執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
織田信長は『長篠の戦い』鉄炮三段撃ちで戦国の合戦を変えた?
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織田信長の『長篠の戦い』は、戦国の戦術を革新したと言われますが、真相を明らかにします!
織田信長が『長篠の戦い』でやったと言われる鉄炮の3000挺の三段撃ちは本当なのか解明します。
織田信長に『長篠の戦い』で精鋭を壊滅されながらも、その後7年も武田王国を維持した武田勝頼の”なぜ”を調べます。
『長篠の戦い』の簡単100字まとめ・200字まとめをつけてみました。
目次
『長篠(ながしの)の戦い』とは、どんな戦いだったの?
100字簡単まとめ
天正3年(1575年)5月21日に奥三河長篠城の攻防戦に伴って、武田勝頼軍と徳川家康・織田信長の連合軍との間で行われ、連合軍が3千挺もの鉄炮の3段撃ちで、武田騎馬軍団を壊滅させた歴史的な合戦でした。(99字)
200字簡単まとめ
天正3年(1575年)5月21日に奥三河長篠城の攻防戦に伴って、武田勝頼軍1万5千と徳川家康・織田信長の連合軍4万との間で行われ、連合軍が3千挺もの鉄炮の3段撃ちで、無敵と言われた武田騎馬軍団を壊滅させた歴史的な合戦でした。織田信長(新戦法)対武田勝頼(旧戦法)が激突した戦術革命の画期的合戦と言われ、信長大躍進の一方、戦国の雄武田家は多くの重臣を失い、この戦いは武田家衰退の分水嶺ともなりました。(199字)
『長篠の戦い』前の政治状況
戦国の雄武田信玄(たけだ しんげん)は元亀3年(1572年)10月に、突然三河・遠江の徳川領への越境侵攻を開始します。
これは、そもそも信玄が持っていた領土拡張意欲と、元亀元年(1570年)に信玄に不信感を持った徳川家康(とくがわ いえやす)が信玄の宿敵上杉謙信(うえすぎ けんしん)と同盟を結び、また織田ー武田の婚儀を邪魔しようとしたことも恨み、その家康との同盟関係を崩さない信長も併せて成敗する考えが根底にありました。
しかしこの時、織田信長(おだ のぶなが)は信玄に依頼された謙信と信玄の和睦話を大真面目に進めつつあり、謙信の同意を取り付けつつありました。
そんな話を信長に依頼しておいての、信玄の徳川領(三河・遠江)への侵攻でした。
信長は激怒し、”信玄の所行は、前代未聞の無道さで、侍の義理を知らぬことで、未来永劫、信玄とは手を結ばない”と謙信に書簡で語ったと言います。
元亀3年(1572年)12月22日に『三方原(みかたがはら)の戦い』で信玄は徳川・織田連合軍を破りますが、直後に病を得て一転全軍帰国の途に就き、元亀4年(1573年)4月12日に途上の南信濃の駒場で病死します。
織田信長より、信玄の徳川領への侵攻と”甲尾(こうびー武田と織田)同盟”崩壊を知らされた時、上杉謙信は家臣への書簡で”信玄が織田・徳川と敵対したと言う事は、あたかも蜂の巣に手を突っ込んだようなもので、せずともよいことを始めてしまった。”と述べたと言い、その予感は的中することとなりました。
信玄の急死により、家督相続をすることとなった”武田勝頼(たけだ かつより)”は、信玄の意志(遺言)を忠実に実行することを求められ、その『宿願』とも言える”織田・徳川との戦い”へ突き進んで行くこととなります。
元亀4年(1573年)5月より、武田信玄の死去を確信した徳川家康は、遠江の失地回復に取り掛かり、信玄に奪われた天方(あまがた)城、各和(かくわ)城、向笠(むかさ)城、一宮城、匂坂(さきさか)城、飯田城などの奪還に成功し、その後天正元年(1573年)10月には高天神(たかてんじん)城まで回復して、浜松城と懸川(かけがわ)城との間の武田方勢力の一掃を達成する事となります。
そして、後の事になりますが天正元年(1573年)11月には浜名湖の北にあるNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎(なおとら)』で有名な井伊谷(いいのや)にまで、徳川軍は侵攻を始め、武田の遠江の権益は危機的状況となりました。
次いで、遠江の武田諸城攻略後の家康は、本城の浜松へは帰還せずに三河吉田(現豊橋市)城へ入り、奥三河長篠(ながしの)城奪還の準備を開始し、元亀4年(1573年)7月19日に3千の兵を率いて長篠城攻略へ出発します。
徳川家康は、武田領となっていた奥三河に割拠する国衆の山家三方衆の一角である作手(つくで)の奥平定能(さだよし)・信昌(のぶまさ)親子の調略に成功し、武田勝頼が信玄の遺言により3年間の対外戦を自粛させられて救援が遅れたこともあり、天正元年(1573年)9月8日に籠城していた武田勢は開城に応じて長篠城は再び徳川領となります。
