織田信長の戦国デビュー戦『桶狭間の戦い』は奇襲じゃなかった?

スポンサーリンク



戦国の覇王織田信長が、世に出るきっかけとなった『日本三大奇襲戦』のひとつと言われる『桶狭間の戦い』の真実を明らかにします。

 

織田信長は、イメージと違って思慮深く慎重な武将だった!ホント?

 

桶狭間の戦い』の古戦場は、どこ

スポンサーリンク



『桶狭間の戦い』ってなんなの?

織田信長は、父織田信秀(おだ のぶひで)死去直後の天文21年(1552年)3月に織田弾正忠家(おだだんじょうのちゅうけ)の家督(かとく)を継ぎました。

 

しかし1か月後には、鳴海城主の山口教継(やまぐち のりつぐ)が今川方へ寝返り、尾張領内は駿河の今川に侵略され始めます。

 

また、当主であっても若造である信長を不安がって、或はなめ切って、鳴海山口の叛乱から4か月後に、清須織田家も家老たちが中心となって、弾正忠家の信長に反旗を翻して打倒信長の動きを始めます。

 

信長にとって本格的な”尾張統一戦”の始まりでした。

 

天文23年(1554年)に守山の叔父織田信光(おだ のぶみつ)の協力を得て、反抗する清須織田家を屈服させ、弘治2年(1556年)には叛乱を起こして来た実弟織田信勝(おだ のぶかつ)を殺害し、永禄2年(1559年)春に岩倉織田家を降伏させ、その後美濃斎藤龍興と組んでいる犬山城の織田信清(おだ のぶきよ)を排除して信秀が達成していた尾張統一を回復させます。

 

これを機に信長は、永禄2年(1559年)春に極秘で上洛を果たし、室町将軍足利義輝(あしかが よしてる)に引見して尾張守護として認めされようとしますが、将軍足利義輝は認めず、信長は目的を達することなく清須へ帰城します。

 

それから信長は、知多方面の今川によって失われた所領を回復すべく、今川方へ寝返った鳴海城攻略にとりかかり、鳴海・大高周辺に砦の構築を始めます

 

永禄3年(1560年)5月12日、京都の足利将軍から”生意気な信長”の討伐命令が今川に出ていたのか、鳴海城へ領地回復の動きを見せ始めた信長を一気に叩き、これを機に信長の父信秀に奪われた、尾張における今川家の所領回復を狙う目的で、足利家親族でもある駿河の今川義元は、大軍を起こして駿河を発し尾張制圧に動き出します。

 

『織田軍記 巻三』によると、、、

永禄三年の夏の比、今川治部大輔源義元、駿河三河遠江の大軍を引具し、天下一統の為に東海道を上洛するに、先ず尾州を攻平らげ、攻上らんと企てらる。
(引用:『織田軍記 巻三 今川義元尾州鳴海表出張事』国立国会図書館デジタルコレクション

 

『信長公記 巻首』によると、、、

天文廿一年壬子五月十七日
一、今川義元沓懸へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、・・・
(引用:『信長公記 巻首 今川義元討死の事』インターネット公開版

 

とありますが、『信長公記』の方の年号が完全に間違っており、天文21年ではなくて永禄3年が正解です。

 

 

こんな背景があって、織田信長と尾張侵略に乗り込んで来た駿遠三の太守”今川義元”との間で、永禄3年(1560年)5月19日に『桶狭間の戦い』は行われました。。。

 

 

 

織田軍記』の方には、今川義元は上洛目的で駿府を大軍にて進発し、途上に織田領があるので踏みつぶすみたいな感じですが、じつは、当時の今川家が実禄60万石くらいで、尾張を統一した織田家は50万石以上あったことから、まとまればほぼ同等の兵力なので、両者激突と云ったところでしょうか。

 

 

”田楽狭間(でんがくはざま)”において、5月19日の昼頃から始まった合戦は、大方の予想を大きく裏切って織田方の一方的な勝利に終わり、”尾張の虎・織田信秀”の息子の織田信長は、『海道一の弓取り』と謳われた駿遠三の太守”今川義元”を斃して、文字通り『時代の寵児(ちょうじ)』として、名を全国に知らしめました


(画像引用:桶狭間古戦場AC画像)

 

織田信長の『桶狭間の戦い』は、奇襲戦法ではなかった?

