太閤豊臣秀吉の後継者関白豊臣秀次は、だれに消されたのか?

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関白秀次が後継したら、その後どうなったかが分かります。

関白秀次切腹した真相が分かります。

『豊臣秀次事件』は、誰かの陰謀だったの?

関白秀次北政所に見放された?

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秀次がそのまま後継者となっていたら、豊臣家は安泰だったの?

豊臣秀次を語る際に、教養のある有能な人物だったと言う場合と、面白半分に人を殺す性格異常者であったかのように表現する場合もあり、評価は極端な違いをみせます。

その代表的なものが、織豊期を通じて滞在し最後は日本に骨を埋めたとして有名な、イエズス会の宣教師ルイスフロイスによるもので、、、

当初は、、、

関白の甥である新関白秀次は、若年ながら深く道理と分別をわきまえた人で、謙虚であり、短慮性急でなく、物事に慎重で思慮深かった。そして、平素、良識ある賢明な人物と会談することを好んだ。

(引用:松田毅一・川崎桃太訳 『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ 227頁』2014年 中公文庫)

 

とありますが、政変後は、、、

 

在日三十年余、日本通であった宣教師ルイス・フロイスですら秀次のことを、『殿の野蛮さは、非常に野獣的なもので、カリグラ帝やドミティアヌス帝、その他の僭主(せんしゅー武力で君主の位を奪った者)さえも人間の怪獣性では関白殿に一歩譲っているように思われた。』と酷評した。

(引用:藤田恒春 『豊臣秀次』 2015年 吉川弘文館)

とあり、同一人物で180度違う評価がされています。どちらが本当の豊臣秀次なのでしょうか。

江戸時代初期の医師小瀬甫庵(おぜ ほあん)は、著作『太閤記』の中で、、、

抑関白秀次公、尾州之太守たりし時には相替り、天下之家督を請給ひてより、御行跡みだりがはしく、萬あさはかにならせられ、諫を納られず、雅意なる御翔共、月に累り年に彌増、上下大かたうとみ初けり。

(引用:小瀬甫庵著桑田忠親校訂 『太閤記(下)』1984年 岩波文庫)

 

大意は、”関白豊臣秀次公は、尾張の領主だった頃と大きく変わり、天下の跡継ぎとなってから、行ないが乱れて万事あさはかになり、人の諫言(かんげん)も聞き入れず、以前の優雅なふるまいも月を追うごとになくなり、上からも下の者からも次第に疎まれ始めた。

とあり、豊臣秀次は、地位を得てからどんどん人が変わったように、粗野な人間に変化して行って、周りから人が離れて行ったと評されています。

豊臣秀吉はと言うと、姉(とも)の子である秀次を、秀吉が近江の浅井(あざい)攻め主将となった時に、浅井方の武将宮部継潤(みやべ けいじゅん)に秀吉から養子として差し出され、天正元年(1573年)の浅井氏滅亡に一役買うことになりました。

また、天正9年(1581年)の四国攻略に際し、敵将であった三好康長(みよし やすなが)の取り込みのために、再び養子に出されて、三好孫七郎信吉(みよし まごしちろう のぶよし)と称しています。

天正10年(1582年)6月の『明智光秀の乱(本能寺の変)』後の10月『根来攻め』以降は、豊臣方の武将“三好孫七郎信吉”として秀吉の天下取りの戦いに参戦して行くこととなります。

秀吉にしても、姉(とも)の子供と言うだけで格別の才能も才覚も見せない秀次に、親族と言うことで安全杯として手駒に使う以外は、大した期待もしていなかったと思われます。

しかし、小田原戦後に奥羽仕置を終えた天正19年(1591年)1月22日に秀吉実弟であり自分の重要な補佐役であった豊臣秀長が、8月5日には継嗣の鶴松が相次いで死去します。

そこで豊臣秀吉はこの空白を埋めるために、どうしても身内で残った秀次を後継者にせざるを得ない事態となりました。

こうして、秀次は豊臣秀吉の養子となり、関白職を引き継ぐこととなって行きます。

秀吉自身、前出の通り秀次が凡庸な人物であることを知り抜いていたようで、関白継承に当ってその心得を”ちゃのゆ(茶の湯)・たかののたか(鷹狩)・めくるいひ(女狂い)にすき候事、秀よしのまねこれあるましき事”で有名な『五カ条の覚書』で出しており、秀吉が秀次をいかに心もとない後継者であると認識していたかがよく分かります。

