執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
天下人『織田信長』の小姓『森蘭丸』は美少年じゃない!ホント?
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戦国の英雄織田信長の寵臣・小姓である『森蘭丸』の”美少年神話”の真相を明らかにします。
『桶狭間の戦い』の時、織田信長と一緒に清須城を飛び出した『蘭丸』の先輩小姓衆5人はその後どうなったのかお教えします。
織田信長の小姓衆には誰がいたのか明らかにします。
『蘭丸』の愛刀・森家の”家紋”・『蘭丸』の兄弟を見てみます。
森蘭丸(乱丸)は信長の愛した天下の美少年だったの?
通説では、戦国時代の覇王織田信長の小姓であった”森蘭丸(もり らんまる)”は、寛永14年(1637年)に勃発した『島原の乱』の一揆軍の将である”天草四郎時貞(あまくさ しろうときさだ)”と並ぶ、日本史上の”美少年”の代表的存在だと言われています。
”森蘭丸”の美少年伝説ですが、幕末の舘林(たてばやし)藩士岡谷繁美(おかのや しげざね)が、明治2年に完成させた『名将言行録(めいしょうげんこうろく)』に、、、
三左衛門可成の子、蘭丸と稱す。岩村五萬石に封ぜらる。天正十年六月二日戰死、年十八。
天正五年、長康、弟坊丸〈長隆)力丸(長氏)と共に、初めて信長に仕ふ。長康時に年十三、容姿美にして、才知武勇あり、而て廉直阿らず、・・・
(引用:岡谷繁美 『名将言行録』森長康)
とあり、『蘭丸』は、江戸末期には”美童”で有名でした。
歴史作家八切止夫(やぎり とめお)氏によれば、、、
江戸時代に入って京都の”角倉了以(すみのくら りょうい)”が御朱印船でカンボジアに行って、蘭の花を持ち帰って徳川家康に献上したところ、家康がこの芳香を喜び、『らんか』と命名してから『蘭』の文字が使われるようになったとしていて、”蘭丸”の生前には、この『蘭』の字は無かったようなのです。。
そこで、同時代史料の『信長公記(しんちょうこうき)』を見てみると、、、
”森蘭丸”の記事が初出するのは、天正7年(1579年)4月18日で、、、
四月十八日、塩河伯耆へ、銀子百枚遣わされ候。使者森乱、中西権兵衛相副へ、・・・
(引用:太田牛一 『信長公記 巻十二 摂津御陣の事』インターネット公開版)
とあり、『蘭』ではなくて、『乱』の文字を使っています。
つまり、『蘭丸』の字は後世江戸期の創作で、信長時代当時のオリジナルは『乱丸』であったことが分かり、文字からも江戸時代に”美少年イメージ”が形作られていた可能性が高いようです。
また、『乱丸』の実兄の森勝蔵長可(もり かつぞうながよし)は、猛将だったらしく”鬼武蔵”と呼ばれ、信長より信濃海津城を拝領した時、信州人がその容貌魁偉なるを以て恐れたと言われており、その弟の『乱丸』が容姿端麗美少年というのは、奇妙な感じがします。
但し、『乱丸』の父森三左衛門可成(もり さんざえもんよしなり)の正室盈(えいー妙向尼)は2男子を生み、『乱丸』以下3男子は側室の高子(たかこー濃姫の親戚)が生んだとも言われています。
つまり、高子は絶世の美女と言われた『濃姫ー奇蝶』の一族の女性であり、『乱丸』がその子供となると、江戸期に形作られた蘭丸イメージである”女と見まがうほど色白で、見る人を蠱惑(こわく)し、異能の美しさ”を感じさせるほどの”美男子”だったかどうかは別としても、濃姫の従兄弟の明智光秀くらいの整った容貌だった可能性は充分に考えられます。
”鬼武蔵”と『乱丸』は、母が違った可能性もあった訳です。
但し、当時と現在では、容姿に対する美醜感覚がかなり違うと考えられ、世間に評判の人気のある男性は、無骨な男らしい異相だったとも言われていますので、”八切説”の方が正解かもしれません。
当時の信長は、近習(きんじゅう)の小姓(こしょう)に関して、天下統一後の”織田幕府”の経済官僚を育てるために有能な少年(例えば、後の豊臣政権での石田三成のような)を集めていたのですが、一方、小姓と言うのは、殿の身の回りの世話だけでなく、”SP・ボディガード”も大きな任務だったので、知恵だけでなく実際に武術・馬術に長けた剛の者だった可能性が高い感じがします。
やっぱり、信長のエリート小姓衆は”ガリ勉・やせっぽち能吏”ではなくて、今で言う”体力社員”だったのではないかと思われますので、かなり『乱丸』の”美少年伝説”は厳しそうですね・笑。
因みに、信長の寵愛した”伝説の美男子”の筆頭はと言うと、『乱丸』の先輩となる信長の小姓頭”万見仙千代重元(まんみ せんちよしげもと)”が挙げられます。
信長の縁戚だったとも言われており、安土城では実際に本丸に一番近いところに屋敷を与えられていて、信長の信頼が最も大きい小姓(秘書官)だったことが分かります。
天正6年(1578年)に仙千代の活躍記録が集中し、美男だったこと以外に人事・行政面での実務能力が抜群だったようですが、その年の最後12月8日に信長に謀叛を起こした荒木村重(あらき むらしげ)の有岡城総攻撃の時に戦死して歴史の表舞台から消えてしまいます。
やはり、武闘派ではない”優男の美男子”だったのでしょうか?
