執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
幕臣勝海舟は、なぜ薩摩の西郷隆盛を高く買っていたのか?
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西郷隆盛と勝海舟がお互いどう思っていたのかを明らかにします。
西郷隆盛と勝海舟の大きな違いはどこかが分かります。
坂本龍馬暗殺事件に西郷隆盛と勝海舟はどう関わっていたのかを考えてみます。
目次
歴史上有名な『江戸無血開城』は、誰の判断だったのか?
簡単に云えば、この『江戸無血開城』と言うのは、官軍東征軍の”江戸総攻撃中止”によってもたらされたことと言うこととなります。
この東征軍の司令官は、名目上は総督である”有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)”と言う事になりますが、実際は、参謀であった西郷隆盛(さいごう たかもり)がこの東征軍の司令官でした。
勝海舟の立場に関して、後世の私たちは、形の上だけでなく実態もどうも後の『氷川清話』などで後付けした勝海舟のほら話にしてやられていたようで、勝は責任者でもなんでもなく、本当の幕府軍の責任者は江戸城にいた”大久保一翁(おおくぼ いちおう)”を含む若年寄『参政衆』で、勝海舟(かつ かいしゅう)はその下位にいる”軍事取扱”役で、”若年寄の参政衆”から東征軍との談判を命じられた係の官僚に過ぎなかったようです。
本来から云うと、西郷も勝もどちらも決定権のない交渉担当に過ぎないことになるわけで、ずい分私たちが見聞きする歴史やドラマなどの”西郷と勝の重厚な対決シーン”のイメージと違う感じなのですね。
まぁ、実際、どちらも決定権の無いもの同志の話とは言え、西郷の方はその時点では東征軍(官軍)の総大将と見ていいのですが、勝の方は何とも言えない感じです。
勝海舟は、この話の取決めをした後は、当たり前のように政治の表舞台から再び姿を消してしまい、元の”罷免された状態(謹慎のような)”になっているようです。
この『江戸城無血開城』話は、結果的に正式な取り決めがきちんと取り交わされておらず、行ってみれば双方”あうんの呼吸”でどちらも勝手な解釈で、その後を動かしてしまったような感じです。
この時に、幕府軍との講和がきちんとなされずに、いい加減な取り決めで進めてしまって『戊辰戦争』をきちんと終わられせることが出来なかった為に、その後の会津を含む東北・北海道を巡る悲劇を引き起こしてしまった原因となってしまいました。
とは言え、、、
この時点慶応4年(1868年)3月14日で、翌日の『江戸総攻撃命令』を撤回した判断は、”西郷隆盛”が決めたものでした。
その後の日本を考えると、ここで、首都となる江戸が灰燼(かいじん)に帰することなくそのまま残ったことは、僥倖(ぎょうこう)であったと言えるのではないでしょうか?
西郷が談判に及ぶ日の前日13日に、西郷の敬愛した君主”島津斉彬(しまづ なりあきら)”の養女で、徳川13代将軍家定(いえさだ)の御台所であった篤姫”天璋院(てんしょういん)”からの使者と面談しており、その際、篤姫の意志が伝えられていたと思われます。
そのことも西郷の江戸総攻撃中止の判断に多少の影響はあったものと考えられます。
4月11日の江戸城明け渡しが江戸城大奥も含めて整然と行われたことにこの『天璋院』と家茂の御台所『和宮内親王』の力が大きかったことは、広く知られていることです。
(江戸無血開城の碑2017/07/30撮影)
西郷隆盛と勝海舟の最初の出会いはどこか?
元治元年(1864年)7月19日、長州は仕掛けた『禁門の変』に敗戦し、御所に鉄砲を撃ちかけた長州は『朝敵』として朝廷から7月24日に”長州征討の勅旨”が下され、それを受けて8月4日に将軍家茂から”長州征討令”が下されました。
西郷指揮下の薩摩藩兵は、『禁門の変』で京都守護職の会津藩と連携し、幕府軍の主力となって長州藩の京都侵攻を打ち破り、引き続いての長州征討では、西郷隆盛は幕府軍の現場の総指揮官(職名は参謀)となりました。
この時8月5日には、長州馬関(下関)は、前年5月の長州の攘夷行動によって、長州に関門海峡を通過する船舶に対して大砲を打ちかけられた、欧米列強4か国の連合艦隊17隻(砲291門、陸戦隊を含む約5000名)の襲撃を受けていました。
幕府は、この”四国連合艦隊”が、その余勢をかって摂海(大阪湾)へ押しかけてくるとの情報を得て、その対策として当時軍艦奉行に昇進していた勝海舟を神戸へ派遣していました。
9月11日に西郷は、この時上京中の老中阿部豊後守の呼び出しを受けて大坂へ出て来ていた勝海舟を、その宿舎となっていた旅館へ訪問します。
これが、西郷隆盛と勝海舟の最初の出会いとなりました。
『征討戦』に対する幕府の対応がはっきりしない為、西郷は幕臣の勝海舟に意見を聞きに行った訳ですが、この時、勝から『共和政治』に関する意見を聞いて深く感銘を受けたようです。
西郷隆盛は勝海舟をどう評価していたのか?