そのためもあってか、秀吉は軍事指揮権・領地知行宛行権を握ったままで、秀次の中心となる家臣団も秀吉からのあてがいで、”秀次の『関白』就任”は形ばかりのものとなっていました。

また、公家の近衛信輔(このえ のぶすけー信尹、近衛前久卿の子)は、、、

公家社会のつき合い方や作法など何も知らない秀次の内大臣拝賀の後見を命じられた信輔は、「若輩無知の秀次卿を後見す」と、歯に衣着せぬ書き方である。

(引用:藤田恒春『豊臣秀次 108~109頁』2015年 吉川弘文館)

とあり、秀次を若輩無知と罵り、朝廷での評判も今ひとつだったようです。

能力的に劣って頼りにならないと指名した豊臣秀吉自身も思っていたようですが、周りもそんな評価を下しており、一般的な秀次に対する評価も”凡庸”と固まっていたものと考えられます。

結局豊臣秀次は、その与えられた任務をこなす前に、秀吉の実子”秀頼”の誕生によって与えられた役割が終了し、その指名者であった叔父豊臣秀吉によって引き摺り下ろされることになる訳ですが、ひいき目に見てもやはり秀吉を凌駕する”天下人”は無理だったのではないかと思われます。

順当に豊臣政権が固まった何代か後であれば、”豊臣秀次”のような平凡な能力の人物でも能力のある重臣たちのサポートを受けられれば、徳川時代の将軍たちのように十分当主は務まったと思われますが、あの動乱期ではちょっと厳しかったのではないかと考えられます。

結局、徳川家康のような戦国の梟雄(きょうゆう)的”実力者”の台頭を許し、政権を明け渡すことになったのではないでしょうか。


(画像引用:豊臣秀次像 瑞雲寺所蔵)

なぜ秀次は切腹せねばならなかったの?

歴史学者の矢部健太郎氏は、端的に”秀次は「秀次高野住山令」=禁固刑”か、「秀次切腹命令」=死刑か”と言う表現をされています。

どちらにしても無罪判決ではないようなので、豊臣秀次は”豊臣政権もしくは豊臣秀吉に対して罪を犯した”と裁定されていたようです。

まず、”容疑”の内容ですが、、、

爰ニ五月二十五日ノ夜ニ 何者共知ス文筥ヲ持来リ 石田治部少輔三成処ニ捧ク 其者行方ヲシラス 石田披見スルニ其文ニ云 当秋秀吉ハ秀次ノ招ニ応シテ 聚楽ノ新亭ニ出御有ントナリ 就中北山ニテ鹿狩ノ興ヲ催ス全ク是鹿狩ノ遊ニアラス 唯事ヲ狩猟ニ託シ諸国ニ命シ弓 鉄炮鍛錬ノ者数万人ヲ撰フ 秀次内ニハ逆謀ヲ含ムコト必定セリ(中略) 三成疾ク秀吉ニ達シテ 聚楽ニ往玉フ事止メラルヘシ 三成大ニ色ヲ変シ 即其書ヲ懐中シテ 秀吉ニ献ス 秀吉是ヲ閲シテ甚驚キ大ニ憤ル

(引用:藤田恒春 『豊臣秀次の研究 172~173頁 「上杉家御年譜」よりの引用文』 2003年 文献出版)

 

大意は、”ここに、5月25日の夜に誰かよくわからない者が石田三成に文箱を持ち込んだがその者の行方はわからない。三成がその文面を見ると、この秋に太閤秀吉は関白秀次の招きに応じて聚楽第に行くことになっているが、この時に北山で鹿狩りを催すことになっている。しかし、これは鹿狩りに事を寄せて諸国に命じて鉄炮衆数万人を選んで備えた”謀叛”であることが明白である。三成はすぐさま秀吉のこの聚楽第下向を取りやめるべきと秀吉に報告した。秀吉はこれを見て大変驚き且つ激怒した。”とあります。

これは所謂”石田三成の密告文”と言われるもので、謀反の規模が事前に漏れないはずもない大掛かりなものですから、あからさまな何者かのでっち上げと思われる文面です。これは秀吉の指示か三成の忖度によるもののように出来ていますが、仮に存在したとしても、あの万事周到な石田三成がこんなものを残すはずもありませんね。果たして本当に存在したものでしょうか、本当に存在するなら大変なことですね。

