西郷隆盛は、元勲にわがままを言う若い明治天皇を叱りつけた!

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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明治の元勲西郷隆盛明治天皇の関係性がよくわかります。

 

幕末明治の政治のカラクリが明白になります。

 

異説孝明天皇親子暗殺説の真相を明らかにしました。

明治天皇の即位はいつ?

通説によれば、先帝孝明天皇(こうめい てんのう)が、慶応2年(1866年)12月25日に天然痘によって死去・崩御された為、翌慶応3年(1867年)1月9日に睦仁親王(むつひと しんのう)が、元服前の14歳3ヶ月で『践祚の儀(せんそのぎ)』を執り行い新天皇に即位しました。

 

つまり、明治元年は慶応4年(1868年)と重なりますから、先帝孝明天皇は”江戸時代最後の天皇”で、そのあと践祚された継嗣である睦仁親王が、”明治時代の天皇(明治天皇)”となりました。

 

時代は、260年に亘って日本の政権を担って来た徳川幕府が終焉を迎え始めており、睦仁親王は言わば”江戸時代最後の年”とも言える慶応3年(1867年)に”時代の変わり目の天皇”として登場することとなりました。

 

即位は京都の御所でなされましたが、この年慶応3年(1867年)10月14日には徳川第15代将軍慶喜から『大政奉還』がなされて武家政治が終焉を迎え、12月9日には『王政復古の大号令』が出されて、南北朝時代が足利尊氏(あしかが たかうじ)によって終止符を打たれた時以来、実に約530年ぶりに天皇が国政の矢面に立つこととなりました。

 

 

内戦である『戊辰戦争』を経て時代は改元されて明治へ移り、首都も京都から東京へ遷都され、皇室も孝明天皇以前の”庶民に見えない天皇”から、”見える天皇”への変化始まり、新たな立憲君主国の君主としての天皇像が求められて行くこととなりました。


(画像引用:ウイキペディア明治天皇像

 

『勤皇』を旗印として『倒幕』した新政府のおける”天皇”の扱いとは?

江戸時代の天皇は幕府から外出禁止令が出されていて、御所から出ることなく一生を過ごされていたようで、ちょっと驚きですが、幕末の第121代孝明帝が文久3年(1863年)の3~4月に行った『賀茂社』と『石清水八幡宮』への行幸(ぎょうこう)は、実に237年ぶりの”天皇の公式外出”だったようです。

 

 

そして、一般庶民どころか、徳川将軍以下政権担当者たちも、”天皇”とは顔も見た事のない存在で、当然ながら、身分の低い下級武士が中心の所謂”幕末の志士たち”、後の”倒幕の主人公たち”などは本当はその存在が念頭にあったかどうか怪しいものでした。

 

そんな”天皇”が、嘉永6年(1853年)浦賀沖に出現した”黒船”(”ペリー来航”)によって、決定的に引き起こされた”開国論議・国防論議(尊王攘夷論)”で、一躍”政治の舞台”へ躍り出ることとなりました。

 

要は、海外欧米列強と条約を結んで多数の国に日本との貿易を認めるかどうかと言う外交問題なのですが、そもそも17世紀に『鎖国』政策を執ったのは、徳川幕府ですから、どうするかを決めるのは徳川幕府の責任だった訳です。

 

 

それを、政権の中枢である幕府老中首座(つまり総理大臣)の阿部正弘(あべ まさひろ)が”広く意見を求める”などと不用意にやっちゃったものですから、政府たる”徳川幕府”に当事者能力のないことが、日本全国津々浦々にバレバレになってしまいました。

 

 

忽ち国内は百家争鳴の状態となり、その中で大きく失墜してしまった”幕府の権威”に、取って代わるものとしてクローズアップされて来たのが、”朝廷の権威でした。

 

 

朝廷・天子様にそんな外交能力があるなどとは、誰も思ってはいませんが、どさくさに紛れてその”権威”を利用して、動揺する幕府に代って政権奪取を図ろうとする政治勢力が現れます。

 

 

代表的なものが長州薩摩ですね。

 

 

本来、”勤皇”と言うからには、天皇を崇拝し、天皇の親政を目指して集まり、天皇を”絶対君主”として付き従う所謂『君主制』の政治を求めるようなイメージを受けます。

 

 

では、所謂”幕末志士たち”は、1333年当時に『建武の新政』を行なった後醍醐天皇時代のような”天皇親政”を実現するために、幕府を倒して政権を天皇に献上しようとしたのでしょうか?

