覇王織田信長は『城』を”出世魚”のように進化させた!ホント?
戦国の覇王織田信長の生誕地が分かります。
織田信長の6つ居城とその城にこめられた想いを明らかにします。
織田信長は、戦国の大事件『桶狭間の戦い』へは、どこの城から出撃したのかわかります。
織田信長の果たせなかった最後の居城がどこなのか明らかにします。
目次
織田信長は、6つの居城の最後に、なぜ政治の中心京都からも少し遠い”安土の地”に居城を作った?
信長は自らの居城を、生誕地の「勝幡(しょばた)城」を皮切りに、「那古野(なごや)城」、「清須(きよす)城」、「小牧山(こまきやま)城」、「岐阜(ぎふ)城」そして「安土(あづち)城」と移して行きます。
中世城郭研究家の西股総生(にしまた ふさお)氏によると、通説では、”戦国大名と云うものは平時は平地の館に住み、戦時には山城に籠ったと言われるが、実際には平時にも山城を居城としていた武将がかなりいた。”と言います。
それによると、織田信長は後者のタイプで本当に平地の館城(やかたじろ)ばかりでなく、山城(やまじろ)にても家族ともども居住していたようです。
ここで言うと、勝幡・那古野・清須までは”館城(平城)”で、これ以降の小牧・岐阜・安土が”山城”となりそうです。
信長が引越しすると言う事は、戦国大名織田家の本拠地が移って行く事になります。他の戦国武将たちは本拠地を移動させずに領地を拡大させていましたので、信長の動きは非常にこの当時の武将としては、斬新な考え方でした。
実は、父親の織田信秀も「勝幡城」⇒「那古野城」⇒「古渡城」⇒「末盛城」と移転しています。
これは、新たな戦略を展開に当ってもっとも行動しやすい場所へ移ると言う事を基本原則として持っていた為で、最後の「末盛城」は、今川軍の動静が怪しくなって来たため、それに対応する目的で移動したものと考えられます。
つまり信長の状況に合わせて居城を変えてゆくやり方は、父の信秀のやり方(戦略)に習った”父親ゆずり”であった訳です。
「勝幡城」⇒「那古野城」は父の信秀の移動に従って行ったまでで、それ以後の移転が信長の考えで動いたことになるのでしょう。
『清須(きよす)城』への移転理由
尾張守護職斯波(しば)家の居住する「清州城」の奪取は、天文22年(1553年)守護職斯波義統(しば よしむね)を配下の小守護坂井大膳(さかい だいぜん)・織田三位(おだ さんみ)が謀反を起こし、義統を切腹に追い込んだため、義統の息子斯波義銀(しば よしかね)は那古野城の信長を頼りました。
そこで、信長は”主君弑逆(しいぎゃく)の大罪人を討つ”と言う大義名分を得て、翌天文23年(1554年)叔父の織田信光(おだ のぶみつ)の協力を得て、守護職継嗣の斯波義銀を奉じて謀叛人を追い払い、叔父に「那古野城」を渡して、信長は「清須城」へ入城し手中に収めました。
ここで信長が欲しかったのは、守護職斯波義銀を奉戴・保護することによる”『尾張守護』の権威”だったと言う事になります。
当時の信長は、尾張統一に邁進しており、そのため自分を認めようとしない親戚一同を納得させる”権威付け”が必要だったと考えます。
『小牧山(こまきやま)城』への移転理由
永禄6年(1563年)、、、
この時点でまだ尾張統一が出来ていない信長は、途中から裏切って美濃の斉藤家と手を結び抵抗を続ける従兄弟の織田信清(おだ のぶきよ)の居城犬山城と、その美濃攻略の拠点として小牧山城への移転を実行しました。
通説では、この小牧山城への移転は、美濃攻略のための一時的なもので、長居するつもりはなかったとされています。
