政敵西郷隆盛を屠った、盟友大久保利通の涙はホンモノなのか?

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盟友『西郷隆盛大久保利通』の仲が破裂してしまった真相を考えます。

政敵西郷の死大久保は本当に涙したのか?を考えます。

なぜ西郷と較べて大久保の人気がないのかを探って行きます。

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西郷隆盛と大久保利通は幼馴染なの?

ふたりが少年の頃の鹿児島(薩摩)は、城下が17~18の”方限(ほうぎり)”と称される区画に区切られていて、西郷・大久保のいた町内は”下鍛冶屋町方限(したかじやまちほうぎり)”と言われていました。

この”方限”の中にさらに青少年の結社(青年団?子供会?)のような”郷中(ごじゅう)”がありました。

大久保西郷は同じ方限、同じ郷中で生まれ育った竹馬の友だと言われています。

ところが、西郷隆盛の雅号は”南洲(なんしゅう)”と言い、大久保利通の雅号は”甲東(こうとう)”と称します。

西郷の”南洲”は、南の島と言う意味で、実質藩主の島津久光公に流刑を申し渡されて沖永良部島へ流されていた時に、漢詩などのペンネームに使ったのが、最初のようです。

一方、大久保利通の”甲東”とは何でしょうか?

大久保利通氏の関係者の証言をまとめてある佐々木克氏『大久保利通』によりますと、大久保の妹なども含めて、大久保の生誕地は鹿児島の下鍛冶屋町としています。

この下鍛冶屋町(したかじやまち)からは、明治大正昭和にかけての逸材が多数輩出されており、隣の高麗町(これまち)を含めると大臣大将級30余名爵位を受けた者30余名贈位されたもの40余名に上るすさまじさです。

つのように、この”下鍛冶屋町”は、”明治維新の聖地と化しているわけです。

その下鍛冶屋町と高麗町の間を”甲突川(こうつきがわ)”が流れていて、甲突川の東側が下鍛冶屋町なので、つまり”甲東”とは、下鍛冶屋町のことを意味します

大久保の雅号はこれに由来している訳ですが、なんせこの町内出身の出世した有名人の数が前述のとおり(おそらく歴史上も豊臣秀吉の尾張国中村を抜いて日本一)ハンパ無く多いのです。

此処出身者は、西郷も含めてみな”甲東”と言う事になります。

万事控えめの人だった大久保が、敢えて他を差し置いて、なぜこの”甲東”を名乗り続けたかが不思議に思われます。

甲突川は鶴丸城の外堀の役目を果たしていたため、下鍛冶屋町の悪ガキの郷中仲間たちはみな、城内に当るこの下鍛冶屋町を誇りに思い、西側の高麗町の子供を『川んそともん』と言って馬鹿にしていたようです。

最近の研究で、実はなんと大久保の生誕地が下鍛冶屋町ではなくて、高麗町であることが判明しました

幼いころに高麗町からより城に近い下鍛冶屋町へ引越していたので、大久保家の家人もみな、下鍛冶屋町が大久保の生誕地と思っている人が大多数だったのですが、実は違っていたのです。

そのことを知っていた大久保は、恥じていたようで、これが敢えて雅号を”甲東”と名乗らせた原因であったようです。

そんな逸話はありますが、西郷と大久保は狭い下鍛冶屋町の町内で頻繁に行き来をしており、大久保の妹たちの証言では、ほぼ毎日ふたりは一緒だったと言っています。

しかし、年齢は西郷の方が二つ年上であったため、大久保は西郷には、常に一目置いて接しており、兄事すると言う感じだったようです。

長じた後には、国事に関しても、西郷に折に触れては相談をして意見を聞くと言うスタンスでした。

間違いなく、ふたりは兄弟のようにして育った幼馴染でした


(画像引用:ウィキペディア大久保利通

西郷隆盛と大久保利通の人気の差はどこにある?

西郷は大久保より2歳年上と言う事で、現代では同じようなものですが、この時代の年の差は非常に大きく常に”あにさん”なわけです

薩摩の幼年育成組織”郷中(ごじゅう)”の中にあって、この2歳年長であったことは、西郷と大久保に大きく影響を与えています。

特に吉之助(西郷)は年長の17~18才のころには、リーダーである”二才頭(にせがしら)”になって、彼らがいた下鍛冶屋町のリーダーになっていました。

自然この狭い町内では、下への面倒見のよい吉之助(西郷)は人気者でもあったのです。

いたずら好きの正助(大久保)も西郷の前では大人しくしていたようで、この距離感は長じても存在していたようです。

事実、大久保の家に入り浸っていた西郷に、大久保は兄事していたと皆がみていました。

大久保も西郷と同じように、”書役”として藩に奉職してその能力を示して行きますが、やはり西郷の方がその存在感が大きく、大久保は常に西郷の大きな影に隠れてしまっています。

