執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
織田信長は愛刀”実休光忠”と”薬研藤四郎”と共に燃えた?
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『大うつけ者』で知られる戦国の覇王織田信長、真実の姿はこんな武将でした!
織田信長受難の『本能寺の変』で最後までお供したのは、この愛刀でした!
戦国の合戦で日本刀の役割は何だったのでしょうか?
目次
戦略家・政治家の面が強調される武将織田信長、武人としてはどうだったの?
織田信長を一躍戦国時代の寵児に押し上げた永禄3年(1560年)の『桶狭間の戦い』が信長の戦い方のすべてを語っていると言えそうです。
信長は、尾張織田家の名将織田信秀を父に持って天文3年(1534年)に、尾張西部にある信秀の居城であった勝幡(しょばた)城で信秀の三男ながら嫡男(母は信秀正室土田御前)として、生まれたとされています。
幼少時より、学問には見向きもせず津島近郷の悪童たちと狩りや竹槍合戦に興じ、礼儀もわきまえず、奇矯な風体で出没して、家内・城下では『うつけ者』と評されていました。
そして信長は小姓・供回りには荒くれを従え、常に引き連れて徒党を組んで領内を闊歩(かっぽ)している日常で、家内の老臣・家来衆は目をひそめ蔭口をきいている始末でした。
しかし信長は、戦国の名将である父を尊敬し嫡男として軍議の末席に混じり、長じても日々の武芸の鍛錬・馬術などの修練には余念がなく、たくましい荒武者に育っていました。
日常先頭に立って悪童連を引き連れて行動する様は、その後の信長の合戦方式に反映されて行きました。
実戦では勇猛果敢に先陣を切って前に飛び出て行ったようで、小姓と旗本が慌てて後を追うと言うパターンが多く、その後の他の大将たちのように必ず本陣に収まって鎮座しているという印象はありません。
特に信長本人の馬の腕前は軍団随一だったようで、体育会系の荒くれ小姓と旗本連も信長に互角に追従出来るものは何人もいなかったと言います。
信長には緻密な軍略以外に、武勇を尊び、臆病を憎むような気質がかなりありました。
そしてその頭の中では、常に合戦の戦略と武器の研究が占めていたようです。
その為、周囲には柴田勝家、前田利家のような武勇をもって鳴らす武将から、知略に長けた明智光秀、豊臣秀吉と言った武将も取り立てられて行き、織田軍団は様々な人材が豊富である最強軍団となって行きました。
(画像引用:AC画像日本刀)
織田信長は名刀コレクターだった?信長の有名な愛刀は?
日本刀は、鎌倉時代中期から後期に最隆盛期を迎え、歴史に残る名工・名刀が数多く世に出ました。
例えば、鎌倉時代の短刀の名工である京都『粟田口吉光(あわたぐち よしみつ)』と、相州『新藤五国光(しんとうご くにみつ)』などの名刀は、戦国武将たちの憧れの刀でした。
伝世(でんせい)したこれらの短刀は江戸時代になると金数百枚の高額鑑定書(折紙)が付いたと言います。
因みに、当時江戸初期の金1枚は大判金貨で小判10両に当り、当時のレートは1両が現在の13万円くらいになるとされていますので、仮にその短刀が金100枚の折紙付だったとすると現在価格にすると1億3千万円となります。
金数百枚の短刀もあったといいますから、3億円くらいするものまであった事になります。
今で言うとバイオリンの名器『ストラディバリウス』かピカソ・ゴッホの名画かと言う感じですから、江戸期には恐ろしく高価なものとなっていたという事ですね。
そこで、織田信長です。。。
