月13日の『山崎の戦い』で速攻に打ち破り、主君の仇討ちを見事に果たしました。
そして、6月27日には織田家家族の避難先である尾張の清須城で、生き残った信長の二男信雄(のぶかつ)と三男信孝(のぶたか)を交えて織田家重臣たちによって跡目問題が話合われ(所謂『清須会議』と言われる)たものの、跡目を信雄と信孝が主張して譲らず、結局二人を外した重臣たちの話合いで、秀吉が推す故嫡男信忠の子”三法師”が継ぐことに決着して、主君の仇討ちをしたこともあり、以後織田信長の跡目は三法師君を後見する豊臣秀吉が継いだような理解が多いのではないかと思います。
しかし、近年の研究により、、、
織田家家督の秀忠の嫡男であった三法師が継ぐことは織田家内部では当然の事とされており、二人の叔父信雄と信孝が争っていたのは、家督の三法師が幼少の頃の『御名代』争いであったことが明らかになっています。
これも兄弟二人が互いに譲らないため、結局重臣(宿老)たちが家督の三法師君を支えて行くことが決定し、この天正10年(1582年)6月27日に”清洲会議”で出来た体制を耳慣れませんが、『織田体制』と近年呼ぶようになっているようです。
しかし、この『織田体制』も、織田兄弟の相続領地の境界争い、重臣同志の柴田勝家と羽柴秀吉の確執などで、数か月を経ずに瓦解することとなりました。
それは同年10月28日に、豊臣秀吉が重臣丹羽長秀(にわ ながひで)・池田恒興(いけだ つねおき)・堀秀政(ほり ひでまさ)らと結託して、”『清洲会議』で決まった家督の三法師君を廃し、二男の織田信雄(おだ のぶかつ)を家督とするクーデター”を挙行すると言う形となって現れました。
これに関して豊臣秀吉は、、、
一、・・・
誓紙之筈被相違、柴田(勝家)以所行、三七(織田信孝)殿被企御謀叛候条、此上者惟五郎左衛門尉(丹羽長秀)・池田勝三郎(池田恒興)・我等申談、三介(織田信雄)殿を御代ニ相立馳走可申ニ大方相究候、爰元弥手堅申付、家康(徳川家康)可請御意と存候刻、被仰越候、満足仕候事、
・・・
(天正十年)十一月一日 秀吉(花押)
石川(数正)伯耆守殿
(引用:名古屋市博物館編 『豊臣秀吉文書集 <一> 532石川伯耆守宛書状 』2015年 吉川弘文館)
大意は、”『清洲会議』での取決めに違反して、重臣の柴田勝家を動かして、三男の織田信孝殿が謀叛を企てられた。此の為に、丹羽長秀・池田恒興らとともに豊臣秀吉は、二男の織田信雄殿を家督に立てることを実行した。この事について徳川家康も同意されたとのことで、とても満足している。”位の意味です。
とこのように、織田信孝が柴田勝家と組んで謀叛を起こしたのでやむなく対応したと、秀吉の”クーデターの言い訳”の書状を徳川家康の重臣石川数正へ出して、徳川家康へ連絡しています。
この一連の動きで豊臣秀吉が翌天正11年(1583年)4月22日に越前北ノ庄にて柴田勝家を討ち取り、織田家の家督二男織田信雄・筆頭家老豊臣秀吉の体制が出来上がりました。
そして翌天正12年(1584年)に入って、豊臣秀吉は事実上の豊臣政権に不満を抱く織田信雄を挑発し、それに乗った織田信雄が”秀吉と気脈を通じた”として秀吉より付けられた三家老を成敗したことをきっかけに、秀吉と信雄が激突して行きます。
そして、織田信雄が父信長の盟友であった徳川家康へ援助を求めたことから、秀吉の率いる織田軍と織田信雄・徳川家康連合軍との戦(小牧長久手の戦い)へと発展して行きます。