一方織田信長は、元亀4年(1573年)4月に武田軍の三河撤退を見届けると、7月には足利義昭を京都より追放して室町幕府を滅亡させ、改元された天正元年(1573年)8月20日に越前朝倉義景(あさくら よしかげ)を、8月28日には北近江浅井長政(あざい ながまさ)を滅ぼして、一気に反織田勢力へ大打撃を与えました。
これに対して武田勝頼は、年が明けて天正2年(1674年)正月から、織田信長の所領である東美濃へ侵攻し、岩村城、明智城など織田方18城を攻略しましたが、奥三河に近い武節(ぶせつ)城、馬籠(まごめ)城なども含まれており、勝頼は信長の本拠地岐阜ばかりでなく、家康の三河本拠地岡崎も視野に入る地域まで進出したこととなりました。
『長篠の戦い』の流れ
徳川家康は、天正3年(1575年)2月28日に長篠城奪還のきっかけを作った地元国人領主奥平信昌(おくだいら のぶまさ)を長篠城へ配置し、武田軍の来襲に備えさせます。
武田勝頼は、徳川家の内部対立から突発した徳川方の三河岡崎奉行大岡弥四郎(おおおか やしろう)の謀叛の動きに調略の手を伸ばし、それに呼応して一気に徳川本拠地岡崎城を攻略する動きを始め、同年3月に先遣隊を派遣し奥三河足助(あすけ)城へ侵攻します。
大久保忠教(おおくぼ ただのり)の『三河物語』によると、、、
然處天正三年乙亥に、家康御譜代久敷御中間に、大賀彌四郎と申者・・・・よしなき謀叛をたくみて、御譜代之御主をうち奉りて、岡崎の城を取て、わが城にせんとくは立けり。・・・勝頼へ申入候は、是非共今度御手を取申、岡崎を取奉、家康親子に御腹させ可申事はれきぜん成。・・・御先手の衆を二からしらも三かしらも、指つかはされ候はゞ、其御先に立而岡崎へお供して、城へやすゝと引き入れ申者ならば、御城の内にて、二郎三郎信康様をば、打取可奉成。然者ことゞく家康へそむいて、勝頼へこうさん申而、御手可付成。
(引用:大久保忠教 『三河物語 巻三下 二百十~二百十一頁』(国立国会図書館デジタルコレクション)
などとあり、、、
勝頼も天正3年(1575年)3月24日付で上野の国衆宛てに”「計策之首尾」が整ったので、来る4月1日に出馬予定”と参陣要請を出しているなど、徳川内部への調略を行なっていたことは確かなようです。
武田勝頼は、天正3年(1575年)4月12日に居城の”躑躅ヶ崎(つつじがさき)館”にて武田信玄の三回忌法要を営み、その足で奥三河へ出陣をして行きました。
しかし、大岡弥四郎の謀叛は内部通報者があって、即座に家康によって関係者は処分され、勝頼の目論見は大きく崩れますが、4月19日に足助城を落すと、山家三方衆の先導で大野田城へ侵攻し、さらに南へ下って浜松城と三河を分断する位置にある二連木(にれんぎ)城を4月29日に攻略するも、直前に家康は浜松城から吉田城へ移動して入城し分断をからくも免れています。
家康は、吉田城に籠城を決め込み籠ってしまったため、力攻めを諦めた武田勝頼は転じて、天正元年(1572年)に徳川方へ奪還されたままになっている”長篠城”攻略へ1万5千の兵力で向かいました。これには、徳川家康を籠城している吉田城からおびき出し野戦に持ち込む意図があったと思われます。
一方の織田信長は、この頃畿内で三好氏・石山本願寺との対戦に10万もの兵を動員している最中で、常識的には、信長が奥三河に位置する長篠城戦に後詰に来るのは無理な算段で、勝頼は悠々と家康退治が出来るはずでした。
ところが、早くから細作(さいさくー間者・スパイ)を放って武田勝頼の動向を注視していた信長は、4月21日までには京都を撤収し、4月28日には岐阜に帰還して三河での戦いの準備に入ります。
そして、全領国から鉄砲・弾薬をかき集めて、合戦の目処が立った5月13日には岐阜を出陣、14日には三河岡崎城へ入城しています。
武田軍は着陣した5月初より長篠城攻めを行います。城主の奥平信昌はよく攻撃に耐えていましたが、すでに本丸での攻防戦まで追い詰められていました。
5月15日には、長篠城から必死で来援要請に脱出した鳥居強右衛門尉(とりい すねえもんじょう)が岡崎城へ来て信長・家康に拝謁し、取って返してわが身を犠牲にしても長篠城へ織田・徳川連合軍の応援到着を知らせたのは有名な逸話となっています。
織田信長は5月18日には、現地志多羅郷(しだらごう)極楽山寺に本陣を構え、まさかの信長本人の来援に、武田勝頼は驚くとともに、徳川家康のみならず織田信長までまとめて滅亡させることが出来る千載一遇のチャンスが巡って来たことに興奮し始めます。