『乱丸』の表立った記録に残る活躍は、この仙千代の亡くなったあとの天正7年(1579年)から始まります。
(画像引用:安田靭彦の昭和44年作品 森蘭丸)
信長の小姓たちは誰がいたの?
”小姓(こしょう)”と言うのは、旗本衆の中で、信長の身の回りの世話と近習(きんじゅう)の仕事をこなす者たちを言います。常に信長の一番身近にいて、突然行動を起こす信長に付き従います。
例えば、永禄3年(1560年)5月19日の有名な『桶狭間の戦い』の際に、清須城を飛び出した信長に数騎の小姓が付いて行きました。
此の時、信長、敦盛の舞を遊ばし候。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬもののあるべきかとて、螺吹け、具足よこせと、仰せられ、御物具めされ、立ちながら御食を参り、御甲をめし候て、御出陣なさる。
その時の御伴には御小姓衆、岩室長門守 長谷川橋介 佐脇藤八 山口飛騨守 賀藤弥三郎 是等主従六騎、あつたまで、三里一時にかけさせられ、・・・・
(引用:太田牛一『信長公記 巻首』インターネット公開版)
とあり、信長が飛び出していくのに、小姓5名がすぐさま後を追っていく様がよくわかります。
信長研究家の谷口克広氏によると、小姓衆が属する”近習(きんじゅう)”の主な仕事は、、、
- 奏者(取次ですね)
- 副状の発給(その朱印状が発給された経緯を記載・説明するもの)
- 使者を務める
- 検使(戦場に赴いて各将の働きを観察する)
- 来客の応接・接待
- 各種の奉行
- 主君の身の回りの世話・其の他
となっていまして、『小姓衆』は7を中心にすべてこなして、その上で常時主君の行動に付き従いボディガードの役割までも担います。
後年、女性好きな徳川家康はこの役割の一部を側室たちにも割り振った為、政治的に力を持つ女性もいたり、中にはボディガードの役までこなせる女性もいたらしいです。
さて、信長の小姓衆ですが、、、
初期のメンバーは、丹羽長秀、池田恒興、前田利家、岩室長門守、加藤弥三郎、佐脇良之、長谷川橋介、山口飛騨守です。
上記、丹羽長秀、池田恒興、前田利家に関しては、ともに小姓衆から出世して織田軍の主力の武将として重臣への道を歩みますが、それ以下の『桶狭間の戦い』の時に、清須から駆け出す信長に付き従った腹心の部下5人はどうなったのでしょうか、、、
先ず、岩室長門守に関して、『信長公記』に記述があります。
六月下旬於久地へ御手遣わし、御小姓衆先懸かりにて、惣構へをもみ破り、推し入って、散貼に数刻相戦ひ、十人計り手負ひこれあり。上総介殿御若衆にまいられ候若室長門、かうかみをつかれて討死なり。隠れなき器用の仁なり。信長御惜しみ大方ならず。
(引用:太田牛一『信長公記 巻首』インターネット公開版)
とあり、永禄4年(1561年)6月に信長が陣頭に立って小口(おくち)城を攻めた際に信長の盾となったのか戦死しています。