この戦いの事に関して、戦国大名武田氏の武将高坂弾正(こうさか だんじょう)が書いたと言われる有名な武田家の軍学書である『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』では、、、

 

・・・信長廿七の御年人数七百斗り、義元公人数二萬餘りを卒して出給ふ、于時駿河勢所々亂妨に散たる隙をうかゞひ、味方の眞似をして駿河勢に入り交じる、義元は三河の國の僧と路次のかたはらの松原にて酒盛しておはします所へ、信長伐てかゝり終に義元の頸を取り給ふ、此の一戰の手柄によって於日本其の名を得給ふ、・・・
(引用:『甲陽軍鑑 品第六』p43 国立国会図書館デジタルコレクション

 

又、小瀬甫庵(おぜ ほあん)の『信長記』では、、、

・・・大軍ナレハ思侮テ、ヨモ平ニ懸カラントハ思ヒモヨラシ、角油斷〆居ケル所不意ニ起テ合戰セハ、ナトカ勝タスト云事無ラン。以寡勝多トハ、加様ノ時ヲ得ルノミナリ。
(引用:小瀬甫庵『信長記 巻第一 義元合戦の事』国会図書館デジタルコレクション

 

とあり、両史料では、織田信長の『桶狭間の戦い』は、今川軍が油断しているところを襲った”奇襲攻撃”だったと述べています。

 

 

しかし、最近の信長研究では、どうも織田信長は、従来説の「今川軍の隊列の横から折からの激しい夕立に紛れて突然”奇襲”を掛けた」のではなく、正面から戦いを挑んで行ったのではないかと言う説が有力です。

 

テレビのスペシャル番組でも現地の様子を見せてくれてましたが、信長軍が集結した『善照寺砦(ぜんしょうじとりで)』から、義元の本陣が設営された『桶狭間山』とは、非常によく見通せる地形だったようで、昔の人の凄まじい視力なら全部見えたのではないかと思います。

 

しかも、その間に横たわるくぼ地は、戦国時代から深田であったことが判明しており、林や森が鬱蒼(うっそう)と茂っているような、攻撃してくる軍隊(信長軍)が隠れるような遮蔽物は、当時からなかったことが分かっています。

 

つまり、義元本陣が宴会をやっていて油断していたかどうかは別として、小高い丘に陣取った今川軍本陣から、織田軍の動きは丸見えだったのは間違いないところなのです。

 

『騙し討ち』だったかどうかはわかりませんが、現場の状況から、織田軍は隠れていて藪から突然現れたのではないと考えられます。

 

 

ところが、『織田軍記』によると、、、

 

其の日の辰の刻に漸々熱田より笠寺の東、上道の細縄手をもみにもんで駆けさせられ、先づ丹下の城へ著かせ給ふ、それより善照寺佐久間居陣の前へ御出、道々の取出の人數共、城を拂って残さずめしつれ、善照寺の東の狭間にて御人數を立て、勢揃成されけるに、漸く三千計りありけれども、五千の人數とぞ披露ありける。扨信長公御軍謀に、敵の先手の大軍を皆本道へ遣過して、當方の御人數はひそかに山の陰を隠れ廻行きて、義元の本陣へ一同どっと突掛り、切崩さんとの御謀なり、
(引用:『織田軍記 巻第三 鳴海桶狭間合戦本陣義元討死事』国立国会図書館デジタルコレクション

 

とあり、山陰に隠れて本隊の大軍をやり過ごしてから、回り込んで義元本陣を襲う信長の計略だったという事で、明らかに信長の『奇襲』だったと述べています。

 

しかし、前述のように現場は、善照寺で重臣たちが信長を引き留めたように”善照寺砦の織田軍は相手から丸見えの状態”にあった事は明らかで、どうもこれらの史料が述べる話は現場の実態と合わないという疑問が生じます。

 

それと、地元育ちの私の感覚からすると、桶狭間の周辺は100人や200人ならともかく、3000人もの重装備の軍兵軍馬を隠す林や森は無いと思います。

 

これらの史料は、『信長公記』に比べると信頼性が低いと言われていますが、皆”信長の奇略・奇襲”だったと説明しています。

 

 

となると、、、

 

 

いったい信長のこの勝ち戦の理由には、改めてどんなことが考えられるでしょうか?