しかも、見たところ信長の兵力は1万にも満たない寡兵(実は信長は山蔭に3万を隠しており実数は4万だったのですが)であることに狂喜したと考えられます。
私見ですが、武田勝頼は恐らく畿内の信長を巡る情勢(石山本願寺戦・越前一向宗との戦い)から、兵力を長篠戦へそれ程割けない事情が信長にあると当て推量し、信長軍が寡兵であることを不審に思わなかったのではないでしょうか。
ところが、『当代記』によると、事前の武田軍の軍議で、、、
此度長篠戰之事、是非共遂一戰、可討死と思定之由、勝頼曰、馬場美濃守、内藤修理、山縣三郎兵衛、武田左衛門大夫、同佐馬頭申云、敵軍は四萬、吾軍は一萬也、此度被引入、信長歸陣之上、來秋令出張、・・・達而難令諫言、勝頼無承引、殊長坂釣閑被遂合戦、尤之由言上之間、彌々此儀に相定ける・・・。
(引用:『当代記 巻一 二十五頁』(国立国会図書館デジタルコレクション)
とあり、勝頼は、決戦を強硬に主張し、重臣たちが織田軍4万の大軍を認識して”多勢に無勢、ここは一旦引いて、信長がいなくなってから秋にでもまたやればいいではないか”と止めに入るも、この千載一遇の期を逃してなるものかの思いに囚われている勝頼は、聞く耳を持たなかったと伝えています。
やはり勝頼は、もう”信長の事情”に関する自分の判断を確信し、信長が仮に数を集めたところで”烏合の衆”だと決めつけているのと、武田軍の強さに自信過剰になっていたのかもしれません。
一方、織田・徳川連合軍は、有海原(あるみはらー設楽ヶ原でもある)着陣後、すぐに丸太を組んで逆茂木をつけた”馬防柵”と簡単な土塁の”陣場”作りを開始します。
こうして運命の日、天正3年(1575年)5月21日の朝を迎えます。
前日の20日に武田軍は、着陣したまま攻めに出てこない織田・徳川連合軍を見て、先方には打つ手がないのだと決めつけ、自ら決戦の意を固めて決戦場である、連合軍が陣取る”有海原”へ進軍して来ました。
それを見て、徳川軍の酒井忠次(さかい ただつぐ)が、武田軍の後背地となる長篠城付近の攻撃用の付城鳶ケ巣山砦を急襲し、長篠城を包囲から解放することを計画します。
酒井忠次は、20日の戌刻(いぬのこくー午後八時頃)に徳川軍+与力の4千名を引き連れて迂回攻撃に出発し、21日の辰刻(たつのこくー午前8時頃)に長篠城を包囲する武田軍に襲い掛かり、激戦の末、長篠城の包囲を解くことに成功します。
有海原へ進出した武田軍と織田・徳川連合軍との戦いは、武田軍が徳川軍に21日卯刻(午前6時頃)に攻撃を仕掛けることから始まったとされています。
しかし戦いの途中で、背後にいるはずの長篠城包囲軍が壊滅し、退路を断たれたことに気づいた武田本隊は、前面の織田・徳川連合軍を打ち破る以外勝機がなくなったことを知ります。
そして、必死の武田軍の猛攻が始まります。
武田軍の主標的とされている徳川軍5千は、3重に設置された”馬防柵”の前にわざわざ押し出て、武田軍と対峙しました。
武田軍の本格的な攻撃は、午前11時頃から山縣昌景(やまがた まさかげ)隊を一番手に始まりました。
長篠城方面より来た武田軍からすると、目標とする徳川軍の陣地は一番奥となり、徳川軍に辿り着くまでに織田軍から弓と鉄砲の攻撃を受けることとなります。
武田騎馬軍団の頼みの武田鉄炮衆・弓衆は、織田・徳川連合軍の圧倒的な弾薬の量の前に早い時間に沈黙させられてしまい、勇猛を誇る武田騎馬軍団は援護射撃のないままに戦場でまともに銃撃を受けることとなりました。
武田軍は織田・徳川連合軍に波状攻撃を仕掛けていきますが、次第に兵の消耗が激しくなり力を失って行きました。
武田軍の退却が始まったのは、未刻(ひつじのこくー午後2時頃)だと言われていますが、武田勝頼の退却は以外に早く午刻(うまのこくー正午頃)とされていますで、勝頼を戦場から逃がす為に武田軍は2時間余り奮戦したことなり、この間に多数の重臣が殉職(討死)することとなりました。
(画像引用:長篠合戦図屏風ー徳川美術館収蔵)
『長篠の戦い』その後
合戦後の状況について、『当代記(とうだいき)』では、、、
・・・此時直に信甲に被打入は、誠に少の手間も入間敷處に、信長は、濃州へ歸馬、家康公は遠州に歸馬し給間、信甲敗軍の者共、暫氣を休けると也、是も甲州を強敵と思給故歟、
(引用:『当代記 巻一 二十五頁』国立国会図書館デジタルコレクション)
とあり、信長も家康も勝頼を甲州まで追撃することはせず、それぞれ本拠地へ帰還しています。『当代記』では、信長・家康共に、破れたりとは言え強敵である武田軍を甘く見ていなかったと言う事のようです。
とは云うものの、この敗戦により武田勝頼は、奥三河の支配体制が崩壊し、東美濃も怪しくなり始めました。徳川家康は、間髪入れずに6月から7月にかけて、遠江の武田方の城にせっせと攻勢をかけて切り取って行きました。