しかし、文の内容・存在の真偽は別として、豊臣政権の醸し出すこんな雰囲気のなかで、”豊臣秀次”は無理やり”罪人・謀叛人”と認定されたのだと考えられます。

早耳の公家衆の日記類・関連記事も該当箇所の削除・改ざんが手早く実行されているようなので、文禄4年(1595年)の早い時期には秀次の処分は決まっていたのではないでしょうか。

仮に豊臣秀吉が”あいつは、アホで要領の悪いドンくさいだけの奴っちゃから助けたろか!”と思ったとしても、罪状が「謀叛」であれば、これは「死刑」と言うのが、武家社会の通り相場かと思います。

一連の太閤秀吉の行動は、関白秀次と関係のある会津の蒲生氏郷(がもう うじさと)の死去に伴う、相続問題に関係して差し出された「会津知行目録」の記載内容に関して、6月3日に出された秀吉のクレームから始まりました。

  • 5/25  石田三成の秀次謀反の密告(でっち上げ事件か?)
  • 6/3  秀吉の「会津知行目録」のクレーム(言いがかりか?)
  • 7/3  秀吉と秀次の決裂(秀吉からの詰問状)
  • 7/8  秀次、伏見へ行くもそのまま高野山へ向う
  • 7/15  御前10時頃、高野山靑巌寺にて秀次自刃
  • 8/2  秀次の妻子、京都三条河原にて処刑

この流れの原因となった文禄4年(1595年)年初から太閤秀吉と関白秀次の会談は、歴史学者の藤田恒春氏の著書によれば、、、

  • 1月12日より下坂し、18日頃に伏見から下坂した秀吉と会談
  • 3月8日      秀吉が聚楽第に秀次を訪問
  • 4月18日    秀次伏見へ下向
  • 5月5日   秀次伏見へ下向
  • 5月16日 秀次伏見へ下向
  • 5月21日 秀次伏見へ下向・秀吉夫妻に能を舞う
  • 5月23日 秀次伏見へ下向
  • 6月6日   秀次伏見へ下向
  • 6月19日 秀次伏見へ下向

と続いています。3月に一度、太閤秀吉からの聚楽第訪問はありますが、形としては京都の聚楽第にいる関白秀次が、伏見城にいる太閤豊臣秀吉から度々呼びつけられている様子が見て取れます。

内容は全く伝わっていませんが、状況としては、太閤秀吉が関白職を愛息秀頼に禅譲するように関白秀次を説得していたものと考えられます。

結果をみると、なぜか関白秀次は最後まで太閤秀吉の要求を拒み続けたようですね。

言経卿記(ときつねきょうき)によれば、7月3日に”関白殿ト太閤殿ト 去三日ヨリ御不和也”と伝わっており、7月3日に太閤秀吉が話し合いを打ち切ったようです。

この後、、、

七日、戊寅、(中略)、

依殿下御別心之雑説、太閤以外御腹立、切々御使之由、及其沙汰了、諸家洛中洛外執心仕了、(後略)、

八日、庚辰、殿下午刻、伏見へ御出云々、今度雑説爲御理云々、御小者一兩人之躰云々、於伏見御仕合未相聞、

九日、辛巳、昨夜殿下令切御本結、爲高野御住居之由申訖、(後略)、

(引用:『兼見卿記 五 文禄四年七月之条』2016年 八木書店)

大意は、”7月7日、関白秀次の謀叛の噂によって、太閤秀吉が激怒しており、急な使者がその件で聚楽第へやって来た。京都中はその噂で持ちきりである。

7月8日、関白秀次はお昼ごろに伏見城へ下向し、今度の謀叛の噂に関して太閤秀吉に弁明をするつもりで、小者だけ連れて行ったが、伏見城では太閤秀吉に会う事も出来なかった

7月9日、昨夜、関白秀次はまげを切り、高野山へ居住するためだと言った。”とあります。

冒頭にお話しましたように、文禄4年(1595年)7月12日付にて、関白秀次に対して『高野住山命令』が出ており、当初太閤秀吉は関白秀次の『切腹命令』を出しておらず、”高野山追放”だけに留める考え方だったと言う説が多く云われています

しかし、この”秀次謀反”の噂が5月25日と言う早い段階で、石田三成の密告話から出ている可能性が高い事から、この時点では既に”秀吉が秀次抹殺の決断”をしているのではないかと考えられます。