しかし、最近の小牧山城の”城郭”と”城下”の発掘調査により『小牧山城』は、通説にあるような目的だけで築城した一時的な施設ではなく、近代城郭への転換点となる画期的なものであることが判明して来ました。
つまり、当時の織田家臣は尾張の家臣団組織をそのまま父から引き継ぎ、新たに加わった者も近隣の者ばかりで、中世の武士団そのままに、それぞれの領地に館城を構えている独立した存在でした。
信長は、すでに仕組みが固まってしまっている清須城下を離れて、新規で小牧城下に新しい町割り(都市計画)を作るとともに、領主たる自分に求心的な家臣団を作るために、重臣たちを始めその領地・館城を離れて信長のそば近くの信長の指示した屋敷地に居住させる形へと大変革に取り組んでいたのです。
自分の領地にしがみついている豪族たちをそこから引き剥がして、自分の膝元に居住させて行くと言う、近世武士団と近世城下町の誕生です。
『小牧山城』は、結果的にほんの4~5年しか信長治世に使われず、そのために”美濃攻略への足懸り”的に作った一時的な城とのイメージが定着してしまいました。
ところが、信長は小牧城への移転を契機に、戦略的な目的とともに、旧来の”清須”のような地元ではやりにくい”新しい主従関係の形成”と”商業の振興”を目指す『城下町』の建設に本気で取り掛かっていたのです。
『岐阜(ぎふ)城』への移転理由
父織田信秀の時代から悲願であった美濃攻略は、永禄10年(1567年)8月に美濃斎藤家重臣である美濃三人衆稲葉一鉄(いなば いってつ)、氏家卜全(うじいえ ぼくぜん)、安藤守就(あんどう もりなり)の調略に成功し、領主斎藤龍興を降伏させて成功しました。
信長は、町の名前を井ノ口から”岐阜(ぎふ)”と改め、稲葉山城を『岐阜城』と改称して大改修を加えて居城(つまり”小牧山城”から移転)としました。
山麓と山上の双方に御殿を作り、山麓は公式の政務を行う公的空間とし、金華山(きんかざん)の山上にある城郭には家族を住まわせ領主の館城として使いました。
そして、この『岐阜城』にて信長は、例の有名な言葉『天下布武(てんかふぶ)』を印章として使い始め、明確に天下統一を念頭に上洛を目指します。
永禄8年(1565年)に暗殺された将軍足利義輝(あしかが よしてる)の弟である足利義昭(あしかが よしあき)を運命の明智光秀の斡旋で、岐阜城攻略の翌年の永禄11年(1568年)7月に岐阜立政寺(りっしょうじ)に迎え、9月には尾張・美濃・伊勢の兵に徳川の三河勢と近江浅井氏の援軍を得て、義昭を奉じて上洛し、途上立ちはだかる六角承禎(ろっかく じょうてい)を観音寺城に打ち破り、京に跋扈(ばっこ)する三好勢を追い払って、足利義昭に将軍宣下を受けさせることが出来ました。
その後、信長は将軍義昭の家臣となることを避けて岐阜へ帰投します。
とは言え、これにて信長は足利将軍の後ろ盾となり、実質”天下人”となる道を歩み始める事となります。
つまり、この永禄11年(1568年)を境に、天下を狙う諸勢力との戦いが始まり、この岐阜城を居城に定めることによって、信長の本格的な『天下取りの戦い』の火ぶたが切られる事となりました。
『安土(あづち)城』への移転理由
足利義昭上洛の翌年、信長が京都を留守にしていた永禄12年(1569年)正月5日に、京都本圀寺(ほんこくじ)を仮御所としていた将軍義昭を、信長に追い払われていた三好三人衆の兵約1万が襲撃しました。
警備に当っていた若狭衆の奮戦と、翌日1月6日急遽駆け付けた細川藤孝他、池田勝正、荒木村重ら摂津衆などの近畿各地からの信長勢の応援により無事鎮圧されました。
急報を受けて岐阜城より10騎ほどで雪の中を駆け付けた織田信長が1月8日に到着し、事態収拾に当たる中、さすがに将軍義昭の警護のために本格的な城郭が必要な事を覚り、その為京都に新たに『二条城(にじょうじょう)』の建設を行うことを決めます。