しかし、徳川軍が取り掛かった、高天神(たかてんじん)城攻略の重要拠点である遠州小山(えんしゅうこやま)城への攻勢に対しては、、、
九月七日、武田四郎小山城爲後詰、大井河邊に押出す、其勢一萬三千餘也、去五月、於長篠敗軍の後、無幾程如此之出張、武道所感也、・・・同日、家康公諏方原へ被引入、・・・
(引用:『当代記 巻一 二十六頁』国立国会図書館デジタルコレクション)
『長篠の戦い』大敗から日もあまり経っていないのに、武田勝頼が遠州小山城の後詰に1万3千もの兵を引き連れて来たので、驚いた家康はすぐに小山城の囲みを解き、諏方原(すわはら)城へ引き上げたと言っています。
一方、武田側の史料である『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』によると、、、
小山の城には駿河先方侍大將五頭罷在、かくて八月に成候へば勝賴公は甲州、信濃、上野勢、名有る者の子孫或は弟など出家に成、町人に成罷有を皆よび出して、人數を二万餘り作り、九月初に遠州小山後詰なり、家康勢是をみて、まきたる小山をまきほぐし立退候、・・・
(引用:『甲陽軍鑑 品五十二 512頁』国立国会図書館デジタルコレクション)
とあり、この時勝頼は遠州小山城の救援のために、必死になって、僧になった者を、還俗させ町人になったものまで呼び寄せるのなど、武田家の関係者を全く兵力にならないものまで含めて、すべてかき集めて出向いたことがよくわかります。
『長篠の戦い』敗戦直後の武田勝頼の状況は、このように大変なものでしたが、これで一気に武田家が滅亡に向かったわけではありませんが、以後もう二度と三河・美濃へ侵攻する事はありませんでした。
織田信長は、この武田勝頼に完全勝利したことにより天下統一に自信を持ち、この後11月に朝廷からの叙任要請を受諾して従三位権大納言兼右近近衛大将となって、武家の頂点に登りつめ『天下人』として認知されるに至りました。
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『長篠の戦い』で、織田信長は鉄炮3000挺をどうやって調達したの?
鉄炮3000挺は、本当なの?
信長研究の第一級史料とされる『信長公記(しんちょうこうき)』によりますと、、、
信長は、家康陣所に高松山とて小高き山御座候に取り上げられ、敵の働きをご覧じ、御下知次第働くべきの旨、兼てより仰せ含められ、鉄炮千挺ばかり、佐々蔵介、前田又左衛門、野々村三十郎、福富平左衛門、塙九郎左衛門を御奉行として、近貼と足軽を懸けられ、御覧じ候。
(引用:『信長公記 巻八 三州長篠御合戦の事』町田本 インターネット公開版)
とあり、どうやら信長の用意した鉄炮は”1000挺”だったようです。では、どこから”3000挺”になったのでしょうか?
『信長公記』は、なぜか長い間徳川幕府によって”発禁本”とされていて、明治14年になって刊行された元岡崎藩の儒学者近藤瓶城(こんどう へいじょう)編纂の『史籍集覧(しせきしゅうらん)第19冊』に掲載されて初めて公開された事となってます。
つまり、江戸期に世に広まっていたのは、小瀬甫庵(おぜ ほあん)の『信長記』だったと考えられますが、、、
・・・織田信長公先陣へ御出有テ、家康卿ト御覧シ計ラハレ、兼テ定置レシ諸手ノヌキ、鐵炮三千挺ニ、佐佐内蔵助、前田又左衛門尉、福富平左衛門尉、塙九郎左衛門尉・・・
(引用:小瀬甫庵『信長記 巻第八 長篠合戰事』国立国会図書館デジタルコレクション)
とあり、『甫庵信長記』に”三千挺”と記載されていることが原因だったことが分かりました。
この『甫庵信長記』は、太田牛一(おおた ぎゅういち)の『信長公記』に比べ、儒教的な脚色が多く信憑性に欠けるとされ、この件も小瀬甫庵が勝手に数字を膨らませて脚色したものとして、”真相は3000挺ではなくて1000挺だった”と通説が訂正される議論が大勢となり始めています。
ところが、武田家研究家の平山優(ひらやま ゆう)氏によると、『信長公記』の研究が進み、岡山藩池田家伝来の太田牛一自筆本とされる『信長公記』の該当箇所に”千”の前に”三”が書き加えられて訂正されえいることが見つかり、また加賀藩前田家伝来で現在尊経閣(そんけいかく)文庫に所蔵されている『信長公記』には、はっきりと”鉄炮三千余挺”と記載されていることが判明しました。
つまり、小瀬甫庵の『信長記』の記事の信憑性が確認されて来ました。
という事で、現在はどうやら信長の用意した”鉄炮”は、本当に”三千挺”だった可能性が高くなっています。
では、鉄炮3000挺は、どうやって調達したの?