やはり”謀叛”の罪は古今東西、”死罪”と相場が決まっています。政敵の抹殺にはこの手が一番多いのです。

時期の問題は別としても、太閤秀吉があれだけ時間をかけて秀頼への関白職の禅譲を迫ったにもかかわらず、秀次が頑なに拒否して不調に終わった段階で、秀次の命運は決定したのだと考えられます。

私見ですが、5月21日に伏見で能の会を開いた折、秀吉が北政所を呼んでいて、万事北政所ねねの了解を取りつつ政務を進めている太閤秀吉のやり口からみて、あの時点で『関白秀次抹殺』に関し北政所ねねの最終の了解を取ったのではないかと考えます。

と言う段取りで、”関白秀次謀叛の噂”は、5月25日の”三成密告”以降始まった訳です。

と言う事で、”秀次切腹の理由”は、秀吉が何度言い聞かせても”秀頼に関白職を禅譲しょうとしない秀次の抹殺”と言う事になりそうです。

上記の7月9日の『兼見卿記』によれば、伏見城で門前払いまでされても、関白秀次自身は高野山に住むのだと周囲に言っていて、”死罪の自覚が全くない”ところから、一部の説にあるような”秀次の切腹は秀吉に対する冤罪への抗議の自殺”とは言えないような気がします。

やはり、7月14日の夕刻に高野山に到着したと言う、福島正則を含む3使者によって、『死罪』を申し渡されて初めて自分の運命を自覚した可能性が高いのではないでしょうか。つまり、死罪としての『切腹』が秀吉の決定事項だったように思えます。

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なぜ秀吉は秀次一族を根絶やしにしたの?

この当時の武家社会では、主君に対する”謀叛”と云うものは、その罰則は”一族郎党ともに死罪”と言うのが、通り相場だったようです。

時代は遡って、織田信長の時代である天正6年(1578年)10月に織田信長配下の大物武将である摂津伊丹有岡(ありおか)城主”荒木村重(あらき むらしげ)”が謀叛を起し、大坂石山本願寺側に寝返った時のことです。

織田信長の祐筆でもあった太田牛一(おおた ぎゅういち)の『信長公記』によれば、、、

早速、城を信長軍に取り囲まれた荒木村重は、一年余りも籠城した天正7年(1579年)9月2日に単身抜け出し摂津尼崎大物(だいもつ)城へ逃れます。残った城代らも11月19日妻子を人質に有岡城へ残したまま尼崎へ移ってしまいました。

激怒した織田信長は、12月13日有岡城に残った家臣らの女房衆122人を尼崎七松で磔にして鉄炮・長刀で処刑し、12月16日に村木一族と重臣の家族36人を京都六条河原で斬首刑に処し、その他若党以下家人・使用人ら男女合計510余人を4つの家屋に閉じ込めて焼き殺してしまいました。

と記述されており、まさに、荒木家一族郎党は逃亡した本人荒木村重を除いて、織田信長によって根絶やしにされました。

 

荒木一族が京都六条河原で処刑された時の様子では、、、

・・・さすが世にしたがひたる者共の妻子なれば、事の外なる気色もなかりけり。中にもだしと云ひし女房は、世に類無き美人なりけるが、車より下り、帯をしめなおし西を礼し、頸さし出し斬られけり。・・・

(引用:小瀬甫庵撰・神郡周校注 『信長記 下』1981年 現代思想社)

とあり、こうした残酷な処刑行為も戦国武将の世界では、敗者の宿命と諦められていたことが、江戸時代初期の医師小瀬甫庵の筆にて示されています。

関白秀次の場合は、別段太閤秀吉と戦闘をやっていた訳ではありませんが、『太閤秀吉暗殺・政権奪取』を計画した”謀叛”との疑いをかけた『冤罪(えんざい)』と言う事がはっきりしそうです。

太閤豊臣秀吉が何度説得しようと、関白豊臣秀次が関白の地位を”おひろい(豊臣秀頼)”に禅譲(譲ろう)しようとしないため、太閤秀吉が関白秀次を亡き者にするため、配下の奉行たちを使って強権発動して『謀叛人』に仕立て上げたと言う事になります。

さまざまな”秀次論”が出ていますが、政治家としての能力に欠けたとしても甥御ではある秀次を切り捨てても、なお未知数の幼児”おひろい”に賭けようとする老人豊臣秀吉の妄執(もうしゅう)が怖い感じです。

結局これは、所謂“通説”の範囲内の話となりました。

 

秀次切腹は誰か(石田三成・徳川家康)の陰謀なの?