この築城工事は即2月から始まり、4月14日には義昭が入城し、信長はそれを見届けて21日に京を発ち岐阜城へ帰投します。
翌永禄13年(1570年)2月に岐阜を発した信長は京都へ行く途中、近江の常楽寺(じょうらくじ)の港へ留まります。(後の安土城下の中心地となるところです)
もうこの時点では、少し遠すぎる京都と岐阜の中間点に拠点を探しており、この地が適当だと目星をつけていたようです。
この年は途中で永禄(えいろく)から元亀(げんき)へと年号が変わり、信長にとって”苦難の元亀年間”が始まります。
と言うのは、、、
4月に京都で二条城の竣工記念を理由に兵を集めて、京都よりそのまま”将軍義昭の上洛命令に応えず上京しなかった朝倉義景(あさくら よしかげ)”を攻めますが、越前の敦賀から”木の芽峠”にかかったところで、有名な”義弟浅井長政(あざい ながまさ)の裏切り”に遭い、湖西の朽木越えのルートを駆け抜ける必死の撤退で京都へ帰り着き九死に一生を得ます。
岐阜城に戻って体制を立て直しますが、その後信長の行く手に立ちはだかる諸勢力との本格的な攻防が始まり、元亀2年(1571年)9月に浅井・朝倉勢に加勢した比叡山を焼討ちして壊滅させ、元亀4年(1573年)には、反旗を翻した将軍義昭を京都から追放し、年号が7月より”天正”となりました。
8月には”朝倉義景”、”浅井長政”を滅亡させ、翌天正2年(1574年)9月には”伊勢長島一向一揆”を壊滅させました。
翌天正3年(1575年)5月に宿敵”武田勝頼”を『長篠の戦』で破り武田軍の主力を壊滅させ、8月には”越前一向一揆”をほぼ鎮圧し、弱気となった本願寺の大僧正顕如法主(けんにょほっす)と講和を結びます。
ここに至って信長は、取り囲んでいた反信長勢力(足利義昭、浅井・朝倉、武田、比叡山、長島一揆、越前一揆、本願寺など)を壊滅又は屈服させて、ほぼ『天下布武』『天下統一』への道筋・目処がつき始めました。
そこで、11月末になって、嫡男織田信忠(おだ のぶただ)に居城岐阜城も含めて”織田家の家督”を譲ります。
そして信長は、翌天正4年(1576年)1月にいよいよ、予て目をつけていた常楽寺の地に天下の城『安土城』の築城を開始します。
武田勝頼を滅亡させたことにより、北と東の脅威がなくなった信長にとってこれから始まる西国攻略戦に備えるためには、岐阜城では東に寄り過ぎており、政治の中心地京都に近く、物流ならびに水路・陸路の交通の要衝地である安土の地は、築城し信長の力を示すには最適の場所と考えられました。
また、尾張・美濃・畿内を基盤にして『天下統一事業』を成し遂げようとする信長にとって最適の立地と言えそうです。
しかし、安土城下は織田の家臣しか屋敷を構えず、後年の豊臣秀吉の大坂、徳川家康の江戸のように、家臣以外の外様大名も居住させて広く武士階級が結集した形にはなっておらず、安定政権としてみると、安土城はまだ政権過渡期の城であることを示しているようです。
とは言え、、、
小牧城築城から始まった信長を頂点とする求心的な権力構築に基づく”城下の縄張り(都市計画)”はさらに徹底されて行くことになります。
また織田家中だけでなく、天下にあまねく信長自身の威光を知らしめるために、日本で初めての天守閣を備えた豪壮な7階建ての重層建築として、安土城は信長の権威の象徴的な存在として形作られて行きます。
これらすべて、信長のめざす『天下統一』を、新しい国造りを目に見えるものとして出現させることを目的としたものでした。

(画像引用:安土城天守閣AC画像)
織田信長はいくつの年から城主をやっているの?