 

 

結果からすれば、所謂新政府は、『天皇は君臨すれど統治せず』と言うような、『立憲君主制』を目指して新政権作りを始めています。

 

 

しかし、江戸時代最後の天皇である孝明帝は、あくまでも徳川幕府に政事を委ねようとしていましたから、『勤皇』を掲げる”幕末志士たち”と当の本人である天皇の思惑が大きくズレていたと考えられます。

 

 

そして都合よくと言うか、時代は”孝明帝の崩御”により次の『睦仁親王(明治帝)』に委ねられることとなったため、新政府首脳陣は幼帝の『立憲君主制』における”君主教育”から手を付けることが出来、話の筋がねじ曲がらなくて済んだ訳です。

 

『勤皇』の総本山だった長州藩の木戸孝允(実は、薩摩藩の西郷も)などは、すでに天皇の事を『玉(ぎょく)』などと呼んで、政権を取るための”もの扱い(大義名分?)”にしていますが、今私たちが明治政府の教育の成果なのか、漠然ともっている天皇家に対する崇敬の念などは、かれら(倒幕の志士たち)にはみじんもないことが感じられます。

 

 

当時天皇家などは、一般庶民にとっても『崇敬』の対象でも何でもなかったようです。

 

どうやら、天皇』は、彼ら倒幕の志士(新政府の首脳陣)たちには、権威付け(まさに錦の御旗)に過ぎなかったのですね。

 

 

ですから、”時代の趨勢”だったとは言え、彼ら新政府の重鎮たちは、そもそも天皇親政・絶対君主制など認めるはずもなかった訳ですね。

 

 

戦後の新憲法で敢えて言われるまでもなく、明治の御代の最初から『天皇は象徴でしかなかった』ことになるようです・苦笑。

西郷隆盛の考えていた『天皇』とはどんなもの?

西郷隆盛は、薩摩では大久保利通らより早く、藩主島津斉彬(しまず なりあきら)に認められていたこともあり、江戸に藩主と共に同行して薩摩藩の渉外担当(斉彬の私設秘書のような仕事)についていました。

 

当時島津斉彬は、本来薩摩が外様大名故に望みえなかった国政(幕政)への関与の期待を大きく持っていた為、政治秘書としてその斉彬の手足になって働く西郷の人脈は江戸で大きく広がっていました。

 

その中に、水戸藩との付き合いがあり、当時の政治学者である”藤田東湖(ふじた とうこ)ら”所謂”水戸学派”から薫陶を受けていました。

 

つまり、西郷隆盛は長州の吉田松陰と同じく”水戸学の洗礼”を受けていたために、水戸学派の提唱する『南朝正統論』に固まっていたようです。

 

 

これは、西郷の家系が南朝系の菊池氏だったと言う事も関係していたのではないでしょうか。

 

吉田松陰と西郷隆盛は、お互いに別の場所で知らず知らずのうちに、本気で”北朝系天皇家を護持する徳川氏”を倒して南朝系の天皇を立てると言う意味での『勤皇運動』を進めていたと考えられます。

 

 

西郷は、明治新政府の首脳陣と”維新”に対する考え方の根底が大きく違っていたのです。

 

 

吉田松陰は、木戸孝允・伊藤博文ら松下村塾の弟子たちに裏切られます(彼らの成したことは松陰のめざしていたこととは違う)が、西郷隆盛大久保利通ら新政府首脳陣に裏切られることになったようです。

 

 

西郷は本気で”南朝天皇復活”、”天皇親政ー絶対君主制”をイメージして倒幕運動を強引に進めていたと思われます。

 

ずっと共に”維新”を目指して、同じ方向へ向かっていると考えていた盟友大久保利通は、西郷隆盛の考えていることが分かって来た時、本当に驚いたでしょうね。

 

 

つまり前述しましたように、西郷隆盛の考えていた『天皇像』は、『親政』で治める”正しい皇統の南朝系天皇”と言う事でしょうか。

明治天皇は西郷隆盛をどう思っていたの?

