豊臣秀吉は、関白の権威を利用して天下統一を果たした!ホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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豊臣秀吉はいつ・どんな風にして『関白』になったのか分かります。

豊臣秀吉は、なぜ『将軍』にならずに『関白』になったのか深い理由がわかります。

豊臣秀吉は、”藤原氏”のように『関白職』を豊臣家で独占しようとしていた?

勤皇家の豊臣秀吉は、あわよくば『天皇の外戚』になろうとしていた?

豊臣秀吉はいつ関白になったの?

天正10年(1582年)6月2日の京都本能寺での織田信長横死以降、電光石火の早業で織田信長弑逆の謀叛人と見なされる”明智光秀(あけち みつひで)”を斃(たお)し、北ノ庄で豊臣秀吉と対立する織田家重臣”柴田勝家(しばた かついえ)”を滅ぼし、天正12年の小牧長久手の戦いで大大名の”徳川家康(とくがわ いえやす)”を臣従させた後、天正13年(1585年)7月に、晴れて『関白(武家関白)』に任官しました。

(天正13年7月)十一日、昨夕ヨリ雨少ヽ下、今朝大雨降了、可然折々ニ甘雨降、如當年事ハ近年無之、尤珍重々々、

一、秀吉ハ一昨日歟在京、今日ヨリ京中ヘ躍申付於内裏見物云々、内大臣ニ成上、近衛殿大御所ノ猶子ニ申合了云々、則關白ヲ可持歟ト云々、先代未聞ノ事也、

一、・・・、今度近衛・二条殿關白申事爲折仲、秀吉關白ニ任云々、抑中々不及言慮事也、

・・・

(天正13年7月)十二日、朝ノ間雨下、

・・・

一、秀吉明日十三日關白拝賀在之、・・・

(引用:『多門院日記 天正13年7月の条』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”天正13年7月11日、昨日夕方より少々雨が降り、今朝は大雨になった。このような時に甘雨が降ると言う、今年のような事は近年なかったことで、珍しい。

一、秀吉が昨日は京都にいて、今日から京都中で行う踊りを内裏で見物すると言う。内大臣に成り上がり、その後近衛前久殿の猶子(養子)になって関白になると言う、前代未聞のことだ。

一、このたびの近衛信輔(このえ のぶすけ)と二条昭実(にじょう あきざね)の地位争いに、折衷案として秀吉を関白に任ずると言う、これはそもそも言うまでもなく天皇のお考え(叡慮ーえいりょ)である

天正13年7月12日、午前中は雨だった。

一、秀吉は明日7月13日に関白の就任式があると言う。”とあります。

天正13年(1585年)7月11日に、正親町天皇(おおぎまちてんのう)から”秀吉の関白任官の詔(みことのり)”が出て、7月13日に任命されたようです。

上記、多門院英俊(たもんいん えいしゅん)の記述にありますように、前関白近衛前久(このえ さきひさ)の息子で、自分が関白に就任するつもりの信輔(のぶすけ)が、現関白二条昭実(にじょう あきざね)が辞めずに居座っていることに腹をたてて争っていることに、豊臣秀吉がつけ込み、右大臣菊亭晴季(きくてい はれすえ)を使って朝廷工作を行い実現したものと考えられます。

当然、想定外の卑賎階級の出身である豊臣秀吉に、トンビに油揚げをさらわれた近衛信輔は怒り狂い、大騒ぎになったようです。信輔は『関白タル事、従昭宣(藤原基経)公于今至マテ凡下(ぼんげ)ノ望ム職ニアラス』とまで言っており、後に豊臣秀次が関白を継ぐ時、更に腹を立てて『若輩無智の秀次卿』と罵っている。

このように、近衛信輔が秀吉のことを『藤原基経(ふじわら もとつね)公より今まで、関白職と云うものは、下郎の望むような官職ではないぞ』とまで言うほど、当人の信輔は言うに及ばず当時の公家社会に衝撃を与えた出来事だったようです。


(画像引用:京都御所ACphoto)

豊臣秀吉はなぜ関白になったの?

