豊臣秀吉の出世伝説!『墨俣一夜城』は実話じゃないってホント?

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有名な豊臣秀吉の『墨俣一夜城』が実話かどうかはっきりさせます。

豊臣秀吉の『墨俣一夜城』築城と、織田信長の『美濃国平定』の関係が分かります。

豊臣秀吉の『墨俣一夜城』がいつ実行されたのかが分かります。

豊臣秀吉が築城した『墨俣一夜城』はどこにあったのかが分かります。

 

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豊臣秀吉『墨俣一夜城(すのまた いちやじょう)』って何なの?

通説では、、、

織田信長が、父織田信秀から引き継いだ尾張一国の再統一もほぼ終えて、父以来の念願である美濃平定”に着手していた永禄(えいろく)年間のお話です。

強兵揃いの美濃国を攻めあぐねていた織田信長が、ある時、長良川の美濃国側の対岸にわが軍の砦(城)を作りたいが、誰かやるものはいないかと配下の重臣・武将に持ちかけました。

さすがに重臣一同声もなく押し黙っていたところ、ややあって、軽輩の豊臣秀吉が自分がやりたいと申し出ました。

一同驚きの声を上げる中、どうやってやるのかと織田信長からの下問があり、秀吉は、皆様が野盗・野武士と考えている”川並衆”を使って、上流から築城材料を筏で流し、あらかじめ侵入させておいた者たちで1日で築城すると説明します。

興味を持った信長は許可を与えます。そして豊臣秀吉は、見事それを実現し、織田軍は仮設なった墨俣城を拠点にして稲葉山城を落城させることに成功し、豊臣秀吉はこの成功により出世の足懸りをつかんだと言う逸話です。

大略こんな話で、豊臣秀吉の出世話の中では一番有名なサクセスストーリーです。

もちろん、歴史ファンでは信じている人もかなり多いのではと思いますが、実は歴史の専門家はほぼ皆否定しています。現場(墨俣城址)がその後の度重なる洪水によりほぼ完全に消滅していることも築城事実の存在を証明するのを難しくしているようです。

以下の章での検討事項となるのですが、実行時期と実行事実の両方で疑義が多出しています。簡単に言うと資料毎に記載事項に差異があり、事実認定がしにくいのも原因のようです。


(画像引用:墨俣一夜城ACphoto)

伝説になった豊臣秀吉の『墨俣一夜城』の築城はいつのこと?

織田信長の美濃平定の時期は?

実は、この問題は織田信長の『美濃平定(稲葉山城落城)』の時期問題が大きくかかわって来ることになるので、最初にその問題を見てみましょう。

これには、“永禄7年(1564年)説””と”永禄10年(1567年)説”のふたつがあります。

三省堂書店のポケット版『歴史年表』を見てみると、、、

●昭和5年(1930年)から出版されているものの昭和9年(1934年)版には、、、

永禄7年(甲子)八月二日織田信長稲葉山ヲ攻メテ龍興ヲ走ラシ之ニ移リテ岐阜ト改称ス。永禄9年九月廿四日信長木下秀吉ヲ洲股砦ノ守将トス。

●平成7年(1995年)版では、、、

永禄10年(1567年)織田信長、齋藤竜興を討つ。

とあり、歴史学会の意見が江戸時代~戦前は”永禄7年説”で、最近は”永禄10年説”になっていることが分かります。

その契機になったのは、明治になって発見された”永禄9年8月に織田信長が美濃に攻め入り、河野島(岐阜県岐南町)で斎藤龍興(さいとう たつおき)に敗戦した記録(中島文書)”に基づいて、明治40年に歴史学大家の渡辺世祐氏が”永禄10年説”を打ち出したことから、両説が対立し、最近の研究で織田信長の美濃における『制札・禁制』の発給史料が永禄10年9月以降になっていることから、永禄10年説が主流となって来たようです。