前述の元治元年(1864年)9月11日の初会談のあと、盟友の大久保利通に送った9月16日付の西郷の手紙によると、『勝海舟は実に驚いた人物で、どれだけ知略があるのか底知れない英雄肌の人物だ。』と賞賛しています。
この中で、”勝海舟は、この国難に当って私欲を捨てて、日本の国全体と云うものを考えて動ける人物が幕府にはおらず、もう幕府はダメだと思う。よって、諸侯の中の主だったものの合議制で事を進めるように制度を変える必要があると言い、共和制を示唆した”と言われています。
こうやって、ウジウジ諸事にとらわれず、物事をスパッと割り切って話してしまう勝海舟の小気味よさみたいなものに、西郷は従前の武士社会では見られない珍しいものとして賞賛したのでしょう。
つまり薩摩は、藩主島津久光が乗り出して動かした『公武合体』路線も完全に頓挫していて、だからと言って幕府を見限ることも出来ずにいた立場で、西郷自身、旧態依然の武士社会のくびきに挟まれて身動き取れなくなっているところでした。
これに、全く違った視点から、勝がスパッと切り込んで来たものですから、西郷も『幕府を見放す』覚悟が持てて、調子に乗る幕府の長州殲滅方針に反して、長州と戦わずして戦争を終わらせることにしました。
西郷のやり方は手ぬるいと幕閣から声も上がりましたが、征討軍総督である徳川慶勝の同意も得て、12月には征討軍をさっさと解軍してしまいました。
西郷は、対外問題に確たる方針が出せずに迷走を続ける幕府政治の延命の手助けをするのではなくて、新しい形を作り推進していくことが日本の為に必要だと言う『倒幕』につながる考え方へ進んで行きます。
この西郷の背中を押したのが、当時幕府海軍奉行だった勝海舟との会見(元治元年9月11日)であったと考えられます。
勝は幕府の旧態依然の枠の中で、結局自分は踏み出すことが出来ずにその愚痴を並べただけだったかもしれませんが、遠慮なく体制批判を口に出す責任ある立場の幕臣勝海舟の人柄に、西郷は驚き且つ惚れさせられたようです。
勝海舟が嫌っていた水戸藩の学者藤田東湖に、なぜ西郷隆盛は惹かれたのか?
そもそも水戸藩の藤田東湖(ふじた とうこ)は、幕末の水戸藩主徳川斉昭(とくがわ なりあき)の側用人にまで出世した水戸学藤田派の大家で、”尊皇攘夷思想”を広め幕末の志士たちに精神的な影響を多大に与えました。
この水戸学の思想に影響を強く受けた幕末の有力者は多数に上り、長州の吉田松陰と薩摩の西郷隆盛などが有名です。
結果的には、『明治維新』の精神的なバックボーンだったと言えそうです。
勝海舟が藤田東湖を嫌っていたのは、『氷川清話』によると、”東湖は、学問もあって、議論も剣も強いが、御三家なんだから直接幕府に言えばいいものを書生を集めて騒ぎまわるやり方が嫌いだ。”と言っています。
勝は、西郷も東湖は嫌いだと言っていたんだと話していますが、どうでしょうか。
勝海舟は自分も多弁で、他人を唸らせるタイプなので、理屈をこねて議論をいどむ感じの東湖を嫌っていたのではないでしょうか。
要するに負けず嫌いで、言い負かされそうな感じがするのが、嫌だったのでしょうね。
勝海舟の話には、東湖の思想の中味に対する言及は全くないので、勝の嫌悪感は多分に感情的なものだったと考えていいようです。
一方、西郷隆盛と藤田東湖との付き合いは、西郷が島津斉彬に同行して江戸勤番となってからの安政元年(1854年)4月以降と思われます。
藤田東湖の説く『水戸学』は、儒学思想を中心に、国学・史学・神道を結合させたものですが、初期水戸学の光圀公が始めた仕事は『大日本史』の編纂事業でした。
西郷の付き合いのある東湖ら後期水戸学では、”尊皇攘夷思想”がちりばめられて、過激なものとなっていました。
西郷隆盛が藤田東湖に惹かれたのは、『水戸学』が天皇家に関して『南朝正統説』の立場を主張していることではないかと思われます。
実は西郷家は、九州に落ち延びた南朝系菊池家の末裔とされています。
そうした事から、迫害された南朝系の伝承を持つ家の子孫の西郷としては、『南朝正統説』に強く共感するところがあったのではないでしょうか。
この水戸学派には長州の吉田松陰が含まれていることから、長州藩の『松下村塾』出身者にはこの考えが色濃くあり、薩摩の西郷にもありで、明治維新時に擁立された『立憲君主』としての『明治天皇』は実は、”南朝天皇”ではないかとの疑惑が出ており、先帝の孝明帝は北朝系の天皇であることは間違いないので、一部にある『明治維新南朝革命説』の条件がそろっていると言えそうです。
現実には、政府が公表していない以上、現天皇家は間違いなく『北朝系天皇』のはずなのです。
西郷隆盛と勝海舟の藤田東湖を巡る話はその辺りまで発展して行きますので、異説が尽きないこととなっていますね。
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勝海舟は、この世に怖ろしい人物が2人いると言って”西郷隆盛”を挙げているのはなぜ?