通説では

天正13年(1585年)、織田信長に代って京都を中心とする畿内全域を政治的に抑え、大敵徳川家康の臣従を得た豊臣秀吉は、今度は”天下人として世の誰もが認める官位”を臨み、当初は”征夷大将軍”職を望んでいたと言われています。

しかし、零落したとは言え先の室町幕府の第15代将軍足利義昭(あしかが よしあき)が、依然として”征夷大将軍”となっており、当時の秀吉の力であれば無理やり退位させた形を取り、新たに豊臣幕府もあり得たのかもしれませんが、どうしたものかと考えていた折に、天下人豊臣秀吉に取り入ろうとしていた右大臣菊亭晴孝(きくてい はれすえ)が入れ知恵をします。

前述のように、関白職を巡って前関白の”近衛前久(このえ さきひさ)”の息子”近衛信輔(このえ のぶすけ)”が、一向に退位しようとせず居座ったままの現関白”二条昭実(にじょう あきざね)”の引き摺り下ろしにかかろうとしているところで、公家達が眉をひそめているところでした。

そこで、この菊亭晴季が朝廷工作をして、正親町天皇(おおぎまちてんのう)がこのみっともない名門公家同志の争いに仲裁に入る形で、天下人豊臣秀吉を”関白”に据えると言う荒業を決行します。財政面で豊臣秀吉に非常に世話になっている朝廷公家衆が、表立って文句も言えぬ尊上の”大岡裁き”となりました。

天皇を非常にありがたがる賤民出身の勤皇派である豊臣秀吉にしても、征夷大将軍の権威よりも遥かに格上である天皇の権威が利用できる関白職への誘いに飛びついたものと考えられます。

”天皇”・”将軍”などの権威を利用する領国統治の手法は、主君織田信長の配下として長年仕えて学んで来た豊臣秀吉が、本能的に欲する”力”でもあり、織田家の生き残った息子たちを押さえつけれる”権威”ともなりました。

以後、豊臣秀吉は自分の命令書の中で『叡慮(えいりょ)』と言う言葉が使えるようになり、天皇の権威を利用して政策遂行に期待通りの力を発揮するようになります。

例えば、、、

日本六十余州之儀、改可進止之旨被 仰出之条、不残申付候、然而九州国分儀、去年相計処、背御下知、依猥所行、為御誅罰、今度関白殿至薩州被成御動座、既可被討果刻、義久捨一命走入間、御赦免候、然上薩摩一国被宛行訖、全令領知、自今以後相守 叡慮、可抽忠功事専一候也、

天正十五年五月九日  (秀吉花押)

島津修理(義久)大夫とのへ

(引用:名古屋市博物館編 『豊臣秀吉文書集<三> 2183島津修理大夫宛判物』2017年 吉川弘文館)

これは、豊臣秀吉の『九州平定戦』で、薩摩の島津義久(しまず よしひさ)が降伏した時の秀吉の赦免文書ですが、、、
大意は、”日本の60余州に残らず『総無事令』を出している。昨年九州は領土確定もしているにもかかわらず、(薩摩の島津は)この命令に反しており、それを成敗するために関白秀吉が薩摩へ出陣して来た。すでに討ち果たすこととなっていたが、島津義久が一命を賭して降伏・恭順して来たので、これを赦免し薩摩一国を宛行う事にした、以後『叡慮』(天皇のご命令)を守り忠勤に励むこと。”と言う事です。

ここに、豊臣秀吉は自分の命令の権威付けのために、まるで自分の言葉は天皇の言葉だと言わんばかりに『叡慮』(天皇のご意思・お考え・ご命令)と言う言葉を使い、また宛先をわざわざ”島津修理大夫”と官位名を明記して、”関白”である秀吉との身分差も明確にしています。

『関白』なればこそ許される物の云い方と言う事になりそうです。

以上が、『豊臣秀吉の関白就任』の従来の通説ではないかと思います。

 

異説では

歴史学者小林正信氏が唱える異説ですが、これは、織田信長暗殺に関し、『朝廷黒幕説にもつながりそうですが、、、

  1. 公家による日本統一『公家一統』(『王政復古』)を目指す正親町天皇とその公家勢力
  2. 崩壊した室町幕府体制の再建を図る明智光秀を筆頭とする細川藤孝ら室町幕府奉公衆とその勢力
  3. 武家の『幕藩体制』の創設により『武家一統』による日本統一を目指す織田信長・徳川家康連合