つまり、『小牧長久手の戦い』の真相は、そもそも豊臣秀吉が織田信雄から政権を奪うことを目的とした”織田政権簒奪戦”だったのです。
通説では、この『小牧長久手の戦い』は、初期の長久手での合戦で秀吉側諸将が討死をし部隊は壊滅して、大将格の豊臣秀次が這う這うの体で逃げ帰ったと言う徳川家康の大勝利でしたが、政治的には豊臣秀吉の勝ちと言う、両者痛み分けのような言い方がされています。
ところがです、豊臣秀吉と徳川家康の和睦文書(伊木文書)によると、、、
1.織田信雄の実子および重臣の実子又は母親を人質に出す事
2.信雄領地の北伊勢四郡を引き渡す事
3.信雄領地の尾州犬山・河田には、秀吉の兵を駐屯させる事
4.徳川家康の実子および家老石川数正の実子を人質に出す事
(原文参照:名古屋市博物館編 『豊臣秀吉文書集 <二> 1261 伊木長兵衛尉宛朱印状』2016年 吉川弘文館)
など人質の提供が取り決められており、天正12年(1584年)11月13日に豊臣秀吉から『小牧長久手の戦い』で戦死した重臣池田恒興(いけだ つねおき)・元助(もとすけ)父子の老臣伊木忠次(いぎ ただつぐ)宛に出されたこの書状により、この合戦の結末の真相は、なんと織田信雄・徳川家康連合軍が、事実上”豊臣秀吉”に降伏していたことが判明します。
そして、、、
(天正十三年二月)廿六日、・・・
伊勢國司(織田信雄)今日上洛云々、・・・
(三月)一日、・・・
三介(織田信雄)殿任大納言、其段秀吉へ御案内云々、内々自秀吉依被申入、唯今口宣ヲ被見也、・・・
(引用:橋本政宣他3名校訂『兼見卿記 第3 天正13年2月26日及び3月1日の条』2014年 八木書店)
大意は、”2月26日、織田信雄上洛と言う。3月1日、織田信雄 大納言に就任し、その事が豊臣秀吉に知らされたが、これは内々で秀吉が申し入れていたことで、本日唯今このようになった。”位の意味です。
つまり、織田家家督の織田信雄は、豊臣秀吉に臣従することを表明するために上洛し、その結果大納言に任ぜられましたが、これは秀吉からの褒賞だということのようです。
この時点で、豊臣秀吉が織田政権簒奪を達成したことを表明したこととなります。
要するに、ここに至って『小牧長久手の戦い』の第一の目的であった『豊臣政権』の成立が世間に公表されたわけです。この後、秀吉は2年近くの時間をかけて徳川家康を完全に臣従させ、『天下統一』の目処をつけて行くことになります。
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徳川家康は、豊臣秀吉に織田信長の跡目(天下人の地位)を譲ったの?
歴史学者中村孝也(なかむら たかや)氏によれば、この『小牧長久手の戦い』の終戦顛末に係わる”家康文書”が一通も見当たらないとしており、通説では織田信雄が勝手に豊臣秀吉と和睦したため、大義名分を失った徳川家康が兵を引いて終戦となったという奇妙な幕引きを伝えています。
しかし、常識的にこんなことはあり得ず、また秀吉も兵を引いて家康を追撃していないことから、秀吉の言う”家康が人質を出した”という話が”正”であり、家康の言う”秀吉が子を養子にくれというから息子を出した”などという奇怪な話は”誤”である可能性が高いと思われます。
だからこそ、当時の家康関係文書が姿を消しているのではないかと考えられます。おそらく後年の徳川幕府の仕業でしょうね。むしろ関係文書が消えてしまっている事が却って証拠となっているのです。