 

1.織田軍の存在は分かっていたものの『奇襲』だった ⇒ 投降を装った”だまし”だった?

2.義元本陣は5千名くらいだったと言われているので、信長は全軍3千名をそこへぶつけた。

3.行動直前に、両軍の動きと配置から判断したその現場での信長の勝負勘が冴えた。

 

1.に関して歴史作家の八切止夫氏は著書の中で、当日の出陣した武士の中に、実際は重臣の数が少なかったことを捉えて、”すでに事前に和平で話が決まっており、誰も合戦になるとは思っていなかったので、皆自分の領地に帰っていた。その為、義元の首を持って帰って来たので、皆びっくりした。”と述べています。

 

つまり、当日の状況で信長が方針を転換して、和平から戦に切り替えたと言う説ですね。ありそうな話ですが、この場合(今川軍の侵攻状況から見て)、この説はちょっと無理筋でしょうか。

 

2.と3.に関してですが、ネットに出ている色々な『桶狭間の戦い合戦図』などを見てみると、信長は善照寺砦から中島砦を経由して、今川軍の展開を避けて北側の道を通り、北から二手に分かれて襲撃したことが分かります。

 

これは、事前に少し高台で全体がよく見渡せる善照寺砦から、信長が今川軍の配置を見ながら、その守備の穴を見つけてそこへ、当日善照寺砦に集まった全攻撃軍2000~3000名を突っ込んで行く戦いの仕方をしたようです。

 

今川軍は2万の内、大高・鳴海方面に1万5千近くを投入しており、各部隊の配置が広範囲に及んでおり、前線と本陣の距離が伸びきっていることがよく分かります。本陣の守備は、松井宗信(まつい むねのぶ)1500名とその南側に井伊直盛(いい なおもり)1000名が配置され、本陣は1500名余りで固めている隊形となっています。

 

 

信長軍の精鋭2000名は、雨上がりとなってから北側に着陣した”松井宗信”の陣に襲い掛かったようで、あっという間に守備ラインが崩されて松井宗信は討死、義元本陣に信長軍が殺到した様子が想像されます。

 

 

信長公記』にも、、、

 

 

空晴るゝを御覧じ、信長鎗をおっ取って、大音声を上げて、すは、かゝれ貼と仰せられ、黒煙懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはっと崩れなり。弓、槍、鉄炮、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。
(引用:『信長公記 巻首 今川義元討死の事 』インターネット公開版

 

とあり、、、

 

御大将今川義元(いまがわ よしもと)が輿(こし)を討ち捨てて逃げだすと言うような本陣前大混乱の中、本陣前を固めていた松井宗信井伊直盛は討死をしており、信長軍の猛攻のすさまじさが分かります

 

 

この『合戦図』を見る限り、午前中に1万5千名の今川軍の猛攻を受けた各砦に、既に織田軍が約3000名ほど守備に就いており、この戦いに参陣している織田軍は全体で5000~6000名ほどいることがわかり、どうも極端な寡兵・2000名で今川軍2万名以上に勝利したと言うのは話を作り過ぎかもしれません。

 

 

これが本当なら、信長は奇襲攻撃を仕掛けたと言うよりは、清須から援軍に駆け付けて善照寺砦から戦場の両軍の配置を瞬時に読み取って、少ない兵力を有効に使う作戦に切り替えた信長の勝負勘の勝利だったような気がします。

 

 

もっとも、相手の守備の穴を見つけて、そこを突くのを”奇襲”だと言うのなら、この織田信長の戦国時代全国デビューの『桶狭間の戦い』は”奇襲”になるのかもしれません。

スポンサーリンク

いつから、誰が『桶狭間の戦い』を”奇襲”だと言い出したの?