昭和34年(1959年)の伊勢湾台風によって、愛知県一宮市(旧尾西地区)にある旧家吉田家の土蔵が崩れて発見された『吉田家文書(武功夜話ーぶこうやわ)』にも、、、

此度永禄甲子年、尾張平均の賀儀のため、勅使尾州へ下向、忝なくも御帝より御綸旨を賜り、有難き仕合せ乱国美濃平定の御綸旨、国中百姓憐れむべき次第。斎藤右兵衛尉退治、天下のため御帝輔弼仕らんと御覚悟、勅使へ御応答。さりながら稲葉山斎藤右兵衛尉構え堅固なり。

(引用:吉田蒼生雄全訳 『武功夜話(一)185頁』1995年 新人物往来社)

とあり、永禄甲子年(7年)には、尾張一国を平定したお祝いの勅使を迎えており、”美濃平定の綸旨”まで天皇からお墨付きをもらい、信長はご機嫌となりますが、斎藤龍興の居城”稲葉山城”は、堅固であるとしており、この時期はまだ美濃が齋藤氏のものであることが示されていて、”永禄7年での稲葉山城落城”はどうやら実現しなかったようです。

 

『墨俣一夜城』の築城時期はいつなのか?

記録に残る”墨俣築城”は、、、

一、永禄四年辛酉五月上旬、木曽川、飛騨川大河打ち越え、西美濃へ御乱入、在々所々放火にて、其の後、洲股御要害丈夫に仰せ付けられ、御在陣候のところ・・・、夜合戦に罷り成り、・・・廿四日朝、洲股へ御帰城なり。洲股御引払ひなさる。

(引用:太田牛一『信長公記』インターネット公開版)

去程ニ永禄五年五月上旬、信長卿西美濃ニ至テ令發向在々所々焼拂ントテ・・・洲股ニ要害ヲ拵ヘ給フ

(引用:小瀬甫庵 『信長記 美濃國賀留美合戦の事』国立国会図書館デジタルコレクション)

太田牛一の『信長公記』と小瀬甫庵の『信長記』ともに、年が永禄4年と5年が違ってますけど、内容は同じようなもので元は『信長公記』の方のようです。信長側の記録には”秀吉による墨俣築城話”は出て来ませんね。

小瀬甫庵(おぜ ほあん)の『太閤記(たいこうき)』では、、、通説にある”織田信長が配下の武将たちに墨俣に築城する話を持ち掛け、皆がしり込みする中、秀吉が引き受けた例の講談話”ですが、、

かくて伊勢國に令出張、取出の要害をせさせ給ふべきと、永禄九年七月五日、大小之長屋十ケ、櫓十、塀二千間、柵木五万本、來八月廿日以前に仕立候へと、作事奉行等に被仰出しに、・・・。然ば國中之人數三分にして、一分は敵をおさへ、二分は城之普請作事に掛候べし。・・・
永禄九年朔日、北方の渡より上におゐて筏にくみ下さんと、悉く城具を川際へ持はこばせ積置しかば、山の如くに見えにけり。
九月四日、小牧山へ勢を聚められ、五日之未明に北川之川上に着陣し、美濃地へ相越先ず城所に柵を付廻し、ひたヽヽと城を拵むとし給ふに、井口より八千餘騎之軍勢を段々におし出し、城之普請をおさへんとせしを、信長卿見給ひ、敵は多勢なるぞ。・・・弓鉄炮にて能防ぎ候へ。
七日八日には、大形城も出來、塀櫓をもし立、其夜にぬり立、長屋に至るまで残る所もなく、・・・敵も興をさましけるとそ聞こえし。

(引用:小瀬甫庵 『太閤記(上)』1984年 岩波文庫)

とあり、永禄9年9月半ばには、豊臣秀吉の作事で墨俣城は完成したようです。

前出の『武功夜話』によりますと、、、

一、ここに清須上総介信長様、隣国美濃斎藤左兵衛に備え、界目州の俣なる処へ出城を作事の旨仰せ付けなされ候。永禄申年改って五月の事なり。
佐々蔵助へ相副え佐久間玄蕃尉仰せ付けられ候。造作半ば美濃方懸り来り、為に応戦にいとまなく築城ははかどらず、・・・手負い多く州の俣へ御引き揚げに相成る。
永禄酉州の俣築城は、佐々内蔵助殿仕るに付き、柏井衆、内蔵助殿に相随い州の俣へ罷り出で候由。
永禄酉の美濃州の俣取出の造作は、両二年相続け候ところ、遂に成就成難く結句州の俣御引き払いに相成るなり。