『多聞院日記』によれば、天正3年(1575年)5月17日の欄に、、、
岐阜へ筒井ヨリ、テツハウ衆五十余合力ニ被遣之、各々迷惑トテ悉ク妻子ニ形見遣出、アワレナル事也ト云々・・・
(引用:『多聞院日記 第二巻 巻二十 天正三年五月の条』国立国会図書館デジタルコレクション)
とあり、戦国大名である奈良の筒井順慶(つつい じゅんけい)が信長の求めに応じて、順慶本人は参陣せずに、鉄炮隊50名だけが信長軍に派遣したことが記されています。
前述『甫庵信長記』の該当部分に、”・・・兼テ定置レシ諸手ノヌキ、鐵炮三千挺ニ・・・”の部分の”諸手ノ抜キ”ですが、これは”信長支配下の各部隊より引き抜いて”と言う意味となります。
つまり、筒井順慶の例にもあるように、信長の”鉄炮三千挺”は、信長軍団全軍から鉄砲隊を派遣させる形で引き抜いて編成されたことが分かります。
こうした形は、織田信長が特別なことをした訳ではなくて、当時の戦国大名ではごく普通の形だったようです。
因みに、信長の直轄の”旗本鉄炮隊”は、500名ほどいたようですが、この『長篠の戦い』では、前日の5月20日に徳川軍酒井忠次(さかい ただつぐ)率いる”鳶ケ巣山砦攻撃隊4000名”に与力して加わり、当日『有海原(あるみはら)-設楽ヶ原』の合戦にはいなかったようです。
当日の鉄炮隊はすべて他部隊からの合力・引抜の混成部隊だったことが分かります。
但し、鉄炮足軽と鉄砲は諸隊の派遣ですが、大量の弾薬は信長の供給部隊の手配だったと考えられます。
『長篠の戦い』の有名な”鉄炮三段撃ち”は、本当にあったの?
通説では、『馬防柵の内側に鉄炮1000挺ならべ、3段に隊列を整え、1段1000挺づつ交替で打ち続けたので、武田軍に間断なく鉄炮を浴びせ続けて、武田騎馬隊を壊滅させた』と言われています。
しかし、どこでも見れる有名な『長篠合戦図屏風(ながしのかっせんずびょうぶ)』を見ると、兵が3列になって描かれておらず、2列までは手前の方にあります。しかも、一列にならんでいるのではなくて、島のように3つ位のグループで存在しています。
戦国期の史料をみると、大きな合戦では”~~段に構え”と言う表現はよく出て来ますが、これは”~~隊”位の意味で使われていて、近代戦で何個師団何個大隊と言うのと似ていると思います。
つまり、軍勢を表すのに、大雑把に3万の兵力と言ってもどんな編成なのかわかりませんが、合戦直前に着陣した段階で”~~段”と言えば師団大隊がいくつに編成されたか想定がつくわけです。
軍団編成のとらえ方を言うのが、合戦時の”~~段”と言われるもののようです。
となると、、、、
このケースも”三段”と言うのは、なにも”3列”に整列したことではなくて、場所を違えて”三つの鉄炮隊”が編成された事を述べている感じです。
では、冒頭の通説の理解はどこから来ているのでしょうか?
前述した『甫庵信長記』の続きを見てみますと、、、
・・・間近引請千挺宛放懸、一段ヅツ立替ゝ打スヘシ・・・
(引用:小瀬甫庵『信長記 巻第八 長篠合戰事』国立国会図書館デジタルコレクション)
とあり、これは別に”整列して順繰りに撃つ”とは書いてないのですが、”段”の意味の取り違えからそう言う理解で広まったものではないかと思われます。
当時、他の武将の戦いでも、鉄炮玉の充填時間を空けないために、前後2列の射撃が行われていたようですので、通説のように『織田信長の発明した新戦術』という訳ではなくて、当時の武将は武田勝頼も含めて皆あれくらいの準備段取りはしていたと考えられます。
織田信長が他より大きく秀でるところは、武田軍のようにすぐ玉ギレしてしまわないほどの、常識はずれの圧倒的な鉄砲の玉・火薬の準備を行っていた点に尽きると言えそうです。
前出の『長篠合戦図屏風』では、3つ鉄炮隊の内、ひとつは前後2列になって射撃している図もあるので、史料にありますように、信長から命じられた5名の武将(指揮官)の連係プレーのもと、実際に時間差をうまくつけて3つの鉄炮柵から間断なく射撃が行われていたと考えられます。
常日頃から物流の効率化に目をつけていた信長は、近代の軍隊に並ぶほどの”ロジスティクス能力”をここ一番で示し、武田軍を圧倒したのが『長篠の戦い』だったようです。
つまりは畿内を勢力下に置いて、”堺の豪商たち”を手足のように使いこなせた信長と、信濃の田舎にいて火薬の手当てもままならない武田勝頼との”差”と言う事になりそうです。
『長篠の戦い』で、兵力に勝る織田・徳川連合軍は、なぜ鉄炮を使う戦いを選んだの?