人々の先頭に立って働く西郷の一途な私心の無い生き方は、多くの人々の心に感動を与えて行きます。

長じての、仕事とか、業績面で云えば、実ははるかに大久保の方が新生日本に尽くしていると考えられます。
しかし、決定的な事は、薩摩では嫌われ者の久光公に取り入って出世を計ったと誤解され、維新後は要領よく立ち回って新政府の重役となり、政敵となった西郷を『征韓論』で追放して、その後『西南戦争』を西郷におこさせて、抹殺を図ったと見られてしまいました。

その結果、大久保は明治11年(1878年)5月14日に東京紀尾井坂にて、”西郷の敵討ち”と称する石川県士族島田一郎(しまだ いちろう)ら6名に暗殺されました。

誤解に基づく暗殺(誤殺)と言えますが、西郷と大久保の人気の差とも言えそうです。

これは、地元の薩摩でも同様の傾向があり、西郷と比べても政治家としては出世したのですが、士風の強い鹿児島の地では、大久保は『西郷を殺した男』のレッテルが張られてしまい、明治日本の政治リーダーだったにもかかわらず、銅像ひとつすんなりとは立てられないような目にあっているのです。

『征韓論』になぜ大久保利通は反対したの?

通説では、『岩倉使節団』が海外視察中の『留守政府』は、日本からの親書を受け取ろうともしない非礼な朝鮮政府に対して、再度兵力帯同の使節団を送る、いわば”武力開国”を迫るべきだとする方針の参議板垣退助の案に対して、西郷はあくまでも丸腰での”遣韓使”を立てて開国を説くべきだとする西郷案で閣議決定がなされていました。

それに対して、9月に戻って来た『岩倉使節団』政府首脳陣(岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文ら)は、今は内政に注力すべき時節であり、対外問題は時期尚早として、一斉に反対をし、明治帝へ上奏してこの閣議決定をひっくり返してしまいます。

その急先鋒は西郷の盟友大久保利通だったと言われています。このあと、西郷ら留守政府参議5名は、一斉に辞表を出して下野してしまいます。

最後、西郷と大久保は激しくやり合ったとも伝えられ、とうとう盟友の決別となりました。

歴史上では、『明治六年政変』と呼ばれています。

西郷の考えていることは、何も言わなくても分かると言っていた大久保が、なぜあえて西郷の『征韓論』に反対をしたのでしょうか?

勿論、国の方向を決める大事な『国事の政策決定』ですので、単純な理由ではないはずです。

ここで、大久保ら明治政府首脳陣が所謂『征韓論』に過去からも”反対した事実はない”ことがあげられます。

むしろ、明治3年(1871年)に政府が朝鮮侵攻問題を出した際に、西郷隆盛が反対しています。

という訳で、政府は元々『武力征韓』はやる気なのです。

この時も、”時期尚早で延期”になっている(これが、後世事実上の『征韓論』への反対と見なされてしまっている)だけで、所謂”中止・廃案”にはなっていません。

事実、この後に新政府は、『台湾』への武力侵攻、”『江華島事件』を理由として朝鮮の武力開国”を実行しています。

では、明治6年に西郷の『遣韓使(けんかんし)派遣』に反対したのは、何だったのでしょうか?

明らかに新政府は『征韓論』に反対の立場ではないのです。

ここに、大久保利通の次男である牧野伸顕(まきの のぶあき)伯爵の証言があります:

 

『・・・征韓論の時は西郷さんは全く死ぬつもりであったのです。朝鮮へ行っておれは死ぬ、そうすれば後で堂々の軍が起こせると言うのが西郷さんの心事であった。・・・・しかし、一方では、西郷は死ぬつもりでおるが、西郷を死なしては国内の鎮撫においても困るし、国力と云う点でも差し響くから、これは西郷はやれないというのがげんいんであった。父(大久保利通)などの心事も明らかに察せられます。・・・この大事の西郷は死なされぬというのが、友人としての情と混じって、父の反対した訳でしょう。』

(引用:佐々木克氏『大久保利通』第一部第三項より抜粋)

更に、陸軍中将高島鞆之助(たかしま とものすけ)子爵の証言:

 

『・・・大久保公も西郷翁の心の内はよく分かっていたろうが、それでいてなぜ西郷翁に反対したかというに、それは西郷翁はあの時には全く死ぬるつもりでいた。・・・あの時のことを皆がいろいろいうが、この西郷を殺してまで朝鮮のカタをつけなければならぬことはない、ここじゃ。・・・大久保公の心事の骨子はここじゃ。・・・』