孝明帝崩御後の慶応3年(1867年)1月9日に、『践祚の儀(せんそのぎ)』を済ませて天皇に即位した”睦仁親王(むつひと しんのう)”に対して、公式の『明治天皇紀』によれば、睦仁親王は幼少時より書の先生にもついて勉学に励んだと記載されていますが、どうも事実はかなり違っていたようで、御生母の中山慶子がいくら力んでもダメだったようです。

 

事実、睦仁親王は日々の研鑽勉学に励むどころか御所の奥で毎日古手の女官たちに囲まれて、公務・勉学ではなく幼い遊びにふけっていたようです。

 

これに危機感を抱いた、公卿岩倉具視ら政府首脳陣は、”宮廷改革”に手を付けることとし、2月に大久保利通からその提言がなされ、4月22日に太政官から『万機親裁(ばんきしんさい)の布告』が出されました。

 

 

それによると、

 

  1. 天皇は表の御座所(ござしょ)に毎日出御(しゅつぎょ)して、政府首脳と面談して政務を執ること
  2. 政務を執る御座所には女官の出入りを厳禁する
  3. 天皇は、政府の選んだ識者から時勢の勉強をすること
  4. 乗馬の訓練をすること

 

などが謳われており、今まで御簾の後ろに隠れている”雲上人であった天皇”は、突然国のリーダーとしての国民の前に出る”近代君主”としての姿が求められることになりました。

 

 

東京へ遷都された後の明治2年(1869年)7月に政府は宮内省を新設して、御所内の天皇の私的生活にかかわる部分も政府の管轄下としてました。

 

 

続いて、明治4年(1871年)には『宮廷改革』が政府によって断行され、先帝時代から御所の後宮にいた女官勢力を一掃し、天皇側近には、件の女官たち・軟弱公家衆に代って、西郷らの選んだ青年士族たちー高島鞆之助(たかしま とものすけ)、村田新八(むらた しんぱち)、山岡鉄太郎(鉄舟ーやまおか てっしゅう)などを幼年の天皇教育係として送り込み、天皇(睦仁)の生活を一変させて『君主教育』を始めます。

 

 

是より前、慶応3年(1867年)6月末には、薩長(長州の木戸孝允)の要請を受けて、戊辰戦争の折に猛威を振るった官軍の『アームストロング砲』の製造を担当した肥前の藩主鍋島閑叟(なべしま かんそう)が上京し、幕府には出仕せずに宮廷へ向い、幼帝の教育を半年余り担当したと言う記録が資料(『防長回天史』)に出ているようで、もうはっきり倒幕の方向で準備を始めた薩長首脳陣の用意周到な事前の動きには目を見張るものがありますね。

 

 

『戊辰戦争』へつながって行った慶応4年初の『鳥羽・伏見の戦い』で、ひ弱な宮廷育ちだったはずの睦仁親王(明治天皇)が馬上で官軍を大声で閲兵したと言う話は、この鍋島閑叟の教育の賜物だったのかもしれません。

 

 

こうして、明治維新政府によって立憲君主国の天皇として、仕立て上げられて行った『明治天皇』ですが、謹厳実直な侍従を選定するなどして、厳しく新帝を軍人君主として躾けた西郷隆盛に対してはどう思っていたのでしょうか?

 

 

明治10年(1877年)の『西南戦争』で、逆賊・朝敵となった西郷隆盛ですが、9月に西郷の死の報が明治天皇に届くと、皇后以下女官たちへ『西郷隆盛』と言う題で和歌を詠むように命じ、その際”西郷の罪過(ざいか)をそしらないように詠ぜよ”と言われたそうです。

 

また、侍従であった高島鞆之助によると、『一も西郷二も西郷と御親任あらせられ、西郷の没後と言えども聖上(天皇)には西郷西郷と御慕ひ遊ばされ・・・』とあります。

 

 

そして、日露戦争のあと、明治天皇は朕(ちん)を本当に思ってくれたのは西郷ただ一人であった』と言って泣いていたと伝わっています。

 

 

あれだけ、世界的に名声の高かった明治天皇でしたが、どうやら権力者特有の孤高の晩年だったようで、親身になって色々話をして世話を焼いてくれた西郷を懐かしんでおられたようです。

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西郷隆盛が明治天皇を叱りつけたのは本当か?

著名な評論家・ジャーナリストだった大宅壮一氏によると、

 

明治の新政府ができてまもなく、十六歳の少年天皇が、わがままをして”元勲”たちのいうことをきかないと、西郷隆盛は、「そんなことではまた昔の身分にかえしますぞ」といって叱りつけた。すると、天皇はたちまちおとなしくなったという話が伝えられている。
(引用:大宅壮一『実録・天皇記』《三》天皇に寄生する男子従業員(一)天皇を叱った明治の元勲より)

 

 

また、侍従であった山岡鉄舟によると、

天皇は山岡に相撲をいどみ、辞退するところを不意に体当たりしたが、山岡はとっさに身体を開いて天皇をねじふせ、振る舞いの激しさをさんざんに苦諫したという。
(引用:鹿島曻『裏切られた三人の天皇ー増補版ー』第一章より)

 

 

そして、西郷は、

 

 

西郷はかつて相撲にかこつけて明治天皇をなぐり、女官あさりとやめるように忠告したという。
(引用:鹿島曻『裏切られた三人の天皇ー増補版ー』第五章より)

 

 

 

どうやら、一度ではなくて、何度も西郷は明治天皇に対して”教育的指導”を与えていたようです。

 

西郷の相撲好きは有名な話で、日頃の鍛錬にも相撲を取り入れていたといいます。

 

前述の記録に残る明治天皇の振る舞いを見ると、明治天皇は力自慢で相撲好きな様子が見て取れます。

 

 

明治天皇と西郷隆盛とのやり取りは相撲で手合わせして、直に体と体でぶつかり合った者同士の気持ちのつながりなのでしょうか?