通説として、『長篠の戦い』は、武田騎馬軍が織田・徳川連合軍が馬防柵の向こう側から鉄炮を構えているところへ、騎馬で突っ込んで行き、”鉄炮の三段撃ち戦法”でドンドン打倒されて武田軍は大敗したと言うストーリー立てになっています。
そのイメージが強いので、今私たちは、最初から武田軍は昔のハリウッド映画の西部劇よろしく、馬上のインディアンとなり、砦(幌馬車)の騎兵隊の一斉射撃で撃たれて落馬するイメージとも相まって、武田騎馬軍団が馬防柵へ押し寄せて壊滅したと考えさせられています。
しかし、この武田勝頼と織田信長・徳川家康は正統派の戦国武将で、合戦も戦国のセオリー通り進められた可能性が高いと考えられます。
とすると、『長篠の戦い』も含まれる戦国の戦いのセオリーとは、一般的には次の順に進行します、、、
- 一昔前は『石打(石の投げ合い)』からですが、先ず『矢軍』・『鉄炮競合』
- 接近戦で槍・刀剣による『打物戦(うちものせん)』
- どちらかが崩れかけたところで、『騎馬衆乗込み』
となる流れですが、ここでは、馬防柵・陣場を堅固に設けて、まるで”野戦”ではなくて”攻城戦”の様相を呈していましたが、辛うじて陣立ての最奥に徳川軍5千が馬防柵の前に進出して陣取っていましたので”野戦”となった訳です。
実際の戦いは、天正3年(1575年)5月21日午前6時頃から、武田軍が鉄砲衆・弓衆を前面に押し立てながら、最初から乗馬して騎馬隊が襲い掛かるのではなく、兵は下馬して徐々に敵陣へ接近するセオリー通りの戦法で始められました。
『甲陽軍鑑』によると、、、
・・・いづれも馬をば大將と、役者と一そなへの中に七八人のり、残りは皆馬ひかせ下りたつて鎗をとって一そなへにかゝる、・・・、柵の木を二重まで破るといへども、みかたは少軍なり、敵は多勢なり、殊に柵の木三重まであれば城ぜめのごとくにして、大將ども儘く鐵炮にあたり死する、・・・。
(引用:『甲陽軍鑑 品十四 長篠合戦の次第』国立国会図書館デジタルコレクション)
となっており、武田軍は1.が終わってしまい、大将側近7~8名が騎乗しているものの、あとの軍兵は下馬して槍で接近戦(打ち物戦)へと行こうとしますが、織田・徳川連合軍の方は矢玉が尽きず撃たれ続けていることが分かります。
当時の武田軍も、もうこれは野戦ではなくて”城攻め”だと言って苦戦しているようです。
普通の合戦では、ほぼ同じころに両軍の鉄砲玉と矢が尽きて、接近戦になるはずが、織田・徳川連合軍は、矢玉が尽きず武田軍が撃たれ続けている様子が見て取れ、多勢に無勢と嘆いていることも分かります。
合戦のセオリー通りに行かず、武田軍は大混乱に陥ったようです。
織田・徳川連合軍の矢玉が尽きないために、武田軍団は自慢の騎馬を用いた”敵軍への乗込み作戦”に出る機会が訪れずに、本格的な”打物戦”に入れぬまま馬防柵に接近してしまい、無防備で立っている武田軍の指揮官である騎乗武将は鉄炮の標的にされてしまいました。
馬防柵を作ったのは、当時の合戦のスタイルではごく普通のやり方だったようですが、織田・徳川連合軍が鉄炮に拘ったのは、背景に常識では考えられないほど潤沢に鉄炮玉と火薬を手当て出来ていたことがあったようですね。
織田信長の作戦は図にあたり、武田軍の3倍もの兵力を動員したこともあって、『長篠の戦い』は織田・徳川連合軍の完勝に終わりました。
『長篠の戦い』後、軍団が壊滅した武田家はすぐには滅亡しなかった!なぜ?