にも拘わらず”降伏”を公式に認めない行動を取る徳川家康に対して、豊臣秀吉はこの『小牧長久手の戦い』で家康と同様に信雄側に付いた諸勢力を個別撃破して行き、最後に家康の側近とも言える家老石川数正の調略をして、家康を孤立させてゆく戦法を続けて行きました。
こうして秀吉は、”家康の上洛臣従”を求めて行き、天正14年(1586年)5月にその妹朝日姫との婚儀を結ばせて義兄弟となり、更に大政所(秀吉実母)まで岡崎に送る事として、やっと徳川家康は重い腰を上げさせて上洛の途に就かせました。
廿五日、・・・
一、・・・、昨日廿四日、家康六万騎程ニテ在京、明日廿六日大坂へ被越付、於宰相殿宿所爲翫藝能可在之トテ、神人幷猿楽衆被召寄、方々ヨリ盃臺以下遣、寺門ヨリモミソレ酒五荷・盃臺以下承仕使ニテ被遣了ト、
・・・
廿七日、・・・
一、今日大坂へ家康被出了、人數三千程在之云々、
・・・
(引用:多門院英俊 『多門院日記 第4巻 <巻32-巻40> 天正14年十月の条 』国立国会図書館デジタルコレクション)
大意は、”10月25日、昨日24日、徳川家康が六万の兵力で京都に着いた。明日26日大阪へ行き、豊臣秀長の屋敷に泊まり、芸能を楽しむために神職や猿楽衆の踊り手たちが招かれている。あちらこちらから、宴会用の机など集められ、寺院からは酒が5樽・机などが手配されている。・・・
10月27日、大坂へ家康が出発した。伴の行列は3千人ほどいると言う。”位の意味です。
この時天正14年(1586年)10月を以て、徳川家康は正式に豊臣秀吉に臣従し、以後秀吉の臣下として仕えて行くこととなりました。
豊臣秀吉が徳川家康を攻め滅ぼす挙に出なかった理由としては、秀吉として先々に『唐入り(朝鮮出兵)』の目的があり、東国の抑えとしての徳川家康の協力を必要としたことから、殲滅するのではなく臣従することを求めたとされます。
しかし最近では、天正13年(1585年)11月29日に中部地方に発生した『天正地震』の影響で、秀吉配下の武将たちの領地にも大きな被害が出て、合戦への準備が不能となったことが原因だと言う説が有力となっているようです。
家康は、『本能寺の変』勃発と共に泉州堺より”伊賀越え”を敢行して、三河に帰国後即座に上洛する軍を進めていたものの、機敏過ぎる豊臣秀吉に先を越されて上洛されてしまった為に最初のチャンスを逸してしまい、その後展開された織田家の内紛に介入して政権獲得の考えがあったところから、織田信雄の求めに応じて秀吉軍と対峙したものと考えられます。
つまり、当初徳川家康は豊臣秀吉へ政権を譲る気・取らせる気など、さらさらなかったことが分かります。また、秀吉側にも『天正大地震』さえなければ、家康討伐を実行した可能性があるので、どちらも微妙なタイミングで両雄並び立ったようです。
しかし、腹の探り合いを続けて時間が経過する内に、秀吉側に年齢の問題があるものの、朝廷を味方につけている秀吉の優位性から、徐々に強大化する秀吉にとうとう家康が屈した訳で、秀吉側も最大の譲歩をして来たことから、家康も一旦鉾(ほこ)を収める気になったのではないでしょうか。こんな事で、決して家康は秀吉に素直に政権を譲る気になった訳ではなかったようです。
秀吉もそんな事は百も承知で、終生家康に対して気を許さず、側近の石田三成にしっかり見張りをさせていたのでしょう。
豊臣秀吉は、徳川家康に東国支配を任せることをいつ思い付いたの?