 

前述のように、明治天皇は西南戦争での西郷の死を惜しみ、西郷が親身になって叱ってくれていたことを思い出して涙していたのですから、そのつながりは相当に深かったものと考えられる訳です。

 

 

こうなると、西郷が真剣に叱りつけたのは本当なのでしょうね。

もし事実なら、西郷隆盛も知っていたはずの”明治天皇すり替え説”とは?

この説は、明治期から存在する話で、徳川第14代将軍家茂・121代天皇孝明・122代天皇(睦仁親王)の3名暗殺とパックになった大掛かりなものです。

 

この切っ掛けとなったものは、冒頭からの話のとおり、嘉永6年(1853年)の”黒船騒ぎ”からその対応を巡って幕府の政権担当能力の欠如が白日の下に晒され、一気に”政権交代”の機運が日本中に生まれたことが背景にあります。

 

”砲艦外交”を仕掛けて来た海外列強の動きに、武力を以って列強に対抗する”攘夷論”が沸き起こり、地に落ちた幕府の権威の代わりに”天皇の権威”にすがる話になって行きました。

 

 

しかし、”天皇”と言っても260年以上も徳川幕府に飼い殺しになっていた現朝廷(北朝系)ではなくて、南北朝時代に足利尊氏(あしかが たかうじ)によって滅亡させられた南朝系にこそ正統性があると言う論議に発展し、自国内にその南朝系の子孫を匿っていて、未だに南朝系に心を寄せる公家との付き合いを続けている徳川御三家水戸家(熊沢天皇)と長州藩毛利家(大室天皇)が幕末騒乱の台風の目となって行きます。

 

 

御三家水戸家は、幕府の大老井伊直弼(いい なおすけ)の激しい弾圧(安政の大獄)によって事実上壊滅して行きますが、長州は政権奪取に野心をみせる薩摩藩島津家と連携を図って幕府に対抗して行きます。

 

 

長州藩毛利家と薩摩藩島津家はともに『関ヶ原の戦い』の敗軍同志だったこともあって、260年経っても格別に徳川家に対する対抗意識が強く、かつ外様ながら、両藩ともに貿易(密貿易)のおかげで資金力があって戦争遂行能力を持っていたことが決め手となりました。

 

 

記録には出て来ませんが、慶応2年(1866年)1月に結ばれた軍事同盟的な『薩長盟約』の真の意味は、長州の保護する南朝系天皇の子孫の擁立あったとされています。(薩摩の代表の西郷隆盛は、九州に落ち延びた南朝系武士団の”菊池氏”の子孫であったと言われています。)

 

 

こうして、まず水戸家隠居斉昭(とくがわ なりあき)の子である一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)が、慶応2年7月に”第二次長州征伐”へ出征中で大坂にいた14代将軍家茂(とくがわ いえもち)の暗殺を謀り、南朝系の公家岩倉具視(いわくら ともみ)が、慶応2年12月に北朝系である121代天皇孝明(こうめい)の暗殺と、慶応3年7月にその継嗣睦仁親王(むつひとしんのう)の毒殺を謀ったとされています。

 

 

そして慶応3年(1867年)7月末には、薩摩藩京屋敷に待機していた薩長の首脳陣に”玉(ぎょく)”と言われる長州の片田舎の田布施(たぶせ)にいた南朝系天皇の子孫『大室寅之祐(おおむろ とらのすけ)』が、睦仁親王とすり替わって『明治天皇』となったとされています。

 

 

記録に残るのは、この慶応3年7月末に前述の鍋島閑叟が上京して来て、件の大室寅之祐に君子教育を半年ほどマンツーマンで行い、翌慶応4年1月に『戊辰戦争』につながる鳥羽伏見の戦い』で明治天皇はたくましい馬上の姿を現して大声で号令をかけたと言う事でした。

 

 