(引用:佐々木克氏『大久保利通』第三部第三十八項より抜粋)

 

まだまだありますが、どうやら、話の真相はこの辺りだったようです。

私見ですが、、、

西郷は大久保から渡された『留守政府』の責任の重圧の中、直面する”役割の終わった武士階級(士族)の行く末”に大きな不安を抱えていたようです。

自分が引き起こした『維新』のために、武士社会の構造を叩き壊してしまった自己の責任を痛感して、この救済に一身をささげる覚悟を持つに至ったものと思われます。

そして、多くの(50万人以上の)全国の失業士族ために、この”不平士族”のはけ口としての”軍務”を考えていたようです。

西郷はこの”征韓論”の話に、明治6年の7月頃から急速にのめり込んで行くこととなったのですが、時期から見て、どうやら新政府首脳陣の帰国が迫ったこの時期に、急に”自分の力が留守政府としての権限のある内に何とかしよう”としたのではないでしょうか?

それを、『岩倉使節団』より早めに帰国し、間際に滑り込んで来た盟友大久保利通が、必死になって止めに入ったということでしょうか。

ふたりの仲が悪かったのは本当?

幼少時からの西郷と大久保の中は、大久保の家族の幾多の証言もあり、ほとんどの時間を共有するほどの仲だったと知れます。

良いとか悪いではなくて、何も言わなくてもすぐに相手の考えていることが分かるほどの関係であったと言えそうです。

幕末期もこの二人が薩長の政治勢力を支えていたと言っても過言ではないでしょう。

しかし、西郷は『武士』の枠組みを簡単に外すことには同意できなかったようで、この辺りから西郷の新生政府(政権)に対する思いが、大久保の思いと離れ始めたのではないかと思われます。

どの国の『革命』でも、既存政権が倒れた後に、一般的には”勢力争い(仲間割れ)”と片付けてしまいますが、”構想”・”路線”の違いで新政権内の争いが始まります。

西郷と大久保もどちらかが一方的に折れれば、争いもないのでしょうが、正に両雄のため、そうもいかず”袂を分かつ”こととなったと見える訳です。

しかし、このケースは争いではなくて、一方的な”西郷の殉死”ではないかと思います。

誰(なに)に殉死だと云えば、それは前章で述べたように、自分が破壊してしまった『武士階級』にだと思います

『西南戦争』とは言っていますが、あの歴戦の強者西郷が勝てる戦をしていないのですから、最初から”戦争”になっていないのではないかと思います。

同行の幹部も全員西郷と思いを一緒にしているように見えます。

大久保は、どう見ていたのかですが、、、

大久保が内務卿の時(西南戦争開戦時)に部下だった元福井藩士松平正直(まつだいら まさなお)男爵の証言:

 

公は、『・・・実に遺憾なことだ。しかし、こんなことのありようがない。私が今こうして瞑目して西郷のことを考えてみるに、どうしてもこんなことの起こりようがない。・・・今でも逢えばすぐ分かるので、逢えばなんでもないのだが、逢えぬので困る』と言われた・・・。

(引用:佐々木克『大久保利通』第三部第三十六項より)

 

”公”とは大久保利通のことですが、大久保は西郷の考えていることはわかるのでしょう。

それが故に説得をしたいけれども、それが出来ぬ歯がゆさのまま、立場上鎮圧の軍を起こさざるを得ないと言う大久保の気持ちが表れています。

これは、反目し合っていても、心底憎しみあっている訳ではなく、『仲が悪かった』と言う一般的な状態とはほど遠いことが推察されますね。

『明治維新』は、西郷と大久保で成し遂げた?

大雑把ですが、一部では、『明治維新』と云うものは、薩摩鹿児島の下鍛冶屋町出身者と、長州松下村塾の塾生(吉田松陰の門下生)たちの2グループで成し遂げたとさえ言われています。

幕末当時、西郷・大久保のいた薩摩藩は、人口比に占める武士階級の比重が25%を超える異常な軍事国家でした。

そんな事から、一般的な藩と比べて薩摩は非常に武力の強いことがあげられます。

薩摩が、幕末に幕政に対してどんどん影響力を強めて行った背景に、この軍事力の大きさがあります。

つまり、『薩長』と言っても、薩摩の武力が無ければ、幕府に対する武力行使が政治的圧力として効果を成し得なかった可能性が大きいのです。

それが故、”武力討幕”の最後の決め手は薩摩軍でした。

その指導者であるふたり『西郷隆盛』と『大久保利通』のふたりの存在が『明治維新』を成し遂げたと言っても過言ではないのではないかと思われます。

一般的に”維新の三傑”とは、『木戸孝允』、『西郷隆盛』、『大久保利通』のことを言いますが、なかでも、木戸孝允は幕末期青年時代に江戸で三大道場のひとつ『練兵館』の塾頭を務めていたほどの剣豪でした。