人生の晩年を迎えていた太閤豊臣秀吉が、その後継者である関白豊臣秀次をこの事件のために失ったことによる一番の利益享受者と言えば、その後の歴史で明らかなように”徳川家康”その人です。

また、もしそのまま関白豊臣秀次が政治の実権を握るようなことがあれば、秀次とそりが合わないために政権から排除される可能性の高い石田三成ら奉行たちが、秀次追い落としを狙う可能性は排除出来ないのです。

しかし、明治の大ジャーナリスト徳富蘇峰によれば、、、

・・・秀次は全く高野山上に監禁せられたのだ。

併し秀吉は此の儘(まま)禍根を、後に残すを欲しなかった。彼は自個百歳の後を思ひ、寧ろ此の際秀次に死を賜ふを以て、安全と判断したであらう。・・・

・・・

吾人(徳富蘇峰)は秀次賜死の張本人は、必ず秀吉であったことを疑わぬ。

(引用:徳冨蘇峰 『近世日本国民史 豊臣秀吉時代己篇 朝鮮役下巻』1936年 明治書院)

 

とあり、『秀次事件』は”まったく太閤豊臣秀吉の意志による計画的処刑であった”事と述べています。

また、日時も内容も正確には分かっていない、太閤秀吉からの秀次に対する”詰問状”の内容につき、宣教師ルイスフロイスの話として、、、

  1. 日々遊興にふけり、武芸も鍛錬しているのに、なぜ伏見の太閤の所へ来れないほど”ゆううつ病”だと言うのか?
  2. 関白の職にありながら、自ら罪人の首を刎ねるのを娯楽としているのはどういう理由か?
  3. 外出時に戦時のような衛兵を連れて歩くのはなぜか?
  4. 戦時でのないのに、自分の親衛隊員を増やしているのはなぜか?
  5. 何の目的があって、色々な人物に徒党を組もうとして誘っているのか?

と言う、”謀叛の準備”ととられかねない日頃の秀次の行動につき、石田三成ら5名の使者を送り詰問しています。

これが、文禄4年(1595年)7月8日付『言経卿記』などに出ている「関白殿下ト 太閤ト去三日ヨリ御不和也」の内容ではないかと思われます。

そして、二日後の5日に秀次は7枚の誓紙を秀吉宛てに提出することになりますが、構わず秀吉は着々と兵の準備を行ない、完了した7月7日に、、、

予は汝の暴行と逆意を抱けるを熟知す。故に汝は急に侍者數輩を従へ、伏見に來りて、其の主意を辯明する乎、或は汝の父の居城たる清洲城に退去す可し、若し此の兩條に違背せば、予は忽ち汝の生命を絶ち、汝の宮室を灰燼に付せむ。

(引用:徳冨蘇峰 『近世日本国民史 豊臣秀吉時代己篇 朝鮮役下巻 219頁』1936年 明治書院)

大意は、”私はおまえが謀反を起そうとしているのを知っているぞ。だから、おまえは伏見に来て弁明するか、おまえの父親がいる清洲城へ退去するか決めて答えよ。ぐずぐずしていたら、私はおまえを殺して聚楽第を焼くぞ。”

と言う内容の”最後通告”が聚楽第の関白秀次にもたらされて、とうとう関白秀次は観念し、翌7月8日に太閤秀吉の待つ伏見城へ下向したとあります。

これが、フロイスの文章として実際に存在したとしても、当時の噂の記事であることは間違いないので、事実かどうかははっきりしませんが、非常に当時の状況がよく分かるような気がします。

よく出来た話ですが、もしこのプロセスを企画してはめ込んだ人物がいるとすれば、その人物が仕組んだ”陰謀”と言えるのかもしれません。

ここにひとつのエピソードがあります。それは、、、

永禄4年(1595年)5月3日に、徳川家康は京都より江戸に帰っていますが、その折、京都聚楽第に居残る継嗣の秀忠に対して、”太閤秀吉と関白秀次の間に何かが起こったら、必ず太閤秀吉に味方せよ、もし太閤に何かあったら、迷わず大坂へ行き北政所をお守りせよ。”と訓令を与えています。

そして、家康の狙い通り秀吉と秀次の間に7月3日に大事件が発生します。そしてその2日後の7月5日黎明に聚楽第にいる関白秀次から徳川秀忠に対してビジネスモーニングの誘いが入ります。瞬時に反応した秀忠主従は、返事を引き延ばして秀忠は大至急伏見城の太閤秀吉のもとへ向かいます。