一、佐々蔵助殿、州の俣に相留め置き、なお築塁の造作を仰せ付けなされ、祖父孫九郎尉、内蔵助殿に御伴仕り州の俣へ罷りあり候いて、城造り仕る由に候。
・・・。四度目の出陣に候。我等内蔵助殿と共に軽身という処へ陣所を移し候。・・・。夜討ちの小競合いにて五、三日対陣。信長様御下知あり、如何様に敵と取り合い候も、州の俣相固め、この堤は退かぬ様、永陣を覚悟なされ候。・・・

一、当日は、美濃勢押し寄せ、尾張勢と存分に出入り候。暁方より暮方まで一進一退。」美濃方、尾張勢を押し返し、塞がり塞がり上総介信長様州俣まで御退き、・・・。永禄州俣の繋城壬戌歳佐々築城の有増に候。以後永禄寅歳、木下藤吉郎殿御築城まで御手つかずに專東方へ御働きあり。

(引用:吉田蒼生雄全訳 『武功夜話 <一> 巻二 141~144頁』1995年 新人物往来社)

とあり、、、

記述されているのは、永禄申(さる)年(3年)、永禄酉(とり)年(4年)最後に永禄壬戌(みずのえ いぬ)年(5年)と連続で、信長は墨俣築城を佐々成政に命じ、最終的に放棄したとあります。翌年から南(西)からの稲葉城侵攻を諦めて東からに変更します。

そして、”永禄寅(とら)歳、つまり永禄九年の木下藤吉郎の再築城まで手付かずだった”とあり、豊臣秀吉の『墨俣築城』が前述の小瀬甫庵の『太閤記』にあるように、永禄9年(1566年)だったことを記録しています。

どうやら、豊臣秀吉の墨俣築城は実現していたようです。

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『墨俣一夜城』は、豊臣秀吉のアイディアなの?

各史料が語るように、この”墨俣再築城”の戦術方針は織田信長のアイディアに間違いないですが、当時あの立場の少し気の利いた司令官なら誰でも考えることだろうと思います。

しかし前述したように、あの墨俣は、織田信長がどれだけ力押してみても強い美濃兵に攻めかかられて築城放棄に追い込まれ、安定した戦略拠点確保とならないため、あの織田信長も根負けして永禄5年(1562年)末には西美濃方面から稲葉山城を攻略することを半ば諦めてしまった経緯があります。

再度、トライするに当たって織田信長には妙案があったのでしょうか?

豊臣秀吉の出世伝説のもととなった小瀬甫庵『太閤記』の該当部分では、、、

或時、信長卿老臣を呼聚評議し給ふやうは、美濃國に打越、度々雖盡狼藉、敵痛むけしきもなく、却て兵氣撓み、軍勢疲て成功なし。然間川向ひに要害を構へ、勢を入置、謀計を勵し、一國平均に治め、各數年の勞力を安んじ、忠勤を報ぜんと思ふは如何あらんと宣へば、何も奉り一戰功成て敵國服し民心歸せしむる御計策也と申上げれば、信長公氣よげにして、誰をか其物主に定め、要害を拵へ給んと重て問給ふに、河を越可居住と云人なかりけり。
良有て、藤吉郎を召、要害之事如何思ふぞと、密かに御談合有りけるに、憚る所もなく存知寄し事を申し上けるは、當國には夜討強盗を營みとせし其中に、能兵共多く候。然間・・・がは、幷に北方之川筋に付て、左様之兵を尋記し、其者共を番手にし、彼要害に入置給んやと申上しかば、尤也とて、名字を記し付見給ふに、千二百餘人に及べり。其中にても、武名も且々人に知られ、番頭にも宜しからんは、稻田大炊助、靑山新七、同小助、蜂須賀小六、同又十郎、・・・。
上下五六千に可及候。是を二番になし被遣、宜しく奉存候。大將に參候はなんと申者於無之者、某を被遣候はんやと、秀吉望れしかば、又指出たる事を申者哉と思召しか共、大河を越敵之地に有べきと望みぬる強氣の程を感しおぼされ、予も亦左様に思ひ寄しなりと、御同心ましまして、藤吉郎艫の廻りし申ざま、幷に大志之程をほめ給ふて歸し給ひける。