前章迄で述べた『甲陽軍艦(こうようぐんかん)』と、『甫庵信長記(ほあんしんちょうき)』と、『織田軍記(おだぐんき)』の『桶狭間の戦い』の関係記事ですが、、、

 

  1. 甲陽軍鑑』は同時代史料ですが、武田家の老臣高坂弾正(こうさか だんじょう)が勝頼へ遺した武田流の軍事書だと言われるもので、この記事に関しては実際にこの合戦参加者はいませんので、すべて当時の伝聞記事となります。
  2. 甫庵信長記』は、江戸時代初期に小瀬甫庵が太田牛一の『信長公記』をベースに自身の儒教的考え方を入れて書き直したものです。(江戸時代初期)
  3. 織田軍記(総見記)』は、遠山信春が小瀬甫庵の『信長記』を、更に脚色も加えて書き直したものです。(江戸時代初期)

 

となり、真相に迫るにはかなり怪しい資料集であることが分かります。

 

最近の研究は、種々史料のタネ本的な太田牛一(おおた ぎゅういち)の『信長公記(しんちょうこうき)』(正面から義元本陣へ突っ込んだ?説)へ回帰する傾向です。

 

 

このように、江戸時代で読まれた史料(実は太田牛一の『信長公記』は発禁本になっていました。公開は明治初年出版の『史籍集覧(しせきしゅうらん)』上にて。)では、すべて”織田信長の『桶狭間の戦い』は奇襲戦法だった”と云う話になります。

 

そんな事を受けて、明治に旧日本陸軍参謀本部編纂の『日本戦史・桶狭間役』が、この”奇襲説”を採り、以後定説となっています。

 

日露戦争を控えて大国・大軍との戦いの研究にこの”織田信長の『桶狭間の戦い』”が”寡兵よく大軍を破る”の見本として戦史研究の重要な題材とされたようです。

 

信長の合戦スタイルはどんなもの?

織田信長のイメージ

前出の旧陸軍参謀本部ではないけれども、織田信長には『寡兵で大軍に立ち向かう』イメージがあります。

 

これは、弾正忠家の家督を継いだのはいいのですが、重臣たちにそっぽを向かれてしまった過去が大きく影響しているようです。

 

重臣たちに推されて信長を排除して、自分が当主になろうとした実弟信勝(信行)との弘治2年(1556年)8月24日『稲生原の戦い』では、信勝側柴田勝家が1000名、林美作守700名の合計1700名に対して、信長は清洲から700名を率いて出陣し清州から東5㎞ほどの稲生原で衝突しました。

 

700対1700のこの対戦は、信長自身も槍を振るっての獅子奮迅の活躍で敵将林美作守を討取り、大将自らの奮戦に一同一丸となって戦い、信勝軍をちりぢりに追い散らし信長軍の勝利に終わりました。

 

やはり、『寡兵よく大軍を破る』ですね。そして『桶狭間の戦い』なので、否が応でも信長の『寡兵で戦う』イメージは固定されて行きます。

 

 

織田信長の性格

しかし、元来信長は、様々な想定をし、工夫をして、尚且つ『勝てない戦はしない極めて慎重なタイプ』です。

 

試しに、永禄11年(1568年)の上洛戦から、非常に苦戦した元亀年間・将軍足利義昭(あしかが よしあき)を追い出した天正元年までを見てみましょう。

 

  1. 永禄11年(1568年)9月 上洛戦 4万~6万
  2. 永禄12年(1569年)8月 大河内城攻め 8万~10万
  3. 元亀元年(1570年)4月 越前遠征 3万
  4. 元亀元年(1570年)6月 小谷城攻め 2万
  5. 元亀元年(1570年)8月 野田・福島砦攻め 4万
  6. 元亀2年(1571年)5月 長島攻め 5万
  7. 元亀2年(1571年)8月 小谷城攻め 5万
  8. 元亀3年(1572年)3月 小谷城攻め 数万
  9. 元亀3年(1572年)7月 小谷城攻め 5万
  10. 天正元年(1573年)7月 槇島城攻め 7万

 

となっており、以後も3万から10万の兵力をもって合戦に及んでいます

 

美濃を平定してからの信長は、生来の慎重な性格が出て、決して無理をしない、必ず敵より大兵力で戦うことを常としていました。

 

又、決して無理をしない代表的な例は、元亀元年の越前遠征における『金ヶ崎退き陣』でしょうか。

 

義弟の浅井長政の謀叛の連絡を受け取ってすぐに躊躇なく、木の芽峠の手前から撤退を敢行しました。分が悪いと判断したら果断に行動を起こします。

 

決して無謀な戦いを挑まず、猪武者では全くないことを示しています。

 

初期の頃は状況が許さなかっただけで、本来は負けるような兵力・装備では戦いを挑むことはないやり方で、後年秀吉・家康も同様な考え方で合戦に臨んでいたようです。

 