簡単に言うと、永禄11年(1568年)末当時の政治状況として、実は上記三つの政治勢力のしのぎ合い状況となっていたと考えられます。

当初、正親町天皇は足利義昭と不和となっている織田信長を『関白職』へ任官させて自分の勢力下に引き入れようとしていましたが、信長から反対に正親町帝の退位を迫られる始末でした。

そこで、密かに明智光秀が率いる”室町幕府再建派”から”天皇派”へ鞍替えしていた細川藤孝は、織田家武将の中で”一番山っ気があってしかも先のなくなって焦っていた豊臣秀吉”を引っ張り込んでおいてから、返す刀で室町幕府奉公衆筆頭にのし上がった”明智光秀”を焚きつけたと思われます。

明智光秀は、当初室町幕府再興のために織田信長に臣従・協力していましたが、天正10年になる頃には、信長の本心が室町幕府再興にないことに気づき、細川藤孝にそそのかされて旧室町幕府奉公衆を中心に、追放されている足利義昭を復帰させるべく”信長暗殺(本能寺の変)”を企画してゆきます。

しかし、この謀略プロデューサーの細川藤孝は、全く明智光秀と心中するつもりなどはなく、正親町天皇に、誼(よしみ)を通じておいた豊臣秀吉を、官位で釣って使い『公家一統』を一気に実現させる この『織田政府と室町幕府を同時に始末する作戦』を進言します。

そもそも朝廷の協力者であり、尚且つ信長に滅亡の淵まで追い詰められていた毛利家は、一も二もなく備中高松で対陣する豊臣秀吉との和睦に応じ、この細川藤孝の謀略に加担して、運命の天正10年(1582年)6月2日を迎えます。

結果、細川藤孝の計算通り、実に上手く事は実行され、”本能寺で『織田信長』”を、”山崎で『室町幕府組織』”をまんまと壊滅させた正親町天皇は、約束していた『関白職』を右大臣菊亭晴季の悪知恵で、関白二条昭実を引き摺り下ろして、この政変功労者の”豊臣秀吉”を『武家関白』据えたと言うストーリーになるようです。

上記の2.と3.が潰れて1.の『公家一統』による『王政復古』が実現するはずでしたが、現実は結局そうはなりませんでした。

秀吉も然るもので、”ただの正親町帝の駒”になぞならなかったと言う事でしょうか。

従来説とかなり違うので、少々戸惑いますが、説得力のある話のひとつではないかと思います。

余談ですが、その後もこの細川藤孝(幽斎)が見せた細川家の達者な『世渡り上手』は続き、江戸時代には外様ながら九州熊本の大大名として明治の御代までその命脈は続くこととなります。

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豊臣秀吉は豊臣家で関白を独占するつもりだったの?

豊臣秀吉は、天正13年(1585年)に前章のような理由で任官しましたが、歴史研究家の藤田恒春氏の著書によれば、、

前関白秀吉摂政太政大臣 息二歳也、去年十二月一日 関白殿可有譲与之旨雖治定、幼少之関白不可然、□□□申上訖、為延引如元秀吉公拶関也

(引用:藤田恒春『豊臣秀次』2015年 吉川弘文館 引用文書「春日社正預祐父自記 天正十八年の条」より)

大意は、”前関白摂政太政大臣の豊臣秀吉の子息は二歳になります。関白殿は、去年12月1日に子息に関白を譲りたいと言う意向を出されましたが、そのような幼少の関白などあり得ませんと□□□に諫められ、秀吉殿も引かれたとのことです。”とあります。

天正17年(1589年)12月1日に、実子鶴松へ関白職を譲りたいと言う意向を明らかにしていたようで、さすがに生後四か月の乳幼児に譲ることなど出来ないと公家の誰かに反対されていて、その後天正19年(1591年)8月になって件の鶴松が病死したため、12月に秀次にお鉢が回ったと言う経緯があると言います。

つまり、上記のように『乳幼児鶴松への関白職継承』を持ち出したと言うことは、最初から豊臣秀吉は”関白職を豊臣家で独占する(継承して行く)”と考えていたことは間違いなさそうです。

実子鶴松の死に意気消沈した秀吉は、その後『唐入り(朝鮮出兵)』政策に専念するために、内政を任せると称して、残った親族の中で比較的出来が良いと思われた、甥の豊臣秀次に『関白職』を譲ることとしました。