(引用:小瀬甫庵 『太閤記 <上> 83頁』1984年 岩波文庫)

大意は、”ある時織田信長が老臣を呼び集めて、美濃に攻め入っているが、敵は痛手を被った様子はないし、こちらの兵が疲れるばかりだ。川向うに城を築いて、兵を駐屯させることが出来れば、新たな戦術も実行出来て、美濃平定に大きく進むと思うがどうだろうかと言われれば、誰もがそれは敵を攻略する見事な策と言うが、信長に誰か自分がやろうと言う者はいないのかと問われれば、河を渡りましょうと云う者はいませんでした
暫くして、信長は、豊臣秀吉に向かって、この城の事をどう思うかと問うと、秀吉は、考えていることを申し上げれば、尾張には野武士と言われる人の中に有能な人材が多く、川筋の墨俣の上流からそんな兵を使ってやらせたらと思いますが、名前の分かっているものだけでも1200~1300名ほどはいて、武名の知られる大将格のものに、稲田大炊助、靑山新七、青山小助、蜂須賀小六、蜂須賀又十郎などで、配下は5000~6000ほどいます。これを使ったらよいかと思いますが、如何でしょうか?”
信長にやりましょうと云う者のない中で、私を使ってくださいと秀吉が望めば、重臣たちはまた差し出がましいことを言う奴だと思われる中で、河を渡って敵地へ行きましょうという強気な態度に、信長は自分も同じ思いだと言い、秀吉の家来も含めて褒められました。

と言う事で、豊臣秀吉は、織田信長に正規軍が手をこまねいているなら、新戦力として”川並衆”という、川筋に強い野武士の大軍使って攻略したらどうかとの提案を出して、信長に褒められて採用されたという話です。

つまり、この『墨俣一夜城作戦』は”秀吉のアイディア”だったと『太閤記』は、述べています

近年発見された”秀吉の配下となった土豪側から見た記録となる『武功夜話』”では、、、

木下藤吉郎、州俣陣相談のため、蜂須賀小六を尋ねる事

・・・。此度の州俣築城は、信長様の御諚に候。然とて日数を費やし多人数の催しは、敵方の手中に落ち入るなりと、隠密の内に事を計る様、汝才量を任せるとの密命の御諚あるにより、同意を得るために罷り越し候。

・・・。御長臣衆、滝川左近将、柴田、佐久間、丹羽の諸将慎重の趣、なお軽身の某に仰せ付けられ候事に付き、妬心もこれあり。この上は是非とも成就候わずては、いよいよ某の面目も立たず候。

州俣陣事藤吉郎、蜂須賀小六、前野將右衛門両人に申されける事

・・・。某に思案御座候、すなわち申年以来数度の築塁も支えと成らざるの因は、敵方手易く打ち越え易く、土塁のみにては攻め易きがためなり。尾張川は天の与えたる運材の道なり。隠密のうちに州俣へ隙入り馬柵、鹿垣幾重にも堅固に拵え之をもって防と為し、然る後城造作を仕るべき事肝要と存ずる次第。

(引用:吉田蒼生雄全訳 『武功夜話<一>巻三 208~209頁)』1995年 新人物往来社)

とあり、、、

織田信長から、今回永禄9年の『墨俣築城』は、日数を掛けて多人数でやっては、また敵から攻撃を受けるので、秘密裡に取り進めよ、秀吉の才覚に任せるとの密命があったと述べて、秀吉は川並衆蜂須賀小六に協力を求めています。

それについて、秀吉にはアイディアがあり、永禄申年(3年)からの土塁だけの築城では、だめなので、今回は尾張川(長良川)を使って用材を運び入れて、馬防柵を作ってしまって防御を固めてから築城に及べばよいとの考えを述べています。

まさに、世に言う『墨俣一夜城』の構想ですし、信長の問いかけに信長の重臣たちがしり込みして、秀吉にお鉢が回って来たという話も小瀬甫庵の『太閤記』とほぼ内容的には符合するようです。

どうやら、『墨俣一夜城』の攻撃法のアイディアは豊臣秀吉の考えだしたものだと言って良いようです。

 

『墨俣一夜城』はどこにあったの?

