執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
天下人豊臣秀吉は天皇家を崇拝する勤皇家だった!ホント?
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太閤秀吉の”勤皇”は、”天皇の権威”利用が目的でした。
正親町天皇譲位の真相が分かります。
織田信長に従順と言われた誠仁親王の正体が分かります。
後陽成天皇即位の事情が分かります。
目次
豊臣秀吉に皇位簒奪の考えはあったの?
中世以前に、『皇位』が”権威”と”権力”を併せ持つ時代もありましたが、少なくとも豊臣秀吉の時代には、『皇位』は”権威”があるだけで、”権力”は権力者(為政者)が持つ形となっていました。
豊臣秀吉は、周知のように天正10年(1582年)の『天正10年6月の政変(本能寺の変)』以後、反織田政権の立場を取っていた室町幕府第15代将軍足利義昭に代って”征夷大将軍”となる道を取らず、公家成で『関白』になる道を選びました。
更に、豊臣秀吉は政権を掌握した”天下人”であることも事実で、これで天正13年(1585年)7月11日には”政治の実権を併せ持つ実力のある武家関白”となった訳です。
平安時代の摂関政治の華やかなりし頃には、政権の長としての天皇に成り代わって政務を司る地位としての”摂政・関白”でしたので、この時期では、政権の長との姻戚関係を結ぶ意味は大きく、天皇の外戚となって事実上天皇のようにふるまう人物も存在していました。
しかし、日本においては、『皇位』そのものを簒奪(さんだつ)して自分が『天皇』になろうとする人物は現れませんでした。
日本では、『天皇』が”日本民族統合の象徴”として古くから機能し、また『神』的な不可侵の存在と認識されているため、これを恣意的に排除することは、人心の掌握に重大な支障を来すと理解されていることが大きな理由と思われます。
織田信長も、豊臣秀吉も、『天皇』の権威の重要性を認め、これを有効に利用することを常に念頭に置いていたようです。
豊臣秀吉も、いざと言う時の秀吉自身の後継に宛てる為に、正親町天皇(おおぎまち てんのう)の皇子”誠仁親王(さねひと しんのう)”の第五子である”八条宮智仁親王(はちじょうのみや ともひと しんのう)”を猶子(ゆうし)に迎えることまではしていますが、外戚になる手立てまでは手を出していません。
もう公家衆が政治(政権)の実務から離れて久しく、その公家衆の長のような存在でもある『皇位』に無理やり成るメリットはほぼ感じていないと言うのが、当時の『天下人』の考え方だったのではないでしょうか。
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豊臣秀吉は、なぜ織田信長の政策方針であった『誠仁親王への譲位』を”正親町天皇”に求めなかったの?
織田信長は、上洛後程なく奉戴して来た”室町幕府第15代将軍足利義昭”を押しのけて、幕府組織の上に君臨しながら、実質天下人として政権を取り始めます。
織田信長は、御所の修理も含めて朝廷・公家衆への待遇改善に努めて行きますが、それに満足せず、度々政治に介入して来ようとする(本人は親政の考えを持っている)”正親町天皇”の存在を疎ましく思い始めていました。
と言っても前章のような理由で、天皇を粛清する事も難しく、そこで”正親町天皇”へ退位(皇子の誠仁親王への譲位)を繰り返し迫りますが、言を左右にして応じようとしない正親町帝と10余年もの間、その間”下記関連記事”にもありますように暗闘を繰り広げて行きます。
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しかし、周知のように天正10年(1582年)6月2日未明、織田信長は何者かの大軍に寝所の本能寺を襲われ横死します。犯人は織田家の重臣であった明智光秀とされていますが、未だに真相は謎に包まれています。
織田信長の後継者として、突然ひのき舞台に登場した豊臣秀吉が、信長の進行中の重要な政治方針である”譲位”を履行しようとしなかった理由として想定できるのは、、、
- 豊臣秀吉が非常な勤皇家であり、畏れ多くも『天皇』に対してそのような僭越不敬な事を求めるなど及びもつかなかった。
- 後々の朝廷との関係を見てもわかるように、豊臣秀吉は朝廷と良好な関係を築いており、『天皇』の意に添わぬことはしなかった。
- そもそも『本能寺の変』は、朝廷の陰謀であり、そして豊臣秀吉自身が実は主要な関係者のため、当然その首謀者の嫌がることは敢えてしなかった。
- 豊臣秀吉のその後の異例の出世は、あの剛腕な正親町帝に対して『本能寺の変』の真相をネタに脅迫していた結果だと考えられ、肝心の天皇の速やかな退位など求めるはずがない。
等々考えられますが、1.2.のように豊臣秀吉が善良な人物とは考えられませんので、3.を前提に4.かと思われます。
次に、3.と4.に関して、次章で見てみましょう。
(画像引用:誠仁親王像/泉涌寺所蔵)
豊臣秀吉と”正親町天皇”の気になる関係は?