信長は、前述したとおりに勇猛果敢な武将でもありますが、”茶器あさり”で有名なように”名物・名器好き”の人物です。
『日本刀』に関してもその例にもれず、日本刀最盛期の鎌倉中期作の、名刀”備前長船(びぜんおさふね)”の祖と言われる『備前長船光忠(びぜんおさふね みつただ)』の刀を大変好み、一説には32振り(腰)所有したと言われています。
その性格からこの”光忠”の持つひときわ目立つ豪壮華麗な作風が信長の嗜好にぴったり符合していたようです。
”光忠(みつただ)”の息子の”長光(ながみつ)”の作刀も好み20振り(腰)以上所有していて、『大般若長光(だいはんにゃ ながみつ)』、『津田遠江長光(つだとおとうみ ながみつ)』、『鉋切長光(かんなぎり ながみつ)』などの名前が上がっています。
”光忠”の作刀の中で、江戸時代八代将軍徳川吉宗の命で編纂されたと言う『享保名物帳(きょうほ めいぶつちょう)』の中に、”信長公御物”として『実休光忠(じっきゅう みつただ)』が記録されています。
この刀は、戦国大名”三好長慶(みよし ながよし)”の弟”実休(じっきゅう)”の佩刀(はいとう)でしたが、永禄5年(1562年)の『久米田の戦』で実休が討死し、その後堺の豪商木津屋が所持し、それを信長が献上させたものだと言われます。
非常に気に入り『本能寺の変』にも帯同して信長と共に焼け、その後秀吉が焼き直して所持していたほどの名刀として伝わっています。
そして、信長と『本能寺の変』で運命を共にしたもう一本の名刀に短刀『薬研藤四郎(やげん とうしろう)』があります。
これは、”京都粟田口藤四郎吉光(あわたぐち とうしろうよしみつ)”の作で、当初の所有者畠山政長(はたけやま まさなが)が切腹の折、3度突き立てるも突き通せず、投げ捨てたところ近くにあった薬研に突き刺さったと言う事から命名されたと伝わっています。
切腹の折に役に立たたず、主の命を守った短刀とされ、主を守る名刀として有名になりました。
これを、戦国の梟雄松永久秀(まつなが ひさひで)が所有していたものを信長が献上させたと言われます。
これも守り刀として、信長が終生手放さなかったもので、『本能寺の変』で被災し、『実休光忠』同様に、豊臣秀吉が焼き直し再刃して所有、その後関白秀次に下賜され、豊臣秀頼に渡り、大坂城落城後に第二代将軍徳川秀忠に献上されたと言われます。
つまりこんな由来話から、『本能寺の変』の時に織田信長が最後まで手元に置いていた愛刀は、刀は『実休光忠(じっきゅうみつただ)』で短刀は『薬研藤四郎(やげんとうしろう)』であるとほぼ断定されています。
信長の佩刀で現存するものはあるの?
信長佩刀の主な現存品は、、、
- 刀 『義元左文字(よしもと さもんじ)』 (建勲神社 所蔵)
- 刀 『織田左文字(おだ さもんじ)』 (彦根城博物館 所蔵)
- 刀 『へし切長谷部(へしきり はせべ)』 (福岡市博物館 所蔵)
- 太刀 『光忠(みつただ)』 (徳川美術館 所蔵)
- 太刀 『光忠(みつただ)』 (紀州東照宮 所蔵)
- 太刀 『備前國長船光忠(びぜんこく おさふねみつただ)』 (宮内庁 所蔵)
- 太刀 『大般若長光(だいはんにゃ ながみつ)』 (東京国立博物館 所蔵)
- 太刀 『津田遠江長光(つだとおとうみ ながみつ)』 (徳川美術館 所蔵)
- 太刀 『鉋切長光(かんなぎり ながみつ)』 (徳川ミュージアム 所蔵)
- 太刀 『岡田切(おかだぎり)』 (東京国立博物館 所蔵)
- 刀 『籠手切正宗(こてぎり まさむね)』 (東京国立博物館)
ほとんどが、名物、国宝、重要文化財級のものですね。
戦国期末期の信長時代の戦(いくさ)で刀は主力武器となっていたのか?