こうしてみると、前章の西郷隆盛の発言にある、16歳の明治天皇に「そんなことではまた昔の身分にかえしますぞ」と叱った意味が生々しく出て来ます

 

 

只の少年天皇の睦仁親王であれば、西郷の発言の意味はよくわかりませんが、もし、これが睦仁親王とすり替わったと言われる”大室寅之祐”に対してであれば、すぐに意味は判明する訳です。

 

 

睦仁親王当時の明治天皇の真影を見た事のある人物は非常に限られますが、それでもほっそりした弱々しい公家姿であったことは異口同音です。

 

 

しかし、庶民の前に姿を現した明治天皇は、なんと24貫(90kg)もの体重があり、筋骨隆々として力自慢で乗馬を得意とする青年天皇だったのです。

 

しかも主治医の証言で、ひげで隠していましたが、明治天皇には顎に”疱瘡の跡(ほうそうのあと)”があったとされています。

 

これは少年時代は赤貧だったため、種痘を受けられずに顎に”疱瘡の跡”を残した大室寅之祐本人の可能性が高いことを示しているようです。

 

 

侍従に選ばれた青年剣士山岡鉄舟を投げ飛ばし、相撲取りと互角だった西郷隆盛と相撲を取り、力自慢で馬術に巧みな『明治天皇』と言われる人物は、御所の大奥で元服前になっても女官と公家遊びをしていた白粉顔のひ弱なほっそりとした人物と果たして同じ人なのでしょうか?

 

この異説は『明治維新』を巡る、大きな謎のひとつです

 

孝明天皇の死に関しては、1990年に病理学の研究者の検証で、『天然痘』による病死だったことが明らかになったそうで、決して暗殺ではなかったと維新史の専門家である佐々木克氏が著書『幕末天皇・明治の天皇』の中で唐突に言われています。

 

果たして、当時から噂が絶えなかったと言う『暗殺説』は、宗旨替えをした維新専門家の意見でそう簡単に打ち消せるものでしょうか?

まとめ

外国の研究者からみて、西郷隆盛と言う人物は非常に分かりにくいことで、有名のようです。

 

恐らく、明治に入ってからの”自爆行動”ともとれるような行動の理由がわからないからではないでしょうか。

 

 

曰く、西郷の自信過剰、曰く、維新政府の腐敗に失望、西郷は残虐なテロリストかと思いきや、人の道を説く導師のようでもあるとなります。

 

 

ここに、キーワードとして”南朝天皇”をはめ込んでみると少し解ける部分もあるかもしれません。

 

 

日本ウォッチャーの外国人である同時代のアーネスト・サトウの『日記、回顧録』、近年のドナルド・キーンの『明治天皇』などを見ても、”南朝・北朝”と言うワードは見当たりません。

 

 

これまで西郷隆盛の話に関しては、『倒幕』と言うワードが大きくて、天皇に対する西郷の考え方があまり解説されていないようです。

 

 

ここにひとつ、『天皇をめぐる南朝問題』を入れてみると、違う展開が見えるかもしれません。

 

 

実は、あの『明治維新』の主人公が『天皇』だったと考えると、明治以降に新政府によって作られたとされる「天皇観」と合わせて、西郷隆盛を考えるキーワードになるかもしれません。

 

 

私は、天皇家は『神職』だと思っていたのですが、実は仏教徒(確かに、百済から仏教を入れて保護したのは天皇家でしたね。しかし、明治に神道に変えさせられているようです。)だったことを忘れていました。

 

 

ですから、どうも今の『天皇家』を巡る『皇国史観』のようなものは、明治の新政府が作り出した、又は復活させたものであることを認識しておいた方が良いようです。

 

そう言えば、最近有名になった『皇室典範(こうしつてんぱん)』などと言う代物も明治時代に出来たものでした。

 

この辺りの、思い込みから抜け出さないと西郷隆盛と明治天皇を巡る話は理解できないかもしれませんね。

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参考文献

〇佐々木克 『幕末の天皇・明治の天皇』(2005年 講談社学術文庫)

 

〇大宅壮一 『実録・天皇記』(2007年 だいわ文庫)

 

 

〇勝岡寛次 『明治の御代』(2012年 明成社)

 

〇ドナルド・キーン 『明治天皇(一)』(2014年 新潮文庫)
角地幸男訳

 

〇ドナルド・キーン 『明治天皇(二)』(2007年 新潮文庫)
角地幸男訳

 

〇鹿島曻 『裏切られた三人の天皇(増補版)』(1999年 新国民社)

 

 

〇アーネスト・サトウ 『一外交官の見た明治維新(下)』(1983年 岩波文庫)
坂田精一訳

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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