織田信長と正親町帝の関係は?
織田信長が勃興して来た時期と言うのは、武家政権としての室町幕府が有力者の勢力争いで政権の統制力が弱まって来て、武家から朝廷・公家へ政治の実権を取り戻そうと言う考えを持つ”正親町帝(おおぎまちてい)”が即位する永禄年間となっていました。
ちょうど信長は、父信秀から引き継いだ尾張の統一を図りかけた時期で、永禄2年(1559年)に上洛して13代将軍足利義輝に誼(よしみ)を通じ、御所にも挨拶に出向いていました。
折しも翌永禄3年(1560年)に、上洛して京都の政局を握ろうとする”駿河・遠江・三河の太守今川義元(いまがわ よしもと)”の上洛目的の侵攻を受け、これを5月19日に『桶狭間の戦い』で討ち取って撃退し、一気に戦国大名の中で名声を上げていました。
永禄8年(1565年)5月19日に第13代将軍足利義輝(あしかが よしてる)が、三好三兄弟と松永久秀(まつなが ひさひでー実は正親町帝配下の有力者と思われる)らに暗殺され、その結果、正親町帝はまるで「王政復古」が成ったかの如くふるまい、永禄8年(1565年)7月5日には『大うすはらい(でうすはらいー切支丹追放)』の綸旨(りんじ)を出すなどし始め、京都の政局は一気に流動化します。
一方三好勢は、阿波国に匿っていた足利義栄(あしかが よしひで)を第14代将軍とすべく上洛させようとして摂津富田(せっつとんだ)まで来ますが上洛出来ず、永禄11年(1568年)2月8日になってやっと将軍宣下を受けたものの、なんと正親町帝は京都への入京を認めず、摂津富田の総持寺にそのまま留められました。
この混乱の中、織田信長は室町幕府奉公衆筆頭(実は正親町帝の陰の側近でもある)の細川藤孝(ほそかわ ふじたか)からの援助協力を得て、室町奉公衆の美濃斎藤家重臣たちを調略し、永禄10年(1567年)美濃攻略に成功しました。
その後、その要請に応える形で細川藤孝らが担ぎ出した次期将軍候補の足利義昭(あしかが よしあき)を奉戴(ほうたい)して、永禄11年(1568年)9月に上洛を果たします。
上洛して来て三好勢を京都から追い払った織田信長に対して、幕府に対抗して「天皇親政ー王政復古」を目指す正親町帝は、武家政治から公家政治体制を取り戻すための、配下の細川藤孝・松永久秀らを表向きは”幕府奉公衆”として信長に近付け、信長を『公家一統・王政復古』実現の協力者として大いに期待を抱き、官位で誘います。
その後、正親町帝の期待通り、織田信長は室町幕府の第15代将軍となった足利義昭と早くも仲違いを始めますが、実は織田信長のめざすところが、『王政復古』による『公家一統(公家政権による政権掌握)』ではなく、どこまでも『武家による幕藩体制の構築』にあったことから、織田信長と正親町帝の暗闘が始まります。
織田信長と誠仁親王の関係は?