歴史研究者の近藤好和先生の著書や、歴史作家八切止夫氏の著作にも、『刀』が主力武器になった合戦は見当たりません。
騎馬兵にせよ、歩兵にせよ、合戦の当初の武器は断然『弓矢』が主力です。
『刀』が関係するものは、”打物(うちもの)戦”と呼びますが、ここでの主役も”長刀(なぎなた)”です。
『源平盛衰記』でも源頼朝が夜打ちの際は柄の長いものの方が良いだろうと話しており、当時の武士の感覚に短い刃物を使うことは前提にないようです。
”刀”を『佩刀(はいとう)』と言いますが、これは騎馬武者の場合に馬上の主力武器として弓矢を持ち、刀が邪魔なので腰へ『佩く(はく)』のです。刀を帯びる(佩刀)とは刀を腰にぶら下げておくことを言います。
こうしておけば、両手で弓矢と馬を操作出来ます。弓矢を持たない騎馬武者は槍を持って乱戦に突入します。
合戦はお互いに弓矢の応酬をするもので、よく講談にあるような馬上で大将同志が剣で一騎打ちなどと言う場面はほとんどなかったようです。
矢じりが高価なものだったので、弓矢を打ちあった後は、それを回収するのも雑兵の大事な仕事でした。
信長に関しては、接近戦での歩兵の槍部隊の活用を考えているシーンがよく登場するのですが、若い信長は長槍を足軽に持たせることによる戦闘方法の研究をして実戦配備していたようです。
やはり、実際の合戦を考えると、投石と矢ぶすまが初期の有効な戦闘方法で、矢が尽きると接近戦となり、槍と長刀で戦い、馬がやられると最後に佩刀を抜いて白兵戦に至るか止めて撤兵するかと言うプロセスです。
歩兵の足軽も盾の陰に隠れながら弓で矢を打ち続け、矢がなくなれば弓を捨てて長刀で騎馬に応戦するか槍で突いて回るかの戦闘方法でした。
よほどのことがない限り、短い刀で切り合いをする場面にはならなかったようです。
歴史作家の八切止夫氏などは、刀の役割は討ち取った相手の首を切り落とすのに刀が必要だったと話されており、戦果を報告するのに、相手の首・耳・鼻を切り落として持って行くと言うのが一般的な合戦シーンだったと言います。
こうなると名刀もあったものじゃないのですが、戦闘に関する言葉には刀はあまり出て来ません。
例えば、主に逆らって反攻することを『弓を引く』と言いますし、先制攻撃は『一番槍』、激しい攻撃を『矢ぶすま』・『槍ぶすま』とか言いますから、”刀”は戦国期の集団戦闘では武器としてほとんど活躍していないか、重要視されていないことが分かります。
そう言えば、『剣劇(チャンバラ)』の話が面白くなるのは”江戸時代”の設定が多いですね。
江戸時代になって『合戦』が姿を消し、馬・弓矢・やり・長刀・甲冑などの戦闘具の役割が終わり、武士のシンボルとしての『佩刀』だけが残ったって感じなんでしょうね。
戦国期には”刀”は重要な武器であることに変わりはありませんが、どこを見ても戦闘具として主役を務めることはあまりなかったことが分かります。
ですから、”信長の名刀集め”も武将としての実戦的な理由があったのではなくて、茶道具と同じような発想でやっていたのではないかと推察する次第です。
今で言えば、車好きなら高級車に乗りたがる心理でしょうか。
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信長と言えば『鉄砲』で有名だけど、『鉄砲隊』を信長軍の主力攻撃組織としていたの?
織田信長と斎藤道三の有名な話として、天文22年(1553年)4月に美濃街道中島郡冨田の正徳寺での両者の会見の時に、信長が弓350張、鉄砲200挺の弓鉄砲衆、朱塗りの三間半柄の長槍500本の足軽衆計1000名に、700名の近習共侍衆を連ねて道三の度肝を抜いた話は有名です。
この時、弓と鉄砲の専門部隊がいるような表現があります。
また、有名な『長篠の戦』での、鉄砲3000挺での武田騎馬隊の全滅戦があります。
すっかり、鉄砲=織田信長のイメージが付いていますし、また一介の地方武士の織田信長が立ちはだかる戦国の梟雄を次々と打倒して行った大きな理由に積極的な『鉄砲の使用』があった事は間違いないのでしょうが、実際はいつ頃からでしょうか?