伏見で秀忠に謁見して関白秀次の意図を知った太閤秀吉は、”さすがは、徳川殿のお子じゃ!”と大満足で褒めたと言います。これは、関白秀次が太閤秀吉との戦いのために、徳川家康の継嗣秀忠を人質に取ろうとしたものと言われています。

つまり、5月になる段階で、徳川家康はこの流れをすべて読んだいたことになり、また大した用事もないのに、この時期に『本能寺の変』の教訓で、当主と継嗣が同時に同じ場所にいるのはまずいと言う事で、京都をはなれて江戸にいました。

これで、家康は紛争に巻き込まれることなく、アリバイも完璧で豊臣家の内紛をながめていますが、これは幕末の慶応3年(1867年)10月”坂本龍馬暗殺事件”時に薩摩藩の首脳陣が全員京都を離れていたのと酷似しています。

その後、薩摩は”徳川幕府打倒”と言う利益を得て徳川も”豊臣家から政権奪取”と言う利益を得ています。偶然かもしれませんが、これが要人謀殺の常套手段だとすると、徳川家康の謀略説は案外説得力があります。

大体、豊臣秀吉の死後からの、徳川家康の国盗り行動(政権奪取)は準備が良すぎるんですよね。そんなことも疑えばキリがないし、確証もありませんが、忘れてはならないのが、戦国一の諜報組織(忍者・スパイ)を擁する徳川家康にとって、謀略はお家芸でもあると言う事です。

 

北政所は秀次を後継者とは認めていなかった?

子供が出来なかった豊臣秀吉夫妻は、親類縁者・近所の目端の利く子供を引き取って可愛がったと言います。

加藤清正福島正則浅野長政石田三成黒田長政など名だたる武将が上げられます。

明治の大ジャーナリスト徳富蘇峰によれば、、、

秀吉の近親は、其の異父弟秀長を除けば、何れも不肖、若しくは不良の徒であった。其の中にて秀次は、幾分の取柄ある者として、揀擇(かんたく)せられたのだ。

(引用:徳冨蘇峰 『近世日本国民史 豊臣秀吉時代己篇 朝鮮役下巻 181頁』1936年 明治書院)

と、豊臣秀吉の親族は散々な評価ですが、まさにそのとおりと言うことです。

しかし、養母として幼少より育てていれば、北政所ねねもかわいがるのでしょうが、秀吉の実姉ともの子供で、おそらくねねになつく間もなく、ともの家族のもとからいきなり、秀吉の都合で親戚の子だからと言う理由で前述したように政略的に養子(人質)として利用されて来た人生でした。

養子ではありませんが、ちびの頃から叱りつけていた加藤清正らへの愛情とは、北政所の扱いは全く違っていたようです。

この秀次のような豊臣家の養子は、、、

  • 秀俊(ひでとし) - ねねの甥、木下家定の五男金吾、後の小早川秀秋
  • 於次秀勝(おつぎ ひでかつ) - 織田信長の四男
  • 秀次(ひでつぐ) - 秀吉の甥、三好吉房・ともの長男
  • 小吉秀勝(こきち ひでかつ) - 秀吉の甥、三好吉房・ともの次男
  • 宇喜多秀家(うきた ひでいえ)- 宇喜多直家の子
  • 結城秀康(ゆうき ひでやす) - 徳川家康の次男
  • 八条宮智仁親王(はちじょうのみや としひとしんのう)- 後陽成天皇の弟

秀次も入れて都合7名もいました。

 

養子となれば正室の子だとは云うものの、北政所ねねに対して豊臣秀吉にしては珍しい手紙が残っています。

(前略)

金吾廿二日名護屋へ著き候て、人数多く候て、きれいなるよしにて、一だんほめ申し候。金吾大坂へいとまごひに越し候へば、そもじ機嫌あしく候て、金吾申す道具少しもとゝのひ来ぬよし、聞きまいらせ候。何としたる事にて候や。可愛いがり候はでは、誰やの人か可愛いがり候はんや。これ以後は、一だんといとしがり候て、太閤が頼りと存じ候て、何たる用も聞き候べく候。別に、そもじは、子持ち申さず、金吾ばかりと思ひ候て、大切がり候べく候。

(引用:桑田忠親『太閤の手紙 』187頁 1985年 文春文庫)