そもそも豊臣秀吉が関わっていく”東国支配”は、主君織田信長が武田勝頼を滅ぼした天正10年(1582年)3月に、織田政権が重臣滝川一益を『東国御警固』として上野に配置して、東国支配に直接乗り出したことから始まります。
この体制は、『本能寺の変』によりわずか3ヶ月ほどで崩壊しますが、この短い期間に東国から奥州にかけて、織田信長の命ずる『無事(ぶじ)』の体制が行き届き”織田政権の支配”が出来上がり始めていたようです。
これは、当時東国で勢力を伸ばし支配地を拡大しつつあった北条家と、それに対抗する地場の国人領主たちで構成される反北条の対決構図があり、織田信長の力で”北条の圧力”が押さえ込まれたことから一気に成立していたものと考えられます。
ところが、天正10年6月末に信長横死の報が入るや、北条は信長の出先である滝川一益を攻めて敗退させたものの、織田政権の一角である徳川家康は直ちに出動してこれに応戦し、それに越後から上杉景勝も参戦して、『天正壬午(てんしょうじんご)の乱』となりました。
織田政権側から見ると、これは織田政権に対する北条家の叛乱と位置付けられ、徳川家康は織田政権の御墨付をもらって、堂々と勢力拡大を図ったとも云える訳です。
11月に秀吉が動き(クーデターを敢行)、二男織田信雄を織田家家督へ押し上げ、それに対して徳川家康は北条と和睦してこの変化に対応します。
その後、豊臣秀吉は三男織田信孝を排除し、一転織田家と対決していた上杉景勝と同盟関係を結び、柴田勝家を天正11年(1583年)4月の『賤ヶ岳の戦い』で破って、二男織田信雄を”織田家家督”として政権を握ります。
そして、6月には信雄を安土城から追い出し、大坂城の築城を開始するなど、豊臣政権樹立に動き始めます。
こんな経緯を辿って事態は推移して行きますが、東国の覇権を持つ北条家と徳川家康は同盟関係を構築するに至り、徐々に豊臣秀吉の率いる織田政権と距離を置き始めます。
天正11年(1583年)11月になると秀吉は、徳川家康に対して、有名な書簡を出します。。。
従甲州御帰城候間、以一翰申入候、仍信州御手置候、丈夫被仰付候由、肝要存候、兼而又関東ハ無事之儀被仰調候よし、被仰越候、乍去于今御遅延に候、如何之義に御座候哉、最前 上様(織田信長)御在世之御時、何茂無御疎略方々に候間、早速無事も被仰調尤候、自然何角延引有之仁御座候ハヽ、其趣被仰越候ハヽ御談合申、急度其行可有之候、・・・
羽柴筑前守 秀吉
(天正十一年)十月廿五日
参河守(徳川家康)殿
人々御中
(引用:名古屋市博物館編 『豊臣秀吉文書集 <一> 833 徳川参河守宛書状写 』2015年 吉川弘文館)
大意、”甲州より帰城されたとの事なので、書面にて申し入れます。信州では自らご出陣されて相手を従わせられたとの事、上々に存じます。かねてまた、関東は『無事』が出来ていると伺っていますが、今遅れていると言うではありませんか、どうした事でしょうか。ちょっと前の信長様のご生前には、貴公は何事も怠りなくおやりになっていたではありませんか。すぐにでも無事にすると言われるのももっともですが、どうのこうのと言って言う事を聞かない者がいましたら、お申し越しいただければ、私は必ず出陣致しますので、、、”位の意味です。
と、『惣無事』の遅れを咎め立てする書面で、督促状とでも言っていいものを、秀吉は家康に対して出していますが、家康が関東に介入して平定に努力していることを認めているものとも思われます。
その後、紆余曲折もありますが、このような経緯・状況が下地になって、豊臣秀吉の認識の中では、『関東は徳川で』となっていたのではないしょうか。
豊臣秀吉は、家康を関東に移封後に関東のインフラ整備の命令を配下に出して入部する家康を援助しているって、ホント?