因玆勝頼敗軍の間、信州境まて追々撃之、幾千と云數不知、作手田嶺鳳來寺岩小屋何も、信甲衆番手令悃望之間、信濃迄相送、城城無異儀、奥平九郎信昌手に請取也、・・・
(引用:『当代記 巻一 二十五頁』国立国会図書館デジタルコレクション)
と、『当代記』にあるように、、、
徳川家康は、『長篠の戦い』後、敗走する武田軍を追う形で、信州国境までの奥三河諸城の無血開城を行い”長篠の功労者”奥平信昌に渡しました。
一方織田信長は、『長篠の戦い』後、武田勝頼が敗戦処理に手間取っている隙に、すぐに越後の上杉謙信に書簡を送り、上杉謙信の信濃への出兵を誘って東美濃から武田領信濃への侵攻を計画していました。
ところが、信長の意図を察知した武田勝頼は『長篠の戦い』敗戦後ほどなく、予てより足利将軍義昭から声のかかっていた越後上杉謙信との和睦交渉を開始しており、謙信は表面上信長に呼応する返事をしたものの、武田勝頼との和睦を重視し、信濃への出兵を行いませんでした。
ここで、『長篠の戦い』で武田軍団を壊滅させた勢いで、一気に武田を殲滅させようとしていた織田信長の目論見は失敗に終わり、勝頼は敗戦からわずか5ヶ月後の天正3年(1575年)10月には上杉謙信と歴史的な和睦を成立させ信濃防衛に成功します。
その後、信長は、断交した上杉謙信との北陸表での戦いも発生し、畿内での石山本願寺・毛利軍との戦いに悩まされ、武田との戦いは膠着状態のままとなり、家康も武田勢の抵抗に遭い、遠江の形勢を動かすことが出来ずにいました。
一方武田勝頼は、天正五年(1577年)1月22日に、相模の北条氏政(ほうじょう うじまさ)の妹を拝み倒すようにして正室に迎え、途絶えていた”甲相同盟”の復活を計り、織田・徳川連合軍に対抗する体制を構築することに成功します。
しかしそれは長続きせず、大転機が訪れます。。。
天正6年(1578年)3月13日に突発した、戦国の巨人上杉謙信の死去です。
謙信の死後数日を経ずして、上杉家を相続した謙信の養子上杉景勝(うえすぎ かげかつ)と謙信以来の重臣たちの対立が起こり、それはもうひとりの養子で相模の北条氏政の実弟である上杉景虎(うえすぎ かげとら)を巻き込んだ”上杉家の後継者争い”に発展して行きます。『御館(おたて)の乱』の勃発です。
武田勝頼は同盟に基づいて、実弟上杉景虎の支援に回った北条氏政からの出陣要請に応えて、天正5年(1577年)5月中旬に上杉領への出陣をします。
この上杉家の内乱・お家騒動である『御館の乱』は天正7年(1579年)3月24日に鮫ケ尾城にて景虎が滅亡して、景勝派の勝利と言う一応の結末を迎えますが、反景勝派の抵抗は続き、終息するには更に1年ほどを要し、天正8年(1580年)まで掛かりました。
ここで、同盟者である北条氏政より早く越後入りした武田勝頼は、景勝派と景虎派の調停役を務める形となりましたが、景勝との和睦を成立させて”甲越(こうえつ)同盟”を結び、勝頼に景虎支援だけをを期待していた北条氏政には同盟の背信行為と受け取られました。
その一方で勝頼は、『御館の乱』で実弟上杉景虎支援を口実に、本音は謙信亡き後の上杉家の北関東領地の簒奪(さんだつ)しようとしていた北条氏政の競争者ともなってしまい、両者の間には徐々に亀裂が生じて行きました。
これを境に武田と北条は、駿豆(すんず)国境と東上野(ひがしこうずけ)での衝突を始め、勝頼は織田信長・徳川家康に加えて、苦労して再度同盟を結んだ強敵北条氏政をも敵に回す苦しい展開に逆戻りして行きます。
実は、この上杉謙信の死去に伴う『御館の乱』を挟んだ上杉家のお家騒動の時期に、武田家は信玄時代も含めて史上最大版図となっていますし、北条家も同様でした。。
言い換えれば、ひと時代を作った戦国の巨人武田信玄と上杉謙信、北条氏康らの戦国の梟雄たちがほぼ同時期に姿を消したこの東国地域は、その後継者たちが遺された広大な領地に見合った統治能力を持てずにいる一種の空白地帯になっていたとも言え、真の実力者である覇王織田信長に食い散らされる運命だったとも考えられます。
ともあれ、その一番手となってしまった”武田勝頼”は、ニューカマーの実力者織田信長に天正3年(1575年)の『長篠の戦い』でとことんやられた後、この覇王信長への有効な対抗策だった”北条氏政との同盟”も天正7年(1577年)3月に自ら決裂させてしまい、自爆して行ったようです。
武田氏領国であった”駿河国”の最大拠点で、武田軍が執拗な徳川軍の攻撃から必死で守って来た”高天神城”が、天正9年(1581年)3月22日についに落城しました。
それを機に重臣・国衆の離反が始まりどんどん弱体化し、巨人武田信玄のつくった広大な武田王国は、翌天正10年(1582年)1月27日に発覚した武田家親族木曽義昌(きそ よしまさ)の謀叛をきっかけに、2月12日から始まった織田・徳川・北条連合軍のひと押しで武田家は崩れ去り、重臣・家臣が誰も助けようしないまま、3月11日に武田家はたった一ヶ月であっけなく滅亡してしまいました。
見てきたように、この『長篠の戦い』での敗戦は、信玄の作った常勝武田軍団を壊滅させ、跡取りの武田勝頼への信用を大きく失墜させる出来事でした。
しかし信玄の作った”武田家の威光”は、それだけではなくならず、その後も上杉家の分裂によって、武田勝頼は史上最大の版図を得ることとなります。
ところが、武田家家臣の勝頼に対する”信頼感”は、決して回復する事はなく徐々に低下の一途を辿り、そして”北条家との同盟破たん”と言う政策ミスが、最終的に巨大帝国武田家を崩壊させて行ったようです。
『長篠の戦い』の戦場はどこにあるの?