大意は、”22日に、金吾(小早川秀秋)が名護屋に着陣して来た。軍の人数も多くて、きちんとした軍だったので、褒めてやった。ところで、金吾が大坂でそなたに暇乞いの挨拶に行ったら、そなたの機嫌が悪くて、出陣の支度(武装の整え)もしてもらえなかったと金吾がこぼしているではないか。一体どうしたんだ。そなたは子供がいないのだから、金吾を可愛がってやらねばならぬ。私が後を託すのに頼りにしているのだから、どんなことも聞いてやらねば。”と言うようなことです。

つまり、珍しく秀吉がねねを叱りつけています。こんなこともあるのです。

金吾はねねの甥ですが、秀吉とねねの親族は誰をとっても前出の徳富蘇峰が言い放ったように、”不肖・不良の徒”ばかりなのです。

子供の内は良かったのですが、彼らが一人前の年齢になってくると、頼りにならない人物ばかりで件の”関白秀次”にも、本当はねねもウンザリしていたのかもしれません。

話を戻しますと、、、

関白秀次が太閤秀吉より、7月3日に五カ条の”詰問状”を出され、7月7日には”最後通牒”を突き付けられてしましますが、北政所ねねはそれでもなお、秀次が態度を決め切れないことは百も承知していたようで、8日早暁から側近の孝蔵主(こうぞうす)を聚楽第に派遣し、伏見城太閤秀吉のところへの出立の背中を押しに行きます。

同月八日の朝御比丘尼孝蔵主を御使被立御だまし被成候、・・・只今に伏見江被成御下候はヾ、太閤様御機嫌にて、此上ハ直に御理被成候ハ目出度彌此跡よりハ御中別條御座御有間敷と孝蔵主申上候處にげににげ左様にも候ハんと思召三人の若君様を御先に被立 御供にハ道三玄朔其外小姓衆十人計にて 御城を八日晝時分伏見江御下・・・

(引用:『川角太閤記 巻四 112-113頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”7月8日の朝、北政所(太閤秀吉)は、孝蔵主(こうぞうす)を使者に立てられて、関白秀次をおだましになった・・・ただ今、伏見城へ下向されれば、今なら太閤様もご機嫌もよろしいので、この上は太閤様にじかにご弁解されれば、この後になってからされるよりは、問題なく宜しいかと存じますと孝蔵主が申し上げると、逃げ回っていた関白もそうかもしれないなと思われ、若君3人と御伴には東福寺虎厳玄隆ほか小姓衆10名で聚楽第を出て、8日昼頃伏見に着いた。”となります。

このように、北政所ねねは、自分の息子(秀次)を聚楽第から引き出し、死出の旅に出すために、秀次も顔見知りで良く知っている北政所側近の孝蔵主を使っています。

また、前田家にある『利家夜話』によると、、、

・・・然處 太閤様より利家公を仕御召、朝四つに直に御登城被成候。其日八つ時分に、関白様幸蔵主と申比丘尼にたばかられ、上下六十人御供にて伏見木下大膳方迄、・・・

(引用:徳冨蘇峰 『近世日本国民史 豊臣秀吉時代己篇 朝鮮役下巻 223頁』1936年 明治書院)

大意は、”そうしていたところ、太閤様より前田利家公にお呼び出しがあり、午前4時にも拘わらずただちにご登城された。その日の午前10時頃に、関白秀次様は北政所が派遣した孝蔵主(こうぞうす)と言う尼僧にだまされて、60人ほどのお供の侍を引き連れて伏見へ下向され木下大膳邸へ入られた。・・・”

とあって、同じ内容を伝えており、太閤秀吉は、正室北政所ねねの協力の下、事実上関白秀次を逮捕して高野山へ送って処刑したようです。

その後の一族根絶やしは当時の”武家の習い”と言うことなのでしょうが、正室北政所にとっての”夫の甥の秀次”は特別気にかける相手でも愛すべき親戚でもなく、また能力を惜しむ人材でもなかったようです。

”北政所が秀次を認めていなかった”のは、能力もしかりでしょうが、やはり、ねねにとって決定的なことは、自分のところにほとんど顔も出さない可愛げのない甥っ子だったと言うことでしょう。

北政所ねねは、夫秀吉を太閤にまで出世させて、戦国を生き抜いた女性で、すべてに命がけで政治の動向には人一倍敏感だったと考えられますが、その彼女の眼から見ても、”秀次”は”使えない奴”だったのだと思います。

 