そうして豊臣秀次は、天正19年(1591年)12月28日に『関白宣下』を受けて関白に補任(ぶにん)され、加えて『氏長者宣旨(うじちょうじゃせんじ)』も受けて、藤原基経(ふじわらのもとつね)が補任されて以来、『藤原家』が独占していた『関白職』ですが、ここに初めて藤原氏以外の”豊臣姓”の関白が出現する事になりました。

豊臣秀吉自身は『太閤(たいこう)』となり、『関白職』は、『豊臣家』が世襲して行くことを天下に示す事と、内政を関白秀次に任せる事によって『唐入り』に専念する体制作りの二兎を追う考えだったと考えられます。

しかしその後太閤豊臣秀吉は、言う事を聞かない関白秀次と対立を深めてゆき、まさかの実子秀頼の誕生をきっかけとして、結局最後は甥である関白秀次を切腹させてしまう事となってしまい、豊臣家の将来を暗示する事となりました。

 

豊臣秀吉は天皇家との姻戚関係になる事を考えたの?

平家の時代ならいざ知らず、源頼朝が鎌倉幕府を開き、武家が政権を握って以来、天下の権力(国の行政権限)は禁裏朝廷に戻って来ませんでした。

つまり、戦国時代の当時においても依然として武家である室町幕府の官僚機構が機能しており、ドタバタしている政権のトップ人事は別として、織田信長が天下人となった時期でさえも実質的に行政を担当している官僚組織は室町幕府のものでした。

つまり平家が禁裏朝廷に大量の人材を送りこんだ平安末期とは違い、もう政権中枢に牛耳る目的で、禁裏との婚姻関係を無理やり作る意味はありませんでした。

そんな中でも、戦国期になって地方の禁裏朝廷の所有する荘園の管理を、任せていた武家たちにその収獲を横領されて、貧窮を極める禁裏朝廷の収入源を復活させていたのが、勤皇派で天下人となった織田信長で、その配下だった豊臣秀吉もその政策を受け継いでいました。

しかし、保護者としての立場は取るものの、織田信長も豊臣秀吉も、天皇に付属する公家達に再び政権を戻そうなどとは、毛ほども思ってもいない訳です。

そこで、豊臣秀吉と禁裏朝廷関連がある関係者を見てみると、、、

  1. 八条宮智仁親王(はちじょうのみや ともひとしんのう) - 豊臣秀吉の養子(猶子)正親町天皇の皇子誠仁親王(さねひとしんのう)の第五子(後陽成天皇の弟宮)
  2. 一の台(いちのだい)菊亭殿息女 - 豊臣秀次の正室
    公卿菊亭晴季の娘

が知られています。

秀吉は、八条宮智仁親王を一時は後継者にと考えていたこともあると言いますが、秀吉の後継者は唯の関白ではなくて武家としての能力も求められるため、出自が高貴なだけではだめだったようです。

このように、親族を見てみても彼らも官位は求めるものの、皇室との関係を姻戚関係に発展させようとする動きを全くさせていませんので、豊臣秀吉には”天皇の外戚になって、禁裏をわがものにしようとする方針はなかった”と考えてよいようです。

 

豊臣秀吉は正親町天皇の『王政復古』に協力したの?

そもそも、豊臣秀吉と禁裏朝廷との関係は、織田信長の上洛のあと、永禄12年の春に信長の命により、豊臣秀吉が京都の治安維持と朝廷の領地回復を行なっていますが、その時の担当責任者として朝廷との折衝をやっていた関係から、しっかり顔見知りになったものと思われます。

そして信長横死のあと、事態収拾してからも織田信長の勤皇行動を継承し、引き続き朝廷の台所を回復させる手助けを続けて来たのは、前章までの説明通りです。

豊臣秀吉と正親町天皇(おおぎまちてんのう)との関係は極めて円満で、信長時代のギスギスした空気はまったくありません。

しかし、『王政復古(おうせいふっこ)』と言うような目立つ政治的な動きは、正親町天皇サイドでは全く見られず、正親町天皇の崩御後の後陽成天皇(ごようぜいてんのう)との関係も、豊臣秀吉が天皇の庇護者のような関係は続いており、政治の前面に天皇が出るようことは一度もありませんでした。