先ず、信長と舅となった美濃国主斎藤道三の面会話ですが、この時に200挺(とか500挺とか)の黒光りのする鉄砲を担いだ”弓鉄砲衆”を連れていたと云う話です。
鉄砲は、天文12年(1543年)の種子島への伝来以来、日本で合戦に鉄砲が使用されたのは、天文18年(1549年)九州の島津家内戦でとか、また永禄元年(1558年)九州の大友宗麟(おおとも そうりん)の配下立花道雪と(たちばな どうせつ)が初使用したか言われていて、しかも小規模な使用だったようです。
鉄砲は鍛冶屋に鉄砲の外形を作らせたとしても、硝石がないことには強力な黒色火薬が作れず玉が撃てないことは自明です。
しかも当時日本での硝石入手ルートは、イエズス会ルートがメインでした。つまりキリシタン大名(キリシタン商人)にしか入手困難だったと言う事ですね。
もし、あの時期に信長が通説のように道三に実戦配備をした鉄砲隊を見せつけようとすると、若造大名の信長が堺の商人を駆使しして硝石を買付させるか、本人がキリシタン大名でない限り極めて困難だと言う事が言えそうです。
信長が大量に鉄砲を手にしたのは、金に飽かせて鉄砲を入手していた今川義元軍から、永禄3年(1560年)の『桶狭間の戦い』時に強奪した時からだと言うのが一般的な話でしょうから、どうも正徳寺の話は『信長伝説』っぽいですね。
この時点での『鉄砲隊』は完全に後付けの話だと思われます。
次に有名な天正3年(1575年)の『長篠の戦』での、織田・徳川連合軍の”鉄砲3千挺の3段撃ち”です。
信憑性が高いとされる太田牛一の『信長公記』によると、
信長は、家康陣所に高松山とて小高き山御座侯に取り上げられ、敵の働きを御
覧じ、御下知次第働くべきの旨、兼ねてより仰せ含められ、鉄炮千挺ばかり、佐々
蔵介、前田又左衛門、野々村三十郎、福富平左衛門、塙九郎左衛門を御奉行とし
て、近貼と足軽を懸けられ、御覧じ侯。
(引用:太田和泉守『信長公記』巻八 三州長篠御合戦の事)
となっており、鉄砲の数量も1000挺で、前後を見ても訓練もろくにしないで鉄砲を持たせたように見え、『鉄砲隊』を訓練して配置していたような記述はありません。
鉄砲の数量問題が通説では3倍の3000挺となっているのは、江戸時代に書かれた小瀬甫庵の『信長記』に、
信長公先陣へ御出あって、家康卿とご覧じ計られ、兼て定め置かれし諸手のぬき鉄砲三千挺に、佐々木内蔵助、前田又左衛門尉、福富平左衛門尉、塙九郎右衛門尉、野々村三十郎、此の五人を差添えられ、・・・
(引用:小瀬甫庵『信長記 上』現代思潮新社)
とあり、ここで話は江戸時代に脚色されたからだと言われて来ました。
ところが、近年新らたに太田牛一の『信長公記』の古写本(加賀前田家伝来の『尊経閣本』)が見つかり、それには該当場面が”鉄砲三千余挺”と記載されていて、どうやら『甫庵信長記』はこちらを土台に書かれていたようでした。
という訳で、天正年間になるともう信長は『硝石問題』も目処をつけ、堺の豪商傘下の鉄砲鍛冶に鉄砲の大量発注を掛けていたんでしょうね。
この『硝石問題』の解決は、国産品が存在しない以上、マカオルートの輸入品に頼るしかなく、硝石を重要な戦略物資としているバテレンと信長の関係は深まって行ったと考えるのが自然のようです。
前述にあるように、重量もあり機動性に欠ける『鉄砲』の弱点をカバーする”飛び道具”は、弓矢に代わるものがなく、”合戦の攻撃兵器の大宗”を占めていたのは、やはり信長時代も『弓矢』であり『刀』ではなかったと考えられます。
また、前述から当時も『弓矢・鉄砲衆』と言うくくりで部隊が存在していた可能性が否定出来ません。
これには信長以前の弓矢刀剣などの武器を個人個人が自前で持ち込む足軽隊から、高価で希少な鉄砲は軍団から供与される『鉄砲足軽』と言う名で部隊編成されたものに変化して行く急速な時代の流れがあります。
そして戦力強化のために、戦国大名たちも積極的に”鉄砲”の保有を増やして行き、それにつれて部隊編成は増えて行ったのではないでしょうか。
『関ケ原の戦』以降は『銃撃戦』ですものね。現に天正20年(1615年)の『大坂夏の陣』で、大坂方豊臣軍の将”槍の後藤又兵衛(ごとう またべえ)”は、徳川方の伊達軍の鉄砲の銃撃で倒されています。