そして、加藤弥三郎は、永禄12年(1569年)頃に、信長の近臣赤川景弘の讒言(ざんげん)に立腹し、岐阜城で小姓仲間の山口、佐脇、長谷川らと語らって斬殺に及び、4人ともに出奔し徳川家康に保護されます。
しかし、信長への帰参を希望する彼らは、同様の事件を起こして帰参に成功した前田利家の先例に倣って武名を上げるために、徳川家康と武田信玄の元亀3年(1572年)の『三方ケ原の戦い』に徳川方として参戦し、全員が討死を遂げています。
その次の時代のメンバーは、菅屋長頼、堀秀政、長谷川秀一、万見重元です。
菅屋長頼は、織田酒造丞(おだ きけのじょう)の子とされていますが、堀、長谷川、万見共々信長の目に止まり、実力でのし上がって来た人物たちと言われます。
そして最後の時期のメンバーの内の最有力者は、森成利(乱丸)と高橋虎松です。
この二人は、天正10年(1582年)6月2日の『本能寺の変』で信長と共に討死しています。
この『本能寺の変』の時、信長を守って討死した(御殿内での戦死者)小姓メンバーは、、、
御殿の内にて討死の衆、森乱・森力・森坊、兄弟三人。小河愛平、高橋虎松、金森義人、菅屋角蔵(長頼の子息)、魚住勝七、武田喜太郎、大塚又一郎、狩野叉九郎、薄田与五郎、今川孫二郎、落合小八郎、伊藤彦作、久々利亀、種田亀、山口弥太郎、飯河宮松、祖父江孫、柏原鍋兄弟、針阿弥、平尾久助、大塚孫三、湯浅甚助、小倉松寿。御小姓衆懸かり合ひ懸かり合ひ、討死候なり。
(引用:太田牛一『信長公記 巻十三 信長公本能寺にて御腹めされ候事』インターネット公開版)
とあり、当時の本能寺に詰めていた小姓は、総員で27名で全員討死したことが分かります。
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森蘭丸(乱丸)の愛刀は?
『乱丸』の愛刀は、信長からの拝領の腰刀(脇差)で『不動行光(ふどうゆきみつ)』と言われています。
時代小説作家牧秀彦氏の労作によれば、、、
この脇差の作刀者は、文永・元亨年間(1264年~1324年)の相州伝を代表する名工、藤三郎行光(とうざぶろう ゆきみつ)だと言います。
藤三郎行光は、鎌倉鍛治の新藤吾国光(しんとうご くにみつ)に師事し、信長はその優美な華麗さを愛しました。
そして、上機嫌の時に信長が、”不動行光、つくも髪、人には五郎座御座候”と自慢げに唄ったと言われます。
これは、自分が持っている名刀”不動行光”、茶道具の名物”九十九髪茄子茶入れ(つくもかみなすのちゃいれ)”、小姓から重臣となった”丹羽長秀(にわ ながひで)”を自慢して唄ったものです。
このような信長が愛して止まない名刀『不動行光』を『乱丸』へ下賜していたのです。
如何に信長が『乱丸』の才能を愛し、寵愛していたかが分かります。
信長は、天下比類もないスグレモノ・美しいもの・才能・名物に目がなかったのです。
しかし、天正10年(1582年)6月2日の早朝に、この名刀は信長・乱丸と共に灰燼に帰してしまったのは言うまでもありません。
森蘭丸(乱丸)の兄弟とは?