豊臣秀吉は必要な保護と資金提供を繰り返し、うまく『天皇の権威』を高めつつ、政権維持に利用してゆくと言う朝廷との関係が続いた”と言うのが通説だと考えられます。

異説として前章までで紹介した歴史研究者の小林正信(こばやし まさのぶ)氏の説があります。

これは簡単に言えば、細川藤孝が正親町帝の『王政復古』の思いを実現するべく、室町幕府奉公衆の同輩であった明智光秀をそそのかして、織田信長を本能寺で討たせ、そののち豊臣秀吉に明智光秀を山崎で討たせて、織田幕府と室町幕府の両方を壊滅させて、正親町帝の考える天皇親政による『王政復古』を実現させるというものでした。

その際、明智光秀を討つに当たっての豊臣秀吉の見返りが『関白職』就任だったと言うもので、これで正親町帝の希望する『公家一統』による日本統一が実現できると言う腹積もりでした。

もしこれが事実とすれば、豊臣秀吉は正親町天皇の『王政復古』に協力したと言うことになる訳です。

この異説に関して、更に補強するような異説を歴史作家の八切止夫(やぎり とめお)氏が述べています。

それによると、、、

天正10年(1582年)6月2日未明から京都本能寺の織田信長宿舎を襲ったのは、明智の旗印をつけた豊臣秀吉の親族を含む細川藤孝(ほそかわ ふじたか)手配、斎藤利三(さいとう としみつ)指揮の軍団で、明智光秀が毛利討伐戦へ出陣後、織田信長のニセの”本能寺にて閲兵の命令”を急遽受けて、方向転換して亀山から京都本能寺に現れたのは6月2日午前9時頃で、もうすでに焼け落ちた本能寺に明智家の旗が散らばっているのを見て明智光秀は呆然とした
午後2時くらいまで現場に踏みとどまり事態把握に努めるが、その後安土城へ政局収拾の為に向かったが、犯行グループの手回しのよい手配で、すでに瀬田の橋が焼き落とされており、やむなくその日は近江坂本の居城へ帰ったとあります。

ちょっとどうかと思われる異説ですが、裏づけもそれなりに説明されており、小林説と合わせると豊臣秀吉の『中国大返し』の謎と、が見ても杜撰(ずさん)な明智光秀のクーデターの謎を見事に解いてくれま。詳しくはいずれ別稿で説明したいと思いますが、非常に興味深い説となっています。

元はと言えば、織田信長が正親町帝の期待していた『公家一統(くげいっとう)』による”王政復古”ではなくて、本音はあくまでも『武家一統(ぶけいっとう)』による”幕藩体制の構築”と言う政治方針だったことが原因のようです。

話を元に戻しますと、、、

通説どおりであれば、”豊臣秀吉がいかに勤皇家だったとは言え、正親町帝と共に『王政復古』を目指した事実はない”と言うことになります。

異説の小林説では、豊臣秀吉は『関白職』と言うエサに釣られて、この謀略(本能寺の変)に加担したことになりますし、更に八切説ではそもそも謀略の下手人(実行犯)が”明智光秀ではなくて豊臣秀吉”で、”黒幕が正親町帝だ”と言うことになりそうです。

異説では、何れにしても”細川藤孝(幽斎)”が”仕掛け人”として浮かび上がってくるようです。

また”正親町帝”に関しても、永禄8年(1565年)の『永禄8年の政変(第13代室町将軍”足利義輝”暗殺事件)』の黒幕とも目されており、異説のような『織田信長暗殺(本能寺の変)』のこともあり得ないとは言えない人物です。

 

まとめ

豊臣秀吉の出世物語”は、賤民から太閤まで成り上がった人物として、関西地区のみならず日本中で人気のある成功物語(ジャパニーズドリーム)として有名です。

豊臣秀吉は、天下人織田信長の一武将の身分から、天正10年(1582年)6月2日未明に発生した”主君織田信長暗殺(本能寺の変)”と言う前代未聞の大事件に対応し、家中の居並ぶ重臣の中でいち早く行動を起こして、電光石火の素早さで下手人と目される明智光秀を『山崎の戦い』で破って、主君の仇討ちを敢行して一躍”織田信長の後継者候補”として名乗りを上げました。

その後競争相手を蹴散らして、天正12年(1584年)には、最大のライバル”徳川家康”を臣従させて、天正13年(1585年)には”関白任官”を果たして、”主家の上に立つ正統性”を天下に示して、主家織田家からの政権簒奪(せいけんさんだつ)のそしりを抑え込み、名実ともに天下人織田信長の後継者となりました