これは、勝海舟の『氷川清話』に収められている話で、
おれは、今までに天下で怖ろしいものを二人見た。それは、横井小楠(よこい しょうなん)と西郷隆盛(さいごう たかもり)とだ。・・・横井は、自分に仕事をする人ではないけれど、もし横井の言を用ゐる人が世の中にあったら、それこそ由々しき大事だ・・・。西郷と面会したら、・・・いわゆる天下の大事を負担するものは、果たして西郷ではあるまいか・・・。
(引用:江藤淳・松浦玲編『勝海舟 氷川清話』より)
とあり、江戸城開城の談判で、
西郷に及ぶことの出来ないのは、その大胆識と大誠意とにあるのだ。おれの一言を信じて、たった一人で、江戸城に乗り込む。おれだって事に処して、多少の権謀を用ゐないこともないが、たゞこの西郷の至誠は、おれをして相欺くに忍びざらしめた。
(引用:江藤淳・松浦玲編『勝海舟 氷川清話』より)
とあり、勝は西郷の人間の大きさに完全に押され、引き込まれ、そして惚れているようです。
勝海舟は、この西郷の”至誠”と”人間の大きさ”には勝てないと言っているようです。
西郷隆盛と勝海舟は、坂本龍馬暗殺の黒幕なのか?
西郷と勝の共同謀議は、まずありえないと考えられます。
勝海舟にとって、坂本龍馬は大事な弟子で、自分の下で大事な働きをしてもらった腹心の部下ですし、ほぼ子分と云っていいでしょう。
西郷も、勝海舟から頼まれて坂本龍馬を含む海軍の訓練生ごと世話をしましたが、その後坂本龍馬は大事な『薩長盟約』の橋渡しをしてくれた恩人でもあります。
この両名とも”龍馬シンパ”と言っても良く、まして暗殺などは考えにくいところです。
では、なぜこのような説が出て来るのでしょうか?
先ず、勝海舟ですが、、、
前述したように元治元年(1864年)9月11日に勝海舟は西郷隆盛と初めての会合を持ちますが、その前に京へ弟子の坂本龍馬を西郷の様子を見て来るように指示を出します。そして8月23日に龍馬が神戸の海軍操練所に帰って来て、西郷に関するあの有名な感想を述べます。
曰く、
『坂本がかへって来て言ふには、成程西郷といふ奴は、わからぬ奴だ。少し叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だらうといったが、坂本もなかなか鑑識のある奴だヨ。』
(引用:江藤淳・松浦玲編『勝海舟 氷川清話』より)
この時の勝海舟の日記での坂本龍馬に関する記述が最後となりその後はほとんど出ずに龍馬暗殺の記述となります。
この時から以後最後まで、約3年近く龍馬に関する記述が勝海舟の日記から消えてしまうのです。
そして、坂本もこのあと、勝海舟が失脚してしまう最中、翌年4月に薩摩の吉井友美から海舟宛の書簡で、龍馬が薩摩藩の京屋敷に潜伏している事が知らさせるのですが、筆まめな龍馬からも一切海舟宛に書簡が出されていない様子です。
こうした事から勝海舟の失脚と同時に、龍馬との子弟関係も崩壊して関係が悪化したとの見方がされ、勝自身が作り出した人材ながら幕府に取って危険人物とみなされる龍馬の暗殺を企画したという見方なのでしょうか。
この説は、非常に無理があって、勝海舟が坂本龍馬に自分の夢の後事を託したようなふたりの経緯を見れば、あり得ないと考える方が妥当のようです。
次に、西郷隆盛はどうでしょうか?