まとめ

『豊臣秀次事件』は、通説では、関白となった豊臣秀吉が、跡継ぎ鶴松を失った衝撃から、身内で残っている秀次に”後継者の地位”である関白職を譲ったものの、その後側室の淀殿が実子”秀頼”を生んだため、秀次に譲ってしまった”後継者の地位”を実子秀頼に渡したくなり、邪魔な秀次を切腹させて、一族根絶やしにしたと言う陰惨な事件として有名です。

実際、関白を譲った時点から、太閤秀吉は秀次の能力をまったく買っておらず、素直に秀吉の云う事を聞いてさえくれればよいと判断していたようです。

しかし、秀吉が機会を与えて勉強を積ませてはみたものの、やはり生来の能力不足で武芸を除いて進歩は見せず、叔父秀吉の権勢を鼻にかけて、酒食に耽る生活をするなど評判は芳しくありませんでした。

秀次の出自は、父彌助(やすけ)が清洲織田家の御狩場の鷹匠と言われていますが、実際は鷹のエサ係も行う賤民で、母ともは秀吉の姉なので秀吉と同じく農家の下働きをしている賤民と思われます。

低層階級出身であっても、秀吉やねねは、才能に恵まれ政治を動かす身分となりましたが、秀次はそれを引き継ぐには、人としての器があまりにも小さかったようです。

叔父秀吉の栄達とともに、無理やりその一端を担わされ、なんと極官である関白にまで昇りつめて行きましたが、次第にその生じる責任を背負いきれず、破滅への道を歩み始めます。

きっかけは、やはり秀吉の継嗣秀頼の誕生でした。

秀頼が順調に丈夫に育ち始め、秀吉自身が高齢による体調不安を覚え始めると、なんの取り柄も気概もみせない秀次の存在が、秀頼への安全な地位継承の大きな障害として意識され、時間をかけて秀次に秀頼への関白職禅譲を迫りますが、なぜか不調に終わり、いよいよ秀吉に最終手段を決断させることとなりました。

秀次の禅譲拒否に手を焼く太閤秀吉に、それとなくきっかけづくり(秀次の謀叛情報)に手を貸したのが、旧浅井家の姫淀殿を後押しして地位保全・強化を狙う秀吉の寵臣石田三成と、豊臣家の弱体化を画し、密かに政権奪取を狙う徳川家康だったのではないでしょうか。

また、秀吉と二人で築いた豊臣家を蚕食しているような秀次に希望を失っている北政所ねねは、秀吉の秀次抹殺計画に積極的に参加しているように見えます。

このように、有力な味方を得ることに失敗した関白豊臣秀次は、一族郎党を巻き添えにして、史上まれにみる凄惨な一族なで斬り事件に見舞われて滅亡して行きました。

太閤秀吉の始めた”唐入りー朝鮮の役”で、捕虜となって日本に抑留されていた朝鮮の儒学者姜ハン(カンハン)の遺した『看羊録(かんようろく)』によれば、、、

・・・秀頼が生まれてからというもの、関白[豊臣秀次]は、自然と心に疑いや懼れが生じ、暗に叛意を抱いた。石田治部[少輔三成]は、彼(秀次)に従いながら、これを陥れた。秀吉は、関白を自決させようとしたが、関白は、紀伊州高野山に逃れ、剃髪して僧になった。秀吉は、ただちに、その所在[地の高野山]で、またこれに死を賜った。

(引用:朴鐘鳴訳注 『看羊録』1996年 平凡社)

とあり、当時も秀次を処刑したのは、太閤秀吉だとの風聞があったと言えそうです。

真相は、闇の中ではありますが、避けようと思えば避けれたのではないかと思われる残念な出来事でした。

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参考文献

〇松田毅一・川崎桃太訳 『完訳フロイス日本史5』( 2014年 中公文庫)

〇藤田恒春 『豊臣秀次』 ( 2015年 吉川弘文館 )

〇矢部健太郎 『関白秀次の切腹』(2016年 KADOKAWA)

〇藤田恒春 『豊臣秀次の研究 』(2003年 文献出版)

〇『兼見卿記 五 文禄四年七月之条』(2016年 八木書店)

太田牛一 『信長公記 巻十二』(インターネット公開版)

〇小瀬甫庵撰・神郡周校注 『信長記 下』(1981年 現代思想社)

〇徳富蘇峰 『近世日本国民史 豊臣秀吉時代己篇 朝鮮役下巻』(1936年 明治書院)

『川角太閤記 巻四 112-113頁』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇朴鐘鳴訳注 『看羊録』(1996年 平凡社)

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