 

ウィキペディアによりますと、、

墨俣城(すのまたじょう)は、現在の岐阜県大垣市墨俣町墨俣にあった戦国時代の日本の城である。
築城時期は不明である。長良川西岸の洲股(墨俣)[2]の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた(墨俣川の戦い)。斎藤氏側で築いた城は斎藤利為らが城主を務めた。また、1561年(永禄4年)ないし1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がわずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられている。これがいわゆる墨俣一夜城であるが、不明な点が多く、様々な議論がある。
現在、墨俣城跡の北西側は一夜城跡として公園に整備されている。公園内には大垣城の天守を模した墨俣一夜城歴史資料館が建てられているが、史実上の外観とは異なる[4]。また、公園内にある白鬚神社(式内社荒方神社の説がある)には境内社として模擬天守閣が築かれたさいに分祀された豊国神社があり、豊臣秀吉が祀られている。
墨俣城が最後に歴史にその名を記すのは天正12年(1584年)4月で、小牧・長久手の戦いを目前にして当時美濃を支配していた池田恒興の家臣伊木忠次が改修したとある。その2年後の天正14年(1586年)6月、木曽三川の大氾濫で木曽川の流路が現在の位置に収まったので、墨俣は戦略上の重要性を失い、以来この地が城として使われることはなかった。

(引用:ウィキペディア墨俣城

となっています。

説明にあるように、洪水に度々遭遇し、河の流れが変わるのみならず、現場そのものは破壊されており、大体の場所がわかるのみで、遺構などは見つかっていないようです。


(画像引用:『永禄9年頃の地図』吉田蒼生雄全訳『武功夜話』より)

 

前出の『武功夜話』の記事の中に、編纂者の第十六代当主吉田孫四郎雄翟(よしだ まごしろうかつかね)が先祖の武功を訪ねる旅で、実際の『州俣陣』の約60年後に当る寛永元年(1624年)に『墨俣一夜城跡』を訪れた時の貴重な記事があります。

一、寛永甲子年五月半ば頃、磯平次を伴い濃州州俣なる処へ罷り越し、先祖永禄寅年に俄城御造作の跡、つぶさに見聞を思い立ち候。今を去る六十有余年の以前の事。常円殿に聞き糺し候事併せ、古書付け等頼りに小越渡し場より、大河の向岸の大浦郷を尋ね候。・・・。
織田殿、井の口を御取り抱えの跡程なく御取り毀しに相成るなり。・・・
一、常円殿の覚え候城地は、州俣川へ尾張川流れ合う処、前方に二町ばかり下手と覚え候。・・・。この辺り河原一円にすすき生い茂り、広大なる付近に川原中所々畠あり。女房衆、畠耕起の人影を見付け近寄り、この辺り御城跡なる処相無き哉尋ね候。女房衆答えて言うに、我はこの在にて生まれ育ちたるにあらず、詳しき事存ぜざるも少々ばかり小高き処御座候。村人その地を城河原と申し伝え候も、今は何んの跡方も御座無く候。
一、女房衆彼方を指差す処は、凡そ二町ばかり下手町屋数軒立ち並ぶ辺り、・・・河原道を下り候ところ、案の如く小高き処御座候も、更に城らしき根跡も相無きなり。一面に萱草生い茂り、州俣川の彼方に稲葉山一望なり。
一、磯平次、四辺を徘徊して物色候も、・・・。また四間位の処もこれあり。石垣も土塁の形跡も見当たらず、御隠居、この地こそ御城跡に候と、我を導き候。大松数十本生い茂り土壇の如き処、松林の中に御座候。

(引用:吉田蒼生雄全訳 『武功夜話 <一> 巻四 寛永甲子年、美濃国州俣見聞の事』1995年 新人物往来社)

とあり、織田信長は稲葉山城攻略後に、役割の終わった墨俣一夜城は破却してしまったようです。たった60年後の前野家の関係者の調査でも城の痕跡すら見つからなかったと上記のように『武功夜話』にもあります。地元の方の言い伝えで、”大体その辺り”くらいな話となっていたようですから、現在では尚更、現場を正確に特定することはむつかしいようですね。

地元の観光協会のご案内に従うことに致しましょう。

 

豊臣秀吉の『墨俣一夜城』築城と織田信長の美濃国制圧(『稲葉山城』落城)とは関係があるの?