前述のように、織田信長と正親町帝の関係は悪化の一途を辿り、”織田信長の正親町帝の譲位(退位)要求” Vs ”正親町帝の織田信長関白就任要請”のやり合いが続いて行きます。
そんな中、織田信長は天正7年(1579年)11月に、織田政府の政庁としようとしていた”二条御所”を東宮の誠仁親王(さねひと しんのう)へ寄進します。
そして、ここを”新御所”として、天皇の『御所』と同様に扱うように指示を出し、公家衆の出仕を求め、実際の政務を執り行い始めます。世人は、ここ誠仁親王の居所を『下御所』、正親町帝の御所を『上御所』と称して、政務の運用が始まります。
『上御所』は徐々にないがしろにされて行き、織田信長は正親町帝に対して、事実上の”退位を迫る実力行使”を行なったものと思われます。
織田信長は、正親町帝側から出ていた”左大臣就任要請”に対しても、”誠仁親王の即位後に受諾する”と表明していて、終始一貫”正親町帝の退位”を要求していたようです。
誠仁親王は、天下人の織田信長からの朝廷への攻撃に対して、矢面に立たされるような立場に追い込まれ、表立っては逆らえない織田信長の命令にただ従う姿勢は、正親町帝の怒りを買うに十分であり、天皇家の親子関係は織田信長のおかげで悪化の一途を辿って行きました。
豊臣秀吉と正親町帝の関係は?
最近のテレビの刑事もの的に言えば、この二人の関係は『本能寺の変』に関して”明らかな『共犯』関係”と言えそうです。
そしてこの事件の、主役は正親町帝ですが、企画提案者は細川藤孝だと思われます。
実行犯は、あとで自分が殺されるとも知らない明智光秀なのか、明智を始末することが決まっていた豊臣秀吉です。
明智の家老を務めていた斎藤利三(さいとう としみつ)が秀吉にとらえられて、京都引き廻しにされているのを見て、勘修寺晴豊(かじゅうじ はれとよ)卿が”あの男は織田信長暗殺の謀議に来ていたメンバーだ”と記載した記録が残っていることから、一説では襲撃隊の指揮を執っていたのは、この斎藤利三だとも言われているようです。
十七日 天晴。早天ニ済藤蔵助ト申者明智者也。武者なる物也。かれなと信長打談合衆也。いけとられ車にて京中わたり申候。
(引用:立花京子 『信長権力と朝廷 第二版 329頁掲載の「晴豊記ー天正十年夏記」』2004年 岩田書院 )
大意は、”17日晴れ、早朝に斎藤利三と言う明智光秀の配下の武者であるが、彼などは信長暗殺の談合仲間である。生け捕られて車に乗せられて京都の街を引き廻されている。”と言うことで、計らずも晴豊卿たち公家が”織田信長暗殺計画(本能寺の変)”に加わっていたことが判明します。
こんなにあっさり書いているとおかしいと思われるでしょうが、秀吉に関しては、、、
起請文之事
一、被対 公儀御身上之儀、我等請取申候条、聊以不可存疎略之事、
一、雖不及申候、輝元・元春・隆景深重無如在、我等懸身躰、見放申間敷事、
一、如斯申談上者、表裏抜公事不可在之、
右之条々、若偽於有之者、忝茂 日本国中大小之神祇、殊八幡大菩薩・愛宕・白山・摩利支尊天、別而氏神御罰可罷蒙者也、仍起請文如件、
天正拾年六月四日 羽柴筑前守 秀吉血判
輝元
吉川駿河守殿
小早川左衛門督殿
(引用:名古屋市博物館編 『豊臣秀吉文書集 <一> 422 毛利輝元他宛起請文写 』2015年 吉川弘文館)
大意は、” 起請文の事
一、将軍足利義昭公の身柄について、私はお引き受け申すとともに、いささかも疎略に扱いません。
一、申し上げるに及ばない事ですが、毛利輝元公・吉川元春殿・小早川隆景殿に関してもご心配無きように、私は身体を賭けて、見放すようなことは致しません。
一、かくの如く申し上げたことは、嘘偽りはありません。
右の事で、もし偽りがありましたら、すべての日本国中の大小の神々、特に八幡大菩薩・愛宕社・白山社・摩利支天神などに、違えた時には氏神様より神罰を被る事を御誓い致し、起請文といたします。”となっています。