織田信長は『籠城(ろうじょう)』をしない

 

そしてもうひとつ、信長の特徴的な”合戦スタイル”は、決して『籠城戦』は行わない事です。

 

実は、父の”尾張の虎”と言われた織田信秀も籠城はせず、必ず打って出ました

 

信秀の場合、こうすることにより、負けても領内まで攻め込まれることはなかったと言います。

 

もっとも、勢力拡大を図っている時は、必ず相手の領土に攻め込みますから、籠城の必要はないはずですね。

 

 

信長もただの一度も籠城戦を選択した事はありません

 

もし、永禄3年の今川義元の尾張攻略戦で、信長が重臣たちの勧める”清須城籠城戦”を選んでいたら、恐らく信長の『天下布武(てんかふぶ)』の時代は来なかったでしょうし、豊臣時代も徳川時代も訪れることはなかったでしょう

 

ひょっとしたら、新幹線が止まる『名古屋』と言う都市は生まれなかったかもしれません。

信長は、『桶狭間の戦い』勝利後、敗走する今川軍をなぜ追走しなかったの?

これは、、、

 

  1. 合戦場所の『桶狭間』が、尾張・三河の国境地域であったこと
  2. この戦いは織田家側にとって、今川侵略軍への迎撃戰であったこと
  3. 最初から倒すべき相手の大将今川義元を斃してしまったこと
  4. 信長は無理のある戦いをしないこと
  5. 戦国大名である尾張の織田弾正忠家は、その時は未だ他国を併呑するだけの国力がなかったこと

 

などが理由に挙げられるのではないでしょうか。

 

 

ここで寄り道して、警察』と『軍隊』の違いについて考えてみますと、

 

警察』は、軽微な武器を所持してもっぱら治安維持を主業務にし、『軍隊』は、強力な重火力を装備し、他国からの侵略を防衛する国家的な仕事をするものと言うような解釈が浮かんできます。

 

ところが違うのです。

 

例えば、日本における厄介な隣人の中華人民共和国には、『武警』と云うものがあります。

 

街角に”武警”と大きくペインティングされた装甲車を並べて、迷彩服を着て自動小銃を持った警察官?が北京の繁華街を警備しています。

 

この”武警”なるものは、軍隊ではなく、北京・天津管区を縄張りにしているれっきとした『警察』なのです。

 

私のような一般の日本人が想定する武装のレベルであると、中国の”武警”は、明らかに日本の自衛隊のような軍隊だと考え勝ちですが、これは『警察』だと説明される訳です。

 

では、何が『警察』と『軍隊』を分けているかと言うと、簡単に云うと『ロジスティクス』を持っているかどうかなのです。

 

要するに、軍事の世界では、”継戦能力(けいせんのうりょく)”を有するものを『軍隊』と言い、無いものを『警察』と言うのですね。

 

話を元に戻しますと、、、

 

信長は未だ『警察能力』しかもっていないことを自覚していて、他国への侵略も出来る『軍隊』に必須のロジスティクスが、未だ織田軍には確立されていなかったことが、信長が相手を追わなかった最大の理由だったのではないでしょうか。

 

訳がわからない猪武者の戦国武将は恐らく勝ちに乗じて、敗走する今川勢を追撃したのでしょうが、若年にも拘わらず信長にはそのことが充分に分かっていたと言う事だと考えられます。

 

『桶狭間の戦い』の戦場はどこ?

この戦いは、名古屋市緑区有松から豊明市にかけての広範囲の丘陵地帯で行われたため、ここだと言う場所が特定しづらいところです。

 

現場には陣屋のような構築物があった訳ではないので、発掘して確定させる根拠もなく伝承以外の確証が得にくい場所です。

 

関ケ原の古戦場などは、名前のある山はそのまま残っているので、各武将の陣立ての場所はそこそこ特定出来るようですが、この桶狭間古戦場では特定しづらいので、諸説入り乱れているようです。

 

名古屋市側には、『桶狭間古戦場公園』が設置され、豊明市側には、石碑が建って周辺は『史跡桶狭間古戦場伝説地』として整備されています。

 

どうやら、今川義元の本陣は豊明市側にあったとされていますので、この場所に整備されたものだと思われます。

 