森氏は源氏の一支流で、室町初期より美濃守護土岐家に代々所属した美濃地方の名族です。
『乱丸』の父森家第14代当主”森三左衛門可成(もり さんざえもんよしなり)”の時、土岐氏が斎藤道三によって滅ぼされ、三左衛門は天文23年(1554年)より信長の父織田信秀(おだ のぶひで)に仕えます。
『乱丸』の父可成は、信秀の嫡男信長の家督相続戦・尾張統一戦・桶狭間の戦い・美濃攻略戦に活躍し、永禄8年(1565年)に美濃金山城(かねやまじょう)が与えられます。
その後、永禄11年(1568年)の信長の上洛戦にも柴田勝家とともに先鋒を務め、その軍功により近江宇佐山城(おうみうさやまじょう)を与えられ信長軍の猛将として名を馳せます。
そんな父の下、、、
長男傳兵衛可隆(でんべえよしたか)、次男武蔵守長可(むさしのかみながよし)、三男乱丸(らんまるー成利)、四男坊丸(ぼうまるー長隆)、五男力丸(りきまるー氏長)、末子千(仙)丸(せんまるー忠政)と続きます。
しかし、父可成は、、、
九月十九日、浅井、朝倉両手に備へ、又取り懸かり候。町を破らせ候ては無念と存知せられ、相拘へられ候ところ、大軍両手より焜とかゝり来なり、手前に於いて粉骨を尽きさると雖も、御敵猛勢にて、相叶はず、火花を散らし、終に鑓下にて討死。森三左衛門、織田九郎、・・・。
(引用:太田牛一『信長公記 巻三 志賀御陣の事』インターネット公開版)
とあり、浅井・朝倉連合軍と居城宇佐山城下坂本の町はずれで激突し、元亀元年(1570年)9月19日(20日とも言われています)大軍相手に討死し、家督は当時13歳だった次男の長可が継いでいます。
又、長男傳兵衛可隆は、既にその前の同年4月25日越前敦賀手筒山城(えちぜんつるが てづつやまじょう)攻めにて、父三左衛門と共に参陣するも、討死し享年19歳でした。
そして『乱丸』、坊丸、力丸の3名は、前述のように天正10年(1582年)6月2日の『本能寺の変』で織田信長を守って討死しています。通説では、享年『乱丸』18歳、坊丸16歳、力丸15歳だったと言います。
次男森長可は、『本能寺の変』後は岳父”池田恒興(いけだ つねおき)”とともに秀吉軍へ付きますが、天正12年(1584年)の『小牧・長久手の戦い』で徳川軍と激突し、岳父池田恒興ととに討死します。
森長可の享年が27歳で、その2年前に死去の『乱丸』が享年18歳とされていますが、異説があり『乱丸』の享年は24歳くらいであったのではないかと言います。
確かに武蔵守長可と『乱丸』は兄弟仲が良くなかったと言いますので、年齢はかなり接近していたと思われます。もし、通説どおりですと、『本能寺の変』当時長可25歳、『乱丸』18歳で7歳も離れていた事となり、この戦国時代に7歳も上の実兄と仲違いするかと言えば、この武闘系の武家一族にあってそんな上の兄にはやはり絶対服従でしょう。そう考えると、兄武蔵守長可の享年が判明しているだけに『乱丸』と7年以上も離れているとは考えにくいところです。
異説の”『乱丸』24歳説”も説得力のあるところだと考えられます。
そしてこの美濃の名家森家は、唯一生き残った末子の千丸(忠政)が家督を継ぐこととなります。
森蘭丸(乱丸)の家紋は?
(画像引用:Yahoo画像『鶴の丸』)
『乱丸』の森家の先祖は、鎌倉時代初期の河内源氏の流れを汲む武将で、源八幡太郎義家(みなもと はちまんたろうよしいえ)の七男・陸奥七郎義隆(むつ しちろうよしたか)の三男・源(毛利)頼隆(もうり よりたか)の次男である”森頼定(もり よりさだ)”と言われています。
そして、清和源氏の子孫を誇る森家がこの源氏にゆかりの深い『鶴丸紋』を家紋にしていました。
言わば、”源氏”の印と言うことになります。
その他この『鶴丸紋』を掲げる人物としては、将軍足利義政の妻”日野富子(ひの とみこ)”、杉田玄白、近代では小説家”太宰治”の実家津軽津島家などがあります。
まとめ
戦国の覇王織田信長は、あともう少しで幕府を開いて天下統一を成し遂げるところでした。
しかし、言わば寵臣とも言えそうな信頼の厚い配下の武将明智光秀に裏切られ、天正10年(1582年)6月2日の早朝に宿舎にしていた京都本能寺で、大軍に攻められて討死と云う形の暗殺に遭って落命しました。
この派手な歴史的事件で、最後まで信長の身辺に小姓として仕えていて同時に討死した森蘭丸(乱丸)のイメージは強烈でした。