つまり、豊臣秀吉の陣中で、6月2日の早暁に起こった『本能寺の変』の情報が届いたのは、最速3日の夕方のようですが、6月4日には、上記のように長期対陣していたはずの毛利軍と完全な和睦が成立しているのです。
事実上、こんな話は不可能であって、上記の『起請文』は、もう既に毛利との話は裏で完了しており、あとは本当に事件が起こり、織田信長の死亡が確実であることが確認出来れば、一気に明智光秀を討伐に向かう準備が万端であった事実を告げています。
要するに、豊臣秀吉は、6月2日に主君織田信長が、何者か(明智光秀)によって暗殺される計画があることを、事前に知っていて、敵方であるはずの毛利家と同盟を結んでいたことになります。
(この毛利家は、先代毛利元就<もうり もとなり>が件の正親町天皇の即位費用一切の面倒を見たほどの”勤皇家”で、ここに織田信長には内密で、正親町帝の斡旋によって毛利ー豊臣秀吉の同盟がすでに裏で成立していた可能性が高いことを臭わせます。)
このような”織田信長横死”と言うような重大な情報を確認も出来ないはずの時間で結論を出しているのは、現場を確認した上で超特急で伝令を飛ばした正親町帝側近でもある細川藤孝からの信頼できる報告がきちんとあったからと思われます。
それは、、、
明智日向守謀叛の事
一、天正壬午(十年)六月二日、亥の刻四ツ半(午後11時)、この一点天下の大事を知るなり。すなわち丹波表の長岡兵部(細川藤孝)殿よりの御使者到着、前将(前野長康)様、兵部大輔様よりの密書を見られ候いて、慄然として声なし。・・・
・・・この場において下知候事。
一、「兵部少輔殿よりの注進、よもや相違ある間敷く候。明智日向殿へ同心これなきの覚悟明白、斯くなる上は徒らに逡巡して、天下後世にそしりを招く、これ武者の本意にあらざるなり。本能寺の出来、急度備中陣の筑前様に注進の事。」
(引用:吉田蒼生雄 『武功夜話 <二> 163頁』1988年 新人物往来社)
とあり、『本能寺の変』当日の午後11時には、秀吉に命じられて京都よりの播州三木に在陣していた羽柴軍の前野将衛門のところに、京都から丹波へ移動中の細川藤孝からの密使が急報したことが分かります。
単純に京都から播州三木まで90㎞くらいで、播州三木から備中(岡山)まで130㎞くらいあるので、細川藤孝の急使が京都を午前中に出たとして12時間掛かっていますから、更に三木から岡山まで18時間くらいと考えられます。
となると、最速は、6月3日の午後6時から7時には備中の秀吉の陣(岡山)に到着する計算となります。
理論上はそうなりますが、前述の『武功夜話』の前野将衛門が出した急使は、6月5日の午九つ半(午後1時)に備中の秀吉陣に到着し、別便がその二刻前(6月5日午前9時)に到着していたと記載されています。
なんせこの時豊臣秀吉は、表面上は織田信長に援軍を要請しており、信長出馬とともに毛利勢に総攻撃をかける作戦で待機している最中の状況だったはずなのです。
どう考えても豊臣秀吉は、前述した理論上の最速で確認情報を得てないと、6月4日には毛利方と和睦などは出来ないことになりますが、やっぱり秀吉は京都でのクーデター実行を事前に承知していたと言う疑いが濃厚ですね。
こんな事情から細川藤孝(ほそかわ ふじたか)と深くつながっている様子が分かりますし、加えて織田信長に重用されていた祐筆の楠長諳(くすのき ちょうあん)は、細川藤孝と同様に正親町帝と深くつながっている人物で、秀吉と正親町帝との打合せ連絡は十分に行われていた可能性が高い事が考えられます。
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誠仁親王と正親町帝のその後は?