織田信長は、戦国の大大名である今川義元との『桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)』に勝利したこの永禄3年(1560年)にもう既に、『美濃攻略』に取り掛かっています

その取り掛かりとして、佐々成政(さっさ なりまさ)に命じて、西美濃からの攻め口である”州の俣”への攻略築城に取り掛かっていたようです。

しかし、結果は捗々しくなくて、永禄5年の時にはとうとう『州の俣』方面からの美濃攻めを諦めて、東美濃からの侵攻に方針変更をしています。

一、ここに清須上総介信長様、隣国美濃斎藤左兵衛(義竜)に備え、界目州の俣なる処へ出城を作事の旨仰せ付けられ候。申年(永禄三年)改って五月の事なり。佐々藏助(成政)へ相副え佐久間玄蕃尉(盛政)仰せ付けられ候。造作半ば美濃方懸り来たり、・・・築城はかどらず、・・・手負い多く州の俣へ御引き揚げに相成る。
永禄酉(四年)の美濃州の俣取出の造作は、両二年相続け候ところ、遂に成就成り難く結句州の俣御引き払いに相成るなり。・・・。永禄州俣の繋城壬戌歳(五年)佐々築城の有増に候。以後永禄寅歳(九年)、木下藤吉郎殿御築城まで御手付かずに專東方へ御働きあり。

(引用:吉田蒼生雄全訳 『武功夜話 <一> 巻二』1995年 新人物往来社)

とあり、3度も”墨俣作戦”に失敗し、多大な損害を出した織田信長は”墨俣方面からの美濃侵攻作戦”を放棄して、東側からの作戦に切り替えます。

一、永禄寅年(九年)春越方より、・・・。しかるは、美濃稲葉山の斎藤右兵衛尉(竜興)退治の事、信長様の御諚あるにより内密に、、、。すなわち西方の州俣なる処に再度取出を構えること仰せ出でなされ、・・・。
一、・・・、州俣の取出造作の上は、稲葉山、尾張川上下より挟み討ちにいたさば、如何に堅固なる稲葉山も案の内なり。

(引用:吉田蒼生雄 『武功夜話 <一> 巻三』1995年 新人物往来社)

とあり、信長は、東方の拠点を押えてみると、やはり堅城稲葉山城を確実に落すには西方の墨俣からの責め口も必要と思い直し、東西から稲葉山を挟み撃ちにする作戦を開始します。今回は西美濃の重臣、稲葉一鉄、安藤伊賀守、の調略が出来ており、以前の永禄5年までとは大きく状況が好転していることも手伝っていました。

つまり、この『墨俣一夜城』築城作戦は、織田信長にとって”稲葉山城落城ー美濃国制圧”への大きな布石であったことは間違いないと考えて良いようです。

事実、『墨俣一夜城』築城成功により墨俣の拠点を確保し、織田信長はこの翌永禄10年(1567年)8月に見事稲葉山城を落城させ、翌年永禄11年(1568年)9月には足利義昭を奉戴して上洛し、天下人への道を歩み始めます。

 