長州は早くから戦争をやっており、武士の強者たちの多くが戦死をしていたため、維新後の明治政府の首脳陣の長州人に、名のある武人は木戸以外おらず、松下村塾生とは言え兵学の心得のない下級武士と農民上がりが多数を占めていました。

薩摩も家老の小松帯刀以外はほとんど下級武士ばかりですが、皆武士として気概で行動しており、昔流に言えば『兵法者』が多かった薩摩と木戸主体の長州ではかなり違っていたようです。

『明治維新』が”武力討幕”だったことから、『幕末・維新期』の戦闘が終わった段階では軍事行動の要となる武人が政府の要職に多数いました

そしてその内訳では、軍事力比から云って、維新直後の明治政府の要職はほとんど薩摩出身者で占められていたようで、佐賀・長州・土佐からクレームがついて来ました。

そんなこともあり、新政府になってから政治家としての大久保は、広く人材を求めると言う方針からあまり薩摩出身者に偏重しない方針を取りました。

大久保は、薩州出身者は”武人”としては良いが”政治家”はいないなどと述べており、もっぱら他からの登用になって行きます。

西郷の従兄弟である”大山巌”は終生武人を貫き、政治とは距離を置いていた為に、最後は陸軍元帥・公爵まで昇り詰めて行きます。

物事はそんな単純ではないですが、こと『維新』に限れば軍事力の西郷隆盛を中心に達成されたと言えそうです。

長州出身の木戸孝允は終生西郷隆盛と対立を続けますが、”長州の要石”として政治家としても活躍して来た、武人木戸ならではの西郷に対する対抗心が、そうさせたとも言えるのではないでしょうか。

西郷と木戸は、お互いに大久保とは違う”武人同志”なのです。

という訳で、、、

『明治維新』は、西郷隆盛の軍事力大久保利通の政治力で『倒幕・維新』をやりましたが、その後の新生日本の土台作りは大久保の力が大きかったことは言を待ちませんね。

 

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『西南戦争』での西郷の死に接して、大久保が大泣きしたというのはホントーか?

西郷の死を知った大久保は「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が……」と涙したそうです。・・・大声で笑うことがなく、いつも何か次の思案を練っている男といわれる大久保が、生涯でたった一度流した涙でした。

(引用:中西進監修『実はこの人こんな人』より)

とありますが、薩摩私学党挙兵に西郷が加わっているとの知らせがあった時に、前章の松平正直男爵の証言によると:

 

公は涙は流されなかった。涙こそ流されなかったが、実に感に堪えぬ面持ちで、「・・・私が今こうして瞑目して西郷のことを考えてみるに、どうしてもこんなことの起こりようがない」と言って目を瞑って仰向いておられた。

(引用:佐々木克『大久保利通』第三部第三十六項より)

 

ともあり、衝撃を受けているようすがわかります。

一方、西郷の死について知らされた時、実弟の西郷従道の様子について、妻女の証言:

 

明治十年九月城山の落ちた時のことです。・・・大久保さんから御手紙が参りまして、それを披いて読み終わりますと、急に機嫌が変わり、ただ首を打ち伏して黙り切って仕舞いました。・・・食事が終わりますとやっと「今日城山が落ちた。兄も最後を遂げた」と大変に泣きまして、「もう自分は何もかも今日限りだ。今日限りですべて役も罷めるから・・・・」

(引用:徳富蘇峰『近世日本国民史 西南の役(七)』第二十章二西郷は永く死せず(一)より)

とあり、西郷の実弟従道の大変嘆き悲しんでいる様子が語られています。

このあと、すべて辞職してしまうという従道を、大久保は兄に代わって朝廷にご奉公してほしいと説得して、元に戻らせました。

そしてまた、大久保は太政官で修史事業に携わっていた鹿児島出身で歴史家の”重野安繹(しげの やすつぐ)”に、『西郷伝』の執筆を依頼したと言う逸話もあり、大久保の西郷に対する思いは人一倍であったことがよく分かります。

このように見て来ると、大久保の性格から本当に号泣したかどうかはわかりませんが、西郷の”心事”は十分に理解していて、決して西郷が朝廷に反逆などということはあり得ないことを世に伝えようとしていたことはわかります。

つまり、『心の中での号泣』は確実にあり、本当に西郷の喪失を悲しんでいたことは真実だと解釈してよいのではないでしょうか。

幼少時よりの盟友であったふたり、最後に西郷と大久保を分けたものは何か?