天正10年(1582年)6月2日に織田信長が遭難した『本能寺の変』前後の日付の公家衆らの日記類は、ほとんどが欠落したり、改ざんされて真相は隠されていますが、そもそも、ほぼすべての日記類から肝心の部分が欠落している事実そのものが、『本能寺事件の真相』が、当時の公家衆にとって大変に都合の悪い(自分も含めた関係者に累が及ぶ危険性のある)事態だったことを示していました。
そこへ近年に、勧修寺晴豊(かじゅうじ はれとよ)卿の『晴豊公記(はれとよこうき)』の脱漏部分である『本能寺の変』前後の日記『天正十年夏記』の存在が確認され、吉田兼見(よしだ かねみ)卿の別本(天正10年1-6月)の『兼見卿記』と重ね合わて見ると、『本能寺の変』の真相の一端が分かり始めています。
それに依りますと、通説では、誠仁親王(さねひと しんのう)は織田信長の意のままになる傀儡(かいらい)の次期天皇候補として見られていましたが、この公家たち(近衛前久、吉田兼見、勧修寺晴豊ら)の”織田信長暗殺計画”に同調していた可能性が出て来ました。
しかし、正親町帝(おおぎまちてい)は、6月2日の織田信長へのクーデター成功で舞い上がる誠仁親王や公家たち(宴会を開いて騒いでいます)を冷ややかな目で見て、次に起こる豊臣秀吉による明智光秀率いる室町奉公衆の殲滅戦(せんめつせん)の結果を静かに待ちます。
そして、ものの見事に6月13日に山城国の山崎で明智光秀軍が敗北すると、親王・公家たちは喜びもつかの間で、今度は事件関与のもみ消しと”豊臣秀吉への鞍替え”に大わらわになります。
織田信孝(おだ のぶたか)は、関与が明らかな公家達の責任追及の動きを始めますが、豊臣秀吉は彼らの事件関与を事実上不問の態度で臨み、正親町帝との連携があることなど毛ほども漏らさず、寛容な態度で朝廷・公家たちに対して”大きな貸し”を作ります。
正親町帝も事態を冷静に見つめるスタンスを取り、細川藤孝(ほそかわ ふじたか)による陰謀のことなどそ知らぬ顔で、その間豊臣秀吉は”明智光秀に同調した室町幕府再興を目指す奉公衆”を徹底した残党狩りで壊滅させて、正親町帝・細川藤孝・楠長諳(くすのき ちょうあん)らの希望通りに”『公家一統』による統一支配体制”構築へ着々と取り進めて行きます。
その後豊臣秀吉は、”武家による『幕藩体制』を目指していた織田信長”の最大の同盟者徳川家康を、天正12年(1584年)になんとか臣従させると、翌天正13年(1585年)に正親町帝からの約束である『(武家)関白』就任を果たします。
そして翌天正14年(1586年)7月24日に、誠仁親王は終に、豊臣秀吉の天下の下、天皇になることはなく薨去(こうきょ)されます。
(天正14年7月)廿四日ニ親王様崩御云々、疱瘡ト云ワシカト云、一説ニハ腹切御自害トモ云々、御才卅五才也ト、自害ナラハ秀吉 王ニ被成一定歟、天下ノ物恠也、一天唯諒闇トハ如此事也、浅猿々々、女御ヲ誰ソ盗故ト云フ、
(引用:多門院英俊 『多門院日記 天正十四年七月の条』国立国会図書館デジタルコレクション)
大意は、”天正14年7月24日に、誠仁親王様が薨去されたとか。疱瘡(ほうそう)が死因と言われているが、一説には切腹にて亡くなられ、御年は35歳だったと言う。もし噂通り自害ならば、親王は豊臣秀吉に何かされたに違いなく、秀吉は天下の物の怪だ、一寸先は闇とはこの事だ。くわばら、くわばら、側室を秀吉に盗られたって言うじゃないか。”と言います。