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まとめ
戦国の覇王織田信長は、幼少期より武家のしきたり作法に縛られずに自由奔放に行動したため、『大うつけ者(大バカ者)』とそしられて、一時は一族の宿老たちによって後継者から降ろされかける始末でした。
しかし、戦国の名将であった父織田信秀に私淑し、日々武芸の修練は怠らずに領内の悪童たちを引き連れて「模擬合戦」に精を出して、『戦闘の基礎』を叩き込んで行き、初陣の『三河の吉良・大浜』の戦いでは、軍を意のままに動かして処々に火を放ち首尾よく凱旋すると言う快挙をやってのけました。
常に寡兵をもって大軍に憶することなく対決し、勇猛果敢に先陣を切って部下たちを引っ張って行く戦闘スタイルを貫き、永禄3年(1560年)には、”駿遠三の太守今川義元(いまがわ よしもと)”の2万5千の大軍をわずか2千の兵力を使って、大方の予想を大きく裏切り『桶狭間の戦い』で破って戦国の世にハデなデビューを飾りました。
その後天正年間にほぼ信長に対抗する国内勢力を一掃し、天下に覇を唱える『天下人』へと登りつめました。
天正10年(1582年)6月2日に、部下の裏切りにより京都本能寺にて暗殺されましたが、その中世を事実上終わらせた歴史的偉業は誰しも異論のないところです。
そんな信長の名物名品に対する執着はすさまじく、『茶器』が有名ですが、ここでは『日本刀』について触れてみました。
信長は刀に関しては、鎌倉時代の名工『備前長船光忠(びぜんおさふねみつただ)』のひときわ目立つ豪壮華麗な作風の作刀を大変好み、32振り(腰)も所有していたと伝わっています。
当時としては、”ビンテージもの”と言う訳で、『傾奇者(かぶきもの)』の信長らしいですね。
そして、信長と最期を共にした愛刀は、その光忠作の『実休光忠(じっきゅうみつただ)』と短刀(脇差)は戦国の梟雄松永久秀(まつなが ひさひで)から取り上げた『薬研藤四郎(やげんとうしろう)』だったと言われています。
どちらも、『本能寺の変』で被災し、本能寺の焼け跡から豊臣秀吉によって持ち出され焼き直し、再刃再生して名刀として復活させています。
しかし、両刀ともに江戸期の明暦3年(1657年)の『明暦の大火』の混乱で、行方不明となったままとされていますので、もし出てきたら、数億円の値が付くんでしょうね。
『本能寺の変』で信長の遺体が見つからなかったと言うのが定説ですが、愛刀についてはしっかり秀吉が見つけ出しており当然その場に何らかの信長の遺体の痕跡があったはずですね。
と言う事は、何者かによって信長の遺体は持ち去られた可能性が高いのですが、光秀の本能寺の焼け跡捜索は、6月2日の数時間だけだったことを考えると、それは明智光秀方の人間ではなかったと言う事になります。
やはり信長の焼損した遺体は愛刀とともに秀吉が見つけている可能性が高いのではないかと思われますね。
僧侶が持ち去ったとか、誰それが持ち去ったとかありますが、常識的に云って未だ煙を上げて極めて高温の大伽藍の焼け跡で、大人数の軍勢が警備する中で、後日にじっくり探索した秀吉ら当事者以外は無理でしょう。
ここでは、愛刀は主とともにあって、猛火の中でも原型をとどめていたから、秀吉が再生出来たと言う事でしょうか。
果たして、織田信長の遺体はどうなったのでしょうか?
『愛刀は語る』ですね。
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参考文献
〇渡邉妙子・住麻紀共著 『日本刀の教科書』(2015年 東京堂出版)
〇飯田意天 『織田信長・豊臣秀吉の刀剣と甲冑』(2013年 宮帯出版社)
〇杉浦良幸 『日本刀物語』(2009年 東京里文出版)
〇近藤好和 『弓矢と刀剣』(1997年 吉川弘文館)
〇牧秀彦 『名刀 その由来と伝説』(2005年 光文社新書)
〇津本陽 『下天は夢か(一)』(1992年 講談社文庫)
〇八切止夫 『戦国鉄仮面』(2003年 作品社)
〇立花京子 『信長と十字架』(2004年 集英社新書)
〇平山優 『長篠合戦と武田勝頼』(2014年 吉川弘文館)
〇小瀬甫庵撰・石井恭二校注 『信長記 上』(1981年 現代思潮新社)