ふたりが袂を分かったのは、明らかに明治6年(1873年)の『征韓論』を巡る”決裂”と言う事でしょう。

 

薩摩には「男は三年片頬(かたふ)」のことわざがあった。男は三年に一度だけ片頬で笑えば充分と言う意味で、男だけでなく女も言葉の少なきを美徳とした。
(引用:阿井景子『西郷家の女たち』より)

 

とあり、とにかく言わなくても分かるだろう、互いに会うだけで分かり合うと言うことを基本としていたようで、実はこの”語らず”がふたりの決別を生んでしまったのかもしれません。

分かり切ったことは敢えて言わないということが薩摩人同士の通例だったようです。

決裂原因のもうひとつは、やはり大久保が使節団で洋行して不在となり、西郷が”留守政府”の政務をすべて引き受けたことが、大きかったのではないでしょうか?

内政の責任者として疲れ果てていた西郷は、征韓論の敗北を潮時として薩摩へ帰国してしまいますが、大久保は西郷が下野することまでは考えていても、まさか帰国までするとは考えていなかったようで、困惑する姿が見て取れます

この『西南戦争の悲劇』の原因は西郷の帰国にあるのが明らかなので、大久保は何としてでも西郷の帰国を止めねばならなかったのでしょう。

それが出来なかった大久保の心の内に、洋行した大久保の政見ビジョンと西郷の武士階級の救済への思いの掛け違いが生じていたことが、大久保の行動が遅れた大きな要因ではなかったかと思います。

これは、きっちり談合をしない限り、溝は埋まらないでしょう。

これが出来ぬままに”決別の谷底”へ落ち込んで行ったと考えられます。

西郷と大久保の決別は、そもそもの方向性の違いも然ることながら、やはり”分かり合える”と言う思い込みが誘因する”話し合い不足”が生んだ悲劇だったのではないでしょうか。

まとめ

自分で仕掛けておきながら、大久保利通は『西南戦争』での西郷の死に涙を見せたと言われています。

本当に涙したのかという疑問に迫ってみました。

調べてみると、通説の西郷隆盛を下野させた『征韓論政変』は大久保が権力を握るための政治闘争で有ったとする見方がありますが、どうもこれは間違っているようです。

征韓論に関して、実は地元鹿児島でも一部では、”死のうとする西郷を大久保が止めた”と理解されています。

大久保は西郷を政権から追い出す考えは全く無く、辞表を出した後に西郷が帰国しようとするのを非常に意外な気持ちで見ていました

そこで初めて、西郷が政務に疲れ果てていることに気が付いたのではないでしょうか。

しかし、旧士族問題が全く解決できていない軍事国家”薩摩”の特殊事情に非常に危惧を覚えて、その士族対策をすでに考え始めていたようです。

大久保は最後の最後まで、『私学党の挙兵』に西郷が加わっていないことを信じていたようでした。

『征韓論』の事があるため、『西南戦争』と大久保の権力欲と結びつけたくなりますが、どうも全く違うものであったようです。

やはり、予想された薩摩の士族反乱に西郷が巻き込まれたとする見方の方が真相のような気がします。

西郷自身が『旧士族問題』での明確な解決プランを思い付かなかったことが、西郷を『征韓論』へ傾斜させた原因のようですから、西郷は『武力討幕』に対する後悔の念があったのかもしれませんね。

大久保は豪邸を立てたりしていますが、基本的にその当時の長州系の政治家と違って清貧を通していたことは間違いないようですので、西郷が大久保までもがと政治腐敗を疑ったのは、間違い・誤解であったようです。

若い頃のように、もっと話し合う時間が必要だったんですね。

結果、この維新の元勲のふたり『西郷隆盛』と『大久保利通』は、武力討幕・明治維新という大仕事を終えてほどなく、歴史の舞台から役割を終えたように消えてゆくこととなりました。

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参考文献

〇 佐々木克 『大久保利通』(2004年 講談社学術文庫)

〇 西田実 『大西郷の逸話』(2013年 南方新社)

〇 徳富蘇峰 『近世日本国民史 西南の役(七)』(1980年 講談社学術文庫)

〇 川道麟太郎 『西郷「征韓論」の真相』(2014年 勉誠出版)

〇 佐高信 『西郷隆盛伝説』(2010年 角川文庫)

〇 阿井景子 『西郷家の女たち』(1989年 文春文庫)

〇 中西進監修 『実はこの人こんな人』(2002年 四季社)

 

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