結果的に、事実上織田政権への叛乱に加担した”誠仁親王”は危険人物として、豊臣秀吉によって始末されたのではないかと考えられます。通説では”誠仁親王は憤死した”とか言われています。
正親町天皇は、細川藤孝の企みに乗って、豊臣秀吉のようなどこの馬の骨ともわからぬ者を安易に使い、思い通りに織田政権・室町幕府の両方の打倒を成し遂げて、天皇親政による『王政復古』公家政権樹立を夢見ましたが、ものの見事にその卑賎の男に政権を壟断(ろうだん)されて、ホンモノの”天皇親政”の実現に失敗しました。
そして天正14年(1586年)7月に誠仁親王が薨去した3ヶ月後の11月7日に、正親町天皇は政権をあきらめたか秀吉に脅されたかで、誠仁親王の皇子和仁(かずひとー後陽成天皇)親王に譲位して、仙洞御所に隠退し、文禄2年(1593年)1月5日に、秀吉より5年も早くに崩御しました。
豊臣秀吉と”後陽成天皇”の蜜月関係は本当なの?
正親町帝は、過去の天皇親政の仕掛け人である後鳥羽上皇(ごとば じょうこう)・後醍醐天皇(ごだいご てんのう)の轍(てつ)を踏まないように、天下人である武家の織田信長を葬り去り、武家政権の室町幕府再興させようとする明智光秀ら幕府奉公衆らを壊滅させ、武家でも公家でもない卑賎の出身である豊臣秀吉を『関白(武家関白)』にして、形の上では、実力関白が率いる『公家一統』による天下の統一を図ることに成功しました。
しかし、朝廷・公家には財政面での援助も含めて一定の配慮を示すものの、一向に政治の実権を朝廷に渡そうとしない豊臣秀吉に腹立ちは覚えるものの、軍事指揮権を押えている関白の秀吉にはうかつに手を出せません。
そんな情勢下、天正14年(1586年)7月24日に正親町帝の東宮である誠仁親王が急に薨去されます。
あれだけ生前の織田信長の譲位要求を拒否していた正親町天皇でしたが、当初の目標にしていた公家一統による支配体制の確立を一応成し遂げ、武家政権に心寄せていた東宮の誠仁親王の始末もついて、孫皇子に期待しつつ帝位を禅譲する事としたようでした。
その年天正14年11月7日に誠仁親王の第一皇子である和仁親王が践祚(せんそ)し、11月25日に即位の儀を執り行い”後陽成天皇”となりました。
豊臣秀吉の様々な庇護の下、9月20日に元服したばかりの弱冠16歳での後陽成天皇の即位でした。
強大な軍事力を以て天下人となっていただけでなく、”関白”と言う職務上も少年天皇を後見する立場となった豊臣秀吉でした。
誠仁親王の御子周仁(かねひと)親王は、同年九月二十日、十六歳にして、元服あらせられ、秀吉は加冠の役を勤めた。かくて十一月七日には、土御門里内裏において御受禅あり、同月二十五日、桜町の下御所より剣璽渡御(けんじとぎょ)せられ、即位の式を紫宸殿にて行わせられた。これが後陽成天皇である。同年十二月十九日、秀吉は太政大臣の命を拝した。
(引用:徳冨蘇峰『近世日本国民史 秀吉時代乙篇』1981年 講談社学術文庫)
とあり、豊臣秀吉丸抱えの新帝の門出と言う印象で、ここで、秀吉は”太政大臣”にも任官し、政務全般は秀吉が行うという言わば摂政のような立場になったことが判明します。
と言う状況なので、豊臣秀吉と後陽成天皇とは、正親町帝が院政を執らなかった為、秀吉が大御所のような立場で接してゆくことになります。
両者の関係は、”関係が良好”とか”蜜月関係”以上のものであると考えられます。
豊臣秀吉の『唐入り』になぜ”後陽成天皇”は反対したの?