江戸時代には、その美貌も謳われて、信長の寵童(ちょうどう)として隠微な男色相手として語られる向きもあって、どんどんその神話には尾ひれがついて、正確な人物像がよく分からないままその名前である『蘭丸』だけが拡がって行きます。
しかし、実際の『乱丸』は幼少時より信長とよく似た一種の天才のような人物で、若年ながら様々な問題を解決できる”出来る男”でした。
やがてその智謀と美貌?が信長の目に止まり、既に討死していた父の森三左衛門可成も信長の有力武将だあったことから、たちまち信長の小姓衆に加えられました。
信長の智謀と美貌の小姓として有名な”万見仙千代重元(まんみ せんちよしげもと)”が摂津伊丹の有岡城攻城戦で戦死していたこともあり、信長の『乱丸』に対する期待は大きく膨らんで行ったようです。
後年の記録に、余りにも万見仙千代の美男ぶりが取り沙汰されるので、その死後同様に信長の寵愛を受けた『乱丸』も、”万見仙千代並みの美男”と見られたのかもしれません。
基本的に、信長は男であろうと女であろうと”バカ”と”裏切り者”が大嫌いなのです。
信長は、”基本的にバカ者は近づけず”、仕えさせた”知恵者”の中から、誠実に自分にだけ仕えてくれる”信長信者と言える者”を心底愛したのでしょう。
『乱丸』の活躍時期は、非常に限られていて、天正7年(1579年)からほんの3年くらいではないかと思いますが、信長が最晩年の大仕事をしていた時期に重なり、その時期に出仕していたラッキーボーイとも言えそうです。
『乱丸』の信長への出仕は、信長研究家の谷口克広氏によると、”古文書『森家先代実録』では、天正7年(1569年)4月上旬となっているようなのに、『信長公記』に天正7年4月18日に摂津にもう既に使者として派遣された記事があり少し時期がおかしい”と疑問を呈されいます。
歴史作家の澤田ふじ子氏は著書『森蘭丸』の中で、『乱丸』の出仕は安土城の建設が始まって1年半ほど経った頃としていますが、それなら天正5年の秋口の出仕となり、このくらいなら『信長公記』との整合性もあり容認範囲内かなと思われます。
この時期は、せっかちな信長が安土の仮御殿に移ってから既に1年半近く経過しており、十分安土城の体制が落ち着いて来たタイミングで『乱丸』の小姓生活が始まったものと考えられます。
織田信長研究家の谷口克広氏の指摘のように、”良質史料として定評のある当時の宣教師ルイスフロイスの『日本史』、山科言経卿の『言経卿記』、天皇側近の女性の書いた『御湯殿上日記』などに『森蘭丸』は登場しないが、その他史料では、頻繁に名前が出来来ており、この少年が信長の手足のように使われていたのは間違いない。”と言う事なのでしょう。
『乱丸』の兄森長可は、討死した父森三左衛門と同様に”槍働き”の武将として信長の信頼を勝ち得ていて、『乱丸』は、小姓(秘書官)として信長政治を支えていたと言えるのではないでしょうか。
『小姓』と言うと、主君の身の回りの世話をすると言う事で、側室のような”夜伽”のことばかり連想する向きもありますが、実際は若年にも拘わらず、今で言うと代議士秘書とか大臣秘書官にあたり、信長(総理大臣)の政治向きの仕事をして”超多忙”で息をつく暇もないと言う感じだったと思われます。
これと同様の働きをしていたのが、のちの豊臣時代の”石田三成”なのではないかと思います。
『乱丸』も『本能寺の変』が発生せずに”織田幕府”が成立した暁には、秀吉時代の石田三成・家康時代の本多正純のような行政官として辣腕を振るったものと考えられます。
信長が”戦国時代”をほぼ終わらせていた訳ですから、おそらく『乱丸』(森成利ーもりなりとし)は、その”美童としての評判”よりも、その実力からして”織田政権の有力政治家”として歴史に名を残していたことでしょう。
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参考文献
〇澤田ふじ子 『森蘭丸』(1986年 講談社)
〇宮本昌孝 『乱丸(上)・(下)』(2014年 徳間書店)
〇八切止夫 『信長殺し、光秀ではない』(2002年 作品社)
〇八切止夫 『真説・信長十二人衆』(2002年 作品社)
〇谷口克広 『信長の親衛隊』(2000年 中公新書)
〇岡谷繁実 『名将言行録』(1997年 岩波文庫)
〇西村昌巳 『家紋主義宣言』(2010年 茉莉花社)
〇牧秀彦 『名刀伝』(2004年 新紀元社)
〇『日本の名族』(1989年 新人物往来社)