『長篠の戦い』は、天正3年(1575年)5月21日、三河の国長篠設楽ヶ原(したらがはら)、当時の有海原(あるみはら)で、武田勝頼率いる1万5千の兵と、織田・徳川連合軍の4万の兵が激突した戦いでした。
この戦いにより、天下無双を誇った武田騎馬軍団は歴戦の重臣が多数討死して壊滅、武田信玄の死後、最強の武田軍団を引き継ぎ意気軒高だった武田四郎勝頼(たけだ しろうかつより)は、命からがら戦場から脱出しました。
永禄11年(1568年)に勝頼の父武田信玄(たけだ しんげん)が今川氏真(いまがわ うじざね)を壊滅させて手に入れた旧今川領駿河国・遠江国と奥三河一帯と、本拠地甲斐国・信濃国、東上野まで広がった広大な領地を持つ武田家が、これより7年後に滅亡することになる”歴史の分水嶺”となった合戦でした。
1.『長篠城址』(愛知県新城市長篠)
最寄り駅は、JR本長篠駅です。
東京からですと、東京⇒(東海道新幹線『ひかり』1時間24分)⇒豊橋⇒(JR飯田線”ワイドビュー伊那路” 38分)⇒本長篠⇒徒歩1分 (運賃:9,280円)
・『長篠城址史跡保存館』があります。
営業時間:年末年始・毎週火曜日休館 9:00~17:00
入場料 :大人210円、小中学生100円
2.『長篠古戦場跡』(愛知県新城市川路)
最寄り駅はJR三河東郷駅です。
東京からですと、東京⇒(東海道新幹線『ひかり』1時間24分)⇒豊橋⇒(JR飯田線各停”本長篠行”43分)⇒三河東郷⇒徒歩1分 (運賃:8,960円)
・『設楽原歴史資料館』があります。
営業時間:年末年始・火曜日休館 9:00~17:00
入場料 :大人300円、小中学生100円
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まとめ
織田信長と武田勝頼の『長篠の戦い』は、天正3年(1575年)5月21日に、三河国長篠の有海原(あるみはら)或は設楽ヶ原(したらがはら)で行われました。
通説では、信長の3000挺もの鉄炮を組織的に使った革新的な合戦で、自慢の騎馬部隊に頼る武田勝頼の旧戦法が信長の新時代の戦術に敗れた典型的な合戦と評されています。
しかし、近年の研究の結果、この信長の鉄炮と馬防柵を使う戦術は当時の戦国大名では珍しくない戦法で、勝頼も同様に鉄炮・弓隊を使い、撃ち合いをしていたことが判明しました。
また、両者ともに当時の合戦のセオリー通りの戦い方をしており、武田騎馬軍団と言っても西部劇のインディアンのように馬上で全兵士が押し寄せたわけではなくて、指揮官以外は下馬して戦いを始めていたのが明らかになっています。
両者の明暗を分けた最も大きな理由は、兵力の差(武田1万5千:織田・徳川4万)と弓矢・鉄砲の弾薬量の差であったと言われています。
武田軍の矢玉が尽きても連合軍は打ち続けていたようです。
そのため、武田軍は自軍の矢玉が尽きて、援護射撃のないまま連合軍陣地へ攻め続け、たちまち標的にされて結果壊滅する事態となった訳です。
しかし、結果は重大な事態を招き、武田信玄死去のあと、継いだばかりの四郎勝頼は、当初からその力量を疑う先代からの重臣たちの信用を更に無くして行き、その後の軍団経営が巧くゆかなくなる原因となりました。
そして、天正6年(1578年)3月9日に上杉謙信が突然死去し、それから始まる上杉家の内乱・お家騒動である『御館の乱(おたてのらん)』による混乱で、折角同盟を結んでいた北条との間が決裂し、勝頼はどうしようもない大穴へ落ち込んで行きました。
一方、信長は信じられぬことに反信長陣営の有力者たちがどんどん自滅して行き、四面楚歌だった信長の足を引っ張る者がすべていなくなって、武田勝頼はまともに信長の攻撃を受ける事態を迎えています。
時代は完全に勝頼ではなくて、信長に味方していました。
こうした流れを作り出した最初の大きな事件となったのが、この『長篠の戦い』でした。
この戦いは信長にとって、戦国の世に出るきっかけとなった永禄3年(1560年)5月19日の『桶狭間の戦い』と並び賞される、大きな意味のある戦となりました。
しかし、武田勝頼の滅亡より、わずか80日後に織田信長はもっとも信頼していた部下の明智光秀によって、京都本能寺で横死させられます。
この順序が逆になっていたら、実は猛将だった武田勝頼も立ち直って案外いい線行っていたかもしれません。
まったく、一寸先は闇の戦国時代でした。
今回”おまけ”で、『長篠の戦い』の100字と200字のまとめをつけてみました。もし活用していただくことが出来れば幸いです。
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参考文献
〇平山優 『長篠合戦と武田勝頼』(2014年 吉川弘文館)
〇平山優 『検証長篠合戦』(2014年 吉川弘文館)
〇大久保忠教 『三河物語 巻三下 二百十~二百十一頁』(国立国会図書館デジタルコレクション)
〇『当代記 巻一 二十五頁』(国立国会図書館デジタルコレクション)
〇平山優 『武田氏滅亡』(2017年 角川選書)
〇『甲陽軍鑑 品五十二 512頁』(国立国会図書館デジタルコレクション)