これに関しては、天正18年(1590年)7月6日の小田原城開城に先立ち、7月3日付で、秀吉から家臣へ小田原より会津への街道整備命令が出されています。。。
従小田原面至于会津道作御法度事
一、道作之為奉行、垣見弥五郎・水原亀介・西河八右衛門尉・杉山源兵衛尉・友松右衛門□□□人被指遣候、然者自当表会津迄、横三間之海道可作之事、
一、道之手寄ヽ、百姓召出、道普請、其国郡々見計可渡宛事、
一、少も礼銭・礼物を取□用捨、又者不謂族於申懸者、奉行共可爲曲事、於以来も被間食付次第、可被加御成敗事、
一、道普請無沙汰之百姓有之者、可被加御成敗条、所を書付可致言上、為私成敗之儀、不可仕之事、
一、船渡橋以下見計、橋□□へき所付しるし可申上事、
一、橋之材木、其近所之山林にてきりよせさせ、可集置候、重而被遣御奉行、橋をかけさせらるへき事、
一、会津までの道すち、御□まり共、城々にても御座所之儀、城主幷在番之者共ニ申付事、付道奉行五人、兵粮・塩噌如帳面、城□手寄ヽにて可請取之、次馬飼として大豆壱升・ひえ壱升つヽ被下候、幷町送人夫十人被仰付候、此外地下人百姓ニ、非分之儀不可申懸事、
天正十八年七月三日 秀吉御朱印
(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <四> 3289 道作ニ付法度写「伊達家文書」』2018年 吉川弘文館)
大意は、”小田原より会津までの街道整備工事の禁止事項の件
- 街道整備の奉行として、垣見一直(かきみ かずなお)・水原吉一(みずはら よしかず)・西川方盛(にしかわ かたもり)・杉山源兵衛(すぎやま げんべえ)・友松盛保(ともまつ もりやす)を派遣し、小田原から会津まで横三間(約5.5m)の街道を作ることとする。
- 街道整備工事のために、沿線の百姓共を動員するに当たり、その村々の規模を見積もって行う事。
- 工事に絡み、贈収賄をした者、又は持ちかけられたことを言わぬ者を奉行たちは犯罪とし、以後も判明次第処罰する事。
- 道路工事を命じられていない百姓がいたら処罰する旨書面にて報告して行うこと、勝手に処罰してはならない。
- 河川については、”舟渡し”か”架橋する”かを見定めて、架橋するべき場所は上申すること。
- 架橋用の木材は近所の山から切り出して集めて置き、架橋は重要事項なので、奉行を立ちあわせた上で施工すべき事。
- 会津迄の道中、太閤殿下のお泊りになる御座所に関し、道中の城主や在番の者に手配方命じておく事、道奉行5人は、帳面通りに兵粮や塩・味噌などが道中の城々にて受け取れるようにすること、また馬の飼料として大豆・ひえを1升づつ手配しておく事、その外、地元の侍や百姓に対して道理に合わないことを言いつけてはならない。
天正18年7月3日 秀吉朱印 ”
のような意味です。
豊臣秀吉は上記のように、後北條氏が小田原城を開城する三日前、徳川家康への関東移封命令発令の10日前の7月3日に、秀吉家臣5名に対して関東の小田原ー鎌倉ー江戸ー会津への基幹街道の整備命令を出しています。
通常このような事は、移封と同時に徳川家康に申付けるのが通例と考えられますので、これを自分の豊臣家臣に命じたところに、秀吉の徳川家康への”関東入部に対する援助”と見なされる点があるようです。
そして、この天正18年中に関しては、徳川家康は奥州への出陣はせずに江戸城改修も含めて入部後の領国整備に専念したものと考えられます。
翌年からは、伊達政宗(だて まさむね)の上洛問題もあり、秀吉から期待される『東国の惣無事(そうぶじ)』達成のために、奥州への出陣を含む東国運営への関与が始まって来る事となります。
まとめ
天正18年(1590年)7月に、豊臣秀吉は関東の覇者後北条氏を小田原で亡ぼし”天下統一”の仕上げに入りましたが、その北條氏の遺領である関八州へ徳川家康を移封させると言う衝撃的な命令を7月13日に出しました。
その評価を巡って、前述のとおり、江戸時代に書かれた徳川家の正史である『徳川実記』では、、、
秀吉今度北條を攻め亡ぼし、その所領ことごとく、君(家康)に進らせられし事は、快活大度の挙動に似たりといへども、その実は当家年頃の御徳に心腹せし駿・遠・参・甲・信の五国を奪ふ詐謀なる事疑ひなし。其のゆへは関東八州といへども、房州に里見、上野に佐野、下野に宇都宮、那須、常陸に佐竹等あれば、八州の内、御領となるは僅かに四州なり。・・・