本人の努力、生まれ持った強運と類まれな能力を発揮して、この成功をつかみ取った人物として知られていますが、豊臣政権を倒して成立した徳川幕府の江戸期には語るのを憚られていました。

しかし、徳川幕府を倒して成立した”維新”後の明治政府による、当初の反徳川政策とその後の富国強兵の国策とも合致するものとして、また戦後の高度成長期からは”立身出世のサクセスストーリー”として認識されて今日に至っています。

豊臣秀吉が関白に補任(ぶにん)されたのは、前述のとおり主君織田信長の横死からわずか3年後の、天正13年(1585年)7月のことです。

江戸・明治期では、豊臣秀吉は当初『征夷大将軍』になる事を望んだが、当時征夷大将軍の地位にあった足利15代将軍義昭から譲るのを断られたために、”関白”となったと言われていましたが、最近の研究で、この話には同時代史料の裏づけが全く見当たらないことが判明しており、豊臣秀吉は当初から”関白”任官を進めていたのではないかと言われています。

また、豊臣秀吉は”豊臣家で関白職を独占してゆくつもりだったのか”に関しては、従来、『唐入りー朝鮮出兵』に専念するために、関白を豊臣秀次に譲ったと言われていましたが、歴史研究者の藤田恒春氏によって、第一子”鶴松”が生まれた時にも”関白職譲位”の話を朝廷に出している史料が発見されていることから、豊臣秀吉の真意は、『豊臣家による関白職独占』であったことが分かりました。

そして、豊臣秀吉の勤皇は有名ですが、『天皇家と姻戚関係』を結ぶ考えはその行動が全く見つからない事から、そんな気は毛頭なかったようです。

正親町天皇(おおぎまちてんのう)との事に関しては、天正10年(1582年)の『本能寺の変』の異説にもつながるのですが、、、

正親町天皇が意図し細川藤孝(幽斎)が動いたと言われる『王政復古(おうせいふっこ)』に関して、豊臣秀吉は”天皇の権威”は利用させてもらっても、”政権そのものを渡す(天皇親政)事”などは考えてもいなかったと思われます。

もう時代そのものが、『公家一統』による公家政治など出来るとは誰も思っていなかったと言うことが本当のところかもしれません。

つまり、時代が下った幕末期に長州の勤王の志士たちが、仲間内で天皇の事を無礼にも『玉(ぎょく)』と呼んでいたことが示すように、豊臣秀吉も、天皇はあくまでも”権威象徴・飾り・名分”としか考えていなかったと言うことでしょう。

天正10年(1582年)の『本能寺の変』に関してですが、、、

永禄8年(1565年)の『永禄の政変』と呼ばれる第13代将軍 足利義輝弑逆事件(あしかが よしてる しいぎゃくじけん)も、正親町帝と将軍義輝の対立から引き起こされている可能性が高いことから、織田信長もこの陰謀天皇正親町帝を退位に追い込む圧力を高めていた時期に当ることを考えると、側近たちが『忖度(そんたく)』しただけなのかもしれませんが、”正親町帝”は非常にグレーのような気がします。

その現実の実行犯としての豊臣秀吉犯行説は、あまりに異例の早さでの”関白任官”だっただけに、併せて興味を引くところです。

歴史学者から『珍説』として相手にされていませんが、平安末期の『保元・平治の乱』辺りの、天皇・公家・武士たちのドロドロの陰謀の仕掛け合いを見ると、これくらいやりかねないのが当時の朝廷・公家たちなのではないかとも思うので、とても珍説と言い切れないような気がします。

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参考文献

〇徳冨蘇峰 『近世日本国民史 豊臣氏時代甲篇』(1981年 講談社学術文庫)

『多門院日記 天正13年7月の条』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇小林正信 『正親町帝時代史論』(2012年 岩田書院)

〇藤田恒春 『豊臣秀次』(2015年 吉川弘文館)

〇吉成勇編集 『豊臣一族のすべて』(1996年 新人物往来社)

〇徳冨蘇峰 『近世日本国民史 豊臣氏時代乙篇』(1981年 講談社学術文庫)

〇八切止夫 『信長殺し、光秀ではない』(2002年 作品社)

〇八切止夫 『信長殺しは、秀吉か』(2003年 作品社)

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