これには、以下の後陽成(ごようぜい)天皇から豊臣秀吉へ下された『勅書(ちょくしょ)』があります。。。
高麗国への下向、嶮路波濤をしのがれむ事、無勿体候。発足遠慮可然候。勝を千里に決して、此度の事、諸卒をつかはし候んも、可事足哉。且、朝家の為め、且、天下のため、かへすかへすも、おもひとまり給候はば、別而悦おぼしめし候べく候。猶、勅使にて可申候。
太閤とのへ
(引用:桑田忠親 『豊臣秀吉研究』1975年 角川書店)
大意は、”関白殿御自ら、高麗国へ険しい道のり大海の荒波に耐えながら行かれること、畏れ多いことにございます。ご出発を見合わせられるべきです。勝利を得るために千里を越えて御自ら行かれるこの度の事は、兵を派遣されれば済むことではありませんか。朝廷のため、天下のためとは言え、くれぐれも、ご出発のこと思いとどまって頂ければこれに勝る喜びはございません。尚、この事は勅使を遣わして申し上げます。”とあります。
このように、秀吉の身を心配して、朝鮮への渡海を思いとどまるようにと諫言(かんげん)する文面となっていますが、その真意は、文禄元年(1592年)3月に始まった豊臣秀吉の朝鮮侵攻の、緒戦の勝利に酔った豊臣秀吉が描く現実離れした”外征の構想”に驚いた後陽成天皇が、危機感をもって”外征の中止”を求めたものと考えられます。
結果的に豊臣秀吉は、朝鮮での戦いも朝鮮軍の反撃が始まり、特に6月に入ってからの海戦で、朝鮮海軍の李舜臣(イ・スンシン)提督にやられっぱなしとなり、事実上制海権を失っていた事と、この後陽成天皇の勅書の事、7月22日の秀吉母大政所(おおまんどころ)の死去などが重なり、秀吉の朝鮮への渡海は翌文禄2年春へと延期されます。
後陽成帝は、天正14年(1586年)に弱冠16歳にて即位していますので、この時は22歳の青年天皇となっていました。
幾ら若いとは言え、仮にも成人となっている、しかも『公家一統』の日本国の国家元首である天皇陛下のお言葉の真意には従おうともしないところに、豊臣秀吉の『勤皇』が形ばかりの”利用するだけ”のものであることが露呈しています。
結局、豊臣秀吉は正親町帝の意図した公家政権の関白ではなく、公家の衣を着た武家政権の天下人であったようです。
まとめ
太閤秀吉は、百姓ですらない卑賎の出と言われていますが、少年の頃、木曽川周辺部の野武士集団”川並衆”の頭格である蜂須賀小六(はちすか ころく)の知遇を得て、尾張上四郡の郡村(こおりむら)にある生駒屋敷に出入りするようになりました。
それは、既にこの生駒屋敷にいる生駒宗家の長女”生駒類(いこま るいー吉乃)”の所に、領主織田弾正忠(おだ だんじょうのじょう)家の嫡男”織田信長(おだ のぶなが)”が通っていることを突き止めていて、信長の愛人である類に取り入って目論み通り”織田信長”の知遇を得る事が出来てから、豊臣秀吉の出世譚(しゅっせたん)が始まりました。
織田家が勤皇家だったこともあり、織田信長に仕えてその天皇に代表される”権威”と言うものの利用の仕方を徹底して学んだ豊臣秀吉は、信長の上洛とともに京都の治安維持を担当し、その”権威”につながる人脈作りに精を出します。
そして、織田信長が天下人となって頂点を極め始めた正にその頃に、その人脈筋から”お声がかかる”こととなり、大きなチャンスを得ることとなりました。