前節でも述べましたように、天文13年(1544年)末頃信長11才の時に、父織田信秀から『那古野(なごや)城』を譲られています。
それは、『信長公記(しんちょうこうき)』によりますと、、、
或る時、備後守が国中、那古野にこさせられ、・・・・嫡男織田吉法師殿に、一おとた、林新五郎。二長、平手中務丞。三長、青山与三右衛門。四長、内藤勝介。是らを相添へ、御台所賄の事平手中務。・・・・那古野の城を吉法師殿へ御譲り候て、熱田の並び古渡と云ふ所に新城を拵へ、備後守御居城なり。御台所賄山田弥右衛門なり。
(引用:太田和泉守 「信長公記」巻首 尾張国かみ下わかちの事 ネット公開版)
つまり、この時から平手政秀(ひらて まさひで)ら”付け家老4人”をつけられたものの、織田信長は幼いながらも晴れて”城主”となった訳です。
また、、、
吉法師殿十三の御歳、・・・・古渡の御城にて御元服、三郎信長と進められ、御酒宴御祝儀斜斜めならず。翌年、織田三郎信長、御武者始めとして、平手中務丞、その時の仕立、くれなゐ筋のづきん、はをり、馬よろひ出立にて、駿河より人数入れ置き候三州内吉良大浜へ御手遣はし、所々放火候て、其の日は、野陣を懸げさせられ、次の日、那古野に至って御帰陣。
(引用:太田和泉守 「信長公記」巻首 吉法師殿御元服の事 ネット公開版)
とあり、13才ですでに初陣を遂げて、駿河今川氏の三河での出城周辺を焼討ちして、その日は追手を一旦やり過ぎして野営し、次の日に無事那古野城に帰還していたことが分かります。
又、後年の信長を偲ばせるような派手な武者姿であった様子も伺われます。
姿格好はともかく、領内の悪ガキたちと模擬戦を重ねていただけの事はあって、初陣も傳役(もりやく)と言われる平手政秀(ひらて まさひで)の介添えがあったとは言え、与えられた軍勢を手足のように使いこなして動き回った様は見て取れるような采配ぶりを感じる記述です。
今で言うと小学校高学年くらいの年齢の少年が、いきなり城と軍勢を渡たされても、臆さず堂々と采配を振るい、冷静に追手の今川勢をやり過ごしてからゆっくり帰還するなど大したものです。
父の許しを得て、信秀の軍議の末席にも加わっていたと言いますから、父信秀も自慢の跡継ぎだったのでしょう。
しかし、信長の母と言われる信秀の正室土田御前(どたごぜん)からは乱暴者と嫌われ、母は母や大人の言う事をよく聞く次男の信行(信勝)を可愛がっていたと言われますが、父信秀は信長の能力を見抜いていたと言う事でしょうか。
異説では、当時江戸時代と違って所謂『傳役(もりやく)』と言う制度は無いので、平手政秀が信長に入れ込んでいたのは少し妙だと言います。
土田御前が信長を避けた本当の理由は自分の子でなかったためで、平手政秀が信長に肩入れしていたのは、平手政秀の娘の子(つまり信長は信秀の側室の子)だったのではないかと言います。これだと信長にとって平手政秀は本当に”ジイ”だったことになりますね。
平手一族は今で言う名古屋市天白区辺り(名古屋市南東部)を領地とする豪族だったようで、このことが後年近隣で起こった『桶狭間の戦い』でも功を奏したのではないか、つまり”信長の現場『田楽狭間』一帯の土地勘”は並みではなかった、知悉(ちしつ)していたと言う事です。
もしこれが事実だとすると、信秀の家老連中が皆、信長を嫌い、次男の信勝を後継として担ぎ出そうとしていたのは無理もない話で、信長の「大うつけ者」の世評だけが原因だったのではなくて、皆正室の子である信行(信勝)を後継者として推していたわけですね。
この異説の方が、シックリ来る感じで、母の土田御前が出来の良い子の信行(信勝)だけを可愛がったと言うのは当時の感覚では少しおかしいのではないかと思います。当時は真面目な子より武勇と知略のある方が人気があったはずですからね。
信長を”時代の寵児”に押し上げた『桶狭間の戦い』の時、どのお城(居城)から出撃したの?