まとめ

豊臣秀吉の出世物語の、一番によく出て来るのが、この『墨俣一夜城(すのまた いちやじょう)』の逸話です。

小瀬甫庵の『太閤記』によって広く江戸・上方の一般庶民にも広がり、江戸時代から太閤人気を支える話でもありました。

講談話で、広く人々に知られる事となりましたが、こんなに有名な話でありながら、その事実性には疑問符が付けられ、作り話ではないかとも思われています。

加えて、その墨俣築城の理由である、美濃国平定の”稲葉山城落城”の時期でさえも、昔より永禄7年説と永禄10年説があり、大きな問題ともなっていました。

江戸時代の初期史料は圧倒的に永禄7年説で、三省堂の歴史年表も見て来たように”永禄7年8月2日に落城”と記載されています。しかし、最近の研究で、公的書類である”織田信長の寺社への『禁制(きんぜい)』発給”が永禄10年9月以前のものが見当たらないことから、織田信長の美濃支配は永禄10年(1567年)9月以降ではないととの説が有力となっています。

その面からも、全部で4回もあったと考えられる、織田信長による『墨俣築城』話の内、問題の豊臣秀吉の築城は最後の永禄9年(1566年)ではないかと考えられます。

一夜城話の珍奇性もあり、痕跡も現地で確認できない事から、”豊臣秀吉の実行説”以前に”信長の築城作戦”の存在さえ疑問視されて来ました。

しかし、昭和34(1959年)年9月26日夜半に東海地方に来襲した『台風15号伊勢湾台風』によって愛知県一宮市(当時は尾西市)で旧家吉田家の土蔵が崩れて発見された『前野家文書ー武功夜話』には、前述にあるように『墨俣築城』の事実が克明に記録されており、これを偽書と言うのはかなり無理があると考えられます。

(まだ、歴史研究者の『武功夜話』に対する評価は低く、一級歴史史料とは未だに認められていませんが、この文書によって織豊時代のかなりの部分が明らかになりつつあることも又事実だと思います。)

これによれば、、、

美濃攻略を急がねばならない織田信長の要請に応えて、軽輩者の豊臣秀吉が知略を駆使してその思いを実現して行く中のひとつとして『墨俣一夜城』の作戦が存在したようです。

織田信長が永禄5年(1562年)作戦変更をして、東方犬山美濃加茂方面の攻略を成功させて、木曽川上流の川筋を支配地域に組み入れたことが、上流域での築城用材確保の機密性保持に大きな役割を果たしてゆきます。

秀吉の一夜城ープレハブ工法も、用材を筏で上流から相手に知られず大量に流せる可能性があってこそ成り立つ作戦であり、この織田信長の作戦の方針変更の流れが、『墨俣一夜城』を実現させ、それが織田信長の美濃攻略へつながってゆく流れの現実性を証明して行きます

過去、猛将佐々成政がどれだけ力攻めしても成功しなかった”墨俣築城”が、木曽川上流域の平定成功と、斉藤家の重臣3名(稲葉一鉄、安藤伊賀守、氏家卜全)の調略に成功したことが、美濃国の防衛に大きな穴をあけ、豊臣秀吉の知略も併せて超短期間で墨俣築城を可能とし、これが織田信長の稲葉山城落城ー美濃攻略につながって行ったと考えられます。

こうしたことから、豊臣秀吉の『墨俣一夜城』は、かなりの合理性をもって、実現可能な事実であって、それによって美濃国平定に織田信長が成功したと言えます。

時期的には、豊臣秀吉による『墨俣一夜城』築城は永禄9年(1566年)9月14日稲葉山城落城は永禄10年(1567年)9月14日ではないかと考えられます。

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参考文献

〇日本史史料研究会監修 渡邊大門編 『信長研究の最前線②』(2017年 洋泉社)

〇阿部一彦 『「武功夜話」で読む 信長・秀吉ものがたり』(2013年 風媒社)

〇大森金五郎・高橋昇造 『増補 最新日本歴史年表』(1934年 三省堂)

〇鳥海靖編 『新日本史年表』(1995年 三省堂)

〇吉田蒼生雄 『武功夜話 <一>』(1995年 新人物往来社)

太田牛一『信長公記』インターネット公開版

小瀬甫庵 『信長記 美濃國賀留美合戦の事』国立国会図書館デジタルコレクション

〇小瀬甫庵撰・神郡周校注 『信長記(上)』(1981年 現代思想社)

〇小瀬甫庵・桑田忠親校注 『太閤記(上)』(1984年 岩波文庫)

ウィキペディア墨俣城

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