西郷は、勝海舟が軍艦奉行を罷免されて行く過程で、勝の教え子たちである神戸の海軍操練所のメンバーを引き受けて薩摩藩で匿い(かくまい)ます。
翌年4月25日に藩船の”胡蝶丸(こちょうまる)”で、大坂から龍馬らを鹿児島へ移動させます。
薩摩藩の家老小松帯刀(こまつ たてわき)が中心となり、龍馬らを後日鹿児島から更に長崎へ移動させ、そこで龍馬は商社”亀山社中(かめやましゃちゅう)”を薩摩藩をスポンサーとして始めます。
仕事は、薩摩藩が長崎の英国人商人トーマス・グラバーから調達した武器弾薬の船舶による国内運送業務が主体です。
翌年(慶応2年・1866年)になると、1月21日に龍馬の薩長間の取り持ちで京都薩摩藩小松帯刀邸にて歴史上有名な『薩長盟約』が成立します。
その二日後に伏見の船宿寺田屋で龍馬は伏見奉行所の襲撃を受け負傷したため、薩摩藩は龍馬を匿い鹿児島へ保護します。
その結果、慶応2年(1866年)6月7日に始まった第二次長州征討は、盟約に基づき薩摩は幕府軍に参戦せず長州藩は幕府軍に勝利を収めます
これ以降西郷たち薩摩藩は、龍馬の面倒見なくなり、龍馬の『亀山社中』は資金ショートを起こし窮地に陥ります。
そこで龍馬は海運業に興味を示していた出身母体である土佐藩家老の後藤象二郎(ごとう しょうじろう)に働きかけ、土佐は『亀山社中』を引き受けて、慶応3年(1867年)4月に『海援隊(かいえんたい)』へと衣替えします。
実質経営は、土佐藩家老後藤象二郎の指揮下で長崎で土佐藩の出店である『土佐商会』の番頭をしていた岩崎弥太郎(いわさき やたろう)が当たることとなります。
こういう経緯を辿りますので、通説とは違って、薩摩の西郷隆盛は勝海舟を助けたようには、坂本龍馬を助けていないことがよく分かります。
そして、『海援隊』が動き始める頃になると、土佐藩は、薩摩との共同歩調を取っていないような感じで、薩摩は急速に長州との連携を深めて行き、西郷は後藤象二郎・坂本龍馬ら土佐藩の動きを無視して何らかの全く別の行動をしていることが想定されます。
土佐の構想では、徳川慶喜の政権内部での残留の可能性があると薩長(西郷・大久保・木戸・岩倉ら)グループは考えていたからではないでしょうか?
しかし、徳川慶喜は薩長の想定外のスピードで土佐藩の『大政奉還案』を採用し、慶応3年(1867年)10月14日には朝廷に上奏してしまいます。
焦った、西郷ら薩長グループは行動を開始します。
通説では全く説明されていませんが、この時点で徳川慶喜の扱いを巡って、土佐藩と越前藩の『大政奉還』(結果的に新政府に徳川慶喜を総裁として残留させる)と、あくまでも徳川排除の『倒幕』を目的とする長州藩と薩摩藩にはっきり分かれていることが分かります。
こう考えると、『大政奉還』後に徳川慶喜を首座にいたままの新政府を考えてその推進役として動き回る坂本龍馬の存在は、薩摩の西郷・大久保ら倒幕派にとって邪魔な存在でしかなかったと考えられます。
そして、驚いたことに、、、
”薩摩藩”と坂本龍馬暗殺実行犯である”京都見廻組”の付き合いは”禁門の変”以来、密かに親密であり、そのことは案外知られていないのです(歴史家には無視されています)。
もうひとつ、薩長の行動動機を固める異説ですが、これは例の藤田東湖の『水戸学』を信奉する人たち(尊王攘夷グループ)です。
つまり、、、『南朝正統説』ですね。
長州内乱を勝ち抜いて、幕府恭順派を叩き潰した長州首脳陣(松下村塾出身者ら)と『南朝系天皇』の復活運動を進める公卿岩倉具視・三条実美らに、南朝系武士の子孫である西郷隆盛が加わって、すでに取りかかっていた『南朝系天皇擁立行動』を推進する薩長グループ(薩長盟約の裏目的と言われています)にとって、もう引き返せないところ(慶応3年秋)へ来ていたとも言えるのです。
簡単に云うと、彼は慶応3年7月から博学で著名な肥前藩主の鍋島閑叟(なべしま かんそう)に出馬を願って半年間の”新天皇”教育まで始めているなど、『北朝系から南朝系への天皇家のすり替えを実行して、身代わり天皇の準備をし終わっていた』と言うことです。
つまり、徳川慶喜の政権内温存へ方向転換して土佐藩・越前藩を巻き込んだ坂本龍馬は、この時期にはもうこの行動を邪魔する敵・時代の流れを読めない人間以外の何者でもなく、完全に彼らの暗殺対象になっていたと考えられます。
もし、こうした政治行動の事実が本当にあったと仮定すると、通説からはとても信じられませんが、本当は、この坂本龍馬暗殺の実行企画者(黒幕)はどう見ても、実行犯である『京都見廻組』を動かせた可能性の高い”西郷隆盛ら薩摩首脳陣”だと考えられるのです。
通説を採れば、西郷隆盛と勝海舟の『坂本龍馬暗殺黒幕説』は、人格的にも心情的にもとても成立しませんが、幕末維新の裏情報に、もし真相があったとすると、西郷隆盛黒幕説の可能性は出て来るのです。
真に不敬の至りで、あまり、根拠のない暴説だとも考えられますが、意外なことに”幕末に起こった政局の中心人物たちの相次ぐ死”など『謎』の事件・不可解な行動は結構説明できるような気がします。
果たして、真相はどうだったのでしょうか?