(引用:徳冨蘇峰『近世日本国民史 豊臣氏時代丙篇 261頁 掲載「徳川実記」より部分引用』1981年 講談社学術文庫)
とあり、この考え方(徳川家康は豊臣秀吉に左遷された)がベースになって通説となっているものと考えられます。
しかし、近年の研究では、徳川家康の臣従後は豊臣秀吉への『天下統一』への協力者としての態度を鮮明にしており、家康の江戸入部も秀吉への政策協力の一環として行われており、決して秀吉からの『左遷命令』ではなかったと考えられています。
これの基本になる出来事として、天正12年(1584年)の豊臣秀吉と徳川家康による『小牧長久手の戦い』があります。
この戦いは、戦いは家康が勝利したものの、外交では秀吉が勝利して、両者痛み分けなどと言う適当な解釈が言われていますが、実は前述のように、この戦いは戦後処理から見て豊臣秀吉の完勝であったことが判明しています。
つまり、この戦いによって豊臣秀吉は、織田信長の後継者として世に認められ、織田家から政権を完全に簒奪することに成功していました。
この結果をもって、翌天正13年(1585年)に豊臣秀吉は、武家として初めて公家の最上位である『関白』へ就任することとなります。
今の私たちが知る『小牧長久手の戦い』の顛末は、あくまで徳川幕府のフィルターを通したものであることを再認識せねばなりません。
恐らく勘のいい徳川家康は、豊臣秀吉と戦い始めて、朝廷の勢力を後ろ盾として想像以上に巨大化した豊臣秀吉の力を理解したものと考えられます。
以後、徳川家康は豊臣秀吉のよきパートナーとして立ち回って行きます。この『関八州への移封命令』もそのひとつだった訳で、『左遷』と言う言葉は当たらないようです。
『徳川家康文書』の研究家として知られる中村孝也氏によれば、この『小牧長久手の戦い』関係の”家康文書”がほとんど見つからないとされていて、如何に徳川幕府にとってこの事件の真相が、”神君徳川家康公”の威信を傷つけるものであったかは想像に難くないところです。
朝廷も、豊臣秀吉が織田家から完全に政権を簒奪するのを確認した上で、秀吉を史上初の”武家関白”として就任させ、公家による全国統一『公家一統(くげいっとう)』を完成させることに成功します。
しかし豊臣秀吉は、禁裏の思惑通りに彼らの”傀儡政権”などにはならず、天皇を手玉に取るような存在となり、彼らの声に一顧だに与えず『唐入り(朝鮮出兵)』へまっしぐらとなって行きます。
公家でもなく、武家でもない”豊臣秀吉”という男の存在は、この怪物豊臣秀吉の死とともに、やがて公家とは一線を画して武家を統合組織してゆく徳川家康へ、取って代わられる運命を背負っていたとも言えそうです。
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参考文献
〇田中義成 『豊臣時代史』(1980年 講談社学術文庫)
〇徳冨蘇峰『近世日本国民史 豊臣時代丙篇』(1981年 講談社学術文庫)
〇渡邊大門編『家康伝説の嘘』(2015年 柏書房)
〇森田善明 『北條氏滅亡と秀吉の策謀』(2013年 洋泉社)
〇日本史史料研究会編 『秀吉研究の最前線』(2015年 洋泉社)
〇名古屋市博物館編 『豊臣秀吉文書集 <一> 』(2015年 吉川弘文館)
〇名古屋市博物館編 『豊臣秀吉文書集 <二> 』(2016年 吉川弘文館)
〇橋本政宣他3名校訂『兼見卿記 第3』(2014年 八木書店)
〇中村孝也 『徳川家康文書の研究 上巻』(1967年 日本学術振興会)
〇多門院英俊 『多門院日記 第4巻 <巻32-巻40> 』国立国会図書館デジタルコレクション)
〇竹井英文 『織豊政権と東国社会』(2012年 吉川弘文館)
〇日本史史料研究会監修 平野明夫編『家康研究の最前線』(2016年 洋泉社)
〇高柳光壽・松平年一著『戦国人名辞典 増訂版』(1981年 吉川弘文館)
〇名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <四> 』(2018年 吉川弘文館)