『桶狭間の戦い』は、永禄3年(1560年)5月19日の事でした。
現場の戦場”田楽狭間(でんがくはざま)”へ出撃する直前の集結場所は、『善照寺砦(ぜんしょうじとりで)』となっていますが、信長が今川義元へ戦いを挑む為に朝出た居城は、この時は『清須(きよす)城』でした。
これを太田牛一(おおた ぎゅういち)『信長公記(しんちょうこうき)』では、、、
・・・十九日朝、・・・・此の時、信長、敦盛の舞を遊ばし候。・・・法螺ふけ、具足よこせと、仰せられ、御物具めされ、たちながら御食を参り、御兜をめし候て、御出陣なさる。その時の御伴には御小姓衆・・・・、是等主従六騎、あつたまで、三里一時にかけさせられ、・・・
(引用:太田和泉守 「信長公記」巻首 今川義元討死の事 ネット公開版)
又、小瀬甫庵(おぜ ほあん)の『信長記』では、、、
義元四万五千騎の軍兵を引率して、永禄三年五月十七日、愛智郡沓懸に著きて、翌十八の夜に入り、大高城へ兵粮を入れ、爰にて軍評定しけるが、翌朝には鷲津丸根両城攻め干すべきにぞ定めける。・・・翌払暁に佐久間大学、飯尾近江守方より、敵、鷲津丸根へ早や取り懸け候由、飛脚到来せしかば、物の具し給ひつゝ、栗毛なる馬の太逞しきに、金覆輪の鞍敷かせ、ひらりと打ち乗り、清洲の城を出でさせ給ふ時には、・・・・・唯十騎計りにて、先づ熱田へと急がせ給ひけるが、・・・
(引用:小瀬甫庵『信長記』現代思潮新社)
明治のジャーナリストの巨星徳富蘇峰(とくとみ そほう)は、、、
信長は主従六騎で、清洲城を飛び出した。彼は途上しばしば馬を輪駆けして、士卒の近随を待ち、熱田に至る頃には三百余人に達した。時に十九日午前八時ごろであった。
(引用:徳富蘇峰『近世日本国民史 織田信長(一)』)
とあり、信長が永禄3年(1560年)5月19日早暁に今川義元迎撃の為に出撃した居城は、信長が天文23年(1554年)に尾張守護斯波義銀(しば よしかね)を奉じて入城した”清須城”であったことは間違いないようです。
信長は永禄6年(1563年)に「小牧山城」へ移転するまで、この城(織田家中にとっては、殿である守護斯波氏の居城)を使っていました。
信長が生まれたお城はどこにある?
私の育った名古屋市では、長らく郷土の英雄織田信長の生誕地は『那古野(なごや)城』とされていました。
つまり、天文3年(1534年)生まれの信長は、父信秀が天文元年(1532年)に攻略した『那古野城』で生まれたと考えられていたのですが、近年の研究により、信秀が『那古野城』を攻略したのが、天文7年(1538年)であることが判明したため、信長の生誕地は以前の居城である『勝幡(しょばた)城』であることが分かりました。
信長の生まれた『勝幡城』は現在の愛知県愛西市近辺にありましたが、祖父織田信貞(おだ のぶさだ)が、大永年間(1521~1528年)の初期に築城したもので、この時、約4kmほど先にある港町”津島”を武力制圧して支配下に収めました。
信長の父信秀(のぶひで)は、祖父信貞から清須織田家の三奉行のひとつ”弾正忠(だんじょうのちゅう)家”を継ぎましたが、その後信秀が織田家中で抜きん出た力を持ち始めたのは、他家のように不安定な”土地の上がり”と”年貢”のみに頼らずに、港町津島の経済力をバックボーン(収入源)にしていたのが大きな理由でした。
こうした特異な武家に生まれた信長は、商業の持つ経済力の重要性を幼いころから学んでいたとも言えそうです。
『勝幡城』は、中世尾張の水運・商業の中心地として栄えた港町”津島”の北東に位置します。現在は、江戸時代に行われた河川の流路改修で勝幡城跡は大幅に破壊され川の中となってしまいましたが、本来の本丸の大きさは周囲の土塁も含めて東西約66m、南北約92mもあったことが分かっており、当時の有力な越前守護代の朝倉氏館が85m角だったことから見ても、巨大な館城だったことが判明しています。
これを見ても当時の信秀の財力がどれほどのモノであったのか想像されます。当時『勝幡城』を訪れた京都の公家飛鳥井雅綱(あすかい まさつな)、山科言継(やましな ときつぐ)の記録が残っており、その様子が室町時代の武家儀礼に基づいた豪華な御殿であったことが記されています。
信長はお金持ちの”お坊ちゃま君”だったんですね。
もし信長が『本能寺の変』で遭難しなかったら、次の居城はどこに作ったの?