実際の戦闘は、名古屋市緑区と豊明市の境界域でなされていたようです。

 

今川義元は、親戚の鵜殿長輝(うどの ながてる)のいる大高城方面へ退避しようとしていたようで、豊明側から西へ緑区側へ入っていたのかもしれません。

 

〇アクセス

1.『桶狭間古戦場公園』(愛知県名古屋市緑区桶狭間北3丁目1001)

 

最寄り駅は、名鉄名古屋本線『有松』駅です。所要時間は名鉄名古屋駅から急行か普通で20~30分くらいです。

現場は、最寄り駅から2㎞近くあり、徒歩30分弱くらいはかかるのでバスが便利かもしれません。

バスは有松駅から名鉄バスでバス停『幕山』が近いようです。

 

2.『史跡桶狭間古戦場』( 愛知県豊明市栄町南舘11)

 

最寄り駅は、名鉄名古屋本線『中京競馬場前』駅です。所要時間は名鉄名古屋駅から急行か普通で22分~35分くらいです。

現場は、最寄り駅の近所です。

 

もし、名古屋駅周辺のお泊り先をお探しでしたらこちらを検索してみて下さい。
楽天で名古屋駅周辺の宿泊施設をさがす

 

まとめ

幕末の著名な歴史家・思想家の頼山陽(らい さんよう)が出した歴史書『日本外史』に特筆すべき三つの”奇襲戦”と云うものに、天文15年(1546年)の『川越城の戦い』・天文24年(1555年)10月1日の『厳島の戦い』と並んで、この永禄3年(1560年)5月19日の『桶狭間の戦い』が挙げられています。

 

このように既に江戸時代には、『桶狭間の戦い』は、”奇襲戦”と認知されていたのです。

 

明治に入って、陸軍参謀本部も戦史研究の中で、”奇襲”と云う点にお墨付きを与えています。

 

しかし、近年の信長研究の結果により従来の通説とは違って、『桶狭間の戦い』では、どうやら信長は迂回せずに正面から攻めた可能性が高く、奇策を使った”奇襲戦”ではなかったことが、徐々に知られるようになって来ました

 

そもそもの織田信長の近くにいて記述した太田牛一の『信長公記』に回帰すると言う事でしょうか。

 

また、織田信長には、自身が先陣を切る”猪武者”イメージが付いて回ることになりましたが、実際の信長は『負ける戦はやらない』という堅実型で、必ず相手よりも多勢で合戦を戦っていたようです。

 

この『桶狭間の戦い』は、日本陸軍が期待したような「寡兵よく大軍を制する」ようなギャンブル要素の強い戦闘だったのではなく、信長なりに”成算が立つ”戦いだったに違いがありません。

 

そこには、”奇襲戦”の持つギャンブル要素は全くなく、信長の性格からしてそんな戦いの仕方は”主義じゃない”ところだったはずです。

 

尾張統一後の戦いを見ても、何度も再戦している相手が多い(つまり制圧するのに粘り強く時間を使っている)のは、その時、不利とみたらさっさと引き上げる見切りのよさを現しているからです。

 

もそも勝算もないのに、やたら突っ込んで行って、命を天秤にかけるような戦いをする男ではなかったようです。

 

この慎重さ・思慮深さが、天下取りまで”あと一歩”までの高みに織田信長をして押し上げたのだと考えることが出来るのです。

 

という事で、永禄3年(1560年)5月19日の『桶狭間の戦い』は、後世の私たちが思うほど”ギャンブル性の高い奇襲作戦”ではなかったと言えそうです。

スポンサーリンク

参考文献

〇谷口克広 『織田信長合戦全録』(2002年 中公新書)

〇日本史史料研究会編 『信長研究の最前線』(2014年 洋泉社)

『織田軍記 巻三 今川義元尾州鳴海表出張事』国立国会図書館デジタルコレクション

『信長公記 巻首 今川義元討死の事』インターネット公開版

『甲陽軍鑑 品第六』p43 国立国会図書館デジタルコレクション

〇八切止夫 『真説・信長十二人衆』(2002年 作品社)

〇谷口克広 『信長の政略』(2013年 学研パブリッシング)

スポンサーリンク



コメントを残す




CAPTCHA


Time limit is exhausted. Please reload the CAPTCHA.