当初の声掛けは、天皇の側近ともなっていた細川藤孝(ほそかわ ふじたか)だった可能性が高いと思われます。
そして、豊臣秀吉はその正親町帝の要請に応えて、主君織田信長の仇討ちをすると言う願ってもない形で、”明智光秀率いる室町幕府再興派の奉公衆”を壊滅させて、帝の狙い通り武家政権を消滅させます。
しかし、この天下人織田信長の横死(本能寺の変)”にまつわる一連の出来事は、誠仁親王の独断?での勅使派遣と言う後押しで、天正10年(1582年)6月14日に『天下静謐令執行権(朝敵征討権)』を得たことから、結果”たった12日間”で豊臣秀吉を一挙に天下人へ導くことになりました。
十四日 雨降。せうれん寺おもて打はたし、三七郎、藤吉郎上洛之由候。余 勅使。両人御太刀拝領させられ候。広橋、 親王御方ヨリ御使参候。御太刀同前也。たうのもりまて参候て待申候。たうの森にて申聞候。一段はやはやとかたしけなき由申候。両人の者、馬よりおり申候。渡申候。
(引用:立花京子 『信長権力と朝廷 第二版』2004年 岩田書院 付属史料二「天正十年夏記」329頁より)
大意は、”天正10年6月14日 降雨。勝竜寺城を攻め落とし、織田信孝(おだ のぶたか)と豊臣秀吉は上洛すると言う。私勧修寺晴豊(かじゅうじ はれとよ)は、勅使となった。両人に帝から「御太刀」拝領させられた、広橋兼勝(ひろはし かねかつー日野輝資)が誠仁親王よりの使者として参り、これも帝と同様に「御太刀」を渡した。勝竜寺の塔ノ森で会見をし、両人より早々と主上より「御太刀(朝敵征討権)」を頂き、誠にありがたいと御礼を言って、両人は下馬して「御太刀」を受け取った。”とあります。
つまり、正親町天皇のめざした”公家政権の実現”が、秀吉を”関白”にすることにより建前上は成功したものの、その代償は帝の考えていたよりはるかに大きく、”朝廷主導による織田信長暗殺計画”の存在をネタに、”勤皇の猫の皮をかぶった豊臣秀吉”から脅迫され続けると言う正親町帝の大誤算となったのです。
結末は、『織田信長暗殺計画(本能寺の変)』の首謀者とも見える東宮の誠仁親王は始末され、正親町帝は『上皇』になれずに”隠退”させられ、大事な”帝位”はまだ少年で元服したばかりの正親町帝の孫皇子”和仁(かずひと)親王”に譲られて、政治の実権は即位したばかりの”後陽成天皇(ごようぜい てんのう)”を後見する出自不明の怪人物”豊臣秀吉”に握られることになってしまいました。
まったく、豊臣秀吉はたいした”勤皇家”ですね。
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参考文献
〇立花京子 『信長権力と朝廷 第二版』(2004年 岩田書院)
〇小林正信 『正親町帝時代史論』(2012年 岩田書院)
〇名古屋市博物館編 『豊臣秀吉文書集 <一> 』(2015年 吉川弘文館)
〇多門院英俊 『多門院日記』(国立国会図書館デジタルコレクション)
〇徳冨蘇峰『近世日本国民史 秀吉時代乙篇』(1981年 講談社学術文庫)
〇桑田忠親 『豊臣秀吉研究』(1975年 角川書店)
〇北島万次 『豊臣秀吉朝鮮侵略関係史料集成 <1>』(2017年 平凡社)