これは、織田信長の政権構想をそのまま実行(丸パクリ)しようとした豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が実現した巨大城郭である『大坂城』であると考えられます。
ここは、信長が苦労に苦労を重ねて結局武力制圧が出来なかった難攻不落の『石山本願寺』の城塞跡地です。
信長の優秀な教え子であった秀吉は、信長の『小牧城』の建設構想以来の”城下町建設の手法”は完全に自分のものとしており、信長のアイディアが随所に生かされたものと思われます。
『安土城』の項で見てみたように、安土城は一時的な要素を含んでおり、次のどこかの地での築城は前提になっているようでした。
東南アジア方面に開放された国際貿易港の『堺』の近隣に位置し、厄介な朝廷の存在する京都との距離感も適当で、小牧手法を使えば、大坂城に付属する巨大城下町の建設は当然の構想であったと思われます。
仮に信長の生存を前提にすると、後の豊臣時代・徳川時代は存在しなかった可能性もあるわけですから、日本の中心地は江戸(東京)ではなくて大坂であった可能性が大きい訳です。
何故ならば、『江戸』はあくまでも日本列島内に政権がとどまっている事を前提にした中心地ですから、東南アジアを視野に入れた首都を考えるとやはり『大坂』の方が収まりがいいのは明らかだと思われます。
ずい分変わった日本史になっていたでしょうね。
まとめ
戦国の覇王織田信長の6つの居城に関して、詳細な城郭遺跡としての話は、研究者の方にお任せするとして、『歴史好き』の観点から気の付くところをまとめてみました。
まず最初は、信長の生誕地は、『那古野(なごや)城』ではなくて、『勝幡(しょばた)城』であったことです。この話は、NHKの歴史番組でもやっていてほぼ認知された歴史事実となっています。
次に一時的に使われて廃墟扱いになっていたものが、再度天正12年に信長後継を決める決定戦ともいうべき、豊臣秀吉と徳川家康の『小牧・長久手の戦い』で徳川家康によってふたたび改修されて使用されていました。
やはり、地政学的にも、歴史の転換点に現れるランドマークなのでしょうね。
近年の”小牧山城発掘”によって、小牧山城への移転が信長の政権政策の中で大きな転換点となっていたことが判明しました。
見事な都市計画で大名屋敷・町家が作られており、後の太閤秀吉の大坂の町づくりの先駆となっています。
何にも増して、従来の豪族の集まりから、家臣団を形成していく形を『清須城』では出来なかったものを何もない『小牧山城』築城と合わせて、重臣たちの館もまとめて同時に信長の居城に隣接して移転させ、信長は”城の近くの大名屋敷と言う近世スタイル”を実現しているのですね。
まったく革新的な人物ですね。
そして驚きとして、岐阜城では、信長の家族は麓の館ではなくて、山頂の城郭内に居住していたと言う事です。本当に毎日の生活用水などどうしていたのでしょうか。本人たちも然ることながらこの城を機能させるために働いていた人々の苦労を思うばかりです。
最後の『安土城』は、あまりに有名ですが、実態がほとんど分かっていないようです。
信長の権威を天下に知らしめることが目的の日本で最初の『天守閣』を持つ7層の超豪壮な城郭でした。
あの城を燃やしたのは、信長の次男織田信雄(おだ のぶかつ)だと言われており、そのただ無人であった安土城を取り囲んで火をつけただけの信雄が、お咎めどころか、領地までいただいているのですから珍妙です。
そして、後を継いだ豊臣秀吉は、信長の天下統一事業の仕上げを行い、まるで信長の遺言であったかのように石山本願寺の跡地に巨大な『大坂城』を築き、そしてこの城でその豊臣家も滅亡することとなります。
参考文献
〇西股総生 『「城取り」の軍事学』(2013年 学研パブリッシング)
〇千田嘉博 『信長の城』(2013年 岩波新書)
〇木戸雅寿 『天下布武の城』(2004年 新泉社)
〇NHKスペシャル「安土城」プロジェクト 『信長の夢「安土城」発掘』(2001年 NHK出版)
〇八切止夫 『信長の過去は暗かった』(1973年 三笠書房)
〇徳富蘇峰 『近世日本国民史 織田信長(一)』(1980年 講談社学術文庫)
〇小瀬甫庵撰・石井恭二校注 『信長記 上』(1981年 現代思潮新社)
〇谷口克広 『織田信長合戦全録』(2002年 中公新書)
〇谷口克広 『天下人の父・織田信秀』(2017年 祥伝社新書)