『嘘は大きいほどバレない』と言いますが、、、
私見的には、西郷隆盛が坂本龍馬暗殺の黒幕などとは考えたくないところですね。
まとめ
勝海舟は、西南戦争後にまだ朝敵西郷隆盛に対して世間の目が厳しい時期に、東京葛飾の古刹に『西郷隆盛の顕彰碑』を私財を投じて建立するなど、西郷に対する敬愛・思慕は大変なものでした。
また、西南戦争の原因ともなった西郷の『征韓論』に関しても、”西郷は征韓論など主張していなかった”と論陣を張るなど、弁護に努め、明治22年(1889年)の大日本帝国憲法発布に伴う、西郷の特赦・汚名返上・名誉回復への足掛かりを作りました。
『江戸無血開城』を成功させ、江戸の町を官軍総攻撃の戦火から救ったことを終生の誇りとして、その相方である西郷の顕彰に努め、追慕して止まない勝海舟の姿がそこに見て取れます。
一方、作家江藤惇氏に言わせると、勝海舟は政治的にはただの一度も失敗をしなかったと言います。
彼は、西郷隆盛との談判によって江戸無血開城に成功し、その西郷が蹶起した西南戦争のときには、旧幕臣を統制して一兵も叛軍に走らせなかった。・・・このときもまた海舟は、現実の保全に見事に成功したのである。
(引用:江藤淳『南洲残影』より)
海舟は西郷に初めて会った元治元年(1864年)9月11日に、西郷隆盛の放つ人間的オーラに圧倒されて、人を動かすこの人物の大きさに感嘆畏怖し、そして敬愛・思慕して行きます。
西郷は、勝の説く新しい社会の仕組に驚かされ、目を開かされて、この知恵者に惹かれます。
その中に、勝海舟の持つ「政治的な能力ー現実の保全」を感じ取り、江戸城開城後もすべて勝に任せてしまうと言う、大久保や木戸では考えられない政治を越えた人間・リーダーとして行動して行きます。
勝の”現実保全”と言う政治的能力を、西郷は読み切っての判断だったのでしょうが、見事と言うほかなく、こうして”西郷神話”をまたひとつ加えて行きます。
勝の方は、自分が全く持ち合わせていない西郷の持つ人間性に、もう”ベタ惚れ”だったのでしょうね。
最後に、勝のこのような激しい思い込みとは、まったく別の姿を見せる西郷をめぐる異説『坂本龍馬暗殺の西郷隆盛黒幕説』の内容に触れておきました。
あくまで異説に過ぎないのですが、私見的にはあってほしくない事ですね。
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参考文献
〇松浦玲 『勝海舟と西郷隆盛』(2011年 岩波新書)
〇野口武彦 『長州戦争』(2006年 中公新書)
〇奈良本辰也 『西郷隆盛語録』(2010年 角川ソフィア文庫)
高野澄
〇江藤淳・松浦玲編 『勝海舟 氷川清話』(2000年 講談社学術文庫)
〇松浦玲 『坂本龍馬』(2008年 岩波新書)
〇加治将一 『龍馬の黒幕』(2009年 祥伝社文庫)
〇鹿島曻 『裏切られた三人の天皇』(1999年 新国民社)
〇江藤淳 『南洲残影